2013年02月26日

東北芸術工科大学卒業制作展2013 感想その1

 2013年2月16日(土)、東北芸術工科大学卒業制作展(2月13日~17日)を観に出かけた。その感想を記す。

 じぶんは、毎年この制作展を楽しみにしているのだが、昨年はうっかり見逃してしまい残念な想いをした。今年はなんとかと想っていたが、結局1日(実質6時間)しか時間がとれなかったので、日本画、洋画、版画、彫刻、工芸、テキスタイル、総合芸術、映像(一部)の各専攻コース(学部及び大学院)に絞って会場を廻った。今回観ることができたのは、それでもこの卒業制作展の3分の1くらいだろうか。全会場を廻るには最低3日は必要。トークイベントや映像作品を観ようと想ったら、4日でも足りないくらいの規模である。
 毎回、もっとも楽しみにしているのは日本画専攻コースの作品である。次いで版画、プロダクトデザイン、企画構想など。今年は文芸科も加わったので興味があったが、時間切れで廻れなかった。


 では、日本画コースの作品の感想から記す。
 日本画コースの作品については、訪問した時刻にちょうどギャラリートークが行われており、それを聴かせてもらった。この大学から多摩美術大学に移った岡村桂三郎という教員が、事前にカタログから選んでいた作品について、各々5分程度の持ち時間で、その各作品の前で作者にコメントさせ、岡村氏がこれに質問や評価やコメントを返すというやり取りだった。
 ここで以下に取り上げた作品は、岡村氏が論評して歩いたうちの一部。作者や同氏のコメントに触れつつじぶんの感想を記すが、作者や同氏のコメントについては簡単なメモと記憶とに基づいており、不正確な点はご海容いただきたい。
 なお、日本画コースの作品は実に多様で、いかにも中国的な日本画(!?)といった作品から、ポップアート的な作品、黒一色の細密画やコラージュ、油絵の具でまったくの洋画まで展示されていた。専攻ごとに作品を比較してみると、この大学の作品制作系の専攻の中でもっともレベルが高いのが日本画コースかな、という印象である。






1 森山陽介「WIN TER MIRANDA」
  朝日連峰を描いた風景画。作者が風景から受けた強烈な印象を独自の手法で定着しようとしていて、いわゆる「風景画」とは大きく異なった印象を与える。ここに掲載した写真は、この絵のある部分を拡大したもの。山肌がパズルのような形態のパターンで描かれている。
 岡村氏は、この感覚の感受を評価しつつ、通俗的・安定的な描写と個性的な印象表現の境界にあると指摘し、もっと個人的な感動を表現に込める方がいいのではないかと語った。この指摘はとても的を得ていると思った。じぶんの印象では、作者は一見エキセントリックに見えるほど風景から受けた感動を語るのだが、作品はそこまで衝撃的ではない。岡村氏の言う“境界”に手がかかっているとはいえ、やや通俗的な領域の方に重心があるように見える。金箔による月は強い印象を与えるが、考えようによっては、これはずいぶんと安易な選択。山肌のパズル的な描き方と全体の骨太な筆致の行方が楽しみである。






2 多田さやか「空気の底」
  如来あるいは菩薩像を中心に据え、世界についての様々なイメージや視覚像を273×423の画面に配した大作。作者は「宇宙のシステムの中にすべてが組み込まれているこの世界なかで、喜び、苦しみ、キセキ(軌跡?奇跡?)、欲望をしっかりと持っていくという意思表示」だと語った。
  岡村氏は、「あなたの言いたいことは真ん中に描いていることではないか?・・・それをもっとはっきり出したほうがいい」という趣旨のことを言っていた。





  じぶんの見方を言えば、この種の世界観を描いた作品において、「言いたいこと」というものがもしあるとすれば、それは画面全体の構図として描かれるものである。この画面の中心に描かれているは菩薩像であるのだが、ユング流にいえば、これが曼荼羅のように中心に正面を向いて鎮座させられていないところ(つまり中心がそもそも確立していないところ)に作者の無意識の揺れや世俗的な自我の不安定さ(あるいは世俗的な自我確立への拒否の心理)が現れているとみることもできる。菩薩像がかき消されるかのように絵の具で傷つけられているところも、観る者の心をささくれ立たせる。







3 中村俊「されどひかりつづける」
  森の中に放置され、錆ゆく廃バスを描いた作品。作者は「無機物と有機物の組み合わせが好き。廃棄されたものにもまだ生命が宿っていることを描きたかった。」と語る。岡村氏は、森の描き方について「根性を入れて書いている。森の風景の重さ、その迫り方に深みがある。」と評価していた。
 たしかに技量としては上手い。伝統的な西洋画にも似た森の描き方、とくに光の処理に見とれる。だが、「廃棄されたものの生命」が感じ取れるとはいえない。また、廃棄されたものが即物的に迫ってくるわけでもない。廃棄されたもの(バス)が、生きているもの(森)の引立て役になってしまっているという感じ。







4 榎本聖「風に吹かれて」
  川辺にいる裸婦たちを右端から裸の少年が見つめている構図で、227×181が全4枚で構成される油絵の大作。裸婦のなかには妊娠しているものや片腕の肘から先がないものもいる。また裸婦たちの格好や骨格や筋肉の描き方が劇画チックで、少年の性器は勃起している。女性たちの数人は岸辺の草むらに寝転んだり尻をついたりしてポーズをとっており、別の数人はどす黒い緑色で描かれる川の中に立っている。
観る者の感性を逆撫でするような違和感が意図的に演出されている。鑑賞者が抱かせられる違和感は、この少年が女性に対して抱く違和感でもある。この劇画チックなタッチは、少年の視線を表現するための意図的なものだろうか、それとも作者の中に無意識のうちに刷り込まれた既成様式なのか。






  
5 堀内佑季子「響く」
  画面の上から下へ広がる蔓植物の葉の白い重なり。その下の暗がりにはぼんやりと虎が描かれている。描かれている対象物と構図とは、日本画によく出てきそうなものだが、虎が暗闇に潜んでいるというのではなく、暗闇と葉っぱの境界が不分明で、暗闇がそのまま虎のような黒い獣であるように描かれているところは新鮮。作者はまさにその不分明さを描こうとしたのだと語ったが、ただしそれ以外は全体として退屈。日本画における常套的な対象物が与える常套的な感性を逸脱して欲しい感じがした。


6 久島優「image reaction」(写真なし)
  180×270の画面にアクリル絵の具で描かれた都市のイメージ。
  画面が数多くの左右斜めの切り口で細かくずらされ、そのズレによって囲まれる四角形のモノクロのコラージュによって全体を表現している。どこかで幾度か観たことのある画面で新鮮味に欠けるが、細部まで丹念に切り結ばれているという点では好感をもつ。
  作者は「就活で訪れた東京のビルの海」をイメージしたと語ったのに対して、岡村氏は「就職するんだ?絵は描かないの?就職しても描いていって。」と制作継続を勧めていた。このひとコマに、部外者のじぶんは、芸術大学というものの“ヤクザさ”を感じてざわりとした。

 【以上が岡村桂三郎氏がコメントした作品から。】












7 今枝加奈「ode(オード)」
  大学院修了者。都市についての世界観を描いてみせた200×500の大作。
  細かな凹凸のある灰色の肌合いと段差のある街の構成、そしてこの都市が浮かぶ海(のように見える宙)の描写が、その広い展望と相俟ってひとつの世界観を創り出している。
観覧車、大きな擁壁、テント、聳え立つ塔(煙突?)などが、この世界に住むひとびとについての想像を書き立てる。だが、右側に配置された空中都市の遠景は、この世界のイメージが映画やアニメからの借り物であるように思わせるものでもある。 


 【次回へ続く・・・】                                                                                                                                                                                  

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:21Comments(0)美術展

2012年12月08日

メトロポリタン美術館展






 リフォームされた東京都美術館で「メトロポリタン美術館展」(2012年10月6日~2013年1月4日)を観た。その感想を記す。

 この展覧会のキュレーターはメトロポリタン美術館のピーター・バーネットという人物。
 「Earth, Sea, and Sky : Nature in Western Art ; Masterpieces from The Metropolitan Museum of Art」(邦題「大地、海、空―4000年の美への旅 西洋美術における自然」)という題名が付けられている。
 章立ては、第1章・理想化された自然、第2章・自然のなかの人々、第3章・動物たち、第4章・草花と庭、第5章・カメラが捉えた自然、第6章・大地と空、第7章・水の世界、となっている。
 紀元前1,000~2,000年代のエジプトやメソポタミアで製作された動物の像・装飾品・器などを「西洋美術」の括りに入れるのは如何なものかと思うが、この展覧会にはまさにキュレーターが意図したとおり「これが西洋だぞ!」といったふんぷんたる臭気が充満している。
 初手から言い切ってしまえば、古代エジプトやメソポタミアの作品を除いて、これらの展示作品に形象化されているのは“普遍的な自然”ではなく、すべて“西洋的な自然”、就中“西洋化された自然”なのである。

 この“西洋化された自然”は、冒頭に置かれた風景画からこれ見よがしにガツンと提出されてくる。第1章が「理想化された自然」と題されているとおり、この章の風景画はすべて“西洋化という理想化”が施された風景を創出している。
 いかにもフランスの平野部やグレートブリテン島の風景だというような、丘から眺める緩やかな起伏の大地とゆったり流れゆく川。そしてそこに拓かれた農地。向こうには山の姿。画面の端には樹木が位置付けられており、たいていは人や馬などの家畜が手前に配置され、しかし、それらは小さめに描かれている。
 何枚かの典型的な西洋風景画のうち、印象的だったのは、アッシャー・B.デュランド(アメリカ、1796‐1886)の「風景―『サナトプシス』からの場面」(1850)だった。
 手前には崩れた中世の遺跡のように横たわる石像が描かれ、古木の森とヤギが配置されている。中景には目立たないように小さく葬送の行列と牛馬に鋤を引かせる農耕びとが配置され、その奥に淡い色合いで、遠景として高い岩山が描かれている。
 「thanatopsis」は「死観」の意で、米国の詩人ウィリアム・カレン・ブライアント(1794‐1878)の詩(1817発表)のこと。これがどんな瞑想の詩かは知らないが、デュランドの絵画ではまったくもって構図が自覚的・意図的であり、死への観想とはかけはなれた作為性を感じてしまう。
 この絵を見て思い浮かぶのは、「この場所にこの存在(遺跡、葬列、高山etc.)が描かれているのは、かくかくしかじかの意図を表している」などと解釈する鑑賞者・評価者と、そのように解釈されることを予想して描く画家のザッハリッヒな関係性だ。西洋の自然はこのように、つねに/すでに、理念化(「理想化」というより「理念化」と言った方がぴったりする)されている。たぶん、この所与を受け入れることができるかどうかによって、この展覧会を楽しめるかどうかがきまる。そしてもちろん、展覧会の冒頭のセクションで、ピーター・バーネットは唐突にそれを受け入れることを迫っているのである。

 第2章の作品では、「2‐1:聖人、英雄、自然のなかの人々」という区分に展示されていた、ティントレット(ヤコボ・ロブスティ)(イタリア、1518‐1594)の「モーセの発見」(1570年頃)、ヤン・ブリューゲル(子)(フランドル、1601‐1678)の「冥界のアエネアスとシュビラ」(おそらく1630年代)が印象に残った。
 いずれも神話の世界の登場人物を描いている(ただし「シュビラ」は神託を告げる巫女で実在したらしい)のだが、これが“「Nature 」in Western Art”という概念の一種の表出として提示されていること、つまりこれが自然における人間存在なのだとされることに、いまさらながらではあるけれども、日本人としては異和感を禁じえない。ここには“人間または(ヘーゲル風にいえば)その類的本質としての神が存在するから自然が存在する”という思想が表現されている。
もっとも、この時代の絵画はすべからく神話の登場人物を描いたものなのだから「自然」はその画面にはこんな風にしか登場しないのだ、といってしまえばそういうものだろうが。

 第2章の「2‐2:狩人、農民、羊飼い」という区分の作品では、ヤン・フェイト(フランドル、1611‐1661)の「ヤマウズラと小さな獲物の鳥」(おそらく1650年代)が印象に残った。これは狩猟による獲物(つまりは野鳥の死骸)を描いた暗い色調の静物画で、作者が注文されて描いたものだという。なぜこんな陰気なものが描かれた絵画を注文するかといえば、これらの獲物はその所有者が狩りをする者であることを示し、それは“有閑の人”であること、すなわち財力のある人物であることを表すものだからだと解説が付されている。これを「自然」を描いた作品として提出してくるあたりにまたまた異和感が膨らむのだが、しかしまた、ここまでくるとキュレーターの一癖ありそうな批評精神を感じないわけでもない。
 なお、このコーナーの作品では、ジュール・ブルトン(フランス、1827‐1906)「草刈をする人々」(1868年)とジャン=フランソワ・ミレー(フランス、1814‐1875)「麦穂の山:秋」(1874年頃)が魅力的だった。前者は、夕陽に照らされた農地で草を毟る農婦たちの姿を、跪いて祈っているように見せる構図。淡く、それでいてコントラストの効いた色使いで、写真的な印象を与える。
 後者は、放牧地の中央奥に麦穂を積み上げた巨大な山を描き、その手前に草を食む羊の群れを配する。上は淡い光の空で、その中央に(つまり麦穂の山の向こうに)厚くて黒い雲がどんと配置され、冬が迫りくることを暗示している。羊の群れの揃い具合というか乱れ具合というか、これも秀逸で、その構図にはしばし見とれた。両作品とも、いかにも「近代絵画!」という風情である。
 もうひとつ面白い作品としては、フィンセント・ファン・ゴッホ(オランダ、1853‐1890)の「歩きはじめ、ミレーに拠る」(1890)を挙げておく。庭で歩きはじめをしている幼児と「おいでおいで」をしているかのようなその親たち。ミレー作品をゴッホが模写したものだという。しかし、筆致が完全にゴッホで、パステル調の色使いである。構図を借りてゴッホなりに描いたものなのだろうが、晩年になぜこんな作品を描いたのか興味が湧いた。
 他のゴッホ作品では、別のコーナーに有名な「糸杉」(1889)が出展されている。実物を見ると、やはりいい絵だと思わずにはいられない。その前では、じぶんのようなひねくれ者も、単純な美術ファンにさせられてしまうと言ったらいいか・・・。
ついでに言えば、オディロン・ルドン(フランス、1840‐1916)の「中国の花瓶に活けられたブーケ」(1912‐1914)という作品も展示されていたが、これは普通の静物画。あのルドンが晩年にはこうなっちゃったのかぁ~という感じである。


 さて、上記のほかには、第7章・水の世界における、モーリス・ブラマンク(フランス、1876‐1958)「水面の陽光」(1905)とウィンスロー・ホーマー(アメリカ、1836‐1919)「月光、ウッドアイランド灯台」(1894)が印象的だった。
 前者は、水面に反射した陽光と岸辺の建物を描いた作品だが、光と建物とが適度にデフォルメされている。なにせブラマンクだから、デフォルメされているのは形態だけでなく色彩も、である。印象派をくぐって、光の印象はここまできた、ということだろう。20世紀の西洋絵画が19世紀のそれと大きく異なったものになった様が見てとれる。
 後者は靄のかかった海と海岸の風景だが、そのタッチはまさにアメリカ風に洗練されている。題名から灯台が描かれていると思われるのだが、その灯台はオレンジ色の小さな一点として、靄の中の遠くの岬にぽつんと置かれているだけである。“アメリカ風に洗練されている”というのは、いわばポップや商業主義に向かう気配をたたえつつ、一筋の気品がそれを掣肘しているということだ。

 このほか、「第5章・カメラが捉えた自然」で提示されるモノクロの写真作品も絵画的で美しい。

 会場には多くの中高年男女の観客がいたが、おれはこういう美術ファンには絶対にならんぞ、と改めて肝に銘じた次第である。したがって(!?)、この展覧会の鑑賞を推奨しはしない。(笑)              (了)


 (注)上記の展示作品に関する説明はすべて、会場でもらった出展作品リストに現場でメモした内容と実物を見た記憶をもとに記述したものであり、不正確な部分があるであろうことに御留意いただきたい。


                                                                                        





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:07Comments(0)美術展

2012年08月17日

「具体」回顧展(新国立美術館)






 「具体~ニッポンの前衛18年の記録~」(GUTAI~The Sprit Of an Era~ 2012年7月4日~9月10日・東京・新国立美術館)を観た。その感想を記す。

 まず、「具体」という美術運動の集団について、展覧会のパンフから拾い読みしておく。

 「具体美術協会」は1954年に吉原治良(よしはらじろう 1905~1972)と彼に私淑する阪神在住の若手美術家17人で結成された。
 この「具体」という名称は、「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」という想いからつけられたもの。メンバーは、吉原の「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という厳しい指示のもと、奇想天外でユニークな作品を次々と生み出した。当時、国内ではほとんど評価されなかったが、1957年に来日したフランスの美術批評家で、抽象美術の新しい美学“アンフォルメル”を提唱していたミシェル・タピエが高く評価。1950年代の終わりから60年代にかけてフランスなど海外に紹介され、アメリカ、イタリア、オランダ、フランス、ドイツ、オーストリアなどの美術展に出品された。
 1955年機関誌「具体」を創刊し、以後14号まで不定期に発行。55年に東京で第1回具体美術展を開催し、翌56年には野外での美術展を開催。57年には、大阪と東京で、ホールの舞台を使用した、今でいうところのアート・パフォーマンスの作品発表会を開催している。
 1962年に、大阪中之島に吉原治良所有の土蔵を改装し、活動拠点として作品展示館「グタイピナコテカ」を開設。
 1970年の大阪万博では、万博美術館で野外展示、みどり館で作品展示、お祭り広場で「具体美術まつり」のパフォーマンスを行うなどの活動を展開したが、1972年に吉原治良が急逝し、それを機に解散した。








 さて、ここからはじぶんの感想。

 この回顧展は、時間的な経過に沿って章を立て、日本の高度経済成長時代と重なる「具体」グループの足跡を辿りながら、この時代(era)の精神のひとつの姿を浮かび上がらせるものになっている。
 展示室に足を踏み入れると、まずは抽象的なオブジェの野外展示作品(一部作品については当時の実物写真)にちょっと驚く。ただし、その作品群の迫力にではない。あくまで“今から見て”の感想なのだが、その作品たちの“素朴さ”というか、衒(てら)いのなさ、みたいなものに対してである。
 オブジェ作品はお世辞にも面白いとはいえない。いまなら出来の悪い美術学生でもこの程度の作品は創りそうだ。・・・この想いは、古い8ミリフィルムで上映されている57、58年のパフォーマンスについても感じるものだ。(たとえば、1930年代のドイツ、バウハウスのパフォーマンスに比べたときのレベルの違いは歴然としている。)
 しかし、“いまから視て”という観点や“舞台芸術”としてのレベルの問題をカッコにくくって視れば、1958年の「舞台を使用する具体美術第2回発表会」の映像などはとても面白く思えてくる。この時代の良さは、いまなら“芸術表現”とは看做されそうにないパフォーマンス(いまなら“お笑い”や“受け狙い”の余興とでも看做されかねない表現)も、“前衛芸術”として存立しえたということだ。
 この時代の状況を考えれば、これらの表現が「産経会館」や「朝日会館」などにおいて大勢の観客の前で堂々となされたということは、まさに革新的なことだったはずだ。フィルムに映っている観客の服装を見ればその時代の雰囲気がわかる。・・・「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という志向性が、ここで確かに新しい時代の扉をこじ開けようと果敢な挑戦を繰り広げている・・・そう見てもいいような気がする。(1957年の「GUTAI ON THE STAGE」というフィルムが上映されているが、これは必見。)

 このグループの活動の興味深いところのひとつは、まず機関誌から活動を開始したところにある。当時の機関誌(印刷物)はまだ粗末で薄っぺらなものだったが、じぶんたちの表現思想や作品の画像を機関誌として記録し、それをもってPRするという点に戦略性を感じる。機関誌ならとにかく海外でもどこでも簡単に送れる。
 また、リーダーの私有不動産(土蔵)を改装して大阪の中之島に活動拠点を開設しているが、これも戦略として有効だ。海外からの視察者に対していつでもじぶんたちの表現を紹介できる。

 リーダーである吉原は、1905年生まれ。白樺派などの人道主義、生命主義に影響を受け、また制作の点では西欧の表現主義にも影響を受けたといわれる。
 吉原は、戦前の1940年にすでに抽象絵画を展覧会に出品している。同盟国のドイツなら抽象絵画は「退廃芸術」として排斥されていた時代だと思うが、地元の芦屋(兵庫県の高級住宅地)が西欧文化に馴染んだ土地柄だったこともあり、その才能と背景が戦後(1950年代)の前衛美術の開花を準備していたのだと見ることができるだろう。







 なお、この回顧展で掲示されている解説によれば、ミシェル・タピエは、具体グループの作品を海外に売るために、運びやすい絵画など平面の作品の制作に集中するよう仕向けたという。たしかに、グループ全体としてみれば、60年代に入ると平面作品は洗練され、レベルは明らかに向上しているという印象を受ける。
 しかし、すこし皮肉な見方をしてみれば、この平面作品への一元化によって、「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という志向性が、逆に桎梏となってきたのではないだろうか。抽象画の場合、平面構成のアイデアは次第に限られてくるからである。
 もちろん、この回顧展には様々な新しい表現への試みの軌跡が展示されている。しかし、その試みの広がりは、「具体」としての活動を逆説的に隘路へと導いていくようにも思われる。極端に言うと、60年代が進むに従って、様々なバリエーションの平面作品が制作され、その質は向上しているのが見て取れるが、一方で、年次が下るほど、次第に作者名と作品名をシャッフルしてもかまわないような作品群に見えてきてしまうのだ。
 その隘路に気づいたのか、吉原らは、それまでの「熱い抽象」とは異なる「冷たい抽象」の作品の作家たちをグループに加えていく。「冷たい抽象」とは、幾何学化すなわちテクノロジー化された世界観を作品化するもののようであるが、同時にポップ化の要素を胚胎しているようにも見える。

 1970年の大阪万博お祭り広場における「具体美術まつり」のフィルムには、このグループのポップ化が明確に見て取れる。
 スパンコールに覆われた袋を被った登場人物たちが煌きながらニョロニョロ歩き回る「スパンコール人間」、赤い衣装で大きな翼をつけた宇宙人みたいな登場人物たちがバルタン星人のように現れる「赤人間」、纏った毛糸のワンピースを、糸を引っ張られてくるくる回りながら剥がされていく女性の「毛糸人間」、箱のなかから次々に電動で歩く犬の玩具が這い出してくる「101ピキ」、ロボットやボディがプラスチックでできた自動車が登場する「親子ロボットとプラスチックカー」など、“芸術表現としてこんなことでいいのか?”という疑問を蹴飛ばしてくれる上でのみまさに「前衛的」であり、“このパフォーマンスのどこに既存感覚を脅かすものがあるのだ?”という点ではまさに「ポップ化」された表現行為が展開されている。


 1972年に吉原が急逝したとき、具体グループはあっさりと解散を決議した。それはそうだろう。
「政治の季節」が通り過ぎ、すでに日本社会は高度な消費社会へ向かって邁進していた。言い換えれば、日本社会がすさまじいスピードで“具体化”しつつあったのである。

 「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という姿勢を持ち続けるとすれば、時間を経るごとに抽象画の表現思想や手法にとっての“未開の土地”は少なくなり、新たな表現の領野を開拓することの困難性は高まっていく。
 しかし、それゆえにこそ、新しい感動を与えてくれる未知の抽象絵画に向き合いたいという願望が昂じている。  (了)                                                                                                                                                                          





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 15:25Comments(0)美術展

2012年08月11日

岩手県立美術館と「アール・ブリュット・ジャポネ展」








 
 十和田~弘前~盛岡と、盛夏に北東北を車で巡る旅・・・その最後に盛岡市の岩手県立美術館を訪ね、「アール・ブリュット・ジャポネ展」(Art Brut Japonais、2012年6月12日~9月2日)を観た。

 盛岡には、これまで2、3度訪れたことがあったが、久しぶりとなる今回の訪問で、この街に関する今までのイメージが少し変わった。
 まず、駅の東側だが、駅前や目抜き通りである大町通り辺りの人通りが意外に多いことに気づかされた。山形市の七日町界隈に比べて人出は多く、想像していたより活気がある。
ついでに言うと、「盛岡冷麺」の店を探して歩いたのだが、冷麺の看板を掲げる店はそれほど多くない。それに昔はもっと「わんこ蕎麦」の店が目に付いたような気がするが、これも今は探すのに一苦労する感じだった。結局「大同苑」という焼肉屋で盛岡冷麺を食べたが、山形駅前の焼肉屋の方が美味い冷麺を出すような気がした。

 駅周辺と駅の西側については、第三セクターによる20階建てのビル「マリオス」が竣工(1997年11月)した翌年だったろうか、この中にある盛岡市民文化ホールを見学したことがあった。
 その際はこの一画についてマリオス以外にほとんど印象がなかったのだが、今回訪れてみるとマリオスの隣に「岩手県民情報交流センター“アイーナ”」という複合施設(2006年竣工。県立図書館を中心として県の各施設が入っている)が出来ており、県の合同庁舎なども含めてこの一画が“副都心”といった感じに形成されていた。しかも、マリオスとアイーナの間を、新幹線の線路を跨いで駅の東西を結ぶ道路が通り、その先に駅西の広大な開発区域が開けていた。その広さは山形駅西の再開発地区の規模を遥かに凌ぐもので、これだけ農地を潰す必要があったのか・・・と疑問を感じるほどの規模である。
その区域の一画が公園として整備され、アイスアリーナ、盛岡市先人記念館、盛岡市こども科学館、県立美術館などが配置されている。さらにその周りの街区には、イオンのショッピングセンターや見飽きた郊外型量販店が連なっている。

 広い緑地に囲まれている岩手県立美術館(2001年10月開館)のロケーションは、しかし決して褒められたものではない。導入路が貧弱で、せっかく周辺を緑地化しているというのに、この先に美術館があるという風情がなにひとつない。
 美術館の外観は平凡で魅力に欠けるが、中に入ると“グランドギャラリー”と名づけられた吹き抜けの通路空間が向こうに伸びており、これが巨大な建造物だという感覚を、恰も権威性を押し出すかのようにして与えてくる。このグランドギャラリーの左側はガラスの開口部、右側がいくつかに区切られた展示スペースになっている。東京の新国立美術館に似た設計思想。まさに、十和田市美術館や金沢21世紀美術館とは対極的な設計思想の美術館である。
・・・とこんなふうに感じて、あれ?と思って調べてみたら、新国立美術館も岩手県立美術館も日本設計が担当で、十和田市美術館と金沢21世紀美術館はどちらも西沢立衛の担当だった。なんだよ、判り易すぎるじゃねえか・・・と笑ってしまう。


 以下に「アール・ブリュット・ジャポネ展」の感想を記す。

 この展覧会のチラシには、「『アール・ブリュット』とは、20世紀のフランスの美術家ジャン・デュビュッフェによって生み出された言葉。『生(き)の芸術』を意味するこの言葉は、美術の専門的な教育を受けず、既存の芸術や流行にとらわれない作家たちの自由で伸びやかな表現をさすものです。(中略)
 本展は、2010年3月から翌年の1月までパリ市立アル・サン・ピエール美術館で開催され、大好評を博した『Art Brut Japonais』展の日本凱旋展覧会です。(以下略)」との記載があるが、展覧会の内部にあった説明によると、「アール・ブリュット」という言葉は、もともと精神病者や霊媒師などによる造形を指して使われていたという。社会の周縁にいるマージナルな人びとによるアートという意味だったらしい。

 この展覧会の「企画協力」には、「ボーダーレス・アートミュージアム」と「NO‐MA 滋賀県社会福祉事業団」の名が記されている。「ボーダーレス・アートミュージアム」は滋賀県近江八幡市にあるアール・ブリュットの美術館で、滋賀県社会福祉事業団が運営している。

 魲万理絵(すずきまりえ 1979~ 長野県在住)
 一言でいうと暗く不気味な絵だが、完成度が高い。丸顔で髪のない登場人物たちの表情は、なんとなく1970年代の大人向け(「成人向け」ではない)のマイナーな漫画雑誌に載った奇譚作品を視ているような感覚を呼び起こさせる。
「全人類をペテンにかける」では、裸の女がハサミで自分の性器を刺そうとしている。女性器には人の顔やいくつもの目が描かれている。また、女の顔の片方の目が女性器として描かれている。性器への嫌悪と執着が、強烈なアイデンティティーとなって現前している。
 「人に見えぬぞよき」では、女の口が青い鬼に変化(へんげ)している。他者の言葉が、作者にとってはグロテスクな鬼のように感受されるということだろうか。
 「あほが見るけつ」では、赤と黒のタイル模様で描かれたケツが裸の女を押しつぶしている。女の目の縁取りはハサミの柄(指を入れるワッカ)として描かれており、そのワッカの枠中にそれぞれ2個ずつの目が描かれている。
 「泥の中のメメントモリ」は大作。ひとりの横たわる裸の女を中心として、女性器と海蛇のような男性器が配置されている。中心(基調)となる裸女の子宮からは無数の赤い足として描かれた生命たちがぞろぞろと連なり出て、腹から胸へと這い上がり、その足行列が同じ女の口に入り込んでくる。
 展示の説明に、作者は高校在学中に発病し、2007年からこのような絵を描き始めたとある。「高校在学中に発病」と聞くと統合失調症かと思ってしまうが、この作者の作品は、たしかに強固で確信的な妄想の世界を表現したもののように見えつつも、その一方で、高度に“統合”されているとも言える。構図は緊密で隙も破綻もない。

 舛次崇(しゅうじたかし 1974~ 兵庫県在住)
 作者はダウン症。厚紙にパステルで描かれた「うさぎと流木」「2匹のバッファロー」「きりん1」などの作品に魅かれる。金色の地に黒色の形体だけの動物を描いているが、その動物がデフォルメされていて、動きと迫力に満ちている。“天才幼稚園児”の絵か、といった印象を受ける。


 高橋和彦(岩手県)
 紙にペンで詳細な線による人物や建物の造形を書き込み、そのパターン化された図柄の連なりで綿密な世界を構成している。作者が知的な障害を持っているらしいこと以外にどういう人物か判らないが、このようなパターン化した描画作業の連続は、<自閉症スペクトラム>という概念を想い起こさせる。
 「岩手銀行のあるところ」「人間が大勢」などが印象に残った。
 この作者の作品は、「アール・ブリュット・ジャポネ展」のみならず、この美術館の収蔵作品の常設展でも展示されている。安心して鑑賞できる作品なので、“マージナル”ではなく、「通常」の側に位置付けられるということだろう。

 八重樫道代(1978~ 岩手県在住)
 ペンで幾何学的な構造枠を書き、ブラシマーカーでその枠ごとに着色している。「チャグチャグ馬コ」は、鮮やかな色彩の布のパッチワークみたいに見える。色の組み合わせや配置が絶妙で、ポップな感じを受けるが、ポップまで行き過ぎてはいない。この作品だけを見せられれば、有名なイラストレーターの作品かと思ってしまうかもしれないし、少なくとも作者に知的障害があるとは思えない。

 小幡正雄(1943~2010 兵庫県)
 入所している施設の調理室からこっそり拾ってきたダンボールに、自室で夜な夜な絵を描き続けていたものを職員に発見されて、それがここに展示されているという。鉛筆や赤を基調とした色鉛筆による描画。「無題(結婚式)」など、結婚式で男女が並んで立っている姿を正面から描いたものが、展示されているものだけで少なくとも4作品ある。その体には土偶を創造させるような紋様が描かれており、男女ともに性器が描かれている。作者にとって、結婚は叶わぬ理想であり憧れだったのかもしれない。その結婚式に臨むカップルの姿が図式化され、まるでファラオと王妃のように神聖なものとして描かれている。

 伊藤喜彦(1934~2005 滋賀県)
 知的障害者施設に入所しいていた。陶土の塊をウインナ・ソーセージみたいな形状にして、それらを多数重ねて造形する手法。フジツボやサンゴを思わせる形に、ちょうどアイスクリームにストロベリーやブルーベリーのソースをかけたように絶妙な部分性で青や赤の釉薬がかけられている。「鬼」「鬼の面」など、乱暴でエネルギーに満ちていて、未知の生物の臓物を眼にしているような感じを受ける。

萩野トヨ(1938~ 滋賀県)
 紺色の布に、濃い赤、水色、白色などの糸を使った刺繍で絵を描いている。
 「おつきさん」「ひよことたまご」「おさかなたち」など具象的なものを描く作品群と、「まる さんかく しかく」、「まるとしかくのこうしん」などといった幾何学的な紋様を描いた作品群がある。
 後者の構成に魅かれる。綿布のもつ緩い肌合いの上で、刺繍のもつ暖かさと幾何学模様のもつ冷たさがうまく混ざり合って、作者の知的な障害にもかかわらず、どこかに落ち着いた知性を感じさせる作品に仕上がっている。

 この企画展には、63人の作者(うち9人は岩手県)の作品が展示されている。滋賀県の作者が多いが、これは、滋賀県社会福祉事業団が、自らの運営する施設で美術や造形に取り組む時間を設けているからだろうか。あるいは、在宅の障害者などを対象としたアウトリーチ・プログラムなども行っているのだろうか。
 根気良く「アール・ブリュット」の現場に関わり、あるいはこのような企画のプロデュースを展開してきた関係者に敬意を表したい。


 なお、岩手県立美術館には、岩手ゆかりの作者たちの収蔵作品を展示する「常設展示室」のほか、常設の「松本竣介・舟越保武展示室」と「萬鐵五郎展示室」がある。じぶんが訪れたときは、松本竣介作品が他の美術館の企画展に貸し出されているとのことで、松本竣介と関係の深かった麻生三郎の特別展(神奈川県立美術館収蔵作品による)を開催中であった。
 萬鐵五郎(よろずてつごろう 1885~1927)の作品は、これまでも何度か観たことがあり、記憶に残っていたが、この美術館にコレクションがあることはここを訪れて初めて知った。
 「赤い目の自画像」(1912-13)、「雲のある自画像」(1912-13)、「木の間から見下した町」(1918)などが印象的だった。
 また、「常設展示室」の作品では、吉田清志(1928~2010)の「日蝕と馬」(1956)・「花ト少女」(1956)・「花ト女」(1957)など1950年代の前衛絵画と、「手鏡」(1976)・「朝(梳る)」(1979)など1970絵年代後半に描かれた旧来的または保守的な作品とのギャップが興味深かった。
 ほかに、晴山英(1924~2011)の「停止のセコンド」(1979)も印象に残った。

 ハコとしては大きくて立派な県立美術館だが、それゆえに「岩手ゆかり」の作家たちのコレクションだけでは客の入れ込みも館の評価も上がらないだろう。
 おそらくは県独自事業予算が極めて限られているなかで、外部からの助成を如何に引き入れ、どんな企画展を展開していくのか、ここのキュレーターたちには、その手腕が問われている。(了)
                                                                                                                                                                                                

  

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2012年08月04日

十和田市現代美術館






 猛暑の夏、3日ほど夏休みを取って、十和田~弘前~盛岡と、車で巡る旅に出かけた。
 青森県十和田市を訪れた目的は、十和田市現代美術館を見物することだった。

 だいぶ以前に十和田湖や奥入瀬を訪れたことはあったが、現在の十和田市の中心部である旧十和田市(その前は三本木市)の辺りを訪れたのは今回が初めてである。
 観光ガイドブックで下調べしていると、どう見てもそれほどの人口があるとも、地域の中核都市とも思えないこの街に、「官庁街通り」という立派な名称(?)の大通りがあり、それが1キロ以上も続いているということにちょっと奇異な感じを受けていたのだったが、実際に訪れてみて、その通りの広さと立派さに、まずは驚いた。
 片側二車線の大通りの両側には、幅4~5mほどの歩道があり、両側の歩道にそれぞれ二列ずつ並木がある。車道側にあるのが松の並木、歩道の外側にあるのが桜の並木である。この並木の松も桜も立派なもので、この通りが歴史を重ねていることを想わせる。
 昔、陸軍が軍馬局出張所を置いていたことから、この通りは「駒街道」と呼ばれたという。
 今は、銀行、警察署、消防署、商工会館、県の合同庁舎、国の合同庁舎、保健所、裁判所、市役所、中央病院、図書館、公民館、市の保健センター、社会福祉協議会、農協、東北電力、教育会館などの建物がずらりと並び、その中心部に現代美術館がある。
 美術館の収蔵品の一部が通りに面した同館の敷地に野外展示されているほか、美術館と対面するように大通りの反対側には「アート広場」があり、巨大な野外展示作品が数箇所に配置されている。
 ちょうど日曜日だったので、美術館の向こうの広場では、家族連れなどが集まるちょっとしたイベントが開催されていた。まったりとした野外ライブの音も聞こえてくる。
 この広々とした通りだけを見ていれば、立派な通りだなぁ・・・とか、現代美術の作品それもポップ系の作品を思い切って街づくりに導入したものだなぁ・・・などという感想を抱くに止まるところだが、この通りがタッチしている国道102号の商店街の寂れ具合を見ると、しかし、複雑な想いを抱いてしまうのでもある。

 十和田市は、2005年に隣接する十和田湖町と合併して今の十和田市(人口6万5千人)となった。
 この十和田市の中心街となっている国道102号沿線の商店街でも、もはや東北の地方都市のどこでも見られるようになってしまった「“シャッター通り”化」が進行しているのだった。とくに両側の歩道の上にかかるアーケードの塗装が剥げ、錆が目立つのが“寂れ感”をなおさら演出してしまっているのが気にかかる。
 このあとで訪れた十和田湖畔で、たまたま話を交わすことになった十和田市民から聴いた話では、この「官庁街通り」には随分と市の財政支出が行われているとのことだった。「官庁街通りに1億円もするトイレを設置するなら、寂れる一方の十和田湖畔にも金をかけて欲しい」・・そう彼は言っていた。・・・じぶんが市長なら、まずはこのアーケードの錆をなんとかするだろうなと思ったものである。
 もっとも、寂れた商店街に梃入れするのはなかなか容易なことではない。効果的な振興策の創出が難しいのはもちろんだが、単純な施策であっても公費を支出する手法や支援する理由の適切さという点で難しさがあるだろう。
 “行政は、とにかく「一点豪華主義」で、観る者をあっと言わせる現代美術館と周辺空間を作る。それで人を呼び込むから、あとは地元住民と民間が努力して客を獲得してくれ”・・・たしかにこういう考え方もあるだろう。その点からみれば、この現代美術館は奏効している。しかし、東北の小都市の商店街や観光地に“自力更生”の力がどれほど残っているか、それもまた疑問である。
 ガイドブックにも、美術館などのパンフレットコーナーにも、レストランやカフェなど美術館のイメージに釣り合う飲食店の情報がない。現代美術館周辺で昼食の場所を探したが、猛暑ゆえ街をあちこち歩き回ることを避け、結局は近くのチェーン店っぽいラーメン屋に入ることになった。
 肉が欲しくない客も少なくない。B級グルメの「十和田バラ焼き」だけで地元の店に客を招き入れることはできないだろう。




 さて、「十和田市現代美術館」について。
 まずはWikipediaから引用してみる。

(引用ここから)
 Arts Towada(アーツ・トワダ)の拠点施設として2008年4月26日に開館した現代美術館。十和田市官庁街通り(別名:駒街道)に位置する。十和田市企画調整課が計画を行い、プロジェクトの全体監修をナンジョウアンドアソシエイツが行った。
ひとつの作品に対して、独立したひとつの展示室が与えられ、これらをガラスの通路で繋ぐという構成により、美術館自体がひとつの街のように見える外観をつくり出しており、来館者は街の中を巡るように個々の展示室を巡り、作品を見ることができるというユニークなものとなっている。また、一部の展示室には大きなガラスの開口が設けられ、アート作品が街に対して展示されているかのような開放的な空間構成を持ち、まちづくりプロジェクトの拠点施設としてつくられた特徴ある美術館となっている。
(引用ここまで)

 Wikipediaの内容について言及しながらこの美術館の印象を述べると、まずその規模から「美術館自体がひとつの街のように見える外観をつくり出して」いるとまでは言えない。だから、「来館者は街の中を巡るように個々の展示室を巡り、作品を見ることができる」というよりも、来館者はハコからハコへと移るように展示室を巡るという感じである。通路が狭いので、この「ハコからハコ」という感じが増幅されてしまう。
 しかし、以下の2点から、「アート作品が街に対して展示されているかのような開放的な空間構成を持」っているという点はそのとおりであると言っていい。
 ①美術館内のカフェが大きなガラスの開口部によって、「官庁街通り」から丸見えになっており、そこに人影やデザインされた空間が覗えること。
 ②コスタリカの熱帯雨林に生息するハキリアリを巨大化させた真っ赤な作品「アッタ」(椿昇)や花で飾られ形象化された巨大な馬の作品「フラワー・ホース」(チェ・ジョンファ)、建物の外面にリンゴの木を描いた壁画作品「オクリア」(ポール・モリソン)などが「官庁街通り」に面して野外展示されていること。
 また、これらの「開放的な空間構成」と、「官庁街通り」を挟んで美術館の向かい側にある「アート広場」に展示されている作品群が一体的なオブジェ空間を形成している。
 「アート広場」には、水玉模様の巨大なカボチャやキノコの作品「愛はとこしえ十和田でうたう」(草間彌生)、アメリカの子供向けコミックに出てきそうな「ファット・ハウス/ファット・カー」(エルヴィン・ヴルム)、巨大な白い布を被ったお化け(出来損ないのオバQみたいな)「ゴースト/アンノウン・マス」(インゲス・イデー)などの作品が並び、子どもにとっての“巨大な野外おもちゃ箱”風の空間を創出している。
 「Arts Towadaの拠点施設」とやらを、よくここまで糞切って造り切ったものだと行政的な感心をするとともに、「まちづくりプロジェクト」としての野外オブジェの試みは、結局ここに極まるしかないのかという嘆息みたいなものがやってきた。
 じぶんの感覚としては、どうしても、このような巨大なオブジェ群(“戦艦大和型アート”とでも評しておくか)については、「老朽化したらどうするのか」とか「飽きられたらどうするのか」などという姑息な想いが先立つ。現に、じぶんとしては“こういうポップ系オブジェは一度見ればたくさん”という印象であった。・・・そもそも公共空間における美術とは時間とともに変幻する運動ではないのか・・・などという古風なイデオロギーも捨てがたく心中に存在する。


 さて、十和田市現代美術館の常設展示作品で印象に残ったものについての感想を記す。

 まず、入館して最初の展示室に立つ巨大な白人老女の像に目を奪われるのが、作品「スタンディング・ウーマン」(ロン・ミュエク)。巨大であるということは、それだけで芸術的に受け止められるという優位さがあるが、それを差し引いても、どこかしらこの老女があまり性質のいい女ではないなと、いわば文学的想像を掻きたてる点で、これは優れた作品に仕上がっている。
 インスタレーションでは、非常に巧妙に幻影空間を創出しているのが、ハンス・オプ・デ・ビークの「ロケーション(5)」である。真っ暗な空間にやっと眼が慣れると、その部屋はアメリカ風カフェの造りになっている。このカフェはどうも階上に位置するらしく、テーブル席に隣接する窓の下に高速道路が走っている。この道路が夜の闇の向こうに伸びる風景が、作り物のようでいて奇妙なリアリティをもって迫ってくる。
 キム・チャンギョムの「メモリー・イン・ザ・ミラー」は映像作品。鏡のフレーム内に様々な人間が登場しては、鏡に向かって様々な身体の表情を映し、やがて消えていく。これらの登場人物たちがサマになっているという意味で完成度は高いが、それゆえ、登場人物たちが言ってみれば“セミプロ”の役者のように見えてきてしまうと、急にこの作品自体への興味が失われていくというジレンマを抱えている。
 夜の針葉樹林の地上の風景を、黒を基調として再現したリール・ノイデッガー「闇というもの」も巨大なオブジェ。効果的な照明のラインで、夜の闇の不気味さと魔性を演出している点では秀逸だが、その造形に用いた素材か塗料かが、化学薬品みたいな強烈な臭気を放っている。この作品は、この臭気もその一部なのだろうか、それとも作者の臭覚が麻痺していたのか、とにかく臭覚の敏感な鑑賞者を拒絶する作品ではある。
 オノ・ヨーコの「念願の木、三途の川、平和の鐘」については、これを酷評しておく。もし作者がこれをアート作品だと強弁するなら、有名性に持たれかかった醜悪さ以外に感じ取れるものはない。

 最後に蛇足かもしれないが、ひとつ気になったことを述べてこの項を閉じる。
 この美術館では、一般に展示作品ごとに設置してある当該作品の作者名や題名を記載したプレートが存在しない。だから、鑑賞者は入口でもらったパンフレットの写真でいま眼前にある作品を特定し、そのパンフの記載内容から題名と作者と作者の生年及び国籍を知るほかない。また、パンフには当該作品の制作年については一切記載がない。
 パンフに全作品の写真が掲載され簡単な解説が付されているのは好ましいが、作品の付近に当該作品についての表示がないのはいただけない。




 美術館を出て、どこかで一息つこうと、車で通りかかった際に偶然見つけた商店街のカフェ「ミルマウンテン」に入った。まさにエコなカフェと言うべきか、かなり古い木造家屋を改修した店内で、外気温35度でも冷房が入っていない。そもそもエアコンらしきものが見当たらない。二階の席では、首を振る1台の旧式扇風機と、客ひとりに一柄ずつ渡されるウチワが救いだった。(この項、了。)

                                                                                                                                                     


  

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2011年02月24日

2010年度東北芸術工科大学卒業制作展 その2

 東北芸術工科大学「卒業/修了 研究・制作展」(2011年2月8日〜13日、同大キャンパス)の作品についての感想、その2である。
 
 この卒業制作展全体のなかでもっとも印象的だったのは、映像コースの<川上真由>の作品だった。
 彼女の作品の展示会場にいくと、まず等身大の写真が出迎える。そしてパネルにはこんな文章が書かれている。

 「ここはとても生ぬるく甘い世界。責任感が無くとも許される。将来の社会貢献については考えない。コミュニケーション能力とは程遠い。向上心の見えないただの地方大学。だけど、自分もどれにどっぷり漬かっている。それに甘んじている。この土地の人々の優しさに。なんでも許される環境に。嫌ならやめればいい、環境のせいにせずに。・・・なのにやめない。ただのチキンだから。 『わたしはわたしがいちばんかわいそうで、かわいい。』だなんて・・・あなたも『そう』、思っているんでしょう?」







 天井から床に至る長い垂れ幕のようなポスターに印刷された冗長な言葉たち。
 自分のビキニ姿を大学の風景に侵入させ、自己顕示するかのように見せながら、ほんとうはその関係への異和を定着させた写真。
 こつこつと制作してきた平凡でコケティッシュなアニメーション作品。
 大学院進学を諦めて表現への夢をも断ち、上京して会社に自分を売り込む自らの姿を離れたところから眺めるプライベート・ビデオ。そして、すっぴんの自分が派手なギャルに変身する化粧の過程を撮影したコマ撮りの映像。
 おまけに、この愛憎に塗れた学生生活を乗り越えて卒業まで漕ぎつけた自分を自分で祝福する巨大な造花の花輪のオブジェ。
 それらが総体として演出するのは、いまこの“生ぬるく甘い世界”から抜け出して、大都会へ就職を決めたところの、中途半端に才能の豊かなひとりの女の自省であり、自己批評であり、自己肯定であり、自己鼓舞である。





 よくやった! <川上真由>・・・疲れたら山形に息抜きに来な。
 ・・・思わずそう口に出してしまいそうになる。











 映像コースの学生の作品で、もうひとつ印象に残ったのは、<白田明日香>の「土踏まずは夏を知らない」というアニメ作品だった。
 幼い頃遊んでくれた<父>・・・だがそれは自分を置いて去っていった<父>でもある。
 その欠損の記憶が、人間の顔をした巨大なオニヤンマとなって夏の午睡にまどろむ女に訪れる。カーテンが風になびく窓の傍のベットに横たわっている女を、オニヤンマがそのつま先から食い始める。腹のあたりまで食われたところで、女はオニヤンマを見つめる。オニヤンマは食あたりでもしたかのように、なにか血反吐のようなものを吐き出す。
 残酷な情景なのに、なぜか女はしずかに食われていくことを受け入れる。
 これは、ブラックな童話であるように観えて、無意識のうちに表白されたひとつのデストピアなのかもしれない。






 


 その他、彫刻部門にも触れておく。
 
 まず、<後藤ありさ>の作品「求めすぎて」。
 これはオブジェというべきかインスタレーションというべきか悩むが、ようするに、床に置かれた箱を覗くと、そのなかは苔生した部屋になっているという作品である。
 奥にあるのはラジカセで、これも苔に覆われている。ここにあるのは部屋の主の<不在>という時間がもたらす逆説的な<実在>の気配である。







 工芸コースでテキスタイル専攻の<今野真莉絵>の「共する」は、下肢に毛糸を纏ったトルソ。
 裾の部分がタコの手足のように動きそうで、なかなかなまめかしい。
 これはこの作者の独創した作風なのだろうか。だとすれば、今後が楽しみな感じがする。











 最後に、<黒宮亮介>の彫刻作品「innocent world」。
 これまで取り上げてきた作品に比べればぐっと地味だが、じぶんとしてはこういうのもけっこう好きである。
 木のむくろを彫刻して、そこに悪性新生物のような生命体を宿らせている。
 作者の“たくらみ”とでもいうべき感懐が伝わってくるようだ。








 さて、今年の芸工大卒業制作展については、時間がなくて6〜7割しか観て周れなかった。
 環境デザインやグラフィック・デザインやの会場を訪ねる時間的余裕もなかった。
 映像作品やコンピュータ・グラフィックやゲーム作品、それに構想企画の部門なども、もっとじっくり見たかった。
 地元で作品を発表する機会を、たくさん作ってほしいものである。

 でも、まずは、卒業おめでとう。
 
 この山形とあの大学に、後ろ足で砂をかけて旅立つがいい。                                                                                                                                                                                             


                  
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:41Comments(0)美術展

2011年02月23日

2010年度東北芸術工科大学卒業制作展 その1



 毎年楽しみにしている東北芸術工科大学「卒業/修了 研究・制作展」(2011年2月8日〜13日、同大キャンパス)を観た。印象に残った作品の感想を記す。
 
 この大学の作品展でいつも注目しているのは日本画専攻と版画専攻の学生・院生たちの作品だが、今年はこれらのほか洋画専攻にも惹かれる作品があった。


 絵画作品の展示棟に入ってまず目に飛び込んできたのは「再生‘89.10.31」と題された<関根さちを>の作品。
 展示室には、アクリル板に家族写真を焼き付けたものが、立っている見物人の顔の高さ辺りに6枚吊り下げられている。6枚とも夫婦と二人の姉妹が書斎の書棚を背景に並んだ同じ写真なのだが、これらのアクリル板は、その板ごとに家族の誰かの輪郭のところが透明に抜かれている。父親は前から4枚目の板に焼きつけられているが、母親は3枚目、妹は6枚目・・・といった感じである。一番奥の板に焼き付けられた中央の妹らしき女の子が作者自身のようにも思える。
この手法が<関根さちを>のオリジナルなのか自分は判断できないが、「再生」という作品の題名=モチィーフを受け止めようとすると、この作者にとってはこの手法が必須のものだったのだという強い印象を受ける。つまり、そういう意味でこの作品の手法は成功している。
 アクリル板の透明性を利用しながら、鑑賞者の目に映るのは逆になにかベールに包まれて近寄れそうにない家族の関係性である。ここに一種の“解離”のような苦しみが感受される。



 日本画で印象的だったのは、<永縄美沙>の抽象画「有為の不在」。
 山塊のようにも、人体のようにも、球根のようにもみえるカタマリの造形と、中央の朱が強烈な印象を与える。しかし、一方で、これらの形象は何かの意味づけを拒否しているようにも思われる。いや、それは“拒否”などという強い姿勢ではない。われわれは拒否されているのではない。これらの形象の前で、そもそも“拒否されるような何か”として存在してなどいないのだ。
 両側の、格子のような鉄線の網のようなものを破ってこのカタマリたちが現れたのか、それともこのカタマリたちはこの網に囲まれて朱色の飛沫を上げるしかないのか・・・いずれにしても<有為の不在>は著しくこちら側の問題だと思われてくる。







 洋画で印象的だったのは、大学院修士課程の<佐藤未希>の「Highest Mountain」と題された作品群であった。
 ここに掲げた女性の顔の作品は、彼女の展示室に掲げられていた作品たちを代表するものではない。むしろ、彼女が編み出した手法の習作的な段階に位置づけられるべき作品だろう。写真にしたとき、いちばん視覚的にわかりやすいだろうと思われる作品を掲げただけだ。つまり、彼女の作品は写真ではそのマチエールがよくわからない。彼女の作品は、マチエールが命なのだ。
 それは、映画や古い写真から取り出したイメージ(ロリータ風の洋服を着た少女や女性)の上に、幾度となくドローイングを重ねたものに滲みを作ったり、削り落としをしたりしながら、さらにドローイングを重ねていくという手法で描かれている。
ぼかし効果でメルヘンチックな雰囲気を醸し出しつつ、それが靄につつまれたような不気味さを演出している。これは彼女が膨大な作業時間のうえに編み出した手法であるという。
 この卒業制作展のキュレーターでもある講師の宮本武典氏によれば、<佐藤未希>の作品の、ロリータ風の対象とそれが崩されて不気味さを醸し出す性向が、ともすればいわゆる「ゴス」調に見えてしまうのだが、その手法の営為に大人の視線が含まれているために、危ういところを逃れてユニークな独自の世界を形成しているというような評価を与えていた。(出品している学生540名が選んだベスト10の作者と宮本氏のトークにおける発言)
 作者自身は「真のリアリティとはなにかを問いかける機動力となることを目的に表現している。努力したということだけには自信がある。真摯に、逃げずに取り組んだ。」というような趣旨のことを述べていたが、しかし、じぶんは彼女の作品群に、やはり一種の解離の世界を見てしまう。
 「幾度となくドローイングを重ねたものに滲みを作ったり、削り落としをしたり」しなければ、メルヘン的あるはロリータ的であるような少女の形象が、ぼかされ、部分的に削り取られ、この世のものではないようなものとして感受される。しかも、それは「真摯」な努力の積み重ねの上で「真のリアリティとはなにか」を問いかけるものとして表現されている。じぶんがここに見てしまうのは、誤解を恐れずに言えば、一種のデストピアであり、なぜかそこに“やりきれない感動”とでも言うべきものを覚えてしまう。
 彼女は院生だが、学外でも精力的に作品を発表しているとのことなので、直接作品を目にしてほしい。




 学部生の洋画作品で目を引いたのは、<金澤朋子>の「にくウォーズ」、<東瀬戸あゆみ>の「happy jap ―解説―」「happy jap ―襲来―」、<藤原泰佑>の「embryo’s dream」。これらはパノラマのように世界を構成している作品である。
 
 金澤の作品は、“ヘタウマ”という言葉を想起させる。よくみると非常に面白く、人物や事物の配置の妙が効いている。ゼロ戦とセーラー服の女子高生の配置が絶妙である。ただし、この絵全体の印象としては、なにか既視感がある。





 藤原の「embryo’s dream」は「胎児の夢」・・・・。金澤のタッチとは対照的で、はっきりとした輪郭をもった場面のコラージュによって成立している世界である。遠近感があり、そこここの形象物の配置は面白いのだが、全体的な色調と画面の半分から上の雲の多さからか、ずいぶんと澱んだ世界だという印象がくる。画面の下に描かれた人間たちは、バス停でバスを待っているようにも見え、この日常が<夢>であるならやりきれないという想いが湧いてくる。これがこの作者にとっての「胎児の夢」だというなら、その胎児はあらかじめ老成している。




















 東瀬戸の「happy jap ―解説―」は、天安門広場の毛沢東の肖像画をテレビ解説者の池上彰のそれに置き換えたもの。「happy jap ―襲来―」では、肖像画の部分が韓流女性アイドルグループの絵に置きかえられている。適度な毒をもったポップな作品で、思わず好意を抱いてしまいそうになるが、あえて半畳を入れさせてもらえば、池上彰も韓流女性アイドルグループも、作者が考えているほど日本人の多数から注目されている存在ではない。つまり、その程度の注目度なら、この肖像画の部分には、数多くの客体が入りうる。ざっくりいえば、部分性に対するスケール感が未熟なのだ。しかし、ポップな作品はそれでいいのかもしれない。そうでないと面白いものにならないのかもしれない・・・などとも思えてくる。





 <金子拓>の作品「塵―ちり―」は、独特の色使いで、異界の日常みたいな世界を描いている。巨木のような塵の塔が上に伸び、その周囲に家族生活のような風景が描かれている。この世界は大きな窪みのなかのようでもあり、未知の地界に広がっているようにもみえる。
 1970年代の前衛的なマンガでみたことがあるようなイメージだが、この窪みの中の家族を出奔して、巨木のような塵の塔を這い上がっていった先にはなにがあったのか・・・などと考えてしまう。なお、この写真は、絵画全体にカメラを向けても絵柄がよく映らないので、ある部分をクローズアップしたものである。






 洋画専攻の展示室を回っていて、あっと驚かされたのが<阿部一樹>のオブジェ「いつか君を変えたものをいつかぼくが遺すために」である。
 自分を捨てていった女を見返してやるぞ!と大声で宣言するかのようなスケール感と、ダンボールに自分の名前をロゴにして印刷しているあたりが大胆な自己顕示になっていて、表現の活力を感じる。






                                            (以下、次回につづく。)




  

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2010年09月11日

「シャガール−ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」展







 東京藝術大学美術館で「シャガール−ロシア・アヴァンギャルドとの出会い〜交錯する夢と前衛〜」展(2010年7月3日〜10月11日)を観た。
 この展覧会は、フランスのジョルジュ・ポンピドー国立芸術文化センターが所蔵する作品で、マルク・シャガール(1887‐1985)の制作人生を追いながら、ロシア美術史にシャガールを位置づけようとする意図をもって企画されている。
 とくに「ロシア・アヴァンギャルド」との“出会い”を、ナターリャ・ゴンチャローワ(1881-1962)、ミハイル・ラリオーロフ(1881-1964)らの作品とともに展示することで表現しようとしている点が特色である。
 企画者は、ポンピドー国立芸術文化センターのキュレーター、アンゲラ・ランプ氏。

 時間の余裕がなくて、じっくり鑑賞することができなかったが、感じたことを以下に記す。
 なお、このブログでは、ロシア・アヴァンギャルドに関わる美術展について、過去に2回ほど記事を掲載しているので、そちらも併せて読んでいただければと思う。
 ※ 「青春のロシア・アヴァンギャルド〜シャガールからマレーヴィチまで〜」(2008年6月21日〜8月17日、Bunkamuraザ・ミュージアム)http://ch05748.kitaguni.tv/e581526.html
 ※ 「ロシアの夢 1917〜1937」(2010年4月3日〜5月9日、山形美術館)http://ch05748.kitaguni.tv/e1661560.html


 第1章 ロシアのネオ・プリミティヴィズム
 この章では、シャガールの初期ともいうべき20代前半の作品を、ナターリャ・ゴンチャローワやミハイル・ラリオーロフの1911〜1912年の作品と並べて展示している。
 シャガールは、ゴンチャローワやラリオーロフらのネオ・プリミティヴィズムの影響を受けたと言われるが、この時期の作品には、その影響がまだそれほど顕著には現れていないように見える。
 シャガールの作品で印象的なのは「死者」(1910‐1911)。全体として暗く重い色調で、屋根の上にバイオリン弾き、街の通りに死体、その脇には箒かスコップのようなものを持った男、踊るようにあるいは嘆き悲しむように両手を上げた女の姿が描かれている。それぞれの人物の顔は描かれていない。この作品では、すでに遠近法は倒置されているが、人物や動物は、まだ宙に浮かんではいない。
 ゴンチャローワの作品は、フォービズムやキュビズムの影響を受け、ロシアの伝統的なイコンやルボーク(民族版画)のモチーフを受け継いで、ネオ・プリミティヴィズムを体現しつつあった。「酒飲みたち」(1911)や「婦人と騎手たち」(1911‐1912頃)では、ロシア的な題材がフォービズム風に描かれている。
 また、組作品「刈入れ」(全9面)のうちの1面である「葡萄を搾る足」(1911)や「孔雀」(1911)では、題材がかなりデザイン化され、それゆえ彼女が抽象画へ向かう過程が看て取れる
 ラリオーロフの作品では、「春」(1912)が目を惹く。
 彼は、1912年ころから、キュビズムや未来派に立脚した「光線主義(レイヨニスム)」を創始していくと解説にあるが、この「春」に描かれた海坊主のような女性の上半身像は「光線主義」という感じではない。殴り書きされたような胸(円が描いてあるだけ)や耳飾りが印象的で、なんだかアフリカ的?あるいは棟方志功的?というような感じを受ける。
 光線主義は、物体の放つ放射状の光線に基づいて図像を分解し、あらたな抽象的形態を生み出そうとする手法。これは、本美術展の「第2章 形と光−ロシアの芸術家たちとキュビズム」に展示された彼の「女性の肖像」(1911‐1912)あたりから現れてくる。この作品では、女性の上半身(作品「春」とはまったく異なる西洋風の痩せた女性)が描かれているが、その頭部が、数学で言うところの“補助線”を引いて輪郭を構成するような手法で形象化されている。
 この線形の光線で題材を表現する手法は、1913年の「タトリンの肖像」でかなり明確になり、抽象度が高くなった1913‐1914年の「晴れた日」で完成するようにみえる。



 第2章 形と光−ロシアの芸術家たちとキュビズム
 この章で印象的なのは、なんと言ってもシャガールの「ロシアとロバとその他のものに」(1911)である。
 民族的な図柄、キュビズムの造形、そしてフォービズムの色づかいから、鮮烈な印象を受ける。
 シャガール作品の特徴である遠近法の倒置と宙に浮かぶ人物や動物の構図も、ここで明確に打ち出されている。
 牛の乳を搾ろうとしてバケツを持った女の首が切り離され宙に飛んでいるのは、言語における比喩的表現の形象化で、なにか夢想に動かされている様子を表したものだというような解説を、どこかで読んだ記憶がある。
 この牛に使われている赤色・・・この赤色がどんなものか、写真ではなく実物を視て感じとる価値がある。
 この作品はシャガールのパリ時代の傑作と言われているが、まさにここにおいて、シャガールは自ら<ロシア・アヴァンギャルド>を体現していると看做しうる。

 この章でこの他に印象的だったのは、日本ではあまり聞かないキュビズムの彫刻家の作品だった。アレクサンドル・アルキペンコ「ドレープをまとった女性」(1911・ブロンズ)、ジャック・リプシッツ「ギターを持つ船乗り」(1914‐1915・古色をつけたブロンズ)などである。

 第3章 ロシアへの帰郷
 1917年、ロシア革命(10月革命)が起こる。1918年、シャガールは故郷のヴィテブスクに美術学校を設立し、その校長となることを依頼され、これを受ける。彼はモスクワやペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)から芸術家を招聘する。この中に、カジミール・マレーヴィチ(1878-1935)やジャン・プーニー(1892-1956)ら、ロシア・アヴァンギャルドの旗手がいた。
 本美術展の公式HPの解説には「1919年10月には、シャガールはカジミール・マレーヴィチを招来したが、マレーヴィチのカリスマ性に魅了されて学生たちはシャガールから離れた。美術学校は、具象的表現を消滅させ、幾何学的な淡色を通じて『無対象の感覚』を与える『スプレマティズム』を追究する実験室となった。(中略)1920年、シャガールは静かに故郷を去り、モスクワへと旅立った。」とある。
 ただし、ネット上には、シャガールがマレーヴィチと対立して美術学校を辞したかのように書かれた年譜もあり、“静かに故郷を去”ったかどうかは定かではない。
 ところで、前記の解説も指摘しているが、面白いのは、この章に展示されているシャガールの「立体派の風景」(1918‐1919)という作品である。これはまるでマレーヴィチの作品だ。
 シャガールと“ミスター・ロシア・アヴァンギャルド”とでも言うべきマレーヴィチの関係は如何なるものだったのか、興味が湧くところだ。

 なお、この章には、ジャン・プーニーの作品、すなわち半立体的素材の組み合わせで構成される「コンポジション」と名づけられた作品(アンサンブラージュ)がいくつか展示されている。また、マレーヴィチが1920年代に制作した「シュプレマティスム・アーキテクトン」という巨大建築物の模型を、1989年にポール・ペダーセンが複製した作品も展示されている。
 これらは、一見しただけでは、とうてい面白い作品とはいえない。とくにロシア・アヴァンギャルドの建築デザイン作品をある程度纏めて観ていないと、どこか意義深いのか理解しづらいと思われる。(本ブログ「ロシアの夢」展の項を参照されたい。)
また、ロシア・アヴァンギャルドを代表するもうひとりの雄、ヴァシーリー・カンディンスキーの作品も展示されているが、ここにある作品たちは具象的な風景画であり、カンディンスキーのアヴァンギャルドたる面目を見て取ることができる筋合いのものではない。
 この美術展で展示されている僅かな前衛的作品をだけを観て、革命前後のロシア・アヴァンギャルドへのイメージを抱き、それとシャガールの相違・対立の理由を想像するのでは、なんとも貧相な話になりそうである。
 シャガールとロシア・アヴァンギャルドの“出会い”・・・それを表現することが、この企画展が「野心的」を自称する根拠である。たしかに、“出会い”については比較的よく提示されているのだろうが、では、シャガールがロシア・アヴァンギャルドの担い手たちと“別れ”たようにみえることへの言及(そしてその事情の追究)は、至極不十分なものに止まっているという印象を受ける。
 ・・・おっと、こんなことを美術展(を企画するキュレーター)に求めるのは無理な注文だろうか。


 第4章 シャガール独自の世界へ
 この章では、シャガールの代表的な作品、その大作をいくつか観ることができる。
 もっとも、ここに展示されているのは、1930年代後半以降、とくに40年代以降、パリからアメリカへ亡命した後の作品であり、ちょうど1920年から30年代半ばくらいまで10〜15年ほどの間の作品が含まれていない。

 じぶんの印象に残った作品は、「赤い馬」(1938‐1944)、「虹」(1967)、「イカルスの墜落」(1974/1977)などである。
 記憶によれば、「赤い馬」の赤は、あの「ロシアとロバとその他のものに」(1911)の牛の赤とは違っていたように思う。
 「虹」は、その地がやや朱色味を帯びた赤で塗りこめられ、そこに白い帯のような虹が描かれている。この赤の地が観るものの神経を逆なでするので、シャガール作品としては珍しく“喉にひっかかる”という印象を受けた。80歳の作品であるが、枯れているという感じがまったくしない。この作品が制作された時代の影響であろうか、メルヘンチックなシャガールではない。名画でないところもいい。
 晩年の代表作と言われる「イカルスの墜落」は、これまでも印刷物などで視た憶えがあったが、やはり実物から受ける印象は全く異なっていた。
 画面の地は全体として白い印象で、しかもそこに描かれた人々は、想像していたより淡い色づかいで構成され、全体として“光”を表現しようとしているようにみえる。その筆致の迫力の低度は、いわば作者の老いが染み出してきたもののようにも思え、またシャガールの絵画の構図としては異例で、まともすぎる(遠近法の倒置も目立たないし、墜落しつつあるイカルスを除いて、宙空に浮かんでいる動物や人物は存在しない)のではあるが、そのどこかしら枯れた筆致(あるいは、断念した筆致)には、どことなく惹き付けられる。
 
 第5章 歌劇「魔笛」の舞台美術
 1964年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場は、その杮落とし上演の歌劇「魔笛」の舞台美術と衣装のデザインをシャガールに発注する。その注文に応えて制作されたデザイン画が、この章の展示物である。
 夜の女王、タミーノ、パミーナ、パパゲーノなどの登場人物の衣装デザインは、如何にもシャガール的で目を引くが、やや距離をとって眺めると、今なら美大生や服飾デザイン専門学校の生徒でも描きそうな感じがしてしまう。
 このなかで比較的面白かったのは、「動物たちのバレエ」と題された、まさに“シャガール風「鳥獣戯画」”という感じで描かれた動物たちのキャラの絵だった。
 ところで、この章には、実際に制作された舞台美術と衣装を用いて上演されたときの舞台写真も展示されている。公演は1966年ころだったようだが、この舞台写真は残念ながら白黒だった・・・カラー写真を見て、デザイン画と比較検証してみたいものだと思った。

 この美術展に展示されている1910年代から〜1960年代までの作品からは、想像していた以上にシャガールのダイナミックな力動性が感じられた。観る価値のある企画だと思う。                      (了)                                                                                                                                                                                  



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 10:17Comments(0)美術展

2010年07月01日

金沢21世紀美術館「ヤン・ファーブル×舟越桂」展



 JR東日本の「大人の休日倶楽部」の期間限定割引切符を利用して、金沢市の金沢21世紀美術館を訪れた。
 金沢市を訪れるのは3乃至4度目だったが、21世紀美術館は初めてだった。
 わざわざこの展覧会を観るために金沢に行ったというわけではないが、金沢訪問の最大の理由は、この美術館を訪れることにあった。もちろん、ほんとうのところは山形〜金沢の往復で12,000円という割引切符を利用できることが最大の理由なのだが。
 山形新幹線で山形から大宮、上越新幹線で越後湯沢、そして特急「はくたか」で金沢まで、7時間近い列車の旅・・・時間的にはそれほど苦にはならなかったが、トンネルが多く、しかもどれもけっこう長大なのにはやや閉口する。もっとも、フォッサマグナを斜めに横切るのだから、これも致し方ないことではあるが・・・。
 また、行く先々で、周りを見回すと、“「大人の休日倶楽部」の期間限定割引切符を利用して金沢まで来ました!”と札をぶら下げているかのようなオジサン、オバサン、ジジ、ババばかりなのがなんとも複雑だが、じぶんもそのうちのひとりなのだし、金沢は観光都市・・・これでメシを喰っているのだから、しょうがない・・・と諦めた。
 ところで、JR東日本のこの割引切符の期間だが、昨年までは年に4回ほど設けられていたが、今年は年2回に減らされてしまった。その2回も梅雨の時期と冬の厳寒期・・・。
 JR東日本にどんな損得勘定があるか知らないが、利用者としては、ぜひとも回数を復元してもらいたいものである。

 閑話休題。
 「ヤン・ファーブル×舟越桂 −新たなる精神の形―」展(Jan Fable×Katsura Funakoshi― Alternative Humanities  2010年4月29日〜8月31日)について、簡単な感想を記す。

 この展覧会についてなにかを記そうとすると、まずこの展覧会が開催されたハコ、つまり金沢21世紀美術館の構造とその使用法について触れずにはいられない。
 この美術館は、円形の建築面積をもった一つの建物なのだが、その円形のなかに、コンクリート壁で囲まれたボックス型の展示室(ただし、うち一つだけは円形)や全面ガラスの光庭が配置され、それぞれが独立した建物のように構成されている。
 各展示室を結ぶ通路は大きなガラス扉で遮られ、無料で立ち入ることができるスペースから区切られている。展示室には番号が振られているが、いわゆる「順路」というようなものはない。
 この展覧会の場合は、展示室の1、2、3、7、10、11(及び通路の3箇所)に舟越桂作品が展示され、4、5、6、8、9、12(及び通路の4箇所)にヤン・ファーブル作品が展示され、唯一の円形である14展示室には、両者の作品及び西洋と東洋の「歴史的名画」が配置されている。(さらに、このなかに美術館の建築と一体となった常設作品の展示も存在する。)
 また、この展覧会には、他でよく見かける章立てや章ごとの解説などは存在しない。したがって、鑑賞者は、どちらかといえば行き当たりばったりとでもいうような塩梅で、二者の作品の展示室を“順不同”に観て歩くことになる。いいかえれば、個々の展示室に入って初めて、自分が誰の作品を観にきているのかに気づかされるのである。
 また、西洋の14〜17世紀の「歴史的名画」や、東洋の「歴史的名画」として展示されている河鍋暁斎らの作品には解説があるが、肝心のヤン・ファーブルと舟越桂の作品には、解説が一切ない。(なお、解説文は展示物の傍にプレートで表示されているのではなく、展示室の入り口の箱のなかにビニールコーティングされたカードとして置かれている。鑑賞者がそれを手にとって持ち歩き、その部屋を出るときに出口の箱に返すというもので、手元でよく読むことができる点では都合がいいが、客が一度につめかければすぐに底をつくわけで、この点では不都合だろう。)

 さて、まず、ヤン・ファーブルと舟越桂のそれぞれの作品について、簡単な感想を記す。

 ヤン・ファーブルは1958年ベルギーのアントワープ生まれ。同地在住。この展覧会の資料から引用すると「美術、演劇、オペラ、パフォーマンスなど、ジャンルを横断する活動で知られている。昆虫やクモの観察から構築されたドローイング作品や動物の死骸や剥製を取り入れた彫刻作品、また、地や塩などをもちいたパフォーマンスなど、生と死についての探求が一貫してファーブルの制作テーマとなっている」とのこと。
 作品の展示を観て、感じたことは、とりあえず二つ。
 一つめは、この作家のマメさ、多才さ、多芸さ・・・ということ。様々な手法の作品が提示さえているが、それに別々の作者名が付けられていたとしても、まったく異和を感じない。この作者は、要するに“あれも、これも”なのだ。
とくに膨大な数の昆虫の死骸を丁寧に貼り付けて形成した作品群には恐れ入った。(もし、その作業を自分ひとりで行ったのなら、という条件付きでだが。)
 とくに、「墓(剣、髑髏、十字架)」と題された作品(展示室12)は、展示室の側面全面に、十字架と髑髏が配されているのだが、その「十字架」は、木製の十字架を剣の柄に見立てて、剣の刃の部分が無数の甲虫の死骸で構成されている。また、髑髏は表面がすべて甲虫の死骸で覆われており、その口には兎のような小動物の剥製?を咥えている。(一部の甲虫の死骸は、鮮やかな緑色系を基調とした玉虫色の光を放ち、遠目からみるととても美しい。)
 そして展示室の奥の側面の中心には、これら血なまぐさい表象に囲まれて、アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck 1599-1641)の「アマリア・フォン・ソルムス=ブラウンフェルズの肖像」(1629)というふっくらした貴婦人の肖像が掲げられている。
 このような「歴史的名画」と血なまぐさい表象の組み合わせという手法は、展示室9の梟の首の剥製と17世紀のヤン・デネンス(Jan Denence)の絵画「ヴァニタス」(「トロンプルイユ」という目騙しの手法を使って、静物を構成した絵画)などを配した作品でも採用されている。
(この作品を観たとき、じぶんは“おいおい、梟はいまや希少種だろう?・・・多数の固体を殺して、こんなことに使用していいのか!?”などと、つまらぬこと?を考えてしまった。)
 しかし、生と死のイメージを、無数の昆虫の集合体に託すという発想は、じぶんたちには映画の世界(「インディ・ジョーンズ」やら「ハムナプトラ」やら)で身近なものとなっているせいか、それほどインパクトを受けるような代物ではない。
 中世の貴人・貴婦人やら聖像画やらの引用(構成的使用)についても、いかにもキリスト教的権威とそれへの告発をおどろおどろしく演出しているように見えて、こちら異文化の人間としては、まぁ、勝手にやってくれ、という印象である。(アンチ巨人が所詮は結果的に巨人ファンであってしまうように、キリスト教へのこの手の告発は所詮キリスト教の尊大さを支える機能をもつ。)
ヤン・ファーブルの作品展示で、いちばん面白そうだったのは、実は通路に掲げられた液晶モニターで上映されているパフォーマンス作品「問題」(The problem , 2001)だった。
 この作品は、草原のような荒野のような場所で、黒マントに蝶ネクタイの中年から初老の男3人(うち一人はヤン・ファーブル)が登場し、大きな球(ちょうど運動会の球ころがしに使うような形で、大きさはそれを転がす人の顔が球の上にでるくらいのもの)を転がしながら、人生の意味?について語るというもの。(この球が土色をしているので、ジャン・アンリ・ファーブルの昆虫記に出てくるフンコロガシを想像してしまう。)
 ドイツ語の原語に英語の字幕が表示されるが、英語の苦手な自分には、単文それぞれの意味は追えても、セリフ全体が作品として何を意味しようとしているのか、一度見ただけで全体を理解するということができなかった。生と死、夢と現実・・・そんな風な、たぶん大したことは言っていなかったと思うが・・・(苦笑)
 それでいて何が面白いかというと、登場人物たちが、その修景とともにかなりサマになっていることと、張りぼてのような球を転がし、ドンドンと叩く効果音が非常に気になってくる点だ。これは心に響く音だと言ってもいい。
 ヤン・ファーブルとエドワード・オズボーン・ウイルソンという人物が対話する「脳は身体の中で最もセクシーな部分か?」(2004)や、ヤン・ファーブルが中世の騎士の鎧を身につけてチャンバラ一人芝居を演じる「ランスロット」(2004)などの映像も(ヤン・ファーブルの自意識過剰度合いを等閑に伏すならば、)面白かった。

 ヤン・ファーブルは、彫刻やオブジェ作品にも、頻繁に自分を登場させている。
 この展覧会のパンフに使用されている写真は、彼の「私自身が空(から)になる(ドワーフ)」という作品(2007)のものだが、ここで「ブルゴーニュ公、フィリップ善良公(1396-1467)の肖像」という絵画に顔をくっつけているのはファーブル自身を模した人形である。この人形の足元の床は、流れ出た血のようなもので濡れている。
 金属による彫刻作品では、金属製のバスタブを7つ並列させ、うちひとつに男が着衣のままうなだれて浸かっている「水に書く男」(2006)、空に向かって物差しを差し出している男を描いた「雲を測る男」(1999、金沢21世紀美術館常設展示作品)などのモデルも、一見してファーブル自身だと思える。この“目立ちたがり”の度合いが著しいなぁというのが、感じたことの二つ目である。
 これらの他にも、展示室6の青いボールペンで書かれた大きなドローイング作品(1986、1987)などは、ヤン・ファーブルの多才さ、マメさを表現しているが、その印象は、全体としては、要するに「多才で多面的な現代アート作家」というようなもので、芸達者ではあるが、じゃあ、あんたは何が表現したいの!?と問い詰められたときに、いまひとつという感がある。




 次に、舟越桂の作品展示について。

 舟越桂は1951年盛岡市生まれ。東京在住。これも展覧会の資料から引用すると、「一貫してクスノキによる彫刻表現を手がける。生み出されるかたちには、滑らかさや繊細さと、作品全体に残る鑿(のみ)痕の力強さとも調和があり、独特の存在感が漂う。詩的で気高さに満ちた作品は。『具象』や『観念』といった概念を超越する世界像を示す。」

 さて、舟越の作品は、マスコミで紹介されることが多く、また何冊かの書籍の装丁に使用されてもいるので、書店の書棚やテレビ番組で多くの人々が見たことがあるだろう。
 じぶんもその一人で、舟越桂の作品はこういうものだという一定の先入観はあった。(たぶん、以前に、どこかの美術館で、舟越作品を直接観たこともあったと思う。)

 しかし、この展覧会で多くの舟越作品に触れて、これまでのじぶんの舟越作品に対する印象は揺さぶられ、少しく改変されるのを感じた。
 この美術館の図書室で、舟越作品の写真をまとめた書籍を見ることもできたが、たしかに、これまでの舟越の作品集で見るその作品(の写真)は、稠密で繊細で気高い哀しみとでもいうべきものを湛えた「具象」であった。
 しかし、この展覧会に出品されたクスノキの彫刻作品を観ていくと、2000年以降、とくに2005年以降の作品に少なからぬ変化が生じていることが看て取れた。
 作品が「具象」から少しずつ逸脱していく道行きは、まず、彫刻された頭部に杭のようなものが残されている作品の登場から始まる。この杭みたいな部分は、初めは胸像のモデルの青年の髪型であるかのようにして出現するが、やがて彫刻作業をそこだけ仕残したかのような、接合部の切れ端というか切りしろみたいなものとして現れてくる。それは、ちょうどその形象=作品が、プラモデルの部品のように母体と繋がっていた接合部を切り離され、単体としてこの世界に放り出されてしまった存在であることの、その痕跡ででもあるかのような印象を与えてくる。
 そして、その切りしろの表現は、やがて肩から(腕を省略した)掌が突き出ていたり、躯体からなにか突起が出ていたりする構成へと繋がっていく。
 その先に現れるのは、「戦争をみるスフィンクス?」(2005)、「遠い手のスフィンクス」(2006)、「森に浮くスフィンクス」(2006)などの作品である。
 「戦争をみるスフィンクス?」は、視たくないものを視たときのように表情が大きく歪んだ作品だが、他にこのように表情が歪んだ作品は(この展覧会の出品作品にも、発行済みの作品集にも)見当たらないので、舟越の作としてはきわめて突出した印象を受ける。
 もっと印象的なのは「森に浮くスフィンクス」である。この作品では、すでに表情は無表情に戻っているが、胸に大きな乳房、股間に男性器があり、両性具有の存在として描かれている。しかも、腰のところから蔓のようなものが出ていて、それによって躯体が支えられ、宙に浮いているように描かれている。
 色使いもそれまでの作品とは一線を画している。青緑や頬紅色などを使い、地の木肌に化粧のような彩色を施している。
 肖像のような具象的な彫刻に塗り込められていた静謐さと力強さとの静かな均衡が失われ、不安と動揺が噴出してきたことが、形象と彩色の試行に現れている。ああ、舟越桂という作家もまた、このように激しい揺れと模索を内部に抱えていたのか・・・と思い知る。
 この変化(というか混乱)を、なんとか落ち着けて定着しようとしたのが、このパンフの写真の作品「森の奥の水のほとり」(2009)だという気がしてくる。
 この作品は、それまで作者がこだわってきた長い首と豊満な乳房とパステル調の彩色という手法の完成形として上手く纏まっているかのように見えるが、観る側にとっては、危うい均衡としてやっと成立しているような感じがする。喩えはあまり適切でないが、自分の投げるべきボールを見失い、コントロールを乱したピッチャーが、ストライクを稼ぐためにとにかくボールを“置きにいった”ような作品だというのがじぶんの印象である。もちろん、それはそれで魅力的ではあるのだ。


 さて、この展覧会の狙いは、美術館の中心部に位置し、唯一円形(正確に言えば円筒形)をした展示室14における展示に代表的に表現されている。
 この部屋には、ヤン・ファーブルの作品と舟越桂の作品に加え、フランドル派の「悲しみの聖母」(15世紀)、作者不詳の「エッケ・ホモ」(16世紀)、ヤン・マセイス「聖家族」(1563)、ヤン・プロフォースト「アレクサンドリアの聖カタリナの殉教」(16世紀)、ヤン・ホッサールト「冷たい石の上のキリスト」(16世紀)など西洋の宗教画と、河鍋暁斎(1831-1889)、狩野芳崖(1828-1888)、川島甚兵衛(二代目)(1853-1919)、東翠石の、観音像や天女など明治期の日本の宗教画の掛け軸が展示されている。
 「エッケ・ホモ」は、ローマ総督ピラトがキリストを嘲弄するために発した「この人を見よ」という言葉。この作品は、捉えられ紐で拘束されたキリストの上半身を、オカマチックに描いている。
 また、河鍋、狩野、川島、東らの作品は、期間によって入れ替え展示になっている。じぶんが観たのは、河鍋暁斎の「九相図」、「釈迦如来像」、「慈母観音像」など。「九相図」は、人が死に、その死骸が腐り、朽ち果てていく過程を九つの相にして描いたもの。なお、河鍋の「釈迦如来像」はボサボサの髪と頬から顎のラインに鬚を生やした劇画調の釈迦如来像で、西洋人受けを狙って描いたような絵である。

 この展覧会のパンフには「一貫して楠の木彫に取り組む舟越桂によって生み出される異形の人間像は、現代を生きる人間の内面を雄弁に語り、日本文化の一大変革期である幕末明治の観音像にみられる日本人の複雑な心情や死生観との共鳴を示します。」とある。
 ということは、この展覧会の企画者(キュレーター)が、そのように考え、その考えをこの展示手法として(展示室14においてばかりではなく、本展全体として)表現しようとしているということだ。
 とすれば、企画者として、もう少し説明乃至は解説をすべきではないのか。・・・ここでいう「説明」や「解説」とは、企画者としての、ことばによる構想の表現ということだ。
 このブログで美術展を取り上げるとき、何度か“表現としての展示”(キュレーターという表現者による作品)という見方をしてきた。
 その見方からすれば、この「表現」は、ヤン・ファーブル自身による中世の貴人・貴婦人やら聖像画やらの引用(構成的使用)としてのディスプレイを除き、必ずしも成功していない。
 とくに展示室14の構成はちょっとお粗末と言うべきだろう。
 企画者は、なぜ舟越桂の作品が「明治期の観音像にみられる日本人の複雑な心情や死生観との共鳴を示す」のか、その根拠を一切明示していない。
 そもそも舟越の作品は、現代を生きる人間の内面を「雄弁に語って」いるなどという類の作品なのか。あるいは、「幕末明治の観音像にみられる日本人の複雑な心情や死生観」とは、どのように複雑で、他の時代のそれらとどのように異なるのか。なぜ、それを舟越作品と比較して観なければならないのか・・・すべては雰囲気的に醸し出されるだけだ。ここには“言いっぱなし”のご託宣があるだけで、論拠が存在しない。このような展示では、企画者の<表現>が成立していると看做すわけにはいかない。舟越桂も、よくこんないい加減な展示企画に同意したものだ。

 この美術館は、いまや世界に名を上げている妹島和世と西沢立衛によって設計された。
 様々な出会いや体験が可能となるよう、「多方向性=開かれた円形デザイン」、「水平性=街のような広がりを生み出す各施設の並置」、「透明性=ガラス壁の多用」というコンセプトが特色だという。
 この展覧会「ヤン・ファーブル×舟越桂−新たなる精神の形―」は、この空間を上手く活用して、<ヤン・ファーブル>と<西洋の14〜17世紀の「歴史的名画」>、<ヤン・ファーブル>と<舟越桂>、<舟越桂>と<幕末明治の観音像>、そして<ヤン・ファーブル>と<西洋の14〜17世紀の「歴史的名画」>と<舟越桂>と<幕末明治の観音像>の相互作用を演出しようとしている。
 鑑賞者の「順路」を設けず、展示の章立てもなく、個々の展示室の展示内容に関する解説をも設けず、建物の構造(相互に独立した展示室の配置)を活かし、出会いと発見、そして異質なものの相互作用を予期せずに体験することができる展示を目指した点は、評価されるべきなのであろう。
 しかし、このような方法を選択した“根拠”の明示の欠落は、全体として、展示構想の大雑把さや唯我独尊的な態度、つまり企画者側のある種の甘えを露呈させるという結果を帰結しているように思える。これでは、このハイカラなハコが、その精神として活かされているとはいえないだろう。                               
                                                                 (了)
   

<蛇足>
 有料区域と無料区域が、廊下の断面すべてを区切る大きなガラス壁で区画されている。
 順路が示されていないこともあり、展示室を順不同に回ったり、一度観た展示室に再度出入りしたりしていると、方向がわかりにくくなり、迷路のネズミ状態になる。配置図を何度も見て、すべての展示室・展示箇所を回ったかのチェックも必要になる。
 さらに、中心部の有料区域から外延部の無料区域の特定の部屋や展示室に行こうとすると、直近の廊下から出られるというわけではなく、限られた出入り口(2箇所)まで行き、そこから大きく迂回しなければならない。
 出会いと交流を目指した施設、しかも街のように内外の人の影や気配を身近に感じられるようにと設計された施設なのに、有料区域はあちらもこちらもガラス扉で閉鎖されている・・・ガラスによる閉鎖は、見えるのに行けないということで、場合によっては壁による区画以上に不自由感やイライラ感をもたらす。
 ガラス扉で区切るのではなく、看板や人の配置などによる方法は採用できなかったのか・・・などと、建物の使用法に対する疑問も残る。まぁ、たしかにこれは、ソフトに知恵を絞らなければならない難しい施設ではある。

                                                                                                                     
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:54Comments(0)美術展

2010年06月02日

「ピカソと20世紀美術の巨匠たち」展




 宮城県立美術館で、ドイツのケルン市にあるルートヴィヒ美術館所蔵品展「ピカソと20世紀美術の巨匠たち」(2010年5月22日〜7月11日)を観た。

 この展覧会は、2つの章に分けられている。

1 「第?章 ピカソとヨーロッパ現代」
 この章では、1901年から1972年までのピカソの作品8点に、宮城県立美術館所蔵(佐藤忠良コレクション)のピカソ作品6点を加えた展示を中心として、ジョルジュ・ブラック、モーリス・ド・ヴラマンク、アンリ・マティス、モーリス・ユトリロ、マルク・シャガール、ヴァシリー・カンディンスキー、ジョルジオ・デ・キリコその他の作品が展示されていた。
 じぶんの眼にとまったのは、ピカソの作品では、「草上の昼食(マネをもとに)」(1961)だった。マネの同名の絵画を、その人物の構成配置を一定程度踏襲しつつ、ピカソ風にデフォルメしたもの。ピカソ一流の青と緑の使い方が印象的である。
 すぐ傍に、オリジナルのマネの作品の写真が掲示されていて、見比べると、なんだか卑猥でグロテスクな感じがしてくる。ピカソの絵がではない。不思議なことに、マネの絵が、である。
 
 その他の作者のもので、コメントしておきたいのは以下の作品である。

 まず、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー(1864‐1941)の「青い水差しと人形のある静物」(1911)の色使いやマチエールに惹きつけられた。文字通り、テーブルの上の水差しと人形らしきものが描かれているのだが、強く押し出された赤と青の対比が、その迫力ある筆使いもあって、不思議なインパクトで迫ってくる。

 アルチュール・セガル(1875‐1944)の「港」(1921)も、穏やかな港にヨットが停泊しているところを俯瞰する風景画でありながら、そのキュビズム的な構成と非有機的な色使いが面白い。

 エドガー・エンデ(1901‐1965)は、ミヒャエル・エンデの父。その作品「小舟」(1933)は、苦悩の表情を浮かべた禿頭の男たちが小舟にぎっしりと詰め込まれ、空中の球にロープを掛けて引こうとしている絵だ。空中の球を手繰り寄せようとしているのか、自分たちの舟を空中の球の方向に近づけようとしてしているかは定かではない。

 パウル・クレー(1879‐1940)の「陶酔状態の道化」(1929)には、クレーの編み出した幾何学図形を組み合わせるような描画の手法が、とても効果的に活きている。動きがあると言ってもいい。その色合いからみても作品としての完成度の高さを感じる。
この絵に感動してしまうのは何故か・・・じぶんの内面を振り返ってみるが、なかなか言葉にならない。(ただ、宮城県立美術館所蔵作品の常設展にあるものを含め、他のクレー作品には感動しない。なぜこの「道化」に感動し、他の作品に感動しないのかわからない。)

 マックス・エルンスト(1891‐1976)の「月にむかってバッタが歌う」(1953)は、迫力あるバッタの大群を描いているのだが、作品の題名に「バッタ」という言葉がなければ、それがバッタだとすぐには思い至らない。なにか蠢く“レギオン”(平成ガメラかっ!)という感じで、しかし、むしろ非形象的な生命力が迫ってくるという印象を受ける。

 また、エミール・ノルデ(1867‐1956)の幻想的な風景画、つまり暗闇の湿原を流れる川と空の光を描いた「月夜」(1903)、ナチスに「退廃芸術」の烙印を押されてアメリカで最後を遂げたマックス・ベックマン(1884‐1950)の「イロンカ(ジプシーの女?)」(1917)に描かれた女の存在感、そして、絵のモデルから画家になった、ユトリロの母でもあるシュザンヌ・ヴァラドン(1865‐1938)の「女の肖像」(1929)なども印象的だった。





「第?章 戦後の傾向」
 この章は、「抽象主義の傾向」「具象絵画の状況」「ポップ・アート」の3つの区画に分かれていた。
 「抽象主義の傾向」では、1950年代・60年代のアンフォルメルの絵画がいくつか展示されていた。以前、東京都現代美術館の収蔵品展やその他のいくつかの美術館や美術展で、日本の抽象画作品を観ていて、この手の抽象絵画は日本でもすでに1950年代には一般的になっていたのか・・・と思ったことを思い出した。このような抽象画の動きは、戦後、西洋と日本で呼応するように奔出したのだろうか。
 ただし、この展覧会で観られる抽象画は、みんなあちこちでよく眼にするような感じで、退屈だった。(同じ作家の作品を観たこともあった。)
 こうしてみると、キャンバスに油彩で抽象画を描くということは、いまや結構困難な仕業になっているのではないかと思えてくる。オリジナルだと思っていても、どこかで誰かが似たような作品を描いているのではないかという不安がつきまとう。

 ついでに言うと、「ポップ・アート」のコーナーの作品もつまらなかった。ここには、有名なアンディ・ウォーホールのジャクリーヌ・ケネディの写真を基にした作品が3つ展示されていたが、そもそもじぶんは、アンディ・ウォーホールのどこが面白いのかが理解できない。彼の作品を重視する輩は、複製ポップ・アートの登場という歴史的なエポック・メイキングの意味を、個別作品自体の意味として錯合しているのではないのか・・・などと思ってしまう。
 このエポックを経た後に自我形成をした世代(じぶんもそうだと思うが)にとっては、これは自明で、退屈で、かつは抑圧的な既存の枠組みであり、唾棄すべきものなのだ。
 アンディ・ウォーホール作品の価値は、芸術的価値というより社会史的価値、あるいは精神史的価値(われわれの精神が表層化された時代を表象するという意味で)として存在する。その作品は、美術館より博物館に展示されるのがふさわしいかもしれない。

 どちらかといえば、じぶんは抽象画が好きな方だと思うが、全体としてこの展覧会の抽象主義の作品には惹かれなかった。むしろ、「具象絵画の状況」というコーナーの中の作品に、注目すべきものがあった。
 ピーター・トーマス・ブレイク(1932‐)の「ABCマイナーズ」(1955)は、エンブレムの付いたジャケットに半ズボン姿というイギリスっぽい姿の思春期の男の子がふたり並んで立っている絵である。この男の子たちの顔は、緑の入った灰色調で描かれていて、その表情からも、内面の、一筋縄ではいかない歪(いびつ)さを伝えてくる。

 ホルスト・アンテス(1936‐)「三番目の風景画」(1968)は、刺激的な構図。
 ピカソのパクリ(カリカチュアか?)みたいな形象の女が浜辺に四つん這いになっていて、その尻のところには階段状の踏み台が置かれている。その女の尻の方向にむかって、画面右手から腕が伸びており、その手は、親指を人差し指と中指の間から突き出している。(○uck!という意味か?)

 このほか、ネオ・エクスプレッショニズム(新表現主義)といわれるゲオルク・バゼリッツ(1938‐)の「鞭を持った女」(1965)なども印象に残った。


 【常設展】
  「ピカソと20世紀美術の巨匠たち」と同時開催の常設展「日本と海外の近現代美術コレクションから」も、駆け足で覗いた。
  日本人では、萬鉄五郎(1885‐1927)の「自画像」(1915)、松田正平(1913‐2004)の「少女」(1983)、吉原治良(1905‐1972)の「風景」(1935頃)が印象的だった。
  外国人では、ヴァシリー・カンディンスキー(1866‐1944)の「E.R.キャンベルのための壁画No.4」の習作、ハインリヒ・カンペンドンク(1889‐1957)の「郊外の農民」(1918頃)に惹かれた。

  宮城県立美術館の収蔵品については、あらためてじっくり観てみたいと思った。
  企画展のように、作者ごとに解説プレートを設置してくれると、鑑賞する側はありがたい。詳しく知りたければ、カタログを購入しろということだろうが、その現物が展示されている場で知りたいと思ってしまう。それに、会場を離れてからカタログを読んでも、何故か(おそらくは印刷写真になった作品に魅力がないからか)、その内容はずいぶんとつまらないのである。・・・・あっは。
                                                                                                                                                                             



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:21Comments(0)美術展

2010年05月08日

「ロシアの夢 1917−1937」展及び関連イベント



山形美術館で「ロシアの夢 1917−1937」展(DREAM OF RUSSIA Russian Avant-Garde 1917-1937)を観た。また、この美術展の関連イベントとして、山形美術館と東北芸術工科大学が共催した「アヴァンギャルドって何?」という企画で、三つの講演を聴講した。それらの概要をメモし、感想を記す。






1 「ロシアの夢 1917−1937」展(2010年4月3日〜5月9日)

 この企画展は、ロシア革命が起こった1917年から、スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れた1937年までの20年間に焦点をあて、革命の時代を走り抜け、やがて革命の変質のなかで破滅・消滅していくロシア・アヴァンギャルドたちの作品を紹介したものである。
 革命とそれに続く内戦の時代のプロパガンダを目的としたポスター、1920年代の新経済政策の下での映画作品や商品広告のポスター、冊子や絵本、演劇の舞台や衣装、モダンなデザインの家具や食器(陶器)や建築設計などが展示されている。

 ロシア・アヴァンギャルドについては、以前、このブログで触れたことがあった。(2008年7月10日付け記事、東京・渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「青春のロシア・アヴァンギャルド〜シャガールからマレーヴィチまで〜」についての感想http://ch05748.kitaguni.tv/e581526.html
 「青春のロシア・アヴァンギャルド」展に比べると、「ロシアの夢 1917−1937」展の展示は、ずいぶんと地味な印象を受ける。それは、前者がロシア10月革命以前の、より多彩な源と芸術性を持つアヴァンギャルドの流れ(つまりは“青春”)を紹介していたのに比べ、後者は1917年以後にソビエト・ロシアで活躍した作家たちの作品、つまりプロパガンダや商品広告を中心的な目的とした実用的な作品(主流は絵画ではなく、2〜3色刷のポスターや雑誌などの複製作品)をメインにした展示であることから来ている。
 しかしながら、後者の展示は、地味であるがゆえに、むしろ観る側の者の方に、展示された作品の向こう側、つまり作者たちの抱いた“夢”を視透すための想像力を求めてくる。

 とくに、もともとコミュニストではなかったものの、革命の衝撃に打たれて“これはぼくの革命だ”と叫び、芸術運動やプロパガンダを通じて新しい世界を獲得しようとした詩人のマヤコフスキーの、意外にも実用的な宣伝コピー作品や、「立体未来派」を掲げつつ、やがて絵画の創作意欲を何らかの具象物に仮託することを突き抜けようとする地点(「無対象絵画」)まで行くことになるマレーヴィチなどの作品が印象的だった。




2 八束はじめ講演「ロシア・アヴァンギャルド建築 希望の空間」:感想

 この展覧会の関連企画として開催された八束はじめ氏(建築家、建築理論家、芝浦工業大学教授)の講演会(4月22日、東北芸術工科大学)を聴講した。
  この講演当日、八束氏が述べた演題は、事前にチラシに記載されていたものとは若干異なり、「希望の空間―ロシア・アヴァンギャルドをめぐるいくつかの断章―」というものだった。
 八束氏は、山形市の生まれだという。父親が市立済生館病院の眼科医だったということで、5歳くらいまで山形にいたとのこと。ちなみに、その父親が勤めていた病院の建物は、現在、霞城公園に山形市郷土館として移築されている擬洋風建築であるが、同氏によれば、この建築をはじめ、北海道・東北の擬洋風建築は、ロシア・アヴァンギャルドの影響を受けているとのことである。
 


 さて、“Aspiration and Melancholy”と副題を付された八束氏の講演は、まさに5つの「断章」から成っていた。
 彼は、この講演で、これまで彼の著書で取り上げてきたロシア・アヴァンギャルド建築における「希望の空間」がどのような作品に反映されているかを語るのではなく、彼自身がこれまで著書に記さなかった想いを、いくつかの断章として述べてみたいとして、次のような概要を語った。スライド上映のため講義室内が真っ暗にされたので、携帯電話の照明がたよりのたどたどしいメモになった。以下の内容の正確さには自信がないが、とりあえずメモをもとに概要を記載してみる。

 1つめの断章は、ソ連重工業省やレーニン研究所図書館などの作品で有名な建築家Ivan Leonidov について、彼を「ロシア・アヴァンギャルド中の最大の天才」としつつ、“希望”というものが「建築家の職能に(あらかじめ)書き込まれている」という観点を示すものであった。
 そのロシア・アヴァンギャルドの希望は、しかし、二重に敗北している。それはソ連が崩壊したことと、遥かそれ以前に、「社会主義リアリズム」を主導するスターリン体制によって抑圧されていったことによって。
 マヤコフスキーとロトチェンコは、生活を変えることで社会全体を変えようとして、CMデザインに取り組んだ。しかし、1920年代以降、アヴァンギャルドは周辺的なものになり、1930年、マヤコフスキーは自殺する。レオニドフは、1937年に「左翼小児病」と攻撃され、酒に溺れ、酒を買いに出たところを車に撥ねられて死ぬ。

 2つめの断章は、“Cult”と題されていた。
 ロシア・アヴァンギャルドは、新しい政治体制のカルトであったということができる。そして、それは、タトリンの「第三インターナショナル記念塔」のデザインに典型的なように、幾何学のカルトでもあった。
 フランス革命後と、ロシア革命後、いわば巨大な革命のエネルギーのなかで、“球”の建築デザインが現れた。これは旧体制からの離陸と希望への飛行を目指していた。革命のピークに“球”が現れ、それがやがて伝統的な様式に回帰していくという同様の傾向が、ふたつの革命の経過のなかに現れている。

 3つめの断章は、“Icon”と題されていた。
 このカルトの背景には、イコン(聖像画)を視ることができる。プリミティズムにイコンの原型が現れてくる。これはマレーヴィチまで繋がっている。(タルコフスキーが映画「サクリファイス」で作品化した画家のアンドイ・リブリョフや、同じく画家のゴンチャロヴァについても言及。)
 ロシア・アヴァンギャルドは、共産主義の理念へのカルトであったが、同時にモダニズムの時代の機能主義という側面で、ヨーロッパの動きと相即している。ヨーロッパではキュービックだったものが、ロシアでは球や円柱になっている。要素主義(エレメンタリズム)がロシアでは構成主義(コンストラクティビズム)となって現れる。その典型はレオニドフである。
(メモから内容を復元しようとしたが、話が通るように再構成できない。八束氏が言いたかったことは、ロシア・アヴァンギャルドの構成主義のモチーフに、イコンの原型が見て取れるということか。)

 4つめの断章は、“Melancholy”。
 ここで、八束氏は、「ルサコフ労働者クラブ」「自邸」などの設計で、レオニドフと並んで評価されるKonstantin Melnikov(1890〜1974)について、自ら何度か訪れ、地元の大学関係者の計らいでやっと中に入ることができたというモスクワの彼の自邸(1927年設計)の写真を示しながら、そこに住むメルニコフの息子の話を紹介する。息子は、自分の父親がアヴァンギャルドだったということを頑なに否定するのだという。
 また、Moise Gisburgの作品である「Narcomfinアパート」(ソ連大蔵省職員アパート)の現状を映し出し、それが荒廃するまま(少数だが、未だに住民がいるにも拘らず)放置されているということを、現状の写真を示しつつ、メランコリックに語る。

 5つめの断章は、“Phantom”。
 ソ連体制が崩壊し、その後の混乱を乗り越えて、ロシア資本主義が隆盛を迎えた2000年代のモスクワに、しかし、建築様式においてはスターリン時代の「亡霊」が復活している。(スターリン時代の建築と最近の建築の写真を比較紹介しながら説明。)
八束氏が関わっているモスクワの大学関係者をはじめとして、ロシアの若い建築家たちは、このようなロシア建築界の現状に落胆し、国外に活躍の場を求めようとしている・・・。

 さて、このようなロシア・アヴァンギャルド建築をめぐる「断章」と相即的に、八束氏は、日本における建築・都市計画のアヴァンギャルドである「メタボリズム」の運動についても触れた。
 この運動は、1960年代、反安保運動のうねりの中から生まれてきたという。八束氏らは、2011年7月から、森美術館でメタボリズムの回顧展を企画しているとのこと。ちなみに、丹下健三の右腕であった浅田孝が関わった1960年の世界デザイン会議関係の資料が、東北芸術工科大学図書館の「浅田文庫」に所蔵されているので、それを閲覧してきたところだとも言っていた。


 さて、ここからは、じぶんの感想。

 八束氏は、団塊の世代だが、日本のメタボリズムについて言及しつつも、ロシア・アヴァンギャルドの「希望の空間」がどのような“希望”だったのか、そしてなにゆえに“希望”たりえたのかについて、ここでは、正面から語ることはなかった。(それは著書に書いてあるから、知りたければそれを読めということなのかもしれない。)
 彼が「断章」として語ったことのうち、印象に残ったのは、もっぱら、この“希望”が、かつて裏切られ、忘れられ、そしてロシアでは現在も顧みられていないということについての、彼自身のメランコリーであった。
 このイベントは、山形美術館と東北芸工大の共催(大学側のコーディネーターは、和田菜穂子准教授)であり、同大の学生が聴講者の多くを占めていた。
 じぶんのもっとも単純な感想は、“ああ、また団塊の世代のメランコリーか・・・”というものだった。
 彼ら団塊の世代の“夢”や“希望”を(そしてそれ以上に“喪失”を)、彼らの世代に強烈な影響を受けて育ってきたじぶんの世代なら、まるで自分たちのことのように思い起こすことができる。そして、八束氏が、これらをカッコで括って後景に隠し、「断章」という形で、韜晦めかして語らねばならない理由もわかるような気がする。
 しかし、この講演の相手は、その多くが20歳前後の学生なのだ。
 年長の人間が、若い者に、自ら(の世代)の喪失感覚やメランコリーや郷愁を語ることについて難癖を付けたいのではない。ただ、それらを語る前に、もっと率直に語るべきことがあるはずだ。先行世代、とりわけ間もなく老境に入っていく団塊の世代は、いまの若い世代に、もっと基本的なことを、ニヒることなく、けれん味なく、しかも自省的に語り掛けなければならないのではないか。
 日ごろじぶんがそれとなく感じているところでは、じぶんたちを含むこれまでの“シラケ世代”とは異なり、相対的に言えば、いまの20代はむしろ真面目で純粋になっていて、たとえそれがこれからの時代の指針になりえないものであったとしても、先行世代がかつて抱いた“夢”や“希望”の中身をしっかり聴いておきたいと、真摯な言葉を求めているような気がする。これはじぶんの期待的バイアスによる錯覚であろうか・・・。


3 中村唯史講演「歴史の中のロシア・アヴァンギャルド−成立までとその時代―」:感想

 次に、この展覧会の関連イベントとして開催された「ミュージアム・スクール」にける中村唯史氏(ロシア文学、表象文化論、山形大学准教授)の講演(4月29日、山形美術館)について触れる。
 中村氏の講演は、「ロシアの夢」とは何であったのかについて、大上段に振りかぶってというのではなく、いつものように、むしろ淡々と紹介していくというものであった。
 じぶんは、中村氏がスライドで次々に紹介してくれたこの時代のロシアの作家たちの作品に、とても興味を引かれた。例によって、メモから概要を記してみると・・・

 演出家として有名なメイエルホリドは、10月革命に際して、すぐにこれを支持する声明を出し、マヤコフスキーも「これはぼくの革命だ」と詩に書いた。彼らはどちらもコミュニストではなかったが、熱烈に革命を支持した。それは、いま起きている革命によって、政治や社会が変わるだけではなく、人間をめぐるすべてが変わると考えたからである。人間自体、人間と自然との関わり、そして何よりも芸術が変わろうとしている、変えていくんだという熱狂の時代だった。
 この「ロシアの夢」展に陳列されている作品に見て取れるように、かれらは、衣服も椅子も街も含め、人間を包む空間を変えていこうとした。
 1870年代から、アヴァンギャルド前史としてロシア美術の流れを見ていく。
 1860年代までは、ロシア美術はヨーロッパの真似であった。中下層民から画家の卵を選んで美術アカデミーに入れ、イタリアに学ばせる。その画家たちの作品の消費者は、貴族たちだった。
 しかし、1863年、美術アカデミーの生徒14人が反乱を起こす。かれらは、卒業課題として課せられていた神話を題材とする絵画製作に反対し、それを契機として自主的に作家グループを作り、やがて「移動派」を形成していく。彼らが「移動派」と呼ばれたのは、巡回展を開催し、貴族以外の者たちに作品を売ってあるいたからである。
 ロシアでは、農奴解放令により資本主義化が進んでいた。貴族が没落し、商人が絵画の購買層になってきた。それと相即的に、1870年代から、ヨーロッパの風景画の真似ではなく、ロシア固有の風土、ロシア的なものを画こうという傾向が現れた。これと同じ時期(1874、5年ころまで)ヴ・ナロード運動が起こっていた。
 ロシア風景画の課題は、ヨーロッパに比べて単調なロシアの大地をどう描くかというところにあった。そこでは構図の工夫が重視された。
 アレクセイ・サヴァラーソフ(1830-1897)の作品に見て取れるように、平原に対する垂直的なもの(白樺の木や教会の塔など)を配置する構図が意図的に採用される。
 また、移動派のなかからは、写実主義を超える表現が出てくる。アルヒープ・クインジ(1841-1897)の描いたのは月や霧、その光であった。この光景の表現については、その色彩の工夫が絵の具の工夫(開発)から試みられた。とくに、イサアク・レヴィタン(1860-1900)が描く月夜や月明りの光の表現、ニコライ・ゲー(1831-1894)の描くキリスト画は、写実主義を超えようとしている。(ここまでは移動派)
 ミハイル・ヴルーベリ(1856-1910)になると、写実主義は捨てられている。この時代は、印刷技術が発達し、作品が絵はがきとして売られるようになった。絵画的なものを実用品に活かしていこうとする動きが出てくる。
 また、移動派は、手法としてはヨーロッパ的であるため、民衆自身の絵ではないという批判が出てくる。こうした中で、民衆の中にいる作家としてピロスマニが注目される。これがプリミティズムにも繋がってくる。
 イヴァン・ビリビン(1876−1942)は、1900年ころから絵本や絵はがきを刊行する。かれの作品は、民衆芸術であることを意識するとともに、浮世絵の手法などジャポニズムにも影響を受けている。
 また、一方で、ロシアのユダヤ人、ヴァシーリー・カンディンスキー(1866-1944)が、ロシアの伝統を受け止めつつ、精神主義的な作品を発表していく。
 これらの動きは、ロシア・アヴァンギャルドの代表的存在と看做されるカジミール・マレーヴィチ(1878-1935)に繋がっていく。マレーヴィチは、1960年代のアメリカ・ポップアート・シーンのなかで注目され、有名になった。
 彼は、すべての画家がそうであったところの知覚に拠って描くことから離れ、人間の感覚そのものを表現しようとして、無対象絵画(真っ黒な絵である「黒い正方形」)に辿りついた。彼は、純粋な創造を表現しようとしてスプレマチズムに至った。
 
 中村氏は、このほかにも、ナタリヤ・ゴンチャローヴァ(1881-1962)やミハイル・ラリオーノフ(1881-1964)その他作家の作品についても、スライドで紹介してくれた。
 
 さて、この話を聴いてぼんやりと考えたのは、やはり、ヨーロッパに比してロシア社会が後進的であったがゆえの、歴史的規定性みたいなものについてである。
 後進的な社会が、先進的な社会を乗り越え、いわば世界史の舞台に躍り出ようとするときの、ふたつの性向、つまり伝統的に継承されてきたかのように思われる精神性への依拠と、既存の近代性を乗り越えるための前衛化・・・。シャガールもマレーヴィチも、この二重の性向を抱えている。シャガールは、相対的に精神主義の度合いが高く、マレーヴィチは相対的に表現意識を先鋭化させる度合いが高かったということか。
 一般的にいえば、芸術的ラジカリズムは、“適度な後進性”のなかに、必然的に胚胎されるということなのだろう。


4 近藤一弥講演「“視線を超えて”―ロシア映画とグラフィック・デザイン−」:感想

 「ミュージアム・スクール」2コマめの講義は、グラフィックデザイナーで東北芸術工科大学教授の近藤一弥氏による、映画とグラフィック・デザインの作品紹介と解説であった。
 近藤氏は、ロシア・アヴァンギャルドのなかで映画が大きな意味を持ったとして、その理由を、大衆的なものであり、複製されて流布されるものについて、アヴァンギャルドたちが新しい表現の可能性をみていたからであると語った。
 講義の中では、エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」とジガベルトフの「カメラを持った男」の一部がDVD上映された。

 エイゼンシュタインが演劇的なモンタージュ手法を用いたのに対して、ジガベルトフは演出・脚本なしにコラージュ的に作品を構成し、ドキュメンタリー風に創っている。
 「カメラを持った男」は1929年製作の作品だが、撮影者を撮影している“メタ映画”という性質をももっている。
 一方、この時期のグラフィック・デザイン作品では、マヤコフスキーがコピーライトを担当し、ロドチェンコがデザインを担当するというコンビの作品が目を惹く。
 また、リシツキーらの作品も、デザインとタイポグラフィの代表的作品として注目される。
 さらに、この時代のポスターや雑誌の表紙などに、屋外の写真を多様に構成した作品が現れたことには、35mmカメラの登場とその普及が大きく影響している。

 じぶんの感想としては、「戦艦ポチョムキン」、なかでもそのハイライトである「オデッサの階段」のシーンを、あらためて、明るく綺麗な画像で観せられると、いろいろとそのアラが視えてきた。たとえば、モンタージュによる繋ぎの仕方が、いわば、間延びしているというか、スピーディに展開していっていないというか、そういう側面が目についた。
 人物をアップで描いているシーンと、群集を引いて撮っているシーンの繋ぎがぎこちなく、それゆえ画像の質感が異なってしまっている(これはアップで映される役者のメイクによるという側面もある)ので、べつべつの映画をつなぎ合わせたように見えるのである。
 また、じぶんとしては、近藤氏の話に、じぶんが疎いグラフィック・デザイン作品への評価の目線というか、批評の観点というか、そういうものの具体的な現れを期待したのだったが、その点では期待はずれだった。(実作者の話というのは、往々にしてこのように、それ自体としてはつまらないものである。作品がすべてを語るということなのかもしれない。)

 ところで、余談だが、「オデッサの階段」のシーンには、両足のない浮浪者然とした男が、両手だけで体を浮かせながら、ぴょんぴょんと階段を逃げ下る姿が何回かアップで挿入されている。この男が他のシーンに出てくるのかどうか記憶がないので、作者がなぜここに足のない男をフューチャーしているのか、妙に気になった。

                                       
                                                      (了)







  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:05Comments(0)美術展

2010年02月20日

東北芸術工科大学卒業作品展


 山形市にある東北芸術工科大学の「卒業/修了 研究・制作展」を観た。 

 2月11日の祝日に、展示会場となっている同大学の裏手の山腹に作られた都市公園「悠創の丘」にある「悠創館」と、その後、同大学の美術学部のアトリエへ。
 賞味1時間ほどで観て歩き、なかなか面白かったので、14日の日曜に出直して、6時間ほどかけて、広いキャンパスのあちこち、すなわち13箇所余りに分散した展示会場を観て歩いた。都合7時間かけても観切れず、環境・建築デザイン専攻と映像専攻の作品群をだいぶ見残した。


 いくつかの、印象に残った作品について、ここに記す。
 最初の写真は、この卒展のチラシに採用されたグラフィックデザイン専攻の学生たちの作品。この展のテーマ、「結 YUI/KETSU/MUSUBI」を形象化したもの。



 
 まず、大学本館7階のギャラリーの工芸作品から。
 鉄による造形の、大場弥生・作「認識から始まるcogitoを通した世界のかたち」(2番目の写真)。この写真では見にくいが、手前の狼(?)に合体している鯨らの体内に、膝を抱きかかえて蹲った姿勢の人間が孕まれている。
 一見して、これが鉄だという印象は受けない。
 Cogitoは人間の専売特許であるはずなのに、この「cogitoを通した世界」の人間は、有機的生体の片隅にこんな姿勢で埋もれている。目に付くのはシャム双生児のような先頭の狼である。何気なく見過ごしてしまえばそれまでなのだが、少し立ち止まって、あらためてこの作者の「認識」を想像してみると、結構異様な世界観ではある。





 陶器の作品、竹内隆宏・作「漸悟」(3番目の写真)は、古代土器みたいな水瓶に龍が巻きついたデザイン。作者の説明を聴いたところ、まだ柔らかいうちに粘土の太巻きを絡ませて、やや乾いてきたら中抜きにする。そして龍の表皮の鱗や髭やらを貼り付けていくのだという。龍の表面の加工に、精密な手作業を投入しているようにみえる。龍の巻きつき方が異なった作品が3個ほど並んでいた。根気のいる作業だろう。
 この作品に感心したというよりも、こういう古風な(?)装飾の陶芸作品に情熱を傾けている大学生がいるということに、そして、たぶん、こういう手法を職人的に磨いて、メシのタネにしていこうと考えているかもしれない学生がいることに、(考えてみれば、そういう大学なのだから居てもあたりまえなのだが、次に紹介する作品の作者である学生との対比ということでいえば、)すこし驚いた。





 次は、情報計画専攻の作品、菱彩香・作「農人(のうと)」(4番目の写真)。
 自分が社会に出て何をすべきかを探索するため、農業に従事している人々を取材し、その体験を、雑誌風に記載したノート。取材対象者一人に対して一冊ずつ作成されている。
 なんだ、よくある“自分探し”か・・・と期待しないでページをめくったのだが、取材内容(人物像など)と掲載されている画像及び記事の配置が意外にしっかりしていて、読むにたえる。<自分>の方にデレデレと流れているわけではなさそうだ。







 5番目の写真は、ミクストメディア作品、斎藤絢・作「お誕生日おめでとうというお葬式」。
 これはキッチュというのか・・・いかにも当世風というか、若い女の子の“東京カワイイ”風の手法で、しかしそこにブラックユーモアを散りばめ、自分を取り囲む世界への根源的な批評を打ち出しているような印象を受けた。じっとみていると、すこしぞっとしてくる。








 グラフィックデザイン専攻の元島綾花・作「蝕(むし)」は、人間に取り付いた蟲たちを日本画風のタッチで描く。(6番目の写真)
憑依した蟲と憑依されている人間の構図は、どこかで観たことのあるような印象なのだが、明るくも、解離の世界のように靄がかった色調が、構図の異様さを引き立てている。










 木彫作品、伊地知菜美・作「まるで夢のような」は、自然体で、静謐な感じがして、好感をもった。(7番目の写真)








 ビデオ作品は、各作者の専用展示スペースで常時上映にかかっていたもの数本しか見ることができなかったが、そのなかで、田中健二・作「笹谷トンネル/仙台駅東口/塩釜神社前県道3号」が印象に残った。
 笹谷トンネルは、国道286号と山形自動車道が共用する山形県と宮城県の境のトンネル。
 そこを自動車で通り抜ける際の、運転席からの映像が映し出されるが、次第に路面とトンネル壁面が撓(たわ)んできて、波打つようになる。これ自体は、技術的にどうなのかは知らないが、とくに面白味のない映像。だが、次に映し出される仙台駅東口の通路の映像は面白い。
 ビデオカメラの視線が、対面からやってくる通行人を捉える。通行人は通り過ぎていくのだが、その動きの、コマ送りのコマのような残像が、いくつもの形で重なり合って画面に残る。ちょうど通行人が行き過ぎるのに合わせて、実寸大の連続写真を何枚も並べられていくように。
 塩釜神社前県道3号の部分では、お祭りで両側に露店が並べられた日暮時の県道を歩いていくカメラ視線に、例のコマ送りの残像が現れる。
 それに加えて、コマ送りで撮影した実寸大写真が一枚一枚連続して捲られるように、露天の前に佇んでいる人物たちの像が、パタパタと手前に倒れ込んでくるというアニメが仕込まれている。日暮時の露店、主体が散策しつつ味わっているはずの和みや癒しの世界の中の人間が、とつぜんに静止し、即物的なプレートに変わる。
 この作品の面白さは、カメラ目線が、この他人の残像のプレートに構うことなく、それ自体として通路を進んでいくところにある。 この“他者に構うことのない自己”の視界の動きと、そこに映し出される“構われることのない他者”の残像の、しかし、その実、恐ろしく気障りする存在感の<乖離>が、見るものに異様な感覚をもたらす。



 さて、じぶんのような素人目には、美術学部のなかで総体として相対的にいちばんレベルが高いように見えるのは、日本画や版画専攻の学生・院生たちの作品だった。
 日本画の作品では、“日本画”という既成概念を、ほんの少しだけではあるが、壊してくれた作品群が印象に残った。
 絵は上手とはいえないが、大塚怜美の作品は、批評精神に富んでいた。
 掛け軸に収まった魚の日本画。だが、その魚はスーパーの白トレイにパックされ、値札シールを貼られている。8番目の写真は、この作者の「絵遊魚図」という作品。
 4幅の掛け軸を壁に並べて展示しているが、いちばん右の掛け軸に描かれたハタハタが、絵を抜け出して、よその日本画の中を泳ぎ回っている。この、不真面目な自己批評に惹かれた。
 勝手なことを言わせてもらえば、いちばん左の掛け軸に、焼き魚定食(?)が描かれているが、これではただの安易なウケ狙いと看做されてしまうので、ここにもっと本気印の、つまりは芸術性の高いオチを用意してほしかった。





 最後に、もっとも印象的だった大学院生・佐藤賀奈子の銅版画について。(9番目の写真)
 この手の抽象画が嫌いではないじぶんの好みもあるが、この作品の展示室には2度足を運んだ。
 展示室の入り口に、作者紹介を記載したプレートが貼ってあり、そこに作者のコメントとして、こんなことが記されてあったので、勝手に書き写してきた。



 ・・・確実に死に向かっているのに、どうして生きていけるのか。なぜ生まれるのか。死んだらどこへいくのか・・・この答えのない問いかけが、銅版画に向かい合うとき、私の頭の中をめぐっている。版のうえで模様が細胞のように増殖し、版のうえで生まれては死んでいくような感覚になる。自分の表現の原動力になっているのは、劣等感や嫉妬心、それに忘れたい思い出などである。版に模様を刻む行為によって、私はこのネガティブな感情を自身から版に移し、少しずつ消化していく。

 「劣等感や嫉妬心、それに忘れたい思い出など」の「ネガティブな感情」を「消化していく」という行為が表現だというのは、じぶんにも、そこそこ(いや、だいぶ)当てはまるような気がする。
 じぶんはもうだいぶ歳をとっているから、「なぜ生まれるのか」とか「死んだらどこへいくのか」などとは考えない。つまりこんな問いはどうでもいいが、「確実に死に向かっているのに、どうして生きていけるのか」という想いを抱いていたころの記憶が、未だ生々しいことに思い至る。

 さて、このように記してみて、はて、と振り返る。
 ネガティブな感情を消化するというとき、ところで、その“消化”とは、じぶんにとってはどういうことなのか・・・字義どおり解釈すれば、表現のモチベーションやエネルギー源に変えていくとでもいうことになるだろうが、そんな都合のいいようにはいかない。
 では、消化酵素で分解して、無毒な物質に変え、忘れるということか。
 そうでもないだろう・・・。むしろ、ネガティブな感情を消化するということは、“消化”にじぶんの生のエネルギーと時間を消費することによって、じぶんの生を少しずつ消していくということなのではないか・・・そんな気がしてくる。


 このほか、プロダクトデザインやコンピュータゲームデザイン専攻コース、民俗学や考古学、それに美術史・文化財修復学科などの展示作品も観て歩いた。
プロダクトデザイン専攻の学生たちは、体育館を見本市の展示場のように構成し、各作者が作品の前でプレゼンしていた。その精力的な姿も印象的だった。






 最後の写真は、同大学のグランドに展示されていた作品。
 だいぶ歩き回って疲れたせいで、作者と作品の題名をメモするのを忘れた。
 雪原と山並みの借景・・・これなどは、この大学でないと成立しない作品である。
 ちなみに、この写真だけを見ると、この大学が田園地帯に立地しているように見えるが、これはキャンパスが斜面に立地しているためで、この雪原に見えるグランドの下には、山形の市街地が広がっている。
                                                          (了)
  
                                                          

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:39Comments(0)美術展

2009年06月13日

日本の表現主義展



 またまた宇都宮を訪れたついでに、栃木県立美術館で、「躍動する魂のきらめき〜日本の表現主義〜」展を観た。

 最初に余談というか、まぁ言い訳だが、じつは、この展覧会を、その印象などを展示作品リストの余白にメモしながらじっくり観て、その夜、池袋で東京在住の長男と飲んだのだった。
 ところが、その店、つまりは池袋南口の超高級料理店「養老之瀧」で、この展覧会のチラシや作品リストをカバンから取り出して長男に見せたあと、そのままその座席に置き忘れてしまったのである。翌日、電話で問い合わせたが、すでにゴミとして廃棄されたようで、手元には戻らなかった。
 ついでに余談を続けると、この回の宇都宮〜東京行では、4つのドジをした。
 1つめのドジは、「土日きっぷ」で安く行こうとしていたのに、この割引切符の販売は前日までで、出発の当日は販売されないことを失念していたこと。(前日、別の用で駅に出向いていたのに・・・)
 2つめのドジは、窓口の駅員に「土日きっぷ」は買えないと言われたことで気が動転し、宇都宮で下車するのに、山形新幹線の特急切符をつい「東京」まで購入してしまったこと。(これには改札を通過した直後に気づいた。窓口に戻る時間はあったが、自らのドジを受け入れ、買い換えの申し出は、詮無いことだと思って諦めた。)
 3つめが、上記の置き忘れ。4つめが、その夜、池袋北口の超豪華ホテル「東横イン」に泊まったのだが、この宿では、じつに貧乏臭いとはいえ無料の朝食が提供されるのに、またもやそれを失念しており、チェックイン前にコンビニで朝食用のパンと牛乳と野菜ジュースを購入してしまったことである。・・・われながら、なんともセコいドジである。・・・というか、1と2と4については、ドジをした!と気にしているじぶんがセコいのだが。(苦笑)

 さて、メモを失い、しかも観覧からもうだいぶ時間が経過したので記憶もいいかげんになってしまっているが、この野心的な企画についての感想を記しておきたい。

 この企画展のモチーフは、まず、日本における表現主義がどのような広がりを持っていたかを紹介することにある。洋画、版画、日本画、彫刻、工芸、写真、音楽、建築、雑誌、舞台美術、映画資料など、さまざまな分野の作品を幅広く展示しており、「日本の表現主義」の広がりをイメージすることができる。
 しかし、この企画が野心的である所以は、日本がドイツの表現主義を受容するにあたって、それ以前に、いわば受容体としての感受性や表現意識を独自に育んでいたとして、その前哨と看做される作品群を紹介しているところにある。
 すなわち、「岸田劉生ら大正時代の生命主義」、「柳宗悦ら『白樺』に集った人々の神秘的なものへの傾斜など」が、その受容を準備していたとして、「生命主義的な傾向」の作品群が提示される。
 この前哨的な作品群に魅力があり、しかもなかなかこのように統一された視点でこの時代の絵画作品を見る機会がなかったので、いろいろと刺激を受けてメモをとったのだが、ほとんど忘却してしまった。・・・あっは。
 もっとも、1910年代の村山槐多、萬鉄五郎、東郷青児などの油彩が印象的だったことは記憶に残っている。



 さて、しかし、じぶんの内部では、一方でこんな疑念も生まれていた。
 いわば、“それが陰か陽かに関わらず、生命エネルギー的な表現衝動を、幾許か意識的な抽象表現として定着する”のが表現主義だとすれば、<表現主義的な表現>と<表現主義的ではない表現>との区分は、ずいぶんと不分明なものではないか・・・。
 なぜなら、表現者の内部から噴出する表現衝動は、そもそもそれ自体が抽象的(言い換えれば表現主義的)なものであり、それを作品に定着させる方法が模写的もしくは様式的でないならば、すべてそこそこ抽象的で、大なり小なり生命感が横溢したものになってしまうからである。
 すると、表現主義の系譜に連なる(とされる)作品は、いわば当該企画を企画したキュレーターの所見に拠って選ばれているというわけだ。
 へんな喩えだが、今や大作家になってしまった村上春樹が<村上春樹>であるのは、加藤典洋がそれを<村上春樹>として読者に提供したがゆえ・・・みたいに、ここでは、観覧者が企画を観覧するということは、観覧者がキュレーターの“定義”をまさぐり、それを次第に自分の内部の印象・観念として形成していく過程を意味するものになっている。ここではキュレーターが“意味の創造者”なのである。
 この種の企画展は、まさにそういう意味で「野心的」なのだが、また、それによってわれわれ観覧者は、そのような作者=キュレーターの提出する定義に、たぶん、自然かつ不可避的であるかのようにして、「批評的」に、言い換えれば“眉唾的に”対面することになるのである。

 ところで、この展覧会で面白かったのは、1924年にスタートした築地小劇場の第1回公演「海戦」の舞台装置(作者:吉田謙吉)の写真や、同じく「朝から夜中まで(初演)」の舞台装置(作者:村山知義)の写真が展示されていたことである。
画家が、絵画から雑誌の紙面構成、装丁、そして舞台装置まで手がけていた。その時代の表現運動に一貫して流れている運動意識みたいなものを垣間見ることのできる展示だった。
 なお、この展覧会は、これから兵庫県立美術館、名古屋市美術館、岩手県立美術館、松戸市立美術館を巡回する。



 写真は、栃木県立美術館の中庭に常設展示されている彫刻作品。
 (「躍動する魂のきらめき〜日本の表現主義〜」展とは無関係)                                     

                                                                                                                                                                                                                           


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:16Comments(0)美術展

2008年12月31日

石田徹也―僕たちの自画像―展




 上京の折、練馬区立美術館で開催されている「石田徹也―僕たちの自画像―展」を観た。

 山形に住み、美術雑誌もほとんど読まないじぶんのような者にとって、東京の美術展の情報は、ネット上のサイトや情報誌「ぴあ」に拠るか、あるいは別の展覧会や美術館に置かれているチラシで得るほかない。この展覧会のことも、たぶん、太田三郎の回顧展を観に行った際に、山形美術館で手に取ったチラシで知ったのだったと思う。
 そのチラシに転写された石田の作品から、少しばかり感じるものはあったが、じつはそれほど期待して出かけたわけではなかった。チラシ上に印刷された作品の画像からは、哀しみを湛えた作者のイメージは伝わってきたものの、ややポップで、世間受けしそうな作風に、少しばかりのあざとさを感じ取ってもいたからである。

 チラシの裏面にある、この美術館のキュレーターが書いたコピーも、凡庸な印象を与えた。


 「多くの作品に登場するうつろな目をした人物は、彼の分身であるとともに、現代に生きる多くの若者たちの自画像でもあります。また、それは複雑で捉えどころのない現代社会の中で生きる私たちが、日頃は心の奥底に押し隠してしまっている精神のドラマを表現したものとして、世代を超えた共感を呼んでいます。ある時は哀しく、ある時は悲痛であり、また滑稽な現代人の姿を、石田徹也は、精密に観察しながら、丹念に描き出しました。」
 
 しかし、この展覧会で感受したものは、チラシ上の作品写真や説明文から得ていた印象とはずいぶんと異なったものだった。
 じぶんとしては久しぶりのことだが、背筋の震える想いをした。
 石田徹也という表現者の描こうとしたものは、「現代人の内面を描ききった」などと安易に世俗的な社会性に回収できる性質のものではない。
 私たちは、彼の作品の前で、もっと激しく戦慄すべきである。


 【1】
 1973年、静岡県焼津市に生まれた石田徹也は、1996年、武蔵野美術大学を卒業する。
 とりあえず1995〜1996年頃を<初期>と看做なすと、この<初期>を代表する作品は、この展覧会のチラシの裏面に掲載されている作品3(チラシでは4)「SLになった人」(1995)、作品10(チラシでは1)「飛べなくなった人」(1996)などの作品だと思われる。
 これらの作品は、サラリーマンの格好をした男(その顔はすべて石田の自画像)が飛行機やSLに合体しているように、あるいはそれらの鉄のスーツを纏っているように描かれている。
 これらの作品が、やがて、チラシの表面に掲載されている、やじろべえ型回転式シーソーにぶら下がったサラリーマンを描いた作品12(チラシ表面)「社長の傘の下」(1996年)やガソリン・スタンドと牛めし屋を合体させたような作品16(チラシでは3)「燃料補給のような食事」(1996)などと相俟って、様々なものに絡めとられている現実生活と「現代人の内面」を描いたものとして印象付けられるのは、ひとまずは自然なことのように思われる。
 ところで、しかし、展覧会には、「SLになった人」と「飛べなくなった人」の習作らしき作品が展示(なぜかガラスケースの中に置かれる形で)されているのだが、これらを見ると、いわば<初期・石田徹也>への印象が、少しばかり違ってくる。
 たとえば固定された飛行機に合体したサラリーマンを描いた「飛べなくなった人」の習作は、作品7「ビアガーデン発」(1995)と題されており、そこには酔って赤ら顔になったサラリーマンが3人、肩を組み千鳥足で踊っている。
 両側の人間はワイシャツ姿で、真ん中の一人が飛行機のスーツ(この場合、「スーツ」というのはいわゆる「モビル・スーツ」みたいな意味である)を纏っている。顔はすべて石田の自画像。背景は描かれていないが、まるで屋上ビアガーデンで“出来上がって”、3人で肩を組んで“舞い上がろう”としているような様子である。飛行機の翼には、「MALTS」とビールの銘柄のロゴが刻まれている。
 また、「SLになった人」の習作は、作品8「居酒屋発」(1995)と題されており、これにも背広姿のサラリーマンが3人、遊園地で走っているようなミニSLに乗っている(というより、身に纏っていると言うべきか)姿が描かれている。汽車の車体にも「MALTS」と刻印がある。



 さて、これらをいまじぶんは「習作」と呼んでしまったが、帰り際にこの展覧会のカタログを購入し、そこに掲載されている「出品リスト」を見ると、「ビアガーデン発」と「居酒屋発」は、第63回毎日広告デザイン賞優秀賞を受賞した作品なのだった。(デザインは平林勇が担当し、石田はイラストを担当したという。)
 たしかに石田には、このような“ウケ”を狙う作品で商業的に勝負するイラストレーターへの道が開けてもいたのだ。
 しかし、これらはどうみても「飛べなくなった人」や「SLになった人」の習作に見える。広告デザインとしての作画を、石田が、いわば腕力で“ファインアート”に引っ張っていった、その志向性がここに伺えるような気がする。
 これらとは別に、「飛べなくなった人」という題名で、遊園地のアトラクションの「バイキング」のような木造の帆船の甲板に腹ばいになり、クロールをしている背広姿の男が描かれた作品(1996)もある。これには「MALTS」は存在しない。(なお、この作品はこの展覧会には出展されていない。展覧会のカタログに「参考図版・作品2」として掲載されている。)

 ここに視えるのは、哀調を帯びた人間への視線と同時に、むしろ遊園地の乗り物にヒントを得て、機械や器具や家具や建物や・・・それらの物体と合体した人間を(自画像を通して)描くという手法を“発見”した、若き画家の、いわばささやかに煌く<出発>の風景である。


 ところで、ガラスケースに収められていた(したがって他のページを見ることはできない)石田徹也のノートから、こんな部分を書き写してきた。

 「僕がもとめているのは、悩んでいる自分をみせびらかすのでなく、それを笑いとばすユーモアのようなもの。ナンセンスに近づくことだ。他人の中にいる自分という存在を意識すれば、自分によって計られた重さは意味がなくなる。そうだ。僕は他人にとって10万人や20万人の他数(ママ)の中の一人でしかないのだ。そのことに落胆するのでなく、軽さを感じること。それがユーモアだ。」

 それから、ノートには、公衆トイレの落書きみたいにして、略図とともに、こんな構想も記されていた。
古風な箱型の真空管ラジオと、それを背負うように合体している女の乳(乳首)を、男(それは石田の場合、つねに自画像だが)が揉んでいる構図。女の口からは「Ah〜〜」と悶え声が流れる・・・

 ここにあった「ナンセンス」を含む「軽さ」への輻輳した志向は、だが、おそらくは彼の作品に「現代人の内面」を求める周囲の評価へ対応するために、一旦は、自己と社会が重ねられる批評的なモチーフ、もっといえば、哀調を帯びつつ不安を宿し、厭世的かつ自己嘲笑的なモチーフへと絞り込まれるようにして形象化されていく。
 傘(=銃)を抱えたサラリーマンがまるで塹壕に隠れるようにビルの隙間に腰を下ろしている構図の作品14「兵士」(1996)や洋式便器に入ったサラリーマンを描く作品13「トイレへ逃げ込む人」(1996)、階段と合体した男が非常ベルを鳴らそうとしている作品15「屋上へ逃げる人」(1996)、会社の机の引き出しに自分の死体が入っている作品21「引き出し」(1996)など・・・。
 この展覧会のカタログに掲載されている「石田徹也 略年譜」には、大学を卒業した彼が就職したのだったかどうかの記載はない。だが、石田がこの時期、もっぱら背広姿のサラリーマンを描いていることを思えば、背広を着るような職場に就職したのだったのかもしれないと思わせられる。


 【2】
 1996年までの<初期・石田徹也>は、97年から2000年にかけて、その技量を向上させ、<初期>を離脱していく。
 97・98年には、まだ“背広もの”を描いてはいるが、自己の内面を表出させる傾向や自己の内面を抉り出すような傾向が、次第に表に現れてくる。
 エロ本をあさる5本の指(=足)をもった蜘のような自画像の作品31「物色」(1998)や、小学校の校舎に埋め込まれたままの自分を描いた作品33「囚人」(1999)、高校(?)の教室を描いたかのような作品28「めばえ」(1998 学級で机に座っている生徒たちのうちの二人が顕微鏡と合体している作品)や作品29「無題」(1998 回答用紙に答えの印を付けている生徒の左手が旧式のミシンになっている作品)などが、それである。

 1999年の次の3つの作品は、ある意味で石田の描いた最後の“わかりやすい”作品だ。
 作品35「待機」は、6人一室の病室で、スクラップにされた車のボディをベッドにする病人たち(若者として描かれた自画像たち)が、寝たり腰掛けたりして、何かを待っている光景を描いている。
 彼らが待っていたものは、老いの先にある“廃車”なのかもしれない。作品36「彼方」では、荒涼とした入り江の風景のなかに、車のスクラップと合体した老人(しわくちゃの顔をした自画像たち)の肉体が横たわっている。
 作品34「市場」は、まるでその老いへの恐怖を鎮め、癒しを与えるかのような老女(西洋人のシスターに見える)と彼女に寄り沿う男たち(これも石田自身の分身)の構図だが、しかしその老女のボディの中は空っぽで、彼女に救いを求めている別の男が、暖簾をかき分けて向こう側からこちらを覗いている。

 そして、次に問題の2000年。そこには、ふたつの作品「無題」が存在する。
 このふたつには、どちらも防火服を纏った消防士が描かれている。一方の作品38「無題」の消防士ははしご車のリフトのようなものに乗っており、今しがた救助してきたかのような赤ん坊を抱いている。もう一方の作品37「無題」の消防士は、リフトにのってこちらへ手を差し伸べている。その消防士の両脇には子どもが乗せられているのだが、その子どもたちもこちらへ手を差し伸べようとしているかのようだ。
 印象的なのは、ここでおそらく初めて子どもや赤ん坊が描かれていることだ。
 それに、石田は、なぜ消防士を描いたのだろう。そして、なぜ、この年は寡作なのだろう・・・。
 2001年以降に、石田が、私に言わせれば“開花”を迎える前の年、彼にはどんなことが起こっていたのか・・・。一見解り易く思われるこれらの構図と、逆に、ほとんどあそび(“ハンドルのあそび”というときのあそびという意味)のない筆致に、このあたりで石田がある種の閉塞に見舞われていたのではないかという想いがする。





 【3】
 2001年から2004年にかけての石田作品は、おおきな転換を遂げる。
 「石田徹也―僕たちの自画像―展」では、この時期の作品群に圧倒された。
 一言で言えば、ここには石田の心的過程が描かれている。それは知覚と表象、過去と現在、「存在者としての自分」とそれを「眼差す自分」が相互に交代したり、入れ替わったりする世界であり、しかもその中を石田徹也の固有な時間が流れる(あるいは滞留する)世界なのだ。
 
 正直に言うと、この展覧会を観にいく前、じぶんは、たまたま、柴山雅俊『解離性障害』(ちくま新書)を読んでいた。オツムが単純なじぶんは、それゆえ、そこに書かれている解離性障害の心的世界が、まさに石田のこの晩年の作品に表白されているような印象を受けたのである。
 石田は、解離性障害かどうかは別として、自らの、おそらくはたいへんにきつい心的世界を、よく構造化し、しかもそれを極めて丹念な筆致で細密に描いている。この自己への凝視力というか、しんどい自己世界を表現しようとする志向力に圧倒される。

 たとえば、作品39「しじま」(2001)には、風呂場の洗面台の鏡に映った自画像が描かれている。この自画像は左手の指先から血を流しながら、遠くを見つめている。・・・その見つめる先に描かれているのは、風呂場のタイルの壁に浮かび上がる、次のような光景である。
 波打ち際に置かれた病院のベッドの上で、若い男が上半身を起こして構えている。彼は、ほとんど裸の状態で、彼の性器は赤黒く勃起している。胸をはだけた看護婦が二人、ベッドの両側から男の足を手で押さえようとしている。男の枕元には母親らしき女が椅子に腰掛けており、さらにその情景を、まるでAVビデオの撮影現場であるかのように、テレビカメラを構えたカメラマンと録音技師が記録している。そして、この光景全体は、薄いヴェールのような、カーテンのようなもので包まれている。
 海岸の波打ち際にベッドが置かれている作品としては、作品40「無題」(2001)もある。こちらは、浴衣姿でベッドに寝ている自分を、ベッドの端に腰掛けた兄弟、枕元に立つ母親、ベットサイドで椅子に腰掛ける背広姿の父親などが囲んでいる。これも、半透明のベールのようなもので囲まれている。

 自分がいる世界を、もうひとりの自分が外から眺めている。これが解離性の離隔の心的構図である。世界は平面のように遠ざかって視え、しかも、まるで薄い膜を通してみているようだとか、スクリーンに映った世界を視ているように思えるのが、離人症の症状だという。(前掲書)
 風景がヴェールの向こうのように視えている作品は、チラシの裏面に掲載されている作品70(チラシでは6)「無題」(2004)も同じだ。ここでは、少年の作者の自画像が、海水浴の風景が映写されたヴェールの隙間から顔を覗かせている。

 「存在者としての自分」とそれを「眼差す自分」の遊離・・・それには、「体外型離脱」と「体内型離脱」ないしは「着ぐるみ型離脱」があるという。(前掲書)
 「体外型離脱」が身体から浮き上がって世界に拡散するような感覚だとすれば、「体内型離脱」は、身体という殻から剥がれ落ちて、自分が内側に縮まったような感覚だとされる。
 たとえば、作品54「帰路」(2003)では、顔の前面に大きく真っ暗な穴があいており、その穴の中に、こちら振り返る小さな子どもの姿が描かれている。
 作品65「文字」(不詳)では、ベッドの上に横たわる自分の身体が、ロシアのマトリョーシカを連想させるような、5重の入れ物のように描かれている。
 また、作品49「無題」(2003)では、子どもの胸のあたりにもうひとりの子どもである自分の顔が描かれている。その顔の上、後方には(つまりボディとしての子どもの胸の中のような位置には)、透けるように、さらに一人の全裸の子どもが横たわっており、それを何本かの裸足の足が踏みつけている。
 作品53「無題」(2003)では、草原の中に幼児が一人佇んでいるのだが、この自画像の幼児の身体は、首や胴や手足が分断され、まるで達磨落としのように描かれている。そして、この子どもの片方の足がクローズアップされたかのような作品52「裏庭」(2003)では、その足の指が恐怖で引きつったように曲げられ、土に突き立てられている。
 恥知らずにまったく単純な解釈をしてしまえば、ここには、幼児期に受けた虐待や少年期に受けたイジメのトラウマが表出しているようにみえる。
 あるいは、上記の作品49「無題」の構図を乱暴に読み込んでいくとするなら、心的外傷の経験を自分の心的過程から切り離す離隔の状態が窺われ、さらには人格交代の世界まであと少し・・・という心的世界が見て取れるようにも思われる。

 2001年以降の作品は、ほとんど解離の心的世界を描いたと思われる作品ばかりである。
 チラシ裏面の洗面台を自己の身体であるかのように描いた作品61(チラシでは5)「体液」(2004)についても、これは解離でいうセネストパチー(体感異常:体内に訳のわからない異様な「もの」がいるという漠然とした感覚)だと看做すこともできるだろう。
 2003年から2004年にかけての作品のいくつかに、自画像と自画像の子ども時代の姿が同時に描かれているのも、体外離脱、自己幻視、交代人格、「想像上の友人」などの解離の心的世界を想像させる。
 だが、もちろん、作者が、解離という病理の世界に蟄居していたなら、これほどの緊密な質と膨大な作業量の作品群を描き残すことはできなかっただろう。
 石田徹也は、おそらく、じぶんのなかの心的な世界と、私たちの想像を超える激しい闘いを闘っていたのだと想える。


 けれども、2004年頃になると、その作品には死のイメージが濃厚に入り込んでいる。
 2004年の作品で特徴的なのは、初めて性的な対象としての“女”の身体が描かれていることだ。
 作品57「堕胎」(2004)では、ベッドの上に向こうを向いて横たわっている女(ブラジャーとパンティだけを纏っている)がいて、手前にベッドに腰掛ける自画像が描かれている。
 作者は女を知った?・・・だが、ベッドの下は、水の干上がった川原のようだ。
 作品59「無題」(2004)では、自画像と女がお互いに背中を向けて横たわっている。女は白いキャミソールとパンティの姿で、男は黒いTシャツと長ズボンを履いている。しかし、二人が横たわっているのはベッドではなく、街を襲い、家や車を飲み込んだ泥流の上である。
 その泥流を、お面のような顔がいくつも流れている。そして、その泥流と横たわる二人の上空には、ゴムボートに乗ったちいさな自画像たちが浮かんでいる。

 泥流とそこに浮かぶお面のような顔のモチーフは、別の作品60「無題」(2004)では、男と女の間ではなく、今度は自画像の体内を流れている。この自画像は首を壁に持たせかけ、床に倒れているが、その左手を誰かの右手と触れ合わせている。しかし、そこには手が描かれているだけで、女は既に存在しない。
 そして、この年には、直截に死を呼び込むような作品である作品66「再生」(仰向けで担架に乗せられ、口には酸素吸入器のようなものを付けている)や「制圧」(2004・参考図版16)(顔面に携帯電話がめり込んで血が流れている)が描かれている。



 石田徹也には、そのレトロで個性的な作風から、たぶん、商業的なイラストレーターとしての道が開かれていたのではないかと思う。
 広告デザイン賞に応募した路線で作画を続けることによって、その世界で糧と評価を得つつ、その一方で、自らが追求するファインアートの世界では、作品「飛べなくなった人」(1996)に代表されるような「現代人の内面を描ききった」的な路線で社会的な評価を高めることも可能であったと思う。
 けれど、石田徹也はその道を行かなかった。
 彼は、あくまでも孤独な表現者として、人間の内的世界を描く道へ、いや、自分の内面世界を形象化し、そのことで自己の心的世界を剔抉し、これを凝視し、さらには対峙する領域へ、深く深く踏み入ったのだったように想われてくる。

 石田徹也は、2005年5月23日、「鉄道事故」により逝去。享年31歳。

 石田徹也回顧展が、今後も他の地域で開催されることを望む。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 02:42Comments(0)美術展

2008年11月16日

「太田三郎―日々」展



 山形美術館で「太田三郎―日々」展(2008.11.1〜11.30)を観た。

 太田三郎については、このブログの2007年8月16日付の記事「『coto』第14号」で書いたように、同誌に掲載された佐伯修「雲と残像―現代美術を媒介として 種子と遺言(上)」を読み、また同誌第15号で、その続きである「雲と残像―現代美術を媒介として 種子と遺言(下)」を読んで興味を引かれていたので、その太田の回顧展が地元山形で開催されると知り、少し楽しみにして晩秋の山形美術館を訪れた。

 まず1階の展示室には「POST WAR」というシリーズの「切手」作品がずらりと展示されている。
 「POST WAR 50」(1995)は、中国残留孤児たちの肖像写真を切手にした作品。
 そして、「POST WAR 54」(1999)は被爆地蔵、「POST WAR 55」(2000)は被爆樹、「POST WAR 56」(2001)は戦没画学生慰霊美術館「無言館」に収蔵された戦没画学生の作品(自画像など)、「POST WAR 60」は被爆者・・・と、こんな素材たちが私製の切手にされ、1シート20枚の組にされて額に納められている。

 つぎに「Seed Project」と題された一連の作品がある。
 太田は、1991年から、植物の種子を採取し、それを私製切手に封入した作品を製作してきている。また1995年1月1日からは、種子を採取し、それで切手を作ることを日課にしてきたという。
 また、このバリアントとして、牛乳パックから再生されたパルプに種子を漉き込んで葉書にした作品もあった。1万枚の葉書が紐に連ねられて天井からぶら下がっている・・・。

 太田は、コメントの書かれたパネルで、このように郵便で種子を遠くへ飛ばすことは「未来に対して肯定的な気持ちになる」と言っている。
 また、「Seed Project」の一連の作品に付随して、「Seedy Clothes ― Gift for Parents」と題された作品もある。これは、種子の入っていた鞘を写真に取り、その画像を並べて切手にしたものである。太田は、この作品を「命を生み育んで世に送り出したすべての『親』たちに捧げる」とコメントしている。

 2階の展示室に上がると、そこには「Data Stamps, 5 July 1985 to 14 July 2008」と題された切手シート作品が、額に入れられて広い展示室の壁にずらりと並べられている。
 1つの額には、1シート100枚の40円の官製切手が入っていて、それらの1枚1枚に、毎日の消印が押されている。
太田は1985年7月5日から、毎日郵便局を訪れ、持参した切手に消印を押して、それを返してもらうということを日課にしてきたのだという。
 パネルには、毎日消印を押してもらうということに意味を見出していても、「これは作品でないかもしれない」という「おそれ」を払拭できなかった・・・と書かれている。
 ところで、なぜそれが40円切手なのかといえば、郵便局は40円以上の切手でないと消印を押してくれないからとのこと。しかも、1986年以降は、これが50円以上の切手に値上がり?したという。
 ということは、太田のように、郵便局に切手を持参し、消印を押して返してもらおうとする人間が他にもいるということかもしれない。

 2階の展示室の壁には、また別の作品もあった。
 日本各地の郵便局の消印を押した切手を壁に貼り付けて、その壁に切手で日本列島を模った作品や、これも日本各地の郵便局に、鉄腕アトムの誕生日(2003年4月7日)の消印を、鉄腕アトムの官製切手に押印してもらって、その郵便局の位置に切手を貼ることで壁面に鉄腕アトムが空を飛んでいる姿を模った作品(それは例の、右手の拳を前に出し、左手を胸のあたりに曲げて構えた典型的なアトムの飛行スタイルだ)など。

 総じて、その切手や葉書の作品群の数に圧倒される。数に圧倒されるというよりも、その小まめな造作と持続された作業量に圧倒されると言った方が正確かもしれない。
 しかし、その種子と消印スタンプの数を見せつけられれば見せつけられるほど、じつは異和が膨らんでもきたのである。





 その異和について、少し述べてみたいと思う。

 その異和の第一は、「Seed Project」の意図に関するものだ。
 佐伯修の「雲と残像―現代美術を媒介として 種子と遺言(下)」に、太田の発言が引用されている。太田は、このプロジェクトの本当の意味を、切手に封入された種子をなるべく遠方に飛ばし、それを実際に播種してもらうことにあると言っている。
 ところで、佐伯は自分のことを「もともと広義の生物学畑の出身である私にとっては、近親感を覚える」と太田の切手作品について述べているが、これも含めて異議を唱えておきたい。
 生物学、とりわけ生態学を齧った人間なら、種子を郵便で飛ばして、その先に播種するなどということを認めることはできないだろう。
 もっと本質的なことを言えば、太田は、種子が郵便で遠くへ運ばれそこに播種されることを意図しているが、その届けられ播種される先に、すでに“先住民”たる植物が自生しているであろうことに想像力が及んでいない。
 これは「未来に対して肯定的な気持ちになる」どころか、手前勝手な幻想で、生態系の撹乱をもたらすかもしれない「プロジェクト」なのだ。少なくとも山形県内には、こんなものを送り付けないでほしい。(笑)

 あるいは、このようにも言うことができるかもしれない。
 これらの夥しい種子・・・それを太田は毎日毎日採取し、切手や葉書に封入し、そして作品として、吉本隆明風にいえば、額に“ピンでとめて”きたのである。
 しかし、太田の作品において種子は遠くへ飛ばされ未来に伝えられるものだとしても、種子それ自体としては、まず“そこ”に落ち、“そこ”で発芽しようとしていたのだ。
 採取者は、とりあえずは、種子がその場所で発芽する可能性を奪っている。そのことを自覚しているだろうか。

 あるいは、もっと別の角度から言えば、植物も含め、そもそも生物とは、そんなに大人しくて美しいものではない。それは生々しく、言い換えればグロテスクなものであり、個別種は見苦しいほどに貪欲なものだ。
 だからこそ、ある種が膨大な種子を産出しても、その拡散は限られ、自然のなかではほんの一部しか生育しないように仕組まれている。生物への畏れ、そして種相互間の相互抑制や均衡という自然の狡知への配慮がない者は、種子すなわち生命の可能性の未来を取り扱うべきではないのではないか・・・。(と、じぶんは、また知ったかぶりをする。しかし、たまたま、現在、自然環境関係の仕事をしているので、こうなってしまうのである・・・)


 異和の第二は、郵便局のスタンプに関するものだ。
 太田の作品では、郵便局のスタンプが「自己確認」や「自己証明」として先験的に規定されている。
たとえば、切手に消印を押してもらうことが、その日に自分がそこに存在したことの証明になるとか、郵便局の消印が押された切手で模られた日本列島のなかに、ある町の郵便局の消印が押された切手があることで、その年月日にその町が存在したことの証明になるとか・・・。
 なぜこんなに「郵便局」を疑わずに作品を形成できるのか。郵政が民営化された今日ではなおさら、この前提はあまりにお目出度いし、欺瞞でさえある。
 無論、太田の作品の多くの部分は、郵政民営化や郵便局の統廃合など考えられもしなかった時代のものである。しかし、そんな時代であったとしても、いや、そんな時代だったからこそ、郵便局の消印を先験的に「証明」と看做して疑わない営為が作品化されていることに、安直で凡庸なものを感じてしまう。
 もし、郵便局が存在の証明機関であるならば、それが廃止された田舎では、人間の存在も日時も証明されえないということになるではないか・・・。

 さて、ここまで表面的に批評してきて、ふと立ち止まる。
 いや、ひょっとして逆なのかもしれない・・・太田は「証明」を求めて、種子の採取や郵便局の押印を日課にしてきたが、意識的か無意識的かを問わず、そもそもそれらの証明力が空無であること、もしくはそれらを信じられない自分がいることを悟っていて、まるで強迫神経症患者のように、その空無を埋めようとして、こうしていつまでも同じ営為を止められないのではないか・・・などと。


 晩秋の曇り空・・・山形美術館の喫茶から見える曇天下の霞城公園の紅葉は、それはそれで、憂鬱そうに味のある雰囲気を醸し出していた。日曜日の午後だというのに入場者は疎らだった。
 私はここでは批判的に言及したが、この作品展が語りかけてくるものは小さくない。
 例の山本幡男の遺書のテキストを筆写した太田の作品「最後に勝つものはまごころである」も、展示されている。

 観覧をお薦めしたいと思う。11月30日までの開催である。




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:12Comments(0)美術展

2008年11月02日

横浜トリエンナーレ 2008



 「横浜トリエンナーレ2008 YOKOHAMA TRIENNALE TIME CREVASSE」を観た。

 展示会場は全部で7箇所だったが、そのうち主な3会場を回った。
 一日目に「横浜赤レンガ倉庫1号館」と「新港ピア」。二日目に「日本郵船海岸通倉庫」。
 まわった会場の順番で、印象に残った作品について記す。
 作品カタログや出品アーティストの紹介が記載されたガイドブックを購入しようとしたが、内容がつまらないので購入しなかった。だから作品の印象は、ほとんど記憶を呼び起こしながらのものである。
それでもよろしければ、以下をお読みいただきたい。

 ・・・と書いて、この展覧会が写真撮影OKなのだったことを思い出した。
 これはいい・・と思って何枚か写真を撮ったが、印象的だったのはインスタレーションと上映されていたパフォーマンスの映像だったので、これから述べようとするそれらの作品の写真は撮っていない。写真を撮りたいと思う作品は、写真をとっても仕方ない作品だったのである。・・・どうりで、写真撮影OKなわけだ・・・あっは。


 「横浜赤レンガ倉庫1号館」に入って二階に上がったところに、パンフレットでは「映像資料展示」という展示室がふたつ続いてある。
 すぐに目に入ってきたのは、土方巽の「肉体の反乱」(1968年製作の白黒フィルム)だった。
 まずこれにがっくりくる・・・。いつまで土方巽を有難がっているんだ・・・と。
 これで、この会場を構成したキュレーターのレベルが知れる。
 実際、この会場の作品はどれもつまらないものばかりだった。

 しかし、ひとつだけ、ぜひ記しておきたいことがある。
 土方のフィルムから目先を転じると、別の画面に、どこか妙にヘンテコな白黒フィルムが上映されている。プレートを読むと、作品名が「バス名所観光ハプニング」(1966年)とある。

 ここで言及しておきたいと思ったのは、ある意味かなり幼稚なパフォーマンスを記録した、そのサイレント・フィルムに映し出される風景と登場人物たち(バス観光の客たち)が、私服ながら、ずいぶん“普通のサラリーマン”と“普通のOL”という感じだったからである。
 彼らは、まず、東京駅の丸の内口前に列を作ってバスを待っている。背景に旧丸ビルが見える。
 やっとバスがきて、男女30人ほどが乗り込むと、バスは「観光地」?周りを始める。
 製作者(パフォーマンスの仕掛け人たち)が指示するとおり行動して、どこかの公園か寺の境内みたいなところで、細い紐で互いに結びつけられたり、海岸の埋立地でテレビに何か塗料のようなものをぶっ掛けてそれを海に投げ入れたりする、実につまらないパフォーマンスに、ほんとにニコニコしながら付き合っている。
 このひとびとの、60年代のマジメさと素直さが滲み出る“フツー”過ぎる服装と表情と、たわいない笑みとが、この2008年の現代美術の作品展のなかで、実に奇妙な味を醸し出している。
 あまりに日常的で、ありきたりな存在が、なぜか逆にもっともキッチュに感じられる。
おいおいおい、などと言いながら、手をたたくところだった。作品としての質は別として、これが、たぶんこのトリエンナーレで最も観るに値する作品である。


 次に訪れた「新港ピア」の作品たちは、・・・これまた期待を裏切るものだった。
 言及したい気になるのは、インドネシアの作家、クスウィダナント a.k.a. ジョンペット( Kuswidananto a.k.a. Jompet )のインスタレーションである。

 展示室に入ると、コートや上着を着、靴を履き、帽子を冠った透明人間たちの鼓隊みたいな展示がある。そいつらが電子回路のシーケンス制御?みたいなもので、太鼓をたたいたり、なにか電子楽器を鳴らしたりして、間歇的に短く演奏する。
 展示室の左右の壁には映像が映し出されていて、そこでは上半身裸の男が、ムチのようなバチのようなものを振り回しながら踊っている。そのムチのようなバチのようなものの打撃に合わせて、透明人間たちの楽団が演奏するのである。映像の動きと、電子制御で太鼓をたたく単純なメカの動きが相即している。
 このうちの何が印象に残ったかといえば、電子制御で鳴りだす楽器たちの鳴り具合・・・つまりその間歇性だ。それは人間の存在しない空間で、きわめて機械的に鳴り、そして止む。
 だが、なにかが存在する・・・アーサー・ケストラーの“機械の中の幽霊”とまではいかなくとも、そこに、なにかの気配を感じる。それは禍々しい欲望を沈めたイドのようなもの、あるいはイドの痕跡のようなものだ。



 さて、二日目の朝、山下公園を歩いて、三番目の会場「日本郵船海岸倉庫」を訪れる。

 まず目に入るのは、倉庫の外に立てられた舞踏家・田中泯の、錆びた波トタンで作られた掘っ立て小屋である。軒先に、捩れた傘のついた白色電球が灯っている。
 しかし、中に入ると、あるのは田中が街中で舞踏する映像を流し続けるモニターだけ。
 このトリエンナーレのパフォーマンスなのか、ありふれた街中の商店の前で、アル中のホームレスのような格好の田中が、老人みたいに緩慢な動作で、道端で寝たり起きたりしている。
 舞踏家のダメなところは、この単独舞踏に現れる。
 パフォーマンスには、ぜったいに演出(家)が必要なのだ。つまり、他者による批評的構成意識なくして構成された演戯は、どんなに曰くありげでも夜郎自大な駄作になってしまう。こういうことを、誰か批評眼のあるやつが、面と向かって舞踏家に言ってあげればいいのだが。


 さて、この会場は前の2会場とは違って、少しは見応えがあった。
 会場の倉庫のなかに入ると、1階に、まず印象的なインスタレーションが置かれている。
 勅使河原三郎の“ガラスのタイムトンネル”みたいな作品である。

 向こうへ向かって伸びる廊下のような細めの白い空間(奥行きのある箱と言ってもいい)を覗くように、客席が設けられている。
 廊下の左右と上の壁のいちめんに、ガラスの破片が突き刺さっていて、これに、電子制御されたライトが、客席の頭の上から電子音楽に合わせて照度を変化させながら照明を当てる。
 やわらかい地の光は、しかしガラス片の断面のところでははっきりと反射して輝きを生み、そのコントラストが神秘的な時空を演出する。
 廊下の床面はガラスの破片で敷き詰められているが、そのうち奥の一部が振動して、廊下の向こうから何者か(おそらくは目に見えぬ存在が)やってくるかのような気配を醸し出す。
 時間の経過に伴って、床面にスリットを通した光の線ができ、やがてそれがX型に現れる。(ここで、う〜〜ん、これじゃまるで「Xファイル」じゃないか・・・なんて思ってはいけない。)
 この種のインスタレーションはよく見かけるじゃないか・・・なんて気になるが、この作品は音楽と照明の完成度が高く、そのぶん、作品世界に浸かれる幸運な時間をもたらす。





 この展示会場でもっとも話題になっているらしい?のは、マシュー・バーニー(Matthew Barney)の「ヴェールの守護者」というパフォーマンスの映像である。
 展示スペースの入場口に注意書きがあって、人によっては不快を感じる場面があるので、それを了解して入れとある。すぐさっき、1階でヘルマン・ニッチュの、素っ裸の男の腹の上で、ざっくり腹を切り開かれた豚の内臓をグチュグチュ弄くりまわすパフォーマンス映像を見てきたのだが、そこにも同じような注意書きがあったので、こんどはなんだろ!?と思って、ついつい最後まで映像に付き合った。
 この映像の展示区画は、暗闇のなかにベンチがおかれていて、それに腰掛けて上から吊り下げられたモニター画面を見上げるようにつくられている。ベンチに座って見上げる角度がけっこう急で、かなり首が疲れる。なにせ42分の上映時間である。
 途中ちょっと居眠りが出たが、結局最初から最後までこれを観た。あの注意書きがなければ、居眠りの出てきたあたりで席を立っていただろう。有名なマシュー・バーニーの名を知らない観客を最後まで引きつけておくには、くだんの注意書きが必須である。
 自分はこの有名なアーティストを、たぶんほとんど知らなかった。名前くらいは聞いたことがあるような気がする程度で、つまり先入観なしにこの映像を見た。

 最初に、その映像の内容を、記憶を頼りに記してみる。

 まず、始まりのシーンがいかがわしい。
 なにか高級そうなホテルのロビーかホワイエみたいなところを、人垣を掻き分けるように、担架を担いだ男たちが歩いていく。  男たちは屈強そうで、おそろいのトレーナーを着ている。フードで顔を隠している者もいる。
 担架の上には女が乗せられている。まるで何かの生贄にされる存在でもあるかのように、だ。
 担架の行進の背景に、バグパイプのような音が鳴る。これも、メロディを奏でるというのではなく、間歇的に音を上げるという感じだ。(あっは。ここでも“間歇的”がミソだ。)

 行進は、目出し帽を被り、迷彩色のズボンをはいて、銃の代わり(?)に小さな弦楽器(ウクレレや小さなバンジョーくらいの大きさで、共鳴する胴の部分が無いようなもの)を胸のところで抱えた屈強な男たちに先導されている。かれらは傭兵か秘密結社のボディガードみたいないでたちである。
 ロビーみたいなところを歩いていくシーンで、周りに観客たちと思しき人々の姿が映る。彼らの身なりが上品そうで、白人のミドルクラス以上の人々だと思われる。すると、これがミドルクラス以上の階層やインテリたちに人気があるであろう、おそらくは有名なアーティストのパフォーマンスなのだということが分ってくる。

 行進は、やがて階段を下り、ホールの客席に入る。
 そこで、ステージの緞帳が上がり、舞台の上のオブジェが姿を現す。ちなみに、この緞帳には「SAFETY ○○○」と文字が入っている。(○○○に入っていた単語を憶えていない。VEILだったのか、GUARDだったのか・・・)

 舞台の奥中央に、緑色の自動車(セダン)のスクラップが置かれている。圧搾機に放り込まれ、左右上下から潰されかかったのを、スクラップ工場から救い出してきたみたいなポンコツである。
 担架を担いだ男たちは客席からステージに上がり、女を乗せたままの担架を、その車の屋根の上に載せ、担架から色のついた布をするすると2枚引き出して、車を覆うように垂らす。
 このシーンで、カメラの視角から、やっとこの場所がオペラハウス(それも由緒がありそうな)のステージらしいことが判る。ステージの手前の落ち込みは、オーケストラピットだったことにも気付く。

 スクラップのセダンの下から、手前(観客席側)に向かって、半島みたいに白い土台が突き出していて、その先端に全裸の人間を模った人形が、尻を客席の方に向けて立っている。顔は隠れていて見えない。片手で杖を持ち、もう一方の手を尻の穴に当てている。指を尻穴に突っ込んでいるのかもしれない。
 すると、黒子(といってもトレーナー姿の屈強な男)が二人出てきて、ステージ上で、なにやら箱のような機械を弄り始める。これは生ゴムみたいなものを伸ばして張る機械だった。
 男たちは、四角い木枠のようなものに張られた生ゴムを、その全裸の人間の人形(ここで、それが人形ではなく、生身の女らしきことが判る)に頭から首まですっぽりと被せ、そのまま立ち去る。
 そして間もなく、神官然とした“犬男”が現れる。

 この犬男の造形は秀逸だった。
 秀逸と言っても、仕掛けは、首と背中のところで肩車するような位置に生きた犬を固定し、犬の上半身が男の顔に見えるように、男の顔と犬の下半身をベールで隠しただけのものだ。(窮屈で犬が暴れださないかと心配したが、取り越し苦労だった。犬は終始大人しく“顔役”を果たした。)

 犬男は、儀式をするかのようにゆっくりと動作を続け、車のボンネットから黒子の介添えで部品らしきものをひとつずつ取り出しては、手前に置かれた瓶のようなものに入れるということを、何度か繰り返す。(・・・ここでじぶんは睡魔に襲われた。)

 音楽は、オケピットではなく、二階か三階の客席に陣取ったバイオリンなどの弦楽隊に生演奏されている。私服で演奏している女性のバイオリニストらがちらっと映し出される。
 ときどき、あの傭兵みたいな男が、犬男の前で手下のように傅いて、自分のもっている楽器をポロンと爪弾く。

 だいぶ時間が流れ、やがてクライマックスに至る流れとなる。
 まず、薄いベールの衣装を身に纏い、客席の後ろにずっと立っていた女たちが二人、巫女でもあるかのように静々と前に進み出てきて、舞台に上がる。彼女たちの大腿部はダンサーのように筋肉質だ。
 そのうちのひとりが、中央の車から出ている例の半島みたいな白い土台にセットされたパネルらしきものの前に出てきて、客席に向かって立ち、そのパネルに身を任せるようにブリッジで身を後ろに反らしていく。
 すると裾の短い衣装がはだけて、裸の下半身が性器も含めてあからさまに披瀝され、客席から(つまりはカメラからも)丸見えになる。・・・あっと思う間もなく、その股間から勢いよく一筋の小便が噴出する。
 ここで舞台上手の視角から舞台が映し出されると、そこに映るもうひとりの女も、客席に向かって立ったまま、小便を垂れながしている。小便を垂れた後、この女もパネルのところに進み、ブリッジする。(ただし、この女=役者は、やや体が硬いのかブリッジがスムーズにできない。)

 二人のブリッジが完成したころ、舞台後方の上段から大きな生身の牛が引き出されてくる。
 牛は、屈強な男に曳かれながらゆっくりと歩いてスロープを降り、ステージ上のオブジェの周りを回る。
そして、車の後方にまわり、トランクのあたりに頭を向けたところで、しばし止められる。
 じつはこのとき、“もしや、牛刀かなにかで牛の首が刎ねられるのではないか。ああ、それは見たくないな・・・”という思いが、自分の頭をチラリと過ぎった。

 助かったことに(苦笑)、牛は動き出し、舞台から消える。
 すると今度は、カメラの視角が中央前面の、例の生ゴムの枠を被せられた全裸の女に当てられ、その尻から手が離されると、肛門から下痢便のようなものが垂れ落ちる。
 ここですぐに緞帳が下り、向こう側の危険な世界とこちら側の世界が隔てられて、儀式は文字通り幕を閉じるのである。


 この記録画像を観てすぐに感じたことは、このパフォーマンスの製作者が、おそらくは一部で知識人層(「ヤッピー」などという死語を使うと歳がバレルか・・・)あたりから高い評価を得ている人だろうなということだった。
 なぜなら、そうでなければまともなオペラハウスが、小便や下痢便を垂れ流すようなパフォーマンスに会場を貸すはずがない。それに、だいぶ経費がかかっている風が伺える。小便女や黒子も含めて、画面上に現れる人々の素振りも、どうもプロ臭い。

 凡庸な解釈を下してしまえば、作者は、上品な芸術文化の俎上であるオペラ劇場のステージの上にディオニソス的な祭儀の世界を開示すべく、これを車のスクラップやら傭兵やら女の生贄やら犬やら牛やら糞尿の垂れ流しやらという闡明なシンボルによる構成として表出し、観る者にがっつりと提示する。
 そして、その世界を最後に“守護のヴェール”で隠すことによって封印し、日常への回帰を促すことで、観る者たちに安堵感を得させ、それをもって逆に後ろめたさや自己嫌悪のような障りを刻印しようとしている。
 もちろんこのことは、マシュー・バーニーが意識していようと意識していまいと、このパフォーマンスの作者・演者と観客との関係にも、さらにはこの映像の製作者にさえも、メタレベルで跳ね返ってくる。
 ようするに、おめぇたちはみな同類で、御目出度いスノッブじゃねぇのか?・・・とでもいうように。


 さて、そろそろ例によってひとつ難癖をつけて、この文を締めくくりたい。

 この映像を観て、いちばん感じたのは、じつはこの「作品」の内容についての異和や不満というようなものではなく、この映像が、このトリエンナーレで「作品」ででもあるかのように展示されていること自体への異和感だった。

 たとえば、舞台演劇の映像は、「演劇作品」ではありえない。
 マシュー・バーニーの「ヴェールの守護者」というパフォーマンスは、おそらく、オペラハウスに観客を集め、それらの観客の前で演じられたものであるだろう。(もし最初から映像作品としてのみ意図されて製作されたものであったらこの言及は陳腐な批判になるが、最初のシーンに映っている観客らしき人間たちが、その後、オペラ劇場の観客席に入ったと想定することは自然なことであるだろう。あるいはまた、カメラが舞台袖から撮った視角はあっても、舞台上で撮影したようなカットが一切存在しないことからも、それは言えそうな気がする。)
 これがもし舞台上で観客に生で提示されたパフォーマンス作品だったとしたら、その記録映像は「パフォーマンス作品」ではありえないだろう。たとえば、この文の最初で取り上げた「バス名所観光ハプニング」は、正当にも「映像資料」として上映されていた。
 だが、奇妙なことに、ここではこれがマシュー・バーニーの「作品」として展示されているのだ。

 ところで、同じ会場の1階には、先にちょっと触れたヘルマン・ニッチュ(Hrmann Nitsh)の展示室があり、そこでは例の豚の血みどろ屠りパフォーマンスなどの映像が、4つほどのモニターで上映されているのだが、こちらは、じつは大きな展示スペース全体を、まるで儀式の行われる場であり、パフォーマーのラボラトリーでもあるかのように構成した空間作品の一要素として、つまり他のいくつかの写真や家具や棚の展示とともに全体構成物の要素として提示されているのだ。これは映像の上映という性質のものではなく、その作品としての質は別として、たしかに全体としては辛うじてインスタレーションと言っていいものだと思われた。
 しかし、マシュー・バーニーのこの映像記録は、“ただの映像”である。

 こんなふうに考えていくと、展示構成者のセンスというかエチカというか、そういうものが疑わしくなってくる。
 これが、今回の横浜トリエンナーレを観た感想のうち、もっとも大きな部分を占める異和である。


 小林武久のインスタレーションにも触れたかったが、もう書くのに疲れた。
 小賢しそうだが他者の視線を欠落させているのでつまらない多くのパフォーマンス映像やインスタレーションを見て歩き、一息入れようとカフェに入ったら、そこに錆びた荷揚げ用のクレーン塔が立っていた。
見あげると、カラスとハトが一羽ずつ止まっている。

 これがいちばんゲージツ的かなと、写真を撮った。                                                                                                                                                                                                                                        

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 21:53Comments(1)美術展

2008年09月13日

長重之展&栃木県立美術館




 また宇都宮を訪れたついでに、栃木県立美術館で、長重之展「時空のパッセージ」を観た。

 長重之は、1935年東京・日暮里生まれ。9歳のとき父親の故郷である足利に疎開し、以来、現在まで足利に住み続けて創作活動を行っている。
 独学で絵画の制作を始め、1962年、読売アンデパンダン展に、火夫に見立てた油彩の自画像を出品してデビューした。
 1968年、カンヴァス地に巨大なポケットを縫い付けた作品<ピックポケット’68>を発表し、そのヴァリアントによるシリーズを、少なくても1999年まで製作し続ける。
 また、1978年にはパズルのような形のプレートを組み合わせた作品<視床−1>を発表し、このシリーズも少なくても1980年代の終わりまで製作し続ける。
 他に、“如何にも70年代”といった印象のイベント<ロードワーク>や、自らの身体を使ったパフォーマンス<アタッチメント>などを展開しつつ、今日に至っている。



 長作品のなかで、私がもっとも惹かれたのは、その初期(50〜60年代)に製作された油彩である。
 この時期の油彩には、大きくわけて三種類の作品群がある。
 まず、長自身がガス会社のボイラーマンをやっていたことから「火夫」と名づけられた一連の作品群。それは口から赤い火を吐く造形である場合と、暗闇から姿をあらわすロボットともゴリラとも骸骨ともとれる造形である場合との二種類あるのだが。
 次に、精神病院の看護助手として働いた体験から製作された「看護人」という一連の作品群。こちらは精神科病棟を上から、または横から描いたかのような“箱”によって構成されている。
 そして、後の「ピックポケット」の前哨でもあるかのような造形の「ポケット」と名づけられた一連の作品群がある。見ようによっては、油彩の「ポケット」は、「看護人」における画面構成を踏襲し、しかしその内部的な意味を転換させた作品であるかのようにも思われる。





 長の回顧展を観て、いちばん書いておかなければならないことは、やはり一連の<ピックポケット>作品についてだろうと思う。
 1967年に油彩として初めて発表された<ピックポケット>は、1968年にはカンヴァス地に巨大なポケットを縫い付けた作品として発表され、その後いくつものヴァリアントが製作・発表される。
 そして、1997年になると、この<ピックポケット>のモティーフは、今度は「ピックポケット<閉じ込められないもの>」という透明なビニールのポケットの作品群として姿を表す。
 これはカンヴァスを張る木枠を土台にして、それに写真や物や文章のコピーを配置し、その全体をビニールのポケットに入れた作品である。(展覧会のチラシの表面の写真参照)
 ビニールポケットの中に収められたそれらのモノは、家紋、古銭、大福帳みたいな控え、古地図、外国の国旗、年代ものの野球道具、外国の偉人の写真、先祖の写真、家族の写真、作者自身の写真などなどである。
 一見して、このポケットに収められたものが、<歴史>(近世・近代における世界と日本の関係史)と<一族の歴史>と<家族及び自分の歴史>という三つの系統とその混淆で歴史の流れを物語ろうとしているということが伝わってくる。

 この回顧展のために作成されたパンフレットを読むと、長重之は足利の名家である長家の家督を祖父から引き継いだのだという。
 引き継いだのは祖父の遺産であるとともに、古くからの血縁や地縁、つまり<足利>という関係性でもあった。
 これらは「閉じ込められないもの」とされているが、それをビニールとはいえ、ポケット収め、いわば“閉じ込めて”提出してみせるという手法が、かれのアンビバレントな想いを表しているようにも見える。


 平日の正午過ぎ、観客はほとんど私一人だったので、じっくり長重之展を観て歩いた。
一息つこうと館内の喫茶店に立ち寄ってコーヒーを飲み、さて、今度はこの美術館の収蔵品展へ回ろうかと席を立ったところで、「どちらから?」と人に話しかけられた。
 それが長重之さんご本人だった。
 長さんは、私がメモをとりながらじっくり観てまわっているのを見かけ、少しは美術が分る人間かと思って話しかけてきたようだった。テーブルに腰掛け直して、少し話をした。
 名刺をもらったので、私も、気恥ずかしいがしょうがなく「詩人・高啓」の名刺を差し上げた。
私は、「ピックポケット<閉じ込められないもの>」について、上に書いたような感想を述べ、長さんは今までの表現活動について話した。
 私は「足利」と聞くと詩人では石原吉郎を思い出すと言ったが、彼は知らないようだった。
 彼は私が山形から来たと聞いて、この美術館のキュレーターの山本さんも山形出身だと言った。その山本さんは、今、すぐ隣のテーブルに座っている人だという。山本さんは、売り込みに来た(?)美術家と話し、その人の作品のポートフォリオをパソコン画面で見ながら質問を浴びせていた。
 長さんは、ショップから展覧会のパンフを調達してきて、それを私にくださった。(私はお返しに帰形後『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』を郵送した。)
 それで、私は、「じつは、私は、マインドは演劇畑の出自なもので、美術家のやるパフォーマンスはみんなどうしようもなく幼稚に見えるんです・・・」と喉まで出かかかった言葉を飲み込んだ。

 
 さて、栃木県立美術館の収蔵品展「コレクション企画? 出会いに始まるものがたり」も、なかなか印象的だった。
 とくに柄澤斎(1950〜)の1970年代の木口木版画やリーヴァル・オブジェと呼ばれるコラージュ作品、古田土雅堂(こたとがどう)(1880〜1954)の1920年代の油彩、そして篠原有司男の迫力あるバイクのダンボール彫刻「モーターサイクル・ママ」(1973年)などに惹きつけられた。

 それから、「伊藤直子 マイセン磁気コレクション」というコーナーもあった。
 この種のものには関心がなかったが、ついでに、と立ち寄ると、へぇ〜と目からウロコ。
 ヨハン・アヒム・ケンドラーによる1770年代の原型を元に19世紀後半に製作されたという水注を見て、マイセン磁器についての先入観を覆された。かなりエログロというか、アングラっぽいというか・・・。もっとも、あまり近づきたくない世界ではある。(笑)                                                                                                                                                                                                                  


  

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2008年07月10日

ロシア・アヴァンギャルド展



 7月の初め、東京・渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されていた「青春のロシア・アヴァンギャルド〜シャガールからマレーヴィチまで〜」を観た。
 このモスクワ市近代美術館の所蔵品展で観ることができる作品のうち、美術鑑賞素人のじぶんがこれまで聞いたことのある作者の名前は、カンディンスキー、シャガール、ピロスマニくらいのもので、ロシア・アヴァンギャルドとはどんなものか、じつはごく限られたイメージしかもっていなかった。
 その限られたイメージとは、この展覧会のチラシの表面に大きく採用されているカジミール・マレーヴィチの作品(「農婦、スーパーナチュラリズム」)のような部類だったのだが、この展覧会の展示と年表による解説で、1910年代から20年代にかけて、革命と革命の変質の時代を走り抜けた美術の“前衛”たちの姿が、もう少しだけ広く、しかももう少しだけ確からしいものとして想像できるような気がしてきた。

 ちょうど、若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍』の感想を書こうとして、笠井潔『テロルの現象学』(1984年、作品社)を読み直しながら、ナロードニキからボリシェビキへ、さらにはスターリニズムへ至る過程の革命観念の変質について考えていたところだった。
 考えていたところだった・・・などというと、如何にもなにかそれなりの見識をもったようなふうに聞こえるが、まさに語のとおり、“考えていた”という以外にここに書くべきことなど持ち合わせていない・・・。

 だから時代性をきわめて素朴に関連付けてしまうのだが、たとえば、20世紀初頭のパリのフォーヴィスムの影響を受けた帝政ロシアの前衛画家たちが、その時代のロシア・インテリゲンチャ総体の宿念ともいえる“ナロード”という観念の影響を受けて、「ネオ・プリミティズム」のような傾向性を帯びるのは自然な成り行きだと思えてくるし、そのゴーギャン的な世界が、同じ時代のパリのキュビズムの影響をも受けつつ、革命の進展のなかで「立体未来派」という方法に転換していくのもずいぶんと合点がいくような気がする。
 そして、立体未来派を主導したカジミール・マレーヴィチの作品が、革命観念の変質(革命党のいわゆる“ボリシェビキ化”と近代的な工場労働者を主体とする革命思想)の時代に、やがて民衆のイメージから完全に乖離して抽象絵画の「スプレマティズム」に至るのも、またこれと機を同じくして、抽象彫刻の「ロシア構成主義」という動きがでてくるのも、いわば当然の帰結だと思われてくる。

 そういえば、このマレーヴィチの作風の変遷は興味深い。
 ブルリューク、カンディンスキー、シャガールが亡命したなかでソヴィエト・ロシアに残ったマレーヴィチは、ナロードの磁場を離脱し抽象絵画の極点まで至ったかに見えるところで、スターリン政権による抽象芸術への弾圧を受け、やがて極めて具象的で伝統的な肖像画や農民の絵画に回帰していくのである。

 すると次には、10月革命前後に作成されたアリスタルフ・レントゥーロフの作品は、そのタッチや彩色が激しくエロス的で、まさに野獣派!という感じなのだが、この作者は、革命の理念が変質していくスターリニズムの時代に、どんな道を辿ったのだろうか・・・と、気になってくる。


 さて、こんなふうに見てくると、観る者はこの展覧会に、次第にストレスを覚えはじめる。

 これらの作品を「革命の季節を駆け抜けた若者たちの軌跡」(チラシの文言)として紹介するのなら、革命思想やロシア・インテリゲンチャの観念の変質とこれら前衛芸術運動の軌跡の関連性について(単純に関連があると見做すのが誤りならその旨)、もっと突っ込んだ解読・解説の試みがほしくなる。

 キュレーターが革命思想やロシア精神史に疎いのか、このあたりをまともに問い始めるとスターリンのみならずレーニンをも批判する内容になるからモスクワ市近代美術館に気を使ったのか(というか、そもそも現在において、ロシア人の目前でレーニンを批判することに気を使わなくてはならないのかどうかをじぶんは知らないが)・・・・、ひねくれものの観客は、この程度の解説では満足しない。
 美術展にそこまで求めるなと言われそうだが、ある種の展覧会に行くと、個別作品につけられた解説では、まるで作者にモチーフを聞いてきたかのように自信満々で特定の解釈を付しているのに、その反面で展覧会構成者としての視点やその口上についてはきわめて通俗的か漠然としているのが常である。
 このアンバランスは、たぶん美術の世界に馴染んだ者は気が付かないだろうが、美術の門外漢にはずいぶん奇異に見える。

 ところで、この展覧会のもうひとつの見ものは、ニコ・ピロスマニの10作品である。
 ピロスマニは、ロシア・アヴァンギャルドとは関係ないところで看板を書いていたグルジアの絵描き。それが“見出され”、ロシア・プリミティヴィズム運動のなかで、中央画壇に紹介されたということらしい。
 放浪生活を送ったというピロスマニの生涯は映画にもなっている。
 ネットで本人の写真をみると、歌にもうたわれるバラにまつわるロマンチックな物語とは無縁で、なんだか“看板屋のオヤジ”という印象だが、このひとの作品の存在が、この展覧会全体に潤いと癒しと、その一方で、じつはじっとりとした陰影を与えている。


 ※ この展覧会は8月17日(日)まで。            
  

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2008年06月01日

バウハウス・デッサウ展



 東京藝術大学大学美術館で開催されている「バウハウス・デッサウ展」(BAUHAUS experience,dessau)を観た。

 バウハウスは1919年にドイツのヴァイマールに誕生した国立の造形芸術学校。
 初代校長のヴァルター・グロピウスは、設立宣言で、「あらゆる造形活動の最終目標は建築である」とし、身の回りの日用品から建築に至るまで、芸術と技術を統一して造形活動を行うことを目標とした。
 バウハウスは、ヴァイマールからデッサウ(旧東ドイツ)、そしてベルリンへと拠点を移しながら活動し、ナチスの台頭とともに閉校を余儀なくされたという。
 この展覧会は、バウハウスの創設者であるグロピウスの理想が具体化されたデッサウ期に焦点を当てて紹介している。

 ヨーゼフ・アルバース、ラスロ・モホイ=ナジ、ヴァシリー・カンディンスキー、ヨーゼフ・アルバース、ヨースト・シュミット、パウル・クレー、オスカー・シュレンマーなどの教授陣(「形態マイスター」と呼ばれた)が担当した「基礎教育」における学生の演習作品(われわれの受けた中学や高校での美術教育にかなり近いものもある)や、日用品や家具などの工房製品、絵画、写真作品、舞台工房の上演作品資料など、多方面に亘る豊かな活動が紹介され、さらに、「バウハウス校舎」、「マイスターハウス」(教授用の2世帯向け住宅)、「テルテン・ジードルンク」(テルテンに建てられた勤労者向け集合住宅)などの建築関係資料も展示されている。

 この展覧会を観るまで、バウハウスに関する私の知識はごく限られたもので、モダンなデザインを生み出した家具や建築の造形美術学校という程度のものだったが、その多様な表現、とくに校舎に舞台があって、そこでシュールな舞台芸術まで志向していた姿に惹きつけられた。


 主な感想を述べれば、次のふたつ。

 まず、デッサウ期のバウハウスが、芸術と技術を統一する思想のもとに、機能的で、工業化すなわち量産化される製品の創造を目指したところの、一種の合理主義・近代主義に対して、なぜか閉塞感を感じたことだ。

 たとえば、家具と建築。
 これは、いわば近代芸術とドイツの伝統的なマイスター制に支えられた技術との統一であり、また、そのデザインは、量産されるモノのプロダクト・デザインのルーツとして、今日私たちがショップでよく目にする製品のそれへと一直線に繋がっているものだ。
 建築についても、それは統一したデザインのもとに規格化され、工場で量産される部品によって構成されるところの、今で言うプレハブ住宅に繋がる思想を内包している。
 このような芸術と技術の統合と、そしておそらくは量産製品による芸術の日常化=大衆化を目指す運動が、当時、如何に先進的で新鮮だったかは創造できるような気もするが、うまく言えないけれど、ここには当初から、なにか、自由を求めていたはずの西欧近代合理主義が、逆説的に不自由を帰結していくひとつの根本的性向が胚胎されていたような印象を受けてしまうのだ。
 日本人としての自分の感覚に照らしていえば、芸術作品としてのプロダクト・デザインが日用品の世界に入ってくるのは歓迎できても、それが<建築>にまで統一されてしまうとき、そこには皮膚感覚として、とでもいうような、逼塞や異和を感じてしまうのである。


 感想のふたつめは、バウハウスの活動では、おそらく傍流に位置する絵画や写真作品や舞台作品に関するものだ。

 絵画は、カンディンスキーとクレーによる「自由絵画教室」における教授及び学生たちの作品であり、写真と舞台は、おそらく教授(写真はラスロ・モホイ=ナジ)と学生のまったく自主的な創作行為(今で言うサークル活動のようなものか)としての作品のように思われた。
 これらの作品の性向は、いわばプロダクト・デザインの性向がその初発の段階から孕んでいた閉塞(の予感)への反撥のようにして表れているかにみえ、あるいはまたそれらふたつの性向はバウハウスの表現思想として相互補完的なものにも見えるのだった。

 なかでも、興味深かったのは、オスカー・シュレンマーの「トリアディック・バレエ」の上演フィルムであった。この作品は1922年にデュッセルドルフで初演されたものだということだが、その資料に基づいてテアター・デア・クランゲという劇団(?)がテレビ番組のために再構成した1969−70年の作品である。
 このバレエの登場人物(の「着ぐるみ」というか「張りぼて」というか、つまりは意匠)と動きがじつにシュールである。
 ロボットのようであり、宇宙人のようであり、未来的な人形のようであり、ナントカ戦隊ゴレンジャーに出てくる敵役のスーツのようであり・・・。
 また、積み木のロボットみたいな構成体が、平面的すなわち二次元的に踊るクルト・シュミット、ゲオルグ・テルチャー「メカニカル・バレエ」(1923年初演。テアター・デア・クランゲによる1988年の再構成舞台)も、なかなか斬新だった。
 今日では、NHKの子供向け番組で見かけそうな映像であるが、その構成体を身につけている黒子の踊り手が、ダンス的身体をちゃんと造っているのがその演技から伝わってくるので、大人が観るに値する動きになっている。
(ちなみに、再構成された「トリアディック・バレエ」の着ぐるみのデザインがあまりに今日的で、展覧会に展示してあるモノクロの当時の写真に写っている着ぐるみとだいぶ印象が乖離しているので、これは再構成した者が現代的な感性に基づく創造を加えて作ったのだろうと思ったが、帰りがけに書籍販売のコーナーで覗いたバウハウスに関する書籍に、たしかにそのように斬新な造形が、当時のデッサンとして残されていたことが記載されているのだった。)


 さて、最後に余談をひとつ。
 帰りがけに、同大学の「陳列館」というミもフタもない名前の展示館で開催されていた「スロベニアの建築家ヨージェ・プレチニク(1872〜1957) ウィーン、プラハ、リュブリャーナにおける創造の軌跡」という展示を覗いた。
 同大美術学部とスロヴェニア共和国大使館の共催となっている。
 同国政府が肝煎りで開催している様子が、プレチニクの業績を伝える上映フィルムから伝わってくる。











 チラシに、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子がプレチニクの建てた教会を「馬舎、ヴィーナス神殿、トルコ風呂の混合物」と酷評したとあるが、まさにいろんな要素がてんこ盛りで不統一な建築作品の写真が並んでいる。

 プレチニクは、ウィーン美術アカデミーでオットー・ワーグナーに師事している。
 このプレチニク展を観ると、こういう西欧の建築や都市計画の風潮の中で、バウハウスがいかに自由で先進的だったかが沁みてきて、“不自由を帰結していくひとつの根本的性向”への臭覚など、どこかへ雲散霧消してしまいそうになる。


 同大が意図的に仕組んだわけではないだろうが、このワナに注意すべきかもしれない。(笑)



※ バウハウス展は7月21日まで。プレチニク展は6月22日まで。                                                                                                                                                                                                    


  

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2008年05月14日

「大岩オスカール:夢見る世界」展と「屋上庭園」展



 東京都現代美術館で「大岩オスカール:夢見る世界」展と「屋上庭園」展を観た。

 大岩オスカールは1965年サンパウロ生まれ。これまで、サンパウロ、東京、ニューヨークで活動してきたアーティスト。
 この人の作品は今回初めて観たはずなのだが、どこかしら既視感があった。

 作品は、都市の風景(比較的リアルでおもに鳥瞰)の地に、動物や植物(花や木の幹など)を重ねて夢想的な世界を創出した大作ものが印象的だった。
 面白かったのは、これらの作品の構想や構図が決められていく過程がわかる制作途中のスケッチや写真(自分が撮影したものの他に雑誌や新聞の切り抜き)のコラージュが展示されていたこと。
 それから、このサンパウロ生まれの作者が、日本のごみごみした下町の鉄工所みたいな工場や倉庫や路地の民家に関心を示していることだった。
 とくに日当たりの悪い路地裏の民家(それはじつにありきたりで陰気なものだが)の暗い曇りガラス窓の向こうからぼんやりとみえる電球の灯りを何度も描こうとしている点など。
 それらは、こういう絵では飯が食えないだろうなと思われる絵だ。一方で、大型で派手で夢想的で、いかにも売れるだろうなという絵がある。その落差が面白いともいえる。

 ところで、この「大岩オスカール:夢見る世界」展の展示では、美術館やコレクターに買われている大きなサイズの絵画が展示された部屋に至るまで、若い頃の比較的つまらない作品を見せられる。それを、それほど退屈させずにフィナーレまでもっていく展示の空間構成が、作品全体のイメージを援けていると思った。




 一方、これと逆に、企画とその広報に疑問を感じてしまったのが「屋上庭園」展だ。
 「自然光の差し込む3階展示室を屋上庭園と捉え、近現代の作家の庭をめぐる様々なアプローチを、10のセクションに分けて紹介」しているというのだが、その口上なりコンセプトなりからは、庭をめぐる空間的な構成を期待してしまうところ、じつは並べられた10の領域は、企画者のアタマのなかで、とても理知的なバイアスによって関連付けられているので、その指向性が理屈っぽい分だけ、観客にとっては付き合わされるのが億劫かつ退屈なものとなっている。

 まず、観客は、「グロテスクの庭」と題された部屋一面のニコラ・ビュフ(1978〜)の大作に付き合わされる。(これが退屈至極であるため、初めにがっくりくる。)
 それから「庭を見つめる」と題された河野通勢(1895〜1950)のスケッチ、「掌中の庭」と題された明治末から昭和初期にかけての版画誌、「夜の庭」と題された戦前の日本シュルレアリスム作品、「閉じられた庭」と題されたアンリ・マティス(1869〜1954)の詩集挿絵、「記録された庭」と題された中林忠良(1937〜)の腐食銅版画、「天空にひろがる庭」と題された内海聖史(1977〜)の小さなパネルを壁一面に配した作品(「三千世界」)等などが順番に配置されている。

 ポップな内海作品(チラシに写っているもの)を除いて、展示されている作品はどれもこの美術館のコンテンポラリー・アートを中心としたイメージとやや異なるし、何れも地味でその作家やその領域だけでは観客を呼べそうにない部類の作品群だ。
 だからこうして、あるテーマに沿ったかのように構成・配置して観客に提示したり、比較的派手な大岩オスカール展と抱き合わせで客寄せしているのだろうが、それならそういう地味な作品だということが十分にわかる広報をしなくてはならないだろう。
 自然光差し込む(?)「屋上庭園」という名称と内海作品をメインに掲げた広報は、この企画展全体の印象からみると、観客を裏切るもののような気がする。
 いや、そういう客寄せの裏切り方は“あり”でもいいし、この「庭園」をコンセプトにした展示は、企画としてはずいぶんアタマを使った工夫なのだろうと、そこは評価もしたいのだが、・・・展示作品がつまらないのではしょうがない。

 また、芸のないガラスの陳列棚で版画誌を観て回らせたり、壁に連続して余裕なく作品を並べただけの部屋があったかと思うと、中ぐらいの大きさの展示室全部を使って、須田悦弘(1969〜)の「ガーベラ」という実寸代の一輪の花を模った木彫が展示されている。
 こんな展示をされたら、どんな作品だってそれなりいわくありげに見えてしまう。
 展示の方法がうまいといえばそれまでなのだが、なんだか卑怯な気がして、この贅沢な展示を味わう気になれない。
 そう感じるのは、ただ、私がひねくれものだからだとは思うが。

 もちろん、よくみると、日本のシュルレアリスムが弾圧された時代の寺田政明「夜の花」(1942)や中林忠良の 「Transposition―転位−?」(1979)など、暗く地味ながら印象的な作品が展示されている。
 だからこそ、このような広報と展示の企画については、あえて違和感を表明しておく。

 この美術館は、とくに、作家の作品とその作品を構成・展示するキュレーターの“共同作品としての展覧会”という感じの企画を打ち出しているのだから、展覧会自体が、いわばひとつの作品として鑑賞され、批評されるべきだろう。

 そういう批評はシビアになされているのだろうか。
 もっとも、美術関係誌をほとんど読まない私が知らないだけなのかもしれない。
                                                                                                                                                                                                                                   

  

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