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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2008年03月15日

サンボマスター仙台ライヴ




 夕方、高速バスで仙台へ向かい、今日のライヴの会場“JUNK BOX”の入った仙台フォーラス前のバス停で降りる。
 フォーラスは、ずいぶん前だが以前にも訪れたことがあり、そのときの印象では若い女性向けの洒落たブティックやカフェが入ったファッショナブルなビルという感じだったが、地下2階のJUNK BOXを探して細いエスカレータで降りていくと、地上階の華やいだ雰囲気とはずいぶん異なった、大袈裟に言えば別世界とでもいうような空間が広がっていたのだった。

 エスカレータを降りると、すぐそこに時遊館というカラオケのチェーン店があるのだが、肝心のJUNK BOXの場所が(そこに看板があるのに)どこなのかが分らない。時遊館の中をうろついたが通路は判明せず、結局時遊館の受付の若い女性に尋ねる。
 するとその女性は、時遊館の前を通り過ぎた廊下の突き当たりと見えるところに“北京餃子”という中華料理店があり、その突き当たりを右手に折れてさらに奥に進むように、と教えてくえたのだった。

 その北京餃子という名の店に近づいていくと、廊下の床や壁の汚れや傷がちょっとやばい?みたいな雰囲気を醸し出していて、いよいよもって別世界・・・という感じがしてくる。
 店の前に置かれた定食などのサンプルは特大盛りで、価格も500円前後と安い。店外に食券の自動販売機があり、その周囲には模造紙にマジックで書かれたきたない字のメニューが貼られ、アジア系の若者が大声で話したり電話をしたりしている。店の中からは、マイクで注文の品と半券番号を読み上げるアナウンスが聞こえてくる。サンプルの見た目も“日本の中華料理”というのとはちょっと違う。

 遠くからは行き止まりに見えたその店の突き当たりの場所には、じつはまだ右に折れれば奥に繋がる細い通路があって、そこを進んでいく。
 料理店の調理場の勝手口が見える。どこかくすんだ空間は、旧い地下倉庫の通路を歩いているような印象だ。
通路の先が少し広くなっているところ、そこに居酒屋チェーンの“笑笑”の地下の入り口らしきものがあり、それを右に見て左に折れると、そこがJUNK BOXの鉄の扉の前なのだった。

 場所を確認したので、今来た経路を戻っていったんビルの外に出る。
 すぐ隣のアーケードの通りでは、勤め帰りの人々やこれから落ち合って食事にでもいこうかという人々が地上を行き交い、あるいは待ち合わせをしている。
 どこか適当なカフェで軽食をとり、時間を潰そうかと考えてあたりの店に入るが、どうも気にいらない。街路の雑踏をうろついた挙句、結局はあのいかがわしい地下に戻って、“北京餃子”の自動販売機の前に立っていた。

 「北京餃子風酢豚定食」500円を注文し、あまり勉強していそうではない学生風の若者たちに混じって普通盛りでも大盛りほどのボリュームがある定食を頬張る。
 ずいぶん甘く塩気のない酢豚だった。おかげで合成着色料の塊みたいな赤とピンクの紅生姜で飯を掻きこむことになった。

 膨れた腹を抱えてJUNK BOX前の列に、じぶんの子どもほどの年齢の若者たちに混じって並ぶ。
 30代らしい者もけっこういるが、40代に見える客はほとんど目につかない。50歳のじぶんが最年長か・・・と思うと、連れもなく一人で並んでいることがやや恥ずかしい。
 若者たちを見ると、Tシャツ姿で首にタオルを巻いた者が目に付く。
 入場が始まると、客たちは上着を脱ぎ、袖を腰にくくりつけている。じぶんもそれをまねる。
 職場から直行だったのでディバッグを肩に掛けていたのだが、これも邪魔になるのか・・・とやや不安になる。なにしろ始めてのオール・スタンディングのライヴなのだ。


 入り口で入場チケットのもぎりを受け、ワンドリンク代500円を支払う。
 運よくコインロッカーが空いていたのでそこに荷物を詰め込み、カウンターで(ほんとはビールを飲みたかったが山形に帰り着いてからの運転があるので)ウーロン茶をオーダーして、ライヴ・スタジオに入る。
 客の入りは、回りの者と肌が触れ合わないくらいの密度で、初めての人間にはちょうどよい具合だ。
 19時を少し過ぎたころ、なんのMCもなくサンボマスターの3人がステージに現れ、BGMに流れていた曲のフレーズに被せるかたちの山口隆のギターソロで、そのライヴは始まった。


              ※     ※     ※     ※     ※    


 BSフジで放映した2006年3月の恵比寿LIQUIDROOMでのライヴをREGZAのハードディスクに録画して2、3度観ていた印象と変わりなく、いわばじぶんの想像していた風景にちかい様子でそのライヴは始まった。

 山口のボーカルは喉を締め上げてめちゃくちゃにがなっているようにみえて、とつぜんクリアな旋律に戻る瞬間があり、このひとの音楽センスが只者でないことを窺わせる。ギターを胸元に引きつけて抱きしめるように抱えた演奏は、そのめちゃくちゃなアドリブ調のがなりと対照的に、激しくも驚くほど安定している。
 近藤洋一のベースは骨太の音階でしっかり曲の基盤を形づくっているようでいて、途中けっこう乱れて独自の世界に入る。
 木内泰史のドラムスは重くそれでいて鋭いパンチを繰り出し、明確にその存在感を主張する。
 だが、なにかが足りない・・・初めてのライヴなのにそう思った。


 1時間以上が経過したと思われるころ、異変が起こった。
 近藤のドラムスが故障して、曲の合間に山口のMCが入る。近藤は、こちらからは人陰で見えないが、たぶん屈んで修理をしている。なかなか直らない。それを待ちかねて、山口が木内にふたりで曲を始めようといい、するすると演奏に入る。
 その曲の中途で、修理を終えた木内のドラムスが加わる。・・・そのときからだ、なにか流れが変わりだしたのは。


 その次の曲、それがなにだったかは憶えていない。
 だが、ドラムスの修理後をこのライヴの後半だと看做せば、この後半はサンボマスターというバンドの発する緊張感がまったく違っていた。
 それは録画で観るLIQUIDROOMでのライヴより格段に激しく、切羽詰ったものを発していた。
 三人は瑞々しい光を発し、明確な主張を発し、それがこちらにビシビシと届いてくる。
 山口の曲が表現してしまうこと、山口という存在が表現してしまうこと、CDではいまひとつ丸くくるまれて韜晦しているそれが、いまならはっきりと分かるような気がする。
 さすがにジャンピングしながら腕を突き上げたりできなかったが、気付くとじぶんは断片的に知っている部分の歌詞を口ずさんでいた。その声は大きなサウンドに突き消されてじぶんにさえ聴こえないが、「歌声よおこれ」「そのぬくもりに用がある」「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」「光のロック」「I Love You」・・・じぶんは山口に合わせて次第に声を張り上げていった。


 山口はライヴの途中のMCで、雑誌「音楽と人」に書かれた演奏評に言及して、そこで自分が「不安」に揺れていたという意味の指摘を受けたことに反撥してみせた。
 曲の途中にアドリブで「おれが不安に見えるかぁ〜!?」と怒鳴り、観客に喚声で否定させた。
 しかし、“山口という表現”、それはまさに不安から発せられたものに違いないではないか。


 山口が詠う詩の根底には、憎しみや恨みや嫉みへひきつけられていく人間の暗さ、醜さ、矮小さへの強烈な自覚とそれへの激しい反撥が、つまり生の歓びに向かう強烈なリビドーが同居している。まるでエロスとタナトスが表裏一体のものであるように。

 山口は、たぶん、その不安を打ち消すように、しかし一見したところエンターテナーとしてのサービストークであるかのような素振りで、どのライヴでもこんなふうに言うだろう。

 “あんたらと会いにきたんだ・・・”、

 “あんたらとロックをやることが悦びなんだ・・・”、

 だが、この仙台の夜にはそれに続けてこう言った。そのようなことをいつも言うのだろうか。

 “ロックをやってるときのこの悦びは、生まれてきたことそれ自体の歓びなんだ”と。


 山口の、この生の善良性と肯定へ向かう強烈なメッセージを(そしてそれを限りなく発出させる源としての、逆説的根拠としての不安を)、額面どおり受け取っていいのだろうか。
 たぶん、いいのだ。
 なぜなら、それは山口という表現者、サンボマスターという表現者たちの“実力”によって根拠を与えられているから。


 19:00過ぎに始まったライヴが、いったんラストを迎えたのは21:45ころだった。
 “今日は長くやるよ”と、山口は最初の方で宣言していたが、それでもMCは挟んでも休憩は狭まず、150分以上を駆け抜けていた。
 アンコールに応えて(けれども楽器は持たずに)再びステージに現れた3人が、しばしトークを続ける。これだけ長く演奏するのはこのツアーで初めてだという。

 だが、ドジなことに帰りのバスの正確な時刻と、さらにはふと気付くと正確な停留所の位置さえもを確認していなかったじぶんは、21:55ころ、JUNK BOXを後にした。
 もし演奏が続いていたら、山形までのタクシー代を覚悟で最後まで付き合っていたのに・・・と思いながら。


 諸君、郡山「#9」でのライヴは3月17日、青森「クォーター」は19日、札幌「ベッシーホール」は22日、そして日比谷野外音楽堂は4月6日だぞ!
                                                                                                                                                             





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:55Comments(0)音楽について

2008年03月08日

井の頭公園行

 いつものようにぶらりと東京へ出かけた。
 大きな書店を廻ったり、街の景観を眺めてあるいたり、たまに展覧会を覗いたり、たま〜に小劇場演劇を観たりするだけだが、小遣いが溜まると、ふらぁ〜りと東京へ向かっている。

 今般は、JR東日本の「大人の休日倶楽部」(うっ、歳がバレる・・・)の会員パスで、3日間乗り放題12,000円というチケットを利用したのである。
 このチケットでは行こうと思えば金沢まで行けるのだが、結局いつもどおり“東京ぶらぶら行”を繰り返すことになった。


 まず足を向けたのは吉祥寺。

 吉祥寺というと、20年以上も前に渡辺えり子の劇団3○○(さんじゅうまる)の芝居を「吉祥寺バウスシアター」に観に来たのが思い出される。
 どんな芝居だったかあまり憶えていないが、「瞼の女−まだ見ぬ海からの手紙」だったような気がする。
(ネットで検索すると・・・バウスシアターは映画館だったんだ・・・)
 渡辺えり子の芝居は、岸田戯曲賞を受賞しただけあって、戯曲はけっこうよく書けていたりするのだが、舞台の方は“女子高演劇”という印象を受けたのを憶えている。

 話は飛ぶが、山形に来て、大学に入って、五月病のちょっとした気の迷いで演劇研究会の部室に足を踏み入れてしまったものの、そもそも高校まで演劇なんてまったく関心も何もない人間だったので、なりふりかわまず手時かな芝居を観て回ったのだったが、その手近の芝居というのが地元高校演劇部の公演だったりもして・・・そのなかに山形西高という女子高の公演も含まれていたのである。
 この山形西高というのは、当時は県内でもトップクラスの進学校だったが、渡辺えり子の出身校である。
 それを知っていたからか、知らなくてもなのか、は定かではないが、渡辺えり子の芝居を観た第一印象が、“あ、これ、山形西高の芝居の延長線じゃないか・・・”というものだった。
 プロの劇団3○○の舞台と訓練されていない女子高生の舞台とを同列に扱うのは失礼だが、しかし、どこかしら漂っているテイストというものがあったのだと思う。

 脱線ついでに言うと、山形には山形北高という女子高もあって(当時は北高の方が男子には人気があった)その舞台も観に行ったのだが、同じ女子高演劇でも全然テイストが違っていた。
 こちらは実力派といった印象で、大学生のくせに、先輩に連れられてこの女子高の稽古を見学しにいったこともある。(^^;

 何れにしてももう30年以上も前の話だ・・・・あっは。



 最初から思い出話で脱線してばかり。歳をくった証拠かもしれぬ・・・(自嘲笑)

 さて、井の頭公園を訪ねたのには、ちょっとばかり恥ずかしい訳があった。

 駅から公園に向かう路地にはすでに人が溢れているが、この界隈は明るくくつろいだ雰囲気である。
 坂を下って公園に入ると、そこには写真のような大道芸や演奏をする人々がいて、散歩人たちが足を止めて見入っている。
 遊歩道沿いには、手作りのアート作品を売る出店がならんでいる。
 よく観るとその出店には「ART*MRT」という許可証が掲示されていて、これが「井の頭公園100年実行員会」主催による「アートマーケッツ」という企画なのだということがわかる。



 以前、この公園を訪れたとき、これらの出店のなかに若い女性が手作りの詩集を売っているのを見つけ、いつかじぶんもこうして詩集を売ってみようか・・・・などと想ったのだった。
 それを思い出しての下調べというのが、じつは恥ずかしいというここを訪れたその訳である。
 しかし、店開きするには「東京都西部公園緑地事務所管理課」の許可がいるようだった。

 2枚目の写真は、ブルースを演奏するおっちゃん。
 テネシーワルツをブルースで歌っていた。
 このおっちゃんだけだと、ブルースオタクの爺という印象で終わるのだが、バックに若いギタリストを率いているので、なかなかカッコよく見える。
 写真では、この若い男性が街灯の柱に隠れて見えないのが残念。





 ふとこの東京という街がくそったれの階級社会であるということを忘れさせる空間。
 それが休日の井の頭公園である。



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:02Comments(0)歩く、歩く、歩く、