2012年08月21日
弘前の想い出

十和田~弘前~盛岡と車で巡った盛夏の旅、・・・その最後は弘前について。
黒石市を出て弘前市に近づくと、岩木山が前方に姿を現した。
岩木山はコニーデ型の独立峰。津軽平野に聳え立つその存在感は流石にどしんとくる。
もっとも、岩木山にはどこかしら女性的なやさしさを感じる。独立峰として同じように聳え立つ岩手山が、男性的な険しさとか近づきがたい厳しさを感じさせるのとは対照的である。岩木山は秋田県南部から見る鳥海山ほど美人ではないが、美人過ぎないところがまた愛着を抱かせる。
正面に構える岩木山に対面して気分が高揚したのか、運転しながら「きいいっと帰ってぇ~くるんだと、お岩木山で手を振れば~♪」と、つい松村和子の「帰ってこいよ」が口をついて出てしまった。
もっとも、助手席の連れは「オイワキヤマ」が「イワキサン」だとピンと来ず、なぜこの歌を突然歌いだしたのか訝しげにしている・・・(苦笑)
弘前は、桜で有名な弘前公園をはじめとして、見物場所の多い観光都市である。事前にガイドブックを見てカフェめぐりをしようと話していたのだが、いざ市内に入るとまだホテルのチェックインには早く、どこに車を置こうか迷う。そこで、通りがかった市役所の向かいにある弘前市立観光館の地下駐車場に入り、同館で観光情報をゲットすることにした。
カフェめぐりのほか、弘前での目的はもうひとつ。津軽三味線の演奏のライブがある居酒屋に行くことだった。この観光館でその情報を尋ねると、ライブのある居酒屋が4件ほど記載された一枚のコピー紙を手渡してくれた。ほかにも、ここで市内観光の地図と市内の45店(!)が記載された「Hirosaki Apple Pie Guide Map」というパンフを入手した。(このマップには45個の個性的なアップルパイたちが写真と解説付きで掲載されていて、見ているだけでも楽しくなる。)

ただし、この日も炎天下。あちこち歩き回るのは難儀だったことから、この近辺の観光スポットを巡ることで良しとした。
そこで最初に訪ねたのは、市役所からほど近い「藤田記念庭園」(写真1枚目)の洋館のカフェ。ここでアップルパイとコーヒーで一服。アップルパイが何種類かあって、ウエイトレスさんがそれぞれの特徴を詳しく教えてくれた。ここの雰囲気はなかなかよかった。
ジリジリと肌を刺す午後の陽射しの下を、汗を流しながら市役所近辺を歩き、写真2枚目の「旧弘前市立図書館」や「旧東奥義塾外人教師館」、「青森銀行記念館」などの洋風建築物を見物した。1906年のルネサンス式建造物である「旧弘前市立図書館」の内部は思ったよりも狭く、蔵書のスペースや閲覧場所はかなり限られていた。当時は建物の使い勝手よりも外観のデザインを重視した様子が覗える。
「青森銀行記念館」は、旧五十九銀行本店として明治に建造されたルネサンス式で和洋折衷の建物。何気なく玄関を覗いたら、カウンターの向こうの机に人形が置かれているように見えたので「あれは人形だよね?」と連れに声をかけたら、その「人形たち」が「いらっしゃいませ」と言って立ち上がったので、驚いて逃げるように出てきてしまった。・・・行員の人形のように見えたのは記念館のスタッフだった・・・失礼しました。(汗)
この銀行は、しかし覗いてみるだけの価値はある。重厚な木製カウンターは黒光りしていて、その威厳ある広い空間に「昔の銀行はこんな権威ある機関だったんだなぁ」と感じさせられる。
まだ若干時間があったので、車をピックアップし、ズラリとお寺が立ち並ぶ「禅林街」や弘前公園北側に接する武家屋敷跡「伝統的建造物群保存地区」を車で回ってみた。
さて、そろそろチェックインするかと、ホテルへの行路を確認するために道端に停車して地図を広げていると、近くのお宅のおじさんが近づいてきてホテルまでの道を教えてくれた。「このホテルは表からだと駐車場に入れないから、裏側の道から行って。」と教えてもらったので助かった。
宿泊したホテルは弘前公園近くの「ホテルニューキャッスル」。結婚式場をもつが、やや旬を過ぎた感じの老舗的なホテルだった。料金は安かったのだが、それもこの日だから。翌日からは「弘前ねぷた祭り」で特別料金になるのだった。古いホテルということもあり、トイレがウォシュレットでないのが減点という感じだが、ネットの宿泊料金からすればまずまずリーズナブルだった。
ホテルで汗を流してから、夕食へと出かける。先ほど観光館で入手したコピーを見て、ホテルからもっとも近い「杏」という店を訪ねたが、18:00前に行っても既に19:00からの第1回のライブは満員だと張り紙がしてある。月曜日なのに満員とは、人気の演奏者なのだろう。・・・仕方なくここは諦め、別の店に今度は事前に電話して、満員でないこととライブ演奏の時間がフリー(随時適当な頃合い)になっているということを確認した。その店の名前は「あどはだり」という聞いたことのない言葉。・・・その場所は「杏」という店からだいぶ離れており、意図せずして、弘前の目抜き通りである土手町の街並みを500~600mにわたって見物して歩くことになった。
(ところで、このとき杏という店の辺りで、地元弘前市在住の詩人・藤田春央氏によく似た人物が自転車で通り過ぎるのを見かけた。藤田氏は2011年10月に青森市で開催された日本現代詩人会の東日本ゼミナールを企画実施した中心人物のひとりで、自作詩の朗読者として高啓を呼んでくれた方である。ゼミナールの翌日、参加者のために弘前市内探訪を計画してくれたのだったが、高啓は都合で参加できなかった。今回個人的な旅行で弘前を訪れた理由のひとつに、そのときの心残りがあったのではある。)
地方都市の御多分に漏れず、各店舗の閉店時間が早く日が暮れると寂しい街にはなるが、この街を歩いて感じるのは、“津軽”というひとつの文化圏の中心都市だという矜持みたいなものである。矜持といっても大げさなものではなく、いわば一定の都市機能をひと揃え持っており、良くも悪しくもその機能や雰囲気に“浸っている”という印象があるということだ。これは弘前が県庁所在地ではないことにも拠っているだろう。
大通りや路地にいくつも喫茶店があるのがいい。たとえば山形市の中心街では、チェーン店のカフェやファストフード店に押されて、昔ながらの喫茶店はごく少なくなってしまった。喫茶店がたくさん残っているということは、当然それを利用する市民がいるわけであり、それだけ“喫茶店に入る”という生活文化が維持されていることを意味する。
さて、まったりと歩いて津軽三味線ライブ演奏の居酒屋「あどはだり」に着いた。派手な看板が目立つが、やや場末感が漂ってもいる。中に入るとじぶんたち二人の貸切状態である。飲み物と料理を注文するが、客がじぶんたちだけなので、いつになったら演奏を始めてくれるのかと少し心配になってくる。
奥のカウンターの中で初老の男性とその奥さんらしき年配の女性が料理を作り、30歳前後の女性が注文をとったり料理を運んだりしている。店内には大きな観光キャンペーンのポスターが張ってあり、その中央に三味線を演奏する姿で映っているのが、どうもこの店のマスターらしい。その撮影場所がこの店内のようでもあり、さらにはこの方が三味線の名手らしいということも覗える。
しかし、いまそこに見えるマスターは、病後なのか、ややつれた姿で足が不自由な様子である。料理の仕込みを終えたころ、徐に店の奥のマスター専用に設えられたと思われる椅子に座り、そこで食事か晩酌かを始めたように見えた。
すると料理を運んでいた女性が料理服の上にハッピを着て、「では、三味線を弾きます」と言った。
彼女は客が打ち解けるように話を交わしながら、「津軽あいや節」を弾き、それからわれわれが山形から来たと聞いたからなのか、一度花笠踊りの祭り見物をしてみたいと言って「花笠音頭」を披露し、続いてさらに3曲ほど津軽民謡をメドレーで演奏した。
彼女は、「津軽三味線」とは、この「津軽三味線」と呼ばれる楽器またはその楽器で演奏されることを指して言うのでありその演奏法を言うのではないこと、「津軽三味線」を弾く奏者はたくさんいるが「津軽民謡」の歌い手は少なくなっていることなどを話してくれた。
彼女の津軽なまりの語り口、そして津軽のリンゴを思わせる顔立ちに好感を抱いた。最後にお名前を訪ねると、「相馬美幸」と書かれた名刺をくれた。帰形後にネットで調べると、ここのマスターはやはり三味線の奏者で「相馬幸男」というお名前だった。美幸さんは娘さんなのだろうか。・・・とはいうものの、奥の専用席に陣取ったマスターは、師匠として弟子の演奏をチェックしているかのようにも見えた。
なお、この「あどはだり」店内の演奏の模様はYou‐Tubeにいくつか動画がアップされていた。美幸さんと思しき人が独奏している画像もあった。http://www.youtube.com/watch?v=Jolq0Ly2ojk
ところで、「あどはだり」という津軽弁には、「もう一度」、「おかわり」、「アンコール」などの意味があるという。
相馬美幸さんは「ねぷた祭りを観に来たのですか?」と尋ねてきたが、「いや、祭りの期間はホテルが取れないので、祭りを避けて歩く旅です。」と答えると、帰り際に「近くでねぷた祭りの稽古をしているので、よかったら見物していってください。了解を取りましたから。」と声をかけてくれた。

その稽古の様子を窺い、だが近くに顔を出すのは憚られたので、遠目から撮ったのが3枚目の写真である。仮設の格納庫から弘前ねぷたの山車が覗き、その前で笛や鉦や太鼓で男女がお囃子の稽古をしている様子がぼんやりと映っている。その場の人たちの雰囲気から、祭りに向かうちょっと浮き浮きした気持ちが伝わってくる。

ホテルへの帰り道、酔っ払って歩いていると、突如、奈良美智の作になる白い犬の大きなオブジェ(吉野町緑地公園の“A to Z Memorial Dog”)が照明に浮かび上がった。ガイドブックでその存在は知っていたのでそれほどには驚きはしなかったが、辺りには道路にも人影はないなか、何も知らないでこのオブジェに突然対面したら、かなりぎょっとすることだろう。・・・“へぇー、弘前は面白い街だなぁ”と思い、帰途の途中でついついもう1軒、今度は土手町の外れの古いビルの1階にある洋風パブ「Bar Grandpa」に入ってしまった。
ここがなかなかいい雰囲気で、料理もまずまずだった。男性の店員さんがカッコいいせいか、店内の照明が暗い割には女性客が多い。津軽の長い冬を過ごすにはこういう店がいいのかな、などと思いつつ、地元の女性たちの話し声のなかで更け行く弘前の夜を暫し味わったのだった。

さて、この十和田~弘前~盛岡と巡る3泊4日の炎天下の旅は、幸いなことにこうして印象深いものとなった。回った先々で言葉を交わしてくれた方々に感謝しつつ、ひとまず擱筆する次第である。
(この次の日、盛岡市に立ち寄ったが、それについては先に「岩手県立博物館とアート・ブリュット・ジャポネ展」として記載しているので、この旅行記は今回で終わり。ここまでお付き合いいただいた方に感謝します。)
2012年08月17日
「具体」回顧展(新国立美術館)

「具体~ニッポンの前衛18年の記録~」(GUTAI~The Sprit Of an Era~ 2012年7月4日~9月10日・東京・新国立美術館)を観た。その感想を記す。
まず、「具体」という美術運動の集団について、展覧会のパンフから拾い読みしておく。
「具体美術協会」は1954年に吉原治良(よしはらじろう 1905~1972)と彼に私淑する阪神在住の若手美術家17人で結成された。
この「具体」という名称は、「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」という想いからつけられたもの。メンバーは、吉原の「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という厳しい指示のもと、奇想天外でユニークな作品を次々と生み出した。当時、国内ではほとんど評価されなかったが、1957年に来日したフランスの美術批評家で、抽象美術の新しい美学“アンフォルメル”を提唱していたミシェル・タピエが高く評価。1950年代の終わりから60年代にかけてフランスなど海外に紹介され、アメリカ、イタリア、オランダ、フランス、ドイツ、オーストリアなどの美術展に出品された。
1955年機関誌「具体」を創刊し、以後14号まで不定期に発行。55年に東京で第1回具体美術展を開催し、翌56年には野外での美術展を開催。57年には、大阪と東京で、ホールの舞台を使用した、今でいうところのアート・パフォーマンスの作品発表会を開催している。
1962年に、大阪中之島に吉原治良所有の土蔵を改装し、活動拠点として作品展示館「グタイピナコテカ」を開設。
1970年の大阪万博では、万博美術館で野外展示、みどり館で作品展示、お祭り広場で「具体美術まつり」のパフォーマンスを行うなどの活動を展開したが、1972年に吉原治良が急逝し、それを機に解散した。
さて、ここからはじぶんの感想。
この回顧展は、時間的な経過に沿って章を立て、日本の高度経済成長時代と重なる「具体」グループの足跡を辿りながら、この時代(era)の精神のひとつの姿を浮かび上がらせるものになっている。
展示室に足を踏み入れると、まずは抽象的なオブジェの野外展示作品(一部作品については当時の実物写真)にちょっと驚く。ただし、その作品群の迫力にではない。あくまで“今から見て”の感想なのだが、その作品たちの“素朴さ”というか、衒(てら)いのなさ、みたいなものに対してである。
オブジェ作品はお世辞にも面白いとはいえない。いまなら出来の悪い美術学生でもこの程度の作品は創りそうだ。・・・この想いは、古い8ミリフィルムで上映されている57、58年のパフォーマンスについても感じるものだ。(たとえば、1930年代のドイツ、バウハウスのパフォーマンスに比べたときのレベルの違いは歴然としている。)
しかし、“いまから視て”という観点や“舞台芸術”としてのレベルの問題をカッコにくくって視れば、1958年の「舞台を使用する具体美術第2回発表会」の映像などはとても面白く思えてくる。この時代の良さは、いまなら“芸術表現”とは看做されそうにないパフォーマンス(いまなら“お笑い”や“受け狙い”の余興とでも看做されかねない表現)も、“前衛芸術”として存立しえたということだ。
この時代の状況を考えれば、これらの表現が「産経会館」や「朝日会館」などにおいて大勢の観客の前で堂々となされたということは、まさに革新的なことだったはずだ。フィルムに映っている観客の服装を見ればその時代の雰囲気がわかる。・・・「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という志向性が、ここで確かに新しい時代の扉をこじ開けようと果敢な挑戦を繰り広げている・・・そう見てもいいような気がする。(1957年の「GUTAI ON THE STAGE」というフィルムが上映されているが、これは必見。)
このグループの活動の興味深いところのひとつは、まず機関誌から活動を開始したところにある。当時の機関誌(印刷物)はまだ粗末で薄っぺらなものだったが、じぶんたちの表現思想や作品の画像を機関誌として記録し、それをもってPRするという点に戦略性を感じる。機関誌ならとにかく海外でもどこでも簡単に送れる。
また、リーダーの私有不動産(土蔵)を改装して大阪の中之島に活動拠点を開設しているが、これも戦略として有効だ。海外からの視察者に対していつでもじぶんたちの表現を紹介できる。
リーダーである吉原は、1905年生まれ。白樺派などの人道主義、生命主義に影響を受け、また制作の点では西欧の表現主義にも影響を受けたといわれる。
吉原は、戦前の1940年にすでに抽象絵画を展覧会に出品している。同盟国のドイツなら抽象絵画は「退廃芸術」として排斥されていた時代だと思うが、地元の芦屋(兵庫県の高級住宅地)が西欧文化に馴染んだ土地柄だったこともあり、その才能と背景が戦後(1950年代)の前衛美術の開花を準備していたのだと見ることができるだろう。
なお、この回顧展で掲示されている解説によれば、ミシェル・タピエは、具体グループの作品を海外に売るために、運びやすい絵画など平面の作品の制作に集中するよう仕向けたという。たしかに、グループ全体としてみれば、60年代に入ると平面作品は洗練され、レベルは明らかに向上しているという印象を受ける。
しかし、すこし皮肉な見方をしてみれば、この平面作品への一元化によって、「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という志向性が、逆に桎梏となってきたのではないだろうか。抽象画の場合、平面構成のアイデアは次第に限られてくるからである。
もちろん、この回顧展には様々な新しい表現への試みの軌跡が展示されている。しかし、その試みの広がりは、「具体」としての活動を逆説的に隘路へと導いていくようにも思われる。極端に言うと、60年代が進むに従って、様々なバリエーションの平面作品が制作され、その質は向上しているのが見て取れるが、一方で、年次が下るほど、次第に作者名と作品名をシャッフルしてもかまわないような作品群に見えてきてしまうのだ。
その隘路に気づいたのか、吉原らは、それまでの「熱い抽象」とは異なる「冷たい抽象」の作品の作家たちをグループに加えていく。「冷たい抽象」とは、幾何学化すなわちテクノロジー化された世界観を作品化するもののようであるが、同時にポップ化の要素を胚胎しているようにも見える。
1970年の大阪万博お祭り広場における「具体美術まつり」のフィルムには、このグループのポップ化が明確に見て取れる。
スパンコールに覆われた袋を被った登場人物たちが煌きながらニョロニョロ歩き回る「スパンコール人間」、赤い衣装で大きな翼をつけた宇宙人みたいな登場人物たちがバルタン星人のように現れる「赤人間」、纏った毛糸のワンピースを、糸を引っ張られてくるくる回りながら剥がされていく女性の「毛糸人間」、箱のなかから次々に電動で歩く犬の玩具が這い出してくる「101ピキ」、ロボットやボディがプラスチックでできた自動車が登場する「親子ロボットとプラスチックカー」など、“芸術表現としてこんなことでいいのか?”という疑問を蹴飛ばしてくれる上でのみまさに「前衛的」であり、“このパフォーマンスのどこに既存感覚を脅かすものがあるのだ?”という点ではまさに「ポップ化」された表現行為が展開されている。
1972年に吉原が急逝したとき、具体グループはあっさりと解散を決議した。それはそうだろう。
「政治の季節」が通り過ぎ、すでに日本社会は高度な消費社会へ向かって邁進していた。言い換えれば、日本社会がすさまじいスピードで“具体化”しつつあったのである。
「人の真似はするな」「これまでになかったものを創れ」という姿勢を持ち続けるとすれば、時間を経るごとに抽象画の表現思想や手法にとっての“未開の土地”は少なくなり、新たな表現の領野を開拓することの困難性は高まっていく。
しかし、それゆえにこそ、新しい感動を与えてくれる未知の抽象絵画に向き合いたいという願望が昂じている。 (了)
2012年08月14日
黒石市「こみせ通り」と「つゆやきそば」
猛暑の夏に、十和田~弘前~盛岡と車で巡った旅の話の続き。
十和田湖畔を発って弘前市を目指すが、途中で正午を迎えると、次第に連れの“腹ペコ病”が出てきた。これは腹が減ると早く何か食べることにばかり気がいって、イライラして怒りっぽくなってしまう状態を指す。お互いに腹ペコ病が出ると、口論する確率が上昇する(苦笑)
弘前まではとてももたない。途中でなにか食べていこうということになり、ガイドブックを見て、黒石のB級グルメ「つゆやきそば」を試してみようかと相成った。
じつは、腹ペコ病にならなくても、できれば黒石市(人口3万5千人)には立ち寄りたいと思っていたのだった。
ガイドブックで「こみせ通り」の存在を知り、その風情にじぶんの故郷の秋田県湯沢市の在りし日の記憶を重ねていたからである。
昔ながらの雰囲気が残る黒石市の中心街に入り、「中町こみせ通り」を探して、またも炎天下にその界隈を歩く。
まずは、腹ペコ病からの快復をと、「中町こみせ通り」の一画にある「すずのや」という「つゆやきそば」専門店に入る。すでに昼食の時間は過ぎていたが、小さな大衆食堂といった感じの店の中には、観光客と思しき客が2、3組入っていた。そこでじぶんは「つゆやきそば」を、連れは先客に出されたその丼を見て気が変わったのか、ただの「焼きソバ」を注文した。
ここの焼きソバは、ウドンと言った方がよさそうな太い帯状の麺に、しっかりとソースを絡ませた一品である。味はまぁまぁだが、炎天下に捜し求めてまで食べに来るほどのものではないかもしれないと思う。
で、問題の「つゆやきそば」は、この焼きソバを日本蕎麦の汁に入れたもの。和風ダシの味とソースの絡めてあるソバが、意外にもうまく味のハーモニーを奏でている。ただし、これは“食事”としていただくという感じではない。小腹が空いたとき“買い食い”するものという感じである。
この店に「つゆやきそば」の発祥と、それを「B級グルメ」として再興した経緯について書かれたチラシがあった。するとやはり、もともとはある食堂が腹ペコ学生などの間食として、新聞紙に包んで売っていた焼きソバを、腹が膨れるようにソバの汁に入れて出したというのが始まりらしい。
その食堂は無くなってしまったが、子どものころ口にした味に郷愁を覚えた人々が、名物を創ろうと意図的に復活させたのがいまの「黒石つゆやきそば」だということである。
さて、腹ペコ病から解放されたところで、人通りのほとんどない黒石市の中心街「中町こみせ通り」を、汗を拭き拭き、まったりと見物して歩くことにした。
「こみせ」というのは、通りに面した建物(商店や問屋や造り酒屋など)が、軒先を通り側に張り出させて、その庇の下を歩道として通行人が自由に利用できるようにした構造の謂いである。こみせと道路の境には軒を支える柱があるだけで固定された建具はないが、冬季は雪の吹込みを避けるため腰の高さくらいまでの板(「しとみ」)を入れる。
黒石の中心市街地は、1600年代後半に「黒石津軽家」の初代領主・津軽信英(のぶふさ)によって新しく町割りされたという。こみせの建築年代は定かではないが、信英が町割りをしたときに作らせたと伝えられている。
月曜日の日中、それも炎天下とはいえ、現存する「こみせ」が断続的に連なる「中町通り」は、“閑散”という言葉がまさにこういう状態をいうものだと思わせるほどひっそりとしている。通行人どころか車もほとんど通らない。街並みも、昭和30年代のまま時が止まったような時空だった。いや、時は確実に流れているのだから、少しずつ少しずつ朽ちていっている、のには違いないのだが。
もっとも、この「中町こみせ通り」は、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、保存復元が行われているという。
国の重要文化財「高橋家住宅」(1760年代建築、米・味噌・醤油・塩などを扱う商家)、「中村亀吉酒造」(大正2年創業。二階の軒先から大きな酒林が吊り下げられている)、「市消防団第三分団第三消防部屯所」(大正13年建築。現役としては日本で一番古い消防自動車が配備されている)、「(旧)松の湯」(銭湯だが、威厳ある建築)などの建物が目を引いた。
しかし、もっとも印象的だったのは、どこの店先だったかよく覚えていないのだが、通りから何気なく店内を覗いた際に見た、その店の店員さんが自分の事務机で遅い昼食に出前のラーメンかなにかを食べている姿だった。これが、“あ、これが昭和の風景なんだよ~”という感じで絶妙だった。
余計なことかもしれないが、ちょっと気になったことを述べると、まず、中通りからちょっと裏手に入ったところに土蔵があり、そこが公民館のホールみたいに使われているのだったが、この空間はもっと効果的に生かせそうな気がした。
反対側では、中町通りに接する路地が、如何にも街づくりの補助金で作られたという感じの長屋(飲食店が入っている)と緑地に整備されている。町中の路地に緑地を作り、水の流れを引き込んでいるこの空間の雰囲気は悪くないが、緑地の中心に大きなモニュメント(地元出身の作曲家3人を顕彰した石碑)を設置しているのはいただけないし、造作の細部についてはせっかくのコンセプトを生かし切れていないという印象を受けた。
また、「中町こみせ通り」とは言うものの、古い木造の建築物と、すでに現代風に(と言っても古いものだが)建て替えられている商店などの建物が混在しており、こみせが1ブロック途切れずに続いているというわけではない。だから、ここを訪れる観光客は、観光地として整備された古い街並みを見せられるというよりも、地元が維持と復元に取り組んでいる途中の姿(取り組んでいる本気度とか度合い)を見せられると言った方がいい。復元には国の補助金が使われたというが、その補助金は今後も継続して受け取れるのだろうか。・・・おそらく、今や国の補助金は途絶え、地元の自力で維持・復元に取り組まなければならなくなっているというのが現状ではないだろうか。
困難は待ち受けているだろうけれど、行政も地元も、できることならこの通りの復元にもっと本腰を入れ、さらにはこの通りに隣接する中心市街地の商店や飲食店に特色を持たせ、かつは情報発信に意を砕いて、“昭和の街・黒石”を演出してほしいものだと思った。
炎天下に一服したいと中心商店街を歩いたが、入りたくなるような店が見当たらないまま市役所まえの通りに立ち至ると、歩道の地面にガムテープなどで場所取りがしてある。この日の夕方から「黒石よされ」の流し踊りが出るので、それを目当ての出店が場所取りをしているのだった。
この閑散とした街ももうすぐ祭りの人出で賑わうのだと思うと少しもの悲しさがまぎれるような気がしたが、この旅はいわばこの地方のあちこちで行われる“夏祭り”を避けて移動しているのであったから、次の目的地である弘前を目指してそそくさと黒石を出発したのだった。 (了)
2012年08月13日
十和田湖畔の印象
猛暑の夏に、十和田~弘前~盛岡と車で巡った旅の話。
さきに、青森県十和田市の十和田市現代美術館を見物したところと、岩手県盛岡市の岩手県立美術館を見物したところについてはこのブログに掲載したが、この旅の他の部分について、つまりは訪問した十和田湖畔及び青森県の黒石市と弘前市の印象について、まったりと述べておきたい。
十和田市美術館を見物して、ミルマウンテンという喫茶店でお茶を飲んだところまでは前記のとおり。それから宿泊先の旅館を目指して十和田湖畔に向かった。
十和田湖畔に通じる国道103号線は、奥入瀬渓流に沿って14キロほど走る。道路幅は狭く、その上空までほとんどを両側から張出す木々の枝葉で覆われており、まだ日が沈んでいないにもかかわらず、スモールライトやフォグランプを点灯して走行しなければならないほど、陽射しが遮られている区間も少なくない。
奥入瀬渓流の風景は変化に富んでいて、車窓から視る緑の濃淡と清流の音に心を洗われる。あまりに魅了され、途中で路肩に停車して渓流の岸辺まで歩いたが、すぐに強力そうなブヨ軍団の襲撃を受け、ほうほうの体で車に戻った。綺麗な花には棘があるということか。
曲がりくねった暗い道を抜けると、まるで海岸に出たかのように、午後遅くの斜光を受けて光り輝く十和田湖の展望が開けた。
湖畔の道を休屋という地区まで快適に走る。休屋は、比較的大きな宿泊施設や土産物店、それに遊覧船の船着場がある十和田湖観光の中心地である。
休屋地区には堰と言ったほうがいいような細い川が流れていて、その川で秋田県と青森県が区分される。じぶんたちが泊まったのは、秋田県側(小坂町)の「とわだこ賑山亭」という小さな温泉旅館である。(秋田県には位置するが、客室のテレビでは青森県の放送局の番組しか視られなかった。)
旅館の印象は、まずまずリーズナブルというところ。夕食の料理は手間がかかったものではなかったが、1室2名の部屋食で、夏休み中の日曜日であるにもかかわらず、ひとり当たり1万円を切っていたのだから文句は言えない。(この旅館のウリは炉辺焼きのようだが、この宿泊料金では炉辺焼きコースとはならない。炉辺焼きが食べたいわけではないからこれでよかった。)
風呂上りに旅館の隣の酒屋兼土産物屋で缶ビールを買って、歩き飲みしながら浴衣姿で湖畔の方に歩き出したのだが、これまたブヨの攻撃にタジタジとなって引き返してきた。奥入瀬にしても十和田湖にしても、じぶんのようにいい加減で能天気な態度では、美しい存在には近寄らせてもらえないということらしい。
しかし、翌朝の晴天に恵まれた十和田湖は、眩しいほどに美しかった。あのブヨ攻撃もない。
休屋の湖畔は、芝生と樹木できれいに整備されており、砂浜にもゴミ一つ落ちていなかった。
ただ気になるのは、やはり閉鎖されている土産物店や飲食店や宿泊施設が目に付くことだった。そういえば月曜日とはいえ、夏休み中である。それにそろそろ東北の夏祭りの季節だというのに、湖畔は想いのほか閑散としている。
たまたま珈琲を飲みに入った店で、暇だったこともあり、店主とゆっくり話す時間を持てた。
湖畔には、積雪で損傷した屋根が補修されていないホテルや、閉鎖されていることがはっきりわかるホテルが目に付いたが、それについてはこういうことだった。
十和田湖は、風光明媚な国立公園として、かつては賑やかな観光地だった。しかし、次第に団体などの観光客が減少し、近年は中国など海外からの団体客でもっていた。
ところが福島原発の事故のために、昨年は外国からの団体客がすべてキャンセルになり、この地区としては大きな規模のホテルが2件倒産した。
これまで倒産したホテルの一部は外国資本などに買われているが、営業を再開できない施設もいくつかある。
また、ホテルの値下げも激しくなり、この地区でいま客に人気があるのはバイキング式で1泊6,800円のホテルくらいのもの。これも去年は1泊5,800円だった。
夏休みといっても、お盆とねぶたの期間中(青森市内や弘前市内などに宿を取れない客が流れてくる)以外は、それほど混み合わなくなってしまった。まして、冬季には積雪のため湖畔の多くの店や宿泊施設が閉鎖される土地なので、先行きは厳しい。
ここは旧十和田湖町で、平成の大合併で十和田市と合併したが、十和田市の市長は例の「官庁街通り」にばかり金をかけて、十和田湖畔には金をかけてくれない。観光地なんだから、自力でなんとかしろという理屈だ・・・。
この店主の語り口が慨嘆調ではなく淡々としたものだったので、この話は余計に胸に沁みた。
たしかに観光地「十和田・八幡平」は、じぶんの記憶の中にしっかりと刻まれていた。
最初に訪れたのは小学校低学年の頃だったろうか、明治生まれの父親が従軍した旧軍隊の集まりが八幡平の旅館であったのに、母とじぶんも同行したのだったと思う。(父と旅行した記憶はこれだけである。このとき宿でみた夢のことをいまでも憶えている。)
あるいは、子どものころ、町内会の旅行でも来たことがあったのかもしれない。その後は、就職してから、と言っても20数年前の話だが、このあたりの旅館で東北ブロックの会議があって、翌日の視察で湖畔を訪ねたのだったような気がする。もっとも、これらの記憶はもはや定かではない。
十和田湖畔の印象は、十和田湖が広い分だけ、たとえば田沢湖などに比べて大味なものだったが、それでもこの休屋の賑わいは目映かった。
そんな郷愁に浸りながら、「むかしは一流の観光地だったですよねぇ・・・」と言いそうになって、はっとして言葉を飲み込んだ。
店主は「ここは国立公園なので、環境省の縛りが厳しくて、いろんなことが不自由です。でも、だからこそ自然が残っていて、こうしてかろうじて持っているのかもしれませんね。」と語った。
まだ昼には早かったが、美しい休屋からの眺めを記憶に刻んで、湖畔を後にする。
湖畔に沿って湖の東側を回る国道454号(秋田県側)を走って、そこから弘前を目指す。
しかし、秋田県側に入ると、道路脇の崖崩れが修復されないまま片側通行となっている箇所が何箇所かあった。この道路を維持管理していくのはたしかに大変だと思うが、最低限の道路補修をしておかないと観光地としての印象は悪化してしまうだろう。
途中、ガイドブックで紹介されている眺望を期待して峠の展望台に上ったが、その展望台も老朽化しているうえに、展望台の周りの木々が成長して視界が遮られている。この木々の枝が掃われていないのは環境省あるいは営林署の伐採許可が出ないからなのか、それとも維持管理が放棄されているからなのか・・・これでは、落陽の観光地という印象を抱かせるに充分ではないか、と、やや暗澹たる気分になりかけた。
・・・いや、ちょっと待てよ。これはこれでいいのかもしれない。これまでのような観光地としての快適さの質は維持できなくても、自然をなるべく切り刻まずに、たとえ朽ちていくものであろうとその風景を受入れ、風物に寄り添うようにその間を通り抜ける・・・過去とくらべて哀愁を禁じ得ないとしても、これが東北の目指すべき観光のあり方なのかもしれないと想った。
その考えを支持するぞ、とでも言いたげに、十和田湖の外輪山を後にする頃、突然、道路に野うさぎが飛び出してきた。 (了)
2012年08月11日
岩手県立美術館と「アール・ブリュット・ジャポネ展」

十和田~弘前~盛岡と、盛夏に北東北を車で巡る旅・・・その最後に盛岡市の岩手県立美術館を訪ね、「アール・ブリュット・ジャポネ展」(Art Brut Japonais、2012年6月12日~9月2日)を観た。
盛岡には、これまで2、3度訪れたことがあったが、久しぶりとなる今回の訪問で、この街に関する今までのイメージが少し変わった。
まず、駅の東側だが、駅前や目抜き通りである大町通り辺りの人通りが意外に多いことに気づかされた。山形市の七日町界隈に比べて人出は多く、想像していたより活気がある。
ついでに言うと、「盛岡冷麺」の店を探して歩いたのだが、冷麺の看板を掲げる店はそれほど多くない。それに昔はもっと「わんこ蕎麦」の店が目に付いたような気がするが、これも今は探すのに一苦労する感じだった。結局「大同苑」という焼肉屋で盛岡冷麺を食べたが、山形駅前の焼肉屋の方が美味い冷麺を出すような気がした。
駅周辺と駅の西側については、第三セクターによる20階建てのビル「マリオス」が竣工(1997年11月)した翌年だったろうか、この中にある盛岡市民文化ホールを見学したことがあった。
その際はこの一画についてマリオス以外にほとんど印象がなかったのだが、今回訪れてみるとマリオスの隣に「岩手県民情報交流センター“アイーナ”」という複合施設(2006年竣工。県立図書館を中心として県の各施設が入っている)が出来ており、県の合同庁舎なども含めてこの一画が“副都心”といった感じに形成されていた。しかも、マリオスとアイーナの間を、新幹線の線路を跨いで駅の東西を結ぶ道路が通り、その先に駅西の広大な開発区域が開けていた。その広さは山形駅西の再開発地区の規模を遥かに凌ぐもので、これだけ農地を潰す必要があったのか・・・と疑問を感じるほどの規模である。
その区域の一画が公園として整備され、アイスアリーナ、盛岡市先人記念館、盛岡市こども科学館、県立美術館などが配置されている。さらにその周りの街区には、イオンのショッピングセンターや見飽きた郊外型量販店が連なっている。
広い緑地に囲まれている岩手県立美術館(2001年10月開館)のロケーションは、しかし決して褒められたものではない。導入路が貧弱で、せっかく周辺を緑地化しているというのに、この先に美術館があるという風情がなにひとつない。
美術館の外観は平凡で魅力に欠けるが、中に入ると“グランドギャラリー”と名づけられた吹き抜けの通路空間が向こうに伸びており、これが巨大な建造物だという感覚を、恰も権威性を押し出すかのようにして与えてくる。このグランドギャラリーの左側はガラスの開口部、右側がいくつかに区切られた展示スペースになっている。東京の新国立美術館に似た設計思想。まさに、十和田市美術館や金沢21世紀美術館とは対極的な設計思想の美術館である。
・・・とこんなふうに感じて、あれ?と思って調べてみたら、新国立美術館も岩手県立美術館も日本設計が担当で、十和田市美術館と金沢21世紀美術館はどちらも西沢立衛の担当だった。なんだよ、判り易すぎるじゃねえか・・・と笑ってしまう。
以下に「アール・ブリュット・ジャポネ展」の感想を記す。
この展覧会のチラシには、「『アール・ブリュット』とは、20世紀のフランスの美術家ジャン・デュビュッフェによって生み出された言葉。『生(き)の芸術』を意味するこの言葉は、美術の専門的な教育を受けず、既存の芸術や流行にとらわれない作家たちの自由で伸びやかな表現をさすものです。(中略)
本展は、2010年3月から翌年の1月までパリ市立アル・サン・ピエール美術館で開催され、大好評を博した『Art Brut Japonais』展の日本凱旋展覧会です。(以下略)」との記載があるが、展覧会の内部にあった説明によると、「アール・ブリュット」という言葉は、もともと精神病者や霊媒師などによる造形を指して使われていたという。社会の周縁にいるマージナルな人びとによるアートという意味だったらしい。
この展覧会の「企画協力」には、「ボーダーレス・アートミュージアム」と「NO‐MA 滋賀県社会福祉事業団」の名が記されている。「ボーダーレス・アートミュージアム」は滋賀県近江八幡市にあるアール・ブリュットの美術館で、滋賀県社会福祉事業団が運営している。
魲万理絵(すずきまりえ 1979~ 長野県在住)
一言でいうと暗く不気味な絵だが、完成度が高い。丸顔で髪のない登場人物たちの表情は、なんとなく1970年代の大人向け(「成人向け」ではない)のマイナーな漫画雑誌に載った奇譚作品を視ているような感覚を呼び起こさせる。
「全人類をペテンにかける」では、裸の女がハサミで自分の性器を刺そうとしている。女性器には人の顔やいくつもの目が描かれている。また、女の顔の片方の目が女性器として描かれている。性器への嫌悪と執着が、強烈なアイデンティティーとなって現前している。
「人に見えぬぞよき」では、女の口が青い鬼に変化(へんげ)している。他者の言葉が、作者にとってはグロテスクな鬼のように感受されるということだろうか。
「あほが見るけつ」では、赤と黒のタイル模様で描かれたケツが裸の女を押しつぶしている。女の目の縁取りはハサミの柄(指を入れるワッカ)として描かれており、そのワッカの枠中にそれぞれ2個ずつの目が描かれている。
「泥の中のメメントモリ」は大作。ひとりの横たわる裸の女を中心として、女性器と海蛇のような男性器が配置されている。中心(基調)となる裸女の子宮からは無数の赤い足として描かれた生命たちがぞろぞろと連なり出て、腹から胸へと這い上がり、その足行列が同じ女の口に入り込んでくる。
展示の説明に、作者は高校在学中に発病し、2007年からこのような絵を描き始めたとある。「高校在学中に発病」と聞くと統合失調症かと思ってしまうが、この作者の作品は、たしかに強固で確信的な妄想の世界を表現したもののように見えつつも、その一方で、高度に“統合”されているとも言える。構図は緊密で隙も破綻もない。
舛次崇(しゅうじたかし 1974~ 兵庫県在住)
作者はダウン症。厚紙にパステルで描かれた「うさぎと流木」「2匹のバッファロー」「きりん1」などの作品に魅かれる。金色の地に黒色の形体だけの動物を描いているが、その動物がデフォルメされていて、動きと迫力に満ちている。“天才幼稚園児”の絵か、といった印象を受ける。
高橋和彦(岩手県)
紙にペンで詳細な線による人物や建物の造形を書き込み、そのパターン化された図柄の連なりで綿密な世界を構成している。作者が知的な障害を持っているらしいこと以外にどういう人物か判らないが、このようなパターン化した描画作業の連続は、<自閉症スペクトラム>という概念を想い起こさせる。
「岩手銀行のあるところ」「人間が大勢」などが印象に残った。
この作者の作品は、「アール・ブリュット・ジャポネ展」のみならず、この美術館の収蔵作品の常設展でも展示されている。安心して鑑賞できる作品なので、“マージナル”ではなく、「通常」の側に位置付けられるということだろう。
八重樫道代(1978~ 岩手県在住)
ペンで幾何学的な構造枠を書き、ブラシマーカーでその枠ごとに着色している。「チャグチャグ馬コ」は、鮮やかな色彩の布のパッチワークみたいに見える。色の組み合わせや配置が絶妙で、ポップな感じを受けるが、ポップまで行き過ぎてはいない。この作品だけを見せられれば、有名なイラストレーターの作品かと思ってしまうかもしれないし、少なくとも作者に知的障害があるとは思えない。
小幡正雄(1943~2010 兵庫県)
入所している施設の調理室からこっそり拾ってきたダンボールに、自室で夜な夜な絵を描き続けていたものを職員に発見されて、それがここに展示されているという。鉛筆や赤を基調とした色鉛筆による描画。「無題(結婚式)」など、結婚式で男女が並んで立っている姿を正面から描いたものが、展示されているものだけで少なくとも4作品ある。その体には土偶を創造させるような紋様が描かれており、男女ともに性器が描かれている。作者にとって、結婚は叶わぬ理想であり憧れだったのかもしれない。その結婚式に臨むカップルの姿が図式化され、まるでファラオと王妃のように神聖なものとして描かれている。
伊藤喜彦(1934~2005 滋賀県)
知的障害者施設に入所しいていた。陶土の塊をウインナ・ソーセージみたいな形状にして、それらを多数重ねて造形する手法。フジツボやサンゴを思わせる形に、ちょうどアイスクリームにストロベリーやブルーベリーのソースをかけたように絶妙な部分性で青や赤の釉薬がかけられている。「鬼」「鬼の面」など、乱暴でエネルギーに満ちていて、未知の生物の臓物を眼にしているような感じを受ける。
萩野トヨ(1938~ 滋賀県)
紺色の布に、濃い赤、水色、白色などの糸を使った刺繍で絵を描いている。
「おつきさん」「ひよことたまご」「おさかなたち」など具象的なものを描く作品群と、「まる さんかく しかく」、「まるとしかくのこうしん」などといった幾何学的な紋様を描いた作品群がある。
後者の構成に魅かれる。綿布のもつ緩い肌合いの上で、刺繍のもつ暖かさと幾何学模様のもつ冷たさがうまく混ざり合って、作者の知的な障害にもかかわらず、どこかに落ち着いた知性を感じさせる作品に仕上がっている。
この企画展には、63人の作者(うち9人は岩手県)の作品が展示されている。滋賀県の作者が多いが、これは、滋賀県社会福祉事業団が、自らの運営する施設で美術や造形に取り組む時間を設けているからだろうか。あるいは、在宅の障害者などを対象としたアウトリーチ・プログラムなども行っているのだろうか。
根気良く「アール・ブリュット」の現場に関わり、あるいはこのような企画のプロデュースを展開してきた関係者に敬意を表したい。
なお、岩手県立美術館には、岩手ゆかりの作者たちの収蔵作品を展示する「常設展示室」のほか、常設の「松本竣介・舟越保武展示室」と「萬鐵五郎展示室」がある。じぶんが訪れたときは、松本竣介作品が他の美術館の企画展に貸し出されているとのことで、松本竣介と関係の深かった麻生三郎の特別展(神奈川県立美術館収蔵作品による)を開催中であった。
萬鐵五郎(よろずてつごろう 1885~1927)の作品は、これまでも何度か観たことがあり、記憶に残っていたが、この美術館にコレクションがあることはここを訪れて初めて知った。
「赤い目の自画像」(1912-13)、「雲のある自画像」(1912-13)、「木の間から見下した町」(1918)などが印象的だった。
また、「常設展示室」の作品では、吉田清志(1928~2010)の「日蝕と馬」(1956)・「花ト少女」(1956)・「花ト女」(1957)など1950年代の前衛絵画と、「手鏡」(1976)・「朝(梳る)」(1979)など1970絵年代後半に描かれた旧来的または保守的な作品とのギャップが興味深かった。
ほかに、晴山英(1924~2011)の「停止のセコンド」(1979)も印象に残った。
ハコとしては大きくて立派な県立美術館だが、それゆえに「岩手ゆかり」の作家たちのコレクションだけでは客の入れ込みも館の評価も上がらないだろう。
おそらくは県独自事業予算が極めて限られているなかで、外部からの助成を如何に引き入れ、どんな企画展を展開していくのか、ここのキュレーターたちには、その手腕が問われている。(了)
2012年08月04日
十和田市現代美術館
猛暑の夏、3日ほど夏休みを取って、十和田~弘前~盛岡と、車で巡る旅に出かけた。
青森県十和田市を訪れた目的は、十和田市現代美術館を見物することだった。
だいぶ以前に十和田湖や奥入瀬を訪れたことはあったが、現在の十和田市の中心部である旧十和田市(その前は三本木市)の辺りを訪れたのは今回が初めてである。
観光ガイドブックで下調べしていると、どう見てもそれほどの人口があるとも、地域の中核都市とも思えないこの街に、「官庁街通り」という立派な名称(?)の大通りがあり、それが1キロ以上も続いているということにちょっと奇異な感じを受けていたのだったが、実際に訪れてみて、その通りの広さと立派さに、まずは驚いた。
片側二車線の大通りの両側には、幅4~5mほどの歩道があり、両側の歩道にそれぞれ二列ずつ並木がある。車道側にあるのが松の並木、歩道の外側にあるのが桜の並木である。この並木の松も桜も立派なもので、この通りが歴史を重ねていることを想わせる。
昔、陸軍が軍馬局出張所を置いていたことから、この通りは「駒街道」と呼ばれたという。
今は、銀行、警察署、消防署、商工会館、県の合同庁舎、国の合同庁舎、保健所、裁判所、市役所、中央病院、図書館、公民館、市の保健センター、社会福祉協議会、農協、東北電力、教育会館などの建物がずらりと並び、その中心部に現代美術館がある。
美術館の収蔵品の一部が通りに面した同館の敷地に野外展示されているほか、美術館と対面するように大通りの反対側には「アート広場」があり、巨大な野外展示作品が数箇所に配置されている。
ちょうど日曜日だったので、美術館の向こうの広場では、家族連れなどが集まるちょっとしたイベントが開催されていた。まったりとした野外ライブの音も聞こえてくる。
この広々とした通りだけを見ていれば、立派な通りだなぁ・・・とか、現代美術の作品それもポップ系の作品を思い切って街づくりに導入したものだなぁ・・・などという感想を抱くに止まるところだが、この通りがタッチしている国道102号の商店街の寂れ具合を見ると、しかし、複雑な想いを抱いてしまうのでもある。
十和田市は、2005年に隣接する十和田湖町と合併して今の十和田市(人口6万5千人)となった。
この十和田市の中心街となっている国道102号沿線の商店街でも、もはや東北の地方都市のどこでも見られるようになってしまった「“シャッター通り”化」が進行しているのだった。とくに両側の歩道の上にかかるアーケードの塗装が剥げ、錆が目立つのが“寂れ感”をなおさら演出してしまっているのが気にかかる。
このあとで訪れた十和田湖畔で、たまたま話を交わすことになった十和田市民から聴いた話では、この「官庁街通り」には随分と市の財政支出が行われているとのことだった。「官庁街通りに1億円もするトイレを設置するなら、寂れる一方の十和田湖畔にも金をかけて欲しい」・・そう彼は言っていた。・・・じぶんが市長なら、まずはこのアーケードの錆をなんとかするだろうなと思ったものである。
もっとも、寂れた商店街に梃入れするのはなかなか容易なことではない。効果的な振興策の創出が難しいのはもちろんだが、単純な施策であっても公費を支出する手法や支援する理由の適切さという点で難しさがあるだろう。
“行政は、とにかく「一点豪華主義」で、観る者をあっと言わせる現代美術館と周辺空間を作る。それで人を呼び込むから、あとは地元住民と民間が努力して客を獲得してくれ”・・・たしかにこういう考え方もあるだろう。その点からみれば、この現代美術館は奏効している。しかし、東北の小都市の商店街や観光地に“自力更生”の力がどれほど残っているか、それもまた疑問である。
ガイドブックにも、美術館などのパンフレットコーナーにも、レストランやカフェなど美術館のイメージに釣り合う飲食店の情報がない。現代美術館周辺で昼食の場所を探したが、猛暑ゆえ街をあちこち歩き回ることを避け、結局は近くのチェーン店っぽいラーメン屋に入ることになった。
肉が欲しくない客も少なくない。B級グルメの「十和田バラ焼き」だけで地元の店に客を招き入れることはできないだろう。
さて、「十和田市現代美術館」について。
まずはWikipediaから引用してみる。
(引用ここから)
Arts Towada(アーツ・トワダ)の拠点施設として2008年4月26日に開館した現代美術館。十和田市官庁街通り(別名:駒街道)に位置する。十和田市企画調整課が計画を行い、プロジェクトの全体監修をナンジョウアンドアソシエイツが行った。
ひとつの作品に対して、独立したひとつの展示室が与えられ、これらをガラスの通路で繋ぐという構成により、美術館自体がひとつの街のように見える外観をつくり出しており、来館者は街の中を巡るように個々の展示室を巡り、作品を見ることができるというユニークなものとなっている。また、一部の展示室には大きなガラスの開口が設けられ、アート作品が街に対して展示されているかのような開放的な空間構成を持ち、まちづくりプロジェクトの拠点施設としてつくられた特徴ある美術館となっている。
(引用ここまで)
Wikipediaの内容について言及しながらこの美術館の印象を述べると、まずその規模から「美術館自体がひとつの街のように見える外観をつくり出して」いるとまでは言えない。だから、「来館者は街の中を巡るように個々の展示室を巡り、作品を見ることができる」というよりも、来館者はハコからハコへと移るように展示室を巡るという感じである。通路が狭いので、この「ハコからハコ」という感じが増幅されてしまう。
しかし、以下の2点から、「アート作品が街に対して展示されているかのような開放的な空間構成を持」っているという点はそのとおりであると言っていい。
①美術館内のカフェが大きなガラスの開口部によって、「官庁街通り」から丸見えになっており、そこに人影やデザインされた空間が覗えること。
②コスタリカの熱帯雨林に生息するハキリアリを巨大化させた真っ赤な作品「アッタ」(椿昇)や花で飾られ形象化された巨大な馬の作品「フラワー・ホース」(チェ・ジョンファ)、建物の外面にリンゴの木を描いた壁画作品「オクリア」(ポール・モリソン)などが「官庁街通り」に面して野外展示されていること。
また、これらの「開放的な空間構成」と、「官庁街通り」を挟んで美術館の向かい側にある「アート広場」に展示されている作品群が一体的なオブジェ空間を形成している。
「アート広場」には、水玉模様の巨大なカボチャやキノコの作品「愛はとこしえ十和田でうたう」(草間彌生)、アメリカの子供向けコミックに出てきそうな「ファット・ハウス/ファット・カー」(エルヴィン・ヴルム)、巨大な白い布を被ったお化け(出来損ないのオバQみたいな)「ゴースト/アンノウン・マス」(インゲス・イデー)などの作品が並び、子どもにとっての“巨大な野外おもちゃ箱”風の空間を創出している。
「Arts Towadaの拠点施設」とやらを、よくここまで糞切って造り切ったものだと行政的な感心をするとともに、「まちづくりプロジェクト」としての野外オブジェの試みは、結局ここに極まるしかないのかという嘆息みたいなものがやってきた。
じぶんの感覚としては、どうしても、このような巨大なオブジェ群(“戦艦大和型アート”とでも評しておくか)については、「老朽化したらどうするのか」とか「飽きられたらどうするのか」などという姑息な想いが先立つ。現に、じぶんとしては“こういうポップ系オブジェは一度見ればたくさん”という印象であった。・・・そもそも公共空間における美術とは時間とともに変幻する運動ではないのか・・・などという古風なイデオロギーも捨てがたく心中に存在する。
さて、十和田市現代美術館の常設展示作品で印象に残ったものについての感想を記す。
まず、入館して最初の展示室に立つ巨大な白人老女の像に目を奪われるのが、作品「スタンディング・ウーマン」(ロン・ミュエク)。巨大であるということは、それだけで芸術的に受け止められるという優位さがあるが、それを差し引いても、どこかしらこの老女があまり性質のいい女ではないなと、いわば文学的想像を掻きたてる点で、これは優れた作品に仕上がっている。
インスタレーションでは、非常に巧妙に幻影空間を創出しているのが、ハンス・オプ・デ・ビークの「ロケーション(5)」である。真っ暗な空間にやっと眼が慣れると、その部屋はアメリカ風カフェの造りになっている。このカフェはどうも階上に位置するらしく、テーブル席に隣接する窓の下に高速道路が走っている。この道路が夜の闇の向こうに伸びる風景が、作り物のようでいて奇妙なリアリティをもって迫ってくる。
キム・チャンギョムの「メモリー・イン・ザ・ミラー」は映像作品。鏡のフレーム内に様々な人間が登場しては、鏡に向かって様々な身体の表情を映し、やがて消えていく。これらの登場人物たちがサマになっているという意味で完成度は高いが、それゆえ、登場人物たちが言ってみれば“セミプロ”の役者のように見えてきてしまうと、急にこの作品自体への興味が失われていくというジレンマを抱えている。
夜の針葉樹林の地上の風景を、黒を基調として再現したリール・ノイデッガー「闇というもの」も巨大なオブジェ。効果的な照明のラインで、夜の闇の不気味さと魔性を演出している点では秀逸だが、その造形に用いた素材か塗料かが、化学薬品みたいな強烈な臭気を放っている。この作品は、この臭気もその一部なのだろうか、それとも作者の臭覚が麻痺していたのか、とにかく臭覚の敏感な鑑賞者を拒絶する作品ではある。
オノ・ヨーコの「念願の木、三途の川、平和の鐘」については、これを酷評しておく。もし作者がこれをアート作品だと強弁するなら、有名性に持たれかかった醜悪さ以外に感じ取れるものはない。
最後に蛇足かもしれないが、ひとつ気になったことを述べてこの項を閉じる。
この美術館では、一般に展示作品ごとに設置してある当該作品の作者名や題名を記載したプレートが存在しない。だから、鑑賞者は入口でもらったパンフレットの写真でいま眼前にある作品を特定し、そのパンフの記載内容から題名と作者と作者の生年及び国籍を知るほかない。また、パンフには当該作品の制作年については一切記載がない。
パンフに全作品の写真が掲載され簡単な解説が付されているのは好ましいが、作品の付近に当該作品についての表示がないのはいただけない。
美術館を出て、どこかで一息つこうと、車で通りかかった際に偶然見つけた商店街のカフェ「ミルマウンテン」に入った。まさにエコなカフェと言うべきか、かなり古い木造家屋を改修した店内で、外気温35度でも冷房が入っていない。そもそもエアコンらしきものが見当たらない。二階の席では、首を振る1台の旧式扇風機と、客ひとりに一柄ずつ渡されるウチワが救いだった。(この項、了。)