スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2011年09月19日

大急ぎ 知床行 (その4)



 【第4日(火)】

 「JRイン札幌」で7:00頃目覚めてテレビをつけると、JRの状況は昨夜と変わりなく、やはり午前中は運休となっていた。ホテルが提供する数種類のパンと飲み物の朝食を済ませて、9:00ころ札幌駅を訪れた。

 人だかりの改札口には地元テレビ局のカメラの砲列ができ、予定が狂った乗客たちの表情を狙っている。案内の職員は、飛行機に乗り換える客向けに空港行きの列車の発車時刻を連呼している。
 とりあえずみどりの窓口で、「今日中に、なるべく内地に近いところに行けるようにお願いしたいのですが・・・」と、所持していた札幌発9:19「急行北斗8号」と新青森16:28発「はやて174号」の指定席券を指し出すと、職員は「今日中に仙台まで行けますよ」と言って、札幌発12:22「特急スーパー北斗12号」と新青森発18:28「はやて180号」の指定席券に交換してくれた。
 テレビニュースで、道南は記録的大雨に見舞われたと聞いていたので、午後すぐに運転が再開されるとは思ってもみなかった。それに、運転が再開されたとしても、「大人の休日倶楽部」の割引パスの期間中で内地から道内を訪れている旅客が多い時期でもあり、すんなり今日の午後の列車のチケットが取れるとは思っていなかった。まぁ、自由席に立ってでも今日中に函館まで辿りつければいいかくらいに思っていたので、運転再開後の始発となる「特急スーパー北斗12号」に座って乗れることは幸運なことなのだった。

 思いがけず札幌で時間ができたので、構内のミスタードーナッツでコーヒーを飲みながらノートに旅の記録をつけ、大丸デパートが開店するとその地階で職場と自宅用の土産、それに昼用の弁当を買った。けれどこれではまだ不足なような気がして、駅構内の物産店で毛ガニ(2ハイで5,500円くらい)の発送を注文した。当初の予定通りの行程だったら、旅の土産など買う暇も買う気持ちもなかったはずである。

 ほんとうに運転が再開されるのか心配していたが、「特急スーパー北斗12号」は定時に札幌を出発してくれた。
 例によって、じぶんはうとうとしはじめ、室蘭本線の沿線の風景をほとんど憶えていない。
 長万部のあたりで一度目を開けたが、気づくともう大沼公園に差しかかっていた。列車はやや遅れを出している、それで青森行きの客は五稜郭で乗り換えるようにとのアナウンスがあった。
 じぶんの席の後方から、次で降りる準備をして合席だった乗客に別れの言葉を告げているかのような一人の老人の声が聞こえてきた。
 「関東はもうみんな放射能で汚染されてしまったから、あなた方はお嫁にいくとき、放射能の検査をしてもらって証明書を持って行くんですよ。」などと言っている。どんな人かと思って振り向くと、短パン姿に片方の手で杖をついた脂肪太りの80歳前後の男性だった。
 「関東の自分たちはもう放射能に汚染されてダメになってしまった」「お嫁にいく時は先生にちゃんと検査してもらいなさい」という趣旨のことを、嘆息とも自己卑下とも取れるような口調で、何度も独り言のように、だが辺りに聴かせたい様子で繰り返している。「テメエのような年寄りが放射能でどうこうなる訳ないだろ! バカなこと言って老害を撒き散らすな!」と怒鳴りつけてやりたい気持ちになった。

 ところで、3時間余りのこの車中には、午前中の便の突然の運転休止によって、代わりの列車の指定席券を入手できなかった「大人の休日倶楽部」の利用者と思しき利用者たち、つまり高齢者たちが、たくさん乗車していた。先のデブじじぃは座っていたが、デッキや通路には60代後半から70代の男女らが数人、札幌から函館まで立ったままで過ごしていた。
 内地に帰るために必ず乗車しなければならばない函館発・新青森行きの「特急スーパー白鳥40号」の指定席券は、じぶんも入手できなかった。そこで、自由席に座るために、北斗を降りたら急いで乗り換えなければと思っていたのだが、この函館まで立ったままだった高齢者たちを見て、函館からはじぶんは立つ方にまわろうと、殊勝にもそんなことを考えたのだった。
 五稜郭に停車すると、こんなに大勢の高齢者が乗車していたのかと驚くほどの群れが、先を争って下車し、運動会の荷物運び競争のようにして階段を上り始めた。
 杖をついている者も目に付くし、大きなスーツケースを抱えて必死の形相で駆け出す者も少なくない。じぶんは最初から座席を諦めていたから、この人たちと奪い合う気などなかったのだが、その迫力にそれでもタジタジとなる。
 “自由席は何号車だ?”と老人たちは気色ばんで探す。五稜郭駅のホームで、やや遅れた「特急スーパー北斗12号」を待っていた「特急スーパー白鳥40号」の車体には、号車番号も指定席車か自由席車かの表示もまったく掲げられていないのだった。駅員や車掌がホームで質問に答えはするものの、自由席車両を求めて必死の形相で駆けてきた大勢の高齢者たちは、軽いパニック状態に陥った。
 しかし、彼らが必死で求めた自由席は、すでに始発の函館で大方埋まっていたのだった。それもそのはず、指定席車両のいくつかは修学旅行の中学生の団体で占められていて、そもそもこの列車には一般乗客向けの座席が少ないのだった。
 こうして、じぶんを含め、杖をついた者まで含めて、デッキや自由席車両の通路には、ワゴンサービスが通行を自粛するほど多くの乗客が立つことになった。立ち乗りの客の一部は、指定席車両の通路にまで及んだ。座席を向かい合わせてカードゲームやおしゃべりに興じる中学生と、その通路に立つ中高年の乗客が対照的だった。
 2時間あまりとはいえ、高齢者にとっては辛い乗車となったのではないか。「大人の休日倶楽部」の割引パスの期間は、いわゆるオフシーズンの期間に設定されている。その期間を利用して、6回まで無料で指定席が取れるこのパスでのんびり北海道旅行をと考えた高齢者諸君にとっては、このアクシデントは堪えるのではないか。・・・そんな心配をしたのだったが、すぐにその心配を吹き払った。
 考えてみれば、彼らの時代は、夜行の急行列車であの硬い直角の座席に長時間座って旅をするのが当たり前だったのである。「急行おが」や「急行津軽」で、学生時代のじぶんも何度か経験した。混雑の時期は、すし詰めの通路に新聞紙を敷いてそこに座ったり寝たりして列車に揺られた。満員で通路が通れず、窓から下車したこともある。・・・そんな旅が当たり前だった時代を過ごしてきたジジ・ババたちは、今でも逞しいに違いない。
 そういえば、網走の弁当の売店では、独りで杖をついて旅をしている片側半身マヒの客も見かけた。まだ60代で、脳卒中の後遺症のようだった。売店のあの厳しい親爺に、ポリ袋に入った弁当が傾かないように持てと言われて、それにたどたどしい口調で、自分は片方の手しか効かず、その手で杖を持っている。その同じ手に弁当を持つから、傾いてもしょうがないだろうという趣旨の返答を返していたのだった。
 やれやれ、旅する老人恐るべし、である。




 じぶんは自由席にすし詰めで立たされるのを嫌って、修学旅行の中学生の団体客が占めている車両の内に入り、その一番出口のところに立っていた。目の前がちょうど引率教師の席で、その教師たちの言動が嫌でも耳目に入る。気づくとその車両のデッキにはノーネクタイだが背広の上着を着た旅行会社の添乗員が立っている。新青森が近づくと、かれらは大きなバッグをいくつも持って降りようとする。どうもそれらのバックは引率教師たちのもののようだ。
 それに、たぶん添乗員の指定席は確保されていないようなのだ。かれらは、自由席に空席がないときは、いつもこうして何時間も立って添乗しているのだろう。それにくらべて、引率の教師たちは、添乗員に自分の荷物を持たせるのが当たり前だとでもいうようにふんぞり返っている。
 ずいぶん昔のことになるが、ある全国イベントの準備業務で旅行代理店の職員と一緒に1年ほど仕事をしていたことがあって、そのときに彼から旅行業者や観光業界の裏話をいろいろ聴かされた。その話のなかに、修学旅行が旅行代理店の業績にとってどれほど重要か、それを受注するために教師をどう接待するかなどの話があったことを思い出していた。

 立って揺られるまま、山形から持参したロシアの現代小説家ヴィクトル・ペレーヴィンの短編小説集『寝台特急 黄色い矢』(群像社)を、この旅ではじめて紐解いた。これはこの本の訳者の一人である中村唯史氏から頂戴したものだった。
 そうこうしているうちに列車は新青森に着き、そこから「はやて180号」に乗ると、なんだかほっとした。例によって、山形から持参した最後の「じゃがりこ」をつまみに500mlの缶ビールであっという間にうとうとし、気がつくと20:40仙台着。
ここで仙山線に乗り換えるのが、「大人の休日倶楽部」流ということなのだろうが、ここでは1時間の時間節約のために、仙台駅前からの高速バスを選択する。
 そして、バスは22時ころ、無事、山交ビルに到着。
 当初の計画では、仙山線経由で山形駅到着を20:56としていたから、大雨による運休の影響は、札幌を発つのが3時間遅れたにも関わらず、僅かに1時間遅れの帰形というかたちで、目出度く収まってくれたことになる。

 じぶんの場合、旅の目的も旅の意味も、その旅の途中では解らない。格別に用事のない一人旅のときはいつも、目的地に行って帰る、そのことだけに夢中で、あとのことは考えていないような気がする。この知床行もそんな旅だった。
けれどまた、1970年代に当時は光り輝いていた北海道のイメージに憧れたようにではなくて、まったく別の視点から北海道の各地をもっともっと丁寧に見て歩きたいと思うようになった。
 この記事を書いた当日、これまで遺書らしきものを残して失踪していたJR北海道の社長の遺体が、小樽の海で見つかったことが報じられた。様々な困難を抱えているであろうJR北海道の奮闘を願いつつ、「大人の休日倶楽部」割引パス(23,000円)に感謝して、この記を閉じることにする。 (了)
                                                                                                                                                                                                                         


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 02:47Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月17日

大急ぎ 知床行 (その3)



 【第3日(月)】

 この日もまた大急ぎの行程を組んでいた。
 6:30ころ起床。7:00に宿舎の広間で、地元産の温野菜(ジャガイモとニンジンとブロッコリー)が中心の朝食。普段は食パン1枚に牛乳1杯の朝食だが、箸が進んでご飯を2膳いただく。
 それから、カウンターでウトロ温泉バスターミナルまでの送迎を頼むと、職員が「今日は船に乗るんですよね? この天気なので、今日は条件付運航になりますよ。」と話かけてきた。
 この日は、「ゴジラ岩観光」という会社の観光遊覧船に乗って、知床半島を海から見物する予定だった。「条件付運航」というのは、海が荒れそうな場合、船長の判断で予定のコースの途中でも引き返すこと、そしてそれを了承した者だけを乗船させるという意味だった。
 紀伊半島などに大きな被害を与えた台風12号が北海道に近づき、前の晩から風雨が始まっていた。危険だと判断されたら引き返すことは当然了解の上だった。
 なにしろ、じぶんは船酔いがひどく怖い人間である。これまで厳冬期の荒れた津軽海峡を何度も青函連絡船で渡ったり、石垣島から西表島まで東シナ海のうねる海原を小さな連絡船で往復したり、釣り船で沖に出て釣りをしたりしたことなどはあり、それでもゲーゲー吐くほど気分が悪くなった経験はないのだが、何故かひどく船酔い恐怖症なのだ。
 それで、知床半島の突端までいく3時間のコース、ヒグマを観察する2時間のコース、途中の硫黄山まで往復する1時間のコースという3つのうち、一番短時間の硫黄山コース(3,000円)に申し込んでいたというわけである。

 「国民宿舎・桂田」の送迎で、10時前には「ゴジラ岩観光」の事務所に到着した。
 10:30の出航時間まで、事務所のなかに置かれていた知床の海洋生物の写真集を見た。写真家の名前は記憶しなかったが、これが素晴しい写真集で、この北の海がこんなに豊かなのかと驚かされた。どうりでこの知床が、世界遺産としてその半島の沿岸の海の区域を含めて認定されているわけである。
 観光客たちが窓口でレンタルの雨具を借りるのを尻目に、じぶんは持参したゴアテックスの登山用雨具を着用して、登山用のツバのついた帽子を被った。
 時間が来ると、この便の乗客30数人は事務所の職員の先導ですぐ近くのウトロ港まで歩かされる。その途中にそそり立つのが、まさにゴジラそっくりの「ゴジラ岩」である。

 台風が接近する状況だったが、以外にも海は凪いでいた。雨も弱かった。
 半島の岩壁の変化に富んだ造形と、そこから流れる「フレペの滝」「湯の華の滝」「カムイワッカの滝」など岩肌から流れ落ちる滝を観ながら、最果ての自然景観の一端を垣間見た。
 意外だったのは漁業用の網の仕掛けと思われるブイが沿岸のあちこちに浮いていたことだった。
 環境省のHPで知床国立公園の区域図を見ると、沿岸の海域は国立公園の普通地域になっている。世界遺産の地で、自然保護と漁業の調整はうまくいっているのか・・・そんなことを考えながら、潮風に吹かれていた。
 この生憎の天気で、半島の中心部に連なる硫黄山など知床の山々の姿は見られなかったが、むしろこのように昏い半島の表情こそがこの風光の表象として(あるいはこの地に関する自分の記憶として)相応しいような気がした。
 下船すると時刻は11:30を回っていた。
 ウトロ温泉街の中心の信号機からバスターミナルの方向へ歩き出し、すぐ近くの「ボンズホーム」という店で昼食をとることにした。いくつかのガイドブックに紹介されているジャガイモのグラタンの店である。甘いジャガイモを「栗じゃが芋」と名づけて販売している。
 じぶんはジャガイモがそれほど好物ではないので、カレーにした。味は良かったが、ご飯にカレーがあっさりしかかかっていない。この店の主人が「ボンさん」という渾名らしい。カウンターには、客に心情移入することがなさそうな感じがして、そこが“美人”にみえる魅力的な奥さんがいる。
 珈琲をゆっくり味わいたいところだったが、注文の品が出てくるのが遅くて、バスの発車時刻が迫ってきた。この日のうちに札幌まで戻る予定だったが、急に思い立って知床五湖に立ち寄ることにしたのだ。大急ぎで珈琲を流し込んで、バスターミナルに向かう。
 知床五湖行きのバスは12:30発だった。バスはプユニ岬の上り坂をぜいぜいと越えて、25分ほどで知床五湖に着いた。




 知床五湖フィールドハウスの駐車場には、観光バスの団体客が大勢押しかけている。雨は本降りになり、横殴りの風も吹いてきたが、団体の観光客たちは傘や携帯のビニール合羽程度の井出達で、ずぶ濡れになりながらバスガイドや添乗員に引率されて高架木道を歩いていく。
 じぶんは14:00のバスでトンボ返りしなければならない。それで、レクチャーを受けてからでないと入れない地上歩道の散策は断念し、観光客に混じって無料で誰でも自由に入れる高架木道を歩き始めた。狭い歩道を帰ってくる観光客(彼らは風雨に向けて傘をさしているので前方を見ていない)を避けるのに神経を使いながら、それでも800mほど高架木道の先端まで歩いた。
 高架木道の外側には、ちょうど“ネズミ返し”のような塩梅にヒグマ避けの電線が張られている。木造の高架橋ではあるが、いかにも頑丈な造りで、ハイヒールでも車椅子でも歩けるように設えられている。年間約50万人が訪れるという観光地だそうだから、こんな施設も必要にはなるだろう。(「知床五湖」利用のルールについてはhttp://www.goko.go.jp/rule.htmlを参照のこと)
 自然保護と観光とのバランス、それにヒグマ出没の危険(というよりもヒグマ出没による「立入り禁止」措置の危険か)を考えて、いろいろ知恵を絞ったところだろうが、その議論の過程は「知床五湖利用のあり方協議会」のサイトhttp://dc.shiretoko-whc.com/meeting/5ko.htmlで垣間見ることができる。
 「世界自然遺産」というネームバリューを得たのだから、多くの観光客を招いて経済効果を得ようとするのはわかる。しかし、訪ねてみるとまさにカッコつきの観光地“過ぎる”印象ではある。
 上記の協議会も、自然保護団体や自然保護の専門家や学識経験者の参加がなく、もっぱら利用者・観光業者の立場のメンバーによる構成である。もし山形県でこの種の協議会を立ち上げることになったら、こんなメンバー構成では通用しないだろう。
 この方策を支持できるとしたら、観光客を「知床五湖」で堰き止めて、これより深い場所に入れないようにすることと、ここであがる収入を自然保護に効果的に活用することが条件になると思われる。
 なお、参考まで、月山山麓のブナの森にある山形県立自然博物園の場合は、歩道への踏圧や周囲への影響を考えて、年間の入場者数を3万人程度に抑えていたと思う。
 
 さて、この旅では交通機関の乗継の心配が頭から離れない。焦る気持ちを抑えながら14:00知床五湖発、15:10斜里バスターミナル着のバスに飛び乗った。知床斜里駅を15:20に発つ列車に乗らないと、今日中に札幌に着くことはできなくなるのだ。
 バスはウトロ温泉バスターミナルから何人かの高齢者を乗せ、彼らを「オシンコシンの滝」のバス停で下ろした。高齢者たちの動作は遅く、しかも観光気分でのんびりと行動しているので、10分しか乗り継ぎ時間がないことが気になってくる。斜里からウトロに来るときは極めて順調に走って50分だった。だがこの調子では、50分で戻れるか危うい。途中でさらに乗降客がいたり、ちょっとでも通行障害があったりすると、15:20発の列車に間に合わないのだ。
 だが、結果的にはここでもうまく乗り継ぐことができた。バスは例によって朱円の一本道を順調に走り、定刻に数分ほどの余裕をもって斜里駅前のバスターミナルに到着した。それに列車も斜里駅発のようだった。北海道はさすがに観光立国だわ・・・と、札幌弁風にこのときは思った。
 



 釧網本線の普通列車は、右手にオホーツク海を見ながらたんたんと走る。だが、車窓には廃屋が目立つ。左手の牧草地ではサラブレッドが草を食んでいるが、期待していた清水原生花園は雨で霞み、季節外れなのか花たちの姿を見つけることはできない。
 ザックから例の「初孫」紙パックを取り出し、コップに半分ほど注いだ酒をちびりながら薄暗い雨の海を眺めている。冬にはこの区間に「流氷ノロッコ号」が走るのだろう。鱒浦から網走港にかかるあたりで、この旅で初めて“旅情”というようなものが腹の底から微かに湧いてくるのを感じた。
 こうして列車は16:07に網走駅に到着した。17:18網走発の「特急オホーツク8号」までの待ち時間にどこかでビールでも引っかけようかと駅前を眺めたが、駅前にはただ線路と平行な道路が一本通っているだけで、ビルやホテルはあるが、飲食店どころか商店の看板の影さえ見えない。仕方なく駅の待合室で「なでしこジャパン」のオリンピック予選である北朝鮮戦の前半を観戦。そして、そこにあった売店から駅弁の「シャケいくら弁当」(1,150円)を買い込み、「特急オホーツク」の中で早めの夕食とすることにした。
 売店の親爺は怒っているように見えるほどハキハキと喋る人で、注文を取ってから駅の外にある厨房に携帯から連絡を入れて弁当を作らせ、それを発車時刻まで届けさせるのだった。あの「ボンズホーム」のママとこの売店の親爺の風貌は、なぜか旅の印象に残っている。
 ところで、この「シャケいくら弁当」だが、開けてみるとシャケの解し身がたっぷりで、中央にイクラも少なからず盛り込まれていた。それで見た目は感激するのだが、食べ始めると極めて塩っぱい。この塩っぱさは半端でなく、途中で日本酒の肴にと気分を切り替えたのではあるが、それでも食べているうちに気持ち悪くなるほどだった。
 車窓はすっかり暗くなっている。「特急オホーツク」は、石北本線を順調に走る・・・かのように思われた瞬間、真っ暗な区間に突然停車した。車内アナウンスでは、「エゾシカに追突しました」という。
 しばらく停車し、その後、客車の通路を車掌がはぁはぁ言いながら走っていってから、やがて列車は走り始めた。

 片山虎之介著『ゆったり鉄道の旅(1)北海道』(2006年・山と渓谷社)から引用してみたい。

 「もうひとつ、石北本線で忘れてならないのは定紋トンネルのことだ。北海道の鉄道は、石北本線に限らず、その敷設工事に多くの犠牲者が出ている。特に悲惨なのは、『タコ』と呼ばれた労働者たちだ。都会など他地域からほとんど騙されるようにして工事現場に連れてこられた労働者たちは、タコ部屋と呼ばれた監獄同然の部屋に押し込まれ、囚人に等しい監視を受けながら強制的に働かされた。過酷な労働に虚弱な者は落命し、脱走を企てたもの(ママ)は捕らえられ、見せしめのために撲殺されたという。激動の時代だったとはいえ、悲しい歴史だ。昭和45年に生田原―金華間にある定紋トンネルで、レンガで覆われた内壁の中から、人柱にされたと思われる人骨が発見された。」

 ここでは激動の時代としか言っていないが、ウィキペディアによれば、このトンネルが開通したのは1914年(大正3年)という。
 こんなことも知らず、じぶんはひたすら今夜中にこの列車が札幌駅に滑り込んでくれることを願っていた。

 さて、22:38札幌着予定の「特急オホーツク8号」は、いくらか遅れつつもとにかく無事に札幌に辿りついてくれた。これまで人口密度の薄いところばかりを通ってきたからか、深夜の札幌駅の人混みと光量は格別で、ずいぶんと違う世界に出てきたような感じがした。この落差が北海道の困難さを表わしてもいるのだが。
 まっすぐに、予約していた駅近くの超豪華!ホテル「JRイン札幌」(7,000円)にチェックインし、とりあえずシャワーを浴びると、テレビで台風による大雨のニュースが流れた。そしてテロップで「午前中運休 函館本線・・・・」との表示が流れたのである。(が〜〜ん)
 明日中に山形に帰りつくために、9:19札幌発の「特急北斗8号」、13:56函館発の「特急スーパー白鳥34号」を乗り継いで内地に戻り、16:28新青森発の「はやて174号」で19:37に仙台まで辿りつく計画だったのである。
 とにかく詳しい情報を得て、できるなら今夜中に、明日少しでも山形に近づく列車の切符を手に入れたいと思い、ホテルを出て札幌駅に向かった。時刻はすでに0時を回っていた。
 すると、隣接する大丸デパートや駅ビルの出入り口と共通の札幌駅の入口はすでに全て施錠されていて、中の広い通路にも駅員の人影さえ見えないのだった。つい先ほど降りたった駅とはまったく別の表情で、扉にお知らせの張り紙もなく、大雨による足止め客の問合せを拒否している冷たい駅がそこにあった。JR東日本なら、大都市の駅で乗客にこんな扱いをすることはちょっと考えられない。
 致し方なく小雨の中を歩いて帰った。深夜営業の居酒屋はまだ開いていたが、明日新たに帰形の方途を見出さなければならないことを考えると入る気にならない。じつは上司に「遠くまで行くので、交通機関の関係でひょっとしたら水曜日も休みをいただくかもしれません」と断ってはきていた。だが、職場やじぶんの仕事の状況を考えると、3日連続で休みを取ることは柄にも無く憚られていたのである。
 ホテルの向いのコンビニでビールを1缶(これもサッポロクラッシック)とサラダを買い求め、部屋のテレビで「なでしこジャパン」の試合結果を観つつ、ススキノの眩さを思い浮かべながら札幌の夜を過ごしたのだった。(つづく)
                                                                                                                                                                           
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:25Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月11日

大急ぎ 知床行 (その2)



【 第2日(日) 】

 5:24着の「急行はまなす」から南千歳駅に降り立った旅客は、10人ほどだった。もちろんほとんどが石勝線への乗換え客である。
 南千歳駅はいかにも新興地の駅という造りで風情などないが、窓から見える周囲が閑散としていて、雨の朝の興ざめな雰囲気を助長している。
 次の乗車が7:33なので、待ち合わせの時間が2時間余りある。それまで朝飯をと辺りを探すが、この時間では当然売店は開いていない。駅前にコンビニがある様子もない。仕方なく改札を出てすぐ前の自動販売機からチョコの入ったパンと野菜ジュースの紙パックを買い求めて、それを朝飯にする。
 
 定刻に「特急スーパーあおぞら1号」釧路行きが入線してくる。一見かっこいい車両だが、近づいてみるとどこかしらチープな雰囲気がある。車両を軽量化しているためだろうか。
 海峡線と函館本線、それに室蘭本線と、熟睡できなかったツケが来て、なんと帯広あたりまでウトウトし通しだった。楽しみにしていた狩勝峠の風景も見損なった。ただ、意識朦朧としたなかで、ディーゼル・エンジンが一段と大きな音を上げるのを聴いていた。
 こうしてあっけなく北海道を横断し、定刻の10:51に少し遅れて列車は釧路駅に着いた。
 ここからがまた忙しい。10:56釧路発の「くしろ湿原ノロッコ2号」に乗車しなければならないのである。釧路で下車した旅客たちが先を競ってノロッコ号の乗り場に急ぐ。数日前に山形で指定券を購入したのだったが、そのとき、湿原側のシートの指定席はほとんどが埋まっている状態だった。実際にも車内は満席で、家族連れや高齢者の団体客でごった返していた。これは完全な観光列車の趣。バスガイドのように流暢な女声による車窓の解説が流れる。




 その案内で、キタキツネがいるというのでカメラを向けたのがこの写真。背後に写っている車の人間が餌付けをしているようだ。自己満足のための餌付けなどすべきではない。
 
 「ノロッコ号」とは上手い名をつけたものだと感心するが、その名に相応しいほど遅いスピードになるわけではなかった。釧路湿原駅から先、もっとノロノロ運転にすることはできないものだろうか。もっとも、団体客の観光バスのコースの一部として組み込むには、この程度の乗車時間(40分ほど)が適当だということかもしれない。
 湿原を流れる釧路川は、台風の影響による増水で濁っていた。曇り空でもあり、とうてい美しい風景という印象ではない。しかし、じぶんは予めこんな風景を想像していた。いや、というよりもそのように自分が醒めた感受をするであろうことを想像していた。じぶんは、すでに北海道には広大で美しい自然がある・・・そんな幻想から見放されているのである。“ロマンのある北海道”というのは、10代のじぶんが、1970年代の北海道に描いていた幻想だった。そこからずいぶんと遠くに来ているのだ。





 ノロッコ2号は、塘路という駅で釧路に折り返しになる。
 塘路駅に11:40に着くと、乗客の多くは駅前に迎えに来ていた観光バスに乗り込んでいった。塘路駅の前の芝生には木製の展望台があり、その上からノロッコ号とその向こうに拡がる釧路湿原を撮ったのがこの写真である。










 じぶんは次の網走行きが来るまでの間、塘路湖の方向に歩き出し、標茶町の郷土館を訪ねた。この郷土館の建物は、明治18年に設置された釧路集治監の本監として建てられたものだという。
 シマフクロウやオオワシ、オジロワシなどの剥製を初めとした野生生物の標本と、民具やアイヌの民具などが展示されている。なかでも集治監の歴史を展示・解説した一室が興味深かった。
 集治監とは、いわゆる刑務所だが、北海道の開拓に不可欠な役割を果たした。集治監に収監され強制的に労働させられた者たちの犠牲の上に、今の北海道は成立している。初期の集治監には、犯罪者のほかに、明治維新以後に叛乱を起こしたいわゆる不平士族たちも送られていたという。今で言えば政治犯たちである。
 かれらはその能力や技術に応じた仕事を与えられ、自らの手で集治監の施設を作り、自給自足のための農地の開拓と生産を担った。集治監は農業試験場的な役割も果たし、ここで開発された栽培技術が開拓民に普及されていったという。






 「博物館 網走監獄」のパンフレットによれば、釧路集治監の網走分監(後の網走監獄)には、明治24年(1891年)に1,200名が収監され、網走から北見峠下までの163キロの北海道中央道路の建設を僅か8ヶ月で完成させるよう命令が下され、昼夜の突貫工事による過重労働と劣悪な環境により、211名が命を落としたという。
 標茶町は集治監により発展し、集治監の廃止により衰退する。釧路湿原の中の小さな駅で下車したことで、思いがけず、今は完全に観光地化され隠された北海道の裏の顔を垣間見た気がした。(写真は、120年前の釧路集治監時代から変わっていないという階段。)

 塘路駅まえのベンチでそこにある売店のソフトクリームと山形から持参したカロリーメイト、それに目の前の水飲み場の水で昼食をとり、13:54塘路発の釧網本線で知床斜里に向かう。ノロッコ号の走る区間より、こちら普通列車の走る塘路から知床斜里までの区間の方が湿原らしい眺めが広がっていた。
 知床斜里駅着は16:28。これまたせわしなく、駅前の斜里バスターミナルから16:40発のバスでウトロ温泉に向かった。

 ウトロ温泉に向かうバスの走路(国道334号)は、朱円という地区では15キロから20キロほども一直線の道路だった。両側には、馬鈴薯と甜菜の畑が広がっている。しかし、哀しいかな、自分には車窓から眺めただけではその作物が馬鈴薯なのか甜菜なのか区別がつかない。たぶん甜菜だとは思うのだが自信がない。
 バスはバス停で停まることなく、一本道を一定の速度で走っていく。広大な畑のなかの道路の路肩にバス停の標識は見当たらないのだが、車内のテープ・アナウンスから、ほぼ同じ間隔で次の停留所の地名が呼ばれる。そのことに、なにか不思議な感覚に見舞われる。
 オホーツク海に夕陽が傾き、雨雲が途切れ始めたころ、バスはウトロ温泉バスターミナルに到着する。17:30だった。
 そこから今宵の宿である「国民宿舎・桂田」に連絡して、送迎を受ける。




 海岸に建つ「国民宿舎・桂田」では、海が見える側の部屋を予約していた。ここは、どうやら小さな地元業者に運営が任されているようだ。
 ずいぶん古くて質素な宿だが、職員の感じは悪くなかった。海を眺められる露天風呂も、チープな感じだが最果ての旅情を感じさせる雰囲気があった。ただし、のほほんと入浴していると強力なブヨが襲ってくるので、これには要注意である。
 夕食のメニューはいかにも国民宿舎という感じだったが、特徴は一人に一パイの毛ガニがつくことだった。じぶんはカニ好きというわけではないが、それなりに美味しくいただいた。
 ここで飲んだビールは、サッポロビールの「北海道限定サッポロ・クラッシック」という銘柄だった。これまでサッポロビールやエビスビールを美味いと思ったことがなかったが、この「サッポロ・クラッシック」は、ちょうどよい苦味で美味かった。北海道にいる間は、ビールといえばこれだけを飲んでいた。
 台風が接近する中、辺境の地の宿で独り夜を過ごす。それにはアルコールが欠かせないと「初孫」のパック酒を背負ってきていたのだが、食堂で飲んだ生ビール1杯と「サッポロ・クラッシック」の中瓶1本で酔いが回り、24時過ぎに入眠して翌朝まで熟睡したのだった。(つづく)


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 15:16Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月11日

大急ぎ 知床行 (その1)





 この9月、遅まきながら夏休みを取って、JR東日本の「大人の休日倶楽部パス(東日本・北海道)」(5日間乗り放題23,000円)を利用して、2泊4日の北海道旅行をした。その行程を掲載し、旅行の印象を記しておきたい。






【 第1日(土) 】

 野暮用があって、出発は夕方とせざるを得なかった。
 小雨のぱらつく山形を17:38の仙山線で発つ。この列車、途中で何度も汽笛を鳴らすので、なにか障害物が出てきそうなのかと不安になった。2泊4日の旅行計画は、およそ18回の乗り継ぎ時間にまったく余裕の無い行程で成り立っていた。火曜日の深夜に山形に帰着し、水曜日には職場に出なければならない。野生動物か何かに衝突し、電車が停止でもしたら今日中に北海道に渡れなくなる。ということは、足掛け4日間で目的の知床半島に行って帰ってくることが不可能になる・・・。出発して早くも立ちこめたこの不安が、道中を暗示していたのだった。
 しかし、ともかくも仙山線は定刻の18:39に仙台に着き、19:22発の東北新幹線「はやて177号」に乗り換えて新青森へと向かう。その車中で、山形駅ビルの地下の揚物屋で買ったメンチカツ弁当と仙台駅で買った缶ビールの夕食。・・・食後にうとうとしているとあっという間に新青森に着いた。これが21:28だった。ここで新青森から青森まで在来線で向かい、青森22:42発の「急行はまなす」に乗り込んで津軽海峡を渉る予定だったのだが・・・。
 
 新青森駅で下車したとき、少し寝ぼけていたせいか、在来線に乗車するホームを間違えたのだ。ぞろぞろと新幹線を降りて連絡線に向かう旅客たちの群れに混じって歩いていき、確かに青森方面と記載されたホームに降り立ったところまではいい。だが、缶チューハイを飲みながら会話する、どうも北海道に渓流釣りに向かうような出で立ちの男たちに気を取られて、ホームの反対側に立ってしまったようなのである。そういえば、一瞬、このホームの両側に列車を待つ人間が立っていることに気がついて、あれ?と思ったのだったが、青森行きの時刻である21:38ころに列車が入線してきたので、ああこれだなと思って他の乗客たちに釣られてその列車に乗り込んでしまったのである。
 しかし、車窓には一向に街の灯が見えてこない。ひょっとしたら逆方向の電車に乗ったのではないかという恐ろしい疑念を抱いたのは21:55頃だった。隣に座っていた初老の男性に訊くと、やはり弘前行きの列車だった。ガーン!
 慌ててじぶんが乗り違えたことを伝え、まだ青森行きの列車はあるだろうか、あるならそれに乗るためにはどの駅で降りたらいいのだろうか、その駅にはタクシーがあるだろうか、などと矢継ぎ早に質問した。その男性は、次の浪岡で降りれば青森に引き返す列車があると教えてくれた。
 浪岡駅で降車すると駅は既に無人で、切符のチェックは今乗ってきたワンマンカーの運転手がホームに下りてしているのだった。待合室に掲示されている列車の時刻表を見ると、まだ青森に行く列車はあったが、それでは「はまなす」の発車に間に合わない。幸いにも駅前にはタクシーが2台ほど客待ちをしていた。真っ青になって、運転手に「青森駅までどれくらいかかりますか?」と問い質した。
 運転手は「6,000円くらいかな」と答えたので、「時間は?」と問い直すと、「30分くらい」と言う。時刻は既に22時を過ぎていた。「じゃあ、頼みます!」とタクシーに飛び乗るしかなかった。
 数分走ったところで、「22:42のはまなすに間に合いますよね?」と訊くと、運転手は「努力します」との答え。まぁ、そう答えるしかないだろうが、こちらとしては「大丈夫、ちゃんと間に合わせます」と言ってほしかった。(苦笑)
 タクシーは暗い道路を、それでも順調に走った。「浪岡って、市町村名でいうと、浪岡市なんでしたっけ?」そう訊くと、運転手は「合併していまは青森市になりました」と寂しそうに答えた。
 このまま行けば間に合いそうだという目処がついたあたりで、運転手は「6,000円と言いましたが、もうちょっといくみたいです」と申し訳なさそうに言った。8,000円を越えそうな勢いだったが、これはしょうがないと思っていたところ、彼はメーターの設定を操作して、料金計算の仕方を別のシステムに切り替えたようだった。
 それで、結局6,160円で青森駅の裏口に到着した。「急行はまなす」の発車まで、まだ10分以上余裕があった。彼に感謝してタクシーを降りた。



 青森発・札幌行き「急行はまなす」は定時の22:42に発車した。
 この列車にはB寝台の車両もあるが、特徴は普通の指定席料金で取れる「カーペット・シート」という座席の車両があることである。じぶんは、かろうじてこの席の指定券を手に入れていた。この車両の様子は掲載した写真のとおり。昔、青函連絡船で床に寝転がって行ったことを思い出させる。
 頭から胸の部分はカーテンで隣と仕切られ、また2階席の床が被さっているので上半身は他人から見えにくいが、寝転がると下半身は通路に露出される。だいたいの人は備え付けの毛布をかけているが、短パンで寝ている男性の毛脛が見えたり、寝返りを打った女性のぴっちりしたレギンスの下半身が目に飛び込んできたり、なかなか大衆的で味がある(笑)

 じぶんは二階席に上がる階段の脇の一階席だった。この席には、階段の下の空間を利用したコインロッカーほどの大きさの物置があるのだが、そこに山形から持参した900mlの日本酒の紙パック「初孫」とつまみとポリエチレン製のコップを置いて、そのコップで半分ほどの酒をちびりちびりとやりながら眠くなるのを待った。
 この旅では、乗り継ぎ時間に余裕が無いのとその乗り継ぎ時刻が深夜や早朝であることが多いこと、それにコンビニなどの店が手近にありそうもない土地を歩くということなどから、登山用のリュックに日本酒パックと鯖缶や「じゃがりこ」「チーザ」などのつまみを背負ってきていたのである。
 北へ向かう急行列車は、いや地中深くに向かう深夜の急行列車は、なぜかずいぶんもの悲しい音を立てて進んでいく。ポイントの切り替え部分では、車体の揺れが自分が横たわる床から背中を通じて身体全体を大きく揺り動かす。
 しかし、途中で、あのガッタンゴットンというレールの継ぎ目の音がしなくなった。青函トンネルの内部は、レールの継ぎ方が異なるのだろうか。



 7時間近い車中、うつらうつらとしたのは1〜2時間だった。だが、比較的爽快に目覚めて日曜日の05:24に、雨の南千歳駅に降り立った。 (つづく)
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 02:07Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月02日

モンテ観照記 2011 「仙台サポの中傷横断幕を鑑賞する」



 本ブログの前回書き込みのとおり、じぶんは8月最後の週末に湯沢に帰省したため、27日土曜日の「みちのくダービー」(仙台ユアスタ)に駆けつけることはできなかった。
 後日、マスコミの報道で、ゲーム終了後に仙台サポの一部が以下のようにモンテ側を中傷する行為を行い、ベガルタ仙台当局が謝罪し、これらの行為に関係したサポーターに入場禁止やボランティア従事の処分を下したことを知った。
 そこで、当該行為を行ったBACKSという仙台サポのブログhttp://backs12.exblog.jp/15353975/を覗いてみると、彼らが行った行為は以下のようなものだった。

【ここから引用】
 なお今回の件における経緯は下記のとおりです。
・新聞にも掲載されていましたが、(5/23河北新報参照)、
 一部の山形サポーターとの話の中で、
 復興支援とダービーは別に考え、煽り合い等、
 いつも通りのダービーの環境で応援を行おうと言う話がありました。
 以上を踏まえ、山形戦を盛り上げようと、我々は話し合いを行い、
 その結果、試合時に山形を煽りながらも激励するような白幕を作成し、
 山形戦の勝利後、掲示しようと考えました。白幕への文言は試合当日スタジアム付近で考え、作製を行いました。
 白幕の内容
 「りあるとーほぐ(笑)まだ名乗るの?」
 「マジでガンバレ月山山形!」
 「諦めたらそこで終わりだよ。がんばろう山形」
 「さよなら 大好きなDio」
 我々にとっては、山形サポーターとの話の経緯もあり、
 上記内容は問題ないとの認識でした。

・山形戦の試合後、白幕の掲示、
 そして「さよなら山形」のコールを2回行いました。
【ここまで引用】


 仙台に敗れた後、降格の危機をひしひしと痛感するなかで仙台サポにこれをやられたら、じぶんもたしかに嫌な想いをするだろうなと思った。
 それに、じぶんは、そしてたぶんモンテ・サポの多数派は、昨年、ベガルタ仙台が降格の危機にあったとき、彼らにぜひ残留してほしいと願っていたから、かなり哀しい想いをするだろうなとも思った。

 しかし、まぁ、これも“みちのくダービー”の長い歴史の中の一コマだろう。
 そんな観点から、この横断幕の文言を“鑑賞”してみようではないか。


? 「りあるとーほぐ(笑)まだ名乗るの?」

 これは、モンテサポの掲げる横断幕に「REAL TOHOKU」というような文言があるので、それを冷やかしたものだろう。「りあるとーほぐ(笑)」と、いわゆるズーズー弁=東北弁で表記したところがミソだ。
 しかし、これまでの歴史のなかで、東北の方言が「ズーズー弁」と言われ蔑視されてきたことを考えれば、これはこれを掲げた東北の者たちの自虐ネタということになる。天に唾することだと言ってもいい。
 これを書いた者たちは、自分たちはダサい東北弁のイメージから解放されていると思っているのだろうか。
 サントリーの佐治という会長が、首都を東北に移転すべきだという議論を聞いて「あんな熊襲の土地に首都を移すなんてとんでもない」と発言し、批判を浴びて東北の県庁をお詫び行脚したのはそんなに昔のことではない。(「熊襲」は九州の蛮族の謂いで、東北のことをいうなら「蝦夷」と言っていただかなければならないのだが、佐治氏は学がなくて「蝦夷」という蔑称さえ知らなかったのだろう。)
 仙台の人間も、西日本の人間からみれば、「とーほぐ(笑)」や熊襲なのである。わが身をよく知らなければならない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E7%86%8A%E8%A5%B2%E7%99%BA%E8%A8%80

 ところで、いま放映中のフジテレビのドラマ「全開ガール」はいいね。ヒロインの新垣結衣がいい演技をしている。山形は庄内地方の方言(それはあまり正確な庄内弁とは言えないが)でしゃべっている。「とーほぐ(笑)」は、いまや優秀で必死に生きる主人公像に欠かせないイメージなのだ。


? 「マジでガンバレ月山山形!」

 「月山山形」は、2008年から2009年のオフに、モンテディオ山形の運営母体である「社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会」の海保宣生理事長(当時)が、東北芸術工科大学デザイン工学部情報デザイン学科の中山ダイスケ教授に依頼し、同教授によって考えられた「フルモデルチェンジ構想」におけるチーム名の改名案のひとつ。
 正確には「月山形」と表記して「がっさんやまがた」と、「山」を二度読ませるのである。
 じぶんはいい案だと思ったが、モンテ・サポの多数派には不評だった。(モンテディオ山形という名称を変えるべきではないというサポが多かった。)
 モンテ・サポが誇りにしている「モンテディオ山形」を貶し、モンテ・サポに嫌な記憶を思い出させようというところだろう。
 しかし、じぶんは、仙台サポがよくこの名称を憶えていたなぁと思ってしまう。
 「月山形」(Gassan Yamagata)は、それほどに印象的な名前だということを、逆に証明しているということだろう。
 なお、「フルモデルチェンジ構想」については、過去に言及しているので、ご覧あれ。http://ch05748.kitaguni.tv/e800713.html


? 「諦めたらそこで終わりだよ。がんばろう山形」

 いちばん毒が薄いように見えるが、この文言がいちばん性質が悪い。
 「がんばろう東北」という合言葉で大震災の被害に立ち向かっている宮城県民が沢山いるだろうに、そしてそれをマジで支援してきた山形の人間もいるだろうに、そのことに考えが及ばないのは、やはりアタマが悪すぎるといわなければならない。
「復興支援とダービーは別に考え、煽り合い等、いつも通りのダービーの環境で応援を行おう」としたのなら、大震災を想像させるこの一言だけは使ってはならなかった。


? 「さよなら 大好きなDio」

  たしか、昨シーズン、FC東京が某大クラブ・サポの一部から、J2降格が決まったようなことを言われて問題になったのだったと思うが、その真似をしたということだろうか。
 モンテは、財政規模の小さな、したがって選手補強がままならない弱小クラブ(プロビンチア)ではある。しかし、サポーターの価値は、その支援するクラブの基盤が弱ければ弱いほど、逆に高いと思っていいだろう。
 弱いクラブをいかに支え、いかに伸ばせるかに賭け、その結果としてプロビンチアであることにいかに誇りを感じられるかというところに、サポの醍醐味がある。
  じぶんに言わせれば、強いクラブ、つまりは大スポンサーがついていたり、大都市でファンが沢山いたりして収入の多いクラブのサポーターなんて、さっぱり魅力がないし、なりたいとも思わない。順位が上のチームのサポーターが、下位のチームのサポーターより優越していると思ったらとんだ勘違いである。


 ということで、仙台サポの諸君。
 2012シーズンは、仙台と山形はリーグを異にしてしまうかもしれないが、ベガとアルタイルのようにまたいつか、J1の「みちのくダービー」で会おう。
 ベガルタ仙台のJ1定着を願っている。
                                                                                               

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:44Comments(1)