2021年02月18日
東北芸術工科大学 卒業制作展2021 その3
ここからは彫刻と工芸の作品。


清水洸希「THE PUNKS」「imitation―偽装―」
一枚目の立像は鉄でパンプスを形成したもの。パンプスとはパンクロックを好み、社会に不満を持ちそれを発信する人々を指すという。作者は、自らの弱さから、肉体も精神も強い者に憧れている。「私自身も堂々と自分の意見を言えるように、誰かを守れる人になれるように。」
一方、二枚目の胸像は、これも鉄製に見えるが、半紙に塗料を塗ったものである。「鋼鉄のような強さのない薄い紙と、格好ばかりつけているが中身はみすぼらしく脆い自分自身を重ね、表現した。」という。
強いと作者が考えるものを強い素材で作り、弱いと作者が考えるものを弱い素材で造った。それが観る側からはむしろ同質的に見えてしまうのはどうしたことか。作品が作者の意図とは別に、二つの作品がその相互性において自己批評性を表白しているようにも見える。

和栗 瞳「my dear」
「『自分と他者との境界が曖昧になる感覚の表現』の発展形」の作品。「自分と他者との境界として『皮膚』に注目し、質感の近いシリコーン樹脂を素材として用いた。また、獣の皮を被ることで仮装し、神や化け物になりきる儀式的なイメージや、『皮膚』だけが要素として抽出され、作品が吊られた際の芯を持たない形態の面白さを掛け合わせた。」という。
じぶんの受けた印象は、現実に檻にロープで吊るされ見せしめにされている存在の暗喩みたいだというものだ。「芯」がないかのように仮装されることによって、その存在は「曖昧」どころかむしろ肉感的に迫ってくる。それは決して面白いものではなく、ざわざわと不安なものだ。

古川奈々世「2020」
「柔軟な心を持ち、どんな時でも明るく生きていけると想い込んでいた私にとって2020年は今までにない困難が押し寄せました。ベッドの上でうずくまり、生まれて初めて死ぬことを考えていました。」この作品は「私が石になって一度死んだ姿」であり、「墓標として2020年に置いていくものです。」という。
困難に襲われても、作者は自分の墓標を力技で御影石に自ら彫刻し、それを過去に置いて再び前に進むことができる。それはある意味では特権的なことだ。その創造力という特権を手放すことはない。


高橋飛名「再会」
これは陶器。作者の愛犬の遺骨入れだという。亡くなった愛犬に「間接的にさわったり撫でたりすることができるものを」という趣旨でこの作品を作ったという。
この作品は陶器の造形として高度な技術だと評価されている。愛犬家は欲しがるかもしれない。
じぶんは愛犬家ではないが、犬を飼ったことはある。注射も不妊手術も嫌だし、なにより死なれるのが辛くて久しく飼う気にならないのだが、こういう骨壺があったらじぶんも作者のように愛犬の遺骨を入れて思い出に浸るかもしれない。
ここからはこの作品と関わりのないことだが、これが人間だとしたらどうだろう。家族(たとえば亡くした子ども)の姿をした遺骨入れにその遺骨を入れ、それを日々撫でている光景を想像してみる。愛犬と家族は違う。だが愛犬は家族だという人もいる。こう考えてみると、亡くなった存在を徐々に遠いものとしていくことも弔いの大切な意味であるだろう。

坂井喜恵「石棒」
陶板土、カラー粘土、顔料による作品。
「男根を表す石棒に、縄文文様の女性性を融合させる事により、『性差』のない状態をシンボル化しました。(中略)性別二分化した考え方を見直す必要があると考えています。そのための制作としてQクィア/クエスチョニングに焦点をあて、性を意図的に特定しない・できない存在を表現しています。」とある。
「LGBTQIA」のQという趣旨だが、むしろI(インターセックス)の表現になっているという感じがする。IもQのうちだと看做すことも可能だが。
こういう社会的課題に正面からチャレンジする作品はこの大学の卒展では新鮮だ。作者による今後の発展形に期待したい。


清水洸希「THE PUNKS」「imitation―偽装―」
一枚目の立像は鉄でパンプスを形成したもの。パンプスとはパンクロックを好み、社会に不満を持ちそれを発信する人々を指すという。作者は、自らの弱さから、肉体も精神も強い者に憧れている。「私自身も堂々と自分の意見を言えるように、誰かを守れる人になれるように。」
一方、二枚目の胸像は、これも鉄製に見えるが、半紙に塗料を塗ったものである。「鋼鉄のような強さのない薄い紙と、格好ばかりつけているが中身はみすぼらしく脆い自分自身を重ね、表現した。」という。
強いと作者が考えるものを強い素材で作り、弱いと作者が考えるものを弱い素材で造った。それが観る側からはむしろ同質的に見えてしまうのはどうしたことか。作品が作者の意図とは別に、二つの作品がその相互性において自己批評性を表白しているようにも見える。

和栗 瞳「my dear」
「『自分と他者との境界が曖昧になる感覚の表現』の発展形」の作品。「自分と他者との境界として『皮膚』に注目し、質感の近いシリコーン樹脂を素材として用いた。また、獣の皮を被ることで仮装し、神や化け物になりきる儀式的なイメージや、『皮膚』だけが要素として抽出され、作品が吊られた際の芯を持たない形態の面白さを掛け合わせた。」という。
じぶんの受けた印象は、現実に檻にロープで吊るされ見せしめにされている存在の暗喩みたいだというものだ。「芯」がないかのように仮装されることによって、その存在は「曖昧」どころかむしろ肉感的に迫ってくる。それは決して面白いものではなく、ざわざわと不安なものだ。

古川奈々世「2020」
「柔軟な心を持ち、どんな時でも明るく生きていけると想い込んでいた私にとって2020年は今までにない困難が押し寄せました。ベッドの上でうずくまり、生まれて初めて死ぬことを考えていました。」この作品は「私が石になって一度死んだ姿」であり、「墓標として2020年に置いていくものです。」という。
困難に襲われても、作者は自分の墓標を力技で御影石に自ら彫刻し、それを過去に置いて再び前に進むことができる。それはある意味では特権的なことだ。その創造力という特権を手放すことはない。


高橋飛名「再会」
これは陶器。作者の愛犬の遺骨入れだという。亡くなった愛犬に「間接的にさわったり撫でたりすることができるものを」という趣旨でこの作品を作ったという。
この作品は陶器の造形として高度な技術だと評価されている。愛犬家は欲しがるかもしれない。
じぶんは愛犬家ではないが、犬を飼ったことはある。注射も不妊手術も嫌だし、なにより死なれるのが辛くて久しく飼う気にならないのだが、こういう骨壺があったらじぶんも作者のように愛犬の遺骨を入れて思い出に浸るかもしれない。
ここからはこの作品と関わりのないことだが、これが人間だとしたらどうだろう。家族(たとえば亡くした子ども)の姿をした遺骨入れにその遺骨を入れ、それを日々撫でている光景を想像してみる。愛犬と家族は違う。だが愛犬は家族だという人もいる。こう考えてみると、亡くなった存在を徐々に遠いものとしていくことも弔いの大切な意味であるだろう。

坂井喜恵「石棒」
陶板土、カラー粘土、顔料による作品。
「男根を表す石棒に、縄文文様の女性性を融合させる事により、『性差』のない状態をシンボル化しました。(中略)性別二分化した考え方を見直す必要があると考えています。そのための制作としてQクィア/クエスチョニングに焦点をあて、性を意図的に特定しない・できない存在を表現しています。」とある。
「LGBTQIA」のQという趣旨だが、むしろI(インターセックス)の表現になっているという感じがする。IもQのうちだと看做すことも可能だが。
こういう社会的課題に正面からチャレンジする作品はこの大学の卒展では新鮮だ。作者による今後の発展形に期待したい。
2021年02月17日
東北芸術工科大学 卒業制作展2021 その2
前回の続き


遠藤真帆「I AM HERE」
「生きていて辛いと思うことは、嬉しいことと同様に山のようにある。社会に属しながらも、受け入れられずに、ここで生きて存在している私たちの事を卒業制作という特別な区切りを使って、ここに残そう。」とある。
画像の一枚目は布の表面でH4,000×W2,000mm、二枚目は裏面でH3,000×W2,000ある。
表面の中央に描かれた白い服をまとった女性(?)の手足が二組描かれているところが存在の不安定さを感じさせるが、この人物像は世界の生贄のようでありながら、聖なる巫覡のようにもみえる。裏面の絵は、表面の白い人物とは逆に、清濁を併せもちつつまさに“存在する”何ものかを表現しているかのようだ。

關 越河「抱擁」
「7年、この土地で暮らしながら常に自然や他者との向き合い方を考えさせられた。(中略)相反する気持ちが内側でぶつかり合い、葛藤が生まれる。しかし私にとっても絶対的な『意味』とは思い悩むことでしか存在し得ないのだ。この環境が支えてくれるから私は抗い続けることができる。そのことをしっかりと胸に刻んでいきたい。」という。
作者は日本画コースに学んだようだが、その卒業制作が杉板の箱と布団によるオブジェ(それもどちらかというとシンプルな作品)になるところに引っ掛けられた。
作者は東京の出身で、この山形で学部生を7年もしてきた。「この環境が支えてくれるから」抗うことができるものとは何なのだろうか。
文面からは「この土地」で考えた「自然や他者との向き合い方」が作者を支えているかのようにも解釈できるが、“我悩む、ゆえに我あり”は、45年もこの土地で暮らし他者との向き合い方に日々苦悶しているじぶんにも当て嵌まる。


谷村 メイチンロマーナ「エキゾチックファイアードラゴン『マスダ三兄弟』」「マジカルユニコーン『ハイエル姉妹』」
「大人になって中野ブロードウェイで見たソフビのフィギュアがかっこ良かった。」という経験に触発された作品だという。発砲ウレタンにエアブラシでアクリル絵の具が塗られ、麻紐が刺繍のように埋められている。「三兄弟」「姉妹」というところに引っ掛けられる。昔、お祭りに出た見世物小屋で、双頭の羊や牛の剥製(?)をおどろおどろしく差し出されて見た記憶が蘇える。
ソフビの質感とアメリカ・アニメ的(?)な図柄というポップな表象を用いながら、その毒々しさやソフビとは真逆の、いい意味での粗雑さが攻撃的で、観る側の心をどこかささくれ立たせる。

石川美紀「set me free」
「コロナ禍において一人で過ごす時間が多くなった一方、SNS上で私たちは一人でいる時も誰かと繋がっていて、それが時に私たちを苦しめることがあります。自分以外が輝いて見え、自分が何者なのか考えることに疲れ、先が見えない不安で眠れない夜を思い制作しました。」とある。
乱れた髪と傷だらけにも見える身体。床に風呂がる白い布は浴衣だろうか、ワンピースだろうか・・・、若い女性の不安がリアルに迫ってきて、少しの間息を飲んだ。

伊藤寛晃「Disappearing」
「生活している中で自分が台湾との混血だということや、巨大な権力や体制について考えることが増えた。日本での観光地的な印象とは違う、現在まで続く様々な権力に支配され続けている台湾を、この作品を通じて様々な人に知ってもらうきっかけにしたい。」とある。
中国と米国に挟撃されているのが作者の抱く台湾のイメージなのだろうか。習近平と毛沢東、ドナルド・トランプをカリカチュアした中・米の両側の絵にくらべて、中央の台湾と思われる絵は存在感が薄くしかもひどく統合を欠いている。これは作者が抱く台湾のイメージなのか、それとも「混血」たる作者自身のイメージなのか、その両方なのか・・・。観るものに思考を迫る作品だ。
このように直截的に政治や情況を扱った作品は、この大学の卒展では珍しい。とても新鮮だった。
(続く)
2021年02月13日
東北芸術工科大学 卒業制作展2021
毎年2月に開催される東北芸術工科大学の卒業・修了制作展に足を運んでいるが、こうしてコメントをブログにアップするには久しぶりになる。
今年は2月9日(火)から14日(日)までの6日間だったが、コロナウイルス感染防止のためということで一般公開は9・10日のみとされた。
いつものように美術学科の日本画、洋画、版画、彫刻、工芸、テキスタイル、総合美術から観はじめて、企画構想、歴史遺産、プロダクトデザイン、建築・環境デザイン、コミュニティデザイン、グラフィックデザインを速足で回った。映像は時間がないのですべてカットした。文芸と文化財保存修復にも回れなかった。
ごくごく一部だが、印象に残った作品を記す。
大学院修了制作から

早坂美里「横たわる女」
木枠に600㎏以上の粘土を踏み固め、横たわる女性像を彫り出し、それを焼成させた作品。
後ろの絵画は同じ作者の「遅明」という作品。「土や女性が元来備えている霊性をより可視化させる狙いがある」という。
じぶんはこの像に霊性は感じないが、率直にその造形美に惹きつけられた。一人の男として、この世界で自分が心底惚れた女の身体ほど美しいものはない、とは思うが、それはこちらに性欲を含む美と抱擁とへの渇望があるからで、このことは「霊性」についても同じ。それ自体として霊性を帯びたものなどない。ひとは自ら欲するものを感受する。


袁 琪(エン キ)「月についての記憶」
作者は1993年中国青島市生まれ。「子供の頃に見た月と、大人になってから見た月の視点を表し」た作品。一番目の画像の左が「何も考えたくない」、右が「記憶の中」と題されている。左が大人、右が子供の見た月ということだろうか。これらの作品は日本のどこか(絵本?)で視た記憶があるような作風(日本的?)で、とても繊細な茫洋さとでもいうような印象を受ける。激動する現代中国の若い作家が“記憶”のなかに生きていることに、観る側がいろいろなことを考えさせられる。
二番目の画像は同じ作者の抽象画「宇宙の元素」という作品。一番目とはずいぶん印象が異なる。この二つの混淆あるいはアマルガムに興味がある。

櫻井萌香「獏獏」
「地中の菌糸に刺激が与えられることで子実体として発生する『菌類』と、言動といった形で表面化させることで他者が認識できるようになる『感情』との間には、『認識できないものが認識できる状態へと変化する』という類似点」を見出されるので、「菌類と深層心理の相似性を描く」という。
菌類を描くのに銅版画はもっとも適した方法なのかもしれないが、この作者の作品が自ら表出しているように、菌類は何かの有機体(この作品では豚か猪のように見えるもの)に生えるものだ。有機体は菌類に先立って、あるいは別個に存在している。この有機体は意識の層にあるのか、無意識の層にあるのか、はたまた物自体なのか。
ここからは学部の卒業制作。


江尻百花「点火式」
「こども時代に何気なくかけられた言葉は、私に十年来の身体的なコンプレックスを植え付けた。小学校時代の記憶を今でも反芻してしまい、思考が囚われる。過去から抜け出せないというのは地獄だ。(中略)生きていく中で自分の内に留めておける物事の数が限られているのなら、いらなくなった過去は焚き上げて燃料とし、空いたスペースには新しい出会いを迎えたい。地獄から抜け出し、次に進むための儀式として制作した。」とある。
発想として共感できる作品だと思った。と同時に、作者の意図とは異なった印象も受ける。
というのも、作者は「焚き上げ」と言っているが、この作品を構成する個々の部分の絵は、きわめて理知的でそれぞれが整序された方法意識によって描出されている。いわば自分が学んだり模索したりしてきた作品形成の手法や思想の到達点を提示してみせ、それが自分の武器だと言っているのだ。 「私(作者)は、ここにコンプレックス及びそれを与えた周囲と闘うための武器を手にした」という宣言のような作品だ。

高橋美緒「足跡 yamagata」
「4年間この山形で作品を制作した証、記録を残したい」と、山形(たぶん山形県内)を歩き、素材を選んできた。「私という一人の人間と山形の土地を、楮(こうぞ)が繋いでいる。これは私が歩んだ地図であり足跡である。」という。
作者の専攻はテキスタイルではなく洋画である。作者にとってこの土地が切実に自分に関係してくるのは、洋画家なら描きそうなその風景でもなくそこに住んでいる人間でもなく自分が育った過去の記憶でもなかった。楮という素材に出会うことで、“山形”という土地が作者にとって意味あるものとして現出してくる。おそらく、ここで楮は素材としてのみならず、“紙漉きという行為”としても作者をとらえている。自分が意識的に行為をなした土地こそが自分と繋がる土地なのだ。


渡辺悠太「真実は何処」
「自助努力・自己責任の名の下に他人を躊躇なく犠牲にし続けることで、人々は自らこの地上世界に地獄を作り上げた。人間が悪魔に取って代わり、天国が遠く忘れ去られた今、頽廃しきったこの世の何処に真実があると言うのだろうか」とある。
こういう慨嘆を吐きながら、H1620×W3909mmのキャンバスに、ボールペンによる膨大で緻密な描画がなされている。2枚目の画像は同じ作品の部分。
要するに、われわれはこの要領で絶望を描くかのように希望を描けばいいのである。
最近、斎藤幸平の『人新世の「資本論」』を読んだが、今日、こういう希望の書(というにはじぶんはかなり逡巡するが)もあんがい新鮮なものだ。


大澤冬実「玄関入って右」
「排泄や嘔吐など、自分の内側にある不要なものをトイレで排出する行為を題材とし、制作しました。(中略)加害意識や被害意識の記憶を半具像として落とし込むことが私の版画制作において要となっています。」という。2枚目の作品の題は「体温」。いずれも木版画。
「玄関入って右」は、よく見ると、鬼気迫る、なかなか恐ろし気な作品だ。排出されたものが醜怪なのではなく、排出している者の姿の方が醜怪に描かれている。同じ作者の「体温」のほうは、やや抽象度が高く、味のある作品に見える。「体温」の作者が「玄関入って右」を制作したことがわかると、その振れ幅に興味が湧いてくる。

丸山詩織「S.M.」
この作品は撮影禁止だったので画像を紹介することはできない。展示室の中心近くの低い台の上に、背中の上半分が空いたドレスを着た女性(ストレートな髪が肩まで届くほどの長さだ)の人形が、後ろ姿を見せて座っている。ドレスの裾は手前の床に長く伸び、そのドレスの腰から裾の部分には女性の顔が描かれている。人形が少し動き、それが生身の人間だと気づいてやや驚く。観覧者は冬のコート姿なのに、作者は自ら作品となって肌を出した状態でずっと座っている。裏に(つまり作者の前面に)まわると、(残念ながら?)大きなピンク色のマスクをしている。でも、こういう心意気には拍手を送りたい。

佐藤京香「失楽園」
シェイクスピア「ハムレット」の中のセリフに出てくる、オフィーリアが柳の木から小川に落ちて唄を口ずさみながら沈んでいく姿を描いたジョン・エヴァレット・ミレー「オフィーリア」とほぼ同じ構図を、日本画として描いた作品。
「改めて4年間を振り返るとこの環境が異様な楽園であったことに気づきます。この場所は2度と戻れない、退出しなければならない温室です。(中略)物語の中で死にゆく場面が描かれたオフィーリアと温室から退場しなければならない私に繋がりを感じ制作しました。」とある。
「異様な」楽園という言葉に引っかけられる。この大学で学んだことがそうなのか、故郷を離れて山形で暮らしたことがそうなのか、あるいは「楽園」とそこを出た後の(つまり“社会”の)落差が激しいからそうなのか、そのすべてなのか……
じぶんは大学も含め学校というものも山形というものも楽園と感じたことがないのでこの部分の感覚はわからないが、作者がこの先に視る社会が楽園とかけ離れたものであるという感受はひしひしと伝わってくる。ただ、こうして小川に沈み、そして卒業を機にもう一度生まれればいいのである。

高田千愛「ずっと儚い日の一瞬を繋いで」
「記憶や気持ちは、どんなに大事にしていて忘れたくないと思っていても、色褪せていくものだと思っている。私を変わらせてくれたこの土地と、ここで出会った大切な人達への想いや記憶を花にしてあらわし、できるだけ長く鮮明に覚えておきたい。」とある。
このコメントを読むと作者の「想いや記憶」は好ましいものだったかのように思われるが、作品から受ける印象はそれだけではない。人物の頭部の周囲の花の暖かそうな色に比べ、その外側の花は暗く陰鬱でもある。あるいは、作者の「想いや記憶」が早くも外周からひたひたと色褪せてきていることを示している。
(続く)