2012年05月24日

吉本隆明さん、お世話になりました。





 吉本隆明さん、お世話になりました。

 吉本隆明さん。2012年3月16日、あなたは鬼籍に入られました。
 じつはこの年が明けてから、じぶんには、なんとなく、そろそろあなたの生涯が閉じられるのではないかという予感がありました。
 昨今は、ハードディスク付きのデジタルテレビという便利な家電製品があり、じぶんは、NHK・BSで放映されたあなたの講演会の様子を編集した番組を録画しておりました。(2008年の夏に糸井重里さんが企画し、昭和女子大学の講堂で開催された芸術言語論についての講演会です。)
 それで、居間のテレビのスイッチを入れれば、今もあなたの姿を見、あなたの声を聞くことができます。車椅子を介助者に押されて登壇したあなたは、それでも講演に入ると身体の不如意を感じさせない佇まいとなり、相変わらず明晰なことばを繰り出していました。濃密な想いが籠められているがゆえの、あの訥弁の熱い語り口は、かつてじぶんが実際に生で講演を聴いたときと比べても、さほど衰えを感じさせないものでした。
 でも、残念ながら、80代のあなたの言葉から(というか、70代半ばで水泳中に溺れかけた事件以降のあなたの言葉から)、すでに新たに学ぶものはありませんでした。もしあなたが60代で逝去されたのだったとしたら、じぶんには少なからぬショックがあったと思います。でも、80代のあなたをならば、じぶんは淡々と見送ることができるのでした。これが、人が老いるということ恐ろしさであり、同時に最大の効用なのだと思いました。

 吉本隆明さん。とはいうものの、じぶんはあなたへの感謝の念を忘れたことはありません。
 じぶんは1976年に大学に入りましたが、そこで知り合った先輩にこれを呼んでみろと差し出された『共同幻想論』に、とても救われた経験があります。
 当時、じぶんは18歳か19歳でした。子どもの頃から空想癖があり、青年期に差し掛かってもアタマがぼ~っとしていたじぶんは、70年代に入って以降、高度経済成長と裏腹にこの日本という国の情況が急速に閉塞していくように感じ、鬱病者の如くに長いあいだ暗く重苦しい想いに囚われていました。じぶんは、この閉塞感と保守政権による社会支配の強化とを一緒くたにして、それに「天皇制」という名称を与えていました。昨今の人びとは、かつて日本に〈天皇〉という存在があったことを忘れたかのようですが、あの昭和天皇が存在していた時代には、じぶんのような〝幼いカナリア〟には生き難い、いわば古典的な事情があったのです。いとおしい隣人であるはずの世の人々が、自ら進んで支配されることを望んでいくような、あるいは支配されることを拒否する人間を抑圧し排除していくような、そんな世情を眼にしては、まるでタルコフスキーの映画『サクリファイス』の主人公のように、世界の悲嘆と絶望とを一身に負わせられているかの如き関係妄想に悶えていたのだったと思います。
 そんなじぶんの妄想による苦しみを、あなたの『共同幻想論』は解きほぐしてくれました。お前を苦しめているものは人びとの〈共同の幻想〉なのだ・・・その一言が風のようにやってきて、じぶんの頭蓋のなかの濃霧を切り裂き、その先への視野を拓いてくれたのです。未熟な政治学徒だったじぶんは、その後、丸山眞男『現代政治の思想と行動』や藤田省三『天皇制国家の支配原理』などにも触れ、じぶんが恐れ慄いている〈天皇制〉が、いくつかの位相における幻想に他ならず、あるいは意図的な工作物であったことを知ります。ある西洋の思想家が「リバイアサン」と呼んだもの、それは底知れぬ魔力を振るう怪物であることをやめて、いつしか腑分けすべき対象物に変わり始めました。

 ただ、『共同幻想論』には、当時は腑に落ちない内容もありました。性を媒介とする関係性であるところの〈対なる幻想〉について、吉本さんは〈共同幻想〉と〝逆立〟するものとしてその重要性を語りましたが、じぶんは、一対の男女の関係に生成する幻想と〈家族〉という幻想が、同じ〈対幻想〉という言葉で括られていることに異和を感じていたのでした。
 つまり、男女の性の世界がそれ自体として自立し他の世界と逆立するということはストンと理解できたのですが、〈家族〉という世界はむしろその一対の男女の世界と逆立するものであり、場合によってはあの忌まわしい〈共同幻想〉の細胞となる存在なのではないかと思っていたのです。当時はこの点がどうしても納得できずにいましたが、やがて20代の半ばに連れ合いと子どもを得たことによって、このことも次第に納得できるようになりました。
 一対の男女の世界と〈家族〉の世界は確かに逆立しうるものです。それらは同じ世界として扱うことはできないもののはずです。しかし、吉本さんの言う〈共同幻想〉と〈対幻想〉とは、いわば人間の関係意識の問題と社会的な関係性の問題とをひっくるめたものであり、とても抽象度が高く、かつはとても幅広の概念なのだということに気づいたのです。そもそも、ここでは〝〈共同幻想〉と〈対幻想〉は逆立する〟と考えること、さらにはそのように発語することこそが重要なのでした。

 そう、あなたの思想は、そのように〝決意〟し、〝発語〟するところに現出するところの何ものかだったのです。あなたはあくまでも詩人であり、あなたの思想は、まさに〝初めに言葉ありき〟だった・・・やがて『言語にとって美とはなにか』で明らかにされる〈自己表出〉と〈指示表出〉との複合物としてあなたの思想のことばを受け止めることが、あなたの思想を理解するための必要条件なのでした。

 ところで、じぶんが吉本さんの生身の姿を目にしたのはたった二度に過ぎません。一度目は、明治神宮絵画館の暗い部屋での講演でした。たぶん、1980年代の初め頃です。当時、首都圏の文化情報誌『ぴあ』には、こうした非営利的な文化イベントの情報も掲載されていましたから、じぶんはそれで文芸誌の編集部か何かが主催する「吉本隆明講演会」を見つけ、山形から六時間余りの距離を夜行の急行列車で出かけていったのだったと思います。
 もっとも、このときは吉本さんの話の内容にがっかりしたのを憶えています。なぜなら、吉本さんは、開口一番、今日は講演の準備が出来ていないと言われたからです。主催者との打合せに行き違いがあったような話でした。そして、準備ができていないから、とりあえず手元にあった最近の文芸誌に掲載されている作品の感想を述べるというような話をされたのだと思います。
 二度目は80年代の後半だったと思いますが、吉本さんがポーランドの自主管理労組「連帯」を、展望されるべき社会主義に向けた動きとして高く評価し、精力的にその旨を論文や講演で発表していた頃です。〝吉本隆明が岩手大学で講演をする〟と聞き、友人の車に便乗して盛岡に駆けつけました。
 吉本さんは、大きな模造紙にレジュメの内容を手書きした巻紙のようなものを持参し、それを大講義室の黒板に貼り出して、「連帯」がなぜ展望すべき社会主義の試みなのかを熱く語ってくれました。その内容はよく理解できましたが、じぶんは心の中で〝それは期待のし過ぎだよ。労働組合にそんなに期待したって、時間が経過すれば形骸化してしまうよ・・・〟と、どこか醒めた感覚で聴いていたような気がします。当時は、そんな自分が、数年後には労働組合運動にどっぷりと関わっているなんて想いもよりませんでした。

 さて、緩い文章がだらだら続くのはみっともないですから、あと少しで終わりにしたいと思いますが、最後に、あなたに二つだけ難癖をつけさせてお別れにさせていただきたいと思います。
 そのひとつは、まず、あなたの思想には〝中身がなかった〟ということです。このように言うととても誤解されると思いますが、その意味は、あなたの文章(この後、あえて作品と言いますが)を追究していけばいくほど、そこには大きな空隙が開かれていて、それを埋めるのは読み手自身だったということです。言い換えれば、あなたの作品に、その文脈が対象としている概念や事柄についての、何がどうだという説明や種明かし、つまりは〈指示表出〉としての内容は存在せず(〝存在せず〟というのは言いすぎで、ほんとうは〝納得できる形では提出されておらず〟というべきでしょうが)、その代わりにそこに現れてくるのは、読み手自身による疑問の抱懐とその疑問へ自ら立ち向かうことの衝迫、つまりは〈自己表出〉として湧出する意志だったのです。だから、あなたの読者は、すべからく、つねに/すでに、情況における主役(主観的な、という形容詞付きかもしれませんが)に成ることになっているのでした。ここにあなたの作品の魅力があり、その魅力のカラクリがあると思っておりました。
 もうひとつは、あなたが展開した(あるいは心ならずも応戦した)数多くの論争におけるあなたの姿勢に対する異和です。論争におけるあなたのことばはいつも苛烈で、また時々べらんめぇ調で、とても膂力があり、それゆえ魅力的でもありました。じぶんもその文体と作品とに魅了されたものです。そして、それらの論争のほとんどについて、じぶんはあなたの言っていることの方が真っ当だと考えてきました。
 しかし、ここで敢えて異和というのは、論争するときのあなたが、なにか魔物に魅入られてでもいるかのように過剰に攻撃的になり、すでに社会的に影響力を失っている相手の実態を見誤って、その相手を徹底的に血祭りに上げてしまうことに対するものです。思想的な論争とは命がけのもので、そのように厳しいものだと言われればそんなものかもという気もしないではありませんが、別の見方をすれば、あなたの心性の片隅に〝奴は敵だ、奴を倒せ〟という昏い性根(それをあなたは〈関係の絶対性〉という側面から語りましたが)の遺伝子が、まったく顔つきを変えながら残存していたのだと言うこともできそうな気がします。とくに黒田喜夫に対するあなたの罵倒の苛酷さは忘れることができません。それは、たぶんあなたが中野重治などの古い時代の人たちと論争したときに相手に罹患させられた〝レトロウイルス〟によるのではないかというのが、じぶんの素人診断でした。
 いまこうして思い起こすと、20代のじぶんの周りには、「吉本さんがねぇ・・・」とか、「廣松さんはねぇ・・・」とか、偉い思想者を〝さん〟付けで親しげに語る者が何人かいました。じぶんは、その感覚に同調できなかったので、いつも「吉本隆明」と言っていました。いま、ここでこうして鬼籍に入られたあなたに、初めて〝さん〟付けで呼びかけるのですが、これがあなたをそのようにお呼びする最初で最後の機会になると思います。
 また近いうち作品のなかでお会いすると思いますが、とりあえず一言お別れを言わせてください。・・・さようなら吉本隆明さん、ほんとうにお世話になりました。  (「山形詩人」第77号掲載)


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:57Comments(0)批評・評論