2008年11月02日

横浜トリエンナーレ 2008



 「横浜トリエンナーレ2008 YOKOHAMA TRIENNALE TIME CREVASSE」を観た。

 展示会場は全部で7箇所だったが、そのうち主な3会場を回った。
 一日目に「横浜赤レンガ倉庫1号館」と「新港ピア」。二日目に「日本郵船海岸通倉庫」。
 まわった会場の順番で、印象に残った作品について記す。
 作品カタログや出品アーティストの紹介が記載されたガイドブックを購入しようとしたが、内容がつまらないので購入しなかった。だから作品の印象は、ほとんど記憶を呼び起こしながらのものである。
それでもよろしければ、以下をお読みいただきたい。

 ・・・と書いて、この展覧会が写真撮影OKなのだったことを思い出した。
 これはいい・・と思って何枚か写真を撮ったが、印象的だったのはインスタレーションと上映されていたパフォーマンスの映像だったので、これから述べようとするそれらの作品の写真は撮っていない。写真を撮りたいと思う作品は、写真をとっても仕方ない作品だったのである。・・・どうりで、写真撮影OKなわけだ・・・あっは。


 「横浜赤レンガ倉庫1号館」に入って二階に上がったところに、パンフレットでは「映像資料展示」という展示室がふたつ続いてある。
 すぐに目に入ってきたのは、土方巽の「肉体の反乱」(1968年製作の白黒フィルム)だった。
 まずこれにがっくりくる・・・。いつまで土方巽を有難がっているんだ・・・と。
 これで、この会場を構成したキュレーターのレベルが知れる。
 実際、この会場の作品はどれもつまらないものばかりだった。

 しかし、ひとつだけ、ぜひ記しておきたいことがある。
 土方のフィルムから目先を転じると、別の画面に、どこか妙にヘンテコな白黒フィルムが上映されている。プレートを読むと、作品名が「バス名所観光ハプニング」(1966年)とある。

 ここで言及しておきたいと思ったのは、ある意味かなり幼稚なパフォーマンスを記録した、そのサイレント・フィルムに映し出される風景と登場人物たち(バス観光の客たち)が、私服ながら、ずいぶん“普通のサラリーマン”と“普通のOL”という感じだったからである。
 彼らは、まず、東京駅の丸の内口前に列を作ってバスを待っている。背景に旧丸ビルが見える。
 やっとバスがきて、男女30人ほどが乗り込むと、バスは「観光地」?周りを始める。
 製作者(パフォーマンスの仕掛け人たち)が指示するとおり行動して、どこかの公園か寺の境内みたいなところで、細い紐で互いに結びつけられたり、海岸の埋立地でテレビに何か塗料のようなものをぶっ掛けてそれを海に投げ入れたりする、実につまらないパフォーマンスに、ほんとにニコニコしながら付き合っている。
 このひとびとの、60年代のマジメさと素直さが滲み出る“フツー”過ぎる服装と表情と、たわいない笑みとが、この2008年の現代美術の作品展のなかで、実に奇妙な味を醸し出している。
 あまりに日常的で、ありきたりな存在が、なぜか逆にもっともキッチュに感じられる。
おいおいおい、などと言いながら、手をたたくところだった。作品としての質は別として、これが、たぶんこのトリエンナーレで最も観るに値する作品である。


 次に訪れた「新港ピア」の作品たちは、・・・これまた期待を裏切るものだった。
 言及したい気になるのは、インドネシアの作家、クスウィダナント a.k.a. ジョンペット( Kuswidananto a.k.a. Jompet )のインスタレーションである。

 展示室に入ると、コートや上着を着、靴を履き、帽子を冠った透明人間たちの鼓隊みたいな展示がある。そいつらが電子回路のシーケンス制御?みたいなもので、太鼓をたたいたり、なにか電子楽器を鳴らしたりして、間歇的に短く演奏する。
 展示室の左右の壁には映像が映し出されていて、そこでは上半身裸の男が、ムチのようなバチのようなものを振り回しながら踊っている。そのムチのようなバチのようなものの打撃に合わせて、透明人間たちの楽団が演奏するのである。映像の動きと、電子制御で太鼓をたたく単純なメカの動きが相即している。
 このうちの何が印象に残ったかといえば、電子制御で鳴りだす楽器たちの鳴り具合・・・つまりその間歇性だ。それは人間の存在しない空間で、きわめて機械的に鳴り、そして止む。
 だが、なにかが存在する・・・アーサー・ケストラーの“機械の中の幽霊”とまではいかなくとも、そこに、なにかの気配を感じる。それは禍々しい欲望を沈めたイドのようなもの、あるいはイドの痕跡のようなものだ。



 さて、二日目の朝、山下公園を歩いて、三番目の会場「日本郵船海岸倉庫」を訪れる。

 まず目に入るのは、倉庫の外に立てられた舞踏家・田中泯の、錆びた波トタンで作られた掘っ立て小屋である。軒先に、捩れた傘のついた白色電球が灯っている。
 しかし、中に入ると、あるのは田中が街中で舞踏する映像を流し続けるモニターだけ。
 このトリエンナーレのパフォーマンスなのか、ありふれた街中の商店の前で、アル中のホームレスのような格好の田中が、老人みたいに緩慢な動作で、道端で寝たり起きたりしている。
 舞踏家のダメなところは、この単独舞踏に現れる。
 パフォーマンスには、ぜったいに演出(家)が必要なのだ。つまり、他者による批評的構成意識なくして構成された演戯は、どんなに曰くありげでも夜郎自大な駄作になってしまう。こういうことを、誰か批評眼のあるやつが、面と向かって舞踏家に言ってあげればいいのだが。


 さて、この会場は前の2会場とは違って、少しは見応えがあった。
 会場の倉庫のなかに入ると、1階に、まず印象的なインスタレーションが置かれている。
 勅使河原三郎の“ガラスのタイムトンネル”みたいな作品である。

 向こうへ向かって伸びる廊下のような細めの白い空間(奥行きのある箱と言ってもいい)を覗くように、客席が設けられている。
 廊下の左右と上の壁のいちめんに、ガラスの破片が突き刺さっていて、これに、電子制御されたライトが、客席の頭の上から電子音楽に合わせて照度を変化させながら照明を当てる。
 やわらかい地の光は、しかしガラス片の断面のところでははっきりと反射して輝きを生み、そのコントラストが神秘的な時空を演出する。
 廊下の床面はガラスの破片で敷き詰められているが、そのうち奥の一部が振動して、廊下の向こうから何者か(おそらくは目に見えぬ存在が)やってくるかのような気配を醸し出す。
 時間の経過に伴って、床面にスリットを通した光の線ができ、やがてそれがX型に現れる。(ここで、う〜〜ん、これじゃまるで「Xファイル」じゃないか・・・なんて思ってはいけない。)
 この種のインスタレーションはよく見かけるじゃないか・・・なんて気になるが、この作品は音楽と照明の完成度が高く、そのぶん、作品世界に浸かれる幸運な時間をもたらす。





 この展示会場でもっとも話題になっているらしい?のは、マシュー・バーニー(Matthew Barney)の「ヴェールの守護者」というパフォーマンスの映像である。
 展示スペースの入場口に注意書きがあって、人によっては不快を感じる場面があるので、それを了解して入れとある。すぐさっき、1階でヘルマン・ニッチュの、素っ裸の男の腹の上で、ざっくり腹を切り開かれた豚の内臓をグチュグチュ弄くりまわすパフォーマンス映像を見てきたのだが、そこにも同じような注意書きがあったので、こんどはなんだろ!?と思って、ついつい最後まで映像に付き合った。
 この映像の展示区画は、暗闇のなかにベンチがおかれていて、それに腰掛けて上から吊り下げられたモニター画面を見上げるようにつくられている。ベンチに座って見上げる角度がけっこう急で、かなり首が疲れる。なにせ42分の上映時間である。
 途中ちょっと居眠りが出たが、結局最初から最後までこれを観た。あの注意書きがなければ、居眠りの出てきたあたりで席を立っていただろう。有名なマシュー・バーニーの名を知らない観客を最後まで引きつけておくには、くだんの注意書きが必須である。
 自分はこの有名なアーティストを、たぶんほとんど知らなかった。名前くらいは聞いたことがあるような気がする程度で、つまり先入観なしにこの映像を見た。

 最初に、その映像の内容を、記憶を頼りに記してみる。

 まず、始まりのシーンがいかがわしい。
 なにか高級そうなホテルのロビーかホワイエみたいなところを、人垣を掻き分けるように、担架を担いだ男たちが歩いていく。  男たちは屈強そうで、おそろいのトレーナーを着ている。フードで顔を隠している者もいる。
 担架の上には女が乗せられている。まるで何かの生贄にされる存在でもあるかのように、だ。
 担架の行進の背景に、バグパイプのような音が鳴る。これも、メロディを奏でるというのではなく、間歇的に音を上げるという感じだ。(あっは。ここでも“間歇的”がミソだ。)

 行進は、目出し帽を被り、迷彩色のズボンをはいて、銃の代わり(?)に小さな弦楽器(ウクレレや小さなバンジョーくらいの大きさで、共鳴する胴の部分が無いようなもの)を胸のところで抱えた屈強な男たちに先導されている。かれらは傭兵か秘密結社のボディガードみたいないでたちである。
 ロビーみたいなところを歩いていくシーンで、周りに観客たちと思しき人々の姿が映る。彼らの身なりが上品そうで、白人のミドルクラス以上の人々だと思われる。すると、これがミドルクラス以上の階層やインテリたちに人気があるであろう、おそらくは有名なアーティストのパフォーマンスなのだということが分ってくる。

 行進は、やがて階段を下り、ホールの客席に入る。
 そこで、ステージの緞帳が上がり、舞台の上のオブジェが姿を現す。ちなみに、この緞帳には「SAFETY ○○○」と文字が入っている。(○○○に入っていた単語を憶えていない。VEILだったのか、GUARDだったのか・・・)

 舞台の奥中央に、緑色の自動車(セダン)のスクラップが置かれている。圧搾機に放り込まれ、左右上下から潰されかかったのを、スクラップ工場から救い出してきたみたいなポンコツである。
 担架を担いだ男たちは客席からステージに上がり、女を乗せたままの担架を、その車の屋根の上に載せ、担架から色のついた布をするすると2枚引き出して、車を覆うように垂らす。
 このシーンで、カメラの視角から、やっとこの場所がオペラハウス(それも由緒がありそうな)のステージらしいことが判る。ステージの手前の落ち込みは、オーケストラピットだったことにも気付く。

 スクラップのセダンの下から、手前(観客席側)に向かって、半島みたいに白い土台が突き出していて、その先端に全裸の人間を模った人形が、尻を客席の方に向けて立っている。顔は隠れていて見えない。片手で杖を持ち、もう一方の手を尻の穴に当てている。指を尻穴に突っ込んでいるのかもしれない。
 すると、黒子(といってもトレーナー姿の屈強な男)が二人出てきて、ステージ上で、なにやら箱のような機械を弄り始める。これは生ゴムみたいなものを伸ばして張る機械だった。
 男たちは、四角い木枠のようなものに張られた生ゴムを、その全裸の人間の人形(ここで、それが人形ではなく、生身の女らしきことが判る)に頭から首まですっぽりと被せ、そのまま立ち去る。
 そして間もなく、神官然とした“犬男”が現れる。

 この犬男の造形は秀逸だった。
 秀逸と言っても、仕掛けは、首と背中のところで肩車するような位置に生きた犬を固定し、犬の上半身が男の顔に見えるように、男の顔と犬の下半身をベールで隠しただけのものだ。(窮屈で犬が暴れださないかと心配したが、取り越し苦労だった。犬は終始大人しく“顔役”を果たした。)

 犬男は、儀式をするかのようにゆっくりと動作を続け、車のボンネットから黒子の介添えで部品らしきものをひとつずつ取り出しては、手前に置かれた瓶のようなものに入れるということを、何度か繰り返す。(・・・ここでじぶんは睡魔に襲われた。)

 音楽は、オケピットではなく、二階か三階の客席に陣取ったバイオリンなどの弦楽隊に生演奏されている。私服で演奏している女性のバイオリニストらがちらっと映し出される。
 ときどき、あの傭兵みたいな男が、犬男の前で手下のように傅いて、自分のもっている楽器をポロンと爪弾く。

 だいぶ時間が流れ、やがてクライマックスに至る流れとなる。
 まず、薄いベールの衣装を身に纏い、客席の後ろにずっと立っていた女たちが二人、巫女でもあるかのように静々と前に進み出てきて、舞台に上がる。彼女たちの大腿部はダンサーのように筋肉質だ。
 そのうちのひとりが、中央の車から出ている例の半島みたいな白い土台にセットされたパネルらしきものの前に出てきて、客席に向かって立ち、そのパネルに身を任せるようにブリッジで身を後ろに反らしていく。
 すると裾の短い衣装がはだけて、裸の下半身が性器も含めてあからさまに披瀝され、客席から(つまりはカメラからも)丸見えになる。・・・あっと思う間もなく、その股間から勢いよく一筋の小便が噴出する。
 ここで舞台上手の視角から舞台が映し出されると、そこに映るもうひとりの女も、客席に向かって立ったまま、小便を垂れながしている。小便を垂れた後、この女もパネルのところに進み、ブリッジする。(ただし、この女=役者は、やや体が硬いのかブリッジがスムーズにできない。)

 二人のブリッジが完成したころ、舞台後方の上段から大きな生身の牛が引き出されてくる。
 牛は、屈強な男に曳かれながらゆっくりと歩いてスロープを降り、ステージ上のオブジェの周りを回る。
そして、車の後方にまわり、トランクのあたりに頭を向けたところで、しばし止められる。
 じつはこのとき、“もしや、牛刀かなにかで牛の首が刎ねられるのではないか。ああ、それは見たくないな・・・”という思いが、自分の頭をチラリと過ぎった。

 助かったことに(苦笑)、牛は動き出し、舞台から消える。
 すると今度は、カメラの視角が中央前面の、例の生ゴムの枠を被せられた全裸の女に当てられ、その尻から手が離されると、肛門から下痢便のようなものが垂れ落ちる。
 ここですぐに緞帳が下り、向こう側の危険な世界とこちら側の世界が隔てられて、儀式は文字通り幕を閉じるのである。


 この記録画像を観てすぐに感じたことは、このパフォーマンスの製作者が、おそらくは一部で知識人層(「ヤッピー」などという死語を使うと歳がバレルか・・・)あたりから高い評価を得ている人だろうなということだった。
 なぜなら、そうでなければまともなオペラハウスが、小便や下痢便を垂れ流すようなパフォーマンスに会場を貸すはずがない。それに、だいぶ経費がかかっている風が伺える。小便女や黒子も含めて、画面上に現れる人々の素振りも、どうもプロ臭い。

 凡庸な解釈を下してしまえば、作者は、上品な芸術文化の俎上であるオペラ劇場のステージの上にディオニソス的な祭儀の世界を開示すべく、これを車のスクラップやら傭兵やら女の生贄やら犬やら牛やら糞尿の垂れ流しやらという闡明なシンボルによる構成として表出し、観る者にがっつりと提示する。
 そして、その世界を最後に“守護のヴェール”で隠すことによって封印し、日常への回帰を促すことで、観る者たちに安堵感を得させ、それをもって逆に後ろめたさや自己嫌悪のような障りを刻印しようとしている。
 もちろんこのことは、マシュー・バーニーが意識していようと意識していまいと、このパフォーマンスの作者・演者と観客との関係にも、さらにはこの映像の製作者にさえも、メタレベルで跳ね返ってくる。
 ようするに、おめぇたちはみな同類で、御目出度いスノッブじゃねぇのか?・・・とでもいうように。


 さて、そろそろ例によってひとつ難癖をつけて、この文を締めくくりたい。

 この映像を観て、いちばん感じたのは、じつはこの「作品」の内容についての異和や不満というようなものではなく、この映像が、このトリエンナーレで「作品」ででもあるかのように展示されていること自体への異和感だった。

 たとえば、舞台演劇の映像は、「演劇作品」ではありえない。
 マシュー・バーニーの「ヴェールの守護者」というパフォーマンスは、おそらく、オペラハウスに観客を集め、それらの観客の前で演じられたものであるだろう。(もし最初から映像作品としてのみ意図されて製作されたものであったらこの言及は陳腐な批判になるが、最初のシーンに映っている観客らしき人間たちが、その後、オペラ劇場の観客席に入ったと想定することは自然なことであるだろう。あるいはまた、カメラが舞台袖から撮った視角はあっても、舞台上で撮影したようなカットが一切存在しないことからも、それは言えそうな気がする。)
 これがもし舞台上で観客に生で提示されたパフォーマンス作品だったとしたら、その記録映像は「パフォーマンス作品」ではありえないだろう。たとえば、この文の最初で取り上げた「バス名所観光ハプニング」は、正当にも「映像資料」として上映されていた。
 だが、奇妙なことに、ここではこれがマシュー・バーニーの「作品」として展示されているのだ。

 ところで、同じ会場の1階には、先にちょっと触れたヘルマン・ニッチュ(Hrmann Nitsh)の展示室があり、そこでは例の豚の血みどろ屠りパフォーマンスなどの映像が、4つほどのモニターで上映されているのだが、こちらは、じつは大きな展示スペース全体を、まるで儀式の行われる場であり、パフォーマーのラボラトリーでもあるかのように構成した空間作品の一要素として、つまり他のいくつかの写真や家具や棚の展示とともに全体構成物の要素として提示されているのだ。これは映像の上映という性質のものではなく、その作品としての質は別として、たしかに全体としては辛うじてインスタレーションと言っていいものだと思われた。
 しかし、マシュー・バーニーのこの映像記録は、“ただの映像”である。

 こんなふうに考えていくと、展示構成者のセンスというかエチカというか、そういうものが疑わしくなってくる。
 これが、今回の横浜トリエンナーレを観た感想のうち、もっとも大きな部分を占める異和である。


 小林武久のインスタレーションにも触れたかったが、もう書くのに疲れた。
 小賢しそうだが他者の視線を欠落させているのでつまらない多くのパフォーマンス映像やインスタレーションを見て歩き、一息入れようとカフェに入ったら、そこに錆びた荷揚げ用のクレーン塔が立っていた。
見あげると、カラスとハトが一羽ずつ止まっている。

 これがいちばんゲージツ的かなと、写真を撮った。                                                                                                                                                                                                                                        



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Posted by 高 啓(こうひらく) at 21:53│Comments(1)美術展
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15日土曜日。横トリ。 http://yokohamatriennale.jp/2008/ja/ (サイトトップの写真が、今回の展示作品たちに変わってるヨ!) 行きそびれたところ、行き足りなかったところへ向けて、会期中2日...
[EVENT][ART] 横浜トリエンナーレ、2回目いってきたよ!【 ● SPOTWRITE 】at 2008年11月18日 22:48
この記事へのコメント

はじめまして。通りがかりの者です
私も横浜トリエンナーレに行きました。「ヴェールの守護者」はその中で最も不可解な作品だったのですが,最後まで説明をしてくださっていたので,ようやくこの作品の全容がわかりました。
なるほど,入り口の注意書きも意味のあることだったのですね。私は途中で退出したので,意味がわからずじまいでした。
Posted by フランツ at 2008年11月09日 09:11
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