2009年10月11日

映画「ナオキ」評






映画『ナオキ』評

 山形国際ドキュメンタリー映画祭2009のコンペティション部門にノミネートされたショーン・マカリスター監督作品「ナオキ」(Japan:A Story of Love and Hate)を観た。
 「ナオキ」とは、撮影時56歳の山形市在住の離婚暦のある独身男性。バブル崩壊までは会社を経営し、自分で外人相手のバーも開業していたが、その後事業に失敗し、いまは山形中央郵便局で簡易保険の集金のパートタイマー(週35時間勤務で時給800円台)をしている。
 彼は、6畳のアパートに住むヨシエ(29歳)のところに居候状態で同棲している。ヨシエは、昼は事務員として働き、夜は週に3日ほど七日町のバーのホステスをしている。
 カメラは、はじめは、いわゆるワーキングプアであるナオキの身の上に照準をあて、「世界で第2位の経済大国」であるとは(この監督からすれば)思えない現代日本の貧困を描くかのようにして始まるが、次第にナオキの個性に着目し、そして次にはヨシエとの同棲関係を描くことへと移っていく。その合間に、監督には「資本主義の顔をした共産主義」に見えるという職場でのラジオ体操や指差し点検や目標唱和に象徴される会社への恭順の強制、そして郵便局の正職員に対して課せられる厳しい成果主義とそれに応えられない者へのイジメなどが、批判的に、つまり自殺者や心を病む者の挿話を含んで、描かれる。
 やがて撮影の時間が積み重ねられていくと、監督は今にも壊れそうなナオキとヨシエの仲に“介入”し、ヨシエの里帰りに同行して最上地方のヨシエの実家を訪問し、ナオキと同年齢の父親に会う。そしてさらに、作品の終わりでは、ナオキを説得してヨシエの実家に連れて行き、二人を引き合わせるのである。

 この作品が強い印象を与えるのは、まず、主人公ナオキの個性的な人柄である。(ナオキの風貌は、その笑い方まで含めて、ちょうど、筑紫哲也を軽薄で胡散臭い感じにしたようなものだ。)
 初めてナオキが登場するのは、居酒屋のテーブルのこちらから、監督がナオキにカメラを向け、撮影の承諾を取るシーンだが、そこで驚くのは、ナオキが、昔、学生運動の活動家で、火炎瓶を投げていたという話を、ヘラヘラと英語で喋っているということだ。
 マカリスター監督は、BBCの発注(NHKとの共同企画?)で日本に関するドキュメンタリーを製作するために東京に来てその題材を探したが、「日本へのドア」(作品の最初のシーンで監督自身が自分にカメラを向けて語っている)が見つからず撮影を諦めかけていた。そこで、たまたま山形でALTをしたことがある友人から、「山形駅前で外人相手のバーをやっている面白い日本人がいるから、なんにも題材がみつからなかったら彼を紹介する」といわれて、ナオキにめぐり会ったのだと言う。(上映後、観客の質問へ回答。)
 英語を喋る日本人というのが、マカリスター監督の「日本へのドア」だったわけである。このへんがまず、この作品を眉唾で観なければならない最初の要素である。

 次に述べなければならないのは、やはり、監督と被写体となる人間との関係についてである。
 じぶんはドキュメンタリー映画にどんな幻想も抱いていないから、“ドキュメンタリー作者は被写体の人間と近づきすぎてはいけない”などと考えてはいないが、上映後の質疑応答の場で、ナオキと共に登場し、腕を組んだり目配せし合ったり、ようするにデレデレの友人関係であるかのような態度を披瀝されては、いかにも食傷しちまうよ・・・という感じである。

 じぶんの目には、この作品の可能性は、まさにこの作品の英題(Love and Hate)が意味するものの追求、つまりナオキとヨシエの、危機的でありながら相互にもたれ合った関係性にじっと付き合って、それを描ききることにしかなかったのだと思える。
 観客は、ナオキとヨシエが酔って互いを傷つけあうシーンが、いちばん気になってくる。
 ナオキとは、ざっくり言ってしまえば、昔は羽振りがよかったが、事業に失敗して財産と仕事を失い、店の客だった若い女性のところに転がり込んで、居候をしている初老の男である。彼は、彼女の6畳一間のアパートを追い出されれば行くところがない。ナオキが心理的にインポテンツになっているため、ふたりはセックスレスだが、ナオキがヨシエを追及する言葉には、要するにいかにも要領のいい“ヒモ”が語りそうな色が見て取れる。
 ミもフタもない言い方をしてしまえば、泣かせて、抱きしめる・・・というやつだ。

 一方、ヨシエがナオキを責める言葉は、心の奥底の傷から沁み出してくる彼女の呻きであるように思われる。その言葉の背景に、いわゆる“無意識の荒れ”みたいなものが感じられる。
 狭い部屋で、あるいはどこか昏いバーのカウンターで、ヘラヘラといい加減なことを言い募って関係を維持しようとする男と、それを拒絶したいと思いながら、そのように絡み付いてくる男との関係をふと掛け替えのないもののように看做して別れられない女との、どの町にもありそうな哀しくも致し方ない関係がスクリーンに映し出される。
 ここが、ありうべきこの作品のキモだったのだと思う。
 しかし、マカリスター監督は、作品のなかで、ナオキをトリック・スターのように持ち上げてしまった。そして、ナオキとヨシエの関係に、ヨシエの実家または父親という<外部>を持ち込んで、それを整形しようとした。
 被写体たちを“通り過ぎる”ドキュメンタリー作者の、いい気で醜悪な姿が、そこに存在する。


 さて、ここからは余談だが、この作品に描かれる背景としての山形の風景が印象的だった。馬見ヶ岬川の川原で、営業用のスーパーカブに寄り添ってポーズを決めるナオキの背景に映る冠雪の蔵王山系と中腹の紅葉。あるいは、西蔵王のテレビ塔の展望地から望む山形の街。
 晩秋から初冬にかけての山形の風景は、たとえ天候のいい日であっても、灰色のフィルターを通しているかのようにすべてがひたすら薄暗く、ひたすら閉塞的である。
 マカリスター監督の関心は、主人公のナオキをはじめとする被写体としての特定の登場人物に集中し、この地域へは向けられていない。この地域は、それらの登場人物と対照的に、色を失った“逼塞した背景”としてのみ位置づけられている。
 意外にも、このことが、ある意味でとても新鮮で、印象的だった。
 われわれは、この山形の地のドキュメンタリー映画祭が、作家たちに何ほどのものかを印象付けているはずだと浮かれているが、良くも悪しくも、これがこの映像作家にとっての山形あるいは日本のイメージだということを知らなければならない。                                                                                                                                                                                          
                                     




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Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:22│Comments(1)映画について
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今夜たまたまNHK-Hiの「シリーズ・東京モダン」で「ナオキ」を観た。

妻が見始めたのでパソコンに向かっていたのだが途中から食い入るように観た。
少しオーバーに言えば感動した。
...
「シリーズ・東京モダン」で「ナオキ」を観た。【大津留公彦のブログ2】at 2010年01月26日 21:36
この記事へのコメント

私はこの作品を先日初めて見て
気分が悪くなりました。
ナニが日本の貧困だ!笑わせんじゃねえ!と
思いました。

また、山形の人はこれを見て
怒らないのかなあと思っていました。

hirakuさまに全く同感です。気分がスカッとしました。
Posted by ユカ at 2010年01月27日 17:21
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