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2013年07月28日

大急ぎ サロベツ原野行(その5)






 旭川駅で「スーパー宗谷」から降りると、新しい駅舎が迎えてくれた。
 目を引かれたのは、エスカレータで1階に下りてくるところの大きなフロアの両側の壁一面に嵌められた細長い木製のプレートである。膨大な量のプレートの一枚一枚にアルファベットで個人の名前が記載され、一連番号もふられている。駅員に尋ねると、これは旭川市民に一枚2,000円の寄付をもらって作成したものだという。感心したのは、市民個々人の名前を駅舎に刻ませることで駅舎は自分たちのものだという意識を持たせようとしたその発想・・・ではなくて、一枚一枚に通し番号を振ってある点である。高く広い壁面のどこに自分の名前が刻まれたプレートがあるのか、上の方は双眼鏡でもないと判別できないのだが、予め自分のプレートの番号を知らされていれば、ああこの列の何枚上に自分の名前のプレートがあるんだ・・・と当りをつけることができる。
 ところで、余計なお世話と言われるだろうが、どうせ寄付を募るなら一枚5,000円くらいにして、儲けを出しておけばよかったのに、と思った。(笑)
 旭川駅は、ホームへ連絡するエスカレータの周囲の壁面などにも工夫がなされていて、駅舎全体が洗練されている印象を受けた。もっとも、北海道は札幌や旭川などごく一部の都市とその他の地域の都市化の度合いの落差が大きすぎるから、ちょっと間違うと厭味な印象を与えてしまいそうでもある。

 旭川動物園に行くには、駅前のバス停から市営バスに乗って40分もかかる。これだけ人気が出ている割にはバスの本数が少なく、平日でも満席で40分も立ったままになる乗客が少なくない。幼い子どもや高齢者、そして妊婦も見かける。アクセス面でもう少し来客に配慮があってもいいだろう。
 バス停で待っていると、たくさんの家族連れが並んだ。その半数以上は中国系の人々だった。園内にもずいぶんアジア系の外国人が多いなぁという印象だった。いまやこの動物園は国際的な観光資源となっているようだ。







 さて、園内を見て回って、たしかに工夫された素敵な動物園だという印象をもった。
 この動物園は「行動展示」という画期的な手法を採用したことでマスコミにたびたび取り上げられ、また何冊もの書籍で紹介されているから、詳しい説明は省く。
 この動物園を一躍有名にしたのは「あざらし館」の行動展示だと思うが、まさしく立体的に工夫された構造の水槽をアザラシたちが活発に泳ぎまわる姿を見ていると、つい時間を忘れてしまう。
 1枚目の写真は「ほっきょくぐま館」で覗き窓から外を眺めたとき、ちょうどよくホッキョクグマが近づいてきたのでそれを撮影したものである。
 ここの行動展示では、三次元空間の構成にとても工夫が凝らされている。「もうじゅう館」ではヒョウが木を登って観客のすぐ目の前までやってきたり(2枚目の写真)、「ちんぱんじー館」ではチンパンジーが木の上のように作られた居所で赤ん坊を抱く姿を間近で見ることができたりする。(3枚目の写真)
 オランウータンが上空のロープをリズミカルに渡る様子には見とれてしまうし、「両生類・は虫類舎」ではアオダイショウが客のすぐ頭の上の網の通路を渡って(便を引っ掛けられないよう注意!)、反対側の部屋のカエルを襲いにいく姿にも新鮮な驚きを感じる。(4枚目の写真)







 こういう部分以外でも、この動物園の高感度を上げている点がいくつか目に付いた。
 1つめは、行動展示を見る観客の側が立体的に移動できるように展示スペースが構成されている点だ。
 「おらんうーたん館」におけるオランウータンのロープ渡りや「でながざる館」におけるテナガザルの動きなどはそれ自体見ていて面白いが、これらの展示スペースではもっぱら地面から上空を見上げるだけである。しかし、「あざらし館」「ほっきょくぐま館」「もうじゅう館」「ぺんぎん館」などでは、観客の視点が立体的にいくつか設定できるように施設の構造が工夫されている。また、各施設の配置が敷地の傾斜や起伏をうまく利用して構成されているので、「もうじゅう館」「オオカミの森」「エゾシカの森」などでは、見物人は順路を歩いていくだけで立体的に視点を移動させていくことになり、自分のイメージのなかで自然にパノラマ的な空間を体験することになる。
 2つめは、職員の手作りの看板、解説プレート、情報掲示板などが、とても親しげな印象を与えていることである。ここまで有名になったのに、あくまで地元の旭川市民をメインの対象として、市民に末永く愛される動物園を追求しているという印象である。また、その手書きのタッチが絶妙で、動物たちを愛し、丁寧に世話をしている職員たちのイメージをとても身近なものとして伝えてくる。
 3つめは、行動展示によって動物たちが動き回ることもあるが、それ以前に各個体が檻の中にしてはとても生き生きしているように見えることである。これは飼育員の努力の賜物だろうが、一種類の動物の個体数を最低限に絞って展示していること(あるいは最低限の個体数しか飼育していないこと)にもよるかもしれない。
 たとえばキリンのコーナーは他の平凡な動物園と同じかそれ以下の環境の施設であるように見えたが(キリンやカバの施設は別の場所に新築中だった)、それでもそこでオスとメスが寄り添う姿には見入ってしまった。写真ではよく分からないかもしれないが、たっぷりと時間をかけて、メスの股間から太腿のあたりをオスが鼻先や舌で丁寧に丁寧に愛撫し、それにメスが目を細めてじっと感じ入っている。その姿はエロいといえばエロいのだが、なにかとても癒される感じがしたのである。
 4つめに、これは考えさせる展示という観点からであるが、エゾシカのいる区画のなかに野菜畑を作り、そこを電気柵で囲っている展示に注目した。北海道ではエゾシカの食害による農作物や生態系の被害が大きいこと、そしてその食害から農作物を守る手立てが(捕獲=駆除以外にも)あるのだということを観客に伝えようとしている。
 広大な農地で土地利用型農業がおこなわれている北海道で、電気柵による野生鳥獣被害の防止がどの程度の効果を上げられるかかなり疑問だが、動物園としてこのような展示で野生鳥獣との関係を見物客に考えさようとしている点は評価したいと思う。







 さて、誉めてばかりではつまらないから苦言をひとつ。
 オランウータンの「もぐもぐタイム」(というのか)で解説する飼育員の話は、マイクの音響が割れて擦れてずいぶん聴き取りにくかった。大勢の観客が注目していたが、その注目度ゆえか、解説者は音響の不調など関係ないという感じで、早口で滑舌もよくない喋りをルーティンワークのように繰り出すだけだった。飼育員とオランウータンとのやり取りは工夫されていて面白いはずなのだが、いまいち楽しめない。解説者とオランウータンにとってはルーティンワークであろうとも、観客にとっては一生に一度の機会かもしれない。水族館の海獣やイルカのショーのような演出は不要だが、もう少し観客を意識してパフォーマンスをしてほしいものだ。

 この動物園に滞在したのは3時間あまりだったが、あっという間に帰りの時刻がきて、慌てて旭川駅行きのバスに飛び乗った。
 相変わらず「特急サロベツ」は運休だったから、旭川発の「スーパーカムイ」に乗り込み、陽が沈む前に札幌に着いたのだった。(次回に続く)
                                                                                                                                  

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:33Comments(0)歩く、歩く、歩く

2013年07月26日

大急ぎ サロベツ原野行(その4)






 さて、牛乳鍋を一緒につついた二組の夫婦の同宿者とは、こんな人たちだった。
 まず、年長の方の夫婦(夫が80歳前後で妻が70代半ばくらい)について。
 この夫婦は大阪在住。今回の自動車旅行はこの日で14日目ということだったが、運転はもっぱらご主人の方で、そのご主人は「マイペースで運転するから、何日車で旅しても運転で疲れるということはない」と言い、北海道や東北をあちこち周遊しているとのことだった。また、海外旅行の経験も豊富そうで、極東ロシアにも旅したことがあると言っていた。さらに、ご主人の趣味は山スキーだというので、この年齢でスキーを担いで冬山に登るとは・・・と、恐れ入った。
 健康で経済的余裕があって年金生活をエンジョイしている夫唱婦随の老夫婦という印象だったが、会話のなかで豊富町の商店街の寂れた様子から全国の地方都市の商店街も同じ状態だという話題になり、じぶんが「大規模店舗の規制を緩め過ぎたからですよ。イオンなんか、自分が形成した大規模小売店のエリアでさえ、儲けが少なくなるとさっさと捨てて別のところに移りますからね。後は寂れた街区が残されても知ったことかという態度で、酷いものです。」などと語ると、ご主人は不満そうな顔をし、その一方で奥さんの方は如何にも申し訳なさそうな表情で「申し訳ないことですね・・・」と、何か自分も大規模店の経営側であるかのような口ぶりで語るのだった。
 もう一組、団塊の世代くらいの年齢に見える夫婦の方は、“チョイ悪オヤジ”風のおしゃべり好きな旦那さんと品の良さそうな奥さんのカップル。今回の旅で北海道滞在何日目かという質問に、「75日め」というので驚いた。事情を聴いてみると、この夫婦の自宅は関東だが、北海道に家を借りて長期滞在しているのだという。この夫婦と年長の上述の老夫婦とのやり取りを聞いていると、北海道ではあちこちの市町村に長期滞在者用の市町村営住宅があり、この夫婦は美瑛に借りていた滞在者用住宅を期間満了で追い出され、士別の同じような住宅に移っている。そしてその住宅から道内へ旅行に出かけているのだ、という。
 また、これらの住宅は夏季は人気で抽選倍率が高いとか、市町村役場の職員と顔見知りになって情報をもらうのがコツだとか、1ヶ月の家賃は家具つきで7万円余りだとか、冬の北海道の風景が素晴らしい、冬でも室内にいれば寒い想いはしない・・・などという話をしているのだった。

 ところで、夕食後、たまたま「明日の城」の居間にあった田舎暮らしに関する雑誌をめくっていると、この北海道の「ちょっと暮らし」の記事が載っていた。
 それによると・・・全国各地の過疎の道県や市町村では、都会から移住者を獲得するための施策をいろいろと打っているところだが、北海道の場合には完全移住するとなると二の足を踏む人が多いのが実態で、従前の移住者の獲得事業はなかなか成果が上がらなかった。そこで、平成17年、道庁の知事政策部の職員だった大山慎介氏は「ちょっと暮らし」というコンセプトを立て、道内の市町村の空き家を利用して宿泊施設をつくる事業を始めた。これが当り、現在は道内で50を超える市町村が長期滞在者用の住宅を設置・運営しているのだという。
 このチョイ悪風オヤジとは、翌日豊富駅で帰りの列車を待つ間にも立ち話をしたのだったが、彼はそのときカラビナで腰に吊るした幾つかの鍵のなかから、町営住宅という文字が記載されたタグのついた鍵を見せてくれたのだった。
じぶんが「留守中、ご自宅はどうしているのですか?」と尋ねると、「ほったらかしている。自分は都会が嫌いだから、自宅を売って北海道に本当に移住しようかと思っている。」と語った。
 それに「羨ましいですが、うちは女房が田舎嫌いなのでそんな暮らしは無理です(笑)」と応じ、「それに、都会の方が思っている以上に、田舎の医療体制は良くないですよ」と付け加えた。

 さて、この二組の高齢者夫婦と会話を交わして、次のような想いを抱いた。
 まずやってくる単純な感想は、二組ともいわゆる“悠々自適”の老後を送っていて、羨ましいなぁというものである。そして次に、1泊2食4,900円で相部屋の安宿に泊まっていることをどう考えたらいいのか、つまり、その程度の経済的レベルの人たちなのか、あるいは経済的にはかなり余裕があるのに、旅慣れしているがゆえにあえてこのような安宿も利用しながら旅のバリエーションを楽しんでいるいわば“通”の人たちなのか・・・ということが気になったのだった。
 さて、この点については、会話しながら観察してみると、大金持ちには見えないがそこそこ経済的な余裕があり、かなりの旅行通であるように見えたのである。
 しかし、たしかにこんな風に通らしく長い旅の生活や長期滞在を楽しみたい気持ちは自分にもあるものの、こういう生活を繰り返し長く続けていて楽しいだろうかと自問すると、その答えはどうもイエスとはならない。お気楽で享楽好きのじぶんではあるが、どうもこれが「生活」になると思うと、幸福感を感じるとはいかなそうなのである。
 そうすると次にやってくるのは、では、じぶんはどんな“老後”を過ごせば幸福なのだろうという自問である。

 そのまえに、だが、じぶんたちの時代、つまりすぐ数年後に迫った定年退職後については、たとえば団塊の世代以前のような“悠々自適の老後”というのは、悲しいことになかなかイメージできない。
 じぶんが65歳になったとき、団塊の世代はちょうど75歳前後で、このあたりの時期が本邦で現役世代に対する65歳以上の割合がもっとも高くなるのではなかったかと思う。すくなくとも、団塊の世代が「後期高齢者」の域に入り、医療や介護に膨大な費用がかかることになるだろう。こんな時代に、われわれ団塊以降の世代がのんびり“悠々自適の老後”に入るわけにはいきそうにないとも思われてくる。
 また、もっと基本的なことを考えると、大雑把な言い方をすれば、団塊の世代なら40年働いて30年ほど年金生活を送るということになるだろう。しかも、専業主婦だった人も、夫亡きあと本人が死ぬまで年金を受け取り続けるのである。こう考えると、そもそも現行の年金制度というのは、少子高齢化云々の以前に、定年退職後10年も生きれば大方の人間があの世に行ってしまう時代においてのみ成り立つ社会保障制度だったのだと思われてくる。
 旅行記からだいぶ脱線するが、話のついでにじぶんの考えを述べると、じぶんは「75歳定年制」論者である。理由はふたつ。ひとつは、じぶんの経験上(じぶんが周りの年長者たちを見ていると、という意味だが)、人間は75歳までその能力を伸ばすことができる。したがって、普通に健康(つまり普通に加齢している状態)であれば、75歳まではちゃんと働ける。もうひとつは、65歳から74歳を「高齢者」から「現役世代」に移すことで、少子高齢化問題のいくつか(たとえば現役世代何人で一人の高齢者を支えるか、などという文字通り重苦しい問題)が幾許かなりとも解決し、少子高齢社会についての重く暗いイメージが変わるからである。安易で、かつは魔法のような解決法だが、これはけっこういけると思う。要するに、“イメージから変われ”なのである。
 もちろん、75歳まで現役で働き続けるためには、雇用や労働の諸制度を大きく改変していかなければならない。定年制の廃止及び65歳以降の再雇用や再就職を保証・支援する制度、障がい者の雇用促進制度と同じように各事業所が66歳から 75歳までの者を一定割合雇用しなければならないとする制度などを導入することが必要と思う。
 たとえば、ハローワークの求人情報をみると、主婦層を想定しているかのようなパートタイマーへの求人が多く、これらの仕事では、時給の低さと就労時間数が限られていることによる月収の少なさのために、応募者が足りない状況を見かける。外国人労働者の受け入れを増やすのでなければ、これから労働力不足は深刻化していくだろう。だから、労働市場が高齢者に、より開かれていく可能性はあると思う。

 で、結局は、じぶんはどうするか、どんなふうに定年後(60歳以後)を生きるか、という問題に改めて対面する。
 じぶんは遊び好き・暇好きではあるのだが、心身の状態が許すかぎり働き続けたいと思う。だが、定年後の働き方はそれまでの働き方と同じにはしたくない。願望とその実現可能性の距離をどう測り、いくつかある願望に向けて他の願望や消費生活の質を犠牲にして挑戦すべきかどうか、いやそれ以前にほんとうにその仕事はじぶんがしたいことなのかどうか・・・、そんなことを考え始めると、いつの間にか五里霧中の“サロベツ幻野”に迷い込んでしまっているのである。

 (閑話休題)

 さて、この日は、チョイ悪風オヤジ夫妻と一緒に富岡駅まで「明日の城(じょう)」のご主人に車で送ってもらい、豊富発7:50の札幌行き「スーパー宗谷」に乗り込んだ。
 音威子府あたりからじぶんはウトウトしてしまい、ご夫婦とはそれきりになったのだが、またこうして北海道を旅すれば、いつかどこかでめぐり遇うことがあるかもしれない。
 このあと、じぶんは旭川に降り立った。評判の「旭山動物園」を見物するためである。(続く)

 (註)写真は旭山動物園のクモザル。思索する仙人のような佇まいである。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:40Comments(0)歩く、歩く、歩く

2013年07月18日

大急ぎ サロベツ原野行(その3)







 稚内発13:45の「特急サロベツ」で豊富駅に行き、そこから駅前発15:03の「沿岸バス」で「サロベツ原生花園 サロベツ湿原センター」を訪れる予定だったのだが、駅員に尋ねると、前日のJR北海道の特急「北斗」の火災事故のため、同型の車両を全部点検することになった、それで特急「サロベツ」も運休だ、と言うのである。
 豊富駅前発15:03のバスがサロベツ原野へ向かう最終便だったため、これに間に合わない!?と一瞬アタマの中が真っ白になったが、時刻表を見ると14:12発の普通列車がある。そこで、もしや?と駅員に豊富到着時刻を尋ねると、14:57だと言う。(・・・助かった!)
 しかし、よく考えてみると、稚内発13:45の特急サロベツの豊富駅着は14:26で、稚内と豊富の間は特急でも41分かかる。それなのに、14:12発の普通列車でほんとうに間に合うのか?と心配になり、再度駅員に確認した。するとやはり45分で豊富に着くダイヤなのだった。
 特急が41分かかるところを各駅停車が45分で着くのはどうして?・・・今度はそう駅員に尋ねると(しつこく質問する客だ(苦笑))、「この区間は90キロしか出せないんです」との返事。じゃあ、鈍行も特急も同じ速度で走るっていうことか、と納得?する。

 続いて、もうひとつ、これは大事な質問だが、“では、「北斗」や「サロベツ」が運休なら、「スーパー宗谷」や「スーパー北斗」も運休なの?”と尋ねると、“今回火災事故を起した「北斗」は古い車体だが、「スーパー北斗」は「振り子式」の列車なので大丈夫”と言うのである。「振り子式」の車両というのは何かで読んだ記憶があったが、今回の火災事故関係でなぜ「振り子式」が安全なのかは理解できなかった。つまり、駅員の説明態度はどちらかと言うと軽佻浮薄に聴こえ、事故多発を深刻に受け止めている様には感じ取れなかったのである。(この後、JR北海道の車両が7月15日にまたもや火災事故を起した。)

 とはいうものの、1両編成の宗谷本線の普通列車は特急に負けない速度で原野を貫いて快適に疾走し、予定通り豊富駅前から路線バスに乗ることができた。
 バスの運転手に、「サロベツ原生花園 サロベツ湿原センター」から「明日の城」まで歩くつもりだがどのくらい掛かりそうかと尋ねると、男の足で1時間余りだろうという答え。
他の乗客はセンターからの帰途にタクシーを利用しようとしていたが、バスの運転手は「ここにはタクシーが1台しかないから予約を入れておいたほうがいい」とアドバイスしていた。

 さて、北海道では路線バスも爆走する。豊富の町を抜けると、まもなく「サロベツ湿原センター」に到着した。
 とうことで、1枚目の写真は同センターの遊歩道(木道)から湿原を映したものである。
 ちょうどエゾカンゾウ(ニッコウキスゲ)の花が咲き、湿原の広範な領域にわたって群落が存在していることを窺わせている。またあちこちに、ワタスゲ、タチキボウシ、コバイケイソウなどの花も見ることができる。
 しかし、遊歩道の区域は乾燥によりササなどの侵入がかなり進んでいる。「サロベツ湿原センター」内の展示で環境省が実施している湿原の保全事業についての説明を読んだが、実際にはあまりササの侵入を防げていないように見える。このまま乾燥が進めば湿原全体に広がり、湿地の植物たちは駆逐されていくだろう。









 2枚目は、湿原センターに隣接して建てられている「泥炭産業館」の内部の様子である。かつてこの湿原で泥炭を採取していた時に使用されていた、浚渫機械や泥炭を粉砕して乾燥させる機械などが展示されている。乾燥された泥炭は「土壌改良材」として販売されていたが、その現物も展示されている。

 そうこうしているうちに、時刻は16時を過ぎていた。遅くとも18時までには宿に着かなければならないので、急いで「サロベツ湿原センター」を後にし、この夜泊まる予定の「明日の城(じょう)」を目指して西に歩き始めた。
 風があり、また小雨もパラつく天候の中、サロベツ湿原の中をまっすぐに延びる2車線道路を、たまに行きかう車を恨めしげに眺めつつ、登山用のリュックを背負ってテクテク歩いた。
 “サロベツ原野を歩いてみたい”というのがこの旅の主なモチーフのひとつだったわけで、それを達成したということにはなるが、事前に予想していたとおり、原野はやはり原野であり、エゾカンゾウの花が美しく咲いているにもかかわらず、2年前に釧路湿原を訪れたときと同じようにそれはじぶんにとって必ずしも感動的なものではなかった。むしろそうであることがわかっていたのに、ここにこうして来てみたかったのである。







 3枚目はそのテクテク歩いた道路の写真。まっすぐな道路ではあるが、泥炭地に建設されているため、路盤が沈んだり傾いたりすると聞いた。そういえば、写真からも波打っているさまが窺える。
 バスの運転手は1時間余りと言っていたが、50分以上歩いても原野の向こうにそれらしき建物の姿は現れない。1時間余り歩いたところで低い丘陵に差し掛かかり、さらに道路の分岐を2箇所ほど越えて歩き続けていくと、やっと道路端に木製の案内看板を見つけた。そこから林の中の私道を少し昇ったところに建っているのが今夜の宿「明日の城(じょう)」だった。70分は歩いただろうか。








 「明日の城」(写真4枚目)は、サロベツ湿原に建つ唯一の宿。外見や内部の造りは小奇麗な洋風ペンションのようだが、基本的に相部屋。主にいわゆるスキーヤーズ・ベッドが設置された部屋とフローリングにカーペットを敷いた個室(布団を自分で敷いて寝る)がある。個室の方も、基本は相部屋。宿が空いているときは個室料金を払えば専用にできるとのことである。
夕食は、名物の「牛乳鍋」だった。これは季節の野菜やキノコと骨付き鶏肉のぶつ切りを牛乳の鍋に入れた料理。それに一人一皿の、ホタテやエビやイカなどの刺身盛り合わせが付く。そして牛乳鍋の具を食べてからご飯を入れておじやをつくるという趣向だった。これにトーストと目玉焼きとサラダ、牛乳などが付く朝食を合わせて1泊2食で4,900円。(牛乳鍋がダメという人は、事前に連絡すると別の料理に替えてくれるようだ。)いかにもバックパッカーやバイクまたは自転車のツーリングの客を相手にする宿という感じだ。
 団塊の世代くらいの年齢に見える宿の主人は九州の佐世保出身。20代からここでこの宿を営業しているとのことである。というのも、宿の居間にこの場所で若者相手の宿を始めたときからのアルバムが何冊もあったので、収められていた写真やこの宿に関する新聞記事のスクラップをじっくり拝見させていただいた。そこで、奥さんは大阪出身で客としてここを訪れ、主人にプロポーズされたこと。そして、前の建物は火災で灰になり、二人で出稼ぎをしながら現在の宿を再建したこと、などを知った。
 ご主人夫妻が醸し出す宿の雰囲気には開設から現在に至るまでの歴史が感じられ、まさに60~70年代の若者の“北海道の旅”のイメージが微かに残っているように想える。リピーターも多い様子で、ご主人夫妻の気さくな人柄と、ご主人の若い頃に貧乏旅行者相手に営業していた頃を髣髴とさせるようながらっぱちな立ち居振る舞いが印象的だ。もっともそれゆえに、自分が若い貧乏旅行者のように扱われること(たとえば団体行動を指図するみたいな言動)に抵抗がない客にとってはいい宿だと思えるが、“おれはサービスを受けるべき客なんだぞ”という意識を持つ人にはお薦めできない宿かもしれない。
 なお、ここは原野の中の一軒屋でもあり、手ごわい蚊やブヨが出ることに用心する必要がある。じぶんは、4人の相部屋で、そのうちのひとり、ライダーの若者が持参していた電池式の電気蚊取りのおかげで難を逃れることができた。

 ところで、夕食時に5人で同じ飯台に席を割り当てられ、従って同じ鍋をつつくことになったのだったが、このとき牛乳鍋を一緒につついた70代後半(夫は80近くに見えた)の老夫婦一組と団塊の世代くらいの夫婦一組、合わせて二組の夫婦の同宿者と話を交わしていくつかの想いを抱いた。このことがこの旅のいちばんの収穫だったかもしれない。それを次回に書いてみたい。(続く)                                                                                                                                                                                                                           



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:33Comments(0)歩く、歩く、歩く

2013年07月13日

大急ぎ サロベツ原野行(その2)






 (前回から続く)盛岡から「はやぶさ1号」を利用できることになり、“これで仙台前泊が回避できる”と一応は喜んだのだったが、盛岡で「はやぶさ1号」に連絡する仙台発7:05の「やまびこ97号」に乗るためには山形発5:44の普通列車に乗らなければならず、すこぶる朝が心配だったことから、結局は仙台に前泊することにしてしまった。
  ということで、今回往路で利用した列車は、①7:05仙台発の「やまびこ97号」、②8:46盛岡発「はやぶさ1号」、③10:16新青森発「スーパー白鳥11号」、④12:22函館発「スーパー北斗9号」、⑤17:48札幌発「スーパー宗谷3号」となり、稚内着は22:47だった。
  乗り継ぎの時間を含めると仙台から約16時間の列車の旅となったが、列車はすべて順調に運行され、好運にも、ガラガラ状態の①のほか、指定席を確保していなかった②と③でも着席することができた。
  ただし、③と④の乗り継ぎの時間は僅かに8分で、それもジジババの旅客が大勢いるため早く歩くこともままならない。昼食はキオスクのレジの行列に並んでオニギリを買うのが精一杯だった。
  ⑤へ乗り継いだ札幌では、時間に余裕があったので駅に隣接する大丸デパートの地下食品売り場で弁当を物色したものの、食を促されるものが見つからず、結局は一番安価な秋刀魚のから揚げ弁当のようなものを買った。そして、これがこの日の夕食になった。

  ところで、札幌で乗り継ぎ時間を潰しているとき、今さっき通過してきた函館~札幌間で特急の火災事故が起き、函館本線が不通になっているというアナウンスを耳にした。通り過ぎたあとでよかったとは思ったが、そういえばJR北海道では以前にも石勝線かどこかで特急列車が脱線して火災を起した事故があったことを思い出し、この旅の先行きに若干の不安を感じた。(2011年5月27日、釧路発・札幌行「スーパーあおぞら」が脱線しトンネル内で火災を起した。)
 この旅の間に読んだ北海道新聞の記事によれば、JR北海道では事故やトラブルが多発しているとのことだった。経営状態が良くない?ことによって、列車や施設の老朽化が放置されるとかメンテナンスが十分出来ないなどの構造的問題があるのではないかという疑念が生じてくる。そういえば、この旅で乗車したJR北海道の特急7本の車掌は全て若い男性職員だった。ひょっとして、国鉄時代からの経験がうまく引き継がれていないのではないか、などという疑心暗鬼も生じてくる。
 ついでにここでJR北海道の特急列車について述べておくと、「スーパー白鳥」「スーパー北斗」「スーパーあおぞら」「スーパーカムイ」などの主要な車両で、ドア開閉が手によるタッチ式なのに抵抗があった。衛生的でないし、ドアが開いているときに通りかかると、閉まるドアに挟まれる危険がある。
また、洗面台や手洗いがトイレ室の中にしかなく、手を洗うだけの客や鏡を見るだけの客もトイレ室が空くのを待っていなければならない。これは衛生的に良くないだけでなく、スムーズに利用する上でもすこぶる都合が悪い。
 また、窓の間隔と座席の間隔の関係についてだが、これらの車両の窓は、前後の座席を向き合わせた場合に視界が広がるような間隔で配置されている。つまり、前後の座席が同じ方向を向いていると視界が狭くなる座席が生じる構造になっている。
  さらに付け加えると、車両の外部に号車番号の表示がない(見つけられない)車両もある。これは利用者にとっては非常に不都合である。
 山形新幹線がじぶんにとってのスタンダードになっているためか、JR北海道の特急の車両に使い勝手の悪さを感じることになったのだと思う。逆にいえば、相対的にふだん意識していない山形新幹線の快適さを感じさせられたということかもしれない。
 もちろん、日本のどこでも同じレベルのサービスが受けられて当然という意識はもっていない。だから、これはこれで北海道らしさのひとつなのだという考え方もする。しかし、北海道は観光を重視すべき地域であろうし、それ以上に1970年代の光り輝く北海道のイメージに囚われているじぶんは、北海道の基幹部分は“もう少し洗練されていてほしい”と思ってしまうのである。

さて、旅行記に戻ろう。
午後23時近くに稚内に着くので、この時間から稚内で飲食するのは無理かと思っていたが、まさにそのとおり。稚内駅前はもはや深夜の趣きで、とても食事にありつける感じではなかった。
 駅を出て右手に折れ、道路の右手に建つ日航ホテルを恨めしく見上げながら、安宿の「みんしゅく中山」を訪ねる。ネットで探した限りでは、この日に稚内駅周辺でシングルで泊まれそうなのはここだけだった。ユースホステルには空きがあったが、23時近い到着では受け入れられないと断られたのである。
 この宿は1泊朝食つき5,250円。家族経営の様子。女将は親切そうだったし、朝食にはおかずの器がたくさん出てご飯を腹いっぱい食べてしまったが、全体としてはリーズナブルとは言えない。宿に入ると消臭剤?の臭いが強烈で、浴衣も例の臭いの粒子が弾けるような洗剤を使用しているのか、これまた強烈な臭いがする。じぶんはこの臭いになじめず、快適に過ごしたとは言えない。まぁ、翌朝、稚内駅前を8:00に出発する観光バスに乗るためこの日はとにかく稚内に到着したのだ・・・ということにして、北海道の1日目を終えたのだった。







 とうことで、その観光バスだが、“日本最北端のバス会社”を謳う「宗谷バス(株)」の「日本最北端と北海道遺産めぐり」コース(3,300円)に乗車した。
  このコースは、8:00に駅前を出発して、①北防波堤ドーム、②稚内公園、③ノシャップ岬、④宗谷丘陵、⑤宗谷岬と周り、稚内空港と観光施設の「副港市場」を経由して、11:45に稚内駅に戻るというもの。
 2枚目の写真は、歴史的遺産ともいえる①の防波堤ドーム。バスガイドによれば、これは、昔、稚内駅から稚内港の樺太行き連絡船の乗船場に至る通路だった場所に架けられたもので、延長は427m、支柱は70本ある。昭和11年に完成したというが、元のドームは老朽化にともなって解体され、現存のドームは昭和53年に再建されたものだという。どうりで、その様相は歴史の風雪を感じさせるものではない。これは勝手な詮索だが、防波堤としては不要なものを観光資源として税金で復元したのではないかと思う。もしそうだとすれば、これは「歴史的遺産」というより、北海道の景気が良かった時代の遺物というべきものだろう。どうせ観光資源として造るならもう少しマチエールを「歴史的遺産」らしく工作したらよかったのに、とも思ったが、いや、この如何にも再建しましたという素っ気無いコンクリート構造物の姿こそが、良くも悪しくも北海道のコンテンポラリーな歴史を表現しているのだと思い直した。
  ②の稚内公園は稚内港を見下ろす場所。40数キロ先にサハリンが見えるはずだというが、この日は天気が良かったものの、その姿を垣間見ることはできなかった。この公園には、昭和20年のソ連の日本領樺太への侵攻によって犠牲になった樺太在住の人たちを慰霊する慰霊碑「氷雪の門」(彫刻家・本郷新の作になるブロンズ像)や、自ら青酸カリを飲んで自決した真岡(ホルムスク)郵便局の9人の女性電話交換手の慰霊碑「九人の乙女の碑」などが建立されている。
  ③のノシャップ岬は、日本で2番目に高い稚内灯台がある岬だが、訪れてみると海面に近い平地で、あまり呈のよくない「観光地然とした観光地」という印象。ただし、ここではバスガイドに教えられて、穴場?の「青少年科学館」の裏手にある昭和の南極観測隊関係の展示館(といってもこの建物は倉庫で入場はを無料)を観ることができた。それが3枚目の写真である。







  南極観測隊が撤退時にキャンプに残してきてしまった「タロ」「ジロ」ら樺太犬の訓練をしたのがこの稚内だったということで、いまこの稚内に記念の展示がなされているのだという。そういえば、南極観測船も「宗谷」という名前だった。この展示倉庫のなかには、観測隊が実際に使用したコンテナのような基地の居住棟が展示されている。当時の基地内部の写真と合わせて、しばし想像力を逞しくした。









 写真の4枚目は、稚内市街地と宗谷岬との間で車窓から見えた利尻富士の姿である。宗谷湾の沿岸を行く国道238号の海岸側には、今が花盛りのエゾカンゾウ(ニッコウキスゲ)の群落が延々と続いている。
さて、この観光バスのコースでもっとも印象に残ったのは、宗谷岬の高台に建立された「祈りの塔」(写真5枚目)だった。これは1983年9月に起きた、ソ連空軍機が領空侵犯した大韓航空機を撃墜した事件の犠牲者(16カ国、269人)の慰霊碑である。犠牲者(乗員・乗客)の氏名がそれぞれの国の言語で刻まれている。
稚内はロシアと交流が深く、道路標識や商店街の店名などにもロシア語表記がなされている。また、現在も稚内港からサハリンへ定期船が出ている。今度の滞在中にもロシア系と思われる住民(というのは、郵便局の前で預金通帳を眺めていたから)を見かけた。
しかし、先の稚内公園の慰霊碑やノシャップ岬の自衛隊アンテナ基地の存在とあわせて、ここはまぎれもなく“国境の町”であり、北の大国との緊張関係の臨場でもあるのだと改めて思い知らされる。









 6枚目の写真は、稚内駅近くの「中央アーケード街」。閑散としていて、シャッターが閉まったままの店舗が散在する。そういう点では日本各地で見られる風景と変わりないが、すぐにキリル文字の店名表示に眼が行く。 だが、この写真を撮影したのは、ご覧のとおり車が堂々と路上駐車されていたからだ。このように、低迷する旧来の商店街では、店舗前の路上に駐車して買い物できるようにすることが重要だと思う。
 観光バスを降りてから、稚内駅の観光案内所で紹介されたラーメン屋「青い鳥」で塩ラーメン(700円)を食す。若干塩味が強い感じだが、まずますの味だった。
最後の7枚目の写真は、新しくなった稚内駅。感じのいい駅舎ではあるが、最果てのターミナルとして旅情をかきたてる情緒は欠片もない。
 駅と繋がったビルの「キタカラ」には、土産物店と一緒に映画館や介護施設も入っている。この映画館にかかっていたのはつまらないハリウッド映画のロードショウだったが、3万ちょっとの人口の町に映画館があるのは今時貴重なことだ。









 稚内ラーメンで腹ごしらえをして、さてサロベツ原野へ向けて豊富に向かおうとしたとき、改札口で稚内発13:45の「特急サロベツ」が運休(!)していることを知る。
  このあと豊富駅前発15:03の「沿岸バス」で「サロベツ原生花園 サロベツ湿原センター」を訪れる予定だった。この路線バスは日に3本しかなく、それが最終だったので、一瞬アタマが白くなった。 (続く)                                                                                                                                                                                              



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 09:58Comments(0)歩く、歩く、歩く

2013年07月11日

大急ぎ サロベツ原野行(その1)






 早めの夏休みを取り、2年ぶりにJR東日本の「大人の休日倶楽部パス」(東日本・北海道5日間25,000円)を使って北海道を訪れた。その旅行記を掲載する。
 前回の北海道行は、2泊4日で山形と知床半島を往復する旅だったが、今回は3泊4日で稚内の宗谷岬まで往復する行程。宗谷本線の車窓からオホーツク海と利尻島を望み、日本最北のサロベツ原野を歩いてみたいという想いからである。
 計画は、1日目は山形から稚内へ直行して稚内の民宿泊、2日目に観光バスでノシャップ岬と宗谷岬を周り、サロベツ原野の湿原センターを観て原野の中の一軒家の宿「明日の城(じょう)」に宿泊、3日目は旭川の旭山動物園を観て札幌泊、そして4日目に山形へ直帰するという、前回2011年9月の「大急ぎ知床行」と同じく忙しない旅である。

 この旅の記録は、まずそのチケット確保の顛末から書き記さなければならない。
 前回、夜に山形を仙山線で出発し、青森発・札幌行の夜行急行「はまなす」の“カーペットシート”を利用したのだったが、じつは今回も初めはこれを利用しようとした。
 ただし、前回の教訓(ジジババが殺到する!)から、この特別割引パスの期間中に津軽海峡を渡ろうとする旅行者の数と青函を結ぶ列車の輸送力を鑑みると、チケット確保がさらに難しいだろうと考え、指定券が発売される1ヶ月前の日、発売時刻である午前10時の少し前に山形駅のみどりの窓口に並んだのだった。じぶんとしては、こんなふうにきっちりと1ヶ月前の発売時刻に並んでまでチケットを取ろうとするのは初めて。・・・さて、周りを見回すと、同じく大人の休日倶楽部パスで6回まで無料の指定券を取ろうと窓口に並んでいる個人やグループが複数見受けられたのだった。
 じぶんの後ろに並んでいた(1ヵ月後のチケットを購入するのではなさそうな)客の何人かに先を譲り、タイミングを見計らって10時1分くらいに窓口にかぶりつく。そして、「急行はまなすのカーペットシート、上の段があれば上の段をとってください」と注文した。
 ところが、窓口にいた職員は若い男性で、その胸に「実習中」というプレートを付けている。「はまなす」という列車の名称も聞いたことがないようだった。当然、タッチパネルを前に試行錯誤するが入力が叶わない。そこで、この実習生の指導係のこれまた若い男性職員が代わって取組むのだが、彼も手順がわからず、マニュアルらしき分厚いファイルを持ち出したり、先輩に聞いたりしながら対応する始末・・・やっと入力できたのは10時15分くらいで、時既に遅く、「カーペットシートの上の段」はもちろん、カーペットシートの全てが売り切れていたのだった。(が~~ん!)
 「大人の休日倶楽部パス」の販売期間の、それも「10時」という1秒を争う入力が必要な時刻に実習生を窓口に置いておく無神経ぶり。そしてその指導を一人前でない職員にさせているお粗末さ・・・それなのに、「全部塞がってますね」と何の痛痒も感じないような口ぶりをする職員に、「JR山形駅は何を考えているんだ!」と怒鳴りだしたい気持ちだったが、そこをぐぐっと堪え、「そりゃそうでしょう、入力に10分以上もかかっているんだから・・・」などとぶつぶつ言いながら、それでもその日は大人しく立ち去ったのだった。
 というのも、夜行急行「はまなす」の一般シートに座って青函トンネルを越え、さらに稚内まで連続して列車に乗っていくには気力・体力に自信がなく(というのも、前回2泊4日の知床行のあと、不覚にも生まれて初めて帯状疱疹になったのだったから)、やむなく翌朝の出発に切り替えることにしたのだった。
 そこで翌日の午後13時ころ、ふたたび山形駅の窓口に並び、今度は仙台発8:06の東北新幹線「はやぶさ1号」と、それに接続する新青森発10:16の「スーパー白鳥11号」の指定席を申し込んだ。ところが、返ってきた答えは「はやぶさ1号もスーパー白鳥11号もグリーン車以外は埋まっています」というものだった。(がが~~ん!)
 「はまなす」のカーペットシートは1両だけだから、この割引パスの有効期間であればあっという間に売り切れることも頷けたが、「はやぶさ」と「スーパー白鳥」の指定席はかなりの数になるはずである。これが昼までに売り切れたということは、旅行代理店(とりわけ「びゅう」)が大量に仕入れたのではないかと思わざるを得ない。
 やむを得ず、仙台発6:40の「はやて95号」を確保し、青森~函館の間は立ち席を覚悟することにしたのだった。ただし、この仙台発6:40に乗車するためには前日の列車で仙台に行く必要がある。じぶんはネット喫茶というものにどうもいいイメージがないし、長旅の前にマクドナルドで夜明かしするほど体力に自信もなかった。仕方なく、まずは仙台前泊も覚悟で、「はやぶさ1号」のキャンセル待ちをすることに決め、この日も意気消沈しつつみどりの窓口を後にしたのだった。

 さて、だが、この話にはまだ続きがある。
 大人の休日倶楽部パスを購入した際に渡された説明書き(「ご案内」)をよく読んでみると、「盛岡~新青森、盛岡~秋田相互間内は指定席をとらずに普通車の空席を利用できます。また仙台~盛岡間の途中駅に停車する「はやて」で同区間を相互に利用する場合も同様です。」と記されている。
  「盛岡~新青森、盛岡~秋田相互間内」の新幹線は全て指定席で自由席の設定はないのだが、「立ち席」ならこのパスでも乗れるというのだ。これは天の助けとばかりに、ちょうど用事があって立ち寄った天童駅のみどりの窓口で問い合わせてみることにした。というのも、ベテランみたいに見える年齢の男性職員がいたのだったから。
  「ここにこう書いてありますが、これはつまりこのパスがあれば指定が取れなくても乗れるということですか?」と尋ねたところ、しかしその職員はこの記載を初めて読んだ様子。どう扱ったらいいのかわからず、どこかに電話して問い合わせたのだった。・・・その結果、大人の休日倶楽部パスで、盛岡発8:46の「はやぶさ1号」(つまり先に取ろうとした仙台発8:06と同じ便)の「新幹線指定券(立ち席)」というチケットが発券されたのである。
 ところが、その窓口職員は、じぶんの大人の休日倶楽部パスに星印がすでに6つ付いており、つまりは仙台発6:40の「はやて95号」を含めて既に6枚の指定券が発行されていたことを見て取って、「これでは駄目です」というのだった。やむをえず、「はやて95号」をキャンセルするという形で立ち席券を受け取ったのだが、どうも釈然としない。立ち席券は“空いていたら座っていいよ”というチケットなのに、「指定券」扱いされるという点だ。もちろん、「はやぶさ1号」を利用すれば「はやて95号」は利用しないのだが、その分の指定券1枚分の権利は、べつのチケット、たとえば宗谷本線の帰りの特急サロベツの指定券などに活用する必要があったのだ。
 その場は仕方ないと引き下がったが、どうにも納得できないので山形駅のみどりの窓口に再度問い合わせた。すると、やはりこちらでも、この券を発券されれば、それは6枚の指定券の枠に含まれる、そしてこの券を発券されなければ、「はやぶさ」に乗車することはできないと言うのだ。
 たしかにチケットには「新幹線指定券(立ち席)」と記載されている。だが、上記の内容が大人の休日倶楽部パスの説明書きに記してあるということは、「新幹線指定券(立ち席)」を必要とせず、本体パスのみで乗車することができると(つまり本体パスだけで「やまびこ」などの自由席を利用できるのと同じように)解釈すべきではないだろうか。というか、大人の休日倶楽部パスの「ご案内1」から「ご案内2」へと読み進んでくると、そう解釈するのが自然な表記になっている。「指定席をとらずに普通車の空席を利用できます」という記載は、「指定券をとらずに」という意味に解釈するのが妥当だろう。このへんはJR東日本に改善を願いたいものである。

 しかし、まぁ、これでなんとか盛岡から「はやぶさ1号」を利用できることになった。盛岡までの連絡には「やまびこ」の自由席が利用できる。稚内まで5回の乗り換えが必要になったが、これで仙台前泊が回避できることになり、仙台までのチケット代と1泊分の宿泊代が節約できる・・・と、一応は喜んだのだった。(続く)  ※写真は旭山動物園のオオワシ
                                                                                                                                                               
 

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:19Comments(0)歩く、歩く、歩く、