2013年12月26日
シンポ「新生“モンテディオ山形”と地域づくり」に触れつつ
2013年12月21日、山形市の山形国際ホテルで開催された「大学コンソーシアムやまがた」主催(山形県と公益財団法人山形県スポーツ振興21世紀財団が共催)のシンポジウム「新生“モンテディオ山形”と地域づくり」に出かけた。その感想を記す。
まず、全体が分かるように次第から。
主催者挨拶:大学コンソーシアムやまがた会長・山形大学学長・結城章氏。
来賓挨拶:山形県企画振興部長・廣瀬渉氏。
(ここに山大チアダンスサークルの演技が挟まれて、)
基調講演1:「新生“モンテディオ山形”を地域活性化の起爆剤に」株式会社モンテディオ山形社長・高橋節氏。
基調講演2:「新生“モンテディオ山形”が地域にもたらす効果」山形大学人文学部教授・下平裕之氏。
その後、「モンテディオ山形を軸とした地域づくり」というテーマでパネルディスカッションが行われ、山形大学人文学部・立松潔氏を司会として、東北文教大学短期大学部准教授・土居洋平氏、株式会社フィディア総合研究所主事研究員齋藤信也氏、山形県サッカー協会常務理事/Jリーグ・マッチコミッショナー・桂木聖彦氏、株式会社リクルートライフスタイル・じゃらんリサーチセンター研究員・青木理恵氏、東北文教大学短期大学部総合文化学部2年・武田安加氏がパネラーとして発言した。
13:30から16:25まで、実質約150分という時間にこれだけを詰め込んで・・・と、予め想像がついたが、やはり話の内容は上っ面で、しかも新鮮味のないものであった。
とはいいつつも、一応内容に触れていく。
高橋モンテ社社長の講演は、まず山形県の人口の減少(平成32年度には県人口が105万人を切り、65歳以上が3分の1を超える予測)について触れ、モンテの年度別運営規模(収益)の推移グラフと2012年のJ2各クラブの営業費用の比較グラフを示して、モンテの財政規模の小ささを説明し、財政力をつけてJ1に昇格するため「株式会社化」を図ったとする内容だった。
しかし、これらの資料を用いた経営基盤強化の必要性の話は、いままでモンテの中井川GMらが機会あるたびに県内各地で縷々講演してきたもので、新鮮味に欠けるうえ、肝心の「株式会社化」によってどのように収益を上げ、どのようにしてチームを強化してJ1に昇格するかというフロントとしての戦略・戦術については語られることがなかった。
過日、モンテディオ株式会社が県総合運動公園の指定管理者に選定され、これで会社の最低限の経営基盤はできたということだろうが、その先の一手が見えていない。つまり、“何をするための株式会社化なのか”は依然として示されていない。
山形大学の下平教授の講演は、モンテによる経済波及効果について株式会社フィディア総合研究所の試算を紹介するとともに、Jリーグのクラブが「ソーシャル・キャピタル」(SC)の形成に貢献するという研究成果(ヴァンフォーレ甲府やジェフユナイテッド市原・千葉についての先行研究)を紹介したものだった。
モンテの経済波及効果については、「モンテに関するさまざまな消費額」=最終需要は17億2,900万円と算定され、「これらの消費が県内経済に生み出す生産・支出額」=経済波及効果は19億4,700万円となり、186人の雇用を生み、税収を3,700万円増加させているという話だった。
シンポの最後に行われた参加者との質疑応答で、下平教授が引用した経済波及効果に「ダブり計算があるのではないか」と質問され、フィディア総合研究所の齋藤氏が「経済波及効果の計算はそういうものだと思ってください」と答えたが、じぶんはこのやり取りに思わず噴き出しそうになってしまった。
たしかに「経済波及効果」の算定などというものはその程度のものだろう。それは、もっぱら主催者側が自分の実施したイベントや事業を如何にも有益だったのだと主張するための言挙げであり、そもそも客観的に考察すべき立場の者が検証なしに取り上げるべき筋合いのものではない。
しかし、もしじぶんなりに敢えて「総合波及効果36億7,600万円」という算定にケチをつけるとすれば、この種のイベントの経済効果に関する試算は押しなべてそうなのだが、いわば“代替性”を無視していることが根本的な問題ではあるだろう。
つまり、「モンテのゲームがなければ観戦者は他に何も金を使わないのか?」ということである。日曜日に家族でモンテのゲームを観戦して消費支出する人間は、モンテのゲームがなければ海水浴に行くかもしれないし、街で外食するかもしれないし、子どもを連れてリナワールドに遊びに行くかもしれないし、はたまた芋煮会をして酒を飲み代行車まで利用するかもしれない。つまり、モンテのゲームに行くことによって支出する金銭と同じかそれ以上の支出を別のレジャー等に対して行うだろうという想像がつく。
一方、SCの議論については、ある意味でまともに考える価値があると思う。甲府や市原・千葉の事例を持ち出すまでもなく、モンテは“Jリーグで唯一の財団法人”として、とりわけ県や市町村や町内会等が深く関わる組織として、Jリーグのなかでも最もSC的価値の創出を果たしてきたクラブのひとつだと思える。この文脈からモンテを直接対象として論じることこそが求められているのだ。
なお、下平教授は最後の部分で、モンテのゲームの観戦者がスタジアムと自宅の「直行直帰」になっている割合が高い(2013シーズンの最終節・東京V戦観戦者アンケートによる)ので、地域と連携して途中で食事や買い物に立ち寄らせる取組みが必要であると指摘していた。経済効果という視点からみればこのことは重要だが、今はともすれば「新スタジアム問題」というナーバスなところを刺激してしまう論点だった。
パネルディスカッションにおける発言で印象に残ったものを振り替えてみると・・・
じゃらんリサーチセンターの青木氏はじつは雑誌「じゃらん」の編集者だということだったが、データに基づいて、①国内宿泊旅行者をみると年々若年層が減少、②若年層の人口減少をかなり上回って旅行実施者が減少、③Jリーグ観戦者においても40代以上が年々増加し、その平均は39歳。モンテ観戦者の平均年齢は2009年の34.7歳から2012年は41.3歳に。④観戦者の約37%がアウェイ観戦に行っている。・・・などの状況を報告し、20歳をJリーグに無料招待する企画などを実施して誘客に結び付けていると語った。
また、フィディア総合研究所の齋藤氏は、シンクタンクの研究員として分析するにとどまらず、自ら活性化のコーディネーターとして具体的に活動している様子を語った。
山形県サッカー協会常務理事の桂木氏の発言で印象に残ったのは、株式会社化で収益増を図り、その金でチームを強化してJ1昇格を目指すと言っているが、収益増には今までも取り組んできたわけであり、飛躍的な結果が出せるのか疑問に思っていると語った点。この点はじぶんも同感である。ただし、大株主となった「アビームコンサルティング株式会社」からの役員らが、大口スポンサーの獲得に成功した場合は別である。
シンポジウムは、各パネラーが個別の報告を行った後、「新スタジアム問題」については触れないよう配慮しつつ、「若者や学生をホーム・ゲームに動員するにはどうしたらいいか」という点について各自が一言ずつ発言したところで残り時間が10分くらいになり、そこでやっと会場の参加者に発言が許された。
前述の経済波及効果に関する質問者に次いで、天童市の「50年間サッカーを観戦してきた」というモンテ・サポーターが発言し、モンテ創設以来15年間、地元地区で地区民に呼びかけて観客を動員してきたことを受け止めて欲しいと、言外に「新スタジアム問題」への意見を匂わせた話をしたところ、続いて山形市の「北部サポーターズ・クラブ」を立ち上げたという参加者が、「サポーター同士で話すのは“モンテが勝った日はどうする?”ということ。勝っても祝杯を上げる場所がないので、熱が覚めて帰路に着くだけ。山形駅近くなどにスタジアムがあれば経済効果は大きい。」と発言して、やはり・・・という様相になりかけた。
時間切れで論議はそれだけで打ち切りになったが、どうしてもサポーターらの関心の中心は「新スタジアム問題」に向いてしまうようだった。
さて、ここで「モンテと地域づくり」というテーマに関連させて大雑把にじぶんの考えを述べれば、
① 県内からの集客による経済効果(の純増)はあまり期待できない。
② 経済効果が期待できるのは県外からのアウェイ・サポーターだが、これもJ1に昇格しないとそれほど期待できない。つまり、仙台・新潟というダービーマッチの相手やかつての浦和のように関東のビッグ・クラブがJ2に落ちて来ない限り、アウェイ・サポの数は知れている。
③ したがって、モンテの存在意義は経済効果以外の面で考えられるべきである。
④ つまり、それは山形県民や山形県に所縁のある者にとっての精神的・心理的な価値の面で考えられるべきである。
⑤ モンテの価値は、山形県民を心理的に統合し“われわれの地域・山形県”という共通意識を醸成する象徴的機能にある。(県内4つの地域ブロックの意識が強いため、山形県民には“われわれの地域・山形県”という意識が薄いことは以前にこのブログで述べた。)
⑥ 心理的統合の象徴たるべきモンテが、「新スタジアム問題」で地域間の相克を生み出す要因になるのは本末転倒である。ゆえに、Jリーグの要件として「屋根つきスタジアム」の建設が不可避となった場合は、現スタジアムの改修または総合運動公園内への新設で対応すべきである。
・・・というのが、現時点のじぶんの考え方ということになる。
ついでに、今後のモンテの進むべき方向についても述べておきたい。
(1)J1昇格を目指すことは当然だが、よほど気風のいい大スポンサーが現れないかぎりクラブの経営規模を、たとえば現在の2倍以上(仙台並み)にして、J1に長く留まれるようなクラブにすることはかなり難しいだろう。少子高齢化・過疎化の進行によって、山形県の経済規模が縮小していくことも想定しなければならない。新たなスポンサーを必死に開拓したとしても、J2ではこれまでのスポンサーによる支援規模を維持することは次第に難しくなっていくと見ておく必要もある。
したがって、選手らが積極的に地域活動に関わることで「J2モンテ」のサポーターとファンと支持者を増やし、また各人の支持・支援の度合いをランクアップしてもらえるよう、地道な取組みを重ねていくことが何より重要である。
(2)Jリーグは、選手や指導陣の移籍が激しく、クラブの財政力が戦力を決める割合がとても大きい。
財政力でかなわないなら、別の要素で人材を獲得して戦力アップを図ることに力を注ぐべきだ。それはジュニアからユースにおける選手の育成であり、そのための指導者への投資であるだろう。
もちろん、ユースの育成については他のクラブでも力を入れている。しかし、出来上がった選手を「補強」するのにくらべて、この部分になら山形にも競争力が潜在しているはずである。
とくに、地元出身の選手をトップチームに採用し、未熟でも公式戦でプレーさせて中期的に育てていくことが重要である。トップチームの4割くらいを“地元枠”にするくらいの決断をしてもいいと思う。
(3)上記(2)の明確な方針化こそが、(1)の地道な取組みを支える根拠となる。つまり、モンテディオ山形というクラブを「サポーター」や「サッカー・ファン」のものからより広い層のもの、つまり“県民のもの”として根付かせる戦略を講じていくことが重要だ。この意識が広がっていくとき、今も存在している「スタジアムにはなかなか行けないが、ゴール裏のシーズン・シート(25,000円)くらいは購入するよ」という層が増えていくはずである。なお、株式会社化で2015シーズンからチケットを値上げするやの報道があるが、これをやると逆方向にいってしまう可能性もある。
(4)もっとも重要な観点は、「つねにJ1を目指すが、必ずしもJ1に拘らない」という姿勢だと思う。
財政力の弱いプロビンチアであることをしっかりと認識し、しかしそれでも地道な努力をしていれば、小林伸二監督の下でJ1昇格を決めた2008年シーズンのように運が巡ってきて、“はまった指導者”と“はまった選手”が揃う。いわば、「地道な努力が幸運と巡り合ったときJ1に昇格するのだ」くらいに気長に構え、そしてJ1とJ2を行き来する「エレベータ」クラブでいいのだと覚悟を決めること。いや、“エレベータ・クラブだからこそ、われわれのクラブとして支援する意味がある”ことに気づくこと。これがモンテ及びそのサポーターやファンの生きる道だという気がする。
さて話は変わるが、モンテには来年から新たなライバルが出現するかもしれない。
2014年から「ナショナル・バスケットボール・デベロップメント・リーグ」(NBDL)に参入する「パスラボ山形ワイヴァンズ」の存在である。このクラブがどんな姿になるか分からないし、スタートしても軌道に乗れるかどうか不分明でもあるが、もし運営が軌道に乗りトップリーグであるNBLに手が届くところにいけば、小学生、高校生、大学生、社会人などの各層で比較的バスケットボールのレベルが高く、いわばバスケットボール選手供給の素地がある山形県内で注目を集め、とくに村山地域では地元選手が活躍すればプロスポーツとしてモンテに匹敵する人気を得る可能性がある。
NBLには、外人選手枠(2名まで)帰化選手枠(1名まで)の規制があるほか、「サラリーキャップ制」があり、所属選手15名の年俸総額が1億5千万円までと決められているとのことである。パスラボ山形がどれだけ運営費を確保できるか不明だが、「サラリーキャップ制」は山形に大きな可能性を感じさせるルールではあるだろう。(了)
2013年12月10日
モンテディオ山形観照記 2013

モンテは2013年のJ2リーグ戦を10位で終えた。
今シーズンを振り返りつつ、久しぶりにモンテについて述べてみたい。
さて、今シーズンはここまでモンテについて言及してこなかったが、観戦をサボっていたわけではない。
ホームゲームでは、3月17日の第3節・ホーム開幕戦(長崎戦2-0で勝ち)、4月14日のG大阪戦(0-1で負け)、5月3日の富山戦(3-1で勝ち)、6月8日の徳島戦(2-2)、同22日の松本戦(4-1で勝ち)、7月3日の鳥取戦(2-3で負け)、同14日の千葉戦(0-3で負け)、同20日の岡山戦(1-2で負け)、8月11日の草津戦(1-1)、同18日の神戸戦(3-2で勝ち)、9月29日の北九州戦(0-1で負け)、10月27日の愛媛戦(3-0で勝ち)、11月3日の岐阜戦(2-2)、同24日最終節の東京V戦(0-0)、そしてアウェーでは10月6日の横浜FC戦(1-1)と、15ゲームを観戦している。
今シーズンのモンテの戦績は、16勝15敗11分で、勝ち点は59、得点74、失点61。得点はリーグで3番目に多いが、失点も4番目に多い。
じぶんが観戦したゲームの戦績は、5勝5敗5分。うちホームゲームが14試合なのだから、ホームでいまひとつ勝てなかったということである。
観戦していて感じたことを並べてみる。
第一に、奥野監督が目指した攻撃的なチーム作りがある程度奏功して、観ていて面白いチームになった。攻撃陣の中島、山崎、伊東、林らの積極的な動きが魅力だった。とくに中島と山崎の献身的な動きとその運動量には感心した。
しかし、積極的にミドルシュートを放つMFのロメロ・フランクを含め、攻撃陣のシュートの正確さが不足していた。積極的な仕掛けの上に加わるべき個人技に、いまひとつ、いやいまふたつほどの感があった。
また、MFにゲームを組み立てる中心的な存在がいないこと(これはモンテの伝統的な弱みである)が依然として大きな課題である。じぶんのような素人目にはロメロ・フランクの組み立ては雑に見えるし、宮阪にも秋葉にも、その視野の範囲や積極性に不満がある。
そしてDF陣であるが、隙を衝かれたうえに、相手のFWに走り負けるシーンが多かった。
チームが攻撃的になれば、たしかに守備に穴が生まれる。だから失点する。それはある程度受け入れられる。今季のモンテは「守備が問題だった」とか「守備が崩壊した」とか言われるが、じぶんはそれはちょっと違うと思う。もともと相手チームより個人的能力が上の選手を揃えられているわけではないのだから、攻撃的になればその分だけ守備に弱点が生じるのは避けられない。問題は、守備体制が崩れたり相手に弱点を突かれたりしたとき、それを修正する能力である。去年、今年と、これが奥野モンテに欠けていた決定的な要素のように見えた。不利な状況を変える力というか、要素というか、そういうものが足りない。立て直すという“がんばり”が利かない。そのための引き出しがない。
精神主義的に見えるのでこんなことはあまり言いたくないのだが、じぶんには、監督にチームの苦しい状況を立て直しさせる選手たちへの精神的な影響力がないからではないか、と思えた。だから、リードされている状況で選手を交代させても、ほとんどの場合、状況を打開するどころか前より悪くなっているようだった。これは先発した選手と交代出場した選手の能力に格差があるから、ということではないと思われた。
奥野氏は、モンテで初めて監督を務めたという。監督となって初めて迎えた2012年シーズンの前半のモンテの快進撃(シーズン折り返しの夏まで首位をキープ)は強く印象に残っている。夏以降の失速もさらに印象的だったが、コーチを務めた鹿島のようなビッグクラブとは異なる台所の苦しい“プロビンチア”での経験から学ぶことができれば、今後も指導者や指揮官としてステップアップしていくことができると思う。健闘を祈りたい。
さて、2013年はモンテにとって大きな節目の年になるのかもしれない。
というのも、「Jリーグで唯一の財団法人」(公益社団法人・山形県スポーツ振興21世紀協会。略称「スポーツ山形21」)だったクラブの運営主体が、2014年から「株式会社モンテディオ山形」に移行することになったからである。
この運営形態の移行については、サポーターらから「フルモデルチェンジ構想」のときのように活発な賛否の意見や質疑が出されておらず、マスコミ等の報道も表面的な情報伝達で終わっているように見受けられる。だが、もう少し考えてみた方がいいかもしれない。
「スポーツ山形21」は、山形県が前面に出て立ち上げた組織であり、現在の高橋節理事長(前山形県副知事)が就任するまでは、複数あった副理事長ポストのひとつに現役の県副知事が就けられていた。
また、2006年から2011年まで鹿島アントラーズ元専務の海保宣生氏が理事長として招聘されたことを別とすれば、理事長や専務理事などには県幹部退職者の天下り者が多く当てられてきた。このことがクラブの発展にとってどうだったかはしっかり総括されなければならないだろうが、このような人事の体制が“プロ・サッカークラブに県が積極的に関与する”という、いわば約束手形の表現形態だったことを見逃してはならない。すなわち、県などの自治体の財政当局には、常にこの種の団体に対する財政的支援を削減しようとする傾向があるのであり、財団事務局及び県以外の財団役員(県内企業経営者や自治体等)にとっては、クラブの財政面に対して県の積極的関与(=責任)を担保する意味で、このような人事が必要だったと思われる。(もっと極端に言えば、県が逃げるのを防ぐために人事を人質にしていた、とさえ言える。)
理事長が現役の副知事・金森義弘氏だった2004年か05年(厳密な時期は失念)、モンテはシーズン最終盤までJ1昇格を争ったことがあったが、そのとき、金森理事長すなわち金森副知事はJ1におけるクラブ運営の必要額を知り愕然としたと言っていた。私財を供することも含めて、当然ながら捻出方法を真剣に検討していた様子で、J1昇格がならず、正直言ってほっとした、と漏らしていた。
さて、2013年の話である。2期目となった山形県知事・吉村美栄子氏は、突然、副知事の高橋節氏を再任しない(実質的に解雇する)という決断を下して周囲をおどろかせた。高橋氏に天下り先として用意されたのは、スポーツ山形21の理事長職(の継続)だったというわけである。
ところで、2013年のスポーツ山形21の役員名簿を見ると、理事長・高橋節氏、常務理事・中井川茂敏氏(同氏はモンテディオ山形のGM)のほかは皆ヒラの理事で、副理事長はいない。ヒラの理事は13名で、そこに山形市の副市長と県の企画振興部長(県のプロスポーツ振興担当責任者)が入ってはいるが、これで県の人事的な関与は大きく後退した、というふうに見えてしまう。
そして、高橋氏が社長となった「株式会社化」である。資本金は1,000万円で、出資比率はスポーツ山形21が490万円、出資者募集に応じた「アビームコンサルティング株式会社」が490万円、そして山形県は20万円である。この会社の役員には県関係者は皆無であり、そもそもア社以外4人の取締役のすべてが社外取締役である。モンテの運営は、いつの間にか、ほとんど高橋社長個人とアビームコンサルティングから送り込まれる担当役員の意志で決定されていくことになってしまったと考えたほうがいいだろう。
これで確かに「機動的」な組織運営が可能になるだろう。そして、コンサルティング会社のノウハウが経営に活かされる(かもしれない)環境にもなるだろう。だが、これはどこかのクラブの話ではない。“われわれのモンテ”はこれでいいのだろうか。つまり、そこここのクラブと同じでいいのだろうか。
ちょっと目先を変えてみる。
じぶんはこの種の問題に詳しくないからか、まず単純な疑問が湧く。つまり、これまでモンテに対しては県内各地の地域住民や団体、企業、グループ、個人などの<県民>から少なからず「寄付金」(スポーツ山形21への寄付)が寄せられていたわけであるが、今後はモンテへの寄付は「株式会社への寄付」という形になるのだろうか。それともスポーツ山形21への寄付となり、スポーツ山形21から何らかの形でモンテに流されるということになるのだろうか。何れにしても「株式会社への寄付」つまり営利企業への寄付というのは、寄付を呼びかけたり寄付したりする側の意識としてはどうもすっきりしない。
この“すっきりしない”という感じは、<県民>にとっての“われわれのモンテ”が、ひとつ壁を隔てた存在になってしまったということから来るような気がする。
話が飛躍してしまうが、敢えて言うと、この問題はある意味であの「東北芸術工科大学合併問題」と同じ要素を含んでいる。地域住民が、入場料とグッズ代のほかに税金と寄付とで支えてきた“山形県のクラブチーム”が、確かに合法的にではあるけれども、地域住民の知らないところで、いつの間にか“誰かさんのもの”になっていくような気配がある。
この流れに賛成か反対かは別として、また事情を理解していたか理解していなかったかは別として、サポーターや関係者諸氏が2008年の「フルモデルチェンジ構想」のときのように活発に発言しなかったのはなぜだろうか。そのことが気になるといえば気になる。(了)
PS.
一部のサポーターや山形市及び同市商業関係者らのなかで「新スタジアム建設問題」が論じられているが、これに対して高橋社長は近々クラブとしての考え方を示すと言っている。この結果が、たとえば「新スタジアム建設」という方針で、それに応分の県負担を求めるということになったとき、県(つまり吉村知事)とクラブ運営会社(つまり高橋社長)の関係に、さらに距離が生じてしまうような気がする。これが杞憂であることを願いつつ擱筆する。
2013年12月07日
「アンリ・ルソーから始まる素朴派とアウトサイダーズの世界」展

渋谷から東急田園都市線に乗り、初めて用賀駅に降り立った。閑静な住宅街を歩き、砧公園のなかにある世田谷美術館へ。
「アンリ・ルソーから始まる素朴派とアウトサイダーズの世界」(Homage to Henri Rousseau ~The World of Naïve Painters and Outsiders~ 2013年9月14日~11月10日)を観た。その感想を記す。
なお、じぶんが美術展について書いた記事はだいたいがそうであるが、美術展のカタログを購入しそれを改めてじっくり読み、そこにある解説文を参照して記述しているというのではない。展示現場で出品リストのプリントに書き込む簡単なメモと記憶だけから作品に関する情報を記述していることを理解いただきたい。つまり、ここにアップするまで時間が経過している場合は殊更だが、しばしば記憶違いや勘違いをしていそうだということである。
最初に「素朴派」とは何かについてWikipediaから引用すると、「主として、19世紀から20世紀にかけて存在した、絵画の一傾向のこと。『ナイーヴ・アート』(Naïve Art)、『パントル・ナイーフ』(Peintre Naïf)と呼ばれることもある。一般には、画家を職業としない者が、正式の教育を受けぬまま、絵画を制作しているケースを意味する。すなわち、その者には別に正式な職業があることが多い。」とのことで、ここで言う「アウトサイダー」とは、「アウトサイダー・アーティスト」を指し、それは「特に芸術の伝統的な訓練を受けておらず、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した作品」を創る者のことであるようだ。
なお、「フランス人画家・ジャン・デュビュッフェがつくったフランス語『アール・ブリュット(Art Brut、「生の芸術」)』を、イギリス人著述家・ロジャー・カーディナルが『アウトサイダー・アート(英: outsider art)』と英語表現に訳し替えた」とも記載されている。
「アール・ブリュット」といえば、このブログでは先に「岩手県立美術館と『アール・ブリュット・ジャポネ展』」という記事を掲載している。この作品展におけるアール・ブリュットの作品たちがとても印象的だったので、今回の世田谷美術館の展覧会にも期待して出かけたのだったが、ちょっとばかり肩透かしを喰らわされたという感じがする。
さて、「アンリ・ルソーから始まる素朴派とアウトサイダーズの世界」展は、次のような章立てになっていた。
1 画家宣言―アンリ・ルソー―
2 余暇に描く
3 人生の夕映え
4 On the Street, On the Road 道端と放浪の画家
5 才能を見出されて―旧ユーゴスラビアの画家―
6 絵にして伝えたい―久永強―
7 シュルレアリスムに先駆けて
8 アール・ブリュット
9 心の中をのぞいたら
10 グギングの画家たち
「1 画家宣言―アンリ・ルソー―」では、パリ市の税関に22年勤めてから絵を描き始め、1884年に40歳で初めてアンデパンダン展に出品したというアンリ・ルソー(1844-1910)の絵画が4作品展示されている。
「サン=ニコラ河岸から見たシテ島」(1887‐88年頃)は、月とその淡い逆光に照らされた世界を寓話的に描いていて印象に残った。
「2 余暇に描く」では、フランスで庭師の子に生まれ、苗木商だったというアンドレ・ボーシャン(1873-1958)、農夫や道路工事人夫、そして見世物のレスラーなどを経てパリで印刷工となったカミーユ・ボンボワ(1883-1970)、パリで郵便配達人をしていたルイ・ヴィヴァン(1861-1936)、イタリアで靴のデザイナーとして名を成していたオルネオーレ・メテルリ(1872-1938)、雇われ農夫だったピエトロ・ギッザルディ(1906-1986)、そして英国の首相だったサー・ウィンストン・S.チャーチル(1874-1965)らの作品が並べられている。
アンドレ・ボーシャンの作品「ばら色の衣装をつけた2人の踊り子」(1928)や「地上の楽園」(1935)はまさに“素朴”というほかない画風だが、そこに描かれた人物が白人のようではないのが印象的である。
カミーユ・ボンボワ「三人の盗人たち」(1930)は、3人のスカートを穿いた女たちを描いているが、ひとりはスカートの中のズロースが見えそうに、もうひとりは草叢に尻をついていて股から尻が見えそうに描かれている。このいかにも下品そうな女たちが何を盗んだのかに想いを馳せてしまう。
ルイ・ヴィヴァンの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1925)、「メドラノ・サーカス」(1931)、「凱旋門」(1935)などの油彩画は、小学生のおでかけ絵日記を少しだけ緻密にしたような作品である。
カミーユ・ボンボワやルイ・ヴィヴァンは、モンマルトルの街頭に自分の絵を並べていたところを批評家に注目され「聖なる心の画家」として取り上げられたという。
ピエトロ・ギッザルディは、古紙のダンボールに植物、果物、ワイン、血、煤などで人物を描いた。「公爵夫人」(1969)、「ロマの女」(1970)などは女性の顔が網のような線で描かれている。上流階級の人妻も最下層のジプシー女も、彼にとっては等しく憧れと欲情の対象だったのかもしれないし、逆に宇宙人のように不可思議な生物だったのかもしれない。
さて、この章は、カミーユ・ボンボワ、ルイ・ヴィヴァン、ピエトロ・ギッザルディら下層階級出身者の作品と、政界引退後に大規模な個展を開催したチャーチルの風景画を「余暇に描いたもの」という括りで並べてみせたところが、まぁ面白いと言えば面白いのだが、やはりちょっと無理があって、展示された順番どおりに作品を観ていく多くの観覧者に、展覧会としての構成が散漫になっている印象を与えもする。チャーチルが「アウトサイダー」だというなら、美術学校を出ていない絵描きのことはみんな「アウトサイダー」と呼ばなければならなくなる。社会的存在としてはもちろん、その風景画の画風からしても、チャーチルを「アウトサイダー」と呼ぶことはできないだろう。
「3 人生の夕映え」では、己が人生で苦難や不幸を味わったひとびとが晩年に絵に熱中して描いた作品が取り上げられている。
この章で印象的だったのは、脳溢血になってリハビリのために石を彫り始め、やがて絵を描くようになった塔本シスコ(1913-2005)の油彩画「秋の庭」(1967)である。

「4 On the Street, On the Road 道端と放浪の画家」では、アラバマの奴隷の子として生まれ、リューマチになって妻を亡くしたことを期に85歳で突然絵を描き始めたビル・トレイラー(1854-1947)の「人と犬のいる家」(製作年不詳)、60歳を過ぎてから突然描き始めたというウィリアムス・ホーキンズ(1895-1990)の「スネーク・レスラー」(1988)「バッファロー 6」(1989)などに視線が向かう。
「スネーク・レスラー」は黒いレスラーが大蛇に巻きつかれて格闘している姿で、その作風にはポップアートの要素があって既視感を抱く。「バッファロー 6」はメゾナイトにエナメル、トウモロコシ粉などで描かれた立体画。バッファローの頭部が岩のように異様に大きく張り出しており、下腹部には男性器も描かれている。その重量感や激情性の感受と対照的に、色彩やマチエールにおける常識との不整合性には、ある種の繊細さをもって神経の敏感な部分を逆撫でされるような感じがする。
なお、この章には、名の売れた山下清(1922-1971)の「晩秋」(1940-1956)やジャン=ミシェル・バスキア(1960-1988)の「無題」(1985)も展示されている。山下の貼り絵作品の手作業としての緻密さとバスキア作品の薬物中毒的な匂いには引き込まれないこともないが、どちらも彼らの作品の中ではあまり印象に残る部類の作品ではない。
「6 絵にして伝えたい―久永強―」は、1945年から49年までシベリアに抑留された久永強(1917-2004)の絵画作品30点で構成されている。
久永は、1987年に下関で開催された香月泰男の個展で「シベリア・シリーズ」を観て、「これは私の知るシベリアではない。私のシベリアを描かなければならない。」と思い立ち、43点の作品を製作したという。
画風は素朴で淡々としているが、各作品に付されている作者のコメント(描かれているラーゲリ生活や森林伐採の強制労働の様子そして死んだ同胞についての説明)を読みながら作品を眺めていると、この作品の素朴さこそが、すぐそこにある死、それもボコボコと日常的に訪れる死の感触を、鑑賞者にも忌避できないものとして伝えてくるのだとわかる。
「7 シュルレアリスムに先駆けて」では、草間彌生(1929- )のコラージュ作品「ねぐらにかえる魂」(1975)、「君は死して今」(1975)、「夜、魂のかくれ場所で」(1975)が印象的だった。
「ねぐらにかえる魂」は鳥の目のコラージュ。「君は死して今」では、鳥の死骸から球のような魂が空へ上っていくところが描かれており、「夜、魂のかくれ場所で」では、木の幹にフクロウたちがぎっしりと詰められている。草間彌生というと、どうしても水玉模様やどぎつい色彩のオブジェを想起してしまうが、これらの作品では、フクロウたちが、デフォルメされないまま、いわば実写的に描かれている。これらの作品は草間彌生風の“これ見よがしなどぎつさやあざとさ”をもった作品ではないが、むしろこれら方が、少女時代から統合失調症を患っていたという草間自身の幻視体験に近いのかもしれない・・・などと思えてくる。
ただし、草間は美術学校を出て、若くして職業芸術家としてのスタートを切った人物であるから、「アウトサイダー」というわけではないだろう。ここに挿入する必然性があったのか疑問である。
「8 アール・ブリュット」に区分されている作品は僅かに3点で、いずれも印象に残っていない。キュレーターが「アール・ブリュット」をどのような定義でとらえているのかもはっきりしない。
そのことは作家4人の9作品を展示している「9 心の中をのぞいたら」についても言える。このなかでは、メキシコからカリフォルニアにやってきて精神病を病んだといわれるマルティン・ラミレス(1885-1960)の絵画作品「無題(ボート)」(1950)が印象的だった。
最終章は「10 グギングの画家たち」。
ここでいう「グギング」とは、精神病院の中の患者たちのためのアトリエ「グギング芸術家の家」のこと。
ヨハン・ハウザー(1926-1996)はスロバキア生まれ。17歳から精神科に掛かり、1947年から精神病院に入院している。 「悪魔の姿をした女」(1989)は朱色とオレンジ色で描かれたまさに悪魔のような女で、その毛髪はそれ自体が別個の生き物であるかのうように活発に繁茂している。「婦人」(1974)に描かれた人物はほとんどゴリラ、それも赤い毛むくじゃらのゴリラである。
オスヴァルト・チルトナー(1920-2007)はオーストリア生まれ。ドイツ軍の一員として第二次大戦のスターリングラード攻防戦に臨み、フランスの捕虜となって精神に異常をきたす。戦後すぐ精神病院に入院し、1981年からは亡くなるまで「グギング芸術家の家」で過ごしたという。
「婦人(G.クリムトを模して)」(1973)は、頭部と足しかない横向きの人物像を、極端に縦方向に引き伸ばして描いている。たしかにクリムトは人物を縦長に造形しているが、この作品からクリムト作品を想像することはできない。
さて、これらの章立てからみると、自分としては第7章から第10章までにとくに期待する気持ちで観て廻ったが、これらの章も、また展覧会全体としても、いまひとつパッとしない印象を受けた。なにしろ「素朴派」なのだから、それほどパッとしたりハッとしたりする作品はないのかもしれないが、「アール・ブリュット」や「アウトサイダー・アート」の作品には、もっともっと惹きつけられるものがあるはずだと自分に言い聞かせながら観て歩いた。しかし、その期待は叶えられなかった。
この原因は、ひとつには自分自身の方にあり、つまりは、岩手県立美術館の『アール・ブリュット・ジャポネ展』の印象が強く残っていて、その印象に釣り合う作品を探し求めてしまったという事情である。しかし、その一方で、そのことを割り引いても、やはりこの展覧会は芯が細く、かつは全体として散漫だったという感じがする。
企画者は、その解釈に対する批評を恐れることなく、「アウトサイダー・アート」におけるいくつかの要素をしっかりと提示したうえで、各章の章立て(つまり分類)の意図をその要素との関連で明示し、それに沿って作品をもっとポジティブに提出すべきだっただろう。
世田谷美術館は「素朴派」や「アウトサイダー・アート」をコレクションしているようだが、この機になるべく多くの作品を展示しようと考えたのかもしれない。集客に難がありそうな「旧ユーゴスラビアの画家」や「久永強」を含めたことはいいとしても、それ以外のメインの章でガツンとやってほしかったという(観客としての身勝手な)想いが湧き、すでに真っ暗になっていた用賀駅までの帰り道がやや遠く感じられたという訳である。 (了)