2015年03月28日
季刊「びーぐる」第26号、「山形詩人」87・88号
ひさしぶりに、詩人としてのアリバイ証明を・・・・・
季刊「びーぐる 詩の海へ」第26号(2015年1月20日)に、詩「抱擁論」を発表。
「びーぐる」は一般書店でご注文を。
「山形詩人」第87号(2014年11月20日)に、詩「午後の航行、その後の。」
同第88号(2015年2月20日)に、詩「再生論」 を発表しています。
「山形詩人」ご希望の方は「オーナーへメール」のボタンからメールにて連絡ください。
2015年03月22日
東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その3
東北芸術工科大学卒業・修了展(2015年2月10日~15日)の感想記。
その3は、建築・環境デザインの作品について。
と、そのまえに覗いたプロダクトデザインの作品全体についての感想を述べておきたい。
上の写真がプロダクトデザイン作品の展示会場(体育館)。
たくさんの来場者がいて、作品のまえで作者から説明を受けながら鑑賞している。この学科の学生たちはプレゼンの実習をこなしているからか、接客態度に好感が持て、説明も流暢である。
実際の製品化を念頭に企業とコラボした作品はもとより、全体としてコンセプトが商品化を前提とした現実的なものばかりだという印象である。この“現実化”は、今年度はやや顕著で、良く言えばデザイナーとしての実践教育が奏功しているということなのだろうが、悪く言えば小さくまとまっていて全体としてちょっと面白味に欠けたという印象を与える。このブログで取り上げたいと思わせられる作品に出会わなかった。
また、以下に述べる建築・環境デザインやプロダクトデザイン、そして企画構想の作品(今年は観る時間がなかった)などについては、観客が作者に対してもっと批評的に感想を言い、作者と意見交換してもいいのではないかと思う。これらの作品は、いわゆる芸術作品として自立しているものではなく、利用者・関係者との相互作用のなかで成立する性質のものだからである。
ということで、最後に建築・環境デザインの作品から。
吉田百合絵「日はまた昇る ~50年の建築の物語~ 」
2055年から2105年にかけて建てるピラミッドというコンセプト。「原発事故で放射能の影響を受け、鎖国した日本がもう一度再建するときの建築です。」とコメントされている。
小説で物語(時代状況など)を書き、その物語のなかの建築を模型でデザインするという斬新な試みである。
上に述べた「これらの作品は、いわゆる芸術作品として自立しているものではなく、利用者・関係者との相互作用のなかで成立する性質のもの」という言葉を、ここですぐさま撤回しなければならない。
平壌にこんな形の高層ホテルがあったかと思うが、「放射能の影響を受ける地上に住み続けるの?」とか、「人口減少が進む地震国で高層建築に拘る理由は?」などという突っ込みを寄せ付けない自立した作品である。
古山紗帆「月と生活 ~地球のリズムに準ずる人間の暮らし~」
限られた土地にコテージ風の住居を近接して設置し、そのいずれもから月の姿を眺められるように(そしておそらくは相互に家の中の様子は見えないように)配置した作品。「住民同士はドライな関係でありながら他者を感じることができる豊かな暮らし」の提案だという。
関係意識についての観念を、月を媒介として建築・環境デザインに物質化したところがミソである。
「どの家からも富士山が見える」などというのなら解り易いが、月というのはようするに“ルナティック”なものなのだから、ここには幾許かの危うさや物狂おしさが孕まれているだろう。
都会的な、というよりもヤッピー的な関係意識(への願望)はよく伝わってくる。しかし、「毎晩同じ月を眺めることで他者の存在を感じる」というのは、これが非日常的な時間を過ごす別荘地であるなら理解できるのだが、子育ても介護もしなければならない一般の住宅地についての提案であるとしたら、ちょっと異和を感じざるをない。
とはいうものの、ひとまずはこのように関係意識や価値観をストレートに模型に形象化できることが、優れたデザイナーの要素であることは疑えない。
もっとも、このデザインの場合は、個々の建物に月を眺めるための大きな窓をとっているが、他の建物からリビング等を覗かれないため、建物相互の位置取りや個々の建物における窓の取り方をいろいろと検討しているから、結果としては「ストレートに」形象化したということにはならないかもしれないが。
鈴木いずみ「地方都市におけるストック利用の住まい方 ~廃病院のコンバージョン~」
郡山市の太田記念病院という、実際に存在した病院の建物の再利用を提案する作品である。
切実な課題に対する提案であり、「現実的」な作品だといえるが、「廃病院」という陰湿なイメージを払しょくして有効活用する(とくに住居として利用する)のはそれほど容易なことではない。
作者は、この病院の上層階をシェアハウスにするということで比較的若い世代を引き込み、建物全体のイメージの刷新を図ろうとしている。 中層階は賃貸住宅にとの考え方だが、シェアハウスに人が入らないとこの賃貸部分を埋めることも難しいだろうから、シェアハウスの成否がキモになると思われる。
模型では、シェアハウスの部分に談話スペースや図書室みたいなスペースを確保して居住空間としての魅力を創ろうとしているが、これがただの「寮」とどう違う雰囲気を醸し出せるのか、展示内容からは(つまり部屋割の空間構成からは)分からなかった。
ついでに言うと、この建物の管理主体はどうで、維持費はどのくらいで、入居費用はそれぞれいくらくらいか、などが(郡山市の実態を踏まえて)示されるともっと面白かった。
しかし、こうした地味で難しい現実的課題にチャレンジする学生がいるのは嬉しいことである。
さて、今年は例年以上に鑑賞の時間が取れず、全体のごく一部しか観て回ることができなかった。
とくに企画構想と映像についてはほとんど観ることができず、残念だった。
卒業する学生の前途に幸多かれと祈念しつつ、擱筆する。(了)
その3は、建築・環境デザインの作品について。
と、そのまえに覗いたプロダクトデザインの作品全体についての感想を述べておきたい。
上の写真がプロダクトデザイン作品の展示会場(体育館)。
たくさんの来場者がいて、作品のまえで作者から説明を受けながら鑑賞している。この学科の学生たちはプレゼンの実習をこなしているからか、接客態度に好感が持て、説明も流暢である。
実際の製品化を念頭に企業とコラボした作品はもとより、全体としてコンセプトが商品化を前提とした現実的なものばかりだという印象である。この“現実化”は、今年度はやや顕著で、良く言えばデザイナーとしての実践教育が奏功しているということなのだろうが、悪く言えば小さくまとまっていて全体としてちょっと面白味に欠けたという印象を与える。このブログで取り上げたいと思わせられる作品に出会わなかった。
また、以下に述べる建築・環境デザインやプロダクトデザイン、そして企画構想の作品(今年は観る時間がなかった)などについては、観客が作者に対してもっと批評的に感想を言い、作者と意見交換してもいいのではないかと思う。これらの作品は、いわゆる芸術作品として自立しているものではなく、利用者・関係者との相互作用のなかで成立する性質のものだからである。
ということで、最後に建築・環境デザインの作品から。
吉田百合絵「日はまた昇る ~50年の建築の物語~ 」
2055年から2105年にかけて建てるピラミッドというコンセプト。「原発事故で放射能の影響を受け、鎖国した日本がもう一度再建するときの建築です。」とコメントされている。
小説で物語(時代状況など)を書き、その物語のなかの建築を模型でデザインするという斬新な試みである。
上に述べた「これらの作品は、いわゆる芸術作品として自立しているものではなく、利用者・関係者との相互作用のなかで成立する性質のもの」という言葉を、ここですぐさま撤回しなければならない。
平壌にこんな形の高層ホテルがあったかと思うが、「放射能の影響を受ける地上に住み続けるの?」とか、「人口減少が進む地震国で高層建築に拘る理由は?」などという突っ込みを寄せ付けない自立した作品である。
古山紗帆「月と生活 ~地球のリズムに準ずる人間の暮らし~」
限られた土地にコテージ風の住居を近接して設置し、そのいずれもから月の姿を眺められるように(そしておそらくは相互に家の中の様子は見えないように)配置した作品。「住民同士はドライな関係でありながら他者を感じることができる豊かな暮らし」の提案だという。
関係意識についての観念を、月を媒介として建築・環境デザインに物質化したところがミソである。
「どの家からも富士山が見える」などというのなら解り易いが、月というのはようするに“ルナティック”なものなのだから、ここには幾許かの危うさや物狂おしさが孕まれているだろう。
都会的な、というよりもヤッピー的な関係意識(への願望)はよく伝わってくる。しかし、「毎晩同じ月を眺めることで他者の存在を感じる」というのは、これが非日常的な時間を過ごす別荘地であるなら理解できるのだが、子育ても介護もしなければならない一般の住宅地についての提案であるとしたら、ちょっと異和を感じざるをない。
とはいうものの、ひとまずはこのように関係意識や価値観をストレートに模型に形象化できることが、優れたデザイナーの要素であることは疑えない。
もっとも、このデザインの場合は、個々の建物に月を眺めるための大きな窓をとっているが、他の建物からリビング等を覗かれないため、建物相互の位置取りや個々の建物における窓の取り方をいろいろと検討しているから、結果としては「ストレートに」形象化したということにはならないかもしれないが。
鈴木いずみ「地方都市におけるストック利用の住まい方 ~廃病院のコンバージョン~」
郡山市の太田記念病院という、実際に存在した病院の建物の再利用を提案する作品である。
切実な課題に対する提案であり、「現実的」な作品だといえるが、「廃病院」という陰湿なイメージを払しょくして有効活用する(とくに住居として利用する)のはそれほど容易なことではない。
作者は、この病院の上層階をシェアハウスにするということで比較的若い世代を引き込み、建物全体のイメージの刷新を図ろうとしている。 中層階は賃貸住宅にとの考え方だが、シェアハウスに人が入らないとこの賃貸部分を埋めることも難しいだろうから、シェアハウスの成否がキモになると思われる。
模型では、シェアハウスの部分に談話スペースや図書室みたいなスペースを確保して居住空間としての魅力を創ろうとしているが、これがただの「寮」とどう違う雰囲気を醸し出せるのか、展示内容からは(つまり部屋割の空間構成からは)分からなかった。
ついでに言うと、この建物の管理主体はどうで、維持費はどのくらいで、入居費用はそれぞれいくらくらいか、などが(郡山市の実態を踏まえて)示されるともっと面白かった。
しかし、こうした地味で難しい現実的課題にチャレンジする学生がいるのは嬉しいことである。
さて、今年は例年以上に鑑賞の時間が取れず、全体のごく一部しか観て回ることができなかった。
とくに企画構想と映像についてはほとんど観ることができず、残念だった。
卒業する学生の前途に幸多かれと祈念しつつ、擱筆する。(了)
2015年03月12日
東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その2
東北芸術工科大学卒業・修了展(2015年2月10日~15日)の感想記。
その2は、版画、彫刻、工芸、テキスタイルの作品について。
まずは、版画から。
村上悠太「ぱじゃまんはしろたんがすき! しろたんはぱじゃまんがすき!」
奥行きある構図と事物の立体的な描写が、ひとつの自立した仮構世界を産みだしている。
アニメやSFに影響を受けた子ども時代をあからさまに保存しつつ、成長して初めて感受する世界の奥行き、それがもつエロス的魅力、そしてその世界を遠くまで歩いていこうとする者が抱く途方もない行路(=人生)への想い・・・、それらの錯綜した感懐が繊細に描き込まれている。
秋庭麻里「石ヶ戸」
どちらも水性木版で描かれた「イシゲド」という題の作品とこの「石ヶ戸」という題の作品が並べて展示されている。ここに掲げたのは「石ヶ戸」という作品の方である。
作者は、多色刷り木版は大木や巨石との「会話」だという。グレーが基調の「大木」(倒木?)や「巨石」らしき物体に淡い紅系や橙系の模様が重ねられることで、それら「大木や巨石」が立体的な存在感を高め、まるで水底を移動する魚のようにも見えてくる。
後ろの灰色系と手前の紅色・橙色系の重ね刷りが、描かれた物体に奥行きを与え、しかもアダジェットほどの速度で移動しているかのような気配を感じさせる。
次は彫刻、工芸、テキスタイルの作品から・・・
山本雄大「たとえ」
木章(クスノキ)、木品(シナノキ)の木彫作品。
巨大な角のある型動物の頭蓋骨を、上顎の部分から頭部の部分を中心に描いたかのような作品である。これを動物の骨格だと思って観察すると、細部までデザインが行き届いていてこのような未知の生物が存在したかのようなリアリティを感じるのだが、しかしその一方で、このように立てて展示されていると、角の部分が足のようにも見えて、じつに奇妙な生物(あるいは静物)に見えてくる。
作者は彫刻において仮構されたリアリティに拘りつつも、そのリアリティを否定するような、というかこの作品が抽象的なオブジェであるかのような見せ方をしている。
沼澤早紀「Cell」
墓石に使われる黒御影の浮金石(うきがねいし)=福島県産の斑レイ岩の彫刻。
頭部の大きな人間が複数くっついて(融合して)いるように見える。まるでシャム双生児の妊娠初期の胎児みたいな姿である。
くぐもった姿勢あるいは異形の胎児のような形態と、この素材がもつ密度感=重力感、そしてこの素材の表面の荒削りさからくる非人工感が、内部生命の力動を感じさせる。
このように地味で解釈の難しい作品をあえて卒業制作展に出品するというのは、なかなかのチャレンジだと思う。
高木しず花「お食事こうでねえと土鍋」
工芸コースの作品。・・・ユニークな形と彩色の土鍋たちである。
蓋に江戸期の古地図を描いたもの、同心円の的を描いたもの、蓋の取手の部分が水道の蛇口になっているものなど、面白いデザインの土鍋たちが並んでいる。上の写真の手前から2つ目は、大きさの異なる4つの土鍋が並べて置いてあるようにみえるが、この4つはくっついているのである。
日常で使用する土鍋としていちばんいいかなと思うのは、古地図を描いた土鍋。古地図のデザインがそのまま土鍋のデザインとして活かされていて、そこからなんとなく温かみを感じる。
東海林緑「溶けるの、まって」
器の中に凍って浮かんでいた植物をずっと見ていたくて、その形状をガラスで作成したという作品である。いくつか展示されていた作品のなかから、いちばん氷漬けっぽく見えるものの写真を上げた。
凍った植物は、その氷が溶けるとしんなりする。凍結によって一時はなにか芯のようなものが通ったかのように凛とした美しさを発するのだが、実は凍ることですでに自らの核心部を台無しにされてしまっている。
ガラス工芸の修得過程の実習作としてみればほほえましいものだが、これを自立した作品だとして見せられると意外にもけっこう複雑な障りに襲われる。
高橋さとみ「スリップウェア大皿」
「スリップウェア」とは、イギリスの日用雑貨に用いられる技法で、成型した器にクリーム状にした粘土で模様を描くものだという。
これらの作品は、遠目からは一見民芸調の落ち着いたデザインの器にみえるが、近づいてよく紋様をみると、3作品ともこれがなかなか毒々しい。
作者は、これを日用品または民芸品として製作したのか、それともオブジェとして製作したのか・・・と想いを巡らせてしまう。
遠藤綾「Breath」
「再生と循環」がテーマだというオブジェ。
発想と形状は単純なのだが、ドラム缶から蔓のような触手が伸びる異様な形状に目をとめると、ついつい引き込まれてしまう。この黒色の触手が妙にリアリティをもって迫ってくる。
この作者にとって、「再生」や「循環」は、物質の分子の変化という物理化学的な概念と、なにか力動的な同一性が形状や弾性をかえて生き延びていくという観念的な概念が接続されたものなのである。
高橋由衣「糸世」
“きづな”という題のオブジェ。
半分くらいに割った卵の殻を、ヘビの鱗のように繋ぎ合わせて作られている。
「食べられる命の存在を忘れずに尊び、また自身の生命の在り方を考えるきっかけになるよう制作した」とコメントが付されている。
そこには、この大量の卵の殻をどこからもらったかの記載もあるが、実物としての質感は作品に活かしつつも、卵の殻はあくまでも「生命」それ自体ではなく、「生命」の“比喩”まで高められなければならないはずだ。(なぜなら、私たちが食べている卵は無精卵であって、独自の「生命」にはなりえないものだから。)
なんとなく既視感はあるものの、それでもこの作品はそのボリュームも相俟って展示物としての存在感を放っている。
永山実沙希「パーソナルスペース」
洋式便器が置かれた狭い箱の空間。箱の内側には様々な画像の断片が貼り付けられ、便器の上の天井にはアニメーションが映写されている。パーソナルスペースとは「心理学の概念で、具体的には前後1mくらい、(中略)この空間は自分の縄張りのようなもので、この範囲に他人が入ってくると、緊張したり、不快感を覚えます」とのこと。
個室の内側に写真やイラストなどの画像をびっしり貼り付けるインスタレーションやオブジェはしばしば見かける。言い換えれば、作品としてのオリジナリティがないということになる。
しかし、この作品は、なぜか、既成の画像やイメージで埋め尽くされた個室の便器に座っている作者(または鑑賞者)の存在を(座ってみろと掲示があるにもかかわらず)想像させはしない。
このオリジナリティなき「パーソナルスペース」は、それ自体が「パーソナルスペース」の不在を表現している。おそらく作者は無意識のうちに、「パーソナル」なスペースを離脱して、どこかに行ってしまっているのである。だから、観客に“ここに座ってみて”と呼びかけているのだ。
その2は、版画、彫刻、工芸、テキスタイルの作品について。
まずは、版画から。
村上悠太「ぱじゃまんはしろたんがすき! しろたんはぱじゃまんがすき!」
奥行きある構図と事物の立体的な描写が、ひとつの自立した仮構世界を産みだしている。
アニメやSFに影響を受けた子ども時代をあからさまに保存しつつ、成長して初めて感受する世界の奥行き、それがもつエロス的魅力、そしてその世界を遠くまで歩いていこうとする者が抱く途方もない行路(=人生)への想い・・・、それらの錯綜した感懐が繊細に描き込まれている。
秋庭麻里「石ヶ戸」
どちらも水性木版で描かれた「イシゲド」という題の作品とこの「石ヶ戸」という題の作品が並べて展示されている。ここに掲げたのは「石ヶ戸」という作品の方である。
作者は、多色刷り木版は大木や巨石との「会話」だという。グレーが基調の「大木」(倒木?)や「巨石」らしき物体に淡い紅系や橙系の模様が重ねられることで、それら「大木や巨石」が立体的な存在感を高め、まるで水底を移動する魚のようにも見えてくる。
後ろの灰色系と手前の紅色・橙色系の重ね刷りが、描かれた物体に奥行きを与え、しかもアダジェットほどの速度で移動しているかのような気配を感じさせる。
次は彫刻、工芸、テキスタイルの作品から・・・
山本雄大「たとえ」
木章(クスノキ)、木品(シナノキ)の木彫作品。
巨大な角のある型動物の頭蓋骨を、上顎の部分から頭部の部分を中心に描いたかのような作品である。これを動物の骨格だと思って観察すると、細部までデザインが行き届いていてこのような未知の生物が存在したかのようなリアリティを感じるのだが、しかしその一方で、このように立てて展示されていると、角の部分が足のようにも見えて、じつに奇妙な生物(あるいは静物)に見えてくる。
作者は彫刻において仮構されたリアリティに拘りつつも、そのリアリティを否定するような、というかこの作品が抽象的なオブジェであるかのような見せ方をしている。
沼澤早紀「Cell」
墓石に使われる黒御影の浮金石(うきがねいし)=福島県産の斑レイ岩の彫刻。
頭部の大きな人間が複数くっついて(融合して)いるように見える。まるでシャム双生児の妊娠初期の胎児みたいな姿である。
くぐもった姿勢あるいは異形の胎児のような形態と、この素材がもつ密度感=重力感、そしてこの素材の表面の荒削りさからくる非人工感が、内部生命の力動を感じさせる。
このように地味で解釈の難しい作品をあえて卒業制作展に出品するというのは、なかなかのチャレンジだと思う。
高木しず花「お食事こうでねえと土鍋」
工芸コースの作品。・・・ユニークな形と彩色の土鍋たちである。
蓋に江戸期の古地図を描いたもの、同心円の的を描いたもの、蓋の取手の部分が水道の蛇口になっているものなど、面白いデザインの土鍋たちが並んでいる。上の写真の手前から2つ目は、大きさの異なる4つの土鍋が並べて置いてあるようにみえるが、この4つはくっついているのである。
日常で使用する土鍋としていちばんいいかなと思うのは、古地図を描いた土鍋。古地図のデザインがそのまま土鍋のデザインとして活かされていて、そこからなんとなく温かみを感じる。
東海林緑「溶けるの、まって」
器の中に凍って浮かんでいた植物をずっと見ていたくて、その形状をガラスで作成したという作品である。いくつか展示されていた作品のなかから、いちばん氷漬けっぽく見えるものの写真を上げた。
凍った植物は、その氷が溶けるとしんなりする。凍結によって一時はなにか芯のようなものが通ったかのように凛とした美しさを発するのだが、実は凍ることですでに自らの核心部を台無しにされてしまっている。
ガラス工芸の修得過程の実習作としてみればほほえましいものだが、これを自立した作品だとして見せられると意外にもけっこう複雑な障りに襲われる。
高橋さとみ「スリップウェア大皿」
「スリップウェア」とは、イギリスの日用雑貨に用いられる技法で、成型した器にクリーム状にした粘土で模様を描くものだという。
これらの作品は、遠目からは一見民芸調の落ち着いたデザインの器にみえるが、近づいてよく紋様をみると、3作品ともこれがなかなか毒々しい。
作者は、これを日用品または民芸品として製作したのか、それともオブジェとして製作したのか・・・と想いを巡らせてしまう。
遠藤綾「Breath」
「再生と循環」がテーマだというオブジェ。
発想と形状は単純なのだが、ドラム缶から蔓のような触手が伸びる異様な形状に目をとめると、ついつい引き込まれてしまう。この黒色の触手が妙にリアリティをもって迫ってくる。
この作者にとって、「再生」や「循環」は、物質の分子の変化という物理化学的な概念と、なにか力動的な同一性が形状や弾性をかえて生き延びていくという観念的な概念が接続されたものなのである。
高橋由衣「糸世」
“きづな”という題のオブジェ。
半分くらいに割った卵の殻を、ヘビの鱗のように繋ぎ合わせて作られている。
「食べられる命の存在を忘れずに尊び、また自身の生命の在り方を考えるきっかけになるよう制作した」とコメントが付されている。
そこには、この大量の卵の殻をどこからもらったかの記載もあるが、実物としての質感は作品に活かしつつも、卵の殻はあくまでも「生命」それ自体ではなく、「生命」の“比喩”まで高められなければならないはずだ。(なぜなら、私たちが食べている卵は無精卵であって、独自の「生命」にはなりえないものだから。)
なんとなく既視感はあるものの、それでもこの作品はそのボリュームも相俟って展示物としての存在感を放っている。
永山実沙希「パーソナルスペース」
洋式便器が置かれた狭い箱の空間。箱の内側には様々な画像の断片が貼り付けられ、便器の上の天井にはアニメーションが映写されている。パーソナルスペースとは「心理学の概念で、具体的には前後1mくらい、(中略)この空間は自分の縄張りのようなもので、この範囲に他人が入ってくると、緊張したり、不快感を覚えます」とのこと。
個室の内側に写真やイラストなどの画像をびっしり貼り付けるインスタレーションやオブジェはしばしば見かける。言い換えれば、作品としてのオリジナリティがないということになる。
しかし、この作品は、なぜか、既成の画像やイメージで埋め尽くされた個室の便器に座っている作者(または鑑賞者)の存在を(座ってみろと掲示があるにもかかわらず)想像させはしない。
このオリジナリティなき「パーソナルスペース」は、それ自体が「パーソナルスペース」の不在を表現している。おそらく作者は無意識のうちに、「パーソナル」なスペースを離脱して、どこかに行ってしまっているのである。だから、観客に“ここに座ってみて”と呼びかけているのだ。