2015年02月06日

和合亮一 福島を語る「詩の礫」朗読会






和合亮一 福島を語る「詩の礫」朗読会in 寒河江

 去る2015年1月31日(土)、寒河江市立図書館において、「和合亮一福島を語る『詩の礫』朗読会」が開催された。
 東日本大震災と福島原発事故を題材に、詩と詩以外の多くの言葉を発している和合亮一という詩人の肉声に触れてみたいと思い、山形からJR左沢線で出かけた。山形に暮らしてだいぶ長くなるが、左沢線に乗るのはこれが初めてだったかもしれない。中高年を中心に80人ほどの聴衆がいた。

 
 和合氏の話の過半は、以下のような山形との関わりについてだった。
 震災のとき、同氏は奥さんと息子さんの3人で福島市内の県教職員アパートに住んでいた。
2011年3月14日の福島原発3号機爆発による放射線量の上昇を受け、16日に奥さんが息子さんを連れて避難することを決断。山形県中山町(寒河江市に隣接)にある実家を目指して、「自家用車の日産マーチにはガソリンが1目盛り分しかなかったが、妻はそれで栗子峠を越えて山形に避難した」という。
 和合氏自身は、同アパートからほど近い自身の実家(造り酒屋)に住むご両親が、父上が足が不自由なため避難しないという判断を下したことから、ご両親に付き添う形で福島市に留まる。
 同アパートには警察職員の居住棟と教員の居住棟があったが、教員棟の住人は和合氏を除いて全員が避難し、同氏は空き家同然と化したアパートで孤独と恐怖に向き合うことになる。
 そして、妻子が無事に山形の実家に着いたという連絡を受けてから書きはじめた(ツイッターに投稿しはじめた)のが「詩の礫」だという。

 同氏は次のような内容を語った。そして、「詩の礫」その他の作品を朗読した。

 「息子の置き手紙には『父さん、また会えるよね?』とあった。・・・こうして誰もいなくなったアパートにいると『孤独』というものには『本質』があると思われた。3月16日の夕方、あまりにも辛く、孤独で、何かを書くしかないという気持ちになった。ツイッターで言葉を発していったが、最初は自分のことを心配してくれている人に自分の安否を知らせるために書いたものだ。・・・しかし、震災から6日目には、泣きながらそれ(「詩の礫」にまとめられた言葉)を書いていた。」

 「3か月の間、毎日書いた。この間、余震が1,000回もあった。地震がまるで人格をもっているように感じられた。」

 また、和合氏自身の祖母は、山形市小立の出身であるという。
 妻の実家や祖母の生家があるということで、「もっと大きな事故が起こったら、山形に避難しようと思っていた。・・・いざとなればぼくには山形があるという想いに支えられていた」、「福島からの多くの避難者を受け入れてくれた、そして今も受け入れている山形に感謝している」とも語った。

 さらに、テレビ番組の企画で、三陸の被災現場に立ち、中継で繋がれた東京のオーケストラに合わせて詩を朗読した際の経験も話した。

  「津波にさらわれて海に運ばれ、救助の手を差し伸べる人に『立派な故郷を創ってくれ』と言い残して海に沈んでいった人のことを聞いた。その想いを子どもたちに伝えることで革命がおきると思う。そうでなければ水平線の向こうに消えていった人たちの想いが報われない。」

 和合氏は話の途中で涙を流した。その話と朗読を聴いて抱いたのは、“ああ、この人は如何にも素直でマトモなひとなんだなぁ”という感想である。・・・そして、改めて、こういう普通の人の言葉こそが他者に感動を与えるのだ、とも思った。
 ・・・それに比べて、このじぶんはじつにひねくれている・・・これはそもそもの人柄によるところでもあるが、あの震災と原子力災害をどのように経験したかによる面もあるのだと思う。
 じぶんが経験したのは、次のようなことである。


 3月11日の午後2時ころ、じぶんは山形市西部の産業団地にいた。激しい揺れを感じたのは、その団地内の建物で開かれていた介護関係の講習会の主催者代表として挨拶し、県庁に帰ろうとしていたときだった。
 この場所は山形市の西部を流れる須川(齋藤茂吉の句集「赤光」に詠われた川である)の近くに位置し、過去の氾濫による土砂の堆積地であるためか、いつも地震の揺れが比較的大きく体感される地区である。
 揺れは激しく、しかも長く続き、駐車場の路面が波打っていた。地割れが起きてそれに呑み込まれるのではないかという恐怖に襲われた。
 停電で夕闇せまる県庁舎に帰ると、それからは災害対策本部の一員として位置付けられて、非常事態に対応する日々が始まった。
 当時、じぶんは長寿社会課という職場で、山形県の介護保険制度運用の実務の元締めみたいな役を務める課長補佐のポストにあったが、おかげでそこからの2週間ほどは電話の前で針のムシロに座らされているような想いで過ごすことになった。
というのも、介護関係の施設や事業者から、物資が途絶えて人命が危機に晒されている、なんとか助けてほしい、という悲痛な声の電話を受けながらも、それにほとんど応えることができなかったからである。
 山形県は内陸部のかなりの地域がすでに仙台の物流圏に組み込まれており、石油製品をはじめ多くの物資が仙台及びその周辺の流通拠点を経由または当該拠点の差配によって供給されているのだった。
 宮城県内の物流拠点がことごとく機能を停止したため山形への物流は途絶えたが、山形県は被災県ではなく被災県を支援する側だったため、被災県に全国からの支援物資が届くのを尻目に、燃料と食糧の不足に堪えねばならなかったのである。
 特別養護老人ホームなどの入所施設からは、暖房用の燃料が切れていつまで入所者を受け入れていられるか分からない、経口用及び胃瘻用の流動食も底をついている、との声が寄せられ、デイサービス施設はそれに先だってほとんどが受け入れを停止したと報告を寄こした。
 訪問看護ステーションからは、ガソリンがなくて訪問看護がまわらない、このままでは亡くなる在宅の患者もでてしまう、と悲痛な訴えが上ってくる。認知症のグループホームからは、スーパーに食料品を買い出しに行っても客ひとりに牛乳1本しか売ってもらえない。店員と言い争いになった。県はちゃんと協力要請しているのか、なんとか事情を話して人数分を買えるようにしてくれ、という怒りの声が浴びせられた。
 毎日のように災害対策本部の上から命じられ、どこでどんなものが不足していうかという聞きとり調査をさせられて、多くの介護関係者に期待を抱かせながら、ろくな供給の手配もできないまま時間が経過していく。
 悲痛な声を受けていると、災害対策本部で油の確保や分配を担当している課の無能ぶり(個々の職員が無能とは言わないが実質的な結果としては無能だったと言わざるを得ない)が我慢ならなかった。

 3月21日だったと思うが、山形県は何事もなかったかのように例年通り4月1日付の人事異動を内示した。(非常事態に人事異動などしている場合か!?と思われるかもしれないが、震災発生時点で異動作業はすでに殆ど終わっていたはずだから、異動を中止すればむしろ混乱を大きくしたことだろう。)
 じぶんは県庁内の県土整備部建築住宅課の総括課長補佐に異動を内示され、異例なことだが、その内示の日から県土整備部に呼び出された。そして、福島県などからの避難者受け入れの仮設住宅(民間賃貸住宅の借り上げによる)の供給準備に追われることになる。
 県南部の米沢市にある県の保健所にはたくさんの避難者が押し寄せ、ガイガーカウンターで放射線を計測する窓口に列ができているという知らせを聞いて、“悪夢”ということばを想起した。
 山形県への避難者は、当初は南相馬や相馬などの沿岸部から着の身着のままで来た人々が多かったが、時間の経過とともに福島、伊達、郡山など内陸各市からも続々とやってきた。避難者(借り上げ住宅などへの申込者)は2011年の夏から秋にかけてさらに増え、やがて15,000人を超えた。
 これに対して建築住宅課は大急ぎで受け入れスキームを構築し、県内各地の避難所で避難者に対する住宅の斡旋説明会を開催。そして、毎日毎日電話応対に追われた。
 精神的に追い詰められて錯乱する避難者もいたし、地元住民とのトラブルを起こす避難者もいた。まさに「栗子峠を越えて」押し寄せる避難者に対応することに必死だった。不動産業界との調整やマスコミ対応にも追われ、なによりこれまた庁内調整に消耗する日々が続いて、じぶんの神経と「言葉」はすべてそれらに費やされていた。
 こんなふうに震災と原子力災害を経験した者には、人間のザッハリッヒでザラザラした面の記憶だけが刻まれていて、ようするにつまらない散文的感懐しか浮かんでこないのである。

 しかし、ひねくれもののじぶんにも、和合氏が震災後にツイッターに言葉を発しなければならなかった想いとその切実さはわかる。同じように「孤独」な状況であればじぶんもそうしたかもしれない。・・・原子力災害に見舞われ、放射能を含んだ雨が降りそそぐという、映画でなければ悪夢としかいいようのない恐怖と孤独とに襲われて。
 ただ、いっそなら、その言葉はタルコフスキーの「サクリファイス」くらいの“マトモでない”ものであってほしかった。







 おっと、話が余計な方向に進んでしまった。
 ついでだが、この日はこの会場で、高橋英司、いとう柚子の両氏と落ち合い、河北町の高橋英司氏宅へちょっとお邪魔した。
 二人は、この日の昼まで山形県西川町の「丸山薫少年少女文学賞『青い黒板賞』」の審査委員として会合に出てきた帰りだった。
 高橋氏宅を訪問したのは、同氏が全国の詩人から贈呈された詩集をほとんど捨てずに取っており、自宅の物置に専用書棚を造って、いわば現代詩集文庫のようなものを設けたと聞いたからである。(なお、これは非公開のものである。)
 上の写真がそれで、この物置の二階だけで約4,000冊の文学関係の本と雑誌があり、そのうち2,000~2,500冊ほどが現代詩人から寄贈された詩集とのことである。(なお、同氏は高校の日本史の教諭だったので、母屋の方にはさらにその方面の蔵書がある。)
 かつて雑誌「詩と思想」で月評を担当していたこともあり、同氏には全国から多くの詩集が送られてくる。同氏は、ほとんど全てに(少なくても前から2~3編と詩集の表題になった作品くらいには)目を通すそうである。
 詩集の寄贈を受けてもろくに読まないで、すぐにブックオフ送りにする詩人が少なくないようだから、ここまで大事にするのは殊勝なこと。もっとも、自宅が農家で宅地内にそういうスペースがあるから、ということもあるだろう。

それから寒河江駅前に戻って、3人して居酒屋で飲み、左沢線で山形に帰った。(了)                                                                                                                        





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:27Comments(0)見物録

2007年12月11日

日中現代詩シンポジウム



 12月2日(日)、上京する都合があったので、ちょうど神保町の学士会館で開催されていた「第2回日中現代詩シンポジウム」のプログラムの一部である「公開シンポジウム」を覘いた。

  「日中現代詩シンポジウム」は、思潮社と中国の中坤パミール文学工作室の共催で、昨年11月の北京での第1回開催に続いて2回目の開催ということである。
 なお、中坤パミール文学工作室というのは、中国の企業グループである中坤グループの出版社。 このシンポに詩人としても参加している駱英(本名:黄怒波)氏は中坤グループの会長であり、中国市長協会会長補佐でもあるとのこと。
 毎日新聞のサイトによれば、「中坤パミール文学工作室代表で、中国経済界でも活躍する駱英さんは『日中現代詩交流基金』の設立を発表。日本円で約1億5000万円を基金とし(1)日中現代詩交流の長期化(2)08年はインド、モンゴルの詩人にも参加を呼びかける(3)アジアを主体にした現代詩共同宣言の採択−−などの計画を明らかにした」そうである。

 この公開シンポ内容にとくに関心があったわけではないが、パネラーとして出演する日本側の詩人のうち、いままで生で見たことがない詩人についてその肉声を聴いてみたいと思ったのだった。
 つまり、この日の日本側の出演は、辻井喬、大岡信、吉増剛造、北川透、高橋睦郎、佐々木幹郎、平田俊子、野村喜和夫、水無田気流の9氏となっていたが、そのうち、大岡、北川、高橋、平田、佐々木、水無田の6氏がどんな印象の人物なのかを観に行ったということである。(なお、辻井喬氏は欠席。当日ドタキャンしたようだった。)
 中国側の出演者はその多くが50代で、幼少期に文化大革命、青年期に天安門事件を経験している詩人たちだということだった。なお、日本側で50代といえば、野村、平田の2氏だけのようである。

 公開シンポとはいうものの、パネラーが多いのに時間がごく限られていて一人あたり約10分の発言時間しかないため、その場で討議するのではなく事前の非公開討議で議論されたことを受けて各人が感想を述べるという内容だった。
 この場における発言で印象に残ったところをメモしておく。(ただし、中国詩人の発言については逐次通訳で意味が判らないところがあり、また録音していたのではなくメモをとっていただけのため、内容の正確さに自信はない。パネラー全員が発言したが、ここにメモするのはその全員分ではない。)
 なお、hannah5さんという方のブログ「詩織」 にもこのときの発言のメモが掲載されている。

 (1)「伝統/モダニズム」のテーマで話し合った分科会の水無田気流(みなしたきりゅう)氏の発言から。
 モダニズムの定義をめぐって、高橋睦郎氏が「モダニズムは生であり、伝統は死んだもの」(注1)と述べた。また、中国の詩人の議論は個人史と民族史の関わりを検討する方向へ向かった。
 私(水無田)は、バブル崩壊後に社会にでることになったいわゆる“ロスト・ジェネレーション”であり、これ以上豊かになれないという諦念を背負っている。
「生きているものこそがモダン」と言われたが、高度成長期の終わりに育ってきた者たちは、いわばブロイラーのように育ってきた。自分たちの生を自分たちの生として生きられない感覚、ポストモダンにどっぷりと浸かっている。
 オリジナリティの徹底的な不在を生きており、参加した他の詩人と世代間の違い、そしてそれゆえの責任の“種類”の違いを痛感した。

 (2)同分科会の駱英(ルオ・イン)氏の発言から。
 谷川俊太郎は非公開討議のなかで、40年前にも同じテーマで話しあったのに今も同じテーマであることに失望したと述べていた。しかし、“問う”という姿勢は100年後も続く。自分自身の生存状況について述べるのが問う姿勢である。
 日本人詩人たちは詩のテクニックや意匠について話したいようだが、私は詩の内部にある苦痛について話したい。中国が直面しているのは社会構造とそこにおける一人ひとりの苦痛である。
 結論をいうと、日本の詩人は内向的であり、中国の詩人は外向的である。

 (3)同分科会の楊楝(ヤン・リエン)氏の発言から。(同氏は天安門事件を契機に出国。現在イギリス在住。)
 私の言葉で中国の詩を言えば“悪いもののインスピレーション”、要するに窮状が必要であり、それを作り出さなければならない。
 中国の長い歴史は、時間の苦痛というより、時間が“ない”つまり不変であるという苦痛をもたらしている。
 私の1997年の長編詩「同心円」は、1200年前の杜甫の思想と通じている。私たちの思想は、全人類の究極的な思想の一部にならなければならない。

 (4)注1の部分について、高橋睦郎氏の発言。
 誤解のないように断っておくが、「伝統は死者」と言ったのは、死者の方がむしろ今も私たちを拘束しているという意味を込めてである。

 (5)「私/他者」のテーマで話し合った分科会の北川透氏の発言から。
 谷川俊太郎の新詩集『私』が出たこともあり、「私」がテーマになった。谷川は「言語から生まれた私」と「母親から生まれた私」という言い方をしているが、「言語から生まれた私」という言い方はとても難しい言い方である。
 この言い方が分かりやすく受け取られるのは1960年代から言語論が語られてきたことが大きい。ソシュールからフーコーまでの問題意識が背景に潜んでいる。「今、詩を語っているのは誰か」と言うとき、私であるとはいえない。見えないシステムに言わされているという観念の問題がひとつある。私は構造主義を批判してきたが、こういう考え方を受け入れている。
 また、日本ではサブカルチャーがメインの文化を圧倒しているという状況のなかで、詩人たちの問題がある。日本ではサブカルチャーが低級だとか軽薄だとかいえない質を獲得しており、世界に影響を与えている。これが詩の問題にどういう影響を与えているかといえば、言葉遊びということが指摘できる。いま、詩の豊かな可能性のなかに言葉遊びがある。
 一方、中国では、革命からさらに変革が続いていくなかで社会の問題がはるかに大きくなっている。また、近代化の過程の「自我」をとってみても、これはヨーロッパから規定されているのではないかという危機意識が非常に強い。

 (6)「私/他者」のテーマで話し合った分科会の于堅(ユー・ジャェン)氏の発言から。
 「伝統は死んだもの」という言い方が新鮮だった。しかし、死んだものというのは現代の概念であり、中国にはない。李白や杜甫は私にとって死者ではない。荘子の胡蝶の夢のように、死はひとつのかたち・・・変わった後のかたちであり、変わる前のかたちである。
 私が日本というと思い起こすのは、ソニーやトヨタではなく芭蕉や川端康成である。
 日本の文化は完熟しているが、中国は激烈な変化の途中にある。40年前ははやく近代化しなければと思っていたが、今は困惑が大きい。文革の時代は暗かったが、忠実に生活していた。今はむなしさを感じる。詩は言葉遊びではなく、自分を困惑から救い出す力になっている。

 (7)同分科会の翟永明(チャイ・ヨンミン)氏の発言から。
 (翟氏は物理学専攻の女性研究者でもある。進行の野村喜和夫氏から「中国の新しい女性詩は翟永明から始まった」といわれる存在だと紹介があった。)
  「私/他者」というテーマは、文学のテーマというより哲学的なテーマであり、よくわからないところがたくさんある。いままでこのような問題を考えてこなかったが、このシンポを契機に考えていきたいと思った。
 非公開討議のなかで、自我=私というのは現代の考え方であり古代の人はこのように考えていないのではないかという意見があったが、<私>は、西洋的概念ではないが古代の人も<私>ということを考えていたと思う。
 自我を追求することは無我に向かうことである。

 (8)「アジア/ヨーロッパ」のテーマで話し合った分科会の陳東東(チェン・ドンドン)氏の発言から。
 古典も中国の伝統も、他者であり、自分を映す鏡である。

 (9)「社会/読者」のテーマで話し合った分科会の平田俊子氏の発言から。
 このシンポに参加している中国詩人たちは自分と同じ年代なのだが、その時代的経験を考えれば、日本では私より上の世代に対応する。討議のなかで、自分が社会的事件を体験してきていないというコンプレックスを感じさせられた。
 私の詩は、神に捧げる、または神に書かされるもので、詩を書くとき、読者を意識していない。

 (10)同分科会の西川(シー・チュアヌ)氏の発言から。
 いまの中国の状況では虚無に陥る。だからこそ新しい可能性を求めて詩を書かねばならない。

 (11)同分科会の唐暁渡(タン・シアオトゥ)氏の発言から。
  詩は、無用の用を目指さなければならない。

 (12)同分科会の佐々木幹郎氏の発言から。
 中国側からは、文革や天安門事件の経験から、権力に対してどう立ち向かうかという問いが出てきた。これは日本では60年代の問いだったが、それを懐かしく聞いた。
 しかし、「権力」という言葉をちゃんと定義すべきだった。たとえば、中国語では「権力」と「利益」は同じ読みだと聞いた。
 ことばの問題として、読みからイメージの拡がりが出てくるのは日本も中国もまったく同じであり、そこからどんな使い方が出てくるかを考えなければならない。
 中国の詩人は、中国で詩人として生きること、詩人として存在するとはどういうことかを常に語っていた。
 たとえば、クーチョン(聞き取り不詳)という詩人は、天安門で弾圧を受け、その後奥さんを殺して自殺した。この事件によって、中国では詩人はわけのわからない人々だというイメージが広まった。庶民のなかで、子どもが泣くと「泣くな。泣くなら詩人にしてしまうぞ!」と脅す話まであるということだった。
 しかし、中国における詩人の位置は、無視されるどころか非常に気にされている存在だということではないか。
 中国の詩人が社会に向けている鮮烈さと日本の詩人の曖昧さ。ここで「読者はどこにいるのか」という問いかけがなされる。

 (13)「アジア/ヨーロッパ」分科会に参加し、公開シンポ第2部の進行を務めた野村喜和夫氏の締めの発言。
 分科会討議において、逐語通訳でうまく内容が通じないことがでてきたとき、吉増剛造さんが付箋(黄色い「ポスト・イット」)に漢字を書いて、皆にそれを回覧させた。
 お互いの漢字文化を持つことでできるいわゆる筆談だが、それによって相互の理解が可能になり、この付箋、この紙に書かれた言葉が、それ自体なにかとくべつで独自な存在となって皆の間を回っていくのが象徴的だった。
 

 さて、私が印象的だったのは、ひとつには、水無田気流氏が、バブル崩壊以後のいわゆる“ロスト・ジェネレーション”という自覚のもとに「オリジナリティの徹底的な不在を生きており、参加した他の詩人と世代間の違い、そしてそれゆえの責任の“種類”の違いを痛感した」と述べたことだった。“違う種類の責任”という言い方がよくわかるような気がしたが、それでもあえていえば、この人も世代的な責任を背負って詩を書いているのか・・・と。
 私は、「世代的な責任」というか、この世代として言っておかなければならないという想いを背負って批評を書くことはあるが、詩を書くときには責任などという観念を抱いたことはないような気がする。

 もうひとつは、楊楝氏が「中国の長い歴史は、時間の苦痛というより、時間が“ない”つまり不変であるという苦痛をもたらしている」と述べたことだ。この部分は通訳を通じて聞き取ったことなので本人の発言としてどの程度正確かわからないが、このような発言が行われたとして、そこで言われていることがとてもよくわかるような気がした。
 中国では今も激動の時代が続いているが、そのような変動が常に繰り返されてきており、そういう意味では、変動という情況それ自体が“普遍”であり“不変”と見做されるのでもあるだろう。激動している時代情況から少し離れてメタレベルに視点をとれば、そこには歴史に“時間(の流れ)がない”という苦痛がたち現れてくる。
 これは、時間が不可逆的に進み、旧いものは解体されていくという私たち日本の現代人の心象とも異なるし、また日本の伝統的(?)な不易流行という思想とも異なっている。
 そういうしんどさも、たしかにあるのだろうなと思える。

 もっとも、じぶん自身には、“時間(の流れ)がない”という苦痛などありえず、まさに「そんなの関係ねぇ〜」(本年の流行語大賞入賞語)なのだが。                                                                                                                                                                              

     

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