2020年06月02日
ブログ再開宣言

久しく書き込みをしていませんでしたが、このブログを再開します。
まず、この間の状況の変化について。
1 これまで同人となっていた『山形詩人』(高橋英司編集)が、当初の目標であった「100号達成」により、休刊となりました。
2 高啓は、定期的な作品の発表場所を求めて、高橋英司氏が従前より寄稿していた『詩的現代(第二次)』(愛敬浩一・樋口武二編集・発行)に参加させていただきました。2019年7月発行の30号から寄稿しています。
なお、高橋英司氏はその後、『新・山形詩人』を創刊しましたが、この詩誌のコンセプトは、山形県内の詩人で他に発表の場がない者のための「タワーマンション」を目指す、『山形詩人』の再結集ではない、とされたため、高啓は参加していません。
3 高啓は2019年度末をもって定年後再雇用されていた職場を退職し、2020年5月からソーシャル・ワーカーとして働き始めました。これから、細く長く続けていきたいと思っています。
少し時間に余裕ができたので、これまでより文筆活動に時間を使うことができると思います。
4 山形県西川町の「丸山薫少年少女文学賞『青い黒板賞』詩のコンクール」の審査委員になりました。2019年から審査に参加し、2020年1月発表の第26回の表彰に関わりました。
ということで、この間発表したものは次の通り。
① 詩「喪姉論」 (『詩的現代』30号 2019年7月)
② 詩「人生が二度あれば、なんて思わない」(『詩的現代』31号 2019年10月)
③ 評論「松田英子は何処へいった?」(同上 「特集:大島渚の時代と映画」)
④ 詩「アンタ ダアレ」(『詩的現代』32号 2020年3月)
⑤ 評論「風景、音楽及び時間意識について」(同上 「特集:立原道造」)
⑥ 詩「小路論」(山形新聞 2019年2月28日 「ふるさとを詠う」)
⑦ 詩「青白幻想論」(山形新聞 2019年7月18日 「ふるさとを詠う」)
⑧ 詩「ザンゲ論」(山形新聞 2019年12月12日 「ふるさとを詠う」)
⑨ 詩「入門論」(山形新聞 2020年5月28日 「ふるさとを詠う」)
⑩書評「ゴーリキー傑作選『二十六人の男と一人の女』(中村唯史訳・光文社古典新訳文庫)」(山形新聞 2019年3月31日)
⑪書評「松田達男詩集『いろは いのち』」(山形新聞 2019年10月30日 「未読・郷土の本」)
このほか、2020年6月発行予定の『詩的現代』33号に、詩「再帰するアレについて」と評論「だれが、なにを、異化するのか。―草彅剛のヒトラー―」(特集:ブレヒト)を寄稿しています。
これから、徒然にこのブログにも書いていきますので、よろしくお願いします。
2008年05月06日
めくるめく春の・・・
山形の春はあっという間にやってきて、あっという間に過ぎ去っていく。
ながいながい冬が過ぎて、やっと春になったと思ったら、花が一斉に咲き出す。
桜、木蓮、桜桃、林檎などが次々と咲き乱れ、そしていまはハナミズキが満開を迎えている。
春があっという間に過ぎ去るということは、夏があっという間にやってくるということで、夏があっという間にやってくるということは、あっという間に昼の時間より夜の時間が長くなることを意味し、そしてそのことは否が応でも冬の到来を意識させる。
つまり、じぶんの意識の中では、冬以外の季節はすべて冬に向かって進んでいるのだ。
“冬に向かう春”、その春が、しかし、どんなにめくるめくものか、その一端を記したいと思って、4月下旬から5月のGWまでに咲いた庭の花たちに、柄にもなくカメラを向けてみた。
じつは、庭の花をブログに掲載するのは、詩人の鈴木志郎康さんの真似でもある。
この庭の草木は、私の義母(妻の母)が中心になって育ててきたものだ。
その義母が亡くなって、今年でもう七回忌になる。
この義母が胃がんの再発で亡くなっていく過程に取材したのが、詩集『母を消す日』の「かあさん、あなたが消えていく」という作品である。
さて、私には、いままでのところ、庭いじりの趣味はない。ろくに花の名前も知らない。
だから、これらの花は、他人のようでもあり、またそれゆえ生々しさをもって迫ってくる。
一見どんなに可憐に見えていたものでも、近づいてよく視てみると、多分に毒々しく思われてくる。














ながいながい冬が過ぎて、やっと春になったと思ったら、花が一斉に咲き出す。
桜、木蓮、桜桃、林檎などが次々と咲き乱れ、そしていまはハナミズキが満開を迎えている。
春があっという間に過ぎ去るということは、夏があっという間にやってくるということで、夏があっという間にやってくるということは、あっという間に昼の時間より夜の時間が長くなることを意味し、そしてそのことは否が応でも冬の到来を意識させる。
つまり、じぶんの意識の中では、冬以外の季節はすべて冬に向かって進んでいるのだ。
“冬に向かう春”、その春が、しかし、どんなにめくるめくものか、その一端を記したいと思って、4月下旬から5月のGWまでに咲いた庭の花たちに、柄にもなくカメラを向けてみた。
じつは、庭の花をブログに掲載するのは、詩人の鈴木志郎康さんの真似でもある。
この庭の草木は、私の義母(妻の母)が中心になって育ててきたものだ。
その義母が亡くなって、今年でもう七回忌になる。
この義母が胃がんの再発で亡くなっていく過程に取材したのが、詩集『母を消す日』の「かあさん、あなたが消えていく」という作品である。
さて、私には、いままでのところ、庭いじりの趣味はない。ろくに花の名前も知らない。
だから、これらの花は、他人のようでもあり、またそれゆえ生々しさをもって迫ってくる。
一見どんなに可憐に見えていたものでも、近づいてよく視てみると、多分に毒々しく思われてくる。
2008年04月20日
雨の馬見ヶ岬川河畔
この土曜日は生憎の雨となったが、それでも馬見ヶ岬川河畔に出かけてみた。
ここ2、3日の雨で馬見ヶ岬川は増水して濁っているが、雨に煙る河畔の桜並木は、それはそれで趣がある。
雨の中、橋の下で花見の宴を催しているグループもあったが、さすがに見物客は少ない。こうしてしずかに昏い桜を眺めていると、季節の、とりわけ春の移り変わりの速さに追いつけないそわそわとした想いが、少しずつ心の下のほうに沈み、おもく澱んでいくよう思われる。
一枚目の写真の中央に見える建物は山形県庁。その向こうは蔵王連峰へ連なっている。
この庁舎は、第一次オイルショックの影響を受けたせいか、県庁としてはチープな建物になっている。
二枚目の写真は一枚目で対岸に見える桜並木の道路を東へ、つまり仙台方向に走る車内から撮ったものである。
この桜並木は2キロくらい続いている。なかなか見ごたえのある並木だ。この時期、ライトアップされる。
もう少し観光PRをして、イベントを催したり、露店なども立てて観光に活用したらよさそうなものだが、あっさりとしたものである。
さて、このたび、高啓は、平成19年度の活動、すなわち詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』(書肆山田)の出版によって、山形市芸術文化協会から「奨励賞」ということで顕彰されることになった。
受賞の理由は次の通り。
「亡き母を思い、妻と子どもたちに注ぐ眼差を通して、父親が社会人として生きる悲哀や希望などが
うたわれている。一編一編が物語り仕立てで散文詩的に構成され、リズミカルで力強い。比喩が
自在に駆使され、言葉が縦横に飛び回り、それでいて文脈は明晰である。」
顔見知りで比較的近い地元の人たちから認めていただいたことは、それなりにありがたく、謹んで賞を頂戴する。
ただ、関係者には申し訳ないが、表彰式が行われる山形市芸術文化協会総会は欠席させていただく。
当日、宇都宮の芝居を観にいく予定が入っているもので。
2008年01月14日
年賀状卒業(したい)宣言
2008年になった。
しかも、もう2週間も経った・・・。
それどころか・・・。
あっは。・・・平成になって、もう20年である。(--;
このブログ、月に3〜4回しか更新していないのに、更新して何日経っても毎日30〜60くらいのアクセスがある。
管理画面を見ると、どこか特定の頁のアクセス数が格別多いということでもないので、検索エンジンで特定の事項や人名を調べていてこのブログのどこか一部がヒットしてここを訪れた人が、それとは関係ない他のページ(別の日の記述)も見て回ってくれているような気がする。
さて、「さらば、2007年!」で書いたが、06年に続いて07年も骨髄バンクからまた「当選」通知が来、やがて「保留」通知が来たという話の後日談・・・・。
2008年が明けて間もなく、やはりまた「患者さんの都合により今回のコーディネイトは終了になりました。」という通知がきた。
それは、「終了の理由は下記に示すとおりですが、詳細についてはお知らせしておりません。」といい、「患者さんの都合による主な理由」として、下記のものを挙げている。
? HLA(DNA)が不一致のとき
? 他のドナー候補者の方が骨髄採取の運びとなったとき
? 患者さんの病状変化等により治療方針が変更、または骨髄移植を見合わせることになったとき
この通知では「詳細についてはお知らせしておりません。」となっているが、昨年12月にあった「保留」の通知で?だということを伝えられていたので、この度は了解した。
しかし前回候補となり「保留」となり「終了」となったときは、?と?のどちらであるかを知らされないままだった。
これぐらいは候補となることを承諾してコーディネイトを進めたドナーの皆に知らせて当然ではないだろうか。
ところで、07年の暮れ、つまり08年の年賀状を書く季節から、「年賀状」というものから解放されたくなり、職場関係と個人的関係の相手でメールアドレスを知っている人たちに以下のようなメールを出した。
「 今年もあっという間に年末がきて、来春の年賀状を書く季節となりました。
これまで丁寧な賀状を頂戴して参りましたこと、心より感謝申し上げます。
そのご厚情にお応えするため、私も年賀状を差し上げるべきところですが、本年50歳を迎えたことや、
郵政事業が民営化されたこと(?)を機に、そろそろ年賀状の作成作業から解放されたくなった次第です。
そこで一計を案じ、このように電子メールで、事前に、当方からは年賀状を差し上げない旨のご連絡をさ
せていただくことにしました。
誠に勝手ですが、高啓はこのようにしょうがないぐうたら者であるとご海容いただきますようお願いいたし
ます。
なお、年賀状は差し上げないこととさせていただきますが、下記アドレスにメールをいただきました折には、
折り返し年賀のご挨拶などをお送りさせていただきます。 」
すると、メールを送ったある先輩から、凡そこんな内容のメールの返事がきた。
「 きみの言うことはよく理解した。そういえば昨年あたりから『年賀状は今年限りにしてください。』と書いた
年賀状が見受けられるようになった。
でも、年に一度も会わないのに何かお互いに便りがないのも寂しい感じがする。
私の記憶では、何年前か忘れたが、きみからもらった年賀状に『故郷では、正月に、大根を切って、爪楊枝
を立てて、ろうそくを立てた・・・』という話が書いてあって、それがとても印象に残っている。
今年は何を書いてくれるのかを楽しみにしていた。何かそれに変わる物があればよいように思う。 」
その年賀状については、印象に残っているという話を他の人たちからも聞いたことがある。・・・それで、いつのことだったろうかと・・・書き損じでもないかと昔の年賀状のファイルを探してみた。
自分の書いた年賀状は見つからなかったが、そこには、たぶん、こんなことが書いてあったのだと思う。
子どものとき、大晦日の私の仕事はお供え用の燭台をつくることだった。台として大根を少し厚めに切り、
それに割り箸を半分に切断してその両端を小刀で削ったものを立て、そこに蝋燭を刺す。
その燭台に火を灯し、お神酒や丸餅やみかんと一緒に、店先、帳場、井戸、流し、風呂、便所などに供え、
それを家人が順番に拝んであるく。そして最後に神棚を拝み、仏壇に手を合わせて、家族みなが年越しの
膳につく。それが商家である我が家の大晦日の儀式だった・・・と。
代わりにみつかったのは、プリントゴッコ用のB6の原稿用紙に書いた別の年の年賀状の原稿だった。ファイルされていた場所から推測すると、「昭和64年」のようだ。
その文章を再掲してみる。こちらについても、数人からずいぶん印象に残っていると言われた記憶がある。
「 冬になると想い出すのは鱩(ハタハタ)です。
むかし大漁だったころ、母が木箱ひとつを五百円ほどで購ってきては、
土間で瓶に漬けている姿です。
昼は生を焼いてしょう油で、夕は鍋で、朝は味噌漬けを焼いて、と、
三食つづけて喰わされたのが頭にこびりついているのです。
でも、もう心配はいりません。
鱩は今や高級魚で、母もこの世におりませんから。 」
さて、山形は真冬らしい細かな雪が降り、しんしんと冷え込んできた。
ぷふいっ。・・・・時間は急激に流れ去る。
2007年12月31日
さらば、2007年!
極私的に2007年という年を振り返ってみると、3冊目の詩集を出版したことのほかに思い起こされることはふたつ。
それらは、普段“お気楽”を旨として生活しているじぶんにとって、それを掣肘してくる要素でもある。
ひとつめは、初夏ごろからいわゆる“四十肩、五十肩”という症状が出て、その後、肩から腕の痛みが引き続いていることである。
昨年の12月から、天候がすぐれなかったり風が吹いていたりすると、それまで続けてきていたロードのジョギングをずいぶんサボるようになってしまったので、フィットネス・クラブへ入会し、そのジムに通うということを始めたのだった。
冬の間もトレーニングできるので、週に2回ほど通ってトレッドミルの上を走り、筋トレも少々やって、6月には8〜9年ぶりくらいにハーフマラソン大会で完走できるようになった。
しかし、夏頃から、両方の肩が痛くて、回らない・上がらないという“五十肩”状態が始まった。
腕の筋トレを自粛して騙し騙ししているうちにこの症状は秋までに治まったが、この状態が改善するのと入れ替わるように右腕・右肩が痛むようになった。
これも騙し騙して一進一退の状態だったのだが、そろそろいいだろうと思って、日常の作業で腕を使ったり、弱い筋トレを復活させた途端、夜も眠れないほどの痛みが襲ってきた。
地元で有名な整形外科へ通って、塗薬や経口の消炎鎮痛剤を処方され、リハビリに通うように言われて何度か通ったが、そのうち我慢できる状態になったので、サボり・・・・よくなったかなと思ってまた筋トレと日常作業をしたところ・・・と、この繰り返しをしてしまい、ついには二日ほど一睡もできない痛みに呻くことに。
(おそるおそる筋トレしたのだが、一日おいても痛みが現れなかったので油断したのだ。・・・歳とると筋肉の疲労が時間を置いて炎症になるということか・・・)
この痛みは、夜、床につくと酷くなった。
三角筋、大胸筋、上腕二頭筋、上腕三頭筋などが代わる代わる痛み、あるいは重苦しい状態が続く。
整形外科のリハビリを受けた日はやや軽快するが、毎日通うこともできず、ちょっとした作業をした程度でも状況がやや悪化する。パソコンのマウスを動かすときも、上腕筋に緊張があって鈍く痛む。
この二、三日も、大掃除などで腕を使ったせいか、夜に一、二度、苦しくて目が覚める。
医師は病名をはっきり言わないが、写真のような薬を処方した。
経口薬の「ボルタレンSR 37.5mg」、塗薬の「ナパルゲンクリーム」(1g中フェルビナク30mg)、そして眠れないときのために座薬の「ボルタレンサポ 50mg」。
この「ボルタレン」という座薬は、消炎鎮痛剤として一般的なのだろうが、末期がんの義母が使用していたので、そのときのことがフラッシュバックのように蘇った。
(義母が胃がんの再発を宣告されてから、亡くなるまでのことは、第二詩集『母を消す日』(書肆山田、2004年刊)の冒頭に入れた「かあさん、あなたが消えていく」という長編詩に書いた。)
ああ、これは癌の痛みに(モルヒネを使う前の段階で)使う薬でもあるのか・・・そう思うと、これはまだ使えないな、などと使用せずに我慢している。(苦笑)
ふたつめは、これも詩と絡むのだが、第三詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』(書肆山田、2007年刊)に収めた「骨髄ドナーは呻き呟く」という作品で取材している骨髄ドナーに関して。
昨年(2006年)の春、もう忘れかけていた骨髄バンクからドナー候補に選ばれたという通知が来て、迷った末に引き受けるという決断をし、面談や大学病院での精密検査まで進んだのだが、結局その秋に「保留」の通知がきて、やがて「患者側の都合でコーディネイトは終了になりました」との連絡がきたという話・・・これを詩のネタにした罰が下ったのか、今年(2007年)の秋、また当選通知がきたのである。
昨年、血液の精密検査を受けているので、じぶんは白血球のHLAのDNAタイピングまで行っているわけだし、今回は「迅速コース」ということで3ヶ月程度で移植手術までいく予定だということだったので、都合など考える間もなく“今度は覚悟しなきゃいけないか・・・”と受諾を決めたのだった。
しかし、今回も、職場に説明して了承を得た後で、やはり「第一候補のドナー」のスペアとして「保留」となった旨の通知がきたのである。
移植した骨髄はレシピエントの体内で増殖しなければならないのだから、年齢を考えればもっと若いドナーの方が望ましいはずである。
だから「保留」続きの身の上をどうこう言う気はないが、やはり引き受けるには心の準備もいるわけで、その準備に少し疲れた・・・。(苦笑)
余談だが、今回は、大学病院で検査時の面談をした医師の態度に不快な想いをした。
いかにも骨髄バンクに頼まれて協力してやっているという態度で、ドナー候補への敬意など微塵ももっていないようだった。
「やっぱり、どうしても尿道にカテーテルを入なければいけないのでしょうか?」と聞いたら、「入れられたくないなら、今ここでコーディネートは終了だよ。」などと横柄な物言いをし、血液採取をしていると脇で「身体が丈夫そうだから、今度はドナーに選ばれるでしょう。」などと、まったく人を臓器の入れ物みたいな目で見やがった。
「おれはおまえの『患者』ではない!」と言ってやりたくなった。
ところが、この間、その医者と前記のフィットネス・クラブで一緒になった。もっとも向こうは気がついていない。
ひと月の会費が5,000円の大衆的なクラブなんだが、医者はもっと高級なクラブへ行け!とケツを蹴っ飛ばしてやりたくなった。(笑)
山形は、雪の年越しになった。
では、よいお年を。
2007年11月11日
さらば知歯・・・
「知歯」はオヤシラズのこと。オヤシラズは親不知とも書く。
親を知らない歯が知の歯であるというのは、言い得て妙である。
この知歯が生え始めたのに気づいたのは高校3年くらいからだった。
高校時代はそれほど気にならなかったが、大学生になって一人暮らしをはじめると、奥歯のさらに奥の歯肉がひどく腫れて痛み出すようになった。
今から考えれば、これは出かかった知歯と歯肉の間からばい菌が入って炎症を起こしたからだとわかるが、当時はバカなことにこれを知歯が肉を食い破って生えてくるために起こる必然的な痛みや腫れだと思い込んで、歯医者にも行かずひたすら耐えていた。
耐えるどころか、歯が出やすいようにと歯肉の隙間に爪を突っ込んで、肉をぎぃーっと押し広げたりもしていた。これはまさに“ひとりサド・マゾ”である。(苦笑)
知歯は4本だ。その4本が順番に(といっても順不同だが・・・)痛み出した。
しかも1本について、歯が出てくる過程で4〜5回の痛みの時期を経験した。
その一回の痛みが、ひどいときは1週間から10日ほども続き、その間は顎が腫れて口もろくに開けない状態で、数日間固形物を摂れず、ほとんど牛乳だけの食事で過ごしたことも何度かあった。
それにしても、ずいぶん苦しい想いをしたのに、なぜ歯医者に行かなかったのだろうと今になって思う。
歯医者に行けば抜かれてしまうと思い込んでいたフシもあるが、たぶん、これに耐えることが大人になるために避けられない道だとか、<知>というものはこうして肉を食い破って激しい痛みを伴ってやってくるものだ、などと漠然と思っていたような気もする。
こうして20代半ばには上下で4本が完全に出揃い、うち1本はすこし傾いて生えたが、3本はしっかりした歯になって、四半世紀も役に立ってくれた。
しかし、この2〜3年で4本に次々に腫れと痛みが襲い、触るとぐらつく状態になった。
歯医者によると、オヤシラズは周りの支えている肉が弱く隙間が開き易い。そこに歯周病菌が入り、歯が溶けてますます隙間が広がる。さらにそこにばい菌が入り、体調の変動で抵抗力が弱まると炎症を起こすのだという。
ぐらついている以上、もはやあきらめなさい・・・医者がそういうので、しかたなく、痛み出すたびに1本ずつ抜いてきたのである。
けれど、あれだけ苦しんで生えさせた<知歯>だ。なにか掛け替えのないものを失うような気がして、それでも最後の1本は、ほんとに痛くなるまで待ってください・・そう言って、この一年あまり誤魔化し誤魔化ししてきていた。
さて、だが、今回は最後の1本がまた痛みだしたとはいえ、その痛みが治まりだしたある日、なぜか突然思い立って歯医者に抜きに行った。
これが、“さらば青春”というやつである。(苦笑)