2024年07月16日
山形県詩人会関係その他の近況

仕事と趣味の野菜づくりで忙しく、いつもながら更新が遅くなってしましましたが、山形県詩人会その他の近況を記載します。
山形県詩人会は2024年4月20日に総会を開催し、会長ほか理事会の三役を改選しました。
これまで会長だった高橋英司氏が会長在職10年を機に辞職の意思表示をし、これを機に事務局長の高啓も降板を申し出たことから、次の通り新たな三役を選任したものです。
会長:万里小路譲(鶴岡)、副会長:近江正人(新庄)、事務局長:久野雅幸(天童)
なお、理事及び会計監査については2年間の任期の途中であることから改選しておりません。ということで、高啓は事務局長は降板しましたが理事は継続しています。
山形県芸術文化協会の常任理事として、「県芸文」に山形県関係(県外者含む)の詩の情報(出版、イベント、受賞その他)を記録する任にもあたっています。情報がありましたら、ご提供ください。(右下の「オーナーへメッセージ」から)
今後、山形県詩人会関係の情報は、会長の万里小路譲氏や事務局長の久野雅幸氏から発信されることになると思います。
山形県詩人会は9月14日(土)鶴岡市第四学区コミュニティセンターにて「やまがた現代詩ミーティング2024―三行詩・四行詩を愉しむ―」を開催することを決定しました。
先日、趣味?のカフェ巡りで長井市の「セカイスケッチコーヒー」を訪ねました。
自家焙煎のなかなか美味しいコーヒーでした。
大きな窓から庭の松の木が見えるのが印象的でした。
2023年03月23日
出版業を始めるための必読書

この春は暖かくなるのが早いですね。・・・・というか、毎年こんなことを言っているような気がします。「年ごとに、春と秋が短くなっているような・・・・」
近所の個人宅庭の桜がほころび始めました。3月中に咲くのは初めてかもしれません。
写真は白鳥の北帰行です。
1週間ほど前、自宅近くから撮りました。この辺の上空を白鳥の群れが飛び回るのも珍しいような気がします。
以下は高安書房のサイトにアップしたものと同じ内容です。
高安書房のサイトは訪問する方が少ないので、こちらにも掲載させていただきます。

岡部一郎・下村昭夫共著『出版社のつくり方読本』(2017年・出版メディアパル)と石橋毅史著『まっ直に本を売る―ラディカルな出版「直取引」の方法』(2016年・苦楽堂)を読んだ。
わたくし高安書房店主のように、出版業の〝し〟の字もしらないままに出版業に手を出してしまった者は、どちらもその前に手にすべき必読の書だった。つまり、「必読の書」を読まずに手を付けてしまった(!)ということを知らしめられた。
『出版社のつくり方読本』は、出版業というものがどんなものか、全体をコンパクトに整理して分かり易く解説しており、格好の出版業入門書だ。
とくに出版した本をどう売るかという点で、素人の甘い考えを打ち砕いてくれる。そもそも、トーハン、日販、楽天ブックスネットワークなどの大手取次会社は駆け出し出版社など殆ど相手にもしてくれないのだという。
ではどうするか。そこで参考になるのが、『まっ直に本を売る―ラディカルな出版「直取引」の方法』である。
この本は出版社で営業をしていた経歴をもつ出版ライターが、自身の経験に基づく問題意識から取材した記事(『新文化』という出版業界関係の雑誌に連載したものかな)をまとめたものらしい。(この本はネットショップのhontoで注文したが、入荷できない旨のメールが来た。仕方なく、山形県立図書館を通じて所蔵のあった酒田市立図書館から借りて読んだ。ちなみに、このように地元の図書館で他の図書館の蔵書を取寄せて借りることができる。「相互貸出」というシステムである。)
内容は「取引代行」という方法を導入した出版社「トランスビュー」の「トランスビュー方式」に関する紹介が中心になっているが、この本も出版業界の事情を知るうえでとても有益である。
ところで、「トランスビュー方式」は、①書店からの注文に基づく配本(返本を減らすため)と、②書店の利益を確保するための低い掛け率(7割を切る)が大きな特徴である。出版社にとっては、掛け率やトランスビューの手数料等の関係で、いわゆる「取次」を通すのと比べて利益率が大していいわけではないが、①のシステム上、返本が少ない点が魅力である。(ただしトランスビューも一部取次を利用している。)
「大沼デパート」の閉店にまつわる『さよならデパート』の著者であり、その出版元「スコップ出版」を運営する渡辺大輔氏に伺ったところ、同氏は「トランスビュー」と取次代行の契約をしているとのことだった。
ただし、問題は「トランスビュー方式」では書店への卸値(つまり出版社の取り分、これを「正味」という)が定価の70%を切るうえに、いろいろと手数料の支払いを求められることだ。実際の正味は定価の60%か、その他の経費(荷造り料や送料)を勘案すれば出版社の得る額はそれ以下になるのではないだろうか。
渡辺氏は自ら編集ソフトを操るうえに、表紙デザインも自分で作成しており、その分本の製作費を低く抑えているという。また、初版の部数もそれなりに増やして、1冊あたりの原価を低く抑えているという。
高安書房の『非出世系県庁マンのブルース』は、こんな事情を何も知らずに初版500部の印刷。定価の決定にあたっても詳細な検討などしなかった。(-_-;
共同通信社の書評に取り上げてもらえたので、その記事が掲載された地方紙を読んだ個人や(リクエストを受けたであろう)公立図書館及びそれらの客から取寄せ注文を受けた書店などからポツポツと注文が入ったが、共同通信社の配信がなかったとしたら、山形県外からの注文は殆どなかったのではないかと思う。
やはり、「取引代行」か「地方・小出版流通センター」などの零細出版社を相手にしてくれる取次を利用しないと全国の読者にアクセスできないのか・・・。
さて、ここからが悩ましいところである。
じぶんは生活の糧を得るために出版業を始めたのではなかった。パートタイマーであるとはいえ、別の仕事(こっちがいまのとろは本業)ももっている。(本業の仕事はそれなりに神経を使うのでアタマの切り換えに苦労する。) そもそもは自著を出版したいというのが主たるモチベーションなのだ。
こういう中途半端な人間が出版流通に首を突っ込んでもいいのか・・・、あるいはまた、高啓の著書以外に、毎年継続して出版していく企画をもっているのか(ということがトランスビューでも地方・小出版流通センターでも取引の条件になる)・・・・、という自身への疑問(というか〝たじろぎ〟)もある。
さらにまた、「直販」こそ本を「売る」=「買う」という過程がそのまま読者=購入者とのコミュニケーションに他ならない関係だ。・・・このネット社会である。ネット(=高安書房のサイト)を通じて書店や読者への「直販」でやっていくという選択があって然るべきだし、数を売ることより身の丈にあったやり方でチマチマとやっていけばいいのではないか・・・などとも考えてしまう。
ということで、この時点での中間的な結論はこうだ。
本来、じぶんの(詩集以外の)著書として先に世に問おうとした(「書肆山田」から上梓しようとした)文学思想論集『切実なる批評』(仮題)を、まずはもう一度『非出世系県庁マンのブルース』と同じ形で世に送り出し、その反響を見てから考える・・・。
『切実なる批評』(仮題)は、その内容からして『非出世系県庁マンのブルース』より僅かな読者(購買者)しか得られないだろうが、まさに〝身の丈に合った〟歩み方ではないか・・・。
ただひとつ、非常に困っているのは、前にも書いたが、Amazon、楽天ブックス、ヨドバシなどの大手ネットショップのサイトに、取引がない(取り扱いできない)にも拘らず、高安書房の新刊のデータが掲載され、いざそれを注文しようとすると「販売休止中です」とか「取り扱いできません」などという主旨の表示がなされてしまうことだ。(これは実質的に販売の妨害行為になってしまっている。)
「ヤフー知恵袋」にも『非出世系県庁マンのブルース』は書店で売っていないがどこかで買えないかという質問に、ネットショップで売っていないかと回答があり、売っていないと返答が来て、結論としてはどこでも売っていないという印象になる旨の記載がなされており、こちらがそれに気づいたときは回答期限が過ぎて記入ができなくなっている。ヤフー知恵袋に「非常に迷惑しているから再度回答を書き込みできるようにしてほしい」と訴えるも音沙汰がない状態である。
まぁ、愚痴を延々と述べても詮無いこと。とりあえず今は次の出版に向けて取り組んでいこうと思う。
【追伸】
『非出世系県庁マンのブルース』が地元の書店にない場合、高安書房のサイトをご覧いただき直接注文してください。書店からお求めになりたい場合は、「高安書房からより寄せできないか?」「高安書房はネットで検索すればサイトが見つかり、そこに書店との条件が記載されている」とお伝えください。
2023年01月04日
2023年になりました・・・

「明けましておめでとうございます。」と新年の挨拶を申し上げるところですが、昨年からの世情の動きを見ていると、いよいよ日本は奈落への道を歩み出したようで、新年を寿ぐ気持ちがこれほど生じてこない年明けは初めてです。
しかし、まぁ、筆者はオプティミズムの立場もペシミズムの立場も、まして宮台真司さんのような「加速主義」の立場もとらないので、チマチマと当面じぶんのすべきことをしていくだけです。
2023年は、昨年に立ち上げた個人出版社「高安書房」から、高啓文学思想論集『切実なる批評』(仮題)を出版する予定です。
じつは、この論集は昨年中に上梓すべく、これまで高啓の詩集を5冊刊行してきた書肆山田に原稿を送り、出版をご検討いただいていたのでした。
しかし、昨年の5月に編集・装本を担当されていた大泉史世さんがお亡くなりになられ、文学思想論集の出版計画は宙に浮いたまま時間が経過しました。(大泉史世さんがどのように素晴らしい編集者であられたかについては、毎日新聞2022年7月13日夕刊掲載の池澤夏樹さんによる大泉史世さん追悼の寄稿「ある編集者の仕事」を参照していただきたいと思います。)
高啓は大泉さんの訃報に接していっとき放心状態となり、それから気を取り直してどこか他の出版社に発行を依頼することも検討しました。
しかしその一方、文学思想論集と別に、けれども時期的には並行して刊行を考えていたところの職業的自分史『非出世系県庁マンのブルース』が山形県行政の裏面やその組織の人間像を極めて赤裸々に描いたものであるために、これをどこかの出版社から発行した場合、万が一にもその出版社に迷惑がかかることになってはいけない、いっそのことこれを機に自分で出版・販売事業を起してしまえっ・・・と「高安書房」を立ち上げたことから、文学思想論集も高安書房から刊行することにしたものです。
刊行の計画では文学思想論集が先で、次に職業的自分史という思惑でしたが、以上のような経緯によって、順序が逆になりました。ぜひ、この二冊を併せてお読みいただきたいと思います。
肝心の詩作の方ですが、2022年は山形新聞の連載企画「ふるさとを詠う―山形の現代詩―」に、「山塊論」(2月3日号)、「デッキ論」(7月7日号)、「濃霧論」(12月8日号)の3作品を発表しました。
また、山形県詩人会発行の『山形の詩―anthology2022―』(11月1日)に「失語論」を、土曜美術社出版販売発行の詩誌『詩と思想』6月号に「内腔論」を発表しました。2022年は1年間にこの5作品しか詩を書きませんでした。
2023年は何篇の詩を書けるかわかりませんが、上記の山形新聞の連載企画には5月18日と11月16日の2回(=2篇)は発表するつもりです。
追記:『非出世系県庁マンのブルース』について、内容紹介のため小見出しを記載しましたので高安書房のサイトをご覧ください。
高安書房のサイトにはこちらからどうぞ。
2022年12月11日
高橋さんへの返信

高橋さん、本ブログの「オーナーへメッセージ」からいただいたメールにお返事を差し上げましたが、ご覧いただけましたか?
plala のアドレスとdocomoのアドレスの両方にメールで返信しましたが、当方のアカウントがフリーメールだったせいか、docomoからは拒絶されました。
plalaでもご覧いただけていない場合、ここに返信を記載することもできますが、どうしましょうか。
(註)高啓著『非出世系県庁マンのブルース』、とくにそのなかの「米沢の能舞台はなぜ空気浮上するのか」を読んで、就職のため、高啓に山形県内の地域性を質問されたものです。
2022年11月24日
鈴木志郎康さんの思い出

2022年9月、詩人で映像作家の鈴木志朗康さんが亡くなった。87歳だった。
ぼくが志郎康さんに会ったのは二度。一度目は、たしか「山形国際ドキュメンタリー映画祭2005」の開催期間中だったと思う。場所はかつて山形市役所の近くにあった「香味庵」という蔵屋敷の料理屋(それは漬物屋「マルハチやたら漬け」の店舗兼工場でもあった)の座敷だった。
この年の映画祭の企画の一つ「私映画から見えるもの―スイスと日本の一人称ドキュメンタリー―」で志郎康さんの作品『極私的に遂に古希』(After All , I’m 70 Years old)が上映されるのを機に、志郎康さんが来形し、「書肆山田」の鈴木一民さん、詩人で上山市在住の木村迪夫さんが酒席を共にすることになった。その際に鈴木さんか木村さんにお声掛けをいただき、高啓が同席させていただいた。この前年の4月に高啓は書肆山田から詩集『母を消す日』を上梓していたことから、お呼びがかかったわけである。
このときどんな話をしたか記憶はないが、ただ志郎康さんとの別れ際に、「もしよろしければ帰りの新幹線ででもお読みください。」と言って、この詩集を手渡したことだけは覚えている。
驚いたのはその二、三日後、志郎康さんから連絡が来て、「あなたの詩集を帰りの新幹線で読んで、あなたにお会いしたくなった。ついてはすぐにでも山形に行きたい。」というのだ。そして香味庵での初対面から一週間もしないうち、ぼくは志郎康さんを山形駅で出迎えることになったのだった。
その夜は、山形市七日町の古びた飲み屋街「花小路」にある割烹「浜なす分店」に部屋を取って、盃を交わしながら詩にまつわる話をした。志郎康さんは、ぼくの詩集『母を消す日』を丁寧に読んでいくつもの感想とサジェスチョンとをくれた。ぼくはそれを、酒を飲み飲みノートを取りながら聴いた。でも、このときの話で今も記憶に残っているのは、志郎康さんが語ったご自身の内心のことだ。
志郎康さんはしばらく前から、他者が書いた詩をまったく読めなくなっていた。一切受け付けなくなっていた。・・・というのである。この時、志郎康さんは映像作家として多摩美術大学の教員の職についていたので、かつてのように他人の詩を選考したり論評したりする経済的な必要性からは解き放たれていたが、それにしても他人の詩を全く受け付けられないというのは深刻な悩みだったのだという。
そしてそれに続けて、こんなふうに話した。・・・しかし、あるときふとしたことから、その詩を書いた作者本人に直接対面して話をすると、その人の詩も受け付けられることに気がついた。そこで詩人に会いに行くことにした。あなた(高啓)はそのようにして会いに来た二番目の人だ・・・と。いわば、ぼくに会いにきたのは志郎康さんにとって〝詩のリハビリテーション〟のためのものだったのである。
さらに続けて、志郎康さんは「あなたのこの詩集の作品に出てくる場所に連れて行ってほしい」と言うのだ。それで是非もなく、ぼくは翌日志郎康さんを車で「詩に出てくる場所」のいくつかに案内すると約束してしまったのだった。
翌日、自家用車でホテルから志朗康さんを載せ、最初に向かったのは山形駅東口のペデストリアンデッキだった。これは前掲詩集収録の作品「ペディストリアン・デッキのドッペルゲンガー」の中に出てくる〝場所〟だ。そして次に向かったのは山形駅からほど近い五日町踏切だった。これは同じく作品「五日町踏切を越えて」の〝現場〟である。
この二つの場所を回って、まぁこれぐらいだろうと思っていたら、志郎康さんは「そういえばザリガニが出てくる詩があったね。その沼にも連れて行ってほしい。」と言う。その作品は「インポオ・テンツウになる日」、その沼とは蔵王温泉地内のため池「鷸の谷地沼」(しぎのやちぬま)のことだ。山形駅から車で40~50分かかる。
蔵王温泉への道すがら、志郎康さんの問いかけに応える形で自分のことを話した。
山形大学4年生の後期に突然国立大学法学部の大学院受験を思い立ったこと。学生時代の専攻は日本政治思想史で、指導教官から論文をかけと言われて山形県出身の高山樗牛について書こうとしたが、構想が長大になり途中までしか仕上げられなかったこと。卒業要件になっていないこの論文に取り組んだことで、外国語の勉強が全然できなかったこと。北海道大学の大学院受験に失敗し、帰りの青函連絡船から厳冬の津軽海峡に身を投げようとしたこと。それでも指導教官から進められて静岡大学の専攻科に入学して翌年の大学院受験を目指したこと。ところがその年から大学院入試の期日が大幅に前倒しになっていたことを知らずにいて、受験機会を逃すという大失態を演じたこと。いろいろあって山形に帰り、公務員試験を受けたこと。そして山形県職員となったこと。・・・等々である。(この間の経緯は近著『非出世系県庁マンのブルース』の第Ⅳ章「要領の悪い歩行について」に少し詳しく書いてある。)
鷸の谷地沼に着くと、志郎康さんは車から降りてビデオカメラで風景を撮り始めた。ふと振り向くと、ぼくの後ろからぼくの姿も撮っていた。内心、このシーンは絶対に作品で使わないでほしいと思ったものだ。
蔵王温泉から下る車中でも、またぼくの話になった。県庁職員としてどんな仕事をしたのかと問われ、「そうですねぇ、こんなことをしましたと人に話せるのは、米沢に『伝国の杜』という山形県の文化ホールと米沢市の博物館を合築した文化施設を造ったことですかね・・・」と話すと、じゃあそこに連れて行ってくれというのである。それでここからまた1時間以上、志郎康さんと車中の話が続いたのだった。
志郎康さんもご自分の身の上話をした。NHKのカメラマンを辞職して詩や映像で飯を食っていこうと決断したのは、(ぼくの不確かな記憶では)親の遺産で都内に一戸建てのマイホームを手に入れることができたからだとのことだった。それから奥さんのことでいろいろと気を使っていることも話してくれた。(ここはこれ以上明らかにはできないが。)
ぼくは志郎康さんがかなりプライベートなことまで話してくれるのに少し驚いていた。もっとも、そういう自分はベロベロと饒舌に個人的な事情を話していたのだったが。
志郎康さんは、「伝国の杜」のプロジェクトを巡って、県と市が激しく対立したことや、ぼくが県の内部でひどく孤立したこと、そしてどんな問題にどのように対応してきたかの話にずいぶん興味をもって耳を傾けてくれた。(この話も『非出世系県庁マンのブルース』の第Ⅲ章「米沢の能舞台はなぜ空気浮上するか」に詳しく書いた。)
結局、「伝国の杜」や上杉神社の一帯を見物しながら、志郎康さんは米沢市企画調整部=上杉藩精鋭部隊とたった一騎で対峙した佐竹藩脱藩士のぼくの恨み節に全部付き合ってくれたのだった。米沢駅近くの喫茶店で一休みして、同駅から新幹線で帰京するまで、おそらく二日間で10時間以上一緒にいた計算になる。志郎康さんは70歳、ぼくは48歳だったが、お互いにずいぶんと疲れたはずである。
この2年後も映画祭で志郎康さんの作品が上映されることになったので、来形の折はぼくがアッシー役を買ってでますと伝えたのだが、東北芸術工科大学の教員になっている教え子や知り合いが接遇してくれる、もっぱらそちらと時間を共有するので、という理由で断られた。そしてこのあと、ぼくは二度と志郎康さんと会うことがなかった。
志郎康さんは内心、ぼくと過ごした時間に辟易していたのではないだろうか。それでも、ぼくにとって志郎康さんと過ごした濃密な時間は一生の思い出になっている。
志郎康さん、あの世でまた話したいです。そのときは断らないでくださいね。合掌。
2022年11月13日
久しぶりにジャズ喫茶「オクテット」へ

【注】 以下の内容は「高安書房」のブログに記載した内容と被っています。
山形名物(?)の濃霧の季節が来ました。
今日は午後から天気が崩れ、また一段と気温が下がるようです。
街に降りてきた紅葉もそろそろ終わりが近付いている・・・・。
ちょっと山形駅前をぶらつく時間ができたので、ほんとうに久しぶり、たぶん10年以上ぶりに山形駅前のジャズ喫茶「オクテット」に行ってきました。マスターの相澤さんが高齢になり、継承者を探しているがその専門性ゆえになかなか見つからないという新聞記事を見て、〝ああ、相澤さんがまだ店に出ているんだ〟と思い、懐かしくなったからです。
というのも、だいぶ以前ですが、店を訪れたり覗いたりしたとき別の方が店をやっていたので、相澤さんはあまり店に出ていないのかなと思っていたのです。
珈琲の味は相変わらずで私の口には合いませんが、雰囲気は変わらず、私が知る限り40年くらい前のままです。この日はミルト・ジャクソンのビブラフォンの演奏曲が流れていました。久しぶりにレコードの音色を聴きました。レコードはいいですね~。
この日は長い髪の女性店員に相澤さんがいろいろ説明していました。品出しのことだけでなく、レコードやアーティストの説明もしているようだったので、この人を後継者にするのかな・・・と思いました。
「いつもまでもあると思うな店と街」という一行を詩に入れたことがありますが、まさにそのとおり。時は残酷です。駅前の飲み屋街の見慣れた店も無くなっていました。「修ちゃんラーメン」「焼肉大雅」それに「クワイエット・カフェ」など、私はあまり入ったことはなかったのですが、寂しいです。
ところで、山形駅周辺で観光客の姿を見かけるようになりました。
非アジア系の外国人の観光客姿もちらほら。
紅葉最後期の霞城公園も美しいです。
さて、高安書房のブログで、『非出世系県庁マンのブルース』へのコメント(その4)を紹介しています。
そちらもご覧になってください。
おかげさまで山形県内の書店で少しずつ売れているようです。
八文字屋書店各店舗、小松書店本店、くまざわ書店さんなど、2回目の配本になりました。八文字屋北店さんでは、最初の配本のときは郷土図書の棚でしたが、今度は文芸・教養新刊書のコーナーに平積みされていました。
また、県外の公共図書館や県内の高校の図書館からの注文もぽつぽつ来ています。
図書館の方には個人の方と同じように直接高安書房に注文いただきたいのですが(直接購入だと消費税がかかりません)、支払い手続きが面倒な場合は取引のある書店に取寄せ依頼してください。
山形県内の学校の場合は「山形教育用品株式会社」さんをご利用されてると思いますので、そちらでも対応してくださるようです。
山形県内の書店の方は、もし「山形県教科書供給所」さんと取引がありましたら、そちらへ発注してください。もちろん、高安書房へ直接注文いただけます。
先日、TOHANさんから注文が来ましたが、返事の電話で「大手取次との取引は今のところしていなので、どのようにお付き合いしたらいいかわからないのですが・・・」と申し上げたら、「じゃあいいです」で終わってしまいました。
本当は取引していただきたいのですが、たぶん、小社のようなミニマム出版社と1冊ごとの取引はしていただけないと思います。
高安書房への発注方法はこちらをご覧ください。
2020年06月02日
ブログ再開宣言

久しく書き込みをしていませんでしたが、このブログを再開します。
まず、この間の状況の変化について。
1 これまで同人となっていた『山形詩人』(高橋英司編集)が、当初の目標であった「100号達成」により、休刊となりました。
2 高啓は、定期的な作品の発表場所を求めて、高橋英司氏が従前より寄稿していた『詩的現代(第二次)』(愛敬浩一・樋口武二編集・発行)に参加させていただきました。2019年7月発行の30号から寄稿しています。
なお、高橋英司氏はその後、『新・山形詩人』を創刊しましたが、この詩誌のコンセプトは、山形県内の詩人で他に発表の場がない者のための「タワーマンション」を目指す、『山形詩人』の再結集ではない、とされたため、高啓は参加していません。
3 高啓は2019年度末をもって定年後再雇用されていた職場を退職し、2020年5月からソーシャル・ワーカーとして働き始めました。これから、細く長く続けていきたいと思っています。
少し時間に余裕ができたので、これまでより文筆活動に時間を使うことができると思います。
4 山形県西川町の「丸山薫少年少女文学賞『青い黒板賞』詩のコンクール」の審査委員になりました。2019年から審査に参加し、2020年1月発表の第26回の表彰に関わりました。
ということで、この間発表したものは次の通り。
① 詩「喪姉論」 (『詩的現代』30号 2019年7月)
② 詩「人生が二度あれば、なんて思わない」(『詩的現代』31号 2019年10月)
③ 評論「松田英子は何処へいった?」(同上 「特集:大島渚の時代と映画」)
④ 詩「アンタ ダアレ」(『詩的現代』32号 2020年3月)
⑤ 評論「風景、音楽及び時間意識について」(同上 「特集:立原道造」)
⑥ 詩「小路論」(山形新聞 2019年2月28日 「ふるさとを詠う」)
⑦ 詩「青白幻想論」(山形新聞 2019年7月18日 「ふるさとを詠う」)
⑧ 詩「ザンゲ論」(山形新聞 2019年12月12日 「ふるさとを詠う」)
⑨ 詩「入門論」(山形新聞 2020年5月28日 「ふるさとを詠う」)
⑩書評「ゴーリキー傑作選『二十六人の男と一人の女』(中村唯史訳・光文社古典新訳文庫)」(山形新聞 2019年3月31日)
⑪書評「松田達男詩集『いろは いのち』」(山形新聞 2019年10月30日 「未読・郷土の本」)
このほか、2020年6月発行予定の『詩的現代』33号に、詩「再帰するアレについて」と評論「だれが、なにを、異化するのか。―草彅剛のヒトラー―」(特集:ブレヒト)を寄稿しています。
これから、徒然にこのブログにも書いていきますので、よろしくお願いします。
2008年05月06日
めくるめく春の・・・
山形の春はあっという間にやってきて、あっという間に過ぎ去っていく。
ながいながい冬が過ぎて、やっと春になったと思ったら、花が一斉に咲き出す。
桜、木蓮、桜桃、林檎などが次々と咲き乱れ、そしていまはハナミズキが満開を迎えている。
春があっという間に過ぎ去るということは、夏があっという間にやってくるということで、夏があっという間にやってくるということは、あっという間に昼の時間より夜の時間が長くなることを意味し、そしてそのことは否が応でも冬の到来を意識させる。
つまり、じぶんの意識の中では、冬以外の季節はすべて冬に向かって進んでいるのだ。
“冬に向かう春”、その春が、しかし、どんなにめくるめくものか、その一端を記したいと思って、4月下旬から5月のGWまでに咲いた庭の花たちに、柄にもなくカメラを向けてみた。
じつは、庭の花をブログに掲載するのは、詩人の鈴木志郎康さんの真似でもある。
この庭の草木は、私の義母(妻の母)が中心になって育ててきたものだ。
その義母が亡くなって、今年でもう七回忌になる。
この義母が胃がんの再発で亡くなっていく過程に取材したのが、詩集『母を消す日』の「かあさん、あなたが消えていく」という作品である。
さて、私には、いままでのところ、庭いじりの趣味はない。ろくに花の名前も知らない。
だから、これらの花は、他人のようでもあり、またそれゆえ生々しさをもって迫ってくる。
一見どんなに可憐に見えていたものでも、近づいてよく視てみると、多分に毒々しく思われてくる。














ながいながい冬が過ぎて、やっと春になったと思ったら、花が一斉に咲き出す。
桜、木蓮、桜桃、林檎などが次々と咲き乱れ、そしていまはハナミズキが満開を迎えている。
春があっという間に過ぎ去るということは、夏があっという間にやってくるということで、夏があっという間にやってくるということは、あっという間に昼の時間より夜の時間が長くなることを意味し、そしてそのことは否が応でも冬の到来を意識させる。
つまり、じぶんの意識の中では、冬以外の季節はすべて冬に向かって進んでいるのだ。
“冬に向かう春”、その春が、しかし、どんなにめくるめくものか、その一端を記したいと思って、4月下旬から5月のGWまでに咲いた庭の花たちに、柄にもなくカメラを向けてみた。
じつは、庭の花をブログに掲載するのは、詩人の鈴木志郎康さんの真似でもある。
この庭の草木は、私の義母(妻の母)が中心になって育ててきたものだ。
その義母が亡くなって、今年でもう七回忌になる。
この義母が胃がんの再発で亡くなっていく過程に取材したのが、詩集『母を消す日』の「かあさん、あなたが消えていく」という作品である。
さて、私には、いままでのところ、庭いじりの趣味はない。ろくに花の名前も知らない。
だから、これらの花は、他人のようでもあり、またそれゆえ生々しさをもって迫ってくる。
一見どんなに可憐に見えていたものでも、近づいてよく視てみると、多分に毒々しく思われてくる。
2008年04月20日
雨の馬見ヶ岬川河畔
この土曜日は生憎の雨となったが、それでも馬見ヶ岬川河畔に出かけてみた。
ここ2、3日の雨で馬見ヶ岬川は増水して濁っているが、雨に煙る河畔の桜並木は、それはそれで趣がある。
雨の中、橋の下で花見の宴を催しているグループもあったが、さすがに見物客は少ない。こうしてしずかに昏い桜を眺めていると、季節の、とりわけ春の移り変わりの速さに追いつけないそわそわとした想いが、少しずつ心の下のほうに沈み、おもく澱んでいくよう思われる。
一枚目の写真の中央に見える建物は山形県庁。その向こうは蔵王連峰へ連なっている。
この庁舎は、第一次オイルショックの影響を受けたせいか、県庁としてはチープな建物になっている。
二枚目の写真は一枚目で対岸に見える桜並木の道路を東へ、つまり仙台方向に走る車内から撮ったものである。
この桜並木は2キロくらい続いている。なかなか見ごたえのある並木だ。この時期、ライトアップされる。
もう少し観光PRをして、イベントを催したり、露店なども立てて観光に活用したらよさそうなものだが、あっさりとしたものである。
さて、このたび、高啓は、平成19年度の活動、すなわち詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』(書肆山田)の出版によって、山形市芸術文化協会から「奨励賞」ということで顕彰されることになった。
受賞の理由は次の通り。
「亡き母を思い、妻と子どもたちに注ぐ眼差を通して、父親が社会人として生きる悲哀や希望などが
うたわれている。一編一編が物語り仕立てで散文詩的に構成され、リズミカルで力強い。比喩が
自在に駆使され、言葉が縦横に飛び回り、それでいて文脈は明晰である。」
顔見知りで比較的近い地元の人たちから認めていただいたことは、それなりにありがたく、謹んで賞を頂戴する。
ただ、関係者には申し訳ないが、表彰式が行われる山形市芸術文化協会総会は欠席させていただく。
当日、宇都宮の芝居を観にいく予定が入っているもので。
2008年01月14日
年賀状卒業(したい)宣言
2008年になった。
しかも、もう2週間も経った・・・。
それどころか・・・。
あっは。・・・平成になって、もう20年である。(--;
このブログ、月に3〜4回しか更新していないのに、更新して何日経っても毎日30〜60くらいのアクセスがある。
管理画面を見ると、どこか特定の頁のアクセス数が格別多いということでもないので、検索エンジンで特定の事項や人名を調べていてこのブログのどこか一部がヒットしてここを訪れた人が、それとは関係ない他のページ(別の日の記述)も見て回ってくれているような気がする。
さて、「さらば、2007年!」で書いたが、06年に続いて07年も骨髄バンクからまた「当選」通知が来、やがて「保留」通知が来たという話の後日談・・・・。
2008年が明けて間もなく、やはりまた「患者さんの都合により今回のコーディネイトは終了になりました。」という通知がきた。
それは、「終了の理由は下記に示すとおりですが、詳細についてはお知らせしておりません。」といい、「患者さんの都合による主な理由」として、下記のものを挙げている。
? HLA(DNA)が不一致のとき
? 他のドナー候補者の方が骨髄採取の運びとなったとき
? 患者さんの病状変化等により治療方針が変更、または骨髄移植を見合わせることになったとき
この通知では「詳細についてはお知らせしておりません。」となっているが、昨年12月にあった「保留」の通知で?だということを伝えられていたので、この度は了解した。
しかし前回候補となり「保留」となり「終了」となったときは、?と?のどちらであるかを知らされないままだった。
これぐらいは候補となることを承諾してコーディネイトを進めたドナーの皆に知らせて当然ではないだろうか。
ところで、07年の暮れ、つまり08年の年賀状を書く季節から、「年賀状」というものから解放されたくなり、職場関係と個人的関係の相手でメールアドレスを知っている人たちに以下のようなメールを出した。
「 今年もあっという間に年末がきて、来春の年賀状を書く季節となりました。
これまで丁寧な賀状を頂戴して参りましたこと、心より感謝申し上げます。
そのご厚情にお応えするため、私も年賀状を差し上げるべきところですが、本年50歳を迎えたことや、
郵政事業が民営化されたこと(?)を機に、そろそろ年賀状の作成作業から解放されたくなった次第です。
そこで一計を案じ、このように電子メールで、事前に、当方からは年賀状を差し上げない旨のご連絡をさ
せていただくことにしました。
誠に勝手ですが、高啓はこのようにしょうがないぐうたら者であるとご海容いただきますようお願いいたし
ます。
なお、年賀状は差し上げないこととさせていただきますが、下記アドレスにメールをいただきました折には、
折り返し年賀のご挨拶などをお送りさせていただきます。 」
すると、メールを送ったある先輩から、凡そこんな内容のメールの返事がきた。
「 きみの言うことはよく理解した。そういえば昨年あたりから『年賀状は今年限りにしてください。』と書いた
年賀状が見受けられるようになった。
でも、年に一度も会わないのに何かお互いに便りがないのも寂しい感じがする。
私の記憶では、何年前か忘れたが、きみからもらった年賀状に『故郷では、正月に、大根を切って、爪楊枝
を立てて、ろうそくを立てた・・・』という話が書いてあって、それがとても印象に残っている。
今年は何を書いてくれるのかを楽しみにしていた。何かそれに変わる物があればよいように思う。 」
その年賀状については、印象に残っているという話を他の人たちからも聞いたことがある。・・・それで、いつのことだったろうかと・・・書き損じでもないかと昔の年賀状のファイルを探してみた。
自分の書いた年賀状は見つからなかったが、そこには、たぶん、こんなことが書いてあったのだと思う。
子どものとき、大晦日の私の仕事はお供え用の燭台をつくることだった。台として大根を少し厚めに切り、
それに割り箸を半分に切断してその両端を小刀で削ったものを立て、そこに蝋燭を刺す。
その燭台に火を灯し、お神酒や丸餅やみかんと一緒に、店先、帳場、井戸、流し、風呂、便所などに供え、
それを家人が順番に拝んであるく。そして最後に神棚を拝み、仏壇に手を合わせて、家族みなが年越しの
膳につく。それが商家である我が家の大晦日の儀式だった・・・と。
代わりにみつかったのは、プリントゴッコ用のB6の原稿用紙に書いた別の年の年賀状の原稿だった。ファイルされていた場所から推測すると、「昭和64年」のようだ。
その文章を再掲してみる。こちらについても、数人からずいぶん印象に残っていると言われた記憶がある。
「 冬になると想い出すのは鱩(ハタハタ)です。
むかし大漁だったころ、母が木箱ひとつを五百円ほどで購ってきては、
土間で瓶に漬けている姿です。
昼は生を焼いてしょう油で、夕は鍋で、朝は味噌漬けを焼いて、と、
三食つづけて喰わされたのが頭にこびりついているのです。
でも、もう心配はいりません。
鱩は今や高級魚で、母もこの世におりませんから。 」
さて、山形は真冬らしい細かな雪が降り、しんしんと冷え込んできた。
ぷふいっ。・・・・時間は急激に流れ去る。
2007年12月31日
さらば、2007年!
極私的に2007年という年を振り返ってみると、3冊目の詩集を出版したことのほかに思い起こされることはふたつ。
それらは、普段“お気楽”を旨として生活しているじぶんにとって、それを掣肘してくる要素でもある。
ひとつめは、初夏ごろからいわゆる“四十肩、五十肩”という症状が出て、その後、肩から腕の痛みが引き続いていることである。
昨年の12月から、天候がすぐれなかったり風が吹いていたりすると、それまで続けてきていたロードのジョギングをずいぶんサボるようになってしまったので、フィットネス・クラブへ入会し、そのジムに通うということを始めたのだった。
冬の間もトレーニングできるので、週に2回ほど通ってトレッドミルの上を走り、筋トレも少々やって、6月には8〜9年ぶりくらいにハーフマラソン大会で完走できるようになった。
しかし、夏頃から、両方の肩が痛くて、回らない・上がらないという“五十肩”状態が始まった。
腕の筋トレを自粛して騙し騙ししているうちにこの症状は秋までに治まったが、この状態が改善するのと入れ替わるように右腕・右肩が痛むようになった。
これも騙し騙して一進一退の状態だったのだが、そろそろいいだろうと思って、日常の作業で腕を使ったり、弱い筋トレを復活させた途端、夜も眠れないほどの痛みが襲ってきた。
地元で有名な整形外科へ通って、塗薬や経口の消炎鎮痛剤を処方され、リハビリに通うように言われて何度か通ったが、そのうち我慢できる状態になったので、サボり・・・・よくなったかなと思ってまた筋トレと日常作業をしたところ・・・と、この繰り返しをしてしまい、ついには二日ほど一睡もできない痛みに呻くことに。
(おそるおそる筋トレしたのだが、一日おいても痛みが現れなかったので油断したのだ。・・・歳とると筋肉の疲労が時間を置いて炎症になるということか・・・)
この痛みは、夜、床につくと酷くなった。
三角筋、大胸筋、上腕二頭筋、上腕三頭筋などが代わる代わる痛み、あるいは重苦しい状態が続く。
整形外科のリハビリを受けた日はやや軽快するが、毎日通うこともできず、ちょっとした作業をした程度でも状況がやや悪化する。パソコンのマウスを動かすときも、上腕筋に緊張があって鈍く痛む。
この二、三日も、大掃除などで腕を使ったせいか、夜に一、二度、苦しくて目が覚める。
医師は病名をはっきり言わないが、写真のような薬を処方した。
経口薬の「ボルタレンSR 37.5mg」、塗薬の「ナパルゲンクリーム」(1g中フェルビナク30mg)、そして眠れないときのために座薬の「ボルタレンサポ 50mg」。
この「ボルタレン」という座薬は、消炎鎮痛剤として一般的なのだろうが、末期がんの義母が使用していたので、そのときのことがフラッシュバックのように蘇った。
(義母が胃がんの再発を宣告されてから、亡くなるまでのことは、第二詩集『母を消す日』(書肆山田、2004年刊)の冒頭に入れた「かあさん、あなたが消えていく」という長編詩に書いた。)
ああ、これは癌の痛みに(モルヒネを使う前の段階で)使う薬でもあるのか・・・そう思うと、これはまだ使えないな、などと使用せずに我慢している。(苦笑)
ふたつめは、これも詩と絡むのだが、第三詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』(書肆山田、2007年刊)に収めた「骨髄ドナーは呻き呟く」という作品で取材している骨髄ドナーに関して。
昨年(2006年)の春、もう忘れかけていた骨髄バンクからドナー候補に選ばれたという通知が来て、迷った末に引き受けるという決断をし、面談や大学病院での精密検査まで進んだのだが、結局その秋に「保留」の通知がきて、やがて「患者側の都合でコーディネイトは終了になりました」との連絡がきたという話・・・これを詩のネタにした罰が下ったのか、今年(2007年)の秋、また当選通知がきたのである。
昨年、血液の精密検査を受けているので、じぶんは白血球のHLAのDNAタイピングまで行っているわけだし、今回は「迅速コース」ということで3ヶ月程度で移植手術までいく予定だということだったので、都合など考える間もなく“今度は覚悟しなきゃいけないか・・・”と受諾を決めたのだった。
しかし、今回も、職場に説明して了承を得た後で、やはり「第一候補のドナー」のスペアとして「保留」となった旨の通知がきたのである。
移植した骨髄はレシピエントの体内で増殖しなければならないのだから、年齢を考えればもっと若いドナーの方が望ましいはずである。
だから「保留」続きの身の上をどうこう言う気はないが、やはり引き受けるには心の準備もいるわけで、その準備に少し疲れた・・・。(苦笑)
余談だが、今回は、大学病院で検査時の面談をした医師の態度に不快な想いをした。
いかにも骨髄バンクに頼まれて協力してやっているという態度で、ドナー候補への敬意など微塵ももっていないようだった。
「やっぱり、どうしても尿道にカテーテルを入なければいけないのでしょうか?」と聞いたら、「入れられたくないなら、今ここでコーディネートは終了だよ。」などと横柄な物言いをし、血液採取をしていると脇で「身体が丈夫そうだから、今度はドナーに選ばれるでしょう。」などと、まったく人を臓器の入れ物みたいな目で見やがった。
「おれはおまえの『患者』ではない!」と言ってやりたくなった。
ところが、この間、その医者と前記のフィットネス・クラブで一緒になった。もっとも向こうは気がついていない。
ひと月の会費が5,000円の大衆的なクラブなんだが、医者はもっと高級なクラブへ行け!とケツを蹴っ飛ばしてやりたくなった。(笑)
山形は、雪の年越しになった。
では、よいお年を。
2007年11月11日
さらば知歯・・・
「知歯」はオヤシラズのこと。オヤシラズは親不知とも書く。
親を知らない歯が知の歯であるというのは、言い得て妙である。
この知歯が生え始めたのに気づいたのは高校3年くらいからだった。
高校時代はそれほど気にならなかったが、大学生になって一人暮らしをはじめると、奥歯のさらに奥の歯肉がひどく腫れて痛み出すようになった。
今から考えれば、これは出かかった知歯と歯肉の間からばい菌が入って炎症を起こしたからだとわかるが、当時はバカなことにこれを知歯が肉を食い破って生えてくるために起こる必然的な痛みや腫れだと思い込んで、歯医者にも行かずひたすら耐えていた。
耐えるどころか、歯が出やすいようにと歯肉の隙間に爪を突っ込んで、肉をぎぃーっと押し広げたりもしていた。これはまさに“ひとりサド・マゾ”である。(苦笑)
知歯は4本だ。その4本が順番に(といっても順不同だが・・・)痛み出した。
しかも1本について、歯が出てくる過程で4〜5回の痛みの時期を経験した。
その一回の痛みが、ひどいときは1週間から10日ほども続き、その間は顎が腫れて口もろくに開けない状態で、数日間固形物を摂れず、ほとんど牛乳だけの食事で過ごしたことも何度かあった。
それにしても、ずいぶん苦しい想いをしたのに、なぜ歯医者に行かなかったのだろうと今になって思う。
歯医者に行けば抜かれてしまうと思い込んでいたフシもあるが、たぶん、これに耐えることが大人になるために避けられない道だとか、<知>というものはこうして肉を食い破って激しい痛みを伴ってやってくるものだ、などと漠然と思っていたような気もする。
こうして20代半ばには上下で4本が完全に出揃い、うち1本はすこし傾いて生えたが、3本はしっかりした歯になって、四半世紀も役に立ってくれた。
しかし、この2〜3年で4本に次々に腫れと痛みが襲い、触るとぐらつく状態になった。
歯医者によると、オヤシラズは周りの支えている肉が弱く隙間が開き易い。そこに歯周病菌が入り、歯が溶けてますます隙間が広がる。さらにそこにばい菌が入り、体調の変動で抵抗力が弱まると炎症を起こすのだという。
ぐらついている以上、もはやあきらめなさい・・・医者がそういうので、しかたなく、痛み出すたびに1本ずつ抜いてきたのである。
けれど、あれだけ苦しんで生えさせた<知歯>だ。なにか掛け替えのないものを失うような気がして、それでも最後の1本は、ほんとに痛くなるまで待ってください・・そう言って、この一年あまり誤魔化し誤魔化ししてきていた。
さて、だが、今回は最後の1本がまた痛みだしたとはいえ、その痛みが治まりだしたある日、なぜか突然思い立って歯医者に抜きに行った。
これが、“さらば青春”というやつである。(苦笑)