スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2011年08月31日

愚か者の帰省



 毎年一度は故郷に帰省するようにしている。
 親はもういないが、その街の商店街にじぶんの生家があって、兄が店を継いでいる。
 車で150分ほどの距離にある故郷に帰るのは、だが、じぶんにとっては少しばかりつらいことである。
 その湯沢という街の人々は一見恙なく暮らしているように視え、親類や知人たちはいつもじぶんを暖かく迎えてくれる。だが、じぶんがこの街を出てから時代は大きく変わり、規制緩和と農業の衰退と少子化と高齢化との抗いがたい流れのなかで、この中心街の空洞化は目を覆いたくなるほどに進んだ。
 この街から活気が失われていくゆくさまを見聞きすると、いつも堪え難い悲嘆に襲われる。その感情は、幾許かはこの街を捨てたじぶんの後ろめたさからくるものでもある。

 帰省したのは、毎年恒例の祭りである「愛宕神社祭典・湯沢大名行列」の行われる日の前日だった。http://aios.city-yuzawa.jp/kanko/event04.htm
 毎年8月の第4土曜日と日曜日に、中心街を練り歩く大名行列が執り行われる。8月の5〜7日に行われる「七夕絵灯籠祭り」、そして2月に行われる「犬っこまつり」が、“湯沢三大まつり”と言われ、その華やかさやメルヘンチックな趣きが多くの見物客を集めていたのは、まだ“昭和”と言われていた時代のことだったような気がする。
 これらの祭りは現在でも受け継がれているが、その実施主体である中心商店街の空洞化と住民の減少に伴って(そしておそらくは平成の合併後の新湯沢市の取組み姿勢の変化にもよって)、その規模を縮小せざるを得なくなっている。
 振り返ってみれば、この小さな中心商店街がこれまで営々と、8月のひと月の間にお盆を挟んで「七夕絵灯籠祭り」と「大名行列」との二つの祭礼を担ってきたこと自体が少しく驚嘆すべきことでもあるのだ。・・・酒造と宝石の研磨工場くらいしか製造業のないこの小都市(旧湯沢市)が、かつては如何に豊かで賑やかな商店街を持っていたかを語っても、今の寂れた姿しか知らない者に往時を想像させることは難しい。

 この街は、城下町であり、商業都市であった。それは周辺に深い郡部をもつ地域の中心都市であったからであり、つまりかつては豊かだった稲作地帯に支えられていたからなのであった。
 そのことを逆に言うと、この地域は“豊かな郷土”という幻想の上に胡坐をかいてきたために、そこからの転換が決定的に遅れた。(これは秋田県全般についても言えることである。)
 農業の面では稲作中心から園芸や畜産への転換が、そしてそれ以上に農業と商業中心の産業構造から電気・電子・機械などの製造業への転換が図られなければならなかったのである。
 なぜ、それは果たされなかったのか。その理由がじぶんには手に取るようにわかる。なぜなら、その理由であるところのこの地域の気風が、じぶんがこの土地を捨てた理由のひとつでもあるからである。

 実家に帰ってみると、兄の息子は、家の代表として大名行列の準備に追われていた。しかし、その忙しさの様子がこれまでとは異なっているのだという。
 この街では、5つの町内会が年毎に順番で祭りの当番を担ってきていた。だが、不況と商店街の空洞化による寄付金の減少や住民とくに行列を組む子どもたちの減少による出演者不足が深刻になり、ついに2つの町内会が運営からの離脱を宣言したというのである。
 これまで祭りを担ってきた町内の衆は、これらの状況を受けて大名行列の運営の根本的な改革を目指したという。
 いつから、またどんな由来によるかは不明だが、大名行列は旧市街の南端にある愛宕神社の祭典として行われてきた。神社の神輿を神主に率いられた氏子が担いで周り、大名行列も奴振りもいわば神輿行列の余興のような構成になっていた。実際には、佐竹南家の格式ある大名行列とそれに続く稚児の花車や子どもたちの引く山車の行列がメインなのだが、この祭りの開催自体が神社の所管下にあるために、祭りの運営当番の町内会は神社に毎年50万円もの寄進をしてきたのだという。それをなんとか減額しつつ、運営主体を神社と分離し、各町内持ち回りの過重な負担をなくすために「湯沢大名行列保存会」を組織しようとしたのだという。
 しかし、話し合いはうまくまとまらなかったようだ。そして、この調整に時間を要したために今年の大名行列の準備が遅延し、祭りの2日目の本番を前にして行うことが慣例になっている1日目の“笠揃え”といわれる行列の予行の実施はままならないこととなり、今年は日曜日1日限りの行列となったというのである。
 なお、兄嫁によれば、明治生まれのじぶんの父親が、生前に大名行列に関してこんなことを言っていたと言う。
 ・・・この大名行列は、湯沢の殿様(佐竹南家)が、年に一度くらいは町人も大名行列の真似をして奴振りなどで楽しんでもいいと言って始まったのだ、と。


 昔はじぶんも三度ほど行列に出た。いちばん幼いときは乳母車をもとに装飾した花車に乗った稚児で、次が小学校のとき、鷹匠の持つ鷹の餌の山鳩を模した作り物を竹竿の上に刺したものを持ってあるく下級武士か足軽風の姿。中学時代には裃(かみしも)を着た神輿警護の武士の役だったような気がする。
 行列を組んで歩く子どもたちには親や使用人などの付添人がついて、炎天下を歩く子どもを団扇で扇いだり、行く先々の店や個人宅から差し出されるノートや鉛筆など学用品の祝い物を子どもに代わって受け取り、それらでいっぱいになった袋を抱えて一緒に歩いていたものである。祝いの品は、親戚や町内の家々から自宅にも届けられた。じぶんが幼かったころには、学用品やジュースやカルピスの詰め合わせが、仏壇の前に山のようになった記憶がある。

 大名行列には殿様役の子どもが2人選ばれて、それぞれが立派な紋付姿で騎乗し、付き人に引かれて行進していた。
 息子たちの思い出にと殿様役に応募しようかと考えたことがあった。殿様になるには、馬の借上げ費用や遠方からの運送費用、それに祭り当日だけでも付き人たち延べ10人分の謝礼や飲食の振舞い費用、祭りへの寄進やら何やらで、乗馬の練習期間も含めて1騎あたり150万円は必要になるはずだと言ったら、女房が目を剥いて反対したので話は立ち消えになったが、いまや殿様役は1人に減って、その費用負担は300万円になっているのだという。
 その殿様役を、すでに中心商店街の家々から出すことは叶わなくなっており、今年は、平成の大合併で同じ湯沢市となった旧稲川町の「稲庭うどん」の製造元のある名家が担うということだった。
 この故郷を捨てて久しいじぶんには、いまやこの祭りについて口を挟む資格はない。だから甥に祭りのあり方をめぐる改革の試みとその不調の経緯を詳しく聴き質すことはしなかった。



 話は前後するが、今回の帰省の目的は、墓参りがてらいつものように高校時代の友人たちと盃を交わすためでもあった。
 とくに気になっていたのは、「薄情者の大阪行」で触れた、腎臓の進行がんで闘病中の友人のことだった。昨年の夏に彼の家に顔を出して、なんとか自宅で日常生活を送っている様子を見、それから1〜2度、携帯メールの交換をしていたのだったが、3月の大震災があって、その後じぶんが仕事に忙殺されてしまってから、その忙しさが一段落しても連絡を取っていなかったのである。
 気になりながらもなぜ連絡を取っていなかったかといえば、こちらから連絡を取るということはすなわち彼に“まだ生きているか”と問うことに他ならず、そのように問うことの前にじぶんが尻込みしていたというのがほんとうのところなのである。
 お前はまだ生きているか・・・そう問うことにどんな意味があるのか。それは彼のためではなくじぶんの後ろめたさを誤魔化すためではないか・・・。そんな逡巡のなかでこの半年を過ごしてきた。
 だが、幸いなことに、別の友人にまた飲もうと連絡をとったら、その友人がじぶんの気持ちを察して当の友人に電話を入れてくれた。すると、その進行がんの友人も宴席に顔を出すというのだった。
 こうして、また高校時代の友人たちと4人で飲んだ。宴席に4人そろうのは18ヶ月ぶりだった。

 腎臓がんの友人は、気づいたときはすでに手遅れの状態で、原発巣は切除したが、いまや肺や骨にたくさんの転移があるのだった。
 だが、ネクサバールという抗がん剤が効いているのか、転移したがんの増殖スピードは押さえられており、痛みや副作用の症状に襲われながらも、痛み止めのパッチをして自宅生活を続けることができている。
 彼が言うには、ネクサバールがこんなに長く奏効しているのは、日本では自分の症例くらいのものだろうということだった。
 けれどもこのときの彼の様子は比較的良好で、顔色もよかった。思ったより痩せ具合はすくなく、頭髪も復活していた。
 彼は刺身には手をつけなかったが、旬の焼き秋刀魚の片側を平らげていた。

 農業をやっている別の友人は、今年はじめの大雪で、さくらんぼの雨よけハウスとリンゴに甚大な被害が出たと頭を抱えていた。とくにリンゴは、あまりの大雪に枝の除雪がままならず、枝が折れたり幹が裂けたりして深刻な状態になり、高齢者で後継者のいない農家ではリンゴ栽培を諦めるという者も出ているという。
 彼の家も、さくらんぼの雨よけハウスの鉄パイプに貼り付いた雪で骨組みが潰れそうになり、その雪を払うのに精一杯で、リンゴの木をその丈がすっぽりと雪に埋もれた状態から掘り出して救うところまでは、体力の限界でとてもできなかったと言うのだった。
 農業共済の補償金は出るのかと訪ねると、雪害では対象にならないのだという。
 さくらんぼも全て護りきれた訳ではなく、しかも山形が豊作だったのに湯沢では雪害の影響もあって、今年は出来が悪かったという。彼は、損害の大きさに、いったんはお先真っ暗でどうしたらいいかわからなくなったというが、“もともとアタマが莫迦なもんだからクヨクヨ考えない”と苦笑しつつ、なんとか日々の蔬菜類の出荷で立ち直ろうとしている、と語った。

 がんの友人を見送ってから3人で二次会に行き、店を出たのは午前2時を過ぎていた。4時間近くも何を話していたのか覚えていない。そのスナックのママさんが、国の災害対応のまずさを批判したので、「政府への批判はもっともだが、皆が国の仕事だと思っていることの大方は県や市町村が担当している。県や市町村が機能停止すれば、行政サービス提供の実施機関としての国なんて、そもそもが無いに等しいのさ・・・」酔っ払って、そんなことを偉そうに語ったような気がする。相変わらず愚か者だ・・・(--;
 女性にズケズケ歳を訊くのは失礼だと思ったが、帰り際にそれでもまっすぐ歳を訊いたら、64歳だとの答え。男気のある魅力的な人だった。秋田の女はやっぱりいい・・・。

 こんなに飲んだのは何年ぶりだろう。莫迦さ加減が、まるで、酔い越し金はもたねぇ〜とばかりに飲み歩いた20〜30代のころのようだった。
 だが、身体は確実に歳相応だと思い知る。痛飲のダメージから開放されるのに2日もかかったのだった。                                                                                                                                                                        





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:50Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年08月28日

モンテ観照記 2011  「われわれは堪える」



 残り試合数が刻々と減少していくなか、モンテディオ山形はなかなか上昇機運に乗り切れない。第23節の清水戦を終えたところで、勝ち点16で降格圏の17位。すぐ上の順位のチームとの得点差を縮めることができないでいる。
 
 第21節から第23節までの試合に触れておきたい。
 まず、第21節の8月13日(土)、甲府を迎えたホームゲームで、モンテは久しぶりの勝利を収めた。
 この試合の前半、甲府は、ハーフナーマイクやダヴィらのFWやMFがモンテの守備ラインから一斉にディフェンスの裏へタイミングの絶妙な飛び出しを見せ、たびたびモンテのゴールを脅かした。
 モンテ守備陣は最初のうちはよく対応していたが、メインスタンドから見ていると、甲府攻撃陣の飛び出しの鮮やかさに「あ〜、これでは点を奪われるのも時間の問題だ・・・」と思わされた。
 前半はなんとか無失点で折り返したものの、後半はゴール前での対応力が低下。心配していたことが現実になった。
 しかし、1点を先取されたモンテは、今までとは違っていた。これまでは先制されると巻き返す力が出なかったが、この試合ではすぐに追いつき、さらには今季広島から中途移籍(レンタル)したFW山崎がついに覚醒(!)して2得点をあげ、3対1でホームでの久々の勝利をあげた。
 先制されても諦めない粘り強さと山崎の活躍が、希望の灯りを点したのだった。

 希望を抱きながら乗り込んだ第22節、アウェイの大宮戦。(8月20日)
 昨年もそうだったが、降格圏のボーダーラインにいる大宮との対戦は、今季も残留を左右するかなり重要な一戦のはずだった。
 ビジター自由席から眺め降ろすサッカー専用のNACK5スタジアム大宮のピッチは、美しい薄緑色に浮き上がっていた。
 生憎の雨と今季の低迷からか、モンテのサポーターは昨年より少なかったが、山形に駆けつける大宮サポの数を遥かに上回る山形サポが、今年も大宮に駆けつけた。山形サポの数は1,500〜2,000人くらいかと思われる。
 NSBFを標榜するじぶんは、アウェイゲームを観戦するとき、サポーターと少し距離を置くためにビジター自由席の端に座る。このときも最上段の一角に陣取って、まさに“高見の見物”を決め込もうとした。
 ゲームの方は、モンテのパッとした展開がないまま、押し込まれながらも前半を無失点で終え、「これがモンテのペースだ」と期待して後半を迎えたのだったが、大宮のFW石原が交代出場すると、その石原にあっという間にゴールを奪われてしまう。
 じつは、去年もこうだった。石川のFKでやっと追いついたと思ったら、途中出場したばかりの石原に勝ち越しのゴールを決められて1対2で敗北したのだったから、またあのパターンで負けるのか…とイヤ〜な感じがした。去年の大宮は、リードした途端に 全員の動きが活発になり、モンテは反撃らしい反撃をさせてもらえないまま終わったのだった。
 しかし、今年はその再現だけは避けられた。モンテは、太田がゴール前のこぼれ球に反応してすぐに点を取り返した。
 この辺りからわれわれ“高見の見物派”も黙って見てはいられなくなり、雨具姿で立ち上って、いつのまにかサポーターとともにチャントを口にしていた。
 ここで勝ちきるかどうかが、残留をめぐる大きな分かれ道になる極めて重要なゲームだったのである。
 結果は1対1の引き分け。“先制されても諦めないモンテ”の姿勢は根付いてきた。しかし、残留に向けた勝ち点積み上げのうえでは、この局面における引き分けは負けに等しい。残された今季のゲーム数の少なさが重くのしかかってくる。大宮サポに囲まれながら氷川神社参道を歩く駅までの真っ暗な帰路は、来た時よりも遥かに長く感じられたのだった。


 
 ということで、“後が無くなった”モンテは、8月24日(水)の第23節をホームで迎える。相手は、今季アウェイで完敗を喫している清水。
 この日、じぶんは「市民応援デー」(山形市ほか対象)による割引チケットで、北バックスタンドに座った。
 平日の夜であることと天候が不安定だったことからか、観客の入りは良くない。この日は、ついに7,000人を切ってしまった。・・・ということはどういうことかと言えば、いつもと比べて子どもと子育て世代、それに若者が相対的に少なく、おっさん、おばさんが相対的に多いということである。
 こういうときに、北バックの“北バックらしさ”が現れる。たまには、こういう環境での観戦もよし、である。(^^;

 ゲームはといえば、前半はモンテが次々にミスをして、はらはらさせられる展開。
 モンテがひどい分、小野をはじめとした清水イレヴンのパス回しはなんと美しく、そのボールコントロールのテクニックはなんと高度に見えたことか・・・。
 北バックのおっさんたちからは、「モンテ、集中しろよ!」と檄が飛びはじめる。モンテのふがいなさに、その檄は「しっかりやれ!」と、イライラの野次に変わりはじめ、ひどいパスミスに、おばさんたちから自嘲気味の失笑も入る有様である。
 この前半は、よく無失点で乗り切れたものだと思わせられるほど、モンテの動きはまったくもってチグハグなものだった。
 
 しかし、後半は事情が変わる。
 後半早々、いつものように相手にCKから鮮やかなヘディングシュートを決められたところまでは、まさにいつものような負けパターンだったが、そこから今までにない状況が生まれた。
 1点先取した清水は、後衛でボールを回し始め、プレーが途切れると再開に時間かせぎのようなスローモーな動きをする。そこにモンテのサポから抗議の声が上がる。
 だが、傍目から見ていると、前半のモンテの攻撃の組み立てがひどいものだから、清水にはこのまま護りきるのかそれとも追加点を取りにいくのか、迷いが生じたように見えた。
 それに対して、モンテはボールを奪うと何度も何度も前線にボールを上げ、DFを追い抜いてGKの前に走りこもうと試みる。
そしてついにこの攻撃が成功する瞬間がやってくる。太田が走りながらのヘディングでミドルシュート!・・・それがゴールマウスに飛び込む。
 その後は、見違えるようにモンテの動きがよくなり、再三清水ゴールを脅かす。ゴール前でドリブルでGKをかわし、フリーになって決定的なチャンスにシュート!・・・ああ、だが清水のディフェンスがゴール前に走りこんで足でクリア・・・(--;
 そして終盤には、モンテのドリブル突進でファウルを誘発し、PK!・・・このとき、われわれは“残留”への希望の灯火が勢いを増して輝かんとしているのを視た・・・はずだったのだが、川島のPKは清水のGKに止められる・・・あぁ(--;、あぁ(--;、
 その後もモンテは攻め立てるが、やはりあの“決定力不足”は深刻なのだった。・・・こうして、またも引き分け。
これが残留圏にいるときのゲームなら、われわれは「今日のモンテはよくやった。おしかったなぁ・・・」と帰路に着くのだが、この状況下ではちがう。・・・あの希望の灯火の炎は、さらに弱弱しいものになっているのだった。

 しかし、しかし、われわれはまだ堪える。
 モンテはいいゲームをするようになった。
パスミスやトラップミスが多く、相手にプレッシャーをかけられると、すぐに通る当てのないロングボールを蹴るという中学生のようなプレースタイルだが、なんだか“これがモンテだ!”という悟り(?)さえもが開けてきた。
 この局面における長谷川悠の肉離れによる一次離脱が残念だが、・・・われわれはまだ“奇跡”を信じて堪えるのである。

 ・・・と、ここまで書いて、NHK-BS「Jリーグタイム」で、27日の第24節、仙台との“みちのくダービー”(ユアテックスタジアム仙台)の結果を知った。
 結果は1対2で前回対決に続いて敗北・・・。
 仙台の1点目。モンテDFのミスも絡んでいるが、仙台のFW赤嶺のトラップからシュートへの動きが素晴らしかった。
 引き続きすぐに仙台にPKを与え、2点目を決められてしまったのが悔やまれる。
 
 ・・・と、この結果を知りつつもなお、われわれはまだ“奇跡の奇跡”を信じて堪えるのである。あっは。                                                                                                                                                                               



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:45Comments(0)サッカー&モンテディオ山形

2011年08月14日

「ぴあ」の終わり <東京>の終わり



 遅ればせながら、やはり「ぴあ」終刊について書き記しておきたいと思った。
 この雑誌には、多くの人がそうであるように、特別な想いがあったからである。

 7月に上京した折、新宿東口の紀伊国屋書店でその終刊号(8月4・18日合併号)を購入した。
 若い頃、この雑誌にはほんとうに世話になったのだが、購入するのは久しぶりだった。
 終刊号の内容に僅かばかりの期待を持って紙面を追ったが、準備の時間が足りなかったのか、その内容はつまらなかった。 表紙イラストの履歴の紹介に多くのページが費やされ、さらには編集部にこれまでどんなタレントが顔を出したかなどという内向きの話題に紙面を割いている。この雑誌の歴史的・文化的意義に関するまともな言及どころか、これまでの記録さえもろくに掲載されていない。これでは消えて当然だろう。
 たぶん、今の編集者たちはこの雑誌のとんでもない存在意義をよく認識していなかったのだろう。今後、過去の関係者も含めて、誰かに腰をすえた本格的なレトロスペクティブを試みてもらわなければならない。

 この雑誌の意義はどこにあったか、それを簡潔に指摘しているのがこの号に掲載された鴻上尚史の「『ぴあ』という奇跡」(同号116頁)という短文である。

 「『ぴあ』が実現したことは、すべてを等価にすることでした。」「有名劇団から先月旗揚げしたばかりの学生劇団まで、全ての公演が有名無名関係なく、1日から月末まで、ずらりと並んでいました。観客動員や広告代金によってスペースの大きさが変わることはありませんでした。」「1ヶ月という時間の中で、あの当時、僕たちは何度も映画や演劇のページを読み返しました。そして、『ぴあ』がなければ出会わなかった作品、興味を持たなかった作品、そもそも知りえなかった作品と、沢山アクセスできたのです。」「『ぴあ』が風穴を開け、流動化させ、視野を広げた文化と人間関係は、また、深く個別に分断化していくのかと、少し、淋しく思っているのです。」

 「有名劇団から先月旗揚げしたばかりの学生劇団まで、全ての公演が有名無名関係なく、1日から月末まで、ずらりと並んで」いるある時期の「ぴあ」を読み進んで、じぶんもたしかに興奮したものだった。すべての情報は紙面上で“等価”なものとして扱われており、それらの公演のどれにアクセスするかは、すべてじぶんの探索心にのみ懸かっていたからである。
 「夢の遊眠社」も「第三えろちか」も「木馬館」(浅草)も早稲田大学の学生劇団も、「ぴあ」に掲載された“すべて等価”な活字情報と出会うことで知った。
 そういえば、これらの現代演劇や大衆演劇の情報と並んで、各地を巡業する昭和のサーカスや当時はまだまだその筋の好事家の秘め事だったエスえむショーの情報も掲載されていた。
 また、たとえば自分は、演劇の公演や文学・思想関係の講演会を探すために「ぴあ」を購入したのだったが、その雑誌に載っている別ジャンルの、たとえば美術展や映画の自主上映等の情報にも目を通すようになって、同時代の文化や表現行為の動きを総体的な<文化的情況>と認識したり、あるいは個々の表現の営為を「マスイメージ」の多様な表出形態として受け取るというような受容の仕方をしていったようにも思える。

 その等価な活字情報に開示されるところの、文化のアナーキーな多様さと奥深さ、そしてその膨大な活字情報のなかに散らばる想像力の空隙(=可能性)こそが、じぶんにとっての<東京>だった。その<東京>における文化的体験は、じぶんの想像力をひどく刺激し、じぶんと情況との関係幻想を膨らませた。じぶんが辛うじて20代を生き抜くことができたのは、この文化的体験と自己の想像力に対する(今からみれば勘違いの)幻想のおかげであり、さらにこの50代まで生きて来れたのは、ある面ではたぶん30代前半くらいまで抱いていたこの文化的・情況的な<東京>との関係幻想の余韻のおかげではないかとさえ思う。

 鴻上が言うように、一時期の「ぴあ」が、文化情報に優劣をつけずそれら全てを等価なものとして掲載してきたこと。そして、その情報の単純な羅列が、読者に視野と関係性を拡げさせる契機となっていたこと。この二つの点は、少なからぬ者が指摘する点であろう。
 しかし、じぶんの記憶では「その一時期」というのは、1972年の創刊から、たぶん1980年代の半ばくらいまでだろうと思う。
「ぴあ」が掲載情報にかんするチケット販売(「チケットぴあ」開始は1984年)に乗り出した頃から、この等価性は失われ、それととともに掲載情報の魅力は激減していった。
 このことは、過去の「ぴあ」に当たった上で言っているのではなく、ただじぶんのあやふやな記憶にのみ拠っていることを断ったうえで述べるのだが、具体的にいえば「チケットぴあ」で扱う公演の割合の増加に反比例して、チケット販売の対象とならない例えば文学や思想関係の講演会などの情報が掲載されなくなっていった。
 じぶんの記憶では、1980年代の半ばまでは、「ぴあ」に掲載された催しにアクセスしたのは、すべてそこに記載されている主催者の電話番号に問合せるという方法によってだった。当時はすでにメジャーだった唐十郎の「状況劇場」の公演も、吉本隆明や埴谷雄高の講演会も、すべてそうだった。

 「ぴあ」最終号には、鴻上尚史と並んで野田秀樹が「大往生だね、『ぴあ』」という文を寄せている。
 野田は、「『ぴあ』によって権威のある批評家や新聞だけが『何がいい文化なのか』を決めるのではなくて、『文化の情報』を与えるので、そこから自分の目で見て耳で聞いて自分で判断してくれ、という時代がやってきた」が、それがポップカルチャーに「常に『消費される』という宿命」を与えたという。
 そして、「次第に主客転倒し、良いものが新しく見つかったので情報になるのではなく、新しければ良いものだということになり情報として流される。そして古くなると捨てられる、という大文化消費時代へと移行していったように思う」と述べている。

 野田は、この文を、「ぴあ」が「この異常な『文化を食いつぶす時代』」をよく生き延びたと褒め、「『情報を売る』ということを始めた雑誌の宿命だったのかもしれない」と結んでいる。
 じぶんはここに“このように自分を自分で食いつぶして休刊することが”「ぴあ」の宿命だったのだと、野田が「ぴあ」編集部に気を使ったがゆえに(?)記載していない言葉を付け加えておきたい。

 さて、この書き込みのタイトルにあるように、じぶんにとっては、ある時期の「ぴあ」こそが<東京>そのものだった。だから、じぶんのなかの<東京>は25年ほども前に終わっていた。
 「ぴあ」の終刊に、じぶんの関係幻想としての<東京>が完全に失われ、もはや二度と戻ってこないものであることを改めて思い知らされた。
 この文の結語で野田秀樹が言うように、やはり、“さよならだけが人生だ”なのである。  あっは。                                                                                                                                  



                                                                                                               
(注)このブログのシステムでは、書き込みの中の言葉遣いにかなり制限がかけられています。
   えろとかえすえむなど管理者が認めない言葉が含まれているとサーバー登録を拒否されるので、書き換えをしています。    登録を拒否された際に、どの言葉が引っかかるのか、どのような言葉なら赦されるのか示されないため書き換えに難渋しています。悪しからずご了承ください。(高啓)                                                                                                                                                                                                                                                                                             












  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 17:21Comments(0)作品評

2011年08月09日

2011 モンテ観照記「モンテますます危うし」



 モンテディオ山形が勝ち点を伸ばせないで苦しんでいる。
 第20節の鹿島戦に敗れたところで、勝ち点12で降格圏の17位。 
 このブログはモンテの話題からちょっと離れていたが、ゲームの観戦をサボっていたわけではない。
 7月2日(土)に新潟市のビッグスワン・スタジアムで開催された第2節の新潟戦まで遡って、モンテについて述べておきたい。

 この日の対戦は「裏天王山」と言われていた。モンテがJ1残留を決めるためには、16位にいる甲府に追いついただけではだめで、その上にいるもう1チームを引きずり降ろさなければならない。降格圏のすぐ上にいるチームで手が届くかもしれないチームはアルビレックス新潟くらいのものだった。他は、鹿島や浦和やセレッソ大阪で、これらのチームはそのうち上にいくと考えなければならない。だから、ここで新潟を引き付けておくことが残留には極めて重要なのだった。
 写真は、ゲーム開始前、スタジアムのコンコースに集合して決起集会を開催しているモンテのサポーターたちである。真剣な想いがひしひしと伝わってきた。
 じぶんは、ここで何度も自己規定しているように“NSBF”という立場を貫こうと思っているので、この集団には加わらない。客席も、限られたビジター自由席ではあるが、なるべくサポーターの中心部から離れた場所に座り、声援と野次を飛ばしながら観戦した。
 ゲーム内容はといえば、モンテはさっぱりいいところがなく0対2でホームの新潟に完敗という状態だった。

 アウェーに追っかけてきて敗けたとき(これまでFC東京・大宮・川崎・新潟とアウェーに付き合っているが、一度も勝ちにめぐり合ったためしがない)は、帰りの気分が一段と重い。そのせいで悪態をつくのだと看做して欲しいが、初めて訪れたビッグスワン・スタジアムは大きくて立派といえば立派だが、その施設の印象はいいものではなかった。野球のスタジアムが隣接し、運河が引かれていて、広大な運動公園という体裁なのだが、緑が少ないせいか、それとも施設配置や空間デザインが大雑把なせいか、どうも全体としてガランとしていてホスピタリティに欠ける。運河の水が汚いのも気になる。
 一度スタジアムに入場したらもう場外に出られないという運営も良くない。場外の出店で飲み食いしたほうが良いのか、場内の店の方が充実しているのか、その判断ができない。
 ちなみに、場外には山形で馴染みの店舗も出店していたので、じぶんは場外に置かれた椅子とテーブルでビールを引っ掛けてから入場した。しかし、考えてみれば新潟にきたのだから、新潟のソウル・フードを喰いたいものだ。
 近くのテーブルが空いたので腰掛けようとしたら、新潟のユニフォームのレプリカを着た60代の夫婦とかち合い、「呉越同舟」することになった。(じぶんがモンテのタオルマフラーを首にかけていたので、そのオヤジが「お、呉越同舟だな」と言いながら腰かけたのである。)
 この髭オヤジにちょっと話かけた。以前にモンテの監督も努めた新潟の前監督・鈴木淳(現・大宮アルディージャ監督)はなんでクビにされたんだと聞いたら、「新潟は金がないから逃げられたんだよ」と言い、「鈴木は優秀な監督だったが、その前の監督に比べて愛想が悪くて人気がなかった」と言ったので、「新潟が“金がない”なんて言ったら、モンテはどうなるんだよ。うちは金欠で外人の助っ人がまったくいない。」みたいな話を返した。
 以前モンテに在籍していたころJ2の得点王になった大島について元気でいるかと訊いたら、「大島は足が遅くてだめだ。ゴール前でノロノロしている。」と言うので、「じゃあモンテに返してくれ」と言ったら、「ダメダメ」とケチりやがった。(笑)
 ・・・とここまで書いて思い出した。新潟名物(?)のB級グルメを食べたのだった。外見はスパゲティみたいだが、よく見ると麺の色は蕎麦みたいで、食べてみるとだらんとした饂飩みたいな「イタリアン」という奇妙な麺だ。例のオヤジは「新潟で“イタリアン”と言えばこれだよ。子どものころよく食べた。」と言った。この不味い麺で育った新潟の人間にはタジタジとなってしまう。
 


 さて、この日の「裏天王山」で敗北したリベンジを遂げるべく「裏天王山の再戦」となった7月30日のホームでの新潟戦も観戦した。
 ここまで、モンテは7月6日にホームで浦和と0対0で引き分け、その後、マリノスと名古屋に0対2で敗れるも、7月24日の福岡にアウェーで2対0と快勝。長谷川悠のダイビングヘッドも出て、やや調子を取り戻しつつあった。
 この日のゲーム内容は、モンテの動きは前回の新潟戦よりは格段に良かったが、右サイドを深く抉られたたった一度の機会に上手く押し込まれて点を献上した後、攻め上がるもののいつもの決定力不足でついに得点できず、0対1でまたもや敗北。この敗北は、残留の可否という点ではかなり重い結果になり、ゲーム終了後には、サポーターからついにブーイングが沸き起こった。(モンテサポは余程のことがない限りブーイングしないのだが。)
 夏休みに入った土曜日で、やや天候に不安はあったが対戦相手が「天地人ダービー」相手の新潟であることから、昨年までなら1万3千〜5千人くらいは観客があってもいいゲームだった。だが、入場者数は1万ちょっと。新潟サポが3千人くらいはいたように見えるから、モンテ側の観客は「ダービー」でも7千人程度という規模に減少していたと見なければならない。今季からホームのサポーター自由席が拡張されたことを踏まえても、大事な試合でサポーター自由席の向かって左側に空席が生じていたことが気になった。クラブ(スポーツ山形21)の更なる危機意識を喚起しておきたい。

 さて、ここで“NSBF”という立場から、モンテ及びJ1各チームのサポーターを見てきたことの感想を言えば、モンテの応援はなかなかいい。ひょっとしたら、今のJ1では、もっとも優れた応援かもしれない。
 第一に、真面目で自棄(ヤケ)にならない。第二に、J1でもっとも一生懸命チャントを繰り出している。第三に、自チームの選手を批判しない。(ちなみにじぶんはNSBFなので、モンテの選手への罵倒も繰り出しつつ観戦している。)
 とくに、ゲームの開始以前から終了後まで、ゲーム中はほとんど声が途切れることがない点、それとチャントのバリエーションが豊富な点は、他チームと格段に異なる。
 以前、たとえば仙台のサポと比べてモンテのサポの声援にはパンチ力がないというようなことをここで述べたような気がするが、J1のゲームを見続けてきて、この言い草に修正ないしは補足を加えなければならないと思うようになった。
 モンテ・サポのチャントに比較的パンチ力がないように思われるのは、モンテ・サポの声援がゲーム中ほとんど途切れることなく続けられていることと、そのチャントが“歌唱”になっていることの裏返しなのである。

 ところで、最後に、やはり残留への道が極めて険しいことについて再度述べておかなければならない。
 今季のモンテの不振は、まず、補強で田代や増田の穴を埋めることができなかった点に発しているが、とすれば今は、J1昇格1年目(このときも田代や増田が居なかった)に15位でかろうじて残留を勝ち取ったときとの違いは何なのかをもう一度振り返る必要があるだろうと思う。
 まず、小林監督の戦術の変化がある。
 2009年にはとにかく護りに重点を置いていたが、2010年は中盤から積極的に相手にプレスをかけ、攻撃の積極性を重視するようになった。
 さて、2009年には、クラブにも、それを支える地域にも「J1のモンテ」という輝かしい(というか信じられない至福の)状況をなんとか維持しようという熱気(というよりも必死さ)があった。これが“奇跡のJ1残留”を達成させたのであるが、この“初昇格効果”が2年目にも通用するわけではないことは、クラブ関係者にも、われわれファンにも見えていた。だから、2年目は1年目と同じ戦い方では勝ち抜けないという認識のもとで、小林監督は田代や増田の起用を梃子として“攻撃的なモンテ”を目指した。これは正解だった。
 だが今季、田代や増田に鹿島に帰られ、外人で唯一使い物になりそうだったウーゴは大震災の影響か一度も出場しないまま消え去った。シリーズのスタート時点において、これに代わるべき長谷川・大久保などの活躍がえられず、しかものびしろを期待した若手が上滑りするままに、ずるずるとゲームが消化されていった。勝ち点を重ねることができていないため、気づいたときはすでに“攻撃的なモンテ”から“護りのモンテ”に転換する機会を失っていた。ようするに、得点力欠乏症が明らかになった時点で、護りに徹する勝ち点の余裕がなくなっていたのである。ここに、対戦相手がモンテを舐めてくれていたために、スタート時点で勝ち点を重ねられた2009年との大きな違いがある。
 
 しかし、このことをもって小林監督の戦術・戦略が失敗したのだと指摘するつもりはない。
 負けが続く今季のゲームだが、だらしない負け方の試合はそんなに多くない。モンテの皆はよくやっている。ただ、技術力で(そしてたぶん持久力でも)、個人対個人では明らかに相手との格差があるのである。問題は、その技術的(さらには体力的)な劣勢を、モンテの選手たちがイマイチ認識していないように思われることだ。相手と同じパスでは、味方には通らない、相手より早く動かないとマイボールを保持できない・・・。
 そして、あとは抜け目なく少ないチャンスを得点に結びつけるタレントがいない“だけ”なのである。
 だから、今季のモンテは、まずはこれまでの戦い方を突き詰めていくほかない。大久保はゴールを決められなくていいからポスト・プレーに徹し、秋葉はミドルシュートを枠内に確実に打ち、石川はフリーキックをコーナーに集めること。サイドのMFらは中途半端に自分で切り込まず、サイドを抉ってできる限りマイナスのボールをFWに上げること。長谷川はそれをダイビングヘッドで枠内に打ち込むこと。そして、太田や川島や伊藤や古橋や宮崎や佐藤健や船山は、いつでもこぼれ玉を狙っていることだ。
 もちろん、それ以前に、マイボールのスローインを相手に奪われないように複数のプレーヤーが自らボールをもらいに行くこと、ロングボールについてはトラップ・ミスしないこと・・・この基礎をまずは徹底してほしいのだが。

 さらには、上記と同時にクラブとしては次の課題に対応することが必要だ。
 それは、今季でJ2に降格した場合どうやって次のJ1復帰を成し遂げるか戦略を構築し、いまからそのための布石を打つことである。それはとりもなおさず、J2に降格した際に、地域住民のクラブへの支持を如何にして維持・拡大するか、その方策を示すことに他ならない。
 じぶんとしては、8月と9月のゲームで降格圏を脱出できなかった場合、10月以降のゲームで大胆に地域住民を動員する手立てを講じることを提案したい。たとえば、入場料をすべて1人1,000円にする。あるいは、11月19日の福岡戦については、バックスタンドとホーム側サポーター自由席を全て無料にするなどである。これまでスタジアムに足を運んでいない住民、たまには観戦するがサポーターやファンとまではなっていない層の住民、そして中学生や高校生。そういう観客をまずは動員し、かれらにあの会場で「月山の雪〜」の合唱を聴かせ、あわよくば歌わせることが“J1復帰”への階梯となるだろう。

 さて、8月13日、次節は甲府をホームで迎え撃つ。
 勝っても勝てなくても、われわれは“モンテという快楽”とともにある。その快楽を味わいに、天童のスタジアムに繰り出そうではないか。                                                                                                       


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:41Comments(0)サッカー&モンテディオ山形