2014年06月22日

山大劇研・アングラの時代(一九七五/一九八一)





 八文字屋書店が発行している季刊の『やまがた街角』(編集・発行人大久保義彦)の第69号(2014年6月刊)が、「山形【演劇】図鑑」という特集を組んでいる。編集を担当している書肆犀の岩井哲氏に依頼され、山形大学演劇研究会について寄稿した。
 同誌に掲載された記事の文面を見ると、高啓の原稿のうち人名に関する部分が岩井氏の手で一部修正されていたが、ここにはもとのままの文章をアップする。



 山形大学演劇研究会の過去について書くようにと依頼されて、さて、と振り返ってみるが、手元に残されているその活動の資料はごく僅かで、ほとんどを記憶と伝聞で記すしかない。この無頓着さ、つまりは芝居の空間をがむしゃらに産出しそこでの時間を消費することのみにエネルギーを注いで、その記録・検証・回顧には一向に関心がなく、OB会的な集まりさえない・・・そんな姿勢こそが、良くも悪くも〝学生演劇〟の在りようということだろう。ようするに学生にとっては現在のみが重要で、過去は否定すべきもの、未来は濃霧の中だったのだ。
 じぶんが山形大学人文学部に入学したのは一九七六年。「連合赤軍事件」によって学生運動が急速に衰退し、追い詰められた党派は「成田闘争」に活路を見出そうと足掻いていたが、一般学生たちは只管〝お利口さん化〟していった時代である。「国立二期校」に「不本意入学」したことと、小白川キャンパスがあまりにつまらないこととによって、じぶんは深く深く五月病を病んだ。ある日、構内をふらふらと彷徨い、陸上競技グランド脇にあった木造2階建ての部室棟(通称「ハモニカ長屋」)の前を通りかかると、女たちのかしましい笑い声が聞こえてきた。その部室には石巻女子高出身の2年生三人組がいて、彼女らに誘われるままにぼんやりとそのサークルに加入した。いま、じぶんがこうして生きていられるのは、そしてこのように生きてきてしまったのは、芝居じみた言い方をすれば、まさに、一にかかってこのとき山大劇研に足を踏み入れたがゆえ、である。

 新入生のじぶんが劇研でいちばん影響を受けた先輩は、山形東高出身で理学部数学科の3年生だったT男である。当時聞いていたところでは、彼は七四年か七五年に、後に青森市役所に勤めながら舞踏家として活動することになる福士正一氏(オドラデク道路劇場主宰)らとつるんで、『ギヤマン回帰』というオリジナルの芝居を文理講堂で上演した。これが山大劇研における「アンダーグラウンド演劇」の始まりではないだろうか。文理講堂は旧山形高等学校時代の講堂で美しい洋風建築だったが、惜しまれながら七八年頃に取り壊された。普段は少林寺拳法部の練習場だったのを一時的に借りて稽古したことを、じぶんも微かに記憶している。

 当時は、唐十郎の「状況劇場」(紅テント)、佐藤信らの「68/71黒色テント」、そして鈴木忠志の「早稲田小劇場」がアングラ御三家として鳴らしていたが、T男が最も傾倒していたのは鈴木忠志だった。また、怪優・品川徹のいた太田省吾の「転形劇場」にも影響を受けていた。
じぶんの舞台デビューは、七六年にこのT男が演出した唐十郎の『ジョン・シルバー』だった。会場は山形市民会館大ホールで、二五〇人ほどの客を全部舞台に上げ、本来の客席の暗く広い空間を海に見立て、それを背に演戯した。照明は全部逆方向に向けなければならず、間誤付いていると「餡子屋さん」(後の山形綜合舞台サービス・安達俊章代表のこと)に「ちゃんとセッティングを考えて来い!」と迫られ、ビビッた記憶がある。役者はオリジナルの配役とは男女が全部逆で、李礼仙の役も長身でスラリとした福島出身の男子学生が演じた。

 山大劇研の良いところは、特定の路線に拘らないで自由に(というか自分勝手に)台本を選べたことだった。部員ごとに志向性が異なるから、もちろん芝居の傾向や上演台本をめぐって対立もあったが、そういうときはたとえば二つの演劇集団が部員の争奪戦をして、それでも決着しなければ二本同時に上演(まさに「競演」)してしまった。七八年頃には、清水邦夫の『逆光線ゲーム』と別役実の『象』を連続上演したのではなかったかと思う。このときの『象』はじぶんが初めて演出した作品だった。
 じぶんは役者としては大根で、七六年、1年生の終わりに主役に抜擢されてJ・P・サルトル『出口なし』のガルサン役をやったのが唯一の代表作である。この芝居は、官憲に脅されて仲間を売ったガルサンと恋人に捨てられた女・エステルそれにレズビアンのイネスの3人が密接に絡んで展開される死後の密室劇だが、チャーミングな先輩女性たちと頻繁に身体的な接触のある稽古には、毎日銭湯に行ってから高校時代の黒いスプリングコートを着て臨んだ。コートを脱がなかったのは、股間が盛り上がって仕方なかったからである。思い出すと今でも脂汗が出る。
 じぶんの台本・演出の代表作は、七八年に構成・演出した処女作『詩劇・自己幻想論序説』と八一年に構成・演出した『対幻想狂詩曲~あけみのツゴイネルワイゼン~』である。前者は、鮎川信夫、吉本隆明、黒田喜夫、北川透らの詩を自作の科白で繋いだコラージュ劇。後者は自作の科白を構成したコラージュ劇である。これらは大学会館2階の中会議室やホールで上演した。

 ところで、当時はプール脇に旧山高時代の木造校舎があり、サークル棟として利用されていた。この2階には固定の長机と跳ね上げ式の椅子が並んだ大きな階段教室があり、それまでは奇術愛好会が仮の物置にしていたのだったが、七八年頃から劇研がなし崩し的に占有し、翌年にはボルトで固定されていた机・椅子を勝手に撤去して、自前の〝小屋〟とするに至った。この階段劇場では、劇研がオリジナル劇やオスカー・ワイルド『サロメ』、唐十郎『少女仮面』などを上演したほか、書肆犀の岩井哲氏(当時は山大前通りにあった喫茶店「犀」の店主)らのハードロック・バンド「パパ・レモン」が参加したライブ・イベントが開催されたこともあった。
 じぶんが知る時代の山大劇研は、演劇未経験者ばかりで芝居は未熟なものだったが、その分、高校演劇や「死せる芸術=新劇」(菅孝行)の厭らしさとは無縁でもあった。そしてなにより、恥知らずで恐いもの知らず、だったような気がする。(了)


                                                                                              
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:29Comments(0)作品情報