2011年02月24日
2010年度東北芸術工科大学卒業制作展 その2
この卒業制作展全体のなかでもっとも印象的だったのは、映像コースの<川上真由>の作品だった。
彼女の作品の展示会場にいくと、まず等身大の写真が出迎える。そしてパネルにはこんな文章が書かれている。
「ここはとても生ぬるく甘い世界。責任感が無くとも許される。将来の社会貢献については考えない。コミュニケーション能力とは程遠い。向上心の見えないただの地方大学。だけど、自分もどれにどっぷり漬かっている。それに甘んじている。この土地の人々の優しさに。なんでも許される環境に。嫌ならやめればいい、環境のせいにせずに。・・・なのにやめない。ただのチキンだから。 『わたしはわたしがいちばんかわいそうで、かわいい。』だなんて・・・あなたも『そう』、思っているんでしょう?」
天井から床に至る長い垂れ幕のようなポスターに印刷された冗長な言葉たち。
自分のビキニ姿を大学の風景に侵入させ、自己顕示するかのように見せながら、ほんとうはその関係への異和を定着させた写真。
こつこつと制作してきた平凡でコケティッシュなアニメーション作品。
大学院進学を諦めて表現への夢をも断ち、上京して会社に自分を売り込む自らの姿を離れたところから眺めるプライベート・ビデオ。そして、すっぴんの自分が派手なギャルに変身する化粧の過程を撮影したコマ撮りの映像。
おまけに、この愛憎に塗れた学生生活を乗り越えて卒業まで漕ぎつけた自分を自分で祝福する巨大な造花の花輪のオブジェ。
それらが総体として演出するのは、いまこの“生ぬるく甘い世界”から抜け出して、大都会へ就職を決めたところの、中途半端に才能の豊かなひとりの女の自省であり、自己批評であり、自己肯定であり、自己鼓舞である。
よくやった! <川上真由>・・・疲れたら山形に息抜きに来な。
・・・思わずそう口に出してしまいそうになる。
幼い頃遊んでくれた<父>・・・だがそれは自分を置いて去っていった<父>でもある。
その欠損の記憶が、人間の顔をした巨大なオニヤンマとなって夏の午睡にまどろむ女に訪れる。カーテンが風になびく窓の傍のベットに横たわっている女を、オニヤンマがそのつま先から食い始める。腹のあたりまで食われたところで、女はオニヤンマを見つめる。オニヤンマは食あたりでもしたかのように、なにか血反吐のようなものを吐き出す。
残酷な情景なのに、なぜか女はしずかに食われていくことを受け入れる。
これは、ブラックな童話であるように観えて、無意識のうちに表白されたひとつのデストピアなのかもしれない。
その他、彫刻部門にも触れておく。
まず、<後藤ありさ>の作品「求めすぎて」。
これはオブジェというべきかインスタレーションというべきか悩むが、ようするに、床に置かれた箱を覗くと、そのなかは苔生した部屋になっているという作品である。
奥にあるのはラジカセで、これも苔に覆われている。ここにあるのは部屋の主の<不在>という時間がもたらす逆説的な<実在>の気配である。
工芸コースでテキスタイル専攻の<今野真莉絵>の「共する」は、下肢に毛糸を纏ったトルソ。
裾の部分がタコの手足のように動きそうで、なかなかなまめかしい。
これはこの作者の独創した作風なのだろうか。だとすれば、今後が楽しみな感じがする。
最後に、<黒宮亮介>の彫刻作品「innocent world」。
これまで取り上げてきた作品に比べればぐっと地味だが、じぶんとしてはこういうのもけっこう好きである。
木のむくろを彫刻して、そこに悪性新生物のような生命体を宿らせている。
作者の“たくらみ”とでもいうべき感懐が伝わってくるようだ。
さて、今年の芸工大卒業制作展については、時間がなくて6〜7割しか観て周れなかった。
環境デザインやグラフィック・デザインやの会場を訪ねる時間的余裕もなかった。
映像作品やコンピュータ・グラフィックやゲーム作品、それに構想企画の部門なども、もっとじっくり見たかった。
地元で作品を発表する機会を、たくさん作ってほしいものである。
でも、まずは、卒業おめでとう。
この山形とあの大学に、後ろ足で砂をかけて旅立つがいい。
2011年02月23日
2010年度東北芸術工科大学卒業制作展 その1
毎年楽しみにしている東北芸術工科大学「卒業/修了 研究・制作展」(2011年2月8日〜13日、同大キャンパス)を観た。印象に残った作品の感想を記す。
この大学の作品展でいつも注目しているのは日本画専攻と版画専攻の学生・院生たちの作品だが、今年はこれらのほか洋画専攻にも惹かれる作品があった。
絵画作品の展示棟に入ってまず目に飛び込んできたのは「再生‘89.10.31」と題された<関根さちを>の作品。
展示室には、アクリル板に家族写真を焼き付けたものが、立っている見物人の顔の高さ辺りに6枚吊り下げられている。6枚とも夫婦と二人の姉妹が書斎の書棚を背景に並んだ同じ写真なのだが、これらのアクリル板は、その板ごとに家族の誰かの輪郭のところが透明に抜かれている。父親は前から4枚目の板に焼きつけられているが、母親は3枚目、妹は6枚目・・・といった感じである。一番奥の板に焼き付けられた中央の妹らしき女の子が作者自身のようにも思える。
この手法が<関根さちを>のオリジナルなのか自分は判断できないが、「再生」という作品の題名=モチィーフを受け止めようとすると、この作者にとってはこの手法が必須のものだったのだという強い印象を受ける。つまり、そういう意味でこの作品の手法は成功している。
アクリル板の透明性を利用しながら、鑑賞者の目に映るのは逆になにかベールに包まれて近寄れそうにない家族の関係性である。ここに一種の“解離”のような苦しみが感受される。
山塊のようにも、人体のようにも、球根のようにもみえるカタマリの造形と、中央の朱が強烈な印象を与える。しかし、一方で、これらの形象は何かの意味づけを拒否しているようにも思われる。いや、それは“拒否”などという強い姿勢ではない。われわれは拒否されているのではない。これらの形象の前で、そもそも“拒否されるような何か”として存在してなどいないのだ。
両側の、格子のような鉄線の網のようなものを破ってこのカタマリたちが現れたのか、それともこのカタマリたちはこの網に囲まれて朱色の飛沫を上げるしかないのか・・・いずれにしても<有為の不在>は著しくこちら側の問題だと思われてくる。
洋画で印象的だったのは、大学院修士課程の<佐藤未希>の「Highest Mountain」と題された作品群であった。
ここに掲げた女性の顔の作品は、彼女の展示室に掲げられていた作品たちを代表するものではない。むしろ、彼女が編み出した手法の習作的な段階に位置づけられるべき作品だろう。写真にしたとき、いちばん視覚的にわかりやすいだろうと思われる作品を掲げただけだ。つまり、彼女の作品は写真ではそのマチエールがよくわからない。彼女の作品は、マチエールが命なのだ。
それは、映画や古い写真から取り出したイメージ(ロリータ風の洋服を着た少女や女性)の上に、幾度となくドローイングを重ねたものに滲みを作ったり、削り落としをしたりしながら、さらにドローイングを重ねていくという手法で描かれている。
ぼかし効果でメルヘンチックな雰囲気を醸し出しつつ、それが靄につつまれたような不気味さを演出している。これは彼女が膨大な作業時間のうえに編み出した手法であるという。
この卒業制作展のキュレーターでもある講師の宮本武典氏によれば、<佐藤未希>の作品の、ロリータ風の対象とそれが崩されて不気味さを醸し出す性向が、ともすればいわゆる「ゴス」調に見えてしまうのだが、その手法の営為に大人の視線が含まれているために、危ういところを逃れてユニークな独自の世界を形成しているというような評価を与えていた。(出品している学生540名が選んだベスト10の作者と宮本氏のトークにおける発言)
作者自身は「真のリアリティとはなにかを問いかける機動力となることを目的に表現している。努力したということだけには自信がある。真摯に、逃げずに取り組んだ。」というような趣旨のことを述べていたが、しかし、じぶんは彼女の作品群に、やはり一種の解離の世界を見てしまう。
「幾度となくドローイングを重ねたものに滲みを作ったり、削り落としをしたり」しなければ、メルヘン的あるはロリータ的であるような少女の形象が、ぼかされ、部分的に削り取られ、この世のものではないようなものとして感受される。しかも、それは「真摯」な努力の積み重ねの上で「真のリアリティとはなにか」を問いかけるものとして表現されている。じぶんがここに見てしまうのは、誤解を恐れずに言えば、一種のデストピアであり、なぜかそこに“やりきれない感動”とでも言うべきものを覚えてしまう。
彼女は院生だが、学外でも精力的に作品を発表しているとのことなので、直接作品を目にしてほしい。
学部生の洋画作品で目を引いたのは、<金澤朋子>の「にくウォーズ」、<東瀬戸あゆみ>の「happy jap ―解説―」「happy jap ―襲来―」、<藤原泰佑>の「embryo’s dream」。これらはパノラマのように世界を構成している作品である。
金澤の作品は、“ヘタウマ”という言葉を想起させる。よくみると非常に面白く、人物や事物の配置の妙が効いている。ゼロ戦とセーラー服の女子高生の配置が絶妙である。ただし、この絵全体の印象としては、なにか既視感がある。
藤原の「embryo’s dream」は「胎児の夢」・・・・。金澤のタッチとは対照的で、はっきりとした輪郭をもった場面のコラージュによって成立している世界である。遠近感があり、そこここの形象物の配置は面白いのだが、全体的な色調と画面の半分から上の雲の多さからか、ずいぶんと澱んだ世界だという印象がくる。画面の下に描かれた人間たちは、バス停でバスを待っているようにも見え、この日常が<夢>であるならやりきれないという想いが湧いてくる。これがこの作者にとっての「胎児の夢」だというなら、その胎児はあらかじめ老成している。
東瀬戸の「happy jap ―解説―」は、天安門広場の毛沢東の肖像画をテレビ解説者の池上彰のそれに置き換えたもの。「happy jap ―襲来―」では、肖像画の部分が韓流女性アイドルグループの絵に置きかえられている。適度な毒をもったポップな作品で、思わず好意を抱いてしまいそうになるが、あえて半畳を入れさせてもらえば、池上彰も韓流女性アイドルグループも、作者が考えているほど日本人の多数から注目されている存在ではない。つまり、その程度の注目度なら、この肖像画の部分には、数多くの客体が入りうる。ざっくりいえば、部分性に対するスケール感が未熟なのだ。しかし、ポップな作品はそれでいいのかもしれない。そうでないと面白いものにならないのかもしれない・・・などとも思えてくる。
<金子拓>の作品「塵―ちり―」は、独特の色使いで、異界の日常みたいな世界を描いている。巨木のような塵の塔が上に伸び、その周囲に家族生活のような風景が描かれている。この世界は大きな窪みのなかのようでもあり、未知の地界に広がっているようにもみえる。
1970年代の前衛的なマンガでみたことがあるようなイメージだが、この窪みの中の家族を出奔して、巨木のような塵の塔を這い上がっていった先にはなにがあったのか・・・などと考えてしまう。なお、この写真は、絵画全体にカメラを向けても絵柄がよく映らないので、ある部分をクローズアップしたものである。
洋画専攻の展示室を回っていて、あっと驚かされたのが<阿部一樹>のオブジェ「いつか君を変えたものをいつかぼくが遺すために」である。
自分を捨てていった女を見返してやるぞ!と大声で宣言するかのようなスケール感と、ダンボールに自分の名前をロゴにして印刷しているあたりが大胆な自己顕示になっていて、表現の活力を感じる。
(以下、次回につづく。)