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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2007年05月26日

新緑の蔵王



 新緑の蔵王を訪ねた。

 蔵王中央ロープウエイの山頂駅を降りると、そこには大きなお地蔵さんが鎮座している。

 ここから振り返り、地蔵岳の山頂まで残雪の上を歩く。





 この日は晴天で、下界では初夏を思わせる暑さだったが、地蔵岳の山頂(1,736m)は強い風が吹いていて体が芯まで冷える。

 ここは毎年最高で風速50メートル以上の風が吹き、冬でも雪は積もらない。気温は零下20度位まで下がる。(零下20度までしか下がらないと言うべきか。)

 この強風と凍上の環境の中でよく植物が生育するものだ。
 ミネヤナギ、ミヤマネズ、タカネコウボウ、ガンコウラン、コケモモ、ミネゾウ、ミヤマハンノキなどが寄り集まって、小さな植物島のような塊をつくっている。

 まず、なにかひと株の植物が根付くとそこに風で表土が集められ、その表土に少しずつ植物が集積していく。すると集積した植物が根を張る部分の土は凍上によって持ち上がり、島のようにもっこりとしていくのだ。



 その島の風が当たる側(蔵王では西側)はまるで波で削り取られた海岸ように土が削り取られて、草木の根が剥き出しになる。だがその一方で、風下の側は植物がより繁茂し、群落をつくっていくのである。









 こうして密集したガンコウランの花(写真)が、いま咲き始めている。

 ショウジョウバカマの花も一株みつけた。









 北を望むと雁戸山への稜線がきりりとしていて心地よい。
 






 南は熊野岳(写真左手のピーク)で、これを過ぎると蔵王のシンボルお釜が姿を現す。

夏に、あの逞しくも可憐なコマクサを見にきたいと思う。  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:46Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2007年05月20日

山形詩人第57号




 「山形詩人」(発行/木村迪夫、編集/高橋英司)の57号が発行された。(07年5月20日付け)
この号には、じぶんの詩「ナイヤガラの瀑布の前できみは」が掲載されている。

 「山形詩人」は、山形県内の主な図書館に寄贈されているが、書店には置かれていない。
 入手希望の方は、高啓までメールを。(頒価500円)


 ところで、同号には、同人のひとりである大場義宏氏が「詩人論としての真壁仁論デッサンの一試み―『日本の湿った風土について』のあたりで―」と題した散文を寄稿している。
 この文章は、高啓が寄稿依頼を受けて『真壁仁研究』第7号(東北芸術工科大学東北文化研究センター発行)に発表した論文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」に対する批判が、その内容のほとんどを占めている。

 真壁を肯定的に評価する傾向で編集されている『真壁仁研究』全7号(第7号で終刊)において、真壁を厳しく批判しているのは私の論文ただひとつであったから、私に強い風当たりがあるかもしれない、そのときはなんらかの反応をしなければ・・・とは思っていた。
だが、この大場氏の文章は、高啓論文の批判と言っても、その内容は誤読と歪曲に満ちた高啓への誹謗中傷であり、とうてい論争することに意味を見出せないものである。

 しかし、また、この文章には、あまりに初歩的な誤読や意図的な歪曲のための引用があるので、高啓を批判する云々の以前に、『真壁仁研究』掲載の高啓の論文を読まない読者に高啓がそこで述べている内容を誤解される恐れがある。
 そうすると、やはりこの論難を受けて対応しなければならないか・・・という気もしてくる。

 かかる火の粉は・・・とはいうものの、この文章に対する反論は、きわめて憂鬱なことだ。時間がもったいないし・・・・。

 読者には、ぜひ『真壁仁研究』第7号に直接当たってほしい。
 同書は、発行元の東北芸術工科大学東北文化研究センターのほか、インターネット書店で購入できる。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 13:35Comments(0)作品情報

2007年05月02日

ブナの森を歩く



 新宿の雑踏を歩いた次の日、山形に戻り、月山の麓の県立自然博物園を訪れ、インタープリターの案内でブナの森を歩いた。

 このあたりは標高900メートル。約5メートルの積雪があるという。
 この季節でもまだ2メートル近い積雪が残っている。


 積雪の圧倒的な圧力に耐え、ブナはたくましく育つ。
 ブナの寿命は樹木としては比較的短命で、約200年から250年だそうだ。
 月山の麓にはブナの豊かな天然林が広がっている。もうすぐ開花の季節だという。


 兎の糞があちこちに落ちている。ブナの表皮や芽を食べている。糞はおが屑のようでほとんど臭わない。



 ブナの中には、このようにのた打ち回って育つ木もある。
 積雪の関係で枝が下に引っ張られ、捻じ曲げられてしまう。だが、植林されたアカマツなどが枝折れしてしまうのと比べ、ブナは極めてしなやかで、積雪の圧力の中をかいくぐるように枝を伸ばしていく。










 ブナの枝にはヤドリギが取り付く。
 ヤドリギの実は鳥の餌となり、糞として別の木の梢に付けられ、広がっていく。
 そのヤドリギに寄生されたせいなのか、ブナの梢には拳骨のように瘤ができている。
 これはブナが瘤を作ってヤドリギを退治しているという見方もできるという。





                                                                                                                                                                                          








 ブナの森から姥ヶ岳を望む。
 この写真では判別できないが、肉眼では山の雪面にかろうじて蟻のような人影が見えた。
 月山スキー場のスキー客である。
 ここからは月山山頂は見えない。左手に少しだけ写っているのが湯殿山である。




 ブナの森には癒される。
 だからブナの森で死にたいと思ったことがある。


 だが、動物に食われ、蛆虫や昆虫に食われる姿を想像すると、その気もやや萎える。
 おれは所詮俗物である。


   

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:41Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2007年05月01日

歌舞伎町の夜明け


 GW連休の前半、新宿を訪れた。

 連休中の日曜日、だが休前日にもあたるこの日の夜、久しぶりに新宿ゴールデン街に廻ってみた。
靖国通りから歩道を入ると、あの長屋街の入り口のところにあったタバコ屋が消えていた。
 そのむかし上京するたびによく通った「トウトウベ」もとっくに看板は架け替えられているので、その長屋の二階のどこだったのか、もはや正確な場所の判別が覚束なくなった。

 だが、相変わらずこの入り口近くの、あるスナック風の店の前には、やはり背丈より少し高い観葉植物の鉢が置いてある。これは20年数年前から変わらない光景だ。あの頃はその陰の暗がりに女装した人物が立っていて、通りかかるいい男に声をかけるのだった。

 やがてバブルの時代がやってきて、ゴールデン街は次第に往時の賑わいを失っていく。そして地上げ屋が入り、長屋の店々は文字通り櫛の歯が抜けるように減っていったのだった。
 私はそれまで一度もこの暗がりから声をかけられたことがなかったが、この時期になるとその人物はもはや選好みしていられなかったのかこの私にも声をかけてきた。
 そこまできているのか・・・と、一抹の寂しさを覚えたことを思い出す。


 「トウトウベ」は詩人の安田有さんがやっていた店だ。
 そこに通うようになったのは、当時私が山形で参加していた詩と批評の同人誌『異貌』に、20代で自死した詩人・立中潤の作品に関する批評を掲載したことが機縁だった。(1982年7月の創刊号から「先験的自立者の憂鬱―立中潤ノオト―」を連載。)

 新宿5丁目あたりだったと思うが、伊藤聖子さんが「詩歌句」というスナックをやっていて、山形県出身のつながりである人に教えられてその店を訪れた。
 そこで今度は伊藤さんから、早稲田大学で立中潤と親しかった安田さんがゴールデン街で店をやっていると教えられ、「トウトウベ」を訪ねたのだった。

 なお、立中潤の作品は、死後、弓立社から『闇の産卵』『叛乱する夢』の2冊にまとめられ発行されている。

 余談だが、伊藤聖子さんといえば、そのころ『新宿物語』という本を出版していて、「詩歌句」は文学者(いわゆる「新宿文化人」?)の間では有名な店だったようだ。
 まだケツの青い田舎の若造だった私が訪ねて行ったときも、伊藤さんは親切に応対してくれた。
 そして、文学青年に見えた?私に気を使ってくれたのか、店の常連だという埴谷雄高や井上光晴が草野球のチームをやっている写真を見せてくれたのを憶えている。
 
 余談の余談だが、それまでに一度だけ埴谷雄高の講演を聴いたことがあった。
 きりりとした輪郭で、あの文体そのままに語る埴谷からはオーラが立ち昇っているように見えたものだ。
 <自同律の不快>を語る埴谷が草野球チームのメンバーと笑顔で記念撮影している俗物的な写真など見たくないと思ったほろ苦い記憶が蘇る・・・。

 ところで、安田有さんが「トウトウベ」を閉めて故郷の奈良県に引き上げてからも、関西出張の折に彼の始めた古本屋を訪ねて行ったことがあった。もう20年も前のことだ。
 安田さんは自宅へ案内してくれ、たまに来店する客の一人に過ぎなかった若い私を、旧い友人のようにもてなしてくれたのだった。
 
 その後、安田さんと私は、年賀状やそれぞれの作品が掲載された詩誌を送り合うだけの関係で推移してきたが、昨年、その安田さんから、彼の主宰する雑誌『coto』へ詩作品寄稿の依頼が舞い込んだ。
 私はよろこんでこれをお受けし、2007年1月発行の13号に「骨髄ドナーは呻き呟く」という作品を発表した。次の号にも依頼されたので、また作品を寄稿させていただきたいと思う。

 さて、新宿では、3丁目の、その昔、クリスマス・ツリー爆弾で爆破されたポリス・ボックスの近くのビルの8階にある「御八」という居酒屋チェーン店で窓際に座り、夜の街を見ながらしこたま飲んだ。
 真向かいの三菱東京UFJ銀行は、休日のために全館消灯のままだった。
 
 ・・・なぜか急に、新宿がつまらない街に見えた。新宿がつまらない街に思えたら、東京全体がつまらない街になってしまうのに・・・。

 
 
 歌舞伎町の新宿プリンスホテルでは、夜明けにカラスたちの声で目が覚めた。

 ビルの海に真っ赤な朝陽が昇る・・・・。夜の新宿は人間の欲望が渦巻く世界だが、夜明けから昼前まではカラスたちの嬌声が覆いつくす世界なのだ。  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:57Comments(0)歩く、歩く、歩く、