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2013年11月26日

映像制作者と被写体の関係における倫理について(その3)




3 「リアリティTV」の憂鬱

 今回は、特集企画「6つの眼差しと<倫理マシーン>」から、アリエル・シュルマン、ヘンリー・ジュースト監督作品『キャット・フィッシュ』(アメリカ・2010)についてその感想を記す。

 これは、アメリカで大人気になっているというテレビ番組のジャンル、「リアリティTV」風の作品である。
 概要を述べると、20代の映像作家である主人公ネブが、ネットを通じて交流を始めた見知らぬ女性の正体を確かめるために、仲間とはるばる会いに行くというお話である。
 ある日、映像作家であるネブの作品(男性のダンサーが女性のダンサーを抱え上げている写真)が新聞に掲載される。すると、それを観てあなたのファンになったという8歳の少女アビィから、ファンレターとともにその写真を絵画に描いた作品が送られてくる。ネブがアビィと電子メールでやり取りをはじめると、彼女は何度も様々な対象を描いた作品を送ってくる。彼女の作品は高い評価を受け、地元のギャラリーに展示されていると言う。(このあたりから、ネブとともに映像製作の事務所を運営しているネブの兄・レイがネブの様子をビデオに記録し始めた、ということになっている。)
 そうこうしているうち、ネブはfacebookでアビィの異父姉だというメーガンと知り合い、美人でセクシーな彼女の写真をみて興味を積のらせていく。(このころから、レイとその友人が、鼻の下を伸ばしてメーガンとやり取りするネブの様子を映像作品にしようと意識して撮影し始めた、とされている。)
 しかし、メーガンとやり取りしているうちに、ひょんなことから彼女が嘘をついていたことを知り、ネブはメーガンという女性の存在そのものに疑念を抱くようになる。そして、ネブの兄と仲間の3人はメーガンの正体を確かめようと車に乗り込み、泊りがけの旅をしてアビィの住む町へ訪ねていく。
 すると、・・・アビィという少女は実在していた。だが、絵を描き、ネブとメールの交換をしていたのはアビィになりすました彼女の母親で、ナイスバディで美人のメーガンはこの太った母親が他人の画像を剽窃してネット上に作り上げた架空の存在だったことが判明する。

 さて、この作品のキモはここから先の部分にある。
 このアビィの母親である女性(名前は失念した)は、ある子持ちの男性と結婚し彼らと同居していたのだが、その前妻が残していった二十歳ほどの双子の男の子は、二人とも重度の知的障がい者なのだった。彼女は自分の夢を捨てて家庭に入り、専業主婦としてこの子どもたちの世話をする日々を過ごしていたのだ。
 この作品のクライマクスは、ネブとこの女性とが向かい合って椅子に腰掛け、対話するシーンである。
 女性は夢を諦めて家庭に入り、こうした毎日を過ごしていることを語りながら、涙を流す。それに対して、ネブは彼女を非難することも受け止めることもできないまま、ただ表面的な応対で軽薄さを曝け出すばかりなのだ。
 作品の最後に近いあたりに、この女性の夫にインタビューするシーンが挿入されている。そこで夫は、このような嘘をついて若い男性とメール交際していた妻について、「Catfish」(ナマズ)の喩えを持ち出してかばう。彼は鮮魚を輸送する仕事に関わっているのだが、タラを生きたまま輸送するために、タラの水槽にナマズを一匹入れる。するとタラはキビキビとして、生きがいい状態で輸送される。・・・妻にとって、ネットで架空の女性に成りすまして男性と交際することは、彼女の(あるいはこの家族の)日常にとってCatfishのようなものなのだと思う、と。


 上映後のディスカッションでは、まず、コーディネーターの米ミシガン大学教授の阿部マーク・ノーネス氏が、「リアリティTV」について簡単に解説した。
 「この作品はアメリカで大変な人気を呼んだ。全米の映画館で公開され、その人気ゆえにテレビでシリーズ化もされた。私の大学で映像作家を目指している学生の就職口として、『リアリティTV』製作は大きな受け皿となっている。『リアリティTV』の製作で生活費を稼ぎながらドキュメンタリー映画作家を目指す、というのが卒業後の道になっている。
『リアリティTV』は、<ダイレクト・シネマ>の流れから出てきた手法だが、撮影する者とされる者の環境を整え、そこに予想できない刺激を投げ込んで何が起こるかを観察する手法がメインになっている。出演者に対する演出はないが、撮影対象が置かれる環境については徹底した管理がなされている。」

 このディスカッションのモデレーターはブライアン・ウィンストン氏、登壇者は映画監督の関口祐加氏と映画監督でプロデューサーでもあるゴードン・クイン氏(アメリカ)。
 なお、関口監督は、自分の母親を被写体にした映画『毎日がアルツハイマー』の作者。「映画で飯が食えないので、オーストラリアの映画学校で教えている」と話していた。
 ウィンストン氏は、この作品を取り上げた視点として、ひとまずは「映画の製作や発表にあたって、被写体の同意を必ず得るべき」という倫理を挙げた。また、クイン氏について「クイン監督の『フープドリームス』は障がい者を被写体にした作品だが、クイン監督は撮影後も被写体となった障がい者に長年に亘って金銭的支援を行っている」と紹介し、製作者と被写体の関係のあり方として「被写体=出演者に金を払うべきかどうか」という提題も行った。
 ところで、「キャット・フィッシュ」には、ネブたちが、アビィ宅の訪問を決意する前、ネット検索などでメーガンが架空の人物だと見抜いた時点で、この事実にショックを受けたネブが、レイに、これ以上撮影するのを止めてくれ、と言って塞ぎ込むシーンが挿入されている。ここでは、ネブは製作者であるとともに被写体でもある。
 とはいえ、もちろんここでの倫理的課題は、嘘が暴かれるあの母親の同意を得たかどうか、そして大ヒットしたことによって得た利益から彼女に幾許かの支払いを行ったかどうか、という疑問として、ひとまずは提起された。

 支払いの問題については、ゴードン氏は「たまたま利益が出たから出演者にも還元しているということだ」とさらりと流したが、この問題は現実としてなかなか難しい要素を含んでいるように思える。
 被写体=出演者の同意を得ることについては、さらに難しい問題があるだろう。しかし、ウィンストン氏は、同意を得ない公開はドキュメンタリー作品への信頼を失わせるとして、必ず同意、それも事前同意をとる必要があると語った。

 誰からだったかは記憶していないのだが、この作品に関しては、重い障害のある夫の連れ子を二人も世話する女性に対して、その嘘を見破り正体を暴こうとして訪問した撮影者たちの方が、如何にも軽薄で愚かしく見える。架空の人物を創りだしてネット上で男を騙しつづける女の“存在の耐えられない重さ”(これは高啓の表現)に対して、映画作家の側がまったく対峙できていない、という批判が出された。
 これに対して関口監督が、「撮る方の愚かさや未熟さが出ているからこそ、このフィルムは作品として成立しているのだ」という趣旨の返しをしていたのが印象的だった。

 関口監督が言ったように、この作品に魅力があるとすれば、それは重い現実を抱えて生活しているひとりの女性のまえで、最初はスケベ心で、そして嘘を見抜いてからは正体を突き止めてやろうとする(あるいは嘘をついた人間の実態を暴いてやろうとする)、好奇心とも悪意ともいえる映像作家根性でやってきた若造が、成すすべなくうろたえる姿を定着しているからだと思える。
 だが、この映画の作風は如何にもポップなノリで、物語の進行は手際よくリズミカルに編集されている。どしっと重く、尾をひきそうな“リアリティ”が、いわば日常生活意識に対する適度な刺激として機能するCatfishの如くにアレンジされ、一方でそのリアリティに触れた主人公の作家たちは、自分たちの不細工な姿をビター・チョコレートみたいに旨く加工して観客に提供する。
 このパッケージ化された関係性の上げ底感は並みのそれではない。こんなもののために精力と時間を費やす映像作家がたくさんいるとしたら、それこそが映像の<非倫理マシーン>として唾棄さるべき存在であるだろう・・そう思ってしまう。(この項、了)



                                                                               

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:07Comments(0)映画について

2013年11月21日

映画製作者と被写体の関係における倫理について(その2)






2 プロフェッショナリズムの醜悪さ

 次は、特集企画「6つの眼差しと<倫理マシーン>」から、ジョン・レノン、オノ・ヨーコ監督『レイプ』(Rape)(1969)についてその感想を記す。
 上映後のトーク:ゲストは『蜘蛛の地』監督のキム・ドンリョン、パク・ギョンテ氏、聞き手は斉藤綾子氏。
 斉藤氏が解説者的な役回りをし、これに客席にいた阿部マーク・ノーネス氏が被写体に関する情報を提供した。また、同じく客席からイギリスの映画・メディア研究者のブライアン・ウィンストン氏が発言した。

 この映画は、ある若い女性をビル街の路上でカメラ(16ミリ撮影機)が追跡するところから始まる。女性は白人で長髪、しかもどちらかといえば美人である。高級という感じではないが安っぽいという感じでもなさそうなコートを着て、スカートを穿いている。特徴的なのは彼女の目の周りのメイクである。上の睫毛は付け睫毛らしいが、下の睫毛は目の下の皮膚に放射状に描かれている。60年代の終わりには一般人にもこんなメイクが流行ったんだっけ?・・・などと思いながら映像に付き合うことになる。
 彼女は自分が追跡のターゲットになっていることに気づいて、カメラマンに抗議したり、商店らしき店舗に入ったり、タクシーを拾って追跡を振り切ろうとするのだが、それでもカメラマンから逃げ切れず、ついに雑草の茂った墓地で逃走を諦め、強引な撮影に結果的に応じたようなかっこうになる。つまり、狼狽したり腹をたてたりした挙句、諦めのように、あるいは恐怖に震え、または救いを求めて媚を売るかのような表情を浮かべて、撮影に身体を開くような目線やしぐさを垣間見せるようになるのだ。

 フィルムの後半は、彼女のアパートにカメラが押し入り、表情をアップして追い回す場面で構成されている。カメラマンは鍵でアパートのドアを開けて押し入る。彼女は叫び声を上げて追い出そうとするが、ドアには鍵がかかり、内側から開けることはできない。彼女は誰かに電話で助けを求めている。密室でパニックに陥っている女の懐に、視線を忍ばせていくカメラのアングルがエグい。作品を見ている限りにおいては、すべての撮影過程を通してカメラマンは一切の声を発しない。そういう意味でかなりのテクニックをもったカメラマンだということがわかる。

 解説の斉藤綾子氏は、この作品を「6つの眼差しと<倫理マシーン>」のプログラムのひとつとして取り上げた理由を、「カメラが被写体に及ぼす暴力性。何を意図して製作されたかとは別に、カメラの視線が持つ暴力性が直截的に感じ取れる作品」であり、しかも「この作品はオノ・ヨーコが1964年にコンセプチャル・アート作品集『グレープ・フルーツ』に書いた一行のアイデアに発して1969年に撮られたもので、<実験的作品>と位置づけられているが、男性カメラマンがひとりの女性を撮影しており、撮られている方と撮っている方のパワー関係が歴然としているという意味でも問題を提起している」からであると述べ、また、「ほんとうにカメラの暴力性を暴こうとして製作したのか疑問。実験的アートのひとつのアイデアの実践という意味合いで製作したところ、しかし、彼らが意図していなかった暴力性が表れてしまったのではないか」とも語った。

 さて、映像を観はじめてすぐに異和を感じるのは、街の様子がイギリスらしいのに、突然まとわりついてきたカメラマンに対して発する彼女の苦情や抗議らしき言葉のほとんどが何語で発せられているのか、少なくともじぶんには判別できないことだ。英語で聞き取れたのは初めの方の「Sorry, I can´t speak English. 」の一言のみ。あとは上述の電話のシーンで、ドイツ語らしい部分(警察に連絡して!、みたいな内容)が一箇所判別できただけである。

 阿部マーク・ノーネス氏の解説を聞いたら、この女性はハンガリー生まれで、「ハンガリー動乱」(1956年)を機に、親とともにウィーンに逃れ、このときはロンドンでモデルをしていたということだった。(というと、あれはハンガリー語だったのか。)
 ついでに同氏が話したことをじぶんのメモから記しておくと、
 「6、7年前になるが、ウィーンの映画祭でオノ・ヨーコの作品特集が企画されたとき、ヨーコ本人がこの作品の上映後のQ&Aに出てきた。すると客席で私の隣に座っていた女性が質問をした。その質問内容は忘れてしまったが、忘れたのは彼女が“この被写体は私です”と言ったから(驚いて)である。この女性はこのあと建築家と結婚し、骨董屋になった。90年代にハンガリーに戻って、動物のシェルターのようなものを創った。しかし、この女性は今年の5月、自分の雇用していた従業員に殴られ火をつけられて殺されたと報道された。」
 「このカメラマンは彼女を撮るまえに別の人物を2、3人追いかけて撮影したようだが、途中でうまくいかなくなって止めたとのことである。そこで、知り合いだった彼女の姉と話をつけて、アパートの鍵を借りた。彼女が日常的にあの墓地を通ることも聞いていたという。」
 「撮影後、カメラマンは何も言わずに消え、翌日アパートのドアを開けたらジョンとヨーコが立っていて、映画化を承諾してくれたら25,000ポンド支払うという契約を持ちかけてきたそうだ。」
 
 この作品は、いくつかの点でたしかに「暴力的」であるだろう。
 まず、カメラが被写体に対して本質的に暴力的であるということ。これについては、パク監督が韓国におけるこの種のテレビ番組などについて「韓国ではモザイクが入れられているにしても、被写体はカメラにすべてを晒さなければならないという圧力が働いている」と述べていた。
 じぶんなどは、カメラのもつ本質的な暴力性と言われると、すぐにオウム真理教事件を思い出す。つまり、オウムの施設や信者を狙うカメラ(マン)に対してかれらが常にビデオカメラを回していたことを、である。カメラを向けられた信者たちは、つねに肩のところにカメラを構えて取材者に対抗していた。その姿は、見る者にとってこちら側のカメラの暴力性を映す鏡のようでもあった。

 次に暴力的な点は、すぐに看て取れるように男性が女性を追い詰めているということである。
 この作品のカメラマンと編集者はじつに巧妙で、映画の中で一度だけチラッとカメラマンの顔が映し出されるシーンを挿入し、カメラマンが男性だと知らしめている。部屋の中に侵入したカメラマンはほとんど暴漢だが、これがもし屈強ならざるカメラウーマンなら被写体の女性に撃退されたかもしれない。

 さらに暴力的な点は、じぶんが最初に抱いた異和に発するが、被写体の女性が英語のできない東欧人だということである。英語ができないうえにまだロンドンに馴染みがないとすれば、路上で誰かに助けを求めるということを躊躇する可能性が高い。しかも東欧からの亡命者である。これは政治的、民族的な差別を背景に成り立つ撮影でもあるだろう。

 もうひとつの暴力性は、これはパク監督も指摘していたことだが、有名人(権力者)が無名人(権力を持たない者)を撮るということの暴力性である。人権侵害があっても「実験映画」だとして糊塗できる。金の力で被写体を黙らせることもできる。じぶんはこれを観て俗悪なAV作品を連想した。あの、ほとんど実際のレイプ行為を撮影して、あとで金と脅しで「女優」を黙らせたような作品を、である。

 そして、最後の点だが、この作品を観てもっとも印象に残ったのは「プロフェッショナルの暴力」とでもいうべき代物だった。
 この作品は、形式が<実験映画>であるようでいて、内実が伝えてくるものは「実験」とは大きく異なる。それは、一にかかって、カメラによる追跡と被写体に近接してのカメラワークが“プロの仕事”を思わせるほど手際よく展開され、被写体の抗議を圧殺する鉄面皮さとなって現象しているからである。
 この作品の編集者は、これを撮影したカメラマンがいかにプロフェッショナルであるか、それを観客に看取させようと図るかのようにして、16ミリ撮影機のフィルムを交換した後のカチンコ(それはカメラマンの肩掛けバッグに固定されている)をカメラマン自身がカチンとやる場面を何度か盛り込んでいる。というか、一般には編集でカットして作品に残さない部分を、あえて観客に見せつけている。
 この作品が孕むいくつかの醜悪さのなかで、ここが一番のキモとなり、ひいてはもっともキモちの悪さを感じさせる部分である。

 客席にいたイギリスの映画研究者ブライアン・ウィンストン氏は、この映画のタイトルバックに記されたカメラマンたちの名前(うち一人は「ニック・ノーランド」と言った。もう一人の名前を高啓は聞き取れなかった。)を見て、次のようなことを語った。
 「これらの人物は、イギリスではプロフェッショナルとして名の通ったドキュメンタリー映画のカメラマンたちだ。イギリスでは<実験映画>と<ドキュメンタリー映画>ははっきりと区別されており、<ドキュメンタリー映画>の地位は高いが、<実験映画>の地位はそうではない。この作品をプロフェッショナルの仕事としてみた場合どうなのかを考えたい。」

 これにじぶんが応えるとすれば、じつにザッハリッヒな話になる。
 ようするに、これらの一流カメラマンは、ジョンとヨーコという有名で金持ちで道楽者の製作者から“プロ”として依頼された仕事をこなした。ただそれだけなのだ。しかし、それだけであるからこそ、かれらがそこで表現してしまうのは、まさに「プロフェッショナルな眼差し」という、鉄面皮で圧制的で野郎自大なゲバルトに他ならない。
 映画『レイプ』では、カメラマンの「プロフェッショナルな眼差し」の前で、被写体の女が身体を開いて「プロフェッショナルな被写体」に変容していく過程が見て取れる。そしてこの過程のすぐ向こうには、札束を抱えて佇む、クソのように幼稚でアマちゃんで醜悪このうえないジョンとヨーコの姿がたち現れてくるのだ。(この項、了)

                                                                                      

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:48Comments(0)映画について

2013年11月01日

映画製作者と被写体の関係における倫理について(その1)






1 対自的倫理と対他的(あるいは対多的)倫理

 まずは、上記7の「映画監督と倫理」と題された『ゆきゆきて、神軍』の原一男監督と『殺人という行為』のジョシュア・オッペンハイマー監督の対談から。

 なお、この対談は、「6つの眼差しと<倫理マシーン>」という企画のなかのひとつ。
 映像製作者と被写体の関係における<倫理>の問題を考える企画として、山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)東京事務局ディレクター藤岡朝子氏と米ミシガン大学教授の阿部マーク・ノーネス氏らがコーディネイトしたものである。(このほか、イギリスの映画・メディア研究者のブライアン・ウィンストン氏も企画に関わっていたようである。)
 「6つの眼差しと<倫理マシーン>」では、山形美術館の展示室を会場として、上記6~10のほか、全部で10の上映+トークやディスカッションの企画が組まれていた。すべて参加したかったが、勤め人には無理な日程だった。(ちなみに、ほとんどの時間をパイプ椅子上で過ごすことになったため、お尻にも無理のかかる日程だった。)
 なお、「6つの眼差し」とは、「危険にさらされた眼差し」「介入する眼差し」「人道的な眼差し」「偶発的な眼差し」「プロフェッショナルな眼差し」「無力な眼差し」とされる。ただし、この区分自体は、「プロフェッショナルな眼差し」を除いて、議論のうえであまり意味のあるものではないから、ここでは無視する。


 映画「殺人という行為」は、インドネシアにおいて、スカルノ政権が倒れスハルト政権に移行する1965年から66年にかけて大量の「共産主義者」(共産党員・支持者・その家族、その他彼らにとって邪魔だった民主勢力の市民、差別や妬みの対象だった中国系住民などを含む)を拉致・拷問し、その多くを殺害したプレマン(ヤクザ、ゴロツキの意)たちに取材した作品である。

 オッペンハイマー監督が語るところによれば・・・まず被害者の遺族の協力を得て取材を始めたが、軍部が遺族から話を聞くことを許さないと言ってきたため、逆に殺害した側の人間から話を聞くことにして、全部で41人の殺害者にインタビューした。すると、インタビューを受けた殺害者たちはほとんどが殺害の話を自慢げに語り、どのような方法で殺したかデモンストレーションしてみせる者も少なくなかった。その41人目が、この作品で主役となったアンワールという老人のギャングである。彼らが殺人を行ったことをなぜ自慢しているのか、どんな人間として世界に見てほしいと思っているのかに興味を引かれ、5年かけてこの作品を撮影した・・・。(※)

 ちなみに、これらのギャングはインドネシアで「プレマン」と言われる者たちで、日本で言えば「ヤクザ者」とか「ゴロツキ」とかいうことになるようだ。
 映画は、アンワールと彼に弟分のように付き添う太ったプレマン、そしてスハルト体制を支えてきたプレマン団体「バンチャシラ青年団」の組織にいる人相の悪いプレマン、そしてアンワールの昔のプレマン仲間の4人が(アンワールとその弟分らしき太った男が中心となって)、監督の勧めに応じて自分たちが出演する映画を撮影する過程を中心として構成されている。この部分は“劇中劇”的な“映画内映画”だと思ってもらえればいい。
 このプレマンたちが製作する映画には、かれらが「共産主義者」たちの村を襲い、村人を虐殺して家に火を放ったことを再現するシーンが含まれている。襲われる側の女や子どもを含む村人役はプレマンたちの身内や町で映画出演を説明してにわか役者としてスカウトしてきた人々だが、襲撃場面のアクションによって、その後本当に放心状態となっている者やパニックに陥って泣き叫んでいる者も映像に収まっている。
 印象的なのは、密室(じつは地元新聞社の社屋の一室)で「共産主義者」を拷問・殺害したところを、アンワール自身が殺される側の役となって再現するシーンである。ここで、アンワールは首を針金で絞められ、死の恐怖を味わう。
 しかし、この作品をもっとも印象付けるのは、こうして撮影された映像のラッシュ画面を自宅で観ているアンワールとその弟分の表情を、正面から、つまり映像画面の側からアップでとらえた場面が何度も出てくるところである。アンワールは、各シーンについて、この場面はうまくいったとか、ちょっと不満だとかいいながら、最終的にはいい映画になったと満足する。
アンワールは、もとはハリウッド映画を上映する映画館の前でダフ屋をやっていたチンピラだったが、1965年にプレマンとして「共産主義者」狩りに深く関わるようになる。
 映画のはじめの方には、彼が監督の求めに応じて「あまり血がでず、楽に殺せる」として採用したという針金で絞殺する方法を説明し、拷問と殺しを行ったあとはこんなふうにクラブで踊ったとステップを披露してもみせるシーンが置かれていて、まずはこの人物に対する嫌悪感を催させる。だが、やがてこの映画の撮影とこの映画のなかで撮影される再現映画の製作の両方が進むに従って、オッペンハイマー監督のカメラはアンワールの私生活の一部(とくに寝室)に入り込み、やがて彼が夜毎に魘されている姿をとらえ、絞殺される役を演じた際に涙を流す姿をも織り込んでいる。
 映画『殺人という行為』は、こうして主人公アンワールの人間性を追いかけていく流れと、アンワールたちが映画を撮っていくところを記録する流れをメインとし、そこに背景として、現在も同じプレマン団体が地域で暴力的な支配を続け、政党・地方の首長・国軍・警察・マスコミ・経済界などと密接に結びついて堂々と活動している場面をうまく差し込んでいる。たとえば、バンチャシラ青年団のプレマンがマーケットを流して次々と中国系商人をカツアゲしていく姿と、このバンチャシラ青年団の集会で副大統領が同団体を持ち上げる演説をしている映像の組合せには、ASEANの大国インドネシアがいまだにこんな国情だったのかと唖然とさせられる。
 監督が「殺された者の遺族の復讐が恐くないのか?」と問うシーンでは、プレマンは「俺たちに手出ししたら、(一族)皆殺しだ。それがわかっているからやつらは手出しできない。」と平然と言ってのけるのでもある。
 (なお、インドネシアにおける「プレマン政治」について、以下の論文を参照されたい。立命館大学教授・本名純氏の論文「ポスト・スハルト時代におけるジャワ3州の地方政治」(アジア政経学会『アジア研究』第51巻の2)


 さて、映画の説明はこのくらいにして、対談である。
 走り書きのメモから対談の概略を起こしてみる。

 原監督:胸糞が悪くなるこのアイディアをどこから思いついたのか。
 オッペンハイマー監督:(上記の※の部分のようなことを述べた。)
 原:撮影していくなかでアンワールが変化していくのを予想していたか。
 オ:アンワールが自分を許すというようなエンディングにはしたくなかった。私はインドネシアの政権の全体を暴露したかった。撮影していくなかで、アンワールは自分の心の傷に瘡蓋を作ろうとしているように思われた。
 原:アンワールが被害者の役になったのは、監督の発想だったのか。
 オ:アンワール自身の発想だった。彼は、自分が殺した人間がどのように死んでいったか見せてやると言って演じた。彼は毎晩のように被害者になった夢をみている。殺人を自慢しているということと後悔しているということはコインの裏表のように思えた。
 原:ドキュメンタリーの面白いところ、醍醐味は、人の価値観が大きく変わっていくところを描けるところだ。この作品のなかで、アンワールの姿が救いを見せてくれる。この変わるということを描きたいというモチーフがあなたの中にあったか、それをもう一度問いたい。
 オ:私の描きたかったのは両方のことだ。映画の製作過程でアンワールは変化してきている。しかし、この映画はインドネシア社会の全体像の鏡になっている。彼が変わったのは、もっと大きなことによるのではないか。映画そのものが大きなものに介入している。
 原:先進国でこうした映画(注:自分が犯した殺人を自分で映画にすること)が受け入れられるだろうか。そのことを彼らに伝えたのか。
 オ:彼らは世界が自分たちをサポートしていると思っている。実際、アメリカはこのインドネシアの政権に多くの支援を行っている。
 原:しかし、あなたはこの映画が公開されれば世界が彼らを批判すると思っているだろう。そういうことについて、彼らと意見交換したのか。
 オ:私はインドネシアの政権がこのようにして成り立っていることを明らかにしたかった。アメリカの現在の関与についても問いたかった。それが私の倫理。これは殺された人の遺族や被害者たちとの話し合いのなかで感じたものだ。
   ( 中 略 )
 原:私は、被写体との関係においてどのような規範を持てば良いか、それを探りながら映画を撮っている。
 オ:私は今でもアンワールとたまに連絡を取りながら8年間付き合っているが、アンワールは素晴らしい映画になったと言っている。


 この対談で印象的だったのは、まず、映画製作者として被写体との関係性を重視し、被写体と真摯に向き合おうとする原監督の姿勢だった。原監督の言葉には、被写体に対する自己の姿勢として、いわば“対自的倫理”とでもいうべきものの存在を感じる。
 たとえば、それは、来談者に対するカウンセラーの姿勢としてカール・ロジャースが掲げた「自己一致」というようなものに近いのかもしれない。(ロジャースの言う「自己一致」はちょっと難しい概念で、高啓はこれに対する自分の考えをいまここでうまくまとめることができない。そこで“対自的倫理”という抽象的な言い方でお茶を濁しておく。)

 原監督は、オッペンハイマー監督に、アンワールらに対してたとえば“殺人が支持されると考えているあなたたちは勘違いしている。殺人をこんな風に平気で再現したり、あるいはこの映画内映画みたいにキッチュで面白おかしい場面に構成したりしたら、世界から非難と軽蔑を受けるだろう。それを敢えてやってもいいんだね?”(ここは高啓の意訳)と確認したのかと問いかけた。ここまでは、いわば普通の倫理的態度をめぐる疑問である。
 しかし、ほんとうに重要なのは、原監督がその問いに続けてすぐに、たしかこんなふうに付け加えたことだ。つまり、「いや、ちゃんと話していなくてもいいんだ。あなたがそれを自覚してやっているのなら。」と。
 ここで原監督は、十分な意見交換をして被写体を納得させた上で作品を公開すべきだと言おうとしているのではない。もし、この映画の監督が馬鹿真面目な態度で世界(とくに先進国の市民)からどう思われるかを被写体に語れば、被写体はいくつかの重要な場面を公開することに同意しないかもしれない。そうなれば、外面的には民主制が機能しているように見えても実際は暴力が支配し続けてきたこの国の体制に対する作品の批判力は大きく殺がれるだろう。だから、この監督は被写体が勘違いしていること、敢えて言えば彼らが愚かなことを好いことに、このような客観的認識を伝える努力を真面目にはしなかったかのようだ。もしそうなら、この監督はオブラートに包まれた“悪意ある狡知”を持っているということになる。
 さて、このあざといサボタージュによって監督は倫理的にネガティブな評価をなされるべきか・・・まさにその点が、このコンペティション出品作品が「6つの眼差しと<倫理マシーン>」の題材として選ばれた理由であるだろう。
 この映画の監督は、いわば「正義と公正」への自己倫理にしたがって「インドネシアの現政権や体制がどのようにして成り立っているか」を、このずいぶんと特殊な手法で暴こうとした。YIDFFなどのコンクールで賞をもらうことよりも、あるいは素晴らしい作品を撮る監督だと賞賛されるようになることよりも、この監督を強く突き動かす倫理があるのだ。(それがよくわかるような気がする。それは暗い想念なのだが。)
 原監督は、オッペンハイマー監督に対して、映画製作者の倫理とは、その作品と被写体の全体に対して“責任を負う”ということなのだと言いたげである。被写体に対して“責任を負う”ということは、“誠意をもって対応する”ということとイコールではない。製作者が被写体に対して、確信犯的に「意図や意味を語らない」という姿勢をとることもありうる。そして、だからこそ製作者の倫理はその先で、つまり作品行為の全体性として問われるべきなのでもある。
 だから、原監督の問いはこのように受け止められるべきであろう。“あなたは狡猾や愚劣のそしりを引き受ける覚悟の上で、この胸糞の悪くなる作品を発表したのか”と。
 観客から評価されるべきなのは、その覚悟の質及び根拠が倫理的瑕疵を凌駕しているか否かということだ。社会性を帯びたドキュメンタリー作品においては、少なくともこの問題は避けてとおることができないように思われる。(この項、了)                                                                                       

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:29Comments(0)映画について