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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2013年09月23日

映画「ペーパーボーイ」感想






 2013年9月、山形フォーラムで、リー・ダニエルズ監督の「ペーパーボーイ―真夏の引力―」(The Paperboy)を観た。その感想を記す。いわゆる「ネタバレ」の部分を含むので、以下を読む場合は了承のうえで。

 映画「ペーパーボーイ」は、1969年、人種差別が根強く残るアメリカ南部・フロリダ州の田舎町と海辺の沼地を舞台に、人間の暗部を汗と泥と血のなかに浮かび上がらせようとしたドラマである。
 物語は、屈折した白人の若者のジャック(ザック・エフロン)が体験した出来事を、その面倒を看てきた黒人メイドのアニタ(メイシー・グレイ)が語るという形式をとって進んでいく。
 ある日、ジャックの兄で、大手新聞社で記者をしているウォード(マシュー・マコノヒー)が、黒人記者ヤードリー(デヴィッド・オイェロウォ)を伴ってこの町にやってくる。彼らは、この土地で起きたある殺人事件(人々から憎まれていた白人警官が刺殺された事件)の犯人として死刑囚になっている貧乏な白人男性ヒラリー(ジョン・キューザック)が冤罪を着せられたのではないかと睨み、調査を始める。
 一方、この町にはケバい格好をした美人でグラマラスな白人女シャーロット(ニコール・キッドマン)が住んでいて、彼女は何故かせっせと多くの囚人たち(それも死刑囚や終身刑の囚人たち)と文通してパートナーを探している。
 ある日、死刑囚ヒラリーを“この人だ!”と思ったシャーロットが、冤罪を晴らしてほしいとウォードらを訪ねて来る。そこでシャーロットを見たジャックは、彼女に一目惚れして、兄の取材の手伝いをすることになる。
 やがて、黒人記者ヤードリーが自分の取材を元にウォードの承認をえないまま冤罪の疑いが濃いとの記事を書き、その影響で死刑囚ヒラリーは簡単に仮釈放されてしまう。自由になったヒラリーはすぐさまシャーロットの家に向かい、そこで野獣のようにシャーロットの身体を貪り、さらにはそのまま強引に彼女を沼地の自宅に連れ込む。
 ヤードリーが取材で得た証言が嘘だったことを突き止め、やはりヒラリーが犯人だった可能性があると睨んだウォードとジャックは、シャーロットを救出すべく、ボートでアリゲーターの住む沼地を渉り、ヒラリーの家を訪ねる。だが、そのときすでにシャーロットはヒラリーに殺されていた。そして、その場でウォードもヒラリーに鉈で喉を掻き切られて死ぬ。
 ジャックは大きな鉈をもって追いかけてくるヒラリーから必死で逃げる。乗ってきたボートは係留場所から失われているが、大学で水泳選手だったジャックは沼地の水中を自在に潜って逃げ遂せる。ラストシーンは、遁れたジャックの通報でヒラリーが逮捕されたと告げるアニタのナレーションの中を、ジャックが操る船外機付きのボート(そこにはウォードとシャーロットの遺体が乗せられている)が沼地から海へ向かって出ていく姿を鳥瞰するショットで締めくくられる。

 この作品を観てすぐにやってくるのは、あの時代の状況設定やカメラワークや登場人物の存在感がそれなりに効果をあげているのに、ストーリーの展開が安易すぎるため、すべてが中途半端に提出されてしまっているという印象である。
 観客は60年代南部の真夏の息苦しさに抱かれ、映画館の椅子に深く腰を下ろしてこのオドロオドロしい湿地の世界に浸っていこうとするのだが、不気味なはずの沼は意外に浅くてすぐに足が底に着いてしまうのである。

 不満な点をいくつか列挙してみる。
 第一に、シャーロットの人物像が明確でない。つまり、彼女はなぜ囚人たちと文通して彼らのなかにパートナーを求めているのかが伝わってこない。何故ヒラリーを選んだのかも不分明である。この不分明さは人物設定の説明不足によるものであると同時に、むしろニコール・キッドマンの存在感から来ているのかもしれない。彼女はシャーロットの下品な色気を出すためにそこそこの演技をしてはいるが、どうしても知的な面が覗いてしまうので、こんなふうに男に不自由しない女が貧乏で陰湿な囚人と進んで関係を持とうとする理由に納得がいかないのである。つまり、ニコール・キッドマンのシャーロットには、お目出度さや無垢さがない。
 第二に、白人記者ウォードと黒人記者ヤードリーが同性愛の関係だという設定や、ウォードが黒人男性からいたぶられることを望むマゾヒストだという設定にも無理を感じる。これもマシュー・マコノヒーの存在感がそういう登場人物のイメージと乖離しているからだと思える。
 第三に、沼地に立つヒラリーの自宅に連れ込まれたシャーロットの描写があまりにあっさりとしているために、この沼地世界のオドロオドロしさが今一つ描ききれていない。これはドラマの前半で同じく沼地の家に住むヒラリーの仲間の男の家の様子(男が女を何人か同居させハーレムのような生活をしている)がうまく描かれていただけに、ちょっともったいない感じがした。ヒラリー役のジョン・キューザックがまさに“はまり役”といった感じを出しているので、なおさらそう思える。
 第四に、上記のように沼地の世界とそこに嵌まり込んだシャーロットの存在感がさらりと流されているために、その地獄のような世界から命からがら逃げかえるジャックの心理も、十分な切迫性をもって伝わってこない。アリゲーターが獲物を狙っている水中を潜って逃げているのに、プールを泳いでいるシーンが挿入される訳もよく伝わってこない。(その意図がわかるような気はするが。)

 この作品は、1960年代の南部の田舎町の保守性や湿地や沼地に生きる下層の人間たちの欲望を、汗と泥と血の匂いとで比較的うまく仮構している。それだけに、もっと無名でそれゆえに演出の指示どおりにきわどい演技をさせられる役者たちを使って、精力的かつ繊細に描いてもらいたい気がした。
 同じ日活の配給だから園子温の作品のようなエグさを期待してしまうということかもしれないが、折角の設定が、脚本・演出の中途半端さによってアメリカン・コーヒーのように薄められているという感を免れないのである。(了)                                                                                                                   

 

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:22Comments(0)映画について

2013年09月04日

映画「スター・トレック-イントゥ・ダークネス-」感想



 


 2013年9月、山形フォーラムで、J.J.エイブラムス監督の「スター・トレック-イントゥ・ダークネス-」を観た。その感想を記す。いわゆる「ネタバレ」の部分を含むので、以下を読む場合は了承のうえで。

 「スター・トレック」といえば、じぶんの場合は小学生時代に観たテレビ・シリーズの印象が強い。いわゆる「SFもの」「宇宙もの」のなかで、このテレビ・シリーズは極めて異色の存在だった。
 簡単に言ってしまうと、娯楽作品ではない。小学生にとっては、面白い番組というよりどちらかというと退屈してしまうドラマだったような気がする。
 アクション・シーンが少ない会話中心の展開で、宇宙船の攻防などSFものに欠かせないシーンも印象に残らない程度。むしろ心理劇とか人間ドラマとか言った方がいいような内容だったような記憶である。
 たとえば、フロイトの言う<イド>が眼に視えない怪物(凶暴な物理的力)になって暴れまわるなんて話もあったと思うが、これは小学生のじぶんにはなかなか腑に落ちず、あれこれ考え込んでしまった。もっとも、<イド>ということばをここで憶えたりして、子どもから視ると“大人のドラマ”という感じがしていたものである。

 映画版「スター・トレック」については、過去の作品を劇場で2、3作品観た記憶はあるのだが、ストーリーをあまり覚えていない。宇宙活劇としても大人の心理ドラマとしても中途半端だったのかもしれない。(ただし、本作品よりは幾分か“スター・トレックらしい”作品だった。興行的に予想ほどうまく行かなかったのだろうか。)
 それでもあのエンタープライズ号の容姿とその背景のテーマ音楽に憧れて劇場に足を運んでしまうのは、子どものころに受けた刷り込みの影響だというのは間違いない。要するに、「惑星ソラリス」よりは薄いが、他の宇宙ものより知的で、なんとなく大人のドラマというイメージがあり、ついついあの特異な世界の再現を期待してしまうのである。

 さて、本作品は、以上のようなじぶんの期待をまったく裏切ってくれるものだった。
 簡単に言ってしまうと、心理劇をかなぐり捨てて、“スパイダーマン”や“バッドマン”に出てくるような超人が冒険活劇を展開する「ハリウッド映画」の典型的な作品になってしまっている。
 冒頭の未開人に追跡されるシーンは、活劇の導入部としては秀逸だが、よく言って「スター・ウォーズ」、悪く言うと「インディ・ジョーンズ」を連想させる。
 また、こういう映画の見方はしたくないのだが、指摘せずにいられないので言っておくと、クライマックスのシーンで、主人公のカーク船長は「USSエンタープライズ号」とそのクルーを救うために、同号の「コア」と呼ばれる動力装置の修理に向かって命を落とすのだが、その後、敵役で超人として描かれている「カーン」の血液を輸血されて蘇えるという筋書きには、その無神経ぶりに唖然としてしまった。
 「コア」はまるで原子炉の炉心のように描かれており、カークはそこで高線量の放射線を浴び、急性放射線障害で死んでしまうのだが、それが輸血一本で簡単に生き返り正常にもどってしまう。
 おっと、地球の連合艦隊に復讐を誓う元艦船司令官のジョン・ハリソン(=カーン)は、かつて遺伝子操作で不滅の人間兵器として生み出されたという設定だし、導入部では病気で瀕死の子どもをその血液の輸血によって回復させるシーンが挿入されているから、「死んだ人間を超人からの輸血で読みがえらせることができる」という設定自体については何も言わない。
問題は、高線量の被爆によってその場で致死した人間が輸血で蘇えるという筋書きだ。「フクシマ」以降も、ハリウッドでは、こんな能天気で無神経な設定が企画会議を通るのか・・・と、頭を抱えてしまった。

 もっとも、この作品をSF活劇だと看做せば、そこそこいい出来だと言うこともできる。
 何分かに一度アクション・シーンを挿入するというお約束も守られていて退屈しない。また、音楽が最初から最後までストーリー展開に対応してしっかり構成されていて、この音楽の完成度が作品の質をずいぶん救っている。 
 だがやはり、刷り込みを受けた人間としては、「スター・トレック」らしい“解らなさ”、つまりインテリジェンスの匂いが感じられなくなったのは、少し寂しいといわなければならない。(了)


                        

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:43Comments(0)映画について