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2007年12月31日

さらば、2007年!




 極私的に2007年という年を振り返ってみると、3冊目の詩集を出版したことのほかに思い起こされることはふたつ。
 それらは、普段“お気楽”を旨として生活しているじぶんにとって、それを掣肘してくる要素でもある。

 ひとつめは、初夏ごろからいわゆる“四十肩、五十肩”という症状が出て、その後、肩から腕の痛みが引き続いていることである。
 昨年の12月から、天候がすぐれなかったり風が吹いていたりすると、それまで続けてきていたロードのジョギングをずいぶんサボるようになってしまったので、フィットネス・クラブへ入会し、そのジムに通うということを始めたのだった。
 冬の間もトレーニングできるので、週に2回ほど通ってトレッドミルの上を走り、筋トレも少々やって、6月には8〜9年ぶりくらいにハーフマラソン大会で完走できるようになった。
 しかし、夏頃から、両方の肩が痛くて、回らない・上がらないという“五十肩”状態が始まった。
 腕の筋トレを自粛して騙し騙ししているうちにこの症状は秋までに治まったが、この状態が改善するのと入れ替わるように右腕・右肩が痛むようになった。

 これも騙し騙して一進一退の状態だったのだが、そろそろいいだろうと思って、日常の作業で腕を使ったり、弱い筋トレを復活させた途端、夜も眠れないほどの痛みが襲ってきた。
 地元で有名な整形外科へ通って、塗薬や経口の消炎鎮痛剤を処方され、リハビリに通うように言われて何度か通ったが、そのうち我慢できる状態になったので、サボり・・・・よくなったかなと思ってまた筋トレと日常作業をしたところ・・・と、この繰り返しをしてしまい、ついには二日ほど一睡もできない痛みに呻くことに。
 (おそるおそる筋トレしたのだが、一日おいても痛みが現れなかったので油断したのだ。・・・歳とると筋肉の疲労が時間を置いて炎症になるということか・・・)

 この痛みは、夜、床につくと酷くなった。
 三角筋、大胸筋、上腕二頭筋、上腕三頭筋などが代わる代わる痛み、あるいは重苦しい状態が続く。
 整形外科のリハビリを受けた日はやや軽快するが、毎日通うこともできず、ちょっとした作業をした程度でも状況がやや悪化する。パソコンのマウスを動かすときも、上腕筋に緊張があって鈍く痛む。
 この二、三日も、大掃除などで腕を使ったせいか、夜に一、二度、苦しくて目が覚める。

 医師は病名をはっきり言わないが、写真のような薬を処方した。
 経口薬の「ボルタレンSR 37.5mg」、塗薬の「ナパルゲンクリーム」(1g中フェルビナク30mg)、そして眠れないときのために座薬の「ボルタレンサポ 50mg」。
 この「ボルタレン」という座薬は、消炎鎮痛剤として一般的なのだろうが、末期がんの義母が使用していたので、そのときのことがフラッシュバックのように蘇った。
(義母が胃がんの再発を宣告されてから、亡くなるまでのことは、第二詩集『母を消す日』(書肆山田、2004年刊)の冒頭に入れた「かあさん、あなたが消えていく」という長編詩に書いた。)
 ああ、これは癌の痛みに(モルヒネを使う前の段階で)使う薬でもあるのか・・・そう思うと、これはまだ使えないな、などと使用せずに我慢している。(苦笑)


 ふたつめは、これも詩と絡むのだが、第三詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』(書肆山田、2007年刊)に収めた「骨髄ドナーは呻き呟く」という作品で取材している骨髄ドナーに関して。
 昨年(2006年)の春、もう忘れかけていた骨髄バンクからドナー候補に選ばれたという通知が来て、迷った末に引き受けるという決断をし、面談や大学病院での精密検査まで進んだのだが、結局その秋に「保留」の通知がきて、やがて「患者側の都合でコーディネイトは終了になりました」との連絡がきたという話・・・これを詩のネタにした罰が下ったのか、今年(2007年)の秋、また当選通知がきたのである。

 昨年、血液の精密検査を受けているので、じぶんは白血球のHLAのDNAタイピングまで行っているわけだし、今回は「迅速コース」ということで3ヶ月程度で移植手術までいく予定だということだったので、都合など考える間もなく“今度は覚悟しなきゃいけないか・・・”と受諾を決めたのだった。
 しかし、今回も、職場に説明して了承を得た後で、やはり「第一候補のドナー」のスペアとして「保留」となった旨の通知がきたのである。

 移植した骨髄はレシピエントの体内で増殖しなければならないのだから、年齢を考えればもっと若いドナーの方が望ましいはずである。
 だから「保留」続きの身の上をどうこう言う気はないが、やはり引き受けるには心の準備もいるわけで、その準備に少し疲れた・・・。(苦笑)

 余談だが、今回は、大学病院で検査時の面談をした医師の態度に不快な想いをした。
 いかにも骨髄バンクに頼まれて協力してやっているという態度で、ドナー候補への敬意など微塵ももっていないようだった。
 「やっぱり、どうしても尿道にカテーテルを入なければいけないのでしょうか?」と聞いたら、「入れられたくないなら、今ここでコーディネートは終了だよ。」などと横柄な物言いをし、血液採取をしていると脇で「身体が丈夫そうだから、今度はドナーに選ばれるでしょう。」などと、まったく人を臓器の入れ物みたいな目で見やがった。
 「おれはおまえの『患者』ではない!」と言ってやりたくなった。
 ところが、この間、その医者と前記のフィットネス・クラブで一緒になった。もっとも向こうは気がついていない。
 ひと月の会費が5,000円の大衆的なクラブなんだが、医者はもっと高級なクラブへ行け!とケツを蹴っ飛ばしてやりたくなった。(笑)

 山形は、雪の年越しになった。

 では、よいお年を。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 17:49Comments(0)徒然に

2007年12月30日

「ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?」作品掲載その2




 土曜美術社出版販売発行『詩と思想』2008年1・2月号の「2007年ベストコレクション」に、詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』から作品「水の女」が掲載された。

 「コレクション」の選定者が選んだ作品の作者に掲載同意依頼が贈られてくるが、返事がなかった場合は掲載を認めたと看做すとある。
 私は同意の返事を出したが、このやり方は他の世界ではなかなか通用しないだろう。


 なお、同号の詩集評で辻元よしふみ氏がこの詩集を次のように紹介してくれている。

 「(前略)激しくも切れのよい言葉にロック・テイストを感じ、たとえばここに揚げる『対痔核』は、分かる人には分かる名曲のパロディーでもある。」

 パロディと看做してもらってもいいが、作者としてはオマージュと言ってもらいたい。(笑)
 また、言わずもがなの話をすれば、辻元氏が「分かる人には分かる名曲」と言っているのは、ユーライア・ヒープの「対自核」のことではない。
 この作品では、ロックの曲名「対自核」と作品の題名「対痔核」を掛けているのだが、それは作品の後ろに掲げられた注を読めばだれにでもわかるのであり、「分かる人には分かる名曲」という言葉が指し示しているのは、ローリング・ストーンズのアルバム「メイン・ストリートのならず者」、ビートルズの「ゲット・バック」、CCRの「バッド・ムーン・ライジング」、レッド・ツェッペリンの「ブラック・ドック」、シカゴの「長い夜」、ピンク・フロイドの「吹けよ風 呼べよ嵐」と「エコーズ」・・・これらのことである。

 このほか、同詩集の別の作品「インチキゲンチュア・デクラレチオン」で、ピンク・フロイドの曲名「ユージン、斧に気をつけろ」をほとんどそのまま詩行に引き入れているが、これは曲へのオマージュであると同時に、吉本隆明の詩作品「火の秋の物語」(「転位のための十篇」)に掛けているもの。こちらについては、この部分が吉本詩のパロディであると看做してもらったほうがいいかもしれない。


 ところで、インテリ「一流」詩人たちを擁する『現代詩手帖』の2007年12月号では、今年の詩の状況を振り返る特集を組んでいるが、詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』は誰からも言及されていない。
 唯一、片岡直子氏が、編集部からのアンケートへの回答で「今年の収穫」たる詩作品として、同詩集から「似非メニエル氏病者のグルントリッセ」を挙げているのみ。

 これだけ注目されないと、かえって気分がいいものである。
 え? 負け惜しみか・・・、だって。
 ちがいます。高啓の詩を必要とする人は、少数ですがたしかにいます。
 そこにいるのが視えます。(笑)                                                                                                                                             
                                                                                                                     
              
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:36Comments(0)作品情報

2007年12月18日

「山形詩人」59号



 『山形詩人』59号(2007年11月20日発行)に、詩「初期詩篇2 ジャンへの手紙」を発表した。


 なお、同号に、大場義宏氏がまたまた高啓批判の文章(「詩人としての真壁仁論デッサンの試み〜『日本の湿った風土について』のあたりで〜 三 」)を寄稿し、そこで今度は、高啓が東北芸術工科大学東北文化研究センター発行の『真壁仁研究』第3号に寄稿した「真壁仁・その<夜>の顔」について論難している。

 この「真壁仁・その<夜>の顔」は、『真壁仁研究』第3号の編集上の企画として設けられた「詩作品鑑賞」というコーナーに、編集委員の木村迪夫氏から依頼されて寄稿した短い文章である。
 私を含めて8人の詩人がそれぞれ真壁の詩作品から一篇を選定し、それについて論評するというもので、各執筆分量は見開き2ページを使い、その2ページを通しで、上段に取り上げた真壁の詩作品を掲載し、下段にそれに関する論評を掲載しているものである。(写真参照)





 私・高啓は、先に『山形詩人』57号で大場氏が行った高啓論文(『真壁仁研究』第7号掲載の「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」)への論難について、同58号で反批判(「他者非難によるデッサン法の不毛について」)を行い、そのなかで大場氏の読みに牢固な先入観念による誤読と曲解があることを具体的に指摘していた。
 だが、大場氏は自ら論争を仕掛けておきながら、同59号の前掲文章でこの高啓の反批判の内容に全く触れず、唯我独尊とでもいう具合に論難を拡大させている。

 『山形詩人』59号における大場氏の高啓批判は、一言で言えば、大場氏が高啓論文(上記「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」)の真壁仁批判に対抗できる論理的反論をなそうとしてなしえず、そこで高啓が『真壁仁研究』第3号に寄稿した「真壁仁・その<夜>の顔」における詩作品「夜の噴水」の解釈や鑑賞に難癖をつけて高啓を貶め、もって高啓による真壁批判論の全体を誤ったものだと印象付けようとしているもののように見える。

 自分の言いたいこと(大場氏の場合はそれさえ明確ではないが)を正当化するのに、意見を異にする他者をひたすら否定してまわるという方法が不毛であることは『山形詩人』58号に寄稿した「他者非難によるデッサン法の不毛について」において明確に指摘しておいたし、この態度を改めないかぎりまともに相手をする気はないことも闡明しておいた。
 したがって、高啓はいまのところこれ以上大場義宏氏の論難に付き合う気はない。このことを改めてこのブログで明確にしておきたい。(このブログ、遅々たる更新なのになぜか最近、多い場合は一日に百数十カウントもアクセスがあることがあるので・・・)

 ただし、ひとつだけ説明しておきたいことがある。
 それは、『真壁仁研究』第3号に寄稿した「真壁仁・その<夜>の顔」という文章の性格についてである。
 上述のように、これは作品鑑賞のコーナーなので、本来、筆者が選定した真壁の詩作品について具体的に解釈や鑑賞を叙述すべき場所であるのだが、私はこの寄稿の機会を戦略的に活用したのだった。
 以前から、『山形詩人』同人など周囲の人々との間で真壁仁に関することに話が及んだ折、私は彼に対する批判的な見方をかなり辛辣に述べていた。
(たとえば土曜美術社出版販売発行『詩と思想』2003年3月号掲載の座談会「山形の現代詩は今?」参照。ただし、ここでは、談話を取りまとめた高橋英司氏の手によって、高啓の真壁仁に関する言及部分はかなり省略されている。)
 私は、真壁をもっぱら肯定的に評価しようという意図の下に発刊される(ように見えた)『真壁仁研究』の編集者たちから真壁を批判的に論じようとしているじぶんに原稿依頼がきたことを奇貨ととらえ、この、たぶん最初で最後となるであろう機会に、真壁に対する批判的見地を概括的に述べ、かつはなるべく読者の印象に残るかたちで定立させておこうと考えたのであった。
 したがってこの文章は、実質1ページという与えられたわずかな字数のなかで、じぶんが真壁をどのように見定め、その思想的・文学的・地域社会的な営為の問題点がどこにあるかを、きわめて簡潔に、悪く言えば決め付け型・紋切り型で述べたものである。

 いわば“<真壁仁>という問題”を提出する素材として真壁の詩集『日本の湿った風土について』から「夜の噴水」という作品を取り上げたのだが、ところで、この作品はモダニズムの影響の下に暗喩を多用しており、「農民詩人」と称されたイメージとはかけ離れた印象を与える、真壁としては異色の作品である。
 ここで多用されている暗喩のそれぞれをどのように解釈するかによって、この作品の受け止め方は大きく異なってくる。
 私は、しかも、この解釈と鑑賞という機会を戦略的に活用した。だから、この詩の解釈についてじぶんの見方の排他的正当性を殊更に主張する気はない。そもそも詩の解釈は人によって多様になされうるものである。
 しかし、と同時に、ここで私がこの作品について述べたことは、戦略的発言としての性格だったこととは別に、解釈と鑑賞それ自体としても成立しうるものであり、改める必要を感じていないことを表明しておきたい。


※ここで言及されている『山形詩人』の各号について入手を希望される方は、このブログ右側の「オーナーへメール」をクリックしてご注文ください。(頒価一冊500円、送料無料。)  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:08Comments(0)作品情報

2007年12月11日

日中現代詩シンポジウム



 12月2日(日)、上京する都合があったので、ちょうど神保町の学士会館で開催されていた「第2回日中現代詩シンポジウム」のプログラムの一部である「公開シンポジウム」を覘いた。

  「日中現代詩シンポジウム」は、思潮社と中国の中坤パミール文学工作室の共催で、昨年11月の北京での第1回開催に続いて2回目の開催ということである。
 なお、中坤パミール文学工作室というのは、中国の企業グループである中坤グループの出版社。 このシンポに詩人としても参加している駱英(本名:黄怒波)氏は中坤グループの会長であり、中国市長協会会長補佐でもあるとのこと。
 毎日新聞のサイトによれば、「中坤パミール文学工作室代表で、中国経済界でも活躍する駱英さんは『日中現代詩交流基金』の設立を発表。日本円で約1億5000万円を基金とし(1)日中現代詩交流の長期化(2)08年はインド、モンゴルの詩人にも参加を呼びかける(3)アジアを主体にした現代詩共同宣言の採択−−などの計画を明らかにした」そうである。

 この公開シンポ内容にとくに関心があったわけではないが、パネラーとして出演する日本側の詩人のうち、いままで生で見たことがない詩人についてその肉声を聴いてみたいと思ったのだった。
 つまり、この日の日本側の出演は、辻井喬、大岡信、吉増剛造、北川透、高橋睦郎、佐々木幹郎、平田俊子、野村喜和夫、水無田気流の9氏となっていたが、そのうち、大岡、北川、高橋、平田、佐々木、水無田の6氏がどんな印象の人物なのかを観に行ったということである。(なお、辻井喬氏は欠席。当日ドタキャンしたようだった。)
 中国側の出演者はその多くが50代で、幼少期に文化大革命、青年期に天安門事件を経験している詩人たちだということだった。なお、日本側で50代といえば、野村、平田の2氏だけのようである。

 公開シンポとはいうものの、パネラーが多いのに時間がごく限られていて一人あたり約10分の発言時間しかないため、その場で討議するのではなく事前の非公開討議で議論されたことを受けて各人が感想を述べるという内容だった。
 この場における発言で印象に残ったところをメモしておく。(ただし、中国詩人の発言については逐次通訳で意味が判らないところがあり、また録音していたのではなくメモをとっていただけのため、内容の正確さに自信はない。パネラー全員が発言したが、ここにメモするのはその全員分ではない。)
 なお、hannah5さんという方のブログ「詩織」 にもこのときの発言のメモが掲載されている。

 (1)「伝統/モダニズム」のテーマで話し合った分科会の水無田気流(みなしたきりゅう)氏の発言から。
 モダニズムの定義をめぐって、高橋睦郎氏が「モダニズムは生であり、伝統は死んだもの」(注1)と述べた。また、中国の詩人の議論は個人史と民族史の関わりを検討する方向へ向かった。
 私(水無田)は、バブル崩壊後に社会にでることになったいわゆる“ロスト・ジェネレーション”であり、これ以上豊かになれないという諦念を背負っている。
「生きているものこそがモダン」と言われたが、高度成長期の終わりに育ってきた者たちは、いわばブロイラーのように育ってきた。自分たちの生を自分たちの生として生きられない感覚、ポストモダンにどっぷりと浸かっている。
 オリジナリティの徹底的な不在を生きており、参加した他の詩人と世代間の違い、そしてそれゆえの責任の“種類”の違いを痛感した。

 (2)同分科会の駱英(ルオ・イン)氏の発言から。
 谷川俊太郎は非公開討議のなかで、40年前にも同じテーマで話しあったのに今も同じテーマであることに失望したと述べていた。しかし、“問う”という姿勢は100年後も続く。自分自身の生存状況について述べるのが問う姿勢である。
 日本人詩人たちは詩のテクニックや意匠について話したいようだが、私は詩の内部にある苦痛について話したい。中国が直面しているのは社会構造とそこにおける一人ひとりの苦痛である。
 結論をいうと、日本の詩人は内向的であり、中国の詩人は外向的である。

 (3)同分科会の楊楝(ヤン・リエン)氏の発言から。(同氏は天安門事件を契機に出国。現在イギリス在住。)
 私の言葉で中国の詩を言えば“悪いもののインスピレーション”、要するに窮状が必要であり、それを作り出さなければならない。
 中国の長い歴史は、時間の苦痛というより、時間が“ない”つまり不変であるという苦痛をもたらしている。
 私の1997年の長編詩「同心円」は、1200年前の杜甫の思想と通じている。私たちの思想は、全人類の究極的な思想の一部にならなければならない。

 (4)注1の部分について、高橋睦郎氏の発言。
 誤解のないように断っておくが、「伝統は死者」と言ったのは、死者の方がむしろ今も私たちを拘束しているという意味を込めてである。

 (5)「私/他者」のテーマで話し合った分科会の北川透氏の発言から。
 谷川俊太郎の新詩集『私』が出たこともあり、「私」がテーマになった。谷川は「言語から生まれた私」と「母親から生まれた私」という言い方をしているが、「言語から生まれた私」という言い方はとても難しい言い方である。
 この言い方が分かりやすく受け取られるのは1960年代から言語論が語られてきたことが大きい。ソシュールからフーコーまでの問題意識が背景に潜んでいる。「今、詩を語っているのは誰か」と言うとき、私であるとはいえない。見えないシステムに言わされているという観念の問題がひとつある。私は構造主義を批判してきたが、こういう考え方を受け入れている。
 また、日本ではサブカルチャーがメインの文化を圧倒しているという状況のなかで、詩人たちの問題がある。日本ではサブカルチャーが低級だとか軽薄だとかいえない質を獲得しており、世界に影響を与えている。これが詩の問題にどういう影響を与えているかといえば、言葉遊びということが指摘できる。いま、詩の豊かな可能性のなかに言葉遊びがある。
 一方、中国では、革命からさらに変革が続いていくなかで社会の問題がはるかに大きくなっている。また、近代化の過程の「自我」をとってみても、これはヨーロッパから規定されているのではないかという危機意識が非常に強い。

 (6)「私/他者」のテーマで話し合った分科会の于堅(ユー・ジャェン)氏の発言から。
 「伝統は死んだもの」という言い方が新鮮だった。しかし、死んだものというのは現代の概念であり、中国にはない。李白や杜甫は私にとって死者ではない。荘子の胡蝶の夢のように、死はひとつのかたち・・・変わった後のかたちであり、変わる前のかたちである。
 私が日本というと思い起こすのは、ソニーやトヨタではなく芭蕉や川端康成である。
 日本の文化は完熟しているが、中国は激烈な変化の途中にある。40年前ははやく近代化しなければと思っていたが、今は困惑が大きい。文革の時代は暗かったが、忠実に生活していた。今はむなしさを感じる。詩は言葉遊びではなく、自分を困惑から救い出す力になっている。

 (7)同分科会の翟永明(チャイ・ヨンミン)氏の発言から。
 (翟氏は物理学専攻の女性研究者でもある。進行の野村喜和夫氏から「中国の新しい女性詩は翟永明から始まった」といわれる存在だと紹介があった。)
  「私/他者」というテーマは、文学のテーマというより哲学的なテーマであり、よくわからないところがたくさんある。いままでこのような問題を考えてこなかったが、このシンポを契機に考えていきたいと思った。
 非公開討議のなかで、自我=私というのは現代の考え方であり古代の人はこのように考えていないのではないかという意見があったが、<私>は、西洋的概念ではないが古代の人も<私>ということを考えていたと思う。
 自我を追求することは無我に向かうことである。

 (8)「アジア/ヨーロッパ」のテーマで話し合った分科会の陳東東(チェン・ドンドン)氏の発言から。
 古典も中国の伝統も、他者であり、自分を映す鏡である。

 (9)「社会/読者」のテーマで話し合った分科会の平田俊子氏の発言から。
 このシンポに参加している中国詩人たちは自分と同じ年代なのだが、その時代的経験を考えれば、日本では私より上の世代に対応する。討議のなかで、自分が社会的事件を体験してきていないというコンプレックスを感じさせられた。
 私の詩は、神に捧げる、または神に書かされるもので、詩を書くとき、読者を意識していない。

 (10)同分科会の西川(シー・チュアヌ)氏の発言から。
 いまの中国の状況では虚無に陥る。だからこそ新しい可能性を求めて詩を書かねばならない。

 (11)同分科会の唐暁渡(タン・シアオトゥ)氏の発言から。
  詩は、無用の用を目指さなければならない。

 (12)同分科会の佐々木幹郎氏の発言から。
 中国側からは、文革や天安門事件の経験から、権力に対してどう立ち向かうかという問いが出てきた。これは日本では60年代の問いだったが、それを懐かしく聞いた。
 しかし、「権力」という言葉をちゃんと定義すべきだった。たとえば、中国語では「権力」と「利益」は同じ読みだと聞いた。
 ことばの問題として、読みからイメージの拡がりが出てくるのは日本も中国もまったく同じであり、そこからどんな使い方が出てくるかを考えなければならない。
 中国の詩人は、中国で詩人として生きること、詩人として存在するとはどういうことかを常に語っていた。
 たとえば、クーチョン(聞き取り不詳)という詩人は、天安門で弾圧を受け、その後奥さんを殺して自殺した。この事件によって、中国では詩人はわけのわからない人々だというイメージが広まった。庶民のなかで、子どもが泣くと「泣くな。泣くなら詩人にしてしまうぞ!」と脅す話まであるということだった。
 しかし、中国における詩人の位置は、無視されるどころか非常に気にされている存在だということではないか。
 中国の詩人が社会に向けている鮮烈さと日本の詩人の曖昧さ。ここで「読者はどこにいるのか」という問いかけがなされる。

 (13)「アジア/ヨーロッパ」分科会に参加し、公開シンポ第2部の進行を務めた野村喜和夫氏の締めの発言。
 分科会討議において、逐語通訳でうまく内容が通じないことがでてきたとき、吉増剛造さんが付箋(黄色い「ポスト・イット」)に漢字を書いて、皆にそれを回覧させた。
 お互いの漢字文化を持つことでできるいわゆる筆談だが、それによって相互の理解が可能になり、この付箋、この紙に書かれた言葉が、それ自体なにかとくべつで独自な存在となって皆の間を回っていくのが象徴的だった。
 

 さて、私が印象的だったのは、ひとつには、水無田気流氏が、バブル崩壊以後のいわゆる“ロスト・ジェネレーション”という自覚のもとに「オリジナリティの徹底的な不在を生きており、参加した他の詩人と世代間の違い、そしてそれゆえの責任の“種類”の違いを痛感した」と述べたことだった。“違う種類の責任”という言い方がよくわかるような気がしたが、それでもあえていえば、この人も世代的な責任を背負って詩を書いているのか・・・と。
 私は、「世代的な責任」というか、この世代として言っておかなければならないという想いを背負って批評を書くことはあるが、詩を書くときには責任などという観念を抱いたことはないような気がする。

 もうひとつは、楊楝氏が「中国の長い歴史は、時間の苦痛というより、時間が“ない”つまり不変であるという苦痛をもたらしている」と述べたことだ。この部分は通訳を通じて聞き取ったことなので本人の発言としてどの程度正確かわからないが、このような発言が行われたとして、そこで言われていることがとてもよくわかるような気がした。
 中国では今も激動の時代が続いているが、そのような変動が常に繰り返されてきており、そういう意味では、変動という情況それ自体が“普遍”であり“不変”と見做されるのでもあるだろう。激動している時代情況から少し離れてメタレベルに視点をとれば、そこには歴史に“時間(の流れ)がない”という苦痛がたち現れてくる。
 これは、時間が不可逆的に進み、旧いものは解体されていくという私たち日本の現代人の心象とも異なるし、また日本の伝統的(?)な不易流行という思想とも異なっている。
 そういうしんどさも、たしかにあるのだろうなと思える。

 もっとも、じぶん自身には、“時間(の流れ)がない”という苦痛などありえず、まさに「そんなの関係ねぇ〜」(本年の流行語大賞入賞語)なのだが。                                                                                                                                                                              

     

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:13Comments(0)見物録