2011年08月14日

「ぴあ」の終わり <東京>の終わり



 遅ればせながら、やはり「ぴあ」終刊について書き記しておきたいと思った。
 この雑誌には、多くの人がそうであるように、特別な想いがあったからである。

 7月に上京した折、新宿東口の紀伊国屋書店でその終刊号(8月4・18日合併号)を購入した。
 若い頃、この雑誌にはほんとうに世話になったのだが、購入するのは久しぶりだった。
 終刊号の内容に僅かばかりの期待を持って紙面を追ったが、準備の時間が足りなかったのか、その内容はつまらなかった。 表紙イラストの履歴の紹介に多くのページが費やされ、さらには編集部にこれまでどんなタレントが顔を出したかなどという内向きの話題に紙面を割いている。この雑誌の歴史的・文化的意義に関するまともな言及どころか、これまでの記録さえもろくに掲載されていない。これでは消えて当然だろう。
 たぶん、今の編集者たちはこの雑誌のとんでもない存在意義をよく認識していなかったのだろう。今後、過去の関係者も含めて、誰かに腰をすえた本格的なレトロスペクティブを試みてもらわなければならない。

 この雑誌の意義はどこにあったか、それを簡潔に指摘しているのがこの号に掲載された鴻上尚史の「『ぴあ』という奇跡」(同号116頁)という短文である。

 「『ぴあ』が実現したことは、すべてを等価にすることでした。」「有名劇団から先月旗揚げしたばかりの学生劇団まで、全ての公演が有名無名関係なく、1日から月末まで、ずらりと並んでいました。観客動員や広告代金によってスペースの大きさが変わることはありませんでした。」「1ヶ月という時間の中で、あの当時、僕たちは何度も映画や演劇のページを読み返しました。そして、『ぴあ』がなければ出会わなかった作品、興味を持たなかった作品、そもそも知りえなかった作品と、沢山アクセスできたのです。」「『ぴあ』が風穴を開け、流動化させ、視野を広げた文化と人間関係は、また、深く個別に分断化していくのかと、少し、淋しく思っているのです。」

 「有名劇団から先月旗揚げしたばかりの学生劇団まで、全ての公演が有名無名関係なく、1日から月末まで、ずらりと並んで」いるある時期の「ぴあ」を読み進んで、じぶんもたしかに興奮したものだった。すべての情報は紙面上で“等価”なものとして扱われており、それらの公演のどれにアクセスするかは、すべてじぶんの探索心にのみ懸かっていたからである。
 「夢の遊眠社」も「第三えろちか」も「木馬館」(浅草)も早稲田大学の学生劇団も、「ぴあ」に掲載された“すべて等価”な活字情報と出会うことで知った。
 そういえば、これらの現代演劇や大衆演劇の情報と並んで、各地を巡業する昭和のサーカスや当時はまだまだその筋の好事家の秘め事だったエスえむショーの情報も掲載されていた。
 また、たとえば自分は、演劇の公演や文学・思想関係の講演会を探すために「ぴあ」を購入したのだったが、その雑誌に載っている別ジャンルの、たとえば美術展や映画の自主上映等の情報にも目を通すようになって、同時代の文化や表現行為の動きを総体的な<文化的情況>と認識したり、あるいは個々の表現の営為を「マスイメージ」の多様な表出形態として受け取るというような受容の仕方をしていったようにも思える。

 その等価な活字情報に開示されるところの、文化のアナーキーな多様さと奥深さ、そしてその膨大な活字情報のなかに散らばる想像力の空隙(=可能性)こそが、じぶんにとっての<東京>だった。その<東京>における文化的体験は、じぶんの想像力をひどく刺激し、じぶんと情況との関係幻想を膨らませた。じぶんが辛うじて20代を生き抜くことができたのは、この文化的体験と自己の想像力に対する(今からみれば勘違いの)幻想のおかげであり、さらにこの50代まで生きて来れたのは、ある面ではたぶん30代前半くらいまで抱いていたこの文化的・情況的な<東京>との関係幻想の余韻のおかげではないかとさえ思う。

 鴻上が言うように、一時期の「ぴあ」が、文化情報に優劣をつけずそれら全てを等価なものとして掲載してきたこと。そして、その情報の単純な羅列が、読者に視野と関係性を拡げさせる契機となっていたこと。この二つの点は、少なからぬ者が指摘する点であろう。
 しかし、じぶんの記憶では「その一時期」というのは、1972年の創刊から、たぶん1980年代の半ばくらいまでだろうと思う。
「ぴあ」が掲載情報にかんするチケット販売(「チケットぴあ」開始は1984年)に乗り出した頃から、この等価性は失われ、それととともに掲載情報の魅力は激減していった。
 このことは、過去の「ぴあ」に当たった上で言っているのではなく、ただじぶんのあやふやな記憶にのみ拠っていることを断ったうえで述べるのだが、具体的にいえば「チケットぴあ」で扱う公演の割合の増加に反比例して、チケット販売の対象とならない例えば文学や思想関係の講演会などの情報が掲載されなくなっていった。
 じぶんの記憶では、1980年代の半ばまでは、「ぴあ」に掲載された催しにアクセスしたのは、すべてそこに記載されている主催者の電話番号に問合せるという方法によってだった。当時はすでにメジャーだった唐十郎の「状況劇場」の公演も、吉本隆明や埴谷雄高の講演会も、すべてそうだった。

 「ぴあ」最終号には、鴻上尚史と並んで野田秀樹が「大往生だね、『ぴあ』」という文を寄せている。
 野田は、「『ぴあ』によって権威のある批評家や新聞だけが『何がいい文化なのか』を決めるのではなくて、『文化の情報』を与えるので、そこから自分の目で見て耳で聞いて自分で判断してくれ、という時代がやってきた」が、それがポップカルチャーに「常に『消費される』という宿命」を与えたという。
 そして、「次第に主客転倒し、良いものが新しく見つかったので情報になるのではなく、新しければ良いものだということになり情報として流される。そして古くなると捨てられる、という大文化消費時代へと移行していったように思う」と述べている。

 野田は、この文を、「ぴあ」が「この異常な『文化を食いつぶす時代』」をよく生き延びたと褒め、「『情報を売る』ということを始めた雑誌の宿命だったのかもしれない」と結んでいる。
 じぶんはここに“このように自分を自分で食いつぶして休刊することが”「ぴあ」の宿命だったのだと、野田が「ぴあ」編集部に気を使ったがゆえに(?)記載していない言葉を付け加えておきたい。

 さて、この書き込みのタイトルにあるように、じぶんにとっては、ある時期の「ぴあ」こそが<東京>そのものだった。だから、じぶんのなかの<東京>は25年ほども前に終わっていた。
 「ぴあ」の終刊に、じぶんの関係幻想としての<東京>が完全に失われ、もはや二度と戻ってこないものであることを改めて思い知らされた。
 この文の結語で野田秀樹が言うように、やはり、“さよならだけが人生だ”なのである。  あっは。                                                                                                                                  



                                                                                                               
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Posted by 高 啓(こうひらく) at 17:21Comments(0)作品評

2011年06月26日

小熊英二著『1968』について



 <はじめに>

 2年ほど前の夏休み、息子の高校時代の友人である大学生が我が家にやってきた。
 かれはこのブログを読んでいて、“あの時代”についてじぶんに話を聴きたいと言うのである。
 酒を酌み交わしながらいくつか話をしたが、そのとき、「全共闘運動」については、うまく話すことができなかった。
 それで、「小熊英二の『1968』という本が出たね。あれを読んでみたらどうだろう。そのうちおれも読んでおくから。」などと話してお茶を濁したが、それからずいぶん時間が経過した。
 かれはもう社会人になっているからこのブログも卒業しているだろうが、なんだか宿題を仕残しているような想いがずっとしていたので、このことについてなにかかにかは述べておこうと思う。



 この著作は「1968年」に象徴される“あの時代”、全共闘運動から連合赤軍にいたる若者たちの叛乱を全体的に扱った「研究書」(著者が言うには「初」の研究書)である。
 上下巻で本文だけでも1,800ページを越える大著だが、工夫された構成と筆力、それに「研究書」の枠を越えた著者・小熊英二の「全共闘世代」への想いに、ついつい読了させられる。

 じぶんは1970年に中学生になった。小熊英二はじぶんより5歳ほど年下であるから、1969年には、じぶんは小学6年生で、小熊は1年生だったことになる。それはちょうど日本におけるベビーブーム世代である「団塊の世代」つまりは「全共闘世代」の中心部分からみて、10歳年下と15歳年下ということである。
 すると連合赤軍浅間山荘事件の1972年2月には、じぶんは中学3年生で、小熊は小学4年生・・・この著書のなかでも述べられているが、1960年代後半から70年代前半の日本社会は急速かつ激しく変化しており、とりわけ、若者の文化、風俗、思考、感性は、学年がひとつ違うだけで大きく異なる時代だった。だから、この5歳の年齢差は、“あの時代”のくぐり方において、たぶん決定的な違いをもたらしているのだろう。
 もっとも、初手からはっきり言明してしまえば、この「研究書」で結論付けられている“あの時代”の叛乱の意味、それをじぶんなりに一言でいえば、日本が高度資本主義すなわち大衆消費社会に移行する過程において、一部の若者が時代との摩擦や抵抗感を乗り越えるために引き起こしたカタルシス現象というミもフタもない話になってしまうが、それについて、今のじぶんはほとんど賛同する。
 そして「研究書」であるこの大著に、通奏低音のように流れている「全共闘世代」(とくに“全共闘運動以後”の当該世代)に対する冷ややかな呪詛の念についても、ほとんど共感する。

 けれどもなお、多くの点で相槌を打ってしまうこの書について、じぶんの位置からは、なお“ちょっと待てよ”という想いを禁じえない点も、これまた存在する。
 こうして考えてみると、じぶんは「全共闘世代」から10年近くも遅れて来ているのに、まるで「全共闘世代」とその世代を冷ややかに視ている「そのあとの世代」とに挟まれ、その双方の引力圏に囚われた一種のダブルバインドの世代だと思われてくる。
 これについては、じぶんが、高度経済成長の影響が数年遅れて波及した東北の田舎町で育ったという事情も多分に影響しているが、しかしなお、それだけでもないような気がする。
 だから、小熊英二著『1968』に言及するとき、じぶんはたんに「全共闘世代」を相手にするだけではなくて、「そのあとの世代」をも相手にしなくてはならないような気がしてくる。
 いや、むしろ、“相手にしなくてはならない”というよりも“相手にすることになってしまう”というべきだが、それにしたって、いまのじぶんにとって、これは少しく気の重いことなのである。
 上手く述べられる自信はないが、何かを述べておかなくては先へ進めないという想いに駆られる。小熊英二著『1968』の内容のうち、じぶんが共感しつつ、しかしまた同時にちょっと違うように感じたことについて、とりあえず二点だけ言及しておきたい。


1 「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性

 小熊英二の『1968』には、“あの時代”を解き明かすためのキーワードがいくつか埋め込まれている。そのひとつが、「現代的不幸」ということばである。
 同書の最終章である「結論」部には、次のようなことが述べられている。

 発展途上国型の社会から高度成長によって急速に高度資本主義の先進国型社会に日本が変貌しつつあったなかで、かの世代は「アイデンティティ・クライシスとリアリティの希薄化に悩み、『生きている』実感を持て」なかった。戦後の復興期に、野山や空き地を駆け回って育ったこの世代が直面したのは、高度経済成長の過程で引き起こされていた都市と農村の姿の急激な変貌であり、「資本主義体制」の高度化と「管理社会」の形成だったからである。
 そして、ベビーブーマーは「親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などのわかりやすい『近代的不幸』とは異なる、言語化しにくい(そして最後まで彼らが言語化できなかった)『現代的不幸』に直面した初の世代」となった。
 そんな世代にとって、「学生運動に飛びこみ、機動隊と衝突し、バリケード内で友と語りあうことは、連帯感や仲間を得ることと、自分のアイデンティティや生のリアリティを確認できることの両面で、大きな魅力」だった。

 また、このことと相即的に語られるのは、大学生の大衆化である。
 1963年には大学進学率が15%を越え、ベビーブーム世代が入学すると大学生が急増した。大学は施設整備も教員体制の整備も追いつかずマスプロ化し、一方で学費値上げがたびたび行われた。大学生はかつてのような「立身出世」を約束された存在ではなくなり、「末はしがないサラリーマン」という閉塞感が広がっていた。
 その一方で、当時の大学生は、戦後教育で受けた民主主義の理念と、“大学は真理探究の場”であるという旧来のイメージを抱いていた。この大学の実態と学生の想いのギャップが、大学闘争の発火を準備していた。
 小熊は、この事情について、歴史学がいう「モラル・エコノミー」という考え方を当てはめて語ってもいる。
 モラル・エコノミーとは、民衆がもつ秩序意識や規範意識のことで、暴動や叛乱は民衆の生活苦が極まった際に起こるよりも、社会が変動する過程にあって、民衆がもっている「あるべき秩序」の規範意識が破壊されたときに起こるものだという考え方である。
 この考え方を応用すれば、全共闘運動とは、ベビーブーム世代の「あるべき社会像」「あるべき大学像」というモラル・エコノミーを、現状の社会と大学が裏切っていると看做されたたための蜂起だと考えることができるというわけである。

 こうした「自分探し」のモチベーションが、政治闘争に向かうことになった理由については、ベトナム戦争や日米安保条約や公害等々の社会問題が起こっていたこと、さらには「地域コミュニティの連帯感が生きており、社会との一体感が埋め込まれていた」ことを挙げつつ、階級格差や貧困の方が大きな問題だった発展途上国型のパラダイム(社会変革が自己変革と同置されたパラダイム)と言説のなかで「『心』やアイデンティティの問題を考えるとすれば、どうしても『政治』の言葉で運動を起こすという形態しかなかったのだろうと思われる」と語る。
 また、かれらが主に直接行動に訴えたり、デモでスクラムを組むことを好んで行ったことの要因としては、かれらの幼少期には「相撲や押しくらまんじゅうなど、肉体的接触を伴う」遊びが行われていたり、家族が同じ部屋で寝起きしていたことからくる「身体感覚」を指摘してもいる。(じぶんなら、このことに、子ども時代の経験としていわゆる「ギャングエイジ」の行動様式を付け加える。)
 さらに、かの世代がマルクス主義に染まったことについては、このように言及される。
 発展途上国型の社会の変革に対応したパラダイムであるマルクス主義(の暴力革命論)を唱えた新左翼運動は、60年安保以降、経済成長の過程で支持を失い低迷していたが、いわゆる「疎外論」と「主体性」を掲げる人間主義的なマルクス主義が、「『心』の問題をあつかう言説資源が不足していた当時にあって、『疎外』をはじめとした『心』の問題を表現する媒体として復権した」のであると。


 さて、ここからはじぶんの見方を述べてみる。
 小熊の論では、「近代的不幸」と「現代的不幸」とが対比され、全共闘世代は層として後者を体験した日本初の世代だとされる。・・・まずここまでは了解する。
 しかし、「近代的不幸」と「現代的不幸」は、「1968」を挟んでそれほど裁然と区画できるものではないだろう。そもそも高度経済成長の影響(または恩恵)が、日本全域と各社会階層に、期を同じくして及んでいたわけではない。
 もちろん、小熊自身もこの二つを裁然と区画しているわけではなく、日大闘争について扱った部分では、日大闘争が日大経営陣の独裁的で暴力的な学内支配に対する抗議として、つまり「近代的不幸」と言ったほうがいいような状況に対する改善要求として始まったという趣旨のことを述べている。
 また、この著作には、当時の新左翼各党派の活動家の出身階層に関する調査報告が引用されているほか、全共闘運動に関わった学生たちが、幼少期の貧しい記憶を保持しつつ、経済難で進学できなかった同級生たちに対して罪悪感を抱いていたという記述もある。
 
 そのことを踏まえながら、それでもじぶんは、より強調して「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性を指摘しておきたい。
 高度経済成長による影響には、地域によって、また社会階層によって、もっとグラデーションがあった。時代は跛行的に進んでおり、自我意識の変化もまたそうだったのである。
 “あの時代”の叛乱を大雑把に把握しようとするときには、「『自我の世代』の自己確認運動」と呼んでもいいが、下層あるいは庶民層出身の学生たち、またはそれらの層の同級生たちと思春期までを共有した学生たち(とりわけ地方出身の学生たち)には、社会変革あるいは社会改良によって、「近代的不幸」をなんとかしなければならないという使命感というか、衝迫観念というか、そんな意識が、程度の差はあるにせよ個々人に埋め込まれていた。このことを『1968』はやや過少評価しているように思われる。
 これは冒頭に述べたように、じぶんとこの著者との5歳の年齢の開き、それに育った地域が異なることによる体験と認識の違いからくるものだろう。
 それは、たとえば天皇制と反天皇制をめぐる事情が、この大著の、少なくとも本文では一度もまともに考察されていないことに象徴的に現れている。みんなはもう忘れたような顔をしているが、「昭和」という時代には<天皇>という存在がいて、それは旧来社会の支配体制の<象徴>であった。つまり、あの時代には、まだそこかしこに“小天皇”が存在し、各領域に前近代的な社会関係が少なからず残存したのである。

 インテリ層が社会変革への意識をもつことを、文学の世界では長らく“知の自然過程”だと看做してきた。発展途上型の社会においては、<知>を身につけた者、つまりそれゆえに社会階層を上昇できる者は、被抑圧者の側に立って、その抑圧と闘うことが“自然”だった。1960年代から70年代半ばにかけての日本にも、まだその自然過程の残り火があった。
 もっとも、この自然過程というやつには、二つの側面がある。一つは倫理的な使命感であるが、もう一つは欲望、すなわち<自己権力>への意志である。小熊は、この二つ目の側面を等閑に付している。これが、じぶんが『1968』について言及しておきたいと思った二つ目の点である連合赤軍事件の位置づけへの異議にも繋がってくる。


2 全共闘世代の「二段階転向」論への評価と異議

 ちょっと違うなと感じたことの二つめは、小熊の言う「二段階転向論」に関連している。
 小熊は、ベビーブーム世代は「高度成長と大衆消費社会の果実への反発と魅惑のはざまで、引き裂かれていた」ために、「彼らが大衆消費社会に適応するには、自己の内部にあるそれに対抗する感性を排除する必要があった」として、その過程は二段階を経ることになったと言う。
 高度成長期以前に社会状態で幼少期の人格形成を行ったことと、「一人の一歩よりみんなの一歩」「我利我利亡者にはなるな」といった戦後の民主主義教育の価値観を身につけていた彼らは、全共闘運動の中で日本共産党=民青や進歩的とされた大学教員たちと対立する過程で、「戦後民主主義」を激しく批判し、革新政党や「進歩的文化人」(進歩的知識人)の欺瞞を暴きたてることで、自らの内部にあった戦後教育の理念を排除する。これが転向の第一段階である。
 だが、全共闘運動は「ではきみはどうするんだ!」という自己否定と倫理的なリゴリズムをともなうものであったため、大衆消費社会に反発する禁欲主義となって現象する。
 「この禁欲主義とリゴリズムを脱却するために必要だったのが、連合赤軍事件だった。連合赤軍事件の実態は、アジトの発覚を恐れた20人前後の非合法集団の幹部たちが、下部メンバーの逃亡や反乱を恐れて緊縛し死なせていたという小事件である。にもかかわらず、あの事件が戦後日本の歴史を語るうえで欠かせないものとなっているのは、この小さな事件に、叛乱する若者たちが過剰な意味づけを行ったからだった。」
 その意味付けは「全共闘や新左翼のリゴリズムや禁欲主義を徹底してゆけば、行きつく先は連合赤軍事件だ、というものだった。彼らはこうして、連合赤軍事件によってトラウマをあたえられるという形態をとって、自己の内部にあったリゴリズムや禁欲主義を排除し、『私』の欲望に忠実になることに成功した。」・・・これが転向の第二段階である
 そして、“あの時代”について、小熊は、「全共闘運動と連合赤軍事件がベビーブーム世代にとって大きなトラウマになって残っていることは、ある社会が発展途上国から先進国になる過程において、どれほどの精神的葛藤と代価を払わねばならなかったかを示している」としつつも、「全共闘運動や新左翼運動は、資本主義と高度成長に反発しながら、結果として日本の資本主義の進展を推し進める役割を果たした」と結論付ける。

 じぶんは、この総括の論理展開をそれなりにうまく構成されたものだと評価し、その結論については基本的に賛同する。
 なぜなら、ここに小熊ら「そのあとの世代」の、全共闘世代に対する率直な見方が表現されており、じぶんも大方はその心性を共有するからだ。
 全共闘世代が「転向」し、各分野で日本資本主義の高度化と大衆消費社会の進展を担ってきたことをじぶんも「遅れてきた世代」として目の当たりにしてきた。さら言えば、じぶんもまた同じように、アドレッセンスまでの自分のトラウマを脇において消費社会における生活を享受してきたからだ。(一時期まで、これはじつに快楽だった。)
 だが、そのうえであえてじぶんなりの見方を言えば、ここで述べられている「転向」の機制と連合赤軍事件の意味は、小熊の指摘するのとは少しく異なるものだと思う。

 じぶんがみるかぎり、全共闘世代の、いわゆる「転向」は、小熊の言う「二段階」の転向を必要としなかった。
 そもそも転向がどのような心的機制で起こるかといえば、それはまず自己意識と大衆の存在形態との乖離についての深刻な認知があり、それにひき続いて自己意識が大衆の存在形態から掬い取られることによって起こるのである。(ここでは「権力からの強制」という要素にはあえてふれない。)
 ありていにいえば、大衆の意識を変革して革命を起こすことを目指している自己意識が、体制的秩序のなかで生きる大衆の在りように、“ああ、こんな生き方のほうがまっとうなんだ”と浸潤されるということだ。この機制は、それ自体としては、自己の内部のリゴリズムや禁欲主義を排除するのに、連合赤軍事件を梃子にすることを必ずしも(というかほとんど)必要としない。
 また、彼らの「転向」を、小熊はもっぱら自らの内部の「禁欲主義の排除」と視ているが、彼らの「転向」には、逆に“欲望を捨てる”という諦念の側面があったように思われる。ここでいう「欲望」とは、むろん物質的消費への欲望ではない。あの<自己権力>の希求である。

 ひょっとして、じぶんがここで想定している全共闘世代の「転向」者と、小熊が想定している「転向」者は微妙に異なるのかもしれない。
 小熊はいわゆる「就職転向」者(大学4年生になったら運動から足を洗って就職する“いちご白書をもう一度”派とでもいうべき者たち)をも含めて論じているようだが、じぶんはその者が就職したかどうかに関わらず、もうすこし運動に深入りした人間を想定している。連合赤軍事件を深刻なトラウマとして捉える者たちは、内ゲバを含む全共闘運動やセクトの暗黒面(たとえば兵頭正俊の小説『全共闘記』に描かれた世界のような)を経験した者たちでもあるだろうと考えるからである。
ここで<自己権力>という欲望とその断念についてちゃんと述べなければならない段なのだろうが、今はその意欲が湧かない。連合赤軍事件については、先に若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程〜』http://ch05748.kitaguni.tv/e626432.htmlについての書込みでじぶんの見方を述べているので、ここではこれ以上は勘弁してもらうことにする。


 さて、ここからはそのほかの点について。

 小熊英二の『1968』は、新左翼運動の展望のなさ、無責任性そして倫理性の欠如について徹底した指摘を行っている。新左翼思想に影響を受けている者や憧憬を抱いている者には、この部分をよく読み込むことを勧めたい。
 いまの若者には想像できないだろうが、かつてこの国には、まっとうな知力と精神をもっている若者は左翼的になるのが当たり前だった時代があった。その時代の政治闘争がこのように矮小なものとしてしか語り継がれない。いや、このように矮小なものとして語り継ぐことに、この著者は「そのあとの世代」への意義を見出しているというべきだ。じぶんはこれをも評価する。
 著者は“あの時代”の叛乱が帰結したものとそのトラウマが、日本の社会運動を大きく停滞させていると指摘している。

 また、この書のキーワードのひとつとして「1970年パラダイム」ということばが登場する。
 「1970年パラダイム」とは、「マイノリティ差別や戦争責任への注目、アジアへの経済進出への批判、天皇制の問題化、公害や障害者問題などへの着目、『管理社会』への抵抗、リブとその延長としてのフェミニズムなど」をさす。
 これらは左翼の存在意義として、それまでの“<プロレタリアート>による革命”というパラダイムが失効したために、これに置き換えられたパラダイムである。
 このパラダイムが生成してくる過程についての総体的な論及は、この書を読む価値のひとつに数えられる。

 じぶんは、この書に論理展開や総括のためのいくつかの図式化とステロタイプ化を観るが、この種の著作には明確な指摘を行うためにダイナミックな論理展開が必要だいう考え方なので、これを是認する。
 この書は“あの時代”を考えるうえで決して外せない一書になっている。
 小熊英二にはよくやってくれたと感謝したい。              
                                                  (了)           
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:03Comments(0)作品評

2011年05月03日

原武史著『滝山コミューン一九七四』感想及び余談





 
 原武史著『滝山コミューン一九七四』(講談社、2007年)を読み、さまざまな想いが過ぎった。

 著者は1962年生まれ。慶応義塾の中学・高校を経て東大で日本政治思想史を専攻し、明治学院大学の教授を務めている。
 この作品は、学者としての著作というのではなく、東久留米市立第七小学校における中・高学年時代を振り返った、いわば自らの過去たる“歴史”の証言、そして自らの過去の対自化の記録である。

 西武新宿線の花小金井駅を最寄り駅とする東久留米市滝山地区。そこに1968年から70年にかけて建設された総戸数3,180戸の滝山団地で、著者は小学校1年から中学校1年までを過ごした。
 革新都政が支持を集め、総選挙では多摩地区で日本共産党の候補者がトップ当選し、国会で「保革伯仲」の状況が生まれた時代である。
 「私が小学校6年生になった1974年、七小を舞台に、全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、そして七小の改革に立ち上がったその母親たちをおもな主人公とする、一つの地域共同体が形成された。たしかにごく一時的な現象ではあったけれども、『政治の季節』は、舞台を都心や山荘から郊外の団地へと移しながら、72年以降もなお続いていたと見ることもできるのである。」

 著者は、「国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体」を、「いささかの思い入れ」を込めて『滝山コミューン』と呼び、そこで生きた自分の「暗く苦いものとして、にもかかわらず奇妙な懐かしさを伴わずにはいられないものとして、この三十年間、ずっと奥底に沈殿したままになっている」記憶をたどり、史料やインタビューを集めて、高度経済成長期のある時期の、東京郊外における、その“歴史”を記録しようとしている。

 じぶんの印象を初手から述べてしまえば、この著作を読んで、ここに「滝山コミューン」と呼ぶに値する何かが存在したと説得される内実は記述されていない。主に記述されているのは、日教組の全国生活指導研究協議会(全生研)の方針による学級づくり・学校づくりを目指す片山(仮名)という教師に主導された児童たちの学校行事をめぐる集団主義的な運動、それもこの学校において著者の属した学年で一時的に生成したところの「歴史」である。(初めにPTAの話がでてくるが、そのPTAの実態は殊更「集団主義的」などと言上げするほどのものではない。)
 ただし、勉学に秀で、早熟で自我に目覚めつつあったこの著者にとっては、そこで与えられた「トラウマ」の重さと「奇妙な懐かしさ」は、その記憶の対象物をして「滝山コミューン」と名づけさせるのに十分であり、その想いは、ほんの少しだけ似た経験をしているじぶんには、なぜかとてもよくわかるような気がする。

 彼は、小学校では集団主義に反発し、休日には一流大学への進学のために有名進学塾に通って中学受験を目指す。彼にとって受験勉強のために通う塾は息抜きの場であり、塾に通うために乗る電車たちは限りない興味の対象である。
そして、彼はまた、すでに「なぜ自分は存在するのか」という自我意識に苛まれる思春期を生きはじめてもいた。その多感な思春期の想いがよく伝わってくる。
 一方で、「奇妙な懐かしさ」は、自分の学年が卒業すると、その「コミューン」があっという間に崩壊したこと、さらには、当時進んで「民主集中制」的な児童会活動を担っていたはずの同級生たちが、11年後の同窓会で再会してみると、その活動の記憶をほとんど喪失していることにも起因している。
 こうして不惑の歳を越えた著者は、今のうちに「歴史」の証言をまとめておかなければと衝迫され、この著作を記した。・・・事情はこういうことである。

 この著作でもっとも印象的なのは、著述時に40代の半ばで大学教授となっている著者と、この物語に登場する小学時代の著者の精神的な在り様がほぼ同置されていることである。言い換えると、ここに登場する子どもたちはぜんぜん子どもらしくない。
このことを逆に言えば、著者にとっては、あのときの小学生たちは、精神的な位相としては、いま(=著作時)の自分と同じ位相に存在しているのだ。
 さらに別の言い方をすれば、この人はかつての小学生だった自分やその自分が見ていた同級生たちとの距離が取れていない・・・そういう印象がやってくる。だが、そういう印象が、通常とは逆に、不思議にもこの著作に陰影と奥行きとを与えている。

 著者は、このなかで、遠山啓の「水道方式」の教条化に象徴される「平等」主義的学校教育及び「班」の運営とその競争主義を基本とした学級運営、そしてその班活動を統率する民主集中制的な児童会活動を中心とした集団主義を言上げしつつ、これを嫌悪し拒否してきた自分のアイデンティティを表白している。
 しかし、その一方で、この嫌悪すべき「コミューン」を、慶応義塾という名門私立中学に合格することによって脱出し、同時に「西武新宿線」沿線から「東急東横線」沿線に引越し、ようするに“慶応的なるもの”に身を任せてきた中学・高校時代について、次のようにも述べている。
  「75年3月まであれほど鮮明だった私の記憶は、慶応に入学するととともにしだいに曖昧になり、いまでは自分が慶応に通っていた過去をもっていること自体が信じられなくなっている。」

 1990年代まで、「日の丸」「君が代」の強制に対する拒否という形で、かろうじて教育現場に残存してきた70年代の精神遺産は、石原都政による「日の丸」「君が代」の強制で一掃された。
 著者は、70年代の「民主集中制」的な学級運営と学校経営の運動が、戦前の国歌総動員体制における運動と相似形であることを指摘しつつ、教育政策の保守化後の状況を受けて、あえて次のように問う。
 「2006年12月に教育基本法か改正される根拠となったのは、GHQの干渉を受けて制定されたために『個人の尊厳』を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観であった。だが、果たして、旧教育基本法のもとで『個人の尊厳』は強調されてきたのか。問い直されるべきなのは、教育基本法の中身よりも、むしろこのような歴史観そのものではなかったか。」

 さて、ここからは、じぶんの体験を記しておきたい。
 じぶんは、原武史や小熊英二などより5歳ほど年上で、1957年生まれである。ちょうど東京オリンピックの年に小学校に入学した。じぶんの家では、オリンピックを観るために、この年にテレビを購入した。この頃の記憶はとても鮮明である。
 生まれ育ったのは東北の農村部の小さな城下町の商店街で、団地など存在しない地域だった。東北はまだ首都圏への出稼ぎで暮らしをたて、集団就職が行われていた時代である。ちなみに、じぶんの中学3年時のクラスの記録を見ると、卒業時に同級生の約15%が中卒で就職していた。東北という当時の後進地であることや、旧い城下町であったことから、地域には旧い社会秩序が残存し、社会階級による貧富や身分の格差が、まだ小さくなかった。教師たちには、当然ながら「全共闘世代」はまだ存在しておらず、「60年安保世代」もいなかったように思う。
  しかし、この小学校高学年時代に、じぶんも担任の教師によってトラウマとなる強烈な「戦後教育」の経験をもった。

 担任の教師は50代の独身女性だった。じぶんたちはその先生を、畏敬と卑下と愛着の入り混じった想いで、陰で「カツコばんば」(かつこババァ)と呼んでいた。
 彼女は、まさに「班活動」を中心とした学級運営と「連帯責任」を強調した教育を強烈に実践していた。教育態度は厳しく、自分と生徒たちの、課題の実行に対する妥協を許さなかった。
 当時、彼女が、生徒であるじぶんたちに、ことあるごとに語ったのは次のようなことだった。

 ? 自分は、戦前の教員生活で、国家主義の教育をして、子どもたちを戦場に送ってきた。戦争は二度と起こしてはならない。 自分の過ちを繰り返さないと誓って戦後の教育現場に立っている。
 ? 日本は、戦争でアジアの人々に酷い仕打ちをした。国民も大変な苦難を経験した。日本はこの反省にたって、二度と戦争をしないということを誓い、日本国憲法を掲げて戦後を歩みだした。
 ? しかし、自民党は戦前の国家主義的な体制に戻すことを画策しており、いま、日本はアメリカの支配のもとで、再び戦争に駆り出されようとしている。
 ? 歴史を振り返ると、王制によって民衆は弾圧され支配されてきたが、日本の王制つまり天皇制は世界の王制とはまったく異なり、強権的な支配を行ってこなかった。天皇に戦争責任はない。悪いのは東条英機ら軍部だった。
 ? アメリカは民衆を搾取する資本家階級による世界支配をもくろむ勢力であり、ソ連などの「社会主義」国は民衆の平等と民主主義を広めようとする勢力である。

 じぶんは自分の家族から、彼女が日本共産党の党員だと聞いていた。たぶん日教組の組合員でもあっただろうが、彼女の思想は、いわゆる「反米愛国」、ソ連型社会主義の理想化、そして天皇への敬愛というような要素で構成されていた。そして、全体としてみればその心性は、じつは彼女が猛省したと語っていた戦前の国家社会主義的なイデオロギーと大して変わらないものだったように思われる。
 じぶんの経験に照らせば、保守派が批判する「戦後民主主義教育」の実態は、その基底部分で戦前・戦中的なものと通底する集団主義的な心性に支えられたものだった。原の言うように、「戦後民主主義教育」が「『個人の尊厳』を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観」は多分に疑わしい。


 さて、では、じぶんはなぜ「カツコばんば」に“トラウマ”を植えつけられたように思うのか。
 それは、まさに彼女の展開する「班活動」の先にある、ある特殊な事情によっていた。
 カツコばんばは、まずクラスを5人ないし6人ごとの班に編成した。班長は、最初は先生が指名したが、次からはクラスの生徒が自ら選出する方式とされた。立候補(立候補者が足りなければ他薦)とクラスの全員による承認という手続きを経て班長が決まると、班長が集まって各班の班員を決める。クラスメイトの一人ひとりについて、学業成績や運動能力、そして生活態度、性格などを評価し、その組合せを考えて各班の運営がうまくいくように割り振るのである。
 問題児をどの班長が引き受けるか、そして問題児を引き受ける見返りにどの程度優秀な班員を配属するかなど、すべてを班長たちが協議して決めた。特長的だったのは、このとき問題児と看做されていた者や学業成績が下位の者も班長になる場合があったことだ。
 
みんなが平等に班長という大役を担う点は進歩的に見えるし、なによりしばしば学級委員(いわゆる級長)をやらされていたじぶんにとっては楽だったのだが、一方でじぶんはこの班制度に異和を感じるようになっていった。
 班員を振り分ける過程で、班長たちがクラスメイト一人ひとりに評価付けをしていく。しかも、この子は性格的に弱いし学力もないから、こちらの子をサポート役につけて。こいつはいじめっ子だから、いじめられっ子のこの子とは離して。・・・などと、気がつけば管理者あるいは経営者の立場で級友を見るようになっていることに生理的な嫌悪感を抱くようになったのだ。

 班員は、すべての活動において連帯責任を負わされた。机はいつも班ごとに班員が向き合う形で並べられていた。班員に勉強についていけない者がいれば、べつの班員が教えた。
 また、このような集団主義と平等主義は、学級レベルでも徹底されていた。
たとえば、リコーダーである曲の演奏をマスターする課題が与えられたとする。一人ずつカツコばんばの前に行って演奏し「合格」の認証をもらわなければならないのだが、どうしても途中でピーと穴をうまく塞げない音を出したり、暗譜ができずに引っかかる者がいる。
 最後の一人が試験をパスするまで、クラスの全員が教室に残らねばならなかった。そもそもカツコばんばの授業では、あらかじめ決められていた時間割などにはほとんど頓着せず、とにかく彼女が納得するまでその科目の授業が続けられた。社会科の授業が3時間も休み時間なしで続くこともあったし、リコーダーのときは夜の7時か8時まで全員が教室に残され、親が迎えに来たものだった。(付言しておくと、この「平等」主義は、バカな保守派が「民主教育」を非難するときに決まって例示する「運動会の競走で順位付けを避ける」などいう「平等」主義とはまったく異なるものだった。一定水準以上の結果に到達するまで、すべての個人が相応の努力を厳しく迫られ、すべての構成員がその経過に付き合わされるという「平等」主義であった。)

児童会が関わる行事を重視するという点は、原の学校と同じだった。しかし、じぶんのトラウマは、児童が自ら積極的に行う集団主義的な行動や民主集中制的な組織運営、あるいは原の著書に出てくる「追求」によるものとは違っていた。
 それは、一にかかって、カツコばんばによる私個人への責任の賦課とその厳しさによるものだった。
 カツコばんばは、学級の誰かが失敗したり先生の指示に従わなかったりしたことについて、ほとんどつねに学級委員である私の責任を追及してきた。たとえば、学校行事でスキー場にスキー教室に行くとする。学校から片道3〜4キロほどの雪道を、一列になってスキーを担いで歩いて往復するのだったが、その行動でクラスの誰かが先生の指示に従わないで道路をスキーで滑って帰ったとか、全員に解散が宣言される前にある班が勘違いして帰宅してしまったとか、私が関与していない(あるいは関知するにはずいぶん離れたところで引き起こされた)失敗やルール違反についても、悉く私の責任が問われた。つまり「啓くん、あなたが気をつけていれば、こういう事態は防げたのではないですか?」「自分の知らないところで起こったことだとしても、少なくても常日頃の行動のなかで、あなたにそれを防ぐためにすべきことはあったでしょう。あなたはそれをしていましたか?」と、こういう具合にである。

 これは、集団主義とか連帯責任とかいうのとは異なる。集団のあらゆる問題を、特定の個人の責任として引き受けるよう迫る教育だ。学級委員を代わってからも、じぶんは同じように個人として集団に対する責任を追及された。毎日、その日の行いに関する総括をノートを書き、それを先生に提出し、“自己変革”していかなければならなかった。
 なぜ私だけが(ほんとうは私だけではなかったのもしれないが)いつも責任を追及されたのかはよくわからない。学級委員を何度も務め、クラスでは比較的学業成績が良く、授業(とりわけ観客のいる「研究授業」)で教師の期待に応えるような発言をよくする子どもではあった。そして比較的従順で、責任感も強かったからなのかと思うほかない。

 カツコばんばから受けた影響は、その後永く自分を拘束した。
 日本は自民党や右翼勢力によって支配され、民衆の自由が奪われ、再び戦争へと向かっている。それに対して自由と民主主義を守るため、自分は何かをしなければならない・・・。たとえば、自分の住む街がファシストのような連中に占領され、じぶんが少年レジスタンスのように地下に潜行して抵抗を組織する・・・小学5・6年生のとき、ひどい息苦しさや圧迫感を感じながらそんな夢を何度もみた。
 政治的あるいは思想的な責務だけではない。どんな事柄であれ、社会的な問題でそこに人々のためにしなければならない課題があるとしたら、自分はそれに誠意をもって関与しなければならない。事象の行き先を読み、それに対して注意を怠らず、しかも個別的に人を助けるというよりも、先導的な視点から、事象があるべき方向に進むように影響力を行使できるよう努めなければならない・・・。こういう使命感(というよりも強迫観念)に無意識のうちに拘束されている自分を振り払うことができたのは、望まない大学に入って挫折を経験し、学生演劇に関わってアンダーグラウンド演劇の思想や方法論に触れてからだった。
 演劇や文学に触れたことで、じぶんはいったんは“カツコばんばの呪い”を振り払うことができた。“当為”の重荷から解かれたじぶんは、倫理主義的に硬化していた当時(1970年代後半)の学生運動には関わらずに済んだ。
 しかし、やがて20代の終わりから30代の半ばまで労働組合活動(対自的にはそれは組合運動でも労働運動でも政治運動でもなかった)にのめり込むことになり、その後は組合活動からも離れたが、今度は自らの仕事に対する入れ込みにおいて、当為の世界(それはあくまで対自的なものだが)を生きてきてしまったという想いがしている。
 
  だから(というのも不条理な話だが)、じぶんは、原武史がこの著作で見せた複雑な想いに魅かれつつ、ある部分では“いい気なものだな”と辟易している。
 原は、戦後史のある現実の中を生かされ、その体験から「トラウマ」を負う。だが、その忌避すべき現実からエリート予備軍の世界に脱出し、さらにはそのセレブぶった“慶応的なるもの”からも離脱して、東大を卒業し大学教授になっている。
 彼は、自分にトラウマを与えた歴史的事実を記録するために、かつてのクラスメイトや教師を訪ね、話を聴いて歩く。しかし、そこには、「滝山コミューン」以後、人々の歩いてきた道はまったく描かれない。プライバシーに配慮したといえば聞こえはいいが、少なくてもこの著作には、同じ環境を生かされ、自分がそこを脱出した後もその世界(滝山団地)に残った人々の姿に対する視線が存在していない。


 最後に蛇足。
 40代に差し掛かった頃、そのクラスの同級会が開かれた。呼びかけ人の中心人物は、いちばんの悪ガキの劣等生で、いつも先生に叱咤されていた男だった。驚いたことに、関東でタクシー運転手をしている彼は、カツコばんばを母親のように慕い続けていたのだった。
 しかし、80歳を過ぎ認知症の初期症状が出始めていたカツコばんばは、同級会の当日、会場に現れなかった。幹事が迎えに行っても、「あなたたちにひどい教育をした。私には同級会であなたたちに囲まれる資格がない。」と言って、頑なに家を出ようとしなかったのだ。じぶんは、彼女があの学校での日々をじぶんと同じように今も重く抱えているのだと、このとき初めて知った。そして、その瞬間、少しだけ何かが晴れるような想いがした。
 そこで、今度はじぶんが迎えに行った。単身で暮らす彼女の締め切った家には、心を病む者の家に特有のあの匂いがしていた。じぶんは、すでにあのカツコばんばと向き合っているのではなかった。かつて福祉6法のケースワーカーをしていたときの心持ちに回帰し、衰え自信をなくしているひとりの老婆と向き合い、彼女を慰撫しあれこれの話術で元気付けていたのだ。(カツコ先生、おれはもうあなたを赦している・・・心中で自分にいい聞かせるように語り掛けつつ。)
 玄関先で1時間あまり話し込み、やっとカツコばんばを同窓会に連れ出した。宴会場に現れた彼女は、かつての威厳を失って弱々しく見えはしたが、多くのクラスメイトについて、彼らをめぐる出来事や家族関係などの背景も含めて、驚くほど鮮明で確かな記憶をもっていた。会はとてもなごやかに進み、参集者たちはカツコばんばを見送ると、一様になにか大きな宿題を仕終えたとでもいう表情を見せていた。


 
 「戦後民主主義教育」が、じつはむしろ戦前的な精神のバックボーンに規定され、自由主義的な「個人の尊厳」や「自由な意思」を重視するようなものではなかったこと。そして、保守派の多くが未だにバカの一つ憶えのように批判し続けているかつての「日教組」の教育が、じつは戦前・戦中的な精神性と連続した土壌のうえに存在したことに、われわれはもう少し考慮を払ってもいいだろう。                     (了)

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:21Comments(0)作品評

2010年02月02日

吉野弘の詩 「I was born」 について




  このHPで、「山形詩人」68号その他と合わせて、同誌の同人である万里小路譲著『吉野弘 その転回視座の詩学』(書肆犀)の紹介をしようとして内容を読み進んでいたら、そこに収録されている吉野弘の詩「I was born 」について考えさせられたことがあったので、今回は、むしろそのことを中心に記しておきたい。(「山形詩人」等の紹介は、次回掲載。)

 万里小路は、吉野弘の詩作品を書かれた順番と作者の経歴に即して「転回視座の詩学」という観点から、吉野の詩作の流れを、主に次のように了解する。
  ?<労働者>から<詩を書く人>へ
  ?<否定>から<肯定>へ
  ?<緊縛性>から<開在性>へ   ・・・・の超出
 そして、「I was born 」については、「<私たちは、なぜ生まれるのか>という問いが作品の基底にあり、そしてそれに回答があるようには思われない。」と述べつつ、吉野弘の詩作品を<超出>というキーワードでとらえ、「実存とは、いまここから次のいまここへと超え出ることである。」というふうに、これを存在理由や実存を問う作品だと看做して語っている。
 じぶんは、吉野弘のよい読者ではないから、ここで万里小路の議論にまとまった対抗軸を提出する準備も意欲もないが、ただ、「I was born 」について、彼が述べるのとはちょっとちがった視方がありうるだろう・・・とは思った。


 英語を習い始めて間もない頃(思春期)の作者が、父親と歩いているとき、向こうから歩いてきた妊婦を見て、その腹の中の胎児を想像する。そして、<生まれる>ということが英語の構文では<受身>である訳をふと諒解し、その思いつきを父に語る。
すると父は、自分が思春期のときに抱いていた疑問を語ってみせるかのようにして、口が退化して餌も採れない姿で生まれ、2、3日で死んでいく蜉蝣の雌が、その体内にぎっしりと卵を充満させているという話をしたうえで、そして、作者に、母親がお前を生んですぐ死んだのだと知らせる。そこで少年は、「―ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体―」(最終行)というイメージを灼きつける。・・・これが「I was born 」の梗概だ。

 端的に行ってしまえば、「I was born 」という作品の勘どころは、思春期の少年が<生>=<性>に対して抱く慄きのリアルさにある。・・・それは、自分がなぜ存在しているのかというような哲学的な問い(いいかえれば実存的な問い)の悩ましさというよりも、ひとまずは、きわめて切ない命の感受であり、そして強くて醜い情欲的な震えのようなものだ。
 そして、その慄きは、すぐさま、「I was born 」という構文が隠蔽しているもの、すなわち「だれによって産まれたのか」という本質的な問いを抉り出す。それは、自分を産んだ存在=母への憧憬と畏れとに、少年を直面させる。その生々しさが、この作品の命だといえる。

 作者は、父の言葉を借りて、自分を産んですぐに死んだ母と自分を、蜉蝣とその体内の卵のイメージに仮託して、心に焼き付けた(ということにした)。
 しかし、名作といわれる作品「I was born 」の問題は、ここにある。ここには、要するに、作者によるレティサンス(故意の言い落し)があるのだ。

 命は、次ぎの(すなわち継ぎの)命を生み出すためだけに、“切なく”存在している。・・・もし、そう認識する(だけ)なら、たしかに「<私たちは、なぜ生まれるのか>という問いが作品の基底に」孕まれるということになるだろう。そして、だがしかし、その回答は、「あるようには思われない」どころか、問い自体の出所地に、すでに存在している。この問いを自ら問い、この問いに自ら答えた者は、むしろある意味ではすっきりするのであり、ひたすら原始仏教の、放浪する修行者のように歩めばいいだけだ。

 「I was born 」という構文をつぶやいた瞬間、この構文が隠蔽しているものが立ち上がってくる。それは母という存在だ。吉野弘の「I was born 」は、その母という存在を、きわめて肉感的で映像的に描いているようで、その実は、“棚上げ”している。
 蜉蝣の姿の想像によって焼き付けられたのは、母をふさいでいた「白い僕の肉体」であり、母それ自体の姿ではない。ここでは、母は、子=作者自身のためにだけ存在するものとして描かれている。
 いいかえれば、作者は、自らの出生に関する想像から、母の具体的イメージ(というよりも母の具体的イメージの欠損)を故意に言い落し、これを、次ぎの命を生み出すためだけに、“切なく”存在している命の普遍性へと“超出”させてみせた。ようするに、ひとつの、自らに対する“嘘”を鮮やかに演出したのである。

 たとえば、このじぶんにとって、吉野の「I was born 」に描かれた蜉蝣とその体内の卵のイメージに対応するものはなにか。
 じぶんにとっては、手術で摘出された母の胃袋に突き刺さっていた、エイリアンの卵のような形状の、鶏卵ほどもある高分化型のがん細胞こそが、それにあたる。
 ひとりの女に孕まれつつ、その親に寄生して増殖し、内側から侵襲して死に至らしめる存在こそが子のイメージであり、じぶんのイメージである。逆に言えば、ひとりの女が、自らの体内にいつしか発生させる“悪性新生物”こそが、子に他ならない。そのイメージは、具体的な体験に根ざすものであり、他のどんな形象にも仮託されない個別具体的な表象である。そして、その自己イメージは、明らかに“じぶんの母”というひとりの女の具体像を伴って成立している。
 「I was born 」は、こうした具体性を巧妙に隠蔽している。「I was born 」が名作なのは、それが自らに対する“嘘”を鮮やかに演出した作品だからである。


 さて、ここで、少しだけ万里小路の著作に戻ると、この著者は、吉野の作品を(吉野の作品だけではなく、彼が批評の対象とする大方の作品を、というべきかもしれないが)、ハイデッガーやサルトルやフッサールの観念の方から見ようとしている。
 しかし、「I was born 」の解釈について、どこかから範疇を借りて語るなら、実存主義や現象学よりも、むしろユングのいう元型(アーキタイプ)のひとつ、つまり<グレート・マザー>という概念を参考にした方がいいような気がする。
 元型とは、人間が普遍的に集合的無意識としてもっている固有のイメージであり、<グレート・マザー>は、その中のひとつで、まさに“偉大な母”というべきものである。
 しかし、この偉大な母には、子を産み、慈しんで育てるという側面と、子を束縛し、飲み込んで破滅させるという側面がある。
「I was born 」に描かれた蜉蝣の雌の姿は、まさに二重性としての<グレート・マザー>である。それは、子を産むために全存在をかける生きものだが、そのことで産まれてくる子に、たじろぐほかない宿命を、つまりはその子もまたさらなる子のためにのみ存在せよという、どうにもやり切れぬ破滅的な宿業を負わせる生きものでもあるのだ。
 「I was born 」は、まさにこの二重性への慄きを表白した作品と見なすことができる。

 おっと、しかし、われわれはこんな強迫観念にまともに囚われる要はない。
 われわれは、幸か不幸か、あらかじめ本能の壊れた生きものとして産み落とされるところの、次ぎの世代を産むためだけに存在することを、とうにやめてしまった種だからである。
                                                                                                                                                                                                     

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:03Comments(3)作品評

2009年08月16日

「山形詩人」第66号ほか




 最近、モンテディオ山形に関わることばかりで、『詩と批評』の名にそぐわない内容になっている。そこで、申し訳に、久しぶりに詩に関することを・・・・。

 8月20日付けで『山形詩人』第66号が発行された。
 高啓は、この号に詩「噛む男」を発表している。
 また、65号は欠稿したが、2009年2月発行の64号には、詩「逆さ蛍(その二)」を発表している。
 ついでに、じぶんの作品について紹介しておくと、2009年7月発行の『coto』第18号に、「似非ブログ欺罔日記(09年春雨篇)」という短い散文を寄稿している。
 (『山形詩人』は、バックナンバーを含めて手元に残部があるので、希望の方はこのブログの右側の「オーナーへのメッセージ」からメールでご連絡いただきたい。1冊500円。送料は当方負担。)





 このほか、贈呈された詩集などについて。

 築山登美夫 詩集『悪い神』(七月堂)。
 『coto』に寄稿している関係で、じぶんに贈呈いただいたものと思う。
 “フランス綴じ”というのか、ペーパーナイフで袋になった頁の横と下を切り離しながら読み進む綴り方である。
 詩から受ける印象は、いかにも60年代後半に青春を過ごした世代の作品だなぁという感じ。
 隠喩や換喩、そして呼び掛けの語彙が力とリズムをもっている。しかし、この詩集のことばたちがもっているリズムを、ペーパーナイフで切るという手間が損なっているような気がする。装丁自体としては素敵だが、内容とマッチしているかは疑問。
 









 長津功三良 詩集『飛ぶ』(コールサック社)
 都市銀行を退職して、山村生活を送りながら詩作に取り組んでいる作者の姿が、だいぶ直截的に描かれている。じぶんも退職したらこんな詩を書くのかなぁと思わないでもないが、たぶん、現役世代は、多少とも“いい気なものだなぁ”という感想を抱くだろう。
 我々以降の世代は、もはやこんな老後を想像できない。じぶんより若い現役世代に、じぶんのモチーフをどう伝えたらいいか・・・これは、仕事をリタイアした詩人にとって、普遍的な課題であるだろう。













 金太中 詩集『高麗晴れ』(思潮社)
 詩集をいただくまでお名前を存じ上げなかったが、北海道で会社を経営していた在日韓国人または在日朝鮮人の方のようである。
 歩んできた人生の奥行きを感じさせる作品たちである。
















 万里小路譲 詩集『マルティバース』(書肆犀)
 万里小路氏は『山形詩人』の同人。『山形詩人』には、もっぱら詩に関する批評文を寄稿し、詩作品は、自身が発行していた一枚誌『てん』や、『詩と思想』『詩学』などに寄稿してきた。それらの作品を纏めたものが、この詩集。
 「ユニバース」に対する「マルチバース」という詩の世界。たしかに多彩であり、この人は、毎晩のように机に向かって作品を創るのだろうな・・・そんなことを思わせる。ライトバース調の言葉遣いで、様々な事柄(読書や音楽)に反応するようにして作品が生み出されている。












 山本博堂 詩集『ボイシャキ・メラ』(書肆山田)
 これは、旅行記を詩にした作品集である。
 昔、選挙用のパンフレットや機関紙には、絶対に海外視察の話や写真を使うなと、古参の選挙参謀から教えられたのを思い出す。
 この手の話には、旅行した本人には観取できない厭味があるものだが、この詩集には、それほど感じない。この人が、“見て通り過ぎる”ということに習熟しているからだろうか。少なくても、詩という形式で書くということが、この人の場合は、その厭味を和らげ得ているとはいえるだろう。











 
 大場義宏 『「食わんにゃぐなれば、ホイドすれば宜いんだから!」考』(書肆山田)
  「わが黒田喜夫論ノート」と副題がつけられている。
  『山形詩人』に連載された黒田喜夫をめぐる文章の集大成としての426ページ。
 以前、真壁仁に関する高啓の論文に対して大場氏に論難を吹っかけられ、これに反論するために『山形詩人』に連載された同氏の文章を読んだが、黒田喜夫論といえる内容はほとんど存在しなかった。
 黒田が論争した相手や、自分が気に食わない相手を持ち出して、それにぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅ難癖を付けることで、黒田を論じたつもりになっている。なにより、黒田の詩が扱われていないのは、黒田論として決定的な欠落である。
 近代化されたこの社会を呪詛する前に、近代化される前のムラやイエを振り返ってみよと言いたい。この人は、私よりずいぶん年上だが、そのような世界で息をしてきたことがないのであろう。
 ちなみに、大場氏は、『山形詩人』第58号の高啓論文「他者非難によるデッサン法の不毛について」における反批判に対し、いまだに何の返答もしていない。               

 黒田喜夫の詩は、黒田自身の書いた散文の方向性だけで解釈されるべきではない。
                                                                                                                                                                   
 

                                                                                                                                                                                                                                       




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:46Comments(0)作品評

2008年02月24日

菊地隆三詩集『父・母』




 『山形詩人』同人である菊地隆三さんから、詩集『父・母』(2008年3月1日発行、書誌山田)が送られてきた。
 その日のうちに通読。とても哀切な印象を受けた。

 菊地氏は1932年、山形県河北町生まれ。
 前詩集『夕焼け小焼け』(2000年、書肆山田)で「丸山薫賞」を受賞している。
 合評会その他の際にご本人から聞いたところでは、東北大医学部を卒業後、山形県立中央病院に勤務。大学で当時は先進的な医療だった胃の内視鏡による検査技術を学び、県内の現場で実践、普及に尽力してきた。今は地元で病院を2軒経営している。
 余談だが、そういえば、霞城公園の山形市郷土館(旧済生館病院)に胃カメラがまだ鉄の棒(!)だったころの実物が展示されているが、当初はあんなものを患者に飲ませていたのだろうか?・・・菊地氏から、当時は検査する方もたいへんな労働だったと聞いたことがあるが。



 詩集のあとがき(のように掲げられた作品)には、こうある。

  正直 俺は 若い頃 自分の 才薄く 姿・形の無様さを 親のせいにして
  親を恨んだこともあった。 しかし 途中で 気付いた。 自分は 産まさ
  れたのではなく 俺が 親の命を借りて 好き勝手に この世に 飛び出し
  て来たのだと。 親が 俺を 選んだのでなく、 俺が 親を 選んだのだ
  と。 親は 一合体恒星で 俺は その廻りを くるくる 廻っている 小
  惑星に 過ぎない。(この頃 少々 目が廻るのは きっと そのせいだ)
  それにしても なんと 遠慮がちの 淡い光の 恒星だろう。もっと 威張っ
  て もっと もっと 光っていいのに・・・・ 元々 目立たない 大人しい夫
  婦だったから どうしようも ないのか。
  こんな親に対して 俺は この頃 無闇矢鱈に「父・恋し」「母・恋し」の思
  いに 陥ってしまっている。老いぼれの この年になって まるで 赤ん坊
  同然。ほんと 恥ずかしい。しかし 事実だから しょうがない。 (部分)


 ところで、以前、じぶんは菊地氏の作品について、このブログで次のように触れていた。

 <2007年3月18日「山形の詩を読む」>
  菊地隆三
   詩集『夕焼け小焼け』で丸山薫賞を受賞した詩人だが、今回は『山形詩人』54号に掲載された
  「こい歌」と同49号に掲載された「天の川」を取り上げた。
   おどけた軽妙な世界だが、幼い頃の哀しみが通奏低音のように流れている。子どもの頃、事情
  があって両親に甘えることができなかった。あの世でほんとうの父母に甘えてみたい。現実と願望
  の世界をつなげて、その世界で子どもが遊ぶような詩を書いている。だが、その裏側には自分の
  老いを通じて死に向き合う視線がある。詩作品としての凝結度が高い。


 だが、今回この詩集を読んで、もっともっと痛切な哀しみを感じた。
 収録作品には、父親が町役場で徴兵係をやっていたとか、貧乏人だったとかいう件(くだり)が出てくるのだが、こういう解釈は邪道かもしれないが、もしこの詩人が医者の家にもらわれっていった養子だったら・・・と想像してみる。
 すると・・・・、父に甘えたい、母に思いっきり抱っこしてもらいたい・・・・その、ヒトとしての原初的な欲求と、その欲求が永遠に叶えられないことへの、おそらくはヒトとしての最大の哀しみが、ここまで強烈に届いてくる。

   詩人は、「父」をつくり、「母」をつくる。
   だが、どうやってもそれは「淡い光の恒星」でしかない。
   だから、自分は産まれたのではなく、飛び出してきたのだ。そして、産みの親は(育ての親と同様に)自分が選んだのだ・・・・そう思うほかない。

   「父」「母」が目前に現れ、「父」「母」と交流する自分を延々と描いたこの詩集の作品群の、その最後に収録された作品は、だが、このように閉じられる。

   この先
   一人で行ける
   もう
   誰も
   付いて来るな

    来るなら
    一千萬年後
    一人で
    歩いて来い
  
   カンゲイする
             ――――作品「道―子等に」の最後の部分


  ひとはひとりで生まれ、一人で死んでいくものである。

  では、また。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:46Comments(0)作品評

2008年02月12日

『coto』第15号



 奈良の安田有さんから、『coto』第15号(2008年1月28日、キトラ文庫発行)が送られてきた。

 この号に、高啓は、詩「唯名論」を寄稿している。
   
 15号では、散文では、佐伯修「雲と残像―現代美術を媒介として その三」、安田有「死の作法」、詩では、築山登美夫「聖女よ、」、今村秀雄「赤い手袋」、安田有「遠くへ」などが印象的だった。

 佐伯氏の文章は、現代美術家・太田三郎の「シード・プロジェクト」に関するもの。
 植物の種子をそのまま和紙に封入し、文字やミシン目を入れて「切手」化した作品を、実際の切手とともに貼って、両方に消印を押した郵便を送るというプロジェクト。
 佐伯氏は、「このように『プロジェクト』全体として見ると、種子入りの『切手』は、あくまでも水面上に出た氷山の一部分であり、全体としては、『種子』というモチーフを用いながらする『存在証明』のパフォーマンスや、コミュニケーションの試み、『公』と『私』や生命の連続性についての問いかけなど、さまざまな課題がからみ合わさった企みであることが見えてくる。」と述べている。
 なお、佐伯氏はこの文章の後半で「プロジェクト」のバリエーションについても述べているが、これがじつに興味深い。

 安田氏の文章は、学生時代から親しくしていたTさんの、中小企業経営の行き詰まりからと思われる飛び降り自殺に触れ、現在における死について考えを廻らせるもの。
 そこで安田氏は、「なぜ人を殺してはいけないか」をめぐる山折哲雄や石川九楊の発言を踏まえ、ドストエフスキーやカミュの小説を渉り、自傷・多傷行為に「<無(死)>の衝動」を看て取りながら、やがて自らの生と死を見つめてこう言う。 
  「いま私は、どのような死も尊厳的でないものはないと思っている。私たち生者がそう思うならばである。 『人の死は人の尊厳である』と深く心に感じたならば、人は人を殺したりはしない。ここで<死>とは<いのち>のことである。」
  「やっぱりTさんの<死の作法>には反対だ。<いのち>は人倫を超えた<無償絶対>に属する。それに手をかけることは赦されない。」
  
 安田氏の詩にも、かれが還暦を迎えたということもあってか、自分の生と死を見つめる視線が色濃く翳を落としている。

 そういえば、高啓の「唯名論」にも、死のイメージが忍び込んでいる・・・。                                                                                                                             



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:01Comments(0)作品評

2007年09月19日

きょうは詩人8号

 
 伊藤啓子さんから、「きょうは詩人」8号(アトリエ夢人館)が送られてきた。
7人の同人(全員が女性のようだ)の作品と、各号でお題(この号は「占い」)をきめて各同人が寄せるエッセイが掲載されている。

 伊藤啓子「機屋の八月」、吉井淑「山吹」、鈴木芳子「公園で」、赤地ヒロ子「睦月」、小柳玲子「梅雨の家」と、7人のうち5人までが、死人または亡霊のようなものが訪れる詩を寄せている。
 この女性詩人たちは、幽玄のまどろみの世界に棲んでいるかのようだ。

 しかし、すいぶんと気が合うものだ。まさか詩までお題を決めていたわけではないだろう。
 ふと考えてしまったのだが、この人たちはなぜ女性だけの同人誌を発行しているのだろう。その理由はよくわかないが、このように女性たちだけの詩誌であることは、一定の水準を維持できればそれなりにインパクトをもつのかもしれない。
 それは、詩誌、つまりは詩作品がより注目を浴びるためのひとつの戦術でもあるだろう。
 しかし、ちょっと捻くれた見方をすれば、女が女の集団を売りものにしていると見られないこともない。微妙なところでもある。

 巻頭の伊藤啓子「機屋の八月」には、路地のところどころから聞こえてくる機織の音が描かれている。たぶん米沢市の米織(よねおり)の情景ではないかと思う。
 昔、米沢市に山形県立米沢高等技術専門校という職業能力開発校があって、そこに繊維工学科という名称の離転職者向けの職業訓練課程があったのを思い出す。たしか6ヶ月間で糸を紡ぐところから染色、そして機織りまでを実習する課程だった。
 地場産業である米織業界からの求人はほとんどなくなって、いまから十数年前に繊維工学科が廃止され、やがて米沢高等技術専門校自体も廃止されたが、この学科があるころは授業料無料で基礎から機織りが学べると、全国から入校生がやって来ていたものだ。再編合理化でまっさきに廃止されたのだったが、あの実習の風景が目に浮かぶ。
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:25Comments(0)作品評

2007年08月16日

『coto』第14号

 奈良の安田有さんから、『coto』第14号(2007年7月27日、キトラ文庫発行)が送られてきた。
 この号に、高啓は、詩「十歳になれば、おまえは」を寄稿している。
   
 『coto』は、エッセイや掌編や批評などの散文が比較的大きな割合を占める雑誌。
 14号では、佐伯修「雲と残像―現代美術を媒介として その二」、築山登美夫「白人の上陸―あるランボー論」、高山芝雄の掌編「海辺の叙景その後」などが印象的だった。

  佐伯氏の文章は、2006年9月に東京の広尾の画廊で見た現代美術家の太田三郎展についての批評である。
  太田三郎は、1950年山形県生まれ。鶴岡高専卒。(日本海岸の町で渡り職人の大工の息子だったというので、温海町の風景を思い起こす。たぶん温海町ー現在は鶴岡市と合併ーの出身ではないか?)

 山形県内の画廊でも個展を開催しているようだが、私はいままでこのひとを知らなかった。
 版画家である太田三郎の主要作品が、シベリア抑留中に亡くなった元満鉄調査部の山本幡男が家族に当てた遺書(一度紙に書かれた遺書を帰国する同胞たちが分担して暗記して記憶として持ち帰ったもの)を筆写したものだというのだが、佐伯氏が、なぜそれが太田の主要作品なのかを語る部分が面白い。
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:22Comments(0)作品評

2007年08月14日

『山形詩人』第58号



 (1)高啓の作品等について
  この号には、詩「初期詩篇1 ヨハンへの手紙」と、論争的な散文「他者非難によるデッサン法の不毛について」を寄稿している。
  前者は、22歳のときの作品。今回の発表に当たって部分的に手直ししているが、ほとんど原型を保っている。
  後者は『山形詩人』第57号に掲載された、大場義宏氏による「詩人としての真壁仁論デッサンの一試み−『日本の湿った風土について』のあたりで−」(これは東北芸術工科大学東北文化研究センター刊の『真壁仁研究』第7号に掲載された高啓の論文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」への論難である)を受けて、反応したもの。
  この文章には、『山形詩人』の編集者・高橋英司氏によって「反論」と冠がつけられたが、大場義宏氏の文章は空回りするばかりでそこに議論すべき内容が存在しないから、厳密に言えば、反論という性格の文章ではない。したがって、編集者が勝手につけた「反論」という冠に異和を感じる。
  この文章を寄稿した理由は、当該文章のなかでも述べているが、大場氏が高啓の論文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」を誤読・曲解し、かつは歪めて引用しているので、かかる火の粉を払う意味でも、『山形詩人』の読者でありながら『真壁仁研究』第7号を読む機会のない人々に、直接「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」を読んでいただけるよう案内したいと思ったからである。
  なお、このやり取りの行きがかり上もあって、従来の転向研究や吉本隆明の転向論に対する私の見方(評価と批判)を再度簡明に示した。

 (2)編集者・高橋英司氏による「後記58」について
  『山形詩人』の編集後記はいつも編集者の高橋英司氏が書いている。
  今回の冒頭部分を引用し、感想を述べる。
  「前号掲載の大場論考に対する高啓の反論を掲載した。同一誌面における同人間の論争・応酬と
  なるので、読者からは内部対立のように受け取られはしないかという懸念をもつ。表現者としての
  『あがすけ性』や詩と思想に関わりながら、真壁仁の歴史的評価についての微妙な問題を含むテ
  ーマであるので、さらに論争が進展したならば、読者からの投稿をも募る用意がある。ただし、大
  場論考は、誌面の都合上、一挙掲載とはならず、牛歩の歩みであるので、読者からの投稿掲載は
  年を越す。」

  まず、意味不明な点について。
  「同一誌面における同人間の論争・応酬」だと、なぜ「内部対立のように受け取られはしないかとい
  う懸念をもつ」のか。論争・応酬が「同一誌面」であること(同じ号に掲載されていること)になにか問
  題があるのか。
  べつにない、というか、読者にとっては見やすくて便利なばかりではないのか。
  (ここまではただの突っ込み・・・・)

  次に、異和感について。
   「同人間の論争・応酬」だと、「内部対立のように受け取られはしないかという懸念をもつ」という場
  合、まず大事なことは「内部対立」が何を意味しているかだ。
   ある論争や応酬が「対立」に見えるかどうかは、その内容を読んだ読者が判断することだ。
   ところで、今回のやり取りは明らかに大場氏による高啓への論難・罵倒の文章から始まっている
  し、それに対して高啓は「反論」で大場氏の不毛を指摘しているから、このやり取りを「対立」と看做
  されても仕方ないだろう。
   また、品の良くない悪口が書かれた「同人間の論争・応酬」を「対立」だと思われたくないなら、編
  集者としてそのような原稿を掲載しなければいいのである。
   もちろん、私は、この大場氏の文章は、迷妄と衰弱ゆえの放言とはいえ、ご本人の評価を下げる
  だけで、その悪質さはまだ可愛らしい程度だから掲載しても構わないと思うし、最初に一方の批判
  や論難を掲載した以上は、やり取りがある以上、とことんそれを掲載していくべきだと思う。
   そこで問題は、次に、その対立が議論のうえでの対立なのか、それとも同人誌を運営していく上
  での対立(たとえば「こんな奴とは同じ媒体に寄稿したくない」などという反目)に繋がるのかという
  ことになってくる。
   しかしこの点についても、すくなくても高啓の方は、このような論難を受けてうんざりしてはいる
  が、これによって『山形詩人』から抜けようなどとは思わない。
   そもそも「内部対立」というときの「内部」、そこでなんとなく含意されているかのような同人誌の共
  同性みたいなものについて、『山形詩人』にいてとくに感じたことはない。そこが『山形詩人』のいい
  ところなのだ。
   同人間の個人的な繋がりはあり、従ってそれが外部から見ればなんらかの「内部」性に見えるの
  は止むを得ないとして、同人の「誌」としての共同性みたいなものは高橋英司氏も意識していない
  のではないか。もしそうだとすれば、この書き方は読者に誤解を与えるだろう。
   また、読者に「内部対立」があると看做されたところで、たいしたことはない。
   逆に、その方が面白がってよく読んでくれるようになるような気がする。

   最後に、真壁仁をめぐる論争について。
    『山形詩人』におけるこのやり取りは、繰り返すが、同誌第57号に掲載された大場義宏「詩人と
   しての真壁仁論デッサンの一試み−『日本の湿った風土について』のあたりで−」が、高啓の論
   文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」(『真壁仁研究』第7号掲載)を取り上げて論難し
   たことに始まっている。
    しかし、だが、大場義宏氏のこの不毛な論難の文章のモチーフはなにか。
    一言で言ってしまえば、土着的な村落共同体(ゲマインシャフトリッヒなもの)を否定されること
   に対する大場氏の苛立ち、そして不安からくる敵(近代的なゲゼルシャフトリッヒなるものの信奉
   者)の創出とその敵への攻撃による心理的な自己防衛である。
    このような大場氏のモチーフは、高啓が「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」で行った
  真壁仁をめぐる考察、つまり同時代人として生きてきた山形の状況のなかに真壁仁を歴史的具象
  性として位置付け、戦後も繰り返された転向の意味を問い、人々が「進歩的地方文化人」としての
  真壁仁という像をどのように成立させてきたか、その機制を論理的に考察しようとしたモチーフと、
  そのままではけっして噛み合うことがないだろう。
   大場氏が誰かから仕掛けられるべき論争は、私たちの周りから見事に消失してしまった村落共
  同体的なものを表現の中心的価値に位置づけることにいまどのような意味があるのか、あるいは
  そこにこだわるということがいまどのような迷妄や病理を表現してしまっているのか、そのような議
  論ではないかと思う。(これは吉本隆明・黒田喜夫論争にも一脈通じる視角である。)
   逆に言えば、このような議論をする相手や機会がないから、大場氏はたまたま目に付いた高啓
  の発言(ゲマイシャフトリッヒがどうとか、大場氏が目の敵にしている吉本隆明がどうとか言ってい
  る高啓論文)に噛み付いているようにも見える。
   もし編集者たる高橋英司氏が、『山形詩人』誌上で真壁仁をめぐる論争の進展や深化のために
  「読者からの投稿をも募」ろうとするなら、大場氏による冗長な論難の文章とは一線を画し、つまり
  大場ルートは大場ルートとして確保しつつも、これとは別に「真壁仁検証ルート」ともいうべき議論
  の道筋や問題意識を定めたうえで、このように呼びかけるべきではないか。
   それは、『山形詩人』が『真壁仁研究』(7号で廃刊)が仕残した真壁仁の批判的検証を引き受け
  ることにもなるだろう。

   ※『山形詩人』の最新号(58号)及びバックナンバーを入手希望の方は、高啓にメールをくださ
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Posted by 高 啓(こうひらく) at 22:09Comments(0)作品評

2007年08月11日

詩&エッセイ『む』7号



 「詩工房」(芝春也)発行の『む』7号の、いとう柚子の詩「逝ったひとに」が印象的だった。
 
 「母」であり、「姉」であり、「はじめてみる女のひと」であった姉・・・。
 吹雪の朝は、その姉のマントにすっぽり包まれて学校へ送ってもらった。
 ふたりで子供部屋に駆け込んで笑いころげた。
 夕暮れ時に梨の木にもたれて「よその国へ行きたいと思わない?」と呟く姉にどきっとした。

 その歳の離れた姉を、作者は「わたしのあなた」という。
 姉が年老いて意識がなくなり「境界の人」となっても、「見られている/聞かれている それでよかった」という。
 そして、「五月の風にすいこまれていったあなたなどわたしのあなたではない」(最終行)と。

 作品をそのまま引用することは控えるが、その誘惑はつよい。
 とても瑞々しい感性の作品だ。
   

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:21Comments(0)作品評