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2023年03月10日

軽部謙介著 『アフター・アベノミクス』




 軽部謙介著『アフター・アベノミクス―異形の経済政策はいかに変質したのか』(岩波新書・2022年12月刊)を読んだ。

 第二次安倍政権によって「異次元金融緩和」として始められた「アベノミクス」が「物価上昇率2%」という目標を達成できないまま、金融政策から「タガの外れた」財政出動へと変質していく過程が、日銀、財務省、自民党それぞれについて克明に描かれている。
 興味深く読んだのは、日銀内の「リフレ派」対「非リフレ派」の勢力争い。そして財務省内の財政規律の基本方針を巡る動き、すなわち「財政収支均衡」から「プライマリーバランス(PB)黒字化」へ目標を変更しようとする動きと、それがストップをかけられる過程の描写である。
また、日銀が急激な円安に対処するため長期金利の変動幅を拡大したことを「ステルス利上げ」としているところなど、利上げをしようにもできない事の深刻さを伝えてくる。
 本書は、関係者の動きを追うジャーナリスティックな著作ではあるが、じぶんのような金融政策に昏い者に金融政策や日銀の在りようを分かり易く説く解説書の役割も果たしている。

(註)「財政収支均衡」とは、政策的経費と国債の利払い費を税収で賄える状態。国債発行残高は増えない。(減りもしないが。) 「PB黒字化」とは、政策的経費は税収で賄えるが過去の国債の利払い費はさらなる国債の発行で賄うという状態。(国債残高は増え続ける。) なお、2022年度末の国債残高は1,029兆円。2023年度の予算額は過去最高となり「PB黒字化」さえ遥かに遠のいている。

 さて、ここで本書の内容紹介から少し外れる。
 国債を日銀が直接購入することは「財政ファイナンス」として禁じ手にされている。
 しかし、国債をいったんは民間銀行に購入させて、それを日銀が買い取るというオペレーションが際限もなく(まさに「異次元」の有り体で)続けられているのがいまの「アベノミクス」下の日本である。ようするに日銀券が政府からバラマキされている。これは「金融政策」の仮面を纏った「異次元の」「財政出動政策」である。
 この異常事態を合理化するのが、今や右は「自民党」支持者の一部から左は「れいわ新選組」支持者の一部までが嬉々として唱える「MMT」(近代貨幣理論)である。
端的に言えば、MMTとは、自国の通貨建てで国債を発行する限り、どんなに国債を発行しても国家はその返済に充てる貨幣を発行できる(つまり印刷すればいい)のだから債務不履行は起きないという理論だ。
じぶんには、これは〝理論〟というより〝信仰〟に見える。
 MMTは通貨を発行する<国家>の存在(それも確固たる国家)を前提にしている。
 また、財政出動の規律は、インフレーションの度合いに掛かっているとする。つまり、通貨の発行量が増えすぎてインフレが起こるが、そのインフレの程度がひどくなったときに通貨量を減らせばいいというものだ。
 われわれの「日本」という国家がいつまで確固たるものか、昨今のこの国の劣化(政治・経済・官僚機構・マスコミ等々の劣化)を見せられると、その破局の蓋然性は、30年以内に起きる確率が70~80%といわれている「南海トラフ巨大地震」かそれ以上に大きいと思われてくる。
 しかしそれ以前に、「タガが外れた財政出動」を止めようとしたとき、それが止められるのかという問題がある。増税を掲げる政治勢力、あるいは財政出動をそれなりに絞ろうとする政治勢力は選挙で敗北することが予想される。
 敗北する事がわかっていてそれをやろうとする政治勢力が現れるか。現れたとしても選挙で勢力を伸ばすことは叶わないだろう。ポピュリズムに傾斜した今の日本で肥大化した「財政出動」を絞ることなど、そもそもできそうにない。
 かように「アベノミクス」の罪は深い。「アベ政治」(というより「アベ的なるもの」あるいは「アベ族」と言うべきか)は何から何まで劣化させてしまった。
 いまや国債という「点滴」で生きているような<国家>が、強大かつ広大な隣国に「敵基地攻撃用ミサイル」を撃とうというのである。「アタマの中がお花畑」とはまさにこういうことを言うのだろう。
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 10:54Comments(0)作品評

2023年02月12日

山田兼士さんへの手紙




 「日本現代詩人会会報」169号(2023年1月)で、高階杞一さんによる故・山田兼士さんの追悼文を読んで、山田さんが昨年12月6日に亡くなったこと(享年69)を知った。
 山田さんとはお互いに詩集を贈り合っただけで、お会いしたこともメールや電話でのやり取りをしたこともなかったが、山田さんの詩集についていつかは何か書かなければと、ずっと気になっていた。病気から回復されたと聞いていたので、こんなに早く逝ってしまわれるとは思ってもみなかった。

 山田さんは細見和之さんと季刊詩誌『びーぐる―詩の海へ』に連載していた「対論・この詩集を読め」で、高啓の『女のいない七月』を取り上げてくれた。(2012年4月の第15号掲載。のち、単行本『対論Ⅱ・この詩集を読め・2012~2015』(澪標・2016年3月刊)に収録)
 この「対論」で、山田さんは「(前略)一般にはなかなか知られにくいでしょう。今こういう骨太の詩を書いている人―今日はちょっと、これをどう批評・評価するかというよりも、どういう紹介の仕方をすれば『びーぐる』の読者に対してプラスのものがより多く伝えられるか考えたい。(後略)」と述べ、細見さんと一緒に『女のいない七月』以前に上梓した第2詩集『母を消す日』、第3詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』を紹介することも含めて、高啓の詩の魅力を伝えようとしてくださっていた。これを読んでとても有難いと思った。

 山田さんは2019年10月にウイルス性脳髄膜炎による高熱を発症したが、2か月間もの意識不明から覚醒し、7か月間の入院生活とその後のリハビリテーションを経て、コロナ禍による大学(大阪芸術大学)のリモート授業への復帰を果たしていた。
 この、まさに死の淵から帰還した体験は、詩集『冥府の朝』(澪標・2022年1月刊)に収められた作品に率直に描かれている。

  あまり遠くない方向に入り江があって
  その奥には深緑の森がある
  その入江の奥へ奥へと ベッドは運ばれていく
  まるで死の島へと運ばれる小舟のように

  ベッドは水を分けて進んでいく
  冥府船
  にしては
  ただひとりなのが寂しい

  まあいいさ
  死ぬときはだれでもひとりだから
  ということは
  いま僕は死にかけているのだろうか

  小舟のように揺れる
  ベッド舟に運ばれて
  もうすぐあの島に打ち上げられる
  その瞬間がありありと感じられる

   (中略)
 
  予想していた衝撃もなく 
  冥府船は軟着陸のように
  岸辺に乗り上げた
  緑に見えていた森は実は紅葉だった

  森は窓外のビル街で
  岸辺はもとのベッドのままだった。
  手足に力は入らないが
  目と耳は生きている信号をとらえていた

  あれは人を冥府に運ぶ船ではなく
  冥府からこの世へ運ぶ船だった
  優しく美しいナースたちが
  生還した命を祝ってくれた

  もう少し生きていたい
  強く
  激しく
  思ったのだった なぜか

                          詩「冥府船」から(部分)

 「冥府からこの世へ運ぶ船」だった「冥府船」は、しかし、このあと1年もしないうちに「人を冥府に運ぶ船」となってしまった。山田さんは詩のなかで確か44歳くらいで胃癌の手術をしたと書いていたが、終にかれを冥府に運んでしまったその「船」は、やはり癌(発見時にステージⅣの食道癌)だったという。

 正直に言うと、山田さんから『孫の手詩集』(澪標・2019年6月)という詩集をいただいて目を通し、〝これはいただけない。おれは絶対にこういう詩は書かない。〟という感想を抱いていた。
 じぶんは、<孫>という存在をどう捉えるか、ということは結構難しい課題、大袈裟に言えばひとつの思想的課題であり人生における試金石のひとつであると考えてきた。そこからみると、この詩集の作品群は、ただひたすら孫の可愛さ、その命の掛けがえのなさに惑溺し、その放恣(もっとひどい言い方をすれば感情失禁)に任せて作詩しているように思われたのである。
 だが、今回山田さんの訃報に接して、詩集『家族の昭和』(2012年)、『羽曳野』(2013年)、『月光の背中』(2016年)、『羽の音が告げたこと』(2019年)、『冥府の朝』(2022年)を通読してみると、山田さんが<先験的家族>、すなわち自分を形成してきた家族や身近なひとへの関係意識とそれを対自的に生きる時間性に、ふかくふかく表現の根拠をもっていたことに改めて気づかされた。

  「兄ちゃん車で父ちゃんと榊原温泉行くで、あんたは留守番しといてね」
  母にいわれてひとり夜を過ごしたのは十四の冬
  あれから四十年経ったが
  三人とも帰ってこない  
                             詩「ななくり」第一連

 作者が11歳のときに脳卒中で半身不随となり、それから20年苦悩の時間を生きて享年61で亡くなった父、生命保険会社の「モーレツ社員」として働き、子宮癌によって享年51という若さで亡くなった母、そして享年46で亡くなった兄、さらには同じく享年46で亡くなった無二の親友・・・。そうしたひとびとへの追憶がこの詩人自身の時間意識と一体的に表出されているのだった。
 また、作者が自ら形成した家族(妻、息子、娘との4人家族)を想う心情やともに暮らす日々の時間意識も、引っ越しを重ねたいくつかの土地の風景や過去に住んでいた家の構造への追想と一体化して、作品群の基調となっている。
 こう考えてみると、『孫の手詩集』の「親ばか」ならぬ「爺ばか」ぶりは、『家族の昭和』から『羽の音が告げたこと』までの創作意識へのある種の無意識的な反動であり、孫への惑溺を表現として放恣することによって、過去(つまり自分がそこに産まれた先験的家族)への追想(それは最早切なさすぎるから)を忘却する試みか、あるいは上塗りによって包み隠してしまおうとする試みなのかもしれないと思われてくる。

 高階さんの追悼文には、最後の闘病のなかで紡がれた山田さんの詩集『ヒル・トップ・ホスピタル』から、山田さんが自分の詩を「人生詩」だといっている部分が引用されている。
 ところで、前出の「対論」には、こんなやり取りが出てくる。

 細見:今これぐらいの世代で詩を書いている人で、実際に会って話をしてみたい、どういうふうに詩を考えていますか、といったことを聞きたいと思う、そういう人の一人。特徴のある書き方で、全部がある意味同じような作品世界の中で、出てきた連中に次の詩集では何かが起こっていて、それをまた詩に書いて、これは何か不思議で面白いと思います。
 山田:それは十年二十年前のことを書くのとは違うからね。でもこういう人が逆に、もっと若い頃何をしていたのか、学生時代どうだったのか、昭和レトロの小学生の頃にどういうことを感じていたのか、そういうこともまた書いてほしい。

 山田さん。
 高啓はこれまで「人生詩」などというものを書いたつもりはありませんし、これからも書こうとは思いません。・・・と言いたいところですが、これからじぶんの詩がどうなるのか自信がありません。
 そういえば、詩集『二十歳できみと出会ったら』に所収の詩「喪姉論」はどう読まれましたか。あれは「人生詩」ということになるのでしょうか。(なりませんよね。)
 高啓が「冥府船」でそちらへ運ばれていったら、〝ああ、これでじぶんの作品も所詮は「人生詩」と括られてしまうんだろうなぁ・・・〟などと落ち込んだ顔をしているかもしれません。そのときは、「人生詩で結構じゃないか」などと言ってちょっかいをかけてきてください。「あんな孫の詩を書くなんてどうにかしてますよ。」と言い返しますから。

 では、それまで暫し初対面のお預けです。  合掌。




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:09Comments(0)作品評

2023年01月26日

1957年の城南陸橋(山形市)




 高 啓が山形新聞の連載企画「ふるさとを詠う~山形の現代詩~」に寄稿した詩「濃霧論」(2022年12月8日号掲載)を読んだ読者から、手紙をいただきました。差出人は、山形市七日町にお住まいのHさんという方です。
 「濃霧論」は山形駅西口の一画について、そこが再開発される前の記憶を描いたものです。作者のコメントが記載されており、そこに「架け替えられる前の城南陸橋から北西方向、すぐ下に1軒の〝連れ込み宿〟があった。線路の東側から遮断機のない小さな(モグリの?)踏切を渡ってこの安宿にたどり着いた記憶がある。」と書かれていたので、Hさんが昭和32年(1957年)11月の「城南陸橋」の写真の紙コピーを同封して、この一画に関する彼の思い出を書き送ってくれたのでした。
 上の写真は「城南陸橋」から西側を写したもののようです。

 Hさんは昭和32年に17歳の高校生。学校からの帰りに霞城公園南門の付近によくたむろしていたそうです。南門には東側から遮断機のない小さな、あのモグリの踏切を渡って行ったとのこと。
 これに加えて、Hさんが山形大学の学生だった頃、花小路北の居酒屋「安愚楽」によく通って、昨年亡くなった女将の「せっちゃん」にとても世話になったという思い出も記されていました。
 「安愚楽」については、やはり「ふるさとを詠う~山形の現代詩~」に、詩「小路論」を寄稿しています。(2019年2月28日号掲載・この作品は詩集『二十歳できみと出会ったら』に所収。)

 Hさんは、昭和32年に17歳だったとおっしゃるので、今は82歳前後でしょうか。
 高 啓は昭和32年生まれです。
 この写真に写っている女性の髪形、なんと言うのか忘れてしまいましたが、じぶんの母(大正7年生・昭和59年没)もこんな髪型をしていました。
 そしてこのようによく割烹着を着ていました。




 この写真は「城南陸橋」の下から、山形駅方向を写したもののようです。
 線路がこの通りの右を通っているのか、左を通っているのか私にはわかりません。たぶん右かな。

 ついでに「安愚楽」について、忘れないうちにここに記しておきます。
 朝日新聞だったか山形新聞だったか忘れましたが、記者が書いた「せっちゃん」の追悼記事に、「安愚楽」という店の名前は学生たちが口にしていた「アングラ」から付けた、というようなことが書かれていましたが、高 啓は直接「せっちゃん」の口から、「安愚楽をかいて寛いで飲める店にしたかったから」というような話を聞いたことがあります。
 「安愚楽」を「アングラ」と言うようになったのは、高 啓もその一人であった「山大劇研」の学生たちが通うようになってからかもしれません。
 「アンダーグラウンド演劇」にひっかけて、「アングラ」と呼ぶようになったのかも。

 Hさんのご健勝を祈念します。


 



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:14Comments(0)作品評

2011年08月14日

「ぴあ」の終わり <東京>の終わり



 遅ればせながら、やはり「ぴあ」終刊について書き記しておきたいと思った。
 この雑誌には、多くの人がそうであるように、特別な想いがあったからである。

 7月に上京した折、新宿東口の紀伊国屋書店でその終刊号(8月4・18日合併号)を購入した。
 若い頃、この雑誌にはほんとうに世話になったのだが、購入するのは久しぶりだった。
 終刊号の内容に僅かばかりの期待を持って紙面を追ったが、準備の時間が足りなかったのか、その内容はつまらなかった。 表紙イラストの履歴の紹介に多くのページが費やされ、さらには編集部にこれまでどんなタレントが顔を出したかなどという内向きの話題に紙面を割いている。この雑誌の歴史的・文化的意義に関するまともな言及どころか、これまでの記録さえもろくに掲載されていない。これでは消えて当然だろう。
 たぶん、今の編集者たちはこの雑誌のとんでもない存在意義をよく認識していなかったのだろう。今後、過去の関係者も含めて、誰かに腰をすえた本格的なレトロスペクティブを試みてもらわなければならない。

 この雑誌の意義はどこにあったか、それを簡潔に指摘しているのがこの号に掲載された鴻上尚史の「『ぴあ』という奇跡」(同号116頁)という短文である。

 「『ぴあ』が実現したことは、すべてを等価にすることでした。」「有名劇団から先月旗揚げしたばかりの学生劇団まで、全ての公演が有名無名関係なく、1日から月末まで、ずらりと並んでいました。観客動員や広告代金によってスペースの大きさが変わることはありませんでした。」「1ヶ月という時間の中で、あの当時、僕たちは何度も映画や演劇のページを読み返しました。そして、『ぴあ』がなければ出会わなかった作品、興味を持たなかった作品、そもそも知りえなかった作品と、沢山アクセスできたのです。」「『ぴあ』が風穴を開け、流動化させ、視野を広げた文化と人間関係は、また、深く個別に分断化していくのかと、少し、淋しく思っているのです。」

 「有名劇団から先月旗揚げしたばかりの学生劇団まで、全ての公演が有名無名関係なく、1日から月末まで、ずらりと並んで」いるある時期の「ぴあ」を読み進んで、じぶんもたしかに興奮したものだった。すべての情報は紙面上で“等価”なものとして扱われており、それらの公演のどれにアクセスするかは、すべてじぶんの探索心にのみ懸かっていたからである。
 「夢の遊眠社」も「第三えろちか」も「木馬館」(浅草)も早稲田大学の学生劇団も、「ぴあ」に掲載された“すべて等価”な活字情報と出会うことで知った。
 そういえば、これらの現代演劇や大衆演劇の情報と並んで、各地を巡業する昭和のサーカスや当時はまだまだその筋の好事家の秘め事だったエスえむショーの情報も掲載されていた。
 また、たとえば自分は、演劇の公演や文学・思想関係の講演会を探すために「ぴあ」を購入したのだったが、その雑誌に載っている別ジャンルの、たとえば美術展や映画の自主上映等の情報にも目を通すようになって、同時代の文化や表現行為の動きを総体的な<文化的情況>と認識したり、あるいは個々の表現の営為を「マスイメージ」の多様な表出形態として受け取るというような受容の仕方をしていったようにも思える。

 その等価な活字情報に開示されるところの、文化のアナーキーな多様さと奥深さ、そしてその膨大な活字情報のなかに散らばる想像力の空隙(=可能性)こそが、じぶんにとっての<東京>だった。その<東京>における文化的体験は、じぶんの想像力をひどく刺激し、じぶんと情況との関係幻想を膨らませた。じぶんが辛うじて20代を生き抜くことができたのは、この文化的体験と自己の想像力に対する(今からみれば勘違いの)幻想のおかげであり、さらにこの50代まで生きて来れたのは、ある面ではたぶん30代前半くらいまで抱いていたこの文化的・情況的な<東京>との関係幻想の余韻のおかげではないかとさえ思う。

 鴻上が言うように、一時期の「ぴあ」が、文化情報に優劣をつけずそれら全てを等価なものとして掲載してきたこと。そして、その情報の単純な羅列が、読者に視野と関係性を拡げさせる契機となっていたこと。この二つの点は、少なからぬ者が指摘する点であろう。
 しかし、じぶんの記憶では「その一時期」というのは、1972年の創刊から、たぶん1980年代の半ばくらいまでだろうと思う。
「ぴあ」が掲載情報にかんするチケット販売(「チケットぴあ」開始は1984年)に乗り出した頃から、この等価性は失われ、それととともに掲載情報の魅力は激減していった。
 このことは、過去の「ぴあ」に当たった上で言っているのではなく、ただじぶんのあやふやな記憶にのみ拠っていることを断ったうえで述べるのだが、具体的にいえば「チケットぴあ」で扱う公演の割合の増加に反比例して、チケット販売の対象とならない例えば文学や思想関係の講演会などの情報が掲載されなくなっていった。
 じぶんの記憶では、1980年代の半ばまでは、「ぴあ」に掲載された催しにアクセスしたのは、すべてそこに記載されている主催者の電話番号に問合せるという方法によってだった。当時はすでにメジャーだった唐十郎の「状況劇場」の公演も、吉本隆明や埴谷雄高の講演会も、すべてそうだった。

 「ぴあ」最終号には、鴻上尚史と並んで野田秀樹が「大往生だね、『ぴあ』」という文を寄せている。
 野田は、「『ぴあ』によって権威のある批評家や新聞だけが『何がいい文化なのか』を決めるのではなくて、『文化の情報』を与えるので、そこから自分の目で見て耳で聞いて自分で判断してくれ、という時代がやってきた」が、それがポップカルチャーに「常に『消費される』という宿命」を与えたという。
 そして、「次第に主客転倒し、良いものが新しく見つかったので情報になるのではなく、新しければ良いものだということになり情報として流される。そして古くなると捨てられる、という大文化消費時代へと移行していったように思う」と述べている。

 野田は、この文を、「ぴあ」が「この異常な『文化を食いつぶす時代』」をよく生き延びたと褒め、「『情報を売る』ということを始めた雑誌の宿命だったのかもしれない」と結んでいる。
 じぶんはここに“このように自分を自分で食いつぶして休刊することが”「ぴあ」の宿命だったのだと、野田が「ぴあ」編集部に気を使ったがゆえに(?)記載していない言葉を付け加えておきたい。

 さて、この書き込みのタイトルにあるように、じぶんにとっては、ある時期の「ぴあ」こそが<東京>そのものだった。だから、じぶんのなかの<東京>は25年ほども前に終わっていた。
 「ぴあ」の終刊に、じぶんの関係幻想としての<東京>が完全に失われ、もはや二度と戻ってこないものであることを改めて思い知らされた。
 この文の結語で野田秀樹が言うように、やはり、“さよならだけが人生だ”なのである。  あっは。                                                                                                                                  



                                                                                                               
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Posted by 高 啓(こうひらく) at 17:21Comments(0)作品評

2011年06月26日

小熊英二著『1968』について



 <はじめに>

 2年ほど前の夏休み、息子の高校時代の友人である大学生が我が家にやってきた。
 かれはこのブログを読んでいて、“あの時代”についてじぶんに話を聴きたいと言うのである。
 酒を酌み交わしながらいくつか話をしたが、そのとき、「全共闘運動」については、うまく話すことができなかった。
 それで、「小熊英二の『1968』という本が出たね。あれを読んでみたらどうだろう。そのうちおれも読んでおくから。」などと話してお茶を濁したが、それからずいぶん時間が経過した。
 かれはもう社会人になっているからこのブログも卒業しているだろうが、なんだか宿題を仕残しているような想いがずっとしていたので、このことについてなにかかにかは述べておこうと思う。



 この著作は「1968年」に象徴される“あの時代”、全共闘運動から連合赤軍にいたる若者たちの叛乱を全体的に扱った「研究書」(著者が言うには「初」の研究書)である。
 上下巻で本文だけでも1,800ページを越える大著だが、工夫された構成と筆力、それに「研究書」の枠を越えた著者・小熊英二の「全共闘世代」への想いに、ついつい読了させられる。

 じぶんは1970年に中学生になった。小熊英二はじぶんより5歳ほど年下であるから、1969年には、じぶんは小学6年生で、小熊は1年生だったことになる。それはちょうど日本におけるベビーブーム世代である「団塊の世代」つまりは「全共闘世代」の中心部分からみて、10歳年下と15歳年下ということである。
 すると連合赤軍浅間山荘事件の1972年2月には、じぶんは中学3年生で、小熊は小学4年生・・・この著書のなかでも述べられているが、1960年代後半から70年代前半の日本社会は急速かつ激しく変化しており、とりわけ、若者の文化、風俗、思考、感性は、学年がひとつ違うだけで大きく異なる時代だった。だから、この5歳の年齢差は、“あの時代”のくぐり方において、たぶん決定的な違いをもたらしているのだろう。
 もっとも、初手からはっきり言明してしまえば、この「研究書」で結論付けられている“あの時代”の叛乱の意味、それをじぶんなりに一言でいえば、日本が高度資本主義すなわち大衆消費社会に移行する過程において、一部の若者が時代との摩擦や抵抗感を乗り越えるために引き起こしたカタルシス現象というミもフタもない話になってしまうが、それについて、今のじぶんはほとんど賛同する。
 そして「研究書」であるこの大著に、通奏低音のように流れている「全共闘世代」(とくに“全共闘運動以後”の当該世代)に対する冷ややかな呪詛の念についても、ほとんど共感する。

 けれどもなお、多くの点で相槌を打ってしまうこの書について、じぶんの位置からは、なお“ちょっと待てよ”という想いを禁じえない点も、これまた存在する。
 こうして考えてみると、じぶんは「全共闘世代」から10年近くも遅れて来ているのに、まるで「全共闘世代」とその世代を冷ややかに視ている「そのあとの世代」とに挟まれ、その双方の引力圏に囚われた一種のダブルバインドの世代だと思われてくる。
 これについては、じぶんが、高度経済成長の影響が数年遅れて波及した東北の田舎町で育ったという事情も多分に影響しているが、しかしなお、それだけでもないような気がする。
 だから、小熊英二著『1968』に言及するとき、じぶんはたんに「全共闘世代」を相手にするだけではなくて、「そのあとの世代」をも相手にしなくてはならないような気がしてくる。
 いや、むしろ、“相手にしなくてはならない”というよりも“相手にすることになってしまう”というべきだが、それにしたって、いまのじぶんにとって、これは少しく気の重いことなのである。
 上手く述べられる自信はないが、何かを述べておかなくては先へ進めないという想いに駆られる。小熊英二著『1968』の内容のうち、じぶんが共感しつつ、しかしまた同時にちょっと違うように感じたことについて、とりあえず二点だけ言及しておきたい。


1 「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性

 小熊英二の『1968』には、“あの時代”を解き明かすためのキーワードがいくつか埋め込まれている。そのひとつが、「現代的不幸」ということばである。
 同書の最終章である「結論」部には、次のようなことが述べられている。

 発展途上国型の社会から高度成長によって急速に高度資本主義の先進国型社会に日本が変貌しつつあったなかで、かの世代は「アイデンティティ・クライシスとリアリティの希薄化に悩み、『生きている』実感を持て」なかった。戦後の復興期に、野山や空き地を駆け回って育ったこの世代が直面したのは、高度経済成長の過程で引き起こされていた都市と農村の姿の急激な変貌であり、「資本主義体制」の高度化と「管理社会」の形成だったからである。
 そして、ベビーブーマーは「親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などのわかりやすい『近代的不幸』とは異なる、言語化しにくい(そして最後まで彼らが言語化できなかった)『現代的不幸』に直面した初の世代」となった。
 そんな世代にとって、「学生運動に飛びこみ、機動隊と衝突し、バリケード内で友と語りあうことは、連帯感や仲間を得ることと、自分のアイデンティティや生のリアリティを確認できることの両面で、大きな魅力」だった。

 また、このことと相即的に語られるのは、大学生の大衆化である。
 1963年には大学進学率が15%を越え、ベビーブーム世代が入学すると大学生が急増した。大学は施設整備も教員体制の整備も追いつかずマスプロ化し、一方で学費値上げがたびたび行われた。大学生はかつてのような「立身出世」を約束された存在ではなくなり、「末はしがないサラリーマン」という閉塞感が広がっていた。
 その一方で、当時の大学生は、戦後教育で受けた民主主義の理念と、“大学は真理探究の場”であるという旧来のイメージを抱いていた。この大学の実態と学生の想いのギャップが、大学闘争の発火を準備していた。
 小熊は、この事情について、歴史学がいう「モラル・エコノミー」という考え方を当てはめて語ってもいる。
 モラル・エコノミーとは、民衆がもつ秩序意識や規範意識のことで、暴動や叛乱は民衆の生活苦が極まった際に起こるよりも、社会が変動する過程にあって、民衆がもっている「あるべき秩序」の規範意識が破壊されたときに起こるものだという考え方である。
 この考え方を応用すれば、全共闘運動とは、ベビーブーム世代の「あるべき社会像」「あるべき大学像」というモラル・エコノミーを、現状の社会と大学が裏切っていると看做されたたための蜂起だと考えることができるというわけである。

 こうした「自分探し」のモチベーションが、政治闘争に向かうことになった理由については、ベトナム戦争や日米安保条約や公害等々の社会問題が起こっていたこと、さらには「地域コミュニティの連帯感が生きており、社会との一体感が埋め込まれていた」ことを挙げつつ、階級格差や貧困の方が大きな問題だった発展途上国型のパラダイム(社会変革が自己変革と同置されたパラダイム)と言説のなかで「『心』やアイデンティティの問題を考えるとすれば、どうしても『政治』の言葉で運動を起こすという形態しかなかったのだろうと思われる」と語る。
 また、かれらが主に直接行動に訴えたり、デモでスクラムを組むことを好んで行ったことの要因としては、かれらの幼少期には「相撲や押しくらまんじゅうなど、肉体的接触を伴う」遊びが行われていたり、家族が同じ部屋で寝起きしていたことからくる「身体感覚」を指摘してもいる。(じぶんなら、このことに、子ども時代の経験としていわゆる「ギャングエイジ」の行動様式を付け加える。)
 さらに、かの世代がマルクス主義に染まったことについては、このように言及される。
 発展途上国型の社会の変革に対応したパラダイムであるマルクス主義(の暴力革命論)を唱えた新左翼運動は、60年安保以降、経済成長の過程で支持を失い低迷していたが、いわゆる「疎外論」と「主体性」を掲げる人間主義的なマルクス主義が、「『心』の問題をあつかう言説資源が不足していた当時にあって、『疎外』をはじめとした『心』の問題を表現する媒体として復権した」のであると。


 さて、ここからはじぶんの見方を述べてみる。
 小熊の論では、「近代的不幸」と「現代的不幸」とが対比され、全共闘世代は層として後者を体験した日本初の世代だとされる。・・・まずここまでは了解する。
 しかし、「近代的不幸」と「現代的不幸」は、「1968」を挟んでそれほど裁然と区画できるものではないだろう。そもそも高度経済成長の影響(または恩恵)が、日本全域と各社会階層に、期を同じくして及んでいたわけではない。
 もちろん、小熊自身もこの二つを裁然と区画しているわけではなく、日大闘争について扱った部分では、日大闘争が日大経営陣の独裁的で暴力的な学内支配に対する抗議として、つまり「近代的不幸」と言ったほうがいいような状況に対する改善要求として始まったという趣旨のことを述べている。
 また、この著作には、当時の新左翼各党派の活動家の出身階層に関する調査報告が引用されているほか、全共闘運動に関わった学生たちが、幼少期の貧しい記憶を保持しつつ、経済難で進学できなかった同級生たちに対して罪悪感を抱いていたという記述もある。
 
 そのことを踏まえながら、それでもじぶんは、より強調して「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性を指摘しておきたい。
 高度経済成長による影響には、地域によって、また社会階層によって、もっとグラデーションがあった。時代は跛行的に進んでおり、自我意識の変化もまたそうだったのである。
 “あの時代”の叛乱を大雑把に把握しようとするときには、「『自我の世代』の自己確認運動」と呼んでもいいが、下層あるいは庶民層出身の学生たち、またはそれらの層の同級生たちと思春期までを共有した学生たち(とりわけ地方出身の学生たち)には、社会変革あるいは社会改良によって、「近代的不幸」をなんとかしなければならないという使命感というか、衝迫観念というか、そんな意識が、程度の差はあるにせよ個々人に埋め込まれていた。このことを『1968』はやや過少評価しているように思われる。
 これは冒頭に述べたように、じぶんとこの著者との5歳の年齢の開き、それに育った地域が異なることによる体験と認識の違いからくるものだろう。
 それは、たとえば天皇制と反天皇制をめぐる事情が、この大著の、少なくとも本文では一度もまともに考察されていないことに象徴的に現れている。みんなはもう忘れたような顔をしているが、「昭和」という時代には<天皇>という存在がいて、それは旧来社会の支配体制の<象徴>であった。つまり、あの時代には、まだそこかしこに“小天皇”が存在し、各領域に前近代的な社会関係が少なからず残存したのである。

 インテリ層が社会変革への意識をもつことを、文学の世界では長らく“知の自然過程”だと看做してきた。発展途上型の社会においては、<知>を身につけた者、つまりそれゆえに社会階層を上昇できる者は、被抑圧者の側に立って、その抑圧と闘うことが“自然”だった。1960年代から70年代半ばにかけての日本にも、まだその自然過程の残り火があった。
 もっとも、この自然過程というやつには、二つの側面がある。一つは倫理的な使命感であるが、もう一つは欲望、すなわち<自己権力>への意志である。小熊は、この二つ目の側面を等閑に付している。これが、じぶんが『1968』について言及しておきたいと思った二つ目の点である連合赤軍事件の位置づけへの異議にも繋がってくる。


2 全共闘世代の「二段階転向」論への評価と異議

 ちょっと違うなと感じたことの二つめは、小熊の言う「二段階転向論」に関連している。
 小熊は、ベビーブーム世代は「高度成長と大衆消費社会の果実への反発と魅惑のはざまで、引き裂かれていた」ために、「彼らが大衆消費社会に適応するには、自己の内部にあるそれに対抗する感性を排除する必要があった」として、その過程は二段階を経ることになったと言う。
 高度成長期以前に社会状態で幼少期の人格形成を行ったことと、「一人の一歩よりみんなの一歩」「我利我利亡者にはなるな」といった戦後の民主主義教育の価値観を身につけていた彼らは、全共闘運動の中で日本共産党=民青や進歩的とされた大学教員たちと対立する過程で、「戦後民主主義」を激しく批判し、革新政党や「進歩的文化人」(進歩的知識人)の欺瞞を暴きたてることで、自らの内部にあった戦後教育の理念を排除する。これが転向の第一段階である。
 だが、全共闘運動は「ではきみはどうするんだ!」という自己否定と倫理的なリゴリズムをともなうものであったため、大衆消費社会に反発する禁欲主義となって現象する。
 「この禁欲主義とリゴリズムを脱却するために必要だったのが、連合赤軍事件だった。連合赤軍事件の実態は、アジトの発覚を恐れた20人前後の非合法集団の幹部たちが、下部メンバーの逃亡や反乱を恐れて緊縛し死なせていたという小事件である。にもかかわらず、あの事件が戦後日本の歴史を語るうえで欠かせないものとなっているのは、この小さな事件に、叛乱する若者たちが過剰な意味づけを行ったからだった。」
 その意味付けは「全共闘や新左翼のリゴリズムや禁欲主義を徹底してゆけば、行きつく先は連合赤軍事件だ、というものだった。彼らはこうして、連合赤軍事件によってトラウマをあたえられるという形態をとって、自己の内部にあったリゴリズムや禁欲主義を排除し、『私』の欲望に忠実になることに成功した。」・・・これが転向の第二段階である
 そして、“あの時代”について、小熊は、「全共闘運動と連合赤軍事件がベビーブーム世代にとって大きなトラウマになって残っていることは、ある社会が発展途上国から先進国になる過程において、どれほどの精神的葛藤と代価を払わねばならなかったかを示している」としつつも、「全共闘運動や新左翼運動は、資本主義と高度成長に反発しながら、結果として日本の資本主義の進展を推し進める役割を果たした」と結論付ける。

 じぶんは、この総括の論理展開をそれなりにうまく構成されたものだと評価し、その結論については基本的に賛同する。
 なぜなら、ここに小熊ら「そのあとの世代」の、全共闘世代に対する率直な見方が表現されており、じぶんも大方はその心性を共有するからだ。
 全共闘世代が「転向」し、各分野で日本資本主義の高度化と大衆消費社会の進展を担ってきたことをじぶんも「遅れてきた世代」として目の当たりにしてきた。さら言えば、じぶんもまた同じように、アドレッセンスまでの自分のトラウマを脇において消費社会における生活を享受してきたからだ。(一時期まで、これはじつに快楽だった。)
 だが、そのうえであえてじぶんなりの見方を言えば、ここで述べられている「転向」の機制と連合赤軍事件の意味は、小熊の指摘するのとは少しく異なるものだと思う。

 じぶんがみるかぎり、全共闘世代の、いわゆる「転向」は、小熊の言う「二段階」の転向を必要としなかった。
 そもそも転向がどのような心的機制で起こるかといえば、それはまず自己意識と大衆の存在形態との乖離についての深刻な認知があり、それにひき続いて自己意識が大衆の存在形態から掬い取られることによって起こるのである。(ここでは「権力からの強制」という要素にはあえてふれない。)
 ありていにいえば、大衆の意識を変革して革命を起こすことを目指している自己意識が、体制的秩序のなかで生きる大衆の在りように、“ああ、こんな生き方のほうがまっとうなんだ”と浸潤されるということだ。この機制は、それ自体としては、自己の内部のリゴリズムや禁欲主義を排除するのに、連合赤軍事件を梃子にすることを必ずしも(というかほとんど)必要としない。
 また、彼らの「転向」を、小熊はもっぱら自らの内部の「禁欲主義の排除」と視ているが、彼らの「転向」には、逆に“欲望を捨てる”という諦念の側面があったように思われる。ここでいう「欲望」とは、むろん物質的消費への欲望ではない。あの<自己権力>の希求である。

 ひょっとして、じぶんがここで想定している全共闘世代の「転向」者と、小熊が想定している「転向」者は微妙に異なるのかもしれない。
 小熊はいわゆる「就職転向」者(大学4年生になったら運動から足を洗って就職する“いちご白書をもう一度”派とでもいうべき者たち)をも含めて論じているようだが、じぶんはその者が就職したかどうかに関わらず、もうすこし運動に深入りした人間を想定している。連合赤軍事件を深刻なトラウマとして捉える者たちは、内ゲバを含む全共闘運動やセクトの暗黒面(たとえば兵頭正俊の小説『全共闘記』に描かれた世界のような)を経験した者たちでもあるだろうと考えるからである。
ここで<自己権力>という欲望とその断念についてちゃんと述べなければならない段なのだろうが、今はその意欲が湧かない。連合赤軍事件については、先に若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程〜』http://ch05748.kitaguni.tv/e626432.htmlについての書込みでじぶんの見方を述べているので、ここではこれ以上は勘弁してもらうことにする。


 さて、ここからはそのほかの点について。

 小熊英二の『1968』は、新左翼運動の展望のなさ、無責任性そして倫理性の欠如について徹底した指摘を行っている。新左翼思想に影響を受けている者や憧憬を抱いている者には、この部分をよく読み込むことを勧めたい。
 いまの若者には想像できないだろうが、かつてこの国には、まっとうな知力と精神をもっている若者は左翼的になるのが当たり前だった時代があった。その時代の政治闘争がこのように矮小なものとしてしか語り継がれない。いや、このように矮小なものとして語り継ぐことに、この著者は「そのあとの世代」への意義を見出しているというべきだ。じぶんはこれをも評価する。
 著者は“あの時代”の叛乱が帰結したものとそのトラウマが、日本の社会運動を大きく停滞させていると指摘している。

 また、この書のキーワードのひとつとして「1970年パラダイム」ということばが登場する。
 「1970年パラダイム」とは、「マイノリティ差別や戦争責任への注目、アジアへの経済進出への批判、天皇制の問題化、公害や障害者問題などへの着目、『管理社会』への抵抗、リブとその延長としてのフェミニズムなど」をさす。
 これらは左翼の存在意義として、それまでの“<プロレタリアート>による革命”というパラダイムが失効したために、これに置き換えられたパラダイムである。
 このパラダイムが生成してくる過程についての総体的な論及は、この書を読む価値のひとつに数えられる。

 じぶんは、この書に論理展開や総括のためのいくつかの図式化とステロタイプ化を観るが、この種の著作には明確な指摘を行うためにダイナミックな論理展開が必要だいう考え方なので、これを是認する。
 この書は“あの時代”を考えるうえで決して外せない一書になっている。
 小熊英二にはよくやってくれたと感謝したい。              
                                                  (了)           
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:03Comments(0)作品評

2010年02月02日

吉野弘の詩 「I was born」 について




  このHPで、「山形詩人」68号その他と合わせて、同誌の同人である万里小路譲著『吉野弘 その転回視座の詩学』(書肆犀)の紹介をしようとして内容を読み進んでいたら、そこに収録されている吉野弘の詩「I was born 」について考えさせられたことがあったので、今回は、むしろそのことを中心に記しておきたい。(「山形詩人」等の紹介は、次回掲載。)

 万里小路は、吉野弘の詩作品を書かれた順番と作者の経歴に即して「転回視座の詩学」という観点から、吉野の詩作の流れを、主に次のように了解する。
  ?<労働者>から<詩を書く人>へ
  ?<否定>から<肯定>へ
  ?<緊縛性>から<開在性>へ   ・・・・の超出
 そして、「I was born 」については、「<私たちは、なぜ生まれるのか>という問いが作品の基底にあり、そしてそれに回答があるようには思われない。」と述べつつ、吉野弘の詩作品を<超出>というキーワードでとらえ、「実存とは、いまここから次のいまここへと超え出ることである。」というふうに、これを存在理由や実存を問う作品だと看做して語っている。
 じぶんは、吉野弘のよい読者ではないから、ここで万里小路の議論にまとまった対抗軸を提出する準備も意欲もないが、ただ、「I was born 」について、彼が述べるのとはちょっとちがった視方がありうるだろう・・・とは思った。


 英語を習い始めて間もない頃(思春期)の作者が、父親と歩いているとき、向こうから歩いてきた妊婦を見て、その腹の中の胎児を想像する。そして、<生まれる>ということが英語の構文では<受身>である訳をふと諒解し、その思いつきを父に語る。
すると父は、自分が思春期のときに抱いていた疑問を語ってみせるかのようにして、口が退化して餌も採れない姿で生まれ、2、3日で死んでいく蜉蝣の雌が、その体内にぎっしりと卵を充満させているという話をしたうえで、そして、作者に、母親がお前を生んですぐ死んだのだと知らせる。そこで少年は、「―ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体―」(最終行)というイメージを灼きつける。・・・これが「I was born 」の梗概だ。

 端的に行ってしまえば、「I was born 」という作品の勘どころは、思春期の少年が<生>=<性>に対して抱く慄きのリアルさにある。・・・それは、自分がなぜ存在しているのかというような哲学的な問い(いいかえれば実存的な問い)の悩ましさというよりも、ひとまずは、きわめて切ない命の感受であり、そして強くて醜い情欲的な震えのようなものだ。
 そして、その慄きは、すぐさま、「I was born 」という構文が隠蔽しているもの、すなわち「だれによって産まれたのか」という本質的な問いを抉り出す。それは、自分を産んだ存在=母への憧憬と畏れとに、少年を直面させる。その生々しさが、この作品の命だといえる。

 作者は、父の言葉を借りて、自分を産んですぐに死んだ母と自分を、蜉蝣とその体内の卵のイメージに仮託して、心に焼き付けた(ということにした)。
 しかし、名作といわれる作品「I was born 」の問題は、ここにある。ここには、要するに、作者によるレティサンス(故意の言い落し)があるのだ。

 命は、次ぎの(すなわち継ぎの)命を生み出すためだけに、“切なく”存在している。・・・もし、そう認識する(だけ)なら、たしかに「<私たちは、なぜ生まれるのか>という問いが作品の基底に」孕まれるということになるだろう。そして、だがしかし、その回答は、「あるようには思われない」どころか、問い自体の出所地に、すでに存在している。この問いを自ら問い、この問いに自ら答えた者は、むしろある意味ではすっきりするのであり、ひたすら原始仏教の、放浪する修行者のように歩めばいいだけだ。

 「I was born 」という構文をつぶやいた瞬間、この構文が隠蔽しているものが立ち上がってくる。それは母という存在だ。吉野弘の「I was born 」は、その母という存在を、きわめて肉感的で映像的に描いているようで、その実は、“棚上げ”している。
 蜉蝣の姿の想像によって焼き付けられたのは、母をふさいでいた「白い僕の肉体」であり、母それ自体の姿ではない。ここでは、母は、子=作者自身のためにだけ存在するものとして描かれている。
 いいかえれば、作者は、自らの出生に関する想像から、母の具体的イメージ(というよりも母の具体的イメージの欠損)を故意に言い落し、これを、次ぎの命を生み出すためだけに、“切なく”存在している命の普遍性へと“超出”させてみせた。ようするに、ひとつの、自らに対する“嘘”を鮮やかに演出したのである。

 たとえば、このじぶんにとって、吉野の「I was born 」に描かれた蜉蝣とその体内の卵のイメージに対応するものはなにか。
 じぶんにとっては、手術で摘出された母の胃袋に突き刺さっていた、エイリアンの卵のような形状の、鶏卵ほどもある高分化型のがん細胞こそが、それにあたる。
 ひとりの女に孕まれつつ、その親に寄生して増殖し、内側から侵襲して死に至らしめる存在こそが子のイメージであり、じぶんのイメージである。逆に言えば、ひとりの女が、自らの体内にいつしか発生させる“悪性新生物”こそが、子に他ならない。そのイメージは、具体的な体験に根ざすものであり、他のどんな形象にも仮託されない個別具体的な表象である。そして、その自己イメージは、明らかに“じぶんの母”というひとりの女の具体像を伴って成立している。
 「I was born 」は、こうした具体性を巧妙に隠蔽している。「I was born 」が名作なのは、それが自らに対する“嘘”を鮮やかに演出した作品だからである。


 さて、ここで、少しだけ万里小路の著作に戻ると、この著者は、吉野の作品を(吉野の作品だけではなく、彼が批評の対象とする大方の作品を、というべきかもしれないが)、ハイデッガーやサルトルやフッサールの観念の方から見ようとしている。
 しかし、「I was born 」の解釈について、どこかから範疇を借りて語るなら、実存主義や現象学よりも、むしろユングのいう元型(アーキタイプ)のひとつ、つまり<グレート・マザー>という概念を参考にした方がいいような気がする。
 元型とは、人間が普遍的に集合的無意識としてもっている固有のイメージであり、<グレート・マザー>は、その中のひとつで、まさに“偉大な母”というべきものである。
 しかし、この偉大な母には、子を産み、慈しんで育てるという側面と、子を束縛し、飲み込んで破滅させるという側面がある。
「I was born 」に描かれた蜉蝣の雌の姿は、まさに二重性としての<グレート・マザー>である。それは、子を産むために全存在をかける生きものだが、そのことで産まれてくる子に、たじろぐほかない宿命を、つまりはその子もまたさらなる子のためにのみ存在せよという、どうにもやり切れぬ破滅的な宿業を負わせる生きものでもあるのだ。
 「I was born 」は、まさにこの二重性への慄きを表白した作品と見なすことができる。

 おっと、しかし、われわれはこんな強迫観念にまともに囚われる要はない。
 われわれは、幸か不幸か、あらかじめ本能の壊れた生きものとして産み落とされるところの、次ぎの世代を産むためだけに存在することを、とうにやめてしまった種だからである。
                                                                                                                                                                                                     

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:03Comments(3)作品評

2009年08月16日

「山形詩人」第66号ほか




 最近、モンテディオ山形に関わることばかりで、『詩と批評』の名にそぐわない内容になっている。そこで、申し訳に、久しぶりに詩に関することを・・・・。

 8月20日付けで『山形詩人』第66号が発行された。
 高啓は、この号に詩「噛む男」を発表している。
 また、65号は欠稿したが、2009年2月発行の64号には、詩「逆さ蛍(その二)」を発表している。
 ついでに、じぶんの作品について紹介しておくと、2009年7月発行の『coto』第18号に、「似非ブログ欺罔日記(09年春雨篇)」という短い散文を寄稿している。
 (『山形詩人』は、バックナンバーを含めて手元に残部があるので、希望の方はこのブログの右側の「オーナーへのメッセージ」からメールでご連絡いただきたい。1冊500円。送料は当方負担。)





 このほか、贈呈された詩集などについて。

 築山登美夫 詩集『悪い神』(七月堂)。
 『coto』に寄稿している関係で、じぶんに贈呈いただいたものと思う。
 “フランス綴じ”というのか、ペーパーナイフで袋になった頁の横と下を切り離しながら読み進む綴り方である。
 詩から受ける印象は、いかにも60年代後半に青春を過ごした世代の作品だなぁという感じ。
 隠喩や換喩、そして呼び掛けの語彙が力とリズムをもっている。しかし、この詩集のことばたちがもっているリズムを、ペーパーナイフで切るという手間が損なっているような気がする。装丁自体としては素敵だが、内容とマッチしているかは疑問。
 









 長津功三良 詩集『飛ぶ』(コールサック社)
 都市銀行を退職して、山村生活を送りながら詩作に取り組んでいる作者の姿が、だいぶ直截的に描かれている。じぶんも退職したらこんな詩を書くのかなぁと思わないでもないが、たぶん、現役世代は、多少とも“いい気なものだなぁ”という感想を抱くだろう。
 我々以降の世代は、もはやこんな老後を想像できない。じぶんより若い現役世代に、じぶんのモチーフをどう伝えたらいいか・・・これは、仕事をリタイアした詩人にとって、普遍的な課題であるだろう。













 金太中 詩集『高麗晴れ』(思潮社)
 詩集をいただくまでお名前を存じ上げなかったが、北海道で会社を経営していた在日韓国人または在日朝鮮人の方のようである。
 歩んできた人生の奥行きを感じさせる作品たちである。
















 万里小路譲 詩集『マルティバース』(書肆犀)
 万里小路氏は『山形詩人』の同人。『山形詩人』には、もっぱら詩に関する批評文を寄稿し、詩作品は、自身が発行していた一枚誌『てん』や、『詩と思想』『詩学』などに寄稿してきた。それらの作品を纏めたものが、この詩集。
 「ユニバース」に対する「マルチバース」という詩の世界。たしかに多彩であり、この人は、毎晩のように机に向かって作品を創るのだろうな・・・そんなことを思わせる。ライトバース調の言葉遣いで、様々な事柄(読書や音楽)に反応するようにして作品が生み出されている。












 山本博堂 詩集『ボイシャキ・メラ』(書肆山田)
 これは、旅行記を詩にした作品集である。
 昔、選挙用のパンフレットや機関紙には、絶対に海外視察の話や写真を使うなと、古参の選挙参謀から教えられたのを思い出す。
 この手の話には、旅行した本人には観取できない厭味があるものだが、この詩集には、それほど感じない。この人が、“見て通り過ぎる”ということに習熟しているからだろうか。少なくても、詩という形式で書くということが、この人の場合は、その厭味を和らげ得ているとはいえるだろう。











 
 大場義宏 『「食わんにゃぐなれば、ホイドすれば宜いんだから!」考』(書肆山田)
  「わが黒田喜夫論ノート」と副題がつけられている。
  『山形詩人』に連載された黒田喜夫をめぐる文章の集大成としての426ページ。
 以前、真壁仁に関する高啓の論文に対して大場氏に論難を吹っかけられ、これに反論するために『山形詩人』に連載された同氏の文章を読んだが、黒田喜夫論といえる内容はほとんど存在しなかった。
 黒田が論争した相手や、自分が気に食わない相手を持ち出して、それにぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅ難癖を付けることで、黒田を論じたつもりになっている。なにより、黒田の詩が扱われていないのは、黒田論として決定的な欠落である。
 近代化されたこの社会を呪詛する前に、近代化される前のムラやイエを振り返ってみよと言いたい。この人は、私よりずいぶん年上だが、そのような世界で息をしてきたことがないのであろう。
 ちなみに、大場氏は、『山形詩人』第58号の高啓論文「他者非難によるデッサン法の不毛について」における反批判に対し、いまだに何の返答もしていない。               

 黒田喜夫の詩は、黒田自身の書いた散文の方向性だけで解釈されるべきではない。
                                                                                                                                                                   
 

                                                                                                                                                                                                                                       




  

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2008年02月24日

菊地隆三詩集『父・母』




 『山形詩人』同人である菊地隆三さんから、詩集『父・母』(2008年3月1日発行、書誌山田)が送られてきた。
 その日のうちに通読。とても哀切な印象を受けた。

 菊地氏は1932年、山形県河北町生まれ。
 前詩集『夕焼け小焼け』(2000年、書肆山田)で「丸山薫賞」を受賞している。
 合評会その他の際にご本人から聞いたところでは、東北大医学部を卒業後、山形県立中央病院に勤務。大学で当時は先進的な医療だった胃の内視鏡による検査技術を学び、県内の現場で実践、普及に尽力してきた。今は地元で病院を2軒経営している。
 余談だが、そういえば、霞城公園の山形市郷土館(旧済生館病院)に胃カメラがまだ鉄の棒(!)だったころの実物が展示されているが、当初はあんなものを患者に飲ませていたのだろうか?・・・菊地氏から、当時は検査する方もたいへんな労働だったと聞いたことがあるが。



 詩集のあとがき(のように掲げられた作品)には、こうある。

  正直 俺は 若い頃 自分の 才薄く 姿・形の無様さを 親のせいにして
  親を恨んだこともあった。 しかし 途中で 気付いた。 自分は 産まさ
  れたのではなく 俺が 親の命を借りて 好き勝手に この世に 飛び出し
  て来たのだと。 親が 俺を 選んだのでなく、 俺が 親を 選んだのだ
  と。 親は 一合体恒星で 俺は その廻りを くるくる 廻っている 小
  惑星に 過ぎない。(この頃 少々 目が廻るのは きっと そのせいだ)
  それにしても なんと 遠慮がちの 淡い光の 恒星だろう。もっと 威張っ
  て もっと もっと 光っていいのに・・・・ 元々 目立たない 大人しい夫
  婦だったから どうしようも ないのか。
  こんな親に対して 俺は この頃 無闇矢鱈に「父・恋し」「母・恋し」の思
  いに 陥ってしまっている。老いぼれの この年になって まるで 赤ん坊
  同然。ほんと 恥ずかしい。しかし 事実だから しょうがない。 (部分)


 ところで、以前、じぶんは菊地氏の作品について、このブログで次のように触れていた。

 <2007年3月18日「山形の詩を読む」>
  菊地隆三
   詩集『夕焼け小焼け』で丸山薫賞を受賞した詩人だが、今回は『山形詩人』54号に掲載された
  「こい歌」と同49号に掲載された「天の川」を取り上げた。
   おどけた軽妙な世界だが、幼い頃の哀しみが通奏低音のように流れている。子どもの頃、事情
  があって両親に甘えることができなかった。あの世でほんとうの父母に甘えてみたい。現実と願望
  の世界をつなげて、その世界で子どもが遊ぶような詩を書いている。だが、その裏側には自分の
  老いを通じて死に向き合う視線がある。詩作品としての凝結度が高い。


 だが、今回この詩集を読んで、もっともっと痛切な哀しみを感じた。
 収録作品には、父親が町役場で徴兵係をやっていたとか、貧乏人だったとかいう件(くだり)が出てくるのだが、こういう解釈は邪道かもしれないが、もしこの詩人が医者の家にもらわれっていった養子だったら・・・と想像してみる。
 すると・・・・、父に甘えたい、母に思いっきり抱っこしてもらいたい・・・・その、ヒトとしての原初的な欲求と、その欲求が永遠に叶えられないことへの、おそらくはヒトとしての最大の哀しみが、ここまで強烈に届いてくる。

   詩人は、「父」をつくり、「母」をつくる。
   だが、どうやってもそれは「淡い光の恒星」でしかない。
   だから、自分は産まれたのではなく、飛び出してきたのだ。そして、産みの親は(育ての親と同様に)自分が選んだのだ・・・・そう思うほかない。

   「父」「母」が目前に現れ、「父」「母」と交流する自分を延々と描いたこの詩集の作品群の、その最後に収録された作品は、だが、このように閉じられる。

   この先
   一人で行ける
   もう
   誰も
   付いて来るな

    来るなら
    一千萬年後
    一人で
    歩いて来い
  
   カンゲイする
             ――――作品「道―子等に」の最後の部分


  ひとはひとりで生まれ、一人で死んでいくものである。

  では、また。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:46Comments(0)作品評

2008年02月12日

『coto』第15号



 奈良の安田有さんから、『coto』第15号(2008年1月28日、キトラ文庫発行)が送られてきた。

 この号に、高啓は、詩「唯名論」を寄稿している。
   
 15号では、散文では、佐伯修「雲と残像―現代美術を媒介として その三」、安田有「死の作法」、詩では、築山登美夫「聖女よ、」、今村秀雄「赤い手袋」、安田有「遠くへ」などが印象的だった。

 佐伯氏の文章は、現代美術家・太田三郎の「シード・プロジェクト」に関するもの。
 植物の種子をそのまま和紙に封入し、文字やミシン目を入れて「切手」化した作品を、実際の切手とともに貼って、両方に消印を押した郵便を送るというプロジェクト。
 佐伯氏は、「このように『プロジェクト』全体として見ると、種子入りの『切手』は、あくまでも水面上に出た氷山の一部分であり、全体としては、『種子』というモチーフを用いながらする『存在証明』のパフォーマンスや、コミュニケーションの試み、『公』と『私』や生命の連続性についての問いかけなど、さまざまな課題がからみ合わさった企みであることが見えてくる。」と述べている。
 なお、佐伯氏はこの文章の後半で「プロジェクト」のバリエーションについても述べているが、これがじつに興味深い。

 安田氏の文章は、学生時代から親しくしていたTさんの、中小企業経営の行き詰まりからと思われる飛び降り自殺に触れ、現在における死について考えを廻らせるもの。
 そこで安田氏は、「なぜ人を殺してはいけないか」をめぐる山折哲雄や石川九楊の発言を踏まえ、ドストエフスキーやカミュの小説を渉り、自傷・多傷行為に「<無(死)>の衝動」を看て取りながら、やがて自らの生と死を見つめてこう言う。 
  「いま私は、どのような死も尊厳的でないものはないと思っている。私たち生者がそう思うならばである。 『人の死は人の尊厳である』と深く心に感じたならば、人は人を殺したりはしない。ここで<死>とは<いのち>のことである。」
  「やっぱりTさんの<死の作法>には反対だ。<いのち>は人倫を超えた<無償絶対>に属する。それに手をかけることは赦されない。」
  
 安田氏の詩にも、かれが還暦を迎えたということもあってか、自分の生と死を見つめる視線が色濃く翳を落としている。

 そういえば、高啓の「唯名論」にも、死のイメージが忍び込んでいる・・・。                                                                                                                             



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:01Comments(0)作品評

2007年09月19日

きょうは詩人8号

 
 伊藤啓子さんから、「きょうは詩人」8号(アトリエ夢人館)が送られてきた。
7人の同人(全員が女性のようだ)の作品と、各号でお題(この号は「占い」)をきめて各同人が寄せるエッセイが掲載されている。

 伊藤啓子「機屋の八月」、吉井淑「山吹」、鈴木芳子「公園で」、赤地ヒロ子「睦月」、小柳玲子「梅雨の家」と、7人のうち5人までが、死人または亡霊のようなものが訪れる詩を寄せている。
 この女性詩人たちは、幽玄のまどろみの世界に棲んでいるかのようだ。

 しかし、すいぶんと気が合うものだ。まさか詩までお題を決めていたわけではないだろう。
 ふと考えてしまったのだが、この人たちはなぜ女性だけの同人誌を発行しているのだろう。その理由はよくわかないが、このように女性たちだけの詩誌であることは、一定の水準を維持できればそれなりにインパクトをもつのかもしれない。
 それは、詩誌、つまりは詩作品がより注目を浴びるためのひとつの戦術でもあるだろう。
 しかし、ちょっと捻くれた見方をすれば、女が女の集団を売りものにしていると見られないこともない。微妙なところでもある。

 巻頭の伊藤啓子「機屋の八月」には、路地のところどころから聞こえてくる機織の音が描かれている。たぶん米沢市の米織(よねおり)の情景ではないかと思う。
 昔、米沢市に山形県立米沢高等技術専門校という職業能力開発校があって、そこに繊維工学科という名称の離転職者向けの職業訓練課程があったのを思い出す。たしか6ヶ月間で糸を紡ぐところから染色、そして機織りまでを実習する課程だった。
 地場産業である米織業界からの求人はほとんどなくなって、いまから十数年前に繊維工学科が廃止され、やがて米沢高等技術専門校自体も廃止されたが、この学科があるころは授業料無料で基礎から機織りが学べると、全国から入校生がやって来ていたものだ。再編合理化でまっさきに廃止されたのだったが、あの実習の風景が目に浮かぶ。
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:25Comments(0)作品評

2007年08月16日

『coto』第14号

 奈良の安田有さんから、『coto』第14号(2007年7月27日、キトラ文庫発行)が送られてきた。
 この号に、高啓は、詩「十歳になれば、おまえは」を寄稿している。
   
 『coto』は、エッセイや掌編や批評などの散文が比較的大きな割合を占める雑誌。
 14号では、佐伯修「雲と残像―現代美術を媒介として その二」、築山登美夫「白人の上陸―あるランボー論」、高山芝雄の掌編「海辺の叙景その後」などが印象的だった。

  佐伯氏の文章は、2006年9月に東京の広尾の画廊で見た現代美術家の太田三郎展についての批評である。
  太田三郎は、1950年山形県生まれ。鶴岡高専卒。(日本海岸の町で渡り職人の大工の息子だったというので、温海町の風景を思い起こす。たぶん温海町ー現在は鶴岡市と合併ーの出身ではないか?)

 山形県内の画廊でも個展を開催しているようだが、私はいままでこのひとを知らなかった。
 版画家である太田三郎の主要作品が、シベリア抑留中に亡くなった元満鉄調査部の山本幡男が家族に当てた遺書(一度紙に書かれた遺書を帰国する同胞たちが分担して暗記して記憶として持ち帰ったもの)を筆写したものだというのだが、佐伯氏が、なぜそれが太田の主要作品なのかを語る部分が面白い。
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:22Comments(0)作品評

2007年08月14日

『山形詩人』第58号



 (1)高啓の作品等について
  この号には、詩「初期詩篇1 ヨハンへの手紙」と、論争的な散文「他者非難によるデッサン法の不毛について」を寄稿している。
  前者は、22歳のときの作品。今回の発表に当たって部分的に手直ししているが、ほとんど原型を保っている。
  後者は『山形詩人』第57号に掲載された、大場義宏氏による「詩人としての真壁仁論デッサンの一試み−『日本の湿った風土について』のあたりで−」(これは東北芸術工科大学東北文化研究センター刊の『真壁仁研究』第7号に掲載された高啓の論文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」への論難である)を受けて、反応したもの。
  この文章には、『山形詩人』の編集者・高橋英司氏によって「反論」と冠がつけられたが、大場義宏氏の文章は空回りするばかりでそこに議論すべき内容が存在しないから、厳密に言えば、反論という性格の文章ではない。したがって、編集者が勝手につけた「反論」という冠に異和を感じる。
  この文章を寄稿した理由は、当該文章のなかでも述べているが、大場氏が高啓の論文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」を誤読・曲解し、かつは歪めて引用しているので、かかる火の粉を払う意味でも、『山形詩人』の読者でありながら『真壁仁研究』第7号を読む機会のない人々に、直接「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」を読んでいただけるよう案内したいと思ったからである。
  なお、このやり取りの行きがかり上もあって、従来の転向研究や吉本隆明の転向論に対する私の見方(評価と批判)を再度簡明に示した。

 (2)編集者・高橋英司氏による「後記58」について
  『山形詩人』の編集後記はいつも編集者の高橋英司氏が書いている。
  今回の冒頭部分を引用し、感想を述べる。
  「前号掲載の大場論考に対する高啓の反論を掲載した。同一誌面における同人間の論争・応酬と
  なるので、読者からは内部対立のように受け取られはしないかという懸念をもつ。表現者としての
  『あがすけ性』や詩と思想に関わりながら、真壁仁の歴史的評価についての微妙な問題を含むテ
  ーマであるので、さらに論争が進展したならば、読者からの投稿をも募る用意がある。ただし、大
  場論考は、誌面の都合上、一挙掲載とはならず、牛歩の歩みであるので、読者からの投稿掲載は
  年を越す。」

  まず、意味不明な点について。
  「同一誌面における同人間の論争・応酬」だと、なぜ「内部対立のように受け取られはしないかとい
  う懸念をもつ」のか。論争・応酬が「同一誌面」であること(同じ号に掲載されていること)になにか問
  題があるのか。
  べつにない、というか、読者にとっては見やすくて便利なばかりではないのか。
  (ここまではただの突っ込み・・・・)

  次に、異和感について。
   「同人間の論争・応酬」だと、「内部対立のように受け取られはしないかという懸念をもつ」という場
  合、まず大事なことは「内部対立」が何を意味しているかだ。
   ある論争や応酬が「対立」に見えるかどうかは、その内容を読んだ読者が判断することだ。
   ところで、今回のやり取りは明らかに大場氏による高啓への論難・罵倒の文章から始まっている
  し、それに対して高啓は「反論」で大場氏の不毛を指摘しているから、このやり取りを「対立」と看做
  されても仕方ないだろう。
   また、品の良くない悪口が書かれた「同人間の論争・応酬」を「対立」だと思われたくないなら、編
  集者としてそのような原稿を掲載しなければいいのである。
   もちろん、私は、この大場氏の文章は、迷妄と衰弱ゆえの放言とはいえ、ご本人の評価を下げる
  だけで、その悪質さはまだ可愛らしい程度だから掲載しても構わないと思うし、最初に一方の批判
  や論難を掲載した以上は、やり取りがある以上、とことんそれを掲載していくべきだと思う。
   そこで問題は、次に、その対立が議論のうえでの対立なのか、それとも同人誌を運営していく上
  での対立(たとえば「こんな奴とは同じ媒体に寄稿したくない」などという反目)に繋がるのかという
  ことになってくる。
   しかしこの点についても、すくなくても高啓の方は、このような論難を受けてうんざりしてはいる
  が、これによって『山形詩人』から抜けようなどとは思わない。
   そもそも「内部対立」というときの「内部」、そこでなんとなく含意されているかのような同人誌の共
  同性みたいなものについて、『山形詩人』にいてとくに感じたことはない。そこが『山形詩人』のいい
  ところなのだ。
   同人間の個人的な繋がりはあり、従ってそれが外部から見ればなんらかの「内部」性に見えるの
  は止むを得ないとして、同人の「誌」としての共同性みたいなものは高橋英司氏も意識していない
  のではないか。もしそうだとすれば、この書き方は読者に誤解を与えるだろう。
   また、読者に「内部対立」があると看做されたところで、たいしたことはない。
   逆に、その方が面白がってよく読んでくれるようになるような気がする。

   最後に、真壁仁をめぐる論争について。
    『山形詩人』におけるこのやり取りは、繰り返すが、同誌第57号に掲載された大場義宏「詩人と
   しての真壁仁論デッサンの一試み−『日本の湿った風土について』のあたりで−」が、高啓の論
   文「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」(『真壁仁研究』第7号掲載)を取り上げて論難し
   たことに始まっている。
    しかし、だが、大場義宏氏のこの不毛な論難の文章のモチーフはなにか。
    一言で言ってしまえば、土着的な村落共同体(ゲマインシャフトリッヒなもの)を否定されること
   に対する大場氏の苛立ち、そして不安からくる敵(近代的なゲゼルシャフトリッヒなるものの信奉
   者)の創出とその敵への攻撃による心理的な自己防衛である。
    このような大場氏のモチーフは、高啓が「ぼくらにとって<真壁仁>はどういう問題か」で行った
  真壁仁をめぐる考察、つまり同時代人として生きてきた山形の状況のなかに真壁仁を歴史的具象
  性として位置付け、戦後も繰り返された転向の意味を問い、人々が「進歩的地方文化人」としての
  真壁仁という像をどのように成立させてきたか、その機制を論理的に考察しようとしたモチーフと、
  そのままではけっして噛み合うことがないだろう。
   大場氏が誰かから仕掛けられるべき論争は、私たちの周りから見事に消失してしまった村落共
  同体的なものを表現の中心的価値に位置づけることにいまどのような意味があるのか、あるいは
  そこにこだわるということがいまどのような迷妄や病理を表現してしまっているのか、そのような議
  論ではないかと思う。(これは吉本隆明・黒田喜夫論争にも一脈通じる視角である。)
   逆に言えば、このような議論をする相手や機会がないから、大場氏はたまたま目に付いた高啓
  の発言(ゲマイシャフトリッヒがどうとか、大場氏が目の敵にしている吉本隆明がどうとか言ってい
  る高啓論文)に噛み付いているようにも見える。
   もし編集者たる高橋英司氏が、『山形詩人』誌上で真壁仁をめぐる論争の進展や深化のために
  「読者からの投稿をも募」ろうとするなら、大場氏による冗長な論難の文章とは一線を画し、つまり
  大場ルートは大場ルートとして確保しつつも、これとは別に「真壁仁検証ルート」ともいうべき議論
  の道筋や問題意識を定めたうえで、このように呼びかけるべきではないか。
   それは、『山形詩人』が『真壁仁研究』(7号で廃刊)が仕残した真壁仁の批判的検証を引き受け
  ることにもなるだろう。

   ※『山形詩人』の最新号(58号)及びバックナンバーを入手希望の方は、高啓にメールをくださ
    い。有料(頒価500円・送料無料)でお送りします。








  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 22:09Comments(0)作品評

2007年08月11日

詩&エッセイ『む』7号



 「詩工房」(芝春也)発行の『む』7号の、いとう柚子の詩「逝ったひとに」が印象的だった。
 
 「母」であり、「姉」であり、「はじめてみる女のひと」であった姉・・・。
 吹雪の朝は、その姉のマントにすっぽり包まれて学校へ送ってもらった。
 ふたりで子供部屋に駆け込んで笑いころげた。
 夕暮れ時に梨の木にもたれて「よその国へ行きたいと思わない?」と呟く姉にどきっとした。

 その歳の離れた姉を、作者は「わたしのあなた」という。
 姉が年老いて意識がなくなり「境界の人」となっても、「見られている/聞かれている それでよかった」という。
 そして、「五月の風にすいこまれていったあなたなどわたしのあなたではない」(最終行)と。

 作品をそのまま引用することは控えるが、その誘惑はつよい。
 とても瑞々しい感性の作品だ。
   

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:21Comments(0)作品評