2013年07月11日

大急ぎ サロベツ原野行(その1)






 早めの夏休みを取り、2年ぶりにJR東日本の「大人の休日倶楽部パス」(東日本・北海道5日間25,000円)を使って北海道を訪れた。その旅行記を掲載する。
 前回の北海道行は、2泊4日で山形と知床半島を往復する旅だったが、今回は3泊4日で稚内の宗谷岬まで往復する行程。宗谷本線の車窓からオホーツク海と利尻島を望み、日本最北のサロベツ原野を歩いてみたいという想いからである。
 計画は、1日目は山形から稚内へ直行して稚内の民宿泊、2日目に観光バスでノシャップ岬と宗谷岬を周り、サロベツ原野の湿原センターを観て原野の中の一軒家の宿「明日の城(じょう)」に宿泊、3日目は旭川の旭山動物園を観て札幌泊、そして4日目に山形へ直帰するという、前回2011年9月の「大急ぎ知床行」と同じく忙しない旅である。

 この旅の記録は、まずそのチケット確保の顛末から書き記さなければならない。
 前回、夜に山形を仙山線で出発し、青森発・札幌行の夜行急行「はまなす」の“カーペットシート”を利用したのだったが、じつは今回も初めはこれを利用しようとした。
 ただし、前回の教訓(ジジババが殺到する!)から、この特別割引パスの期間中に津軽海峡を渡ろうとする旅行者の数と青函を結ぶ列車の輸送力を鑑みると、チケット確保がさらに難しいだろうと考え、指定券が発売される1ヶ月前の日、発売時刻である午前10時の少し前に山形駅のみどりの窓口に並んだのだった。じぶんとしては、こんなふうにきっちりと1ヶ月前の発売時刻に並んでまでチケットを取ろうとするのは初めて。・・・さて、周りを見回すと、同じく大人の休日倶楽部パスで6回まで無料の指定券を取ろうと窓口に並んでいる個人やグループが複数見受けられたのだった。
 じぶんの後ろに並んでいた(1ヵ月後のチケットを購入するのではなさそうな)客の何人かに先を譲り、タイミングを見計らって10時1分くらいに窓口にかぶりつく。そして、「急行はまなすのカーペットシート、上の段があれば上の段をとってください」と注文した。
 ところが、窓口にいた職員は若い男性で、その胸に「実習中」というプレートを付けている。「はまなす」という列車の名称も聞いたことがないようだった。当然、タッチパネルを前に試行錯誤するが入力が叶わない。そこで、この実習生の指導係のこれまた若い男性職員が代わって取組むのだが、彼も手順がわからず、マニュアルらしき分厚いファイルを持ち出したり、先輩に聞いたりしながら対応する始末・・・やっと入力できたのは10時15分くらいで、時既に遅く、「カーペットシートの上の段」はもちろん、カーペットシートの全てが売り切れていたのだった。(が~~ん!)
 「大人の休日倶楽部パス」の販売期間の、それも「10時」という1秒を争う入力が必要な時刻に実習生を窓口に置いておく無神経ぶり。そしてその指導を一人前でない職員にさせているお粗末さ・・・それなのに、「全部塞がってますね」と何の痛痒も感じないような口ぶりをする職員に、「JR山形駅は何を考えているんだ!」と怒鳴りだしたい気持ちだったが、そこをぐぐっと堪え、「そりゃそうでしょう、入力に10分以上もかかっているんだから・・・」などとぶつぶつ言いながら、それでもその日は大人しく立ち去ったのだった。
 というのも、夜行急行「はまなす」の一般シートに座って青函トンネルを越え、さらに稚内まで連続して列車に乗っていくには気力・体力に自信がなく(というのも、前回2泊4日の知床行のあと、不覚にも生まれて初めて帯状疱疹になったのだったから)、やむなく翌朝の出発に切り替えることにしたのだった。
 そこで翌日の午後13時ころ、ふたたび山形駅の窓口に並び、今度は仙台発8:06の東北新幹線「はやぶさ1号」と、それに接続する新青森発10:16の「スーパー白鳥11号」の指定席を申し込んだ。ところが、返ってきた答えは「はやぶさ1号もスーパー白鳥11号もグリーン車以外は埋まっています」というものだった。(がが~~ん!)
 「はまなす」のカーペットシートは1両だけだから、この割引パスの有効期間であればあっという間に売り切れることも頷けたが、「はやぶさ」と「スーパー白鳥」の指定席はかなりの数になるはずである。これが昼までに売り切れたということは、旅行代理店(とりわけ「びゅう」)が大量に仕入れたのではないかと思わざるを得ない。
 やむを得ず、仙台発6:40の「はやて95号」を確保し、青森~函館の間は立ち席を覚悟することにしたのだった。ただし、この仙台発6:40に乗車するためには前日の列車で仙台に行く必要がある。じぶんはネット喫茶というものにどうもいいイメージがないし、長旅の前にマクドナルドで夜明かしするほど体力に自信もなかった。仕方なく、まずは仙台前泊も覚悟で、「はやぶさ1号」のキャンセル待ちをすることに決め、この日も意気消沈しつつみどりの窓口を後にしたのだった。

 さて、だが、この話にはまだ続きがある。
 大人の休日倶楽部パスを購入した際に渡された説明書き(「ご案内」)をよく読んでみると、「盛岡~新青森、盛岡~秋田相互間内は指定席をとらずに普通車の空席を利用できます。また仙台~盛岡間の途中駅に停車する「はやて」で同区間を相互に利用する場合も同様です。」と記されている。
  「盛岡~新青森、盛岡~秋田相互間内」の新幹線は全て指定席で自由席の設定はないのだが、「立ち席」ならこのパスでも乗れるというのだ。これは天の助けとばかりに、ちょうど用事があって立ち寄った天童駅のみどりの窓口で問い合わせてみることにした。というのも、ベテランみたいに見える年齢の男性職員がいたのだったから。
  「ここにこう書いてありますが、これはつまりこのパスがあれば指定が取れなくても乗れるということですか?」と尋ねたところ、しかしその職員はこの記載を初めて読んだ様子。どう扱ったらいいのかわからず、どこかに電話して問い合わせたのだった。・・・その結果、大人の休日倶楽部パスで、盛岡発8:46の「はやぶさ1号」(つまり先に取ろうとした仙台発8:06と同じ便)の「新幹線指定券(立ち席)」というチケットが発券されたのである。
 ところが、その窓口職員は、じぶんの大人の休日倶楽部パスに星印がすでに6つ付いており、つまりは仙台発6:40の「はやて95号」を含めて既に6枚の指定券が発行されていたことを見て取って、「これでは駄目です」というのだった。やむをえず、「はやて95号」をキャンセルするという形で立ち席券を受け取ったのだが、どうも釈然としない。立ち席券は“空いていたら座っていいよ”というチケットなのに、「指定券」扱いされるという点だ。もちろん、「はやぶさ1号」を利用すれば「はやて95号」は利用しないのだが、その分の指定券1枚分の権利は、べつのチケット、たとえば宗谷本線の帰りの特急サロベツの指定券などに活用する必要があったのだ。
 その場は仕方ないと引き下がったが、どうにも納得できないので山形駅のみどりの窓口に再度問い合わせた。すると、やはりこちらでも、この券を発券されれば、それは6枚の指定券の枠に含まれる、そしてこの券を発券されなければ、「はやぶさ」に乗車することはできないと言うのだ。
 たしかにチケットには「新幹線指定券(立ち席)」と記載されている。だが、上記の内容が大人の休日倶楽部パスの説明書きに記してあるということは、「新幹線指定券(立ち席)」を必要とせず、本体パスのみで乗車することができると(つまり本体パスだけで「やまびこ」などの自由席を利用できるのと同じように)解釈すべきではないだろうか。というか、大人の休日倶楽部パスの「ご案内1」から「ご案内2」へと読み進んでくると、そう解釈するのが自然な表記になっている。「指定席をとらずに普通車の空席を利用できます」という記載は、「指定券をとらずに」という意味に解釈するのが妥当だろう。このへんはJR東日本に改善を願いたいものである。

 しかし、まぁ、これでなんとか盛岡から「はやぶさ1号」を利用できることになった。盛岡までの連絡には「やまびこ」の自由席が利用できる。稚内まで5回の乗り換えが必要になったが、これで仙台前泊が回避できることになり、仙台までのチケット代と1泊分の宿泊代が節約できる・・・と、一応は喜んだのだった。(続く)  ※写真は旭山動物園のオオワシ
                                                                                                                                                               
 

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:19Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2012年08月14日

黒石市「こみせ通り」と「つゆやきそば」






  猛暑の夏に、十和田~弘前~盛岡と車で巡った旅の話の続き。

 十和田湖畔を発って弘前市を目指すが、途中で正午を迎えると、次第に連れの“腹ペコ病”が出てきた。これは腹が減ると早く何か食べることにばかり気がいって、イライラして怒りっぽくなってしまう状態を指す。お互いに腹ペコ病が出ると、口論する確率が上昇する(苦笑)
 弘前まではとてももたない。途中でなにか食べていこうということになり、ガイドブックを見て、黒石のB級グルメ「つゆやきそば」を試してみようかと相成った。

 じつは、腹ペコ病にならなくても、できれば黒石市(人口3万5千人)には立ち寄りたいと思っていたのだった。
ガイドブックで「こみせ通り」の存在を知り、その風情にじぶんの故郷の秋田県湯沢市の在りし日の記憶を重ねていたからである。
 昔ながらの雰囲気が残る黒石市の中心街に入り、「中町こみせ通り」を探して、またも炎天下にその界隈を歩く。
 まずは、腹ペコ病からの快復をと、「中町こみせ通り」の一画にある「すずのや」という「つゆやきそば」専門店に入る。すでに昼食の時間は過ぎていたが、小さな大衆食堂といった感じの店の中には、観光客と思しき客が2、3組入っていた。そこでじぶんは「つゆやきそば」を、連れは先客に出されたその丼を見て気が変わったのか、ただの「焼きソバ」を注文した。
 ここの焼きソバは、ウドンと言った方がよさそうな太い帯状の麺に、しっかりとソースを絡ませた一品である。味はまぁまぁだが、炎天下に捜し求めてまで食べに来るほどのものではないかもしれないと思う。
 で、問題の「つゆやきそば」は、この焼きソバを日本蕎麦の汁に入れたもの。和風ダシの味とソースの絡めてあるソバが、意外にもうまく味のハーモニーを奏でている。ただし、これは“食事”としていただくという感じではない。小腹が空いたとき“買い食い”するものという感じである。

 この店に「つゆやきそば」の発祥と、それを「B級グルメ」として再興した経緯について書かれたチラシがあった。するとやはり、もともとはある食堂が腹ペコ学生などの間食として、新聞紙に包んで売っていた焼きソバを、腹が膨れるようにソバの汁に入れて出したというのが始まりらしい。
 その食堂は無くなってしまったが、子どものころ口にした味に郷愁を覚えた人々が、名物を創ろうと意図的に復活させたのがいまの「黒石つゆやきそば」だということである。


 さて、腹ペコ病から解放されたところで、人通りのほとんどない黒石市の中心街「中町こみせ通り」を、汗を拭き拭き、まったりと見物して歩くことにした。
 「こみせ」というのは、通りに面した建物(商店や問屋や造り酒屋など)が、軒先を通り側に張り出させて、その庇の下を歩道として通行人が自由に利用できるようにした構造の謂いである。こみせと道路の境には軒を支える柱があるだけで固定された建具はないが、冬季は雪の吹込みを避けるため腰の高さくらいまでの板(「しとみ」)を入れる。
 黒石の中心市街地は、1600年代後半に「黒石津軽家」の初代領主・津軽信英(のぶふさ)によって新しく町割りされたという。こみせの建築年代は定かではないが、信英が町割りをしたときに作らせたと伝えられている。
 月曜日の日中、それも炎天下とはいえ、現存する「こみせ」が断続的に連なる「中町通り」は、“閑散”という言葉がまさにこういう状態をいうものだと思わせるほどひっそりとしている。通行人どころか車もほとんど通らない。街並みも、昭和30年代のまま時が止まったような時空だった。いや、時は確実に流れているのだから、少しずつ少しずつ朽ちていっている、のには違いないのだが。

 もっとも、この「中町こみせ通り」は、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、保存復元が行われているという。
 国の重要文化財「高橋家住宅」(1760年代建築、米・味噌・醤油・塩などを扱う商家)、「中村亀吉酒造」(大正2年創業。二階の軒先から大きな酒林が吊り下げられている)、「市消防団第三分団第三消防部屯所」(大正13年建築。現役としては日本で一番古い消防自動車が配備されている)、「(旧)松の湯」(銭湯だが、威厳ある建築)などの建物が目を引いた。
 しかし、もっとも印象的だったのは、どこの店先だったかよく覚えていないのだが、通りから何気なく店内を覗いた際に見た、その店の店員さんが自分の事務机で遅い昼食に出前のラーメンかなにかを食べている姿だった。これが、“あ、これが昭和の風景なんだよ~”という感じで絶妙だった。

 余計なことかもしれないが、ちょっと気になったことを述べると、まず、中通りからちょっと裏手に入ったところに土蔵があり、そこが公民館のホールみたいに使われているのだったが、この空間はもっと効果的に生かせそうな気がした。
 反対側では、中町通りに接する路地が、如何にも街づくりの補助金で作られたという感じの長屋(飲食店が入っている)と緑地に整備されている。町中の路地に緑地を作り、水の流れを引き込んでいるこの空間の雰囲気は悪くないが、緑地の中心に大きなモニュメント(地元出身の作曲家3人を顕彰した石碑)を設置しているのはいただけないし、造作の細部についてはせっかくのコンセプトを生かし切れていないという印象を受けた。
 また、「中町こみせ通り」とは言うものの、古い木造の建築物と、すでに現代風に(と言っても古いものだが)建て替えられている商店などの建物が混在しており、こみせが1ブロック途切れずに続いているというわけではない。だから、ここを訪れる観光客は、観光地として整備された古い街並みを見せられるというよりも、地元が維持と復元に取り組んでいる途中の姿(取り組んでいる本気度とか度合い)を見せられると言った方がいい。復元には国の補助金が使われたというが、その補助金は今後も継続して受け取れるのだろうか。・・・おそらく、今や国の補助金は途絶え、地元の自力で維持・復元に取り組まなければならなくなっているというのが現状ではないだろうか。
 困難は待ち受けているだろうけれど、行政も地元も、できることならこの通りの復元にもっと本腰を入れ、さらにはこの通りに隣接する中心市街地の商店や飲食店に特色を持たせ、かつは情報発信に意を砕いて、“昭和の街・黒石”を演出してほしいものだと思った。

 炎天下に一服したいと中心商店街を歩いたが、入りたくなるような店が見当たらないまま市役所まえの通りに立ち至ると、歩道の地面にガムテープなどで場所取りがしてある。この日の夕方から「黒石よされ」の流し踊りが出るので、それを目当ての出店が場所取りをしているのだった。
 この閑散とした街ももうすぐ祭りの人出で賑わうのだと思うと少しもの悲しさがまぎれるような気がしたが、この旅はいわばこの地方のあちこちで行われる“夏祭り”を避けて移動しているのであったから、次の目的地である弘前を目指してそそくさと黒石を出発したのだった。 (了)                                                                                                                                                                                                
                                                                                                                                  

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 13:24Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2012年08月13日

十和田湖畔の印象








 猛暑の夏に、十和田~弘前~盛岡と車で巡った旅の話。 
 さきに、青森県十和田市の十和田市現代美術館を見物したところと、岩手県盛岡市の岩手県立美術館を見物したところについてはこのブログに掲載したが、この旅の他の部分について、つまりは訪問した十和田湖畔及び青森県の黒石市と弘前市の印象について、まったりと述べておきたい。

 十和田市美術館を見物して、ミルマウンテンという喫茶店でお茶を飲んだところまでは前記のとおり。それから宿泊先の旅館を目指して十和田湖畔に向かった。

 十和田湖畔に通じる国道103号線は、奥入瀬渓流に沿って14キロほど走る。道路幅は狭く、その上空までほとんどを両側から張出す木々の枝葉で覆われており、まだ日が沈んでいないにもかかわらず、スモールライトやフォグランプを点灯して走行しなければならないほど、陽射しが遮られている区間も少なくない。
 奥入瀬渓流の風景は変化に富んでいて、車窓から視る緑の濃淡と清流の音に心を洗われる。あまりに魅了され、途中で路肩に停車して渓流の岸辺まで歩いたが、すぐに強力そうなブヨ軍団の襲撃を受け、ほうほうの体で車に戻った。綺麗な花には棘があるということか。

 曲がりくねった暗い道を抜けると、まるで海岸に出たかのように、午後遅くの斜光を受けて光り輝く十和田湖の展望が開けた。
 湖畔の道を休屋という地区まで快適に走る。休屋は、比較的大きな宿泊施設や土産物店、それに遊覧船の船着場がある十和田湖観光の中心地である。
 休屋地区には堰と言ったほうがいいような細い川が流れていて、その川で秋田県と青森県が区分される。じぶんたちが泊まったのは、秋田県側(小坂町)の「とわだこ賑山亭」という小さな温泉旅館である。(秋田県には位置するが、客室のテレビでは青森県の放送局の番組しか視られなかった。)
 旅館の印象は、まずまずリーズナブルというところ。夕食の料理は手間がかかったものではなかったが、1室2名の部屋食で、夏休み中の日曜日であるにもかかわらず、ひとり当たり1万円を切っていたのだから文句は言えない。(この旅館のウリは炉辺焼きのようだが、この宿泊料金では炉辺焼きコースとはならない。炉辺焼きが食べたいわけではないからこれでよかった。)
 風呂上りに旅館の隣の酒屋兼土産物屋で缶ビールを買って、歩き飲みしながら浴衣姿で湖畔の方に歩き出したのだが、これまたブヨの攻撃にタジタジとなって引き返してきた。奥入瀬にしても十和田湖にしても、じぶんのようにいい加減で能天気な態度では、美しい存在には近寄らせてもらえないということらしい。

 しかし、翌朝の晴天に恵まれた十和田湖は、眩しいほどに美しかった。あのブヨ攻撃もない。
 休屋の湖畔は、芝生と樹木できれいに整備されており、砂浜にもゴミ一つ落ちていなかった。
 ただ気になるのは、やはり閉鎖されている土産物店や飲食店や宿泊施設が目に付くことだった。そういえば月曜日とはいえ、夏休み中である。それにそろそろ東北の夏祭りの季節だというのに、湖畔は想いのほか閑散としている。
たまたま珈琲を飲みに入った店で、暇だったこともあり、店主とゆっくり話す時間を持てた。
 湖畔には、積雪で損傷した屋根が補修されていないホテルや、閉鎖されていることがはっきりわかるホテルが目に付いたが、それについてはこういうことだった。

 十和田湖は、風光明媚な国立公園として、かつては賑やかな観光地だった。しかし、次第に団体などの観光客が減少し、近年は中国など海外からの団体客でもっていた。
 ところが福島原発の事故のために、昨年は外国からの団体客がすべてキャンセルになり、この地区としては大きな規模のホテルが2件倒産した。
 これまで倒産したホテルの一部は外国資本などに買われているが、営業を再開できない施設もいくつかある。
また、ホテルの値下げも激しくなり、この地区でいま客に人気があるのはバイキング式で1泊6,800円のホテルくらいのもの。これも去年は1泊5,800円だった。
 夏休みといっても、お盆とねぶたの期間中(青森市内や弘前市内などに宿を取れない客が流れてくる)以外は、それほど混み合わなくなってしまった。まして、冬季には積雪のため湖畔の多くの店や宿泊施設が閉鎖される土地なので、先行きは厳しい。
 ここは旧十和田湖町で、平成の大合併で十和田市と合併したが、十和田市の市長は例の「官庁街通り」にばかり金をかけて、十和田湖畔には金をかけてくれない。観光地なんだから、自力でなんとかしろという理屈だ・・・。

 この店主の語り口が慨嘆調ではなく淡々としたものだったので、この話は余計に胸に沁みた。
 たしかに観光地「十和田・八幡平」は、じぶんの記憶の中にしっかりと刻まれていた。
 最初に訪れたのは小学校低学年の頃だったろうか、明治生まれの父親が従軍した旧軍隊の集まりが八幡平の旅館であったのに、母とじぶんも同行したのだったと思う。(父と旅行した記憶はこれだけである。このとき宿でみた夢のことをいまでも憶えている。)
 あるいは、子どものころ、町内会の旅行でも来たことがあったのかもしれない。その後は、就職してから、と言っても20数年前の話だが、このあたりの旅館で東北ブロックの会議があって、翌日の視察で湖畔を訪ねたのだったような気がする。もっとも、これらの記憶はもはや定かではない。
 十和田湖畔の印象は、十和田湖が広い分だけ、たとえば田沢湖などに比べて大味なものだったが、それでもこの休屋の賑わいは目映かった。
 そんな郷愁に浸りながら、「むかしは一流の観光地だったですよねぇ・・・」と言いそうになって、はっとして言葉を飲み込んだ。
 店主は「ここは国立公園なので、環境省の縛りが厳しくて、いろんなことが不自由です。でも、だからこそ自然が残っていて、こうしてかろうじて持っているのかもしれませんね。」と語った。


 まだ昼には早かったが、美しい休屋からの眺めを記憶に刻んで、湖畔を後にする。
 湖畔に沿って湖の東側を回る国道454号(秋田県側)を走って、そこから弘前を目指す。
 しかし、秋田県側に入ると、道路脇の崖崩れが修復されないまま片側通行となっている箇所が何箇所かあった。この道路を維持管理していくのはたしかに大変だと思うが、最低限の道路補修をしておかないと観光地としての印象は悪化してしまうだろう。
 途中、ガイドブックで紹介されている眺望を期待して峠の展望台に上ったが、その展望台も老朽化しているうえに、展望台の周りの木々が成長して視界が遮られている。この木々の枝が掃われていないのは環境省あるいは営林署の伐採許可が出ないからなのか、それとも維持管理が放棄されているからなのか・・・これでは、落陽の観光地という印象を抱かせるに充分ではないか、と、やや暗澹たる気分になりかけた。

 ・・・いや、ちょっと待てよ。これはこれでいいのかもしれない。これまでのような観光地としての快適さの質は維持できなくても、自然をなるべく切り刻まずに、たとえ朽ちていくものであろうとその風景を受入れ、風物に寄り添うようにその間を通り抜ける・・・過去とくらべて哀愁を禁じ得ないとしても、これが東北の目指すべき観光のあり方なのかもしれないと想った。
その考えを支持するぞ、とでも言いたげに、十和田湖の外輪山を後にする頃、突然、道路に野うさぎが飛び出してきた。 (了)




                                                                                                                        



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:55Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月19日

大急ぎ 知床行 (その4)



 【第4日(火)】

 「JRイン札幌」で7:00頃目覚めてテレビをつけると、JRの状況は昨夜と変わりなく、やはり午前中は運休となっていた。ホテルが提供する数種類のパンと飲み物の朝食を済ませて、9:00ころ札幌駅を訪れた。

 人だかりの改札口には地元テレビ局のカメラの砲列ができ、予定が狂った乗客たちの表情を狙っている。案内の職員は、飛行機に乗り換える客向けに空港行きの列車の発車時刻を連呼している。
 とりあえずみどりの窓口で、「今日中に、なるべく内地に近いところに行けるようにお願いしたいのですが・・・」と、所持していた札幌発9:19「急行北斗8号」と新青森16:28発「はやて174号」の指定席券を指し出すと、職員は「今日中に仙台まで行けますよ」と言って、札幌発12:22「特急スーパー北斗12号」と新青森発18:28「はやて180号」の指定席券に交換してくれた。
 テレビニュースで、道南は記録的大雨に見舞われたと聞いていたので、午後すぐに運転が再開されるとは思ってもみなかった。それに、運転が再開されたとしても、「大人の休日倶楽部」の割引パスの期間中で内地から道内を訪れている旅客が多い時期でもあり、すんなり今日の午後の列車のチケットが取れるとは思っていなかった。まぁ、自由席に立ってでも今日中に函館まで辿りつければいいかくらいに思っていたので、運転再開後の始発となる「特急スーパー北斗12号」に座って乗れることは幸運なことなのだった。

 思いがけず札幌で時間ができたので、構内のミスタードーナッツでコーヒーを飲みながらノートに旅の記録をつけ、大丸デパートが開店するとその地階で職場と自宅用の土産、それに昼用の弁当を買った。けれどこれではまだ不足なような気がして、駅構内の物産店で毛ガニ(2ハイで5,500円くらい)の発送を注文した。当初の予定通りの行程だったら、旅の土産など買う暇も買う気持ちもなかったはずである。

 ほんとうに運転が再開されるのか心配していたが、「特急スーパー北斗12号」は定時に札幌を出発してくれた。
 例によって、じぶんはうとうとしはじめ、室蘭本線の沿線の風景をほとんど憶えていない。
 長万部のあたりで一度目を開けたが、気づくともう大沼公園に差しかかっていた。列車はやや遅れを出している、それで青森行きの客は五稜郭で乗り換えるようにとのアナウンスがあった。
 じぶんの席の後方から、次で降りる準備をして合席だった乗客に別れの言葉を告げているかのような一人の老人の声が聞こえてきた。
 「関東はもうみんな放射能で汚染されてしまったから、あなた方はお嫁にいくとき、放射能の検査をしてもらって証明書を持って行くんですよ。」などと言っている。どんな人かと思って振り向くと、短パン姿に片方の手で杖をついた脂肪太りの80歳前後の男性だった。
 「関東の自分たちはもう放射能に汚染されてダメになってしまった」「お嫁にいく時は先生にちゃんと検査してもらいなさい」という趣旨のことを、嘆息とも自己卑下とも取れるような口調で、何度も独り言のように、だが辺りに聴かせたい様子で繰り返している。「テメエのような年寄りが放射能でどうこうなる訳ないだろ! バカなこと言って老害を撒き散らすな!」と怒鳴りつけてやりたい気持ちになった。

 ところで、3時間余りのこの車中には、午前中の便の突然の運転休止によって、代わりの列車の指定席券を入手できなかった「大人の休日倶楽部」の利用者と思しき利用者たち、つまり高齢者たちが、たくさん乗車していた。先のデブじじぃは座っていたが、デッキや通路には60代後半から70代の男女らが数人、札幌から函館まで立ったままで過ごしていた。
 内地に帰るために必ず乗車しなければならばない函館発・新青森行きの「特急スーパー白鳥40号」の指定席券は、じぶんも入手できなかった。そこで、自由席に座るために、北斗を降りたら急いで乗り換えなければと思っていたのだが、この函館まで立ったままだった高齢者たちを見て、函館からはじぶんは立つ方にまわろうと、殊勝にもそんなことを考えたのだった。
 五稜郭に停車すると、こんなに大勢の高齢者が乗車していたのかと驚くほどの群れが、先を争って下車し、運動会の荷物運び競争のようにして階段を上り始めた。
 杖をついている者も目に付くし、大きなスーツケースを抱えて必死の形相で駆け出す者も少なくない。じぶんは最初から座席を諦めていたから、この人たちと奪い合う気などなかったのだが、その迫力にそれでもタジタジとなる。
 “自由席は何号車だ?”と老人たちは気色ばんで探す。五稜郭駅のホームで、やや遅れた「特急スーパー北斗12号」を待っていた「特急スーパー白鳥40号」の車体には、号車番号も指定席車か自由席車かの表示もまったく掲げられていないのだった。駅員や車掌がホームで質問に答えはするものの、自由席車両を求めて必死の形相で駆けてきた大勢の高齢者たちは、軽いパニック状態に陥った。
 しかし、彼らが必死で求めた自由席は、すでに始発の函館で大方埋まっていたのだった。それもそのはず、指定席車両のいくつかは修学旅行の中学生の団体で占められていて、そもそもこの列車には一般乗客向けの座席が少ないのだった。
 こうして、じぶんを含め、杖をついた者まで含めて、デッキや自由席車両の通路には、ワゴンサービスが通行を自粛するほど多くの乗客が立つことになった。立ち乗りの客の一部は、指定席車両の通路にまで及んだ。座席を向かい合わせてカードゲームやおしゃべりに興じる中学生と、その通路に立つ中高年の乗客が対照的だった。
 2時間あまりとはいえ、高齢者にとっては辛い乗車となったのではないか。「大人の休日倶楽部」の割引パスの期間は、いわゆるオフシーズンの期間に設定されている。その期間を利用して、6回まで無料で指定席が取れるこのパスでのんびり北海道旅行をと考えた高齢者諸君にとっては、このアクシデントは堪えるのではないか。・・・そんな心配をしたのだったが、すぐにその心配を吹き払った。
 考えてみれば、彼らの時代は、夜行の急行列車であの硬い直角の座席に長時間座って旅をするのが当たり前だったのである。「急行おが」や「急行津軽」で、学生時代のじぶんも何度か経験した。混雑の時期は、すし詰めの通路に新聞紙を敷いてそこに座ったり寝たりして列車に揺られた。満員で通路が通れず、窓から下車したこともある。・・・そんな旅が当たり前だった時代を過ごしてきたジジ・ババたちは、今でも逞しいに違いない。
 そういえば、網走の弁当の売店では、独りで杖をついて旅をしている片側半身マヒの客も見かけた。まだ60代で、脳卒中の後遺症のようだった。売店のあの厳しい親爺に、ポリ袋に入った弁当が傾かないように持てと言われて、それにたどたどしい口調で、自分は片方の手しか効かず、その手で杖を持っている。その同じ手に弁当を持つから、傾いてもしょうがないだろうという趣旨の返答を返していたのだった。
 やれやれ、旅する老人恐るべし、である。




 じぶんは自由席にすし詰めで立たされるのを嫌って、修学旅行の中学生の団体客が占めている車両の内に入り、その一番出口のところに立っていた。目の前がちょうど引率教師の席で、その教師たちの言動が嫌でも耳目に入る。気づくとその車両のデッキにはノーネクタイだが背広の上着を着た旅行会社の添乗員が立っている。新青森が近づくと、かれらは大きなバッグをいくつも持って降りようとする。どうもそれらのバックは引率教師たちのもののようだ。
 それに、たぶん添乗員の指定席は確保されていないようなのだ。かれらは、自由席に空席がないときは、いつもこうして何時間も立って添乗しているのだろう。それにくらべて、引率の教師たちは、添乗員に自分の荷物を持たせるのが当たり前だとでもいうようにふんぞり返っている。
 ずいぶん昔のことになるが、ある全国イベントの準備業務で旅行代理店の職員と一緒に1年ほど仕事をしていたことがあって、そのときに彼から旅行業者や観光業界の裏話をいろいろ聴かされた。その話のなかに、修学旅行が旅行代理店の業績にとってどれほど重要か、それを受注するために教師をどう接待するかなどの話があったことを思い出していた。

 立って揺られるまま、山形から持参したロシアの現代小説家ヴィクトル・ペレーヴィンの短編小説集『寝台特急 黄色い矢』(群像社)を、この旅ではじめて紐解いた。これはこの本の訳者の一人である中村唯史氏から頂戴したものだった。
 そうこうしているうちに列車は新青森に着き、そこから「はやて180号」に乗ると、なんだかほっとした。例によって、山形から持参した最後の「じゃがりこ」をつまみに500mlの缶ビールであっという間にうとうとし、気がつくと20:40仙台着。
ここで仙山線に乗り換えるのが、「大人の休日倶楽部」流ということなのだろうが、ここでは1時間の時間節約のために、仙台駅前からの高速バスを選択する。
 そして、バスは22時ころ、無事、山交ビルに到着。
 当初の計画では、仙山線経由で山形駅到着を20:56としていたから、大雨による運休の影響は、札幌を発つのが3時間遅れたにも関わらず、僅かに1時間遅れの帰形というかたちで、目出度く収まってくれたことになる。

 じぶんの場合、旅の目的も旅の意味も、その旅の途中では解らない。格別に用事のない一人旅のときはいつも、目的地に行って帰る、そのことだけに夢中で、あとのことは考えていないような気がする。この知床行もそんな旅だった。
けれどまた、1970年代に当時は光り輝いていた北海道のイメージに憧れたようにではなくて、まったく別の視点から北海道の各地をもっともっと丁寧に見て歩きたいと思うようになった。
 この記事を書いた当日、これまで遺書らしきものを残して失踪していたJR北海道の社長の遺体が、小樽の海で見つかったことが報じられた。様々な困難を抱えているであろうJR北海道の奮闘を願いつつ、「大人の休日倶楽部」割引パス(23,000円)に感謝して、この記を閉じることにする。 (了)
                                                                                                                                                                                                                         


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 02:47Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月17日

大急ぎ 知床行 (その3)



 【第3日(月)】

 この日もまた大急ぎの行程を組んでいた。
 6:30ころ起床。7:00に宿舎の広間で、地元産の温野菜(ジャガイモとニンジンとブロッコリー)が中心の朝食。普段は食パン1枚に牛乳1杯の朝食だが、箸が進んでご飯を2膳いただく。
 それから、カウンターでウトロ温泉バスターミナルまでの送迎を頼むと、職員が「今日は船に乗るんですよね? この天気なので、今日は条件付運航になりますよ。」と話かけてきた。
 この日は、「ゴジラ岩観光」という会社の観光遊覧船に乗って、知床半島を海から見物する予定だった。「条件付運航」というのは、海が荒れそうな場合、船長の判断で予定のコースの途中でも引き返すこと、そしてそれを了承した者だけを乗船させるという意味だった。
 紀伊半島などに大きな被害を与えた台風12号が北海道に近づき、前の晩から風雨が始まっていた。危険だと判断されたら引き返すことは当然了解の上だった。
 なにしろ、じぶんは船酔いがひどく怖い人間である。これまで厳冬期の荒れた津軽海峡を何度も青函連絡船で渡ったり、石垣島から西表島まで東シナ海のうねる海原を小さな連絡船で往復したり、釣り船で沖に出て釣りをしたりしたことなどはあり、それでもゲーゲー吐くほど気分が悪くなった経験はないのだが、何故かひどく船酔い恐怖症なのだ。
 それで、知床半島の突端までいく3時間のコース、ヒグマを観察する2時間のコース、途中の硫黄山まで往復する1時間のコースという3つのうち、一番短時間の硫黄山コース(3,000円)に申し込んでいたというわけである。

 「国民宿舎・桂田」の送迎で、10時前には「ゴジラ岩観光」の事務所に到着した。
 10:30の出航時間まで、事務所のなかに置かれていた知床の海洋生物の写真集を見た。写真家の名前は記憶しなかったが、これが素晴しい写真集で、この北の海がこんなに豊かなのかと驚かされた。どうりでこの知床が、世界遺産としてその半島の沿岸の海の区域を含めて認定されているわけである。
 観光客たちが窓口でレンタルの雨具を借りるのを尻目に、じぶんは持参したゴアテックスの登山用雨具を着用して、登山用のツバのついた帽子を被った。
 時間が来ると、この便の乗客30数人は事務所の職員の先導ですぐ近くのウトロ港まで歩かされる。その途中にそそり立つのが、まさにゴジラそっくりの「ゴジラ岩」である。

 台風が接近する状況だったが、以外にも海は凪いでいた。雨も弱かった。
 半島の岩壁の変化に富んだ造形と、そこから流れる「フレペの滝」「湯の華の滝」「カムイワッカの滝」など岩肌から流れ落ちる滝を観ながら、最果ての自然景観の一端を垣間見た。
 意外だったのは漁業用の網の仕掛けと思われるブイが沿岸のあちこちに浮いていたことだった。
 環境省のHPで知床国立公園の区域図を見ると、沿岸の海域は国立公園の普通地域になっている。世界遺産の地で、自然保護と漁業の調整はうまくいっているのか・・・そんなことを考えながら、潮風に吹かれていた。
 この生憎の天気で、半島の中心部に連なる硫黄山など知床の山々の姿は見られなかったが、むしろこのように昏い半島の表情こそがこの風光の表象として(あるいはこの地に関する自分の記憶として)相応しいような気がした。
 下船すると時刻は11:30を回っていた。
 ウトロ温泉街の中心の信号機からバスターミナルの方向へ歩き出し、すぐ近くの「ボンズホーム」という店で昼食をとることにした。いくつかのガイドブックに紹介されているジャガイモのグラタンの店である。甘いジャガイモを「栗じゃが芋」と名づけて販売している。
 じぶんはジャガイモがそれほど好物ではないので、カレーにした。味は良かったが、ご飯にカレーがあっさりしかかかっていない。この店の主人が「ボンさん」という渾名らしい。カウンターには、客に心情移入することがなさそうな感じがして、そこが“美人”にみえる魅力的な奥さんがいる。
 珈琲をゆっくり味わいたいところだったが、注文の品が出てくるのが遅くて、バスの発車時刻が迫ってきた。この日のうちに札幌まで戻る予定だったが、急に思い立って知床五湖に立ち寄ることにしたのだ。大急ぎで珈琲を流し込んで、バスターミナルに向かう。
 知床五湖行きのバスは12:30発だった。バスはプユニ岬の上り坂をぜいぜいと越えて、25分ほどで知床五湖に着いた。




 知床五湖フィールドハウスの駐車場には、観光バスの団体客が大勢押しかけている。雨は本降りになり、横殴りの風も吹いてきたが、団体の観光客たちは傘や携帯のビニール合羽程度の井出達で、ずぶ濡れになりながらバスガイドや添乗員に引率されて高架木道を歩いていく。
 じぶんは14:00のバスでトンボ返りしなければならない。それで、レクチャーを受けてからでないと入れない地上歩道の散策は断念し、観光客に混じって無料で誰でも自由に入れる高架木道を歩き始めた。狭い歩道を帰ってくる観光客(彼らは風雨に向けて傘をさしているので前方を見ていない)を避けるのに神経を使いながら、それでも800mほど高架木道の先端まで歩いた。
 高架木道の外側には、ちょうど“ネズミ返し”のような塩梅にヒグマ避けの電線が張られている。木造の高架橋ではあるが、いかにも頑丈な造りで、ハイヒールでも車椅子でも歩けるように設えられている。年間約50万人が訪れるという観光地だそうだから、こんな施設も必要にはなるだろう。(「知床五湖」利用のルールについてはhttp://www.goko.go.jp/rule.htmlを参照のこと)
 自然保護と観光とのバランス、それにヒグマ出没の危険(というよりもヒグマ出没による「立入り禁止」措置の危険か)を考えて、いろいろ知恵を絞ったところだろうが、その議論の過程は「知床五湖利用のあり方協議会」のサイトhttp://dc.shiretoko-whc.com/meeting/5ko.htmlで垣間見ることができる。
 「世界自然遺産」というネームバリューを得たのだから、多くの観光客を招いて経済効果を得ようとするのはわかる。しかし、訪ねてみるとまさにカッコつきの観光地“過ぎる”印象ではある。
 上記の協議会も、自然保護団体や自然保護の専門家や学識経験者の参加がなく、もっぱら利用者・観光業者の立場のメンバーによる構成である。もし山形県でこの種の協議会を立ち上げることになったら、こんなメンバー構成では通用しないだろう。
 この方策を支持できるとしたら、観光客を「知床五湖」で堰き止めて、これより深い場所に入れないようにすることと、ここであがる収入を自然保護に効果的に活用することが条件になると思われる。
 なお、参考まで、月山山麓のブナの森にある山形県立自然博物園の場合は、歩道への踏圧や周囲への影響を考えて、年間の入場者数を3万人程度に抑えていたと思う。
 
 さて、この旅では交通機関の乗継の心配が頭から離れない。焦る気持ちを抑えながら14:00知床五湖発、15:10斜里バスターミナル着のバスに飛び乗った。知床斜里駅を15:20に発つ列車に乗らないと、今日中に札幌に着くことはできなくなるのだ。
 バスはウトロ温泉バスターミナルから何人かの高齢者を乗せ、彼らを「オシンコシンの滝」のバス停で下ろした。高齢者たちの動作は遅く、しかも観光気分でのんびりと行動しているので、10分しか乗り継ぎ時間がないことが気になってくる。斜里からウトロに来るときは極めて順調に走って50分だった。だがこの調子では、50分で戻れるか危うい。途中でさらに乗降客がいたり、ちょっとでも通行障害があったりすると、15:20発の列車に間に合わないのだ。
 だが、結果的にはここでもうまく乗り継ぐことができた。バスは例によって朱円の一本道を順調に走り、定刻に数分ほどの余裕をもって斜里駅前のバスターミナルに到着した。それに列車も斜里駅発のようだった。北海道はさすがに観光立国だわ・・・と、札幌弁風にこのときは思った。
 



 釧網本線の普通列車は、右手にオホーツク海を見ながらたんたんと走る。だが、車窓には廃屋が目立つ。左手の牧草地ではサラブレッドが草を食んでいるが、期待していた清水原生花園は雨で霞み、季節外れなのか花たちの姿を見つけることはできない。
 ザックから例の「初孫」紙パックを取り出し、コップに半分ほど注いだ酒をちびりながら薄暗い雨の海を眺めている。冬にはこの区間に「流氷ノロッコ号」が走るのだろう。鱒浦から網走港にかかるあたりで、この旅で初めて“旅情”というようなものが腹の底から微かに湧いてくるのを感じた。
 こうして列車は16:07に網走駅に到着した。17:18網走発の「特急オホーツク8号」までの待ち時間にどこかでビールでも引っかけようかと駅前を眺めたが、駅前にはただ線路と平行な道路が一本通っているだけで、ビルやホテルはあるが、飲食店どころか商店の看板の影さえ見えない。仕方なく駅の待合室で「なでしこジャパン」のオリンピック予選である北朝鮮戦の前半を観戦。そして、そこにあった売店から駅弁の「シャケいくら弁当」(1,150円)を買い込み、「特急オホーツク」の中で早めの夕食とすることにした。
 売店の親爺は怒っているように見えるほどハキハキと喋る人で、注文を取ってから駅の外にある厨房に携帯から連絡を入れて弁当を作らせ、それを発車時刻まで届けさせるのだった。あの「ボンズホーム」のママとこの売店の親爺の風貌は、なぜか旅の印象に残っている。
 ところで、この「シャケいくら弁当」だが、開けてみるとシャケの解し身がたっぷりで、中央にイクラも少なからず盛り込まれていた。それで見た目は感激するのだが、食べ始めると極めて塩っぱい。この塩っぱさは半端でなく、途中で日本酒の肴にと気分を切り替えたのではあるが、それでも食べているうちに気持ち悪くなるほどだった。
 車窓はすっかり暗くなっている。「特急オホーツク」は、石北本線を順調に走る・・・かのように思われた瞬間、真っ暗な区間に突然停車した。車内アナウンスでは、「エゾシカに追突しました」という。
 しばらく停車し、その後、客車の通路を車掌がはぁはぁ言いながら走っていってから、やがて列車は走り始めた。

 片山虎之介著『ゆったり鉄道の旅(1)北海道』(2006年・山と渓谷社)から引用してみたい。

 「もうひとつ、石北本線で忘れてならないのは定紋トンネルのことだ。北海道の鉄道は、石北本線に限らず、その敷設工事に多くの犠牲者が出ている。特に悲惨なのは、『タコ』と呼ばれた労働者たちだ。都会など他地域からほとんど騙されるようにして工事現場に連れてこられた労働者たちは、タコ部屋と呼ばれた監獄同然の部屋に押し込まれ、囚人に等しい監視を受けながら強制的に働かされた。過酷な労働に虚弱な者は落命し、脱走を企てたもの(ママ)は捕らえられ、見せしめのために撲殺されたという。激動の時代だったとはいえ、悲しい歴史だ。昭和45年に生田原―金華間にある定紋トンネルで、レンガで覆われた内壁の中から、人柱にされたと思われる人骨が発見された。」

 ここでは激動の時代としか言っていないが、ウィキペディアによれば、このトンネルが開通したのは1914年(大正3年)という。
 こんなことも知らず、じぶんはひたすら今夜中にこの列車が札幌駅に滑り込んでくれることを願っていた。

 さて、22:38札幌着予定の「特急オホーツク8号」は、いくらか遅れつつもとにかく無事に札幌に辿りついてくれた。これまで人口密度の薄いところばかりを通ってきたからか、深夜の札幌駅の人混みと光量は格別で、ずいぶんと違う世界に出てきたような感じがした。この落差が北海道の困難さを表わしてもいるのだが。
 まっすぐに、予約していた駅近くの超豪華!ホテル「JRイン札幌」(7,000円)にチェックインし、とりあえずシャワーを浴びると、テレビで台風による大雨のニュースが流れた。そしてテロップで「午前中運休 函館本線・・・・」との表示が流れたのである。(が〜〜ん)
 明日中に山形に帰りつくために、9:19札幌発の「特急北斗8号」、13:56函館発の「特急スーパー白鳥34号」を乗り継いで内地に戻り、16:28新青森発の「はやて174号」で19:37に仙台まで辿りつく計画だったのである。
 とにかく詳しい情報を得て、できるなら今夜中に、明日少しでも山形に近づく列車の切符を手に入れたいと思い、ホテルを出て札幌駅に向かった。時刻はすでに0時を回っていた。
 すると、隣接する大丸デパートや駅ビルの出入り口と共通の札幌駅の入口はすでに全て施錠されていて、中の広い通路にも駅員の人影さえ見えないのだった。つい先ほど降りたった駅とはまったく別の表情で、扉にお知らせの張り紙もなく、大雨による足止め客の問合せを拒否している冷たい駅がそこにあった。JR東日本なら、大都市の駅で乗客にこんな扱いをすることはちょっと考えられない。
 致し方なく小雨の中を歩いて帰った。深夜営業の居酒屋はまだ開いていたが、明日新たに帰形の方途を見出さなければならないことを考えると入る気にならない。じつは上司に「遠くまで行くので、交通機関の関係でひょっとしたら水曜日も休みをいただくかもしれません」と断ってはきていた。だが、職場やじぶんの仕事の状況を考えると、3日連続で休みを取ることは柄にも無く憚られていたのである。
 ホテルの向いのコンビニでビールを1缶(これもサッポロクラッシック)とサラダを買い求め、部屋のテレビで「なでしこジャパン」の試合結果を観つつ、ススキノの眩さを思い浮かべながら札幌の夜を過ごしたのだった。(つづく)
                                                                                                                                                                           
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:25Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年09月11日

大急ぎ 知床行 (その2)



【 第2日(日) 】

 5:24着の「急行はまなす」から南千歳駅に降り立った旅客は、10人ほどだった。もちろんほとんどが石勝線への乗換え客である。
 南千歳駅はいかにも新興地の駅という造りで風情などないが、窓から見える周囲が閑散としていて、雨の朝の興ざめな雰囲気を助長している。
 次の乗車が7:33なので、待ち合わせの時間が2時間余りある。それまで朝飯をと辺りを探すが、この時間では当然売店は開いていない。駅前にコンビニがある様子もない。仕方なく改札を出てすぐ前の自動販売機からチョコの入ったパンと野菜ジュースの紙パックを買い求めて、それを朝飯にする。
 
 定刻に「特急スーパーあおぞら1号」釧路行きが入線してくる。一見かっこいい車両だが、近づいてみるとどこかしらチープな雰囲気がある。車両を軽量化しているためだろうか。
 海峡線と函館本線、それに室蘭本線と、熟睡できなかったツケが来て、なんと帯広あたりまでウトウトし通しだった。楽しみにしていた狩勝峠の風景も見損なった。ただ、意識朦朧としたなかで、ディーゼル・エンジンが一段と大きな音を上げるのを聴いていた。
 こうしてあっけなく北海道を横断し、定刻の10:51に少し遅れて列車は釧路駅に着いた。
 ここからがまた忙しい。10:56釧路発の「くしろ湿原ノロッコ2号」に乗車しなければならないのである。釧路で下車した旅客たちが先を競ってノロッコ号の乗り場に急ぐ。数日前に山形で指定券を購入したのだったが、そのとき、湿原側のシートの指定席はほとんどが埋まっている状態だった。実際にも車内は満席で、家族連れや高齢者の団体客でごった返していた。これは完全な観光列車の趣。バスガイドのように流暢な女声による車窓の解説が流れる。




 その案内で、キタキツネがいるというのでカメラを向けたのがこの写真。背後に写っている車の人間が餌付けをしているようだ。自己満足のための餌付けなどすべきではない。
 
 「ノロッコ号」とは上手い名をつけたものだと感心するが、その名に相応しいほど遅いスピードになるわけではなかった。釧路湿原駅から先、もっとノロノロ運転にすることはできないものだろうか。もっとも、団体客の観光バスのコースの一部として組み込むには、この程度の乗車時間(40分ほど)が適当だということかもしれない。
 湿原を流れる釧路川は、台風の影響による増水で濁っていた。曇り空でもあり、とうてい美しい風景という印象ではない。しかし、じぶんは予めこんな風景を想像していた。いや、というよりもそのように自分が醒めた感受をするであろうことを想像していた。じぶんは、すでに北海道には広大で美しい自然がある・・・そんな幻想から見放されているのである。“ロマンのある北海道”というのは、10代のじぶんが、1970年代の北海道に描いていた幻想だった。そこからずいぶんと遠くに来ているのだ。





 ノロッコ2号は、塘路という駅で釧路に折り返しになる。
 塘路駅に11:40に着くと、乗客の多くは駅前に迎えに来ていた観光バスに乗り込んでいった。塘路駅の前の芝生には木製の展望台があり、その上からノロッコ号とその向こうに拡がる釧路湿原を撮ったのがこの写真である。










 じぶんは次の網走行きが来るまでの間、塘路湖の方向に歩き出し、標茶町の郷土館を訪ねた。この郷土館の建物は、明治18年に設置された釧路集治監の本監として建てられたものだという。
 シマフクロウやオオワシ、オジロワシなどの剥製を初めとした野生生物の標本と、民具やアイヌの民具などが展示されている。なかでも集治監の歴史を展示・解説した一室が興味深かった。
 集治監とは、いわゆる刑務所だが、北海道の開拓に不可欠な役割を果たした。集治監に収監され強制的に労働させられた者たちの犠牲の上に、今の北海道は成立している。初期の集治監には、犯罪者のほかに、明治維新以後に叛乱を起こしたいわゆる不平士族たちも送られていたという。今で言えば政治犯たちである。
 かれらはその能力や技術に応じた仕事を与えられ、自らの手で集治監の施設を作り、自給自足のための農地の開拓と生産を担った。集治監は農業試験場的な役割も果たし、ここで開発された栽培技術が開拓民に普及されていったという。






 「博物館 網走監獄」のパンフレットによれば、釧路集治監の網走分監(後の網走監獄)には、明治24年(1891年)に1,200名が収監され、網走から北見峠下までの163キロの北海道中央道路の建設を僅か8ヶ月で完成させるよう命令が下され、昼夜の突貫工事による過重労働と劣悪な環境により、211名が命を落としたという。
 標茶町は集治監により発展し、集治監の廃止により衰退する。釧路湿原の中の小さな駅で下車したことで、思いがけず、今は完全に観光地化され隠された北海道の裏の顔を垣間見た気がした。(写真は、120年前の釧路集治監時代から変わっていないという階段。)

 塘路駅まえのベンチでそこにある売店のソフトクリームと山形から持参したカロリーメイト、それに目の前の水飲み場の水で昼食をとり、13:54塘路発の釧網本線で知床斜里に向かう。ノロッコ号の走る区間より、こちら普通列車の走る塘路から知床斜里までの区間の方が湿原らしい眺めが広がっていた。
 知床斜里駅着は16:28。これまたせわしなく、駅前の斜里バスターミナルから16:40発のバスでウトロ温泉に向かった。

 ウトロ温泉に向かうバスの走路(国道334号)は、朱円という地区では15キロから20キロほども一直線の道路だった。両側には、馬鈴薯と甜菜の畑が広がっている。しかし、哀しいかな、自分には車窓から眺めただけではその作物が馬鈴薯なのか甜菜なのか区別がつかない。たぶん甜菜だとは思うのだが自信がない。
 バスはバス停で停まることなく、一本道を一定の速度で走っていく。広大な畑のなかの道路の路肩にバス停の標識は見当たらないのだが、車内のテープ・アナウンスから、ほぼ同じ間隔で次の停留所の地名が呼ばれる。そのことに、なにか不思議な感覚に見舞われる。
 オホーツク海に夕陽が傾き、雨雲が途切れ始めたころ、バスはウトロ温泉バスターミナルに到着する。17:30だった。
 そこから今宵の宿である「国民宿舎・桂田」に連絡して、送迎を受ける。




 海岸に建つ「国民宿舎・桂田」では、海が見える側の部屋を予約していた。ここは、どうやら小さな地元業者に運営が任されているようだ。
 ずいぶん古くて質素な宿だが、職員の感じは悪くなかった。海を眺められる露天風呂も、チープな感じだが最果ての旅情を感じさせる雰囲気があった。ただし、のほほんと入浴していると強力なブヨが襲ってくるので、これには要注意である。
 夕食のメニューはいかにも国民宿舎という感じだったが、特徴は一人に一パイの毛ガニがつくことだった。じぶんはカニ好きというわけではないが、それなりに美味しくいただいた。
 ここで飲んだビールは、サッポロビールの「北海道限定サッポロ・クラッシック」という銘柄だった。これまでサッポロビールやエビスビールを美味いと思ったことがなかったが、この「サッポロ・クラッシック」は、ちょうどよい苦味で美味かった。北海道にいる間は、ビールといえばこれだけを飲んでいた。
 台風が接近する中、辺境の地の宿で独り夜を過ごす。それにはアルコールが欠かせないと「初孫」のパック酒を背負ってきていたのだが、食堂で飲んだ生ビール1杯と「サッポロ・クラッシック」の中瓶1本で酔いが回り、24時過ぎに入眠して翌朝まで熟睡したのだった。(つづく)


  

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2011年09月11日

大急ぎ 知床行 (その1)





 この9月、遅まきながら夏休みを取って、JR東日本の「大人の休日倶楽部パス(東日本・北海道)」(5日間乗り放題23,000円)を利用して、2泊4日の北海道旅行をした。その行程を掲載し、旅行の印象を記しておきたい。






【 第1日(土) 】

 野暮用があって、出発は夕方とせざるを得なかった。
 小雨のぱらつく山形を17:38の仙山線で発つ。この列車、途中で何度も汽笛を鳴らすので、なにか障害物が出てきそうなのかと不安になった。2泊4日の旅行計画は、およそ18回の乗り継ぎ時間にまったく余裕の無い行程で成り立っていた。火曜日の深夜に山形に帰着し、水曜日には職場に出なければならない。野生動物か何かに衝突し、電車が停止でもしたら今日中に北海道に渡れなくなる。ということは、足掛け4日間で目的の知床半島に行って帰ってくることが不可能になる・・・。出発して早くも立ちこめたこの不安が、道中を暗示していたのだった。
 しかし、ともかくも仙山線は定刻の18:39に仙台に着き、19:22発の東北新幹線「はやて177号」に乗り換えて新青森へと向かう。その車中で、山形駅ビルの地下の揚物屋で買ったメンチカツ弁当と仙台駅で買った缶ビールの夕食。・・・食後にうとうとしているとあっという間に新青森に着いた。これが21:28だった。ここで新青森から青森まで在来線で向かい、青森22:42発の「急行はまなす」に乗り込んで津軽海峡を渉る予定だったのだが・・・。
 
 新青森駅で下車したとき、少し寝ぼけていたせいか、在来線に乗車するホームを間違えたのだ。ぞろぞろと新幹線を降りて連絡線に向かう旅客たちの群れに混じって歩いていき、確かに青森方面と記載されたホームに降り立ったところまではいい。だが、缶チューハイを飲みながら会話する、どうも北海道に渓流釣りに向かうような出で立ちの男たちに気を取られて、ホームの反対側に立ってしまったようなのである。そういえば、一瞬、このホームの両側に列車を待つ人間が立っていることに気がついて、あれ?と思ったのだったが、青森行きの時刻である21:38ころに列車が入線してきたので、ああこれだなと思って他の乗客たちに釣られてその列車に乗り込んでしまったのである。
 しかし、車窓には一向に街の灯が見えてこない。ひょっとしたら逆方向の電車に乗ったのではないかという恐ろしい疑念を抱いたのは21:55頃だった。隣に座っていた初老の男性に訊くと、やはり弘前行きの列車だった。ガーン!
 慌ててじぶんが乗り違えたことを伝え、まだ青森行きの列車はあるだろうか、あるならそれに乗るためにはどの駅で降りたらいいのだろうか、その駅にはタクシーがあるだろうか、などと矢継ぎ早に質問した。その男性は、次の浪岡で降りれば青森に引き返す列車があると教えてくれた。
 浪岡駅で降車すると駅は既に無人で、切符のチェックは今乗ってきたワンマンカーの運転手がホームに下りてしているのだった。待合室に掲示されている列車の時刻表を見ると、まだ青森に行く列車はあったが、それでは「はまなす」の発車に間に合わない。幸いにも駅前にはタクシーが2台ほど客待ちをしていた。真っ青になって、運転手に「青森駅までどれくらいかかりますか?」と問い質した。
 運転手は「6,000円くらいかな」と答えたので、「時間は?」と問い直すと、「30分くらい」と言う。時刻は既に22時を過ぎていた。「じゃあ、頼みます!」とタクシーに飛び乗るしかなかった。
 数分走ったところで、「22:42のはまなすに間に合いますよね?」と訊くと、運転手は「努力します」との答え。まぁ、そう答えるしかないだろうが、こちらとしては「大丈夫、ちゃんと間に合わせます」と言ってほしかった。(苦笑)
 タクシーは暗い道路を、それでも順調に走った。「浪岡って、市町村名でいうと、浪岡市なんでしたっけ?」そう訊くと、運転手は「合併していまは青森市になりました」と寂しそうに答えた。
 このまま行けば間に合いそうだという目処がついたあたりで、運転手は「6,000円と言いましたが、もうちょっといくみたいです」と申し訳なさそうに言った。8,000円を越えそうな勢いだったが、これはしょうがないと思っていたところ、彼はメーターの設定を操作して、料金計算の仕方を別のシステムに切り替えたようだった。
 それで、結局6,160円で青森駅の裏口に到着した。「急行はまなす」の発車まで、まだ10分以上余裕があった。彼に感謝してタクシーを降りた。



 青森発・札幌行き「急行はまなす」は定時の22:42に発車した。
 この列車にはB寝台の車両もあるが、特徴は普通の指定席料金で取れる「カーペット・シート」という座席の車両があることである。じぶんは、かろうじてこの席の指定券を手に入れていた。この車両の様子は掲載した写真のとおり。昔、青函連絡船で床に寝転がって行ったことを思い出させる。
 頭から胸の部分はカーテンで隣と仕切られ、また2階席の床が被さっているので上半身は他人から見えにくいが、寝転がると下半身は通路に露出される。だいたいの人は備え付けの毛布をかけているが、短パンで寝ている男性の毛脛が見えたり、寝返りを打った女性のぴっちりしたレギンスの下半身が目に飛び込んできたり、なかなか大衆的で味がある(笑)

 じぶんは二階席に上がる階段の脇の一階席だった。この席には、階段の下の空間を利用したコインロッカーほどの大きさの物置があるのだが、そこに山形から持参した900mlの日本酒の紙パック「初孫」とつまみとポリエチレン製のコップを置いて、そのコップで半分ほどの酒をちびりちびりとやりながら眠くなるのを待った。
 この旅では、乗り継ぎ時間に余裕が無いのとその乗り継ぎ時刻が深夜や早朝であることが多いこと、それにコンビニなどの店が手近にありそうもない土地を歩くということなどから、登山用のリュックに日本酒パックと鯖缶や「じゃがりこ」「チーザ」などのつまみを背負ってきていたのである。
 北へ向かう急行列車は、いや地中深くに向かう深夜の急行列車は、なぜかずいぶんもの悲しい音を立てて進んでいく。ポイントの切り替え部分では、車体の揺れが自分が横たわる床から背中を通じて身体全体を大きく揺り動かす。
 しかし、途中で、あのガッタンゴットンというレールの継ぎ目の音がしなくなった。青函トンネルの内部は、レールの継ぎ方が異なるのだろうか。



 7時間近い車中、うつらうつらとしたのは1〜2時間だった。だが、比較的爽快に目覚めて日曜日の05:24に、雨の南千歳駅に降り立った。 (つづく)
  

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2011年08月31日

愚か者の帰省



 毎年一度は故郷に帰省するようにしている。
 親はもういないが、その街の商店街にじぶんの生家があって、兄が店を継いでいる。
 車で150分ほどの距離にある故郷に帰るのは、だが、じぶんにとっては少しばかりつらいことである。
 その湯沢という街の人々は一見恙なく暮らしているように視え、親類や知人たちはいつもじぶんを暖かく迎えてくれる。だが、じぶんがこの街を出てから時代は大きく変わり、規制緩和と農業の衰退と少子化と高齢化との抗いがたい流れのなかで、この中心街の空洞化は目を覆いたくなるほどに進んだ。
 この街から活気が失われていくゆくさまを見聞きすると、いつも堪え難い悲嘆に襲われる。その感情は、幾許かはこの街を捨てたじぶんの後ろめたさからくるものでもある。

 帰省したのは、毎年恒例の祭りである「愛宕神社祭典・湯沢大名行列」の行われる日の前日だった。http://aios.city-yuzawa.jp/kanko/event04.htm
 毎年8月の第4土曜日と日曜日に、中心街を練り歩く大名行列が執り行われる。8月の5〜7日に行われる「七夕絵灯籠祭り」、そして2月に行われる「犬っこまつり」が、“湯沢三大まつり”と言われ、その華やかさやメルヘンチックな趣きが多くの見物客を集めていたのは、まだ“昭和”と言われていた時代のことだったような気がする。
 これらの祭りは現在でも受け継がれているが、その実施主体である中心商店街の空洞化と住民の減少に伴って(そしておそらくは平成の合併後の新湯沢市の取組み姿勢の変化にもよって)、その規模を縮小せざるを得なくなっている。
 振り返ってみれば、この小さな中心商店街がこれまで営々と、8月のひと月の間にお盆を挟んで「七夕絵灯籠祭り」と「大名行列」との二つの祭礼を担ってきたこと自体が少しく驚嘆すべきことでもあるのだ。・・・酒造と宝石の研磨工場くらいしか製造業のないこの小都市(旧湯沢市)が、かつては如何に豊かで賑やかな商店街を持っていたかを語っても、今の寂れた姿しか知らない者に往時を想像させることは難しい。

 この街は、城下町であり、商業都市であった。それは周辺に深い郡部をもつ地域の中心都市であったからであり、つまりかつては豊かだった稲作地帯に支えられていたからなのであった。
 そのことを逆に言うと、この地域は“豊かな郷土”という幻想の上に胡坐をかいてきたために、そこからの転換が決定的に遅れた。(これは秋田県全般についても言えることである。)
 農業の面では稲作中心から園芸や畜産への転換が、そしてそれ以上に農業と商業中心の産業構造から電気・電子・機械などの製造業への転換が図られなければならなかったのである。
 なぜ、それは果たされなかったのか。その理由がじぶんには手に取るようにわかる。なぜなら、その理由であるところのこの地域の気風が、じぶんがこの土地を捨てた理由のひとつでもあるからである。

 実家に帰ってみると、兄の息子は、家の代表として大名行列の準備に追われていた。しかし、その忙しさの様子がこれまでとは異なっているのだという。
 この街では、5つの町内会が年毎に順番で祭りの当番を担ってきていた。だが、不況と商店街の空洞化による寄付金の減少や住民とくに行列を組む子どもたちの減少による出演者不足が深刻になり、ついに2つの町内会が運営からの離脱を宣言したというのである。
 これまで祭りを担ってきた町内の衆は、これらの状況を受けて大名行列の運営の根本的な改革を目指したという。
 いつから、またどんな由来によるかは不明だが、大名行列は旧市街の南端にある愛宕神社の祭典として行われてきた。神社の神輿を神主に率いられた氏子が担いで周り、大名行列も奴振りもいわば神輿行列の余興のような構成になっていた。実際には、佐竹南家の格式ある大名行列とそれに続く稚児の花車や子どもたちの引く山車の行列がメインなのだが、この祭りの開催自体が神社の所管下にあるために、祭りの運営当番の町内会は神社に毎年50万円もの寄進をしてきたのだという。それをなんとか減額しつつ、運営主体を神社と分離し、各町内持ち回りの過重な負担をなくすために「湯沢大名行列保存会」を組織しようとしたのだという。
 しかし、話し合いはうまくまとまらなかったようだ。そして、この調整に時間を要したために今年の大名行列の準備が遅延し、祭りの2日目の本番を前にして行うことが慣例になっている1日目の“笠揃え”といわれる行列の予行の実施はままならないこととなり、今年は日曜日1日限りの行列となったというのである。
 なお、兄嫁によれば、明治生まれのじぶんの父親が、生前に大名行列に関してこんなことを言っていたと言う。
 ・・・この大名行列は、湯沢の殿様(佐竹南家)が、年に一度くらいは町人も大名行列の真似をして奴振りなどで楽しんでもいいと言って始まったのだ、と。


 昔はじぶんも三度ほど行列に出た。いちばん幼いときは乳母車をもとに装飾した花車に乗った稚児で、次が小学校のとき、鷹匠の持つ鷹の餌の山鳩を模した作り物を竹竿の上に刺したものを持ってあるく下級武士か足軽風の姿。中学時代には裃(かみしも)を着た神輿警護の武士の役だったような気がする。
 行列を組んで歩く子どもたちには親や使用人などの付添人がついて、炎天下を歩く子どもを団扇で扇いだり、行く先々の店や個人宅から差し出されるノートや鉛筆など学用品の祝い物を子どもに代わって受け取り、それらでいっぱいになった袋を抱えて一緒に歩いていたものである。祝いの品は、親戚や町内の家々から自宅にも届けられた。じぶんが幼かったころには、学用品やジュースやカルピスの詰め合わせが、仏壇の前に山のようになった記憶がある。

 大名行列には殿様役の子どもが2人選ばれて、それぞれが立派な紋付姿で騎乗し、付き人に引かれて行進していた。
 息子たちの思い出にと殿様役に応募しようかと考えたことがあった。殿様になるには、馬の借上げ費用や遠方からの運送費用、それに祭り当日だけでも付き人たち延べ10人分の謝礼や飲食の振舞い費用、祭りへの寄進やら何やらで、乗馬の練習期間も含めて1騎あたり150万円は必要になるはずだと言ったら、女房が目を剥いて反対したので話は立ち消えになったが、いまや殿様役は1人に減って、その費用負担は300万円になっているのだという。
 その殿様役を、すでに中心商店街の家々から出すことは叶わなくなっており、今年は、平成の大合併で同じ湯沢市となった旧稲川町の「稲庭うどん」の製造元のある名家が担うということだった。
 この故郷を捨てて久しいじぶんには、いまやこの祭りについて口を挟む資格はない。だから甥に祭りのあり方をめぐる改革の試みとその不調の経緯を詳しく聴き質すことはしなかった。



 話は前後するが、今回の帰省の目的は、墓参りがてらいつものように高校時代の友人たちと盃を交わすためでもあった。
 とくに気になっていたのは、「薄情者の大阪行」で触れた、腎臓の進行がんで闘病中の友人のことだった。昨年の夏に彼の家に顔を出して、なんとか自宅で日常生活を送っている様子を見、それから1〜2度、携帯メールの交換をしていたのだったが、3月の大震災があって、その後じぶんが仕事に忙殺されてしまってから、その忙しさが一段落しても連絡を取っていなかったのである。
 気になりながらもなぜ連絡を取っていなかったかといえば、こちらから連絡を取るということはすなわち彼に“まだ生きているか”と問うことに他ならず、そのように問うことの前にじぶんが尻込みしていたというのがほんとうのところなのである。
 お前はまだ生きているか・・・そう問うことにどんな意味があるのか。それは彼のためではなくじぶんの後ろめたさを誤魔化すためではないか・・・。そんな逡巡のなかでこの半年を過ごしてきた。
 だが、幸いなことに、別の友人にまた飲もうと連絡をとったら、その友人がじぶんの気持ちを察して当の友人に電話を入れてくれた。すると、その進行がんの友人も宴席に顔を出すというのだった。
 こうして、また高校時代の友人たちと4人で飲んだ。宴席に4人そろうのは18ヶ月ぶりだった。

 腎臓がんの友人は、気づいたときはすでに手遅れの状態で、原発巣は切除したが、いまや肺や骨にたくさんの転移があるのだった。
 だが、ネクサバールという抗がん剤が効いているのか、転移したがんの増殖スピードは押さえられており、痛みや副作用の症状に襲われながらも、痛み止めのパッチをして自宅生活を続けることができている。
 彼が言うには、ネクサバールがこんなに長く奏効しているのは、日本では自分の症例くらいのものだろうということだった。
 けれどもこのときの彼の様子は比較的良好で、顔色もよかった。思ったより痩せ具合はすくなく、頭髪も復活していた。
 彼は刺身には手をつけなかったが、旬の焼き秋刀魚の片側を平らげていた。

 農業をやっている別の友人は、今年はじめの大雪で、さくらんぼの雨よけハウスとリンゴに甚大な被害が出たと頭を抱えていた。とくにリンゴは、あまりの大雪に枝の除雪がままならず、枝が折れたり幹が裂けたりして深刻な状態になり、高齢者で後継者のいない農家ではリンゴ栽培を諦めるという者も出ているという。
 彼の家も、さくらんぼの雨よけハウスの鉄パイプに貼り付いた雪で骨組みが潰れそうになり、その雪を払うのに精一杯で、リンゴの木をその丈がすっぽりと雪に埋もれた状態から掘り出して救うところまでは、体力の限界でとてもできなかったと言うのだった。
 農業共済の補償金は出るのかと訪ねると、雪害では対象にならないのだという。
 さくらんぼも全て護りきれた訳ではなく、しかも山形が豊作だったのに湯沢では雪害の影響もあって、今年は出来が悪かったという。彼は、損害の大きさに、いったんはお先真っ暗でどうしたらいいかわからなくなったというが、“もともとアタマが莫迦なもんだからクヨクヨ考えない”と苦笑しつつ、なんとか日々の蔬菜類の出荷で立ち直ろうとしている、と語った。

 がんの友人を見送ってから3人で二次会に行き、店を出たのは午前2時を過ぎていた。4時間近くも何を話していたのか覚えていない。そのスナックのママさんが、国の災害対応のまずさを批判したので、「政府への批判はもっともだが、皆が国の仕事だと思っていることの大方は県や市町村が担当している。県や市町村が機能停止すれば、行政サービス提供の実施機関としての国なんて、そもそもが無いに等しいのさ・・・」酔っ払って、そんなことを偉そうに語ったような気がする。相変わらず愚か者だ・・・(--;
 女性にズケズケ歳を訊くのは失礼だと思ったが、帰り際にそれでもまっすぐ歳を訊いたら、64歳だとの答え。男気のある魅力的な人だった。秋田の女はやっぱりいい・・・。

 こんなに飲んだのは何年ぶりだろう。莫迦さ加減が、まるで、酔い越し金はもたねぇ〜とばかりに飲み歩いた20〜30代のころのようだった。
 だが、身体は確実に歳相応だと思い知る。痛飲のダメージから開放されるのに2日もかかったのだった。                                                                                                                                                                        





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:50Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年05月26日

薄情者の大阪行(その2)




 初夏の日差しが降り注ぐ暑い一日だった。
 新世界から引き上げると、いったん淀屋橋の“超豪華”ホテル「ホテルユニゾ淀屋橋」(シングル6,900円)にチェックインして、シャワーを浴びる。
 このホテル、部屋は狭いがビジネスホテルとしては小奇麗だった。というか、そのエントランスやフロントなどのシャープ(?)な内装から受ける印象が、周りがオフィス街ということもあって、ホテルに泊まっているというよりオフィスビルに泊まっているという感じで、まぁ寛げない。
 部屋のキーはICカードだが、エレベータに乗るにもこのカードをセンサーに接触させないとエレベータが上昇しないようになっている。下りはカードを使用しなくてもフロントのある1階には降りられたが、1階以外には止まらない仕組みになっているのかもしれない。泊り客以外の侵入を防ぐ機能としては有効かもしれないが、どうも世知辛くて印象は悪い。それに、緊急避難時などに問題はないのだろうか・・・そんなことが気になった。


 夕方の5時過ぎ、部屋を出て御堂筋を北へ向かって歩き出す。
 土曜日のビジネス街は人通りも少なく、日陰には爽やかな風が吹いている。ジョギングしている人も見かける。
 「COTOありがとうの会」は、夕方の6時から、北新地のとある店で開かれることになっていた。
 案内状に書かれた会場の「際(きわ)」は、全日空ホテルの北側のビルにあるというので、その辺りを探して歩くが、なかなか見つからない。それもそのはず、その店は漢字の「際」という料理屋ではなくて、「BAR KIWA」という店だった。ビルの入り口に立ち入って郵便受けの上の看板を見ないと、この表記が見つけられなかった。

 その店のドアを開けて中に入ると、すぐに安田さんが声をかけてくれた。
 安田さんと二人で「COTO」を発行してきたセンナヨウコさんは欠席だったが、安田さんを含めて12人ほどの寄稿者が集まり、穏やかに会が始まった。じぶんは、安田さん以外は初対面だった。
 一番遠くからきた人は北海道、そして二番目に遠いのはじぶん、そして東京から来た人も2人いた。
 それぞれが自己紹介をして、安田さんとの関係について話した。大新聞の部長経験者、大出版社のOB、フリーライター、現役の大学教員など、いわゆるインテリ層の人から、銅版画家、お坊さん、福祉関係者、ホームレスなど最下層の人々と近しく交流している古本屋さんまで、多彩な顔ぶれだった。まさに安田さんの人柄がこうした多彩な人々を惹きつけているのだろう。

 安田さんはいわゆる団塊の世代で、出席者は同世代かそれより上の世代の人が殆どだったから、この12人のなかでじぶんはもっとも若い方だった。ある出席者には「高啓というのはどんな人かと思っていたら、青年が来た」などと冷やかされた。
 信用できるかは別として、「あなたの詩のファンです」などという人もいた。それに、安田さんをはじめ、何人かが高啓のブログを読んでいると言っていた。
 出席者は、それぞれが人生の厚みを感じさせる佇まいで、魅力的だった。なかにはこれから新たな詩誌を創めると言う人たちもいて、それぞれがまだまだ精力的に活動する気配である。ほんとうはそれぞれの実名を出して、その人がどんなことを語ったか、その人からどんな印象を受けたかなどを書き込みたいところだが、迷惑をかけるといけないのでそれはやめておく。


 と言いつつも、上に掲げた画像の書籍とその著者について一言触れておく。
 この本は、当日の出席者のひとり、著者の大橋信雅さんからいただいたものである。大橋さんは、和泉市の寺の住職を生業(シノギ)としているが、この著書のなかで、映画館で映画を観ていた時間が人生でもっとも長く、年に500〜600本の映画を観る生活を続けてきたという。
 その人生が、映画評のようにして描かれているのがこの『ホトケの映画行路』(れんが書房新社)という本である。

 この本を、帰りの新幹線で読んだ。
 出席者の誰かが、大橋さんの「COTO」への寄稿文について、「映画批評のなかで必ず自分の人生が語られる。“私小説的映画批評”だ」という趣旨のことを語っていたが、たしかにそのとおりだった。
 子どものころから映画好きだったこと。高校を卒業してから寺の住職である親の進めるまま京都の仏教系大学に進学し、それが嫌になって家から脱出するために早稲田大学に入り直したこと。「政治の季節」における酒場からデモに向かう東京生活、そして女との関係。・・・連合赤軍事件における友人のリンチ死。やがて、“なにもしないで生きていく”という決意と、暴飲と酒場での喧嘩にあけくれるアナーキーな生活。・・・好意を寄せる酒場の女にしつこく絡んだ男を刺したことによる逮捕。実家への帰郷。結婚と双子の息子の誕生。両親の影響が仄めかされる同居していた25歳の弟の自死。両親への呪詛。・・・そして、そこから始まる映画館と酒場への没入。
 映画作品の世界を語るうちに、著者自身の苦しみの記憶と情感とがせり上がってくる。・・・これは、不器用に、しかもなにか温かなものを痛切に求めて彷徨する自らの様を晒す、まさに“身を斬る”ような映画論なのである。


 じぶんは「BAR KIWA」で、大橋さんの隣に座っていたが、彼と交わした言葉はそんなに多くなかった。大橋さんは、自己紹介が終わると、ビールに続いてウイスキーのオンザロックのダブルを数杯飲んで、酔っていった。酔って饒舌になるということはなかったが、やや呂律が怪しくなり、しかもかなり早口の関西弁でしゃべられるので、じぶんにはうまく聴き取れない。もっとも、映画館にいる時間と酒場で飲んでいる時間が、自分の人生の時間の大方を占めていると(上記の著書に書いてあることと同趣旨のことを)語ったのは覚えている。
 じぶんが観ている映画の数は、話にならないくらい少ない。だから映画の話はしなかったが、山形国際ドキュメンタリー映画祭に来てみてください、くらいの話はしたのだったかと思う。

 大橋さんの文章は、自分と同じように旨く生きられない、あるいはぼろぼろになって若死にしていく酒場の仲間たちを、“慈愛ある”とまでは行かない、それでいて近しく看取るかのような絶妙な位置取りの視線から描いている。それは、たぶん、自分自身への視線でもあるのだろう。ただひとつ、奥さんや息子さんたちが彼をどう視ているかについての記述がないこと、つまりはそのレティサンスだけが、ひっかかる。
 新世界では、映画の画看板を掲げた昔ながらの劇場の前を懐かしがって通り過ぎてきたのだったが、そんな映画館の暗がりのなかに、椅子に沈み込む、文字通り坊主頭の大橋さんの姿を想い浮かべつつ、「のぞみ」と「つばさ」の6時間を過ごしたのだった。                                 (了)



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:40Comments(1)歩く、歩く、歩く、

2011年05月25日

薄情者の大阪行(その1)



 2011年5月21日(土)、東京駅から、東海道新幹線で大阪へと向かう。

 安田有さんとセンナヨウコさんが発行していた寄稿誌『COTO』が終刊したので、大阪の寄稿者が発起人となって「COTOありがとうの会」が開催されることになり、その案内がじぶんにも送られてきた。
 こんな機会でもなければ当分は大阪を訪ねることもないだろうし、この機会を逃せば安田有さんといつお会いできるかわからない。思い切ってぬけぬけと顔を出すことにしたのである。
 

 21日の昼過ぎに新大阪駅に着くと、まず構内のJRの案内所で天王寺に向かう路線を尋ねた。
 駅員のような男性職員は、地下鉄なら乗り換えなしで行けるが、JRだと大阪駅で乗換えが必要だと言う。そこで、「何線に乗ればいいのですか?」と尋ねると、「どれでもいいですよ」と言うのである。首をかしげながら大阪駅に向かうと、いくらなんでもどのホームの列車に乗ってもぜんぶが天王寺に行くとは思えない。(苦笑)
 それで今度は改札口の男性駅員に訊くと、すぐさま「1番線です」とだけ言う。そこで「環状線」と書かれた1番線ホームから、そこに来た電車に乗り込む。
 いくつか駅を経ていくが、どうも様子が変だ。「ユニバーサルシティ」とかいう駅を過ぎ、“終点”の「桜島」に着いてしまったのだ。(再苦笑)
 じつは、このあと、御堂筋で淀屋橋近くのホテルに行こうとしてGoogleの地図のコピーを視ているときも、通りがかりのおばさんからヘンな教えられ方をした。こちらが道を尋ねたのではなく、向こうから親切に「どこに行かれます?」と声をかけてくれたので、大阪のおばちゃんはずいぶん親切だなぁと思って話を聞いていたが、どうも見当ハズレなことを自信ありげに言っている。さすがに3度目なので眉唾で聞き、結局は自分が持参した、あの見にくいGoogleの地図から場所を見つけ出した。
 ・・・大阪のひとは、やはりわれわれとはちょこっと違う・・・と思った次第。(笑)

 天王寺で降り、通天閣を眺めながら、天王寺動物園と市立美術館の敷地に挟まれた通路を新世界へと向かう。両側が高いフェンスで囲まれていて、緑の空間なのに閉塞感がある。両施設の敷地とその間の通路を区画するためにフェンスが必要なのはわかるが、空間デザイン上、もう少し工夫があってもいいような気がする。

 さて、新世界を訪れるのはこれが3度目。
 1度目はたぶん1980年頃だった。いま、故郷の秋田県湯沢市で、末期がんと闘っている高校時代の友人Y氏を大阪に尋ね、彼の案内で新世界を訪れたのだった。Y氏は、東京での仕事に疲れ、帰郷の決意をしていたのだったと思うが、その前に東京で稼いで貯めた金で関西を見物して歩くと言って、大阪に部屋を借りていたのである。
 確か、その足で彼と二人して山陰へ小さな旅に出た。ふたりともNHKのテレビドラマ「夢千代日記」のファンだったので、そのドラマに出てくる餘部の鉄橋を渡りに行ってみようと思い立って出かけたのだったと思う。城之崎温泉かどこかの安宿に泊まった記憶がある。
 この頃の新世界は、まだ汚くてちょっと危ない雰囲気があったような記憶である。ジャンジャン横丁の串カツ屋で、初めて関西風の串カツやどて焼きを食った。いちど口を着けた串カツは、二度とソースの容器につけてはいけないというルールに緊張した。(笑)
 2度目は、1990年代の前半だったと思う。女房と息子たちを連れて、親類のいる神戸に向かう途中、青春時代の想い出の場所である新世界を再訪したのだった。
 1990年の「国際花と緑の博覧会」(通称「大阪花博」)を経て、新世界は小奇麗に整えられすでに「観光地」になっていたが、それでも周りには露天商が店を出していたり、ルンペンがいたりして、昔の面影がいくらか残っていた。
 以前に訪れたときと同じ店で、息子たちにルールを言い含めながら串カツを食わせた。息子たちは、親父の嫌いなお好み焼きも食いたがったので、ジャンジャン横丁の出口近くのお好み焼き屋にも、しぶしぶ入った記憶がある。
 3度目の今回も、やはりまたあの串カツ屋に入った。だが、若い女性やカップルが増え、店の客層は昔とすっかり変わっていた。店員が中国語を話しているのを聴いて、時代の移り変わりを感じた。生ビールのジョッキを1杯と、串カツを4本と、どて焼きを1本で、計1,100円。これだけでそそくさと店を後にした。

 ほんとうは、大阪に来る暇があったら、Y氏の見舞いに湯沢へ帰省すべきなのだ。正月以降は、大震災後の仕事の忙しさにかまけて、安否を問う携帯メールさえ送っていない。・・・なんと薄情な<似非友人>ではないか。
 ・・・だが、しかし、彼になんて声をかければいいのか。
 ・・・“まだ生きているか”と、何よりそう問いかけなければならないのだが、では、じぶんはなんのためにそう訊くのか・・・ぬくぬくと生きているじぶんの後ろめたさを誤魔化すためではないのか・・・そんな想いがして、ひとりこんなところに足を向けているのだった。
 (Y氏については、「山形詩人」69号に発表した「蒸気機関車がわれらを救いたまう日」という詩で触れている。)

                                              以下、次回へ。




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 02:24Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年03月21日

大震災10日目の仙台行



 2011年3月20日(日)、山形からバスで仙台を訪れた。
 3月11日の東日本大震災のため、生活物資が不足している仙台市青葉区の友人に食料を届けるためである。

 いつもなら満席になる仙台行きのバスだが、この日の便は客が半分にも満たない。
 その多くが大きな荷物を持っている。自分と同じように宮城方面へ物資を担いでいくのか、宮城方面から買出しにやってきて帰るところなのか、と、そんな感じである。
 なかには、郷里の被災地の家族の元に駆けつけようと、物資をかき集めて山形経由で仙台入りするように見える者もいる。(JALのタグがついたバッグやケースが目に付く。震災後、山形空港は24時間体制で空輸の拠点となっている。)

 バスは笹谷トンネルを抜けるまでは高速道路を走ったが、その先は高速道路を通れないため一般国道286号に降りて仙台市内に向かった。高速から降りるときに渋滞したが、いつもより30分程度遅れの100分ほどで広瀬通りのフォーラス前についた。
 広瀬通りから仙台駅そして終点の仙台市役所まで、車窓から仙台市内の様子を観察する。

 まず、道路を走る一般車両の数が想像していたより多い。平常時の数分の1くらいだが、それでも“ああ、やっぱり車の通行量が少ないなぁ”という感じではない。それに繁華街を歩く人たちも、いつもの日曜とは比べものにならないが、まぁそこそこの数である。
 車窓から見える建物に目だった損傷は確認できない。市中心部に入る手前で、瓦屋根が一部損壊している住宅を見かけた。 また、ごく一部、ビルの外壁にヒビ割れが入っているのや、外壁の一部が剥がれ落ちているのが見えた。視認できたのはそれくらいのものである。

 多くの店は閉まったままだが、ラーメン屋やなか卯などの飲食店、FRONTO、VELOCEなどのカフェも一部営業している。駅前のダイエーの周りには長い行列ができている。
 コンビニの多くは閉店したまま。ガラスの壁には内側から新聞紙などが張られ外から中が窺えないようにしてあるが、サンクスなど一部が営業しているのを確認できた。
 駅前のバス停の集中した区間には、仙台を経由して石巻など太平洋沿岸の被災地へ向かう人々の行列ができている。その黒っぽい防寒の服装と手荷物の多さが、やはり大変な災害が起こっているのだということを感じさせる種類のちょっと異様な雰囲気を醸し出している。
 こんな風景の中で目を引いたのは、いくつかの街の花屋が、何事もなかったかのように店先にたくさんの切花を並べて営業して風景だった。

 じぶんはバスを乗り換えるために、仙台市役所前で降りた。
 市役所の正面玄関は閉まっている。この状況で玄関を閉じているのは疑問であるが、市役所に押しかける住民も一段落したということか、市職員も疲弊しているから玄関ぐらいは閉じておこうということか・・・。
 市役所前の広場には、神戸市、横浜市、堺市などからチャーターされて派遣された大型バスが並んで駐車されている。街を走る京都市の救急車も見かけた。
 遠い地方からも救援の手が差し伸べられている。だが、それらはどの程度有効に活用されているのだろうか。

 そんなことを考えながらバスを待っていると、そこに運良く手押しで弁当を売り歩いている料理屋(屋号を発声しながら売り歩いていたが聞き取れなかった)の台車が通りかかった。箱の中にあるのは「シャケ・イクラ弁当800円」。自分は、普段ならまずこの手の弁当に手を出すことはないのだが、このときは当然事情が違った。これは現状における“超豪華弁当”である。これを土産に3つ買い求めた。

 さて、山形市内のスーパーで買い求め、友人の家に持参したものは次のとおり。なお、山形市内のスーパーの棚も7割方は空になっていたので、たいしたものが買えなかった。友人宅では電気と水道は回復したが、ガスや灯油は調達の見込みがないとのことだったので、調理しなくてもいい食材を選んだ。
 牛乳1リットル入り1パック(一人1パックの購入制限があった)、日本酒(「爛漫」)1.8リットル入り1パック、トマト4個、キュウリ4本、温泉卵9個(生卵は売り切れだった)、ソーセージ、魚肉ソーセージ、鯉の甘煮、ピーナッツ入り味噌、魚の缶詰4個、自家製の餅と小豆の缶詰、柿ピー(モンテディオ山形応援のでん六「勝ピー」)、せんべい、チョコレート、さきいか、カップ麺4個、永谷園のお吸い物・・・
 自分が持参したものをテーブルの上に載せていくと、友人はそれをデジカメに収めていた。

 すぐに例の弁当を開いて友人夫妻と3人で昼食。
 友人は、今の仙台では貴重品にちがいない缶ビール(!)の栓を抜いてくれた。弁当は、シャケとイクラが乗ったご飯に、おかずとしてフキノトウの煮付けや竹の子、それに玉子焼きが添えてあるのがうれしい。たしかにこれは料理屋さんが作った弁当だなと思えた。
 「シャケ・イクラ弁当」と缶ビール・・・ああ、なんて豪勢な昼食なのだろう。友人の奥さんは涙がでるほど美味いと言った。だが、それもお互い、家族を含めて皆が無事だったからではある。

 友人は、加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』(岩波書店)と、DVDになった佐藤真監督作品の映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE 』を貸してくれた。
 そのうち、このブログに感想を書きたい。


 さて、帰りの山形行きバスは6〜7割の客を乗せていた。
 数日前のように山形経由で被災地から脱出するという緊迫感は感じられなかった。まだそういう乗客もいたし、山形に買出しに来るようなそぶりの客もいたのではあるが、仙台経由で気仙沼や石巻に向かう客とは、ずいぶんと雰囲気が違っていた。

 ところで、塩竃にいる友人にも、先日やっと電話がつながった。
 171災害伝言ダイアルのおかげで無事でいるということは分かっていたのだが、直接声を聴くまでは心配なものである。職場で地震に見舞われたが、同僚に避難させてもらい(友人は半身に麻痺があり、歩行が不自由である)、二晩ほど避難先で過ごしたという。
 友人の自宅は高台なので幸いにも津波による被害を免れたが、電話以外のライフラインはまだ復旧していないとのことだった。水がないのが厳しいようだ。
 往復のガソリンさえ手に入れば、彼にも水と生活物資を届けたいのだが、山形でもガソリン不足は深刻である・・・。


 この大震災と原発事故の経験は、じぶんたちの精神に、静かに、だが大きな影響を与えているような気がする。大げさに言えば、それはちょっぴり時代が変わるような予兆でもある。
 これから、そのことをじっくりと考えていきたいと思う。
                                                                                                                                                                                 





  

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2010年07月03日

金沢蓄音器館



 前回、JR東日本の「大人の休日倶楽部」の期間限定割引切符を利用して訪れた金沢21世紀美術館について記述したが、この金沢行について、追加して述べておきたいことがある。
 ひがし茶屋という観光スポットを訪れた帰り道、偶然その前を通りかかった金沢蓄音器館についてである。
 じぶんはとりたてて蓄音器に興味はなかったし、どうせ蓄音器が陳列してあるだけだろうくらいの考えで、半分は蒸し暑さをしのぐため休憩所に立ち寄るみたいな気持ちで入ったのだった。
 入ってみると、まず1階にホールがあり、その壁の陳列棚には、ラッパの突き出た蓄音器が何台も展示されている。このホールでは時々ミニ・コンサートなどが開催されているようだったが、丸テーブルと木製の椅子があったので、その一画の自動販売機でコーヒーを買い、だらりんと涼んでいたら、これから蓄音器の試聴を行うという館内放送があった。(日に3回の実演タイムが設定されている。)

 せっかくだから聴いて行こうと、2階の展示室に向かう。
 集まった客は、山陰から来たという30代後半の男性ひとりと、青森から(きっと「大人の休日倶楽部」で)来たという初老の夫婦など、合わせて5人ばかりだった。
 そこに館長らしき男性が登場して、蓄音器の解説を始めると、その名調子にすぐに引き込まれる。彼は、解説しながら、6、7台ほどの蓄音器をかけて、さまざまな音楽のレコードを聴かせてくれた。
 初めに取り出したのは、エジソンの発明した円筒形のレコード。
 解説によれば、エジソンは、レコードの溝の縦の変化で音を再生する方式にこだわった。横の動きによるものより、上下の動きによる方が音質が上なので、音質を重視してこちらを採用すべきだという信念のもとにそうしたのだという。
 しかし、対抗馬があらわれ、そちらの事業者は、いまのレコードの方式、つまり円盤の形をしたものに渦巻状に溝をつけ、針の左右の振れによって音を復元する方式を普及させようとしてきた。
 エジソンも円盤形のレコードを開発するが、縦方式にこだわったため、レコード盤が分厚くなり、また、これも音質重視のため、針にダイアモンドを使ったことから、蓄音器もレコードも高価になってしまった。
 対抗事業者の方は、音質よりソフトに力を入れ、有名な演奏家を囲い込んでそのレコードを発売する。・・・エジソンはこのソフト戦略に対するセンスがなく、またソフトの戦略を企画・実施するパートナーにも恵まれなかったため、あえなく敗退した・・・という話だった。いつの時代にもありそうな話である。
 エジソンが発明した蓄音器は、円筒形のレコードの方も、分厚い円盤形のレコードの方も、想像した以上に鮮明な音で、音量も大きかった。
 しかし、ほんとうにびっくりしたのは、1920年代の製品の音量と音質だった。
 この時代になると、蓄音器のラッパの部分は、箱のなか(回転テーブルの下部)に仕舞われ、蓄音器は家具の衣装をまとう。つまり、ラッパも、その外見が、いまわれわれがイメージするスピーカーのようになる。
 音量は、ラッパの部分の長さや大きさ、構造や材質などによって決まる。箱のなかでラッパの長さを確保するために、蛇行させて収納する構造が採用され、各メーカーが音質と音量の競争を始める。
 この時代のイギリス製やアメリカ製の蓄音器の聴き比べが、なかなか興味深かった。
 しかし、やはり驚かされるのは、その音量である。
 ほんとに、これ、発条仕掛けでターンテーブルが回っているだけ?・・・ほんとに電気で増幅していないの!?と疑ってしまうほどの音量だった・・・これは一聴の価値がある。
 また、あるラッパ露出型の蓄音器の視聴では、その音に雑音がないことにも驚かされた。さらに、モノラルなのに、音の聴こえ方に位置関係(楽器と歌声の前後関係)が感じ取れるものなど、昔のアナログ録音・再生技術のレベルの高さを実感することができた。

 解説の方から、どちらから?と尋ねられ、山形からだと応えると、天童のオルゴール館に行ったことがあるとのことだった。残念ながら、天童のオルゴール館は閉館になってしまいましたと話すと、そうですってね、残念です・・・とのことばが返ってきた。
 この蓄音器館は、地元で長年レコード店を経営していた方が、個人コレクターとして収集した約540台を金沢市に寄贈して創られたものだという。
 入場料収入は微々たるものだろうから、運営はたいへんだろうが、なんとか維持していってほしいと思った。
 ただし、やはり蓄音器は“聴いてなんぼ”のもの。ただの陳列ではつまらない。
 維持していってほしいのは、施設というより、この名調子の解説と試聴のパフォーマンスの方である。


 蛇足だが、金沢ではお約束の、兼六園にも出かけた。
 いつだったか忘れてしまったが、大昔、初めて金沢を訪れた際にも、兼六園を歩いた記憶がある。まだ、金沢城址に金沢大学のキャンパスがあったころである。
 このたび目にした兼六園は、ずいぶん木々が成長し、緑が多くなった印象だった。言い方を換えれば、緑が増えすぎて、洗練された庭園としての佇まいがぼやけてきているような感じである。
 草木を撤去したり、強剪定したりするのも庭園の調和を崩す危険があるので、おいそれとは手を付けられないのだろうが、このままでは「庭園」ではなく「公園」になってしまうような気がする。
 いやはや、時間はあられもなく残酷に経過していく。あちらでもこちらでも、運営者や管理者は、この時間との闘いに、いろいろと知恵を絞らねばならないということだ。・・・あっは。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 10:46Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2010年05月01日

置賜観桜小旅行



 タキソールの投与が終わったらまた温泉に行こうと話していたのだったが、リハビリと観桜を兼ねて、二日ほど休暇を取り、置賜方面に一泊二日の小旅行に出かけた。

 まずは、地元のスーパーで昼食用にいなり寿司と巻物のパックを買い求め、山形市中桜田の「悠創の丘」へ。

 足下の東北芸術工科大学キャンパスの向こうには山形市内が広がる丘陵のベンチに腰掛けて、ノンアルコールのビール風飲料を片手に昼食。
 この日は久しぶりの青空で、山形市街地の上空に浮かぶ月山が神々しく輝いている。
 しかし、この場所は少し風がある。まだタキソールの副作用が続いていて、寒いと手足に痺れや痛みがくる連合いは、食べ終わると早々に出発を促すのだった。


 

 今夜の宿泊は、赤湯温泉の「いきかえりの宿・瀧波」。

 しかし、このまままっすぐ宿に向かったのでは早く到着しすぎるので、国道13号を南下する途中で「シベール・アリーナ」の「遅筆堂文庫」に寄ることに。
 先日、井上ひさしの逝去の報道に接していたこともあった。
 同文庫では、すでにお悔やみの記帳台が引っ込められていたばかりか、井上ひさしが亡くなったことを知らせる張り紙さえ見えず、彼の不在を認識させる表象はなにもない。
 本人の存命中、小松座の舞台を山形市や川西町で3、4回は観、その講演も、出身地の川西町で毎年開催されていた「生活者大学校」を含めて、2、3回聴いたことがあったが、じつは、じぶんはこの人の作品もこの人のもの言いも、あまり評価していなかった。
 しかし、亡くなられてみると、もう少し舞台を見ておけばよかったというような気もしてくる。演出家ではないのだから、本人が生きているかどうかは、舞台の出来にはそれほど関係ないはずなのだが、なぜかそんな気がしてくる。
 ロビーの陽だまりの椅子に腰掛け、そんなことを思いながら暫しぼんやりして、再び赤湯へ向かう。
 
 15時前に瀧波にチェックインし、間もなく徒歩で烏帽子山公園に出かける。

 瀧波の北側を走る赤湯温泉の通りは、街路事業で道路が拡幅され、以前とはずいぶん印象が違っていた。
通りに面した旅館「櫻湯」については、もう十数年も前になるが、あるイベントの宿泊担当をしていたとき、来訪者を配宿するため視察したことがあった。いまは、そのときの大衆的な宿とはかけ離れた高級旅館の佇まいに変貌している。
 近くの銀行の駐車場では、お祭りにあわせたイベントが開催されていて、無名のプロ歌手と思しき中年男性が、ピンクのスーツ姿でカラオケにあわせて歌っている。格好からして演歌歌手かと思われるのだが、聴こえていたのは和製ポップスだった。歌の出来や見てくれはともかく、通りにこういう音が流れていると、なんだか祭り気分でウキウキしてくる。
 その会場の入り口には、なぜか旧式の発動機が何台か並べられ、うち2、3台が、ドゥルン、ドゥルンと渋い音をたてて稼動していた。発動機を動かしてなにをしているのかと思って覗いたら、旧式発動機のコレクターが、イベントの一企画として、来場者にその音を聴かせようと披露しているのだった。
 じぶんは、へぇーと思って覗こうとしたが、旧式だからずいぶんと煙を吐き出すその発動機を見て、連合いは、環境に悪いんだから趣味で稼動させるのはやめろぉ〜と、じぶんにだけ聴こえるように小声で言って、じぶんの腕を引いた。


 烏帽子山公園は、その名の通り、赤湯の街を見下ろす丘陵の公園である。上には八幡神社があって、そこまで急な石段がある。
 この公園には、数年前、やはり花見の時季に訪れたことがあったのだが、それは山の裏手から駐車場に入る経路からだったので、こうして正面から神社に直登するのは初めてのことだった。
 連合いは、急な石段を見上げて、“これを登るの?”と怯んだが、リハビリだと思って行こう、行こう、と声をかけ、手を引いて登り始める。
 途中で2度中休みし、うち一度は咲き始めの枝垂桜とその向こうの赤湯の街を背景に、花見客の写真を撮ったり、代りに撮ってもらったりしながら、社殿まで辿り着く。
 社殿では、二人並んで拝礼。再発や転移が起こらないことを神に祈った。
 桜のほうは、まだ1〜2分咲きといった感じだが、いい天気に誘われて、花見客はそこそこ繰り出していた。

 瀧波には、公式HPからもっとも安いプラン(二人一部屋で一人12,000円余)を予約した。一般客室だということだったが、通された部屋は押入れが突き出た変な構造(本来なら窓になっている面の半分くらいに当たる部分が押入れになっていて、手前に突き出している格好)で、どうも落ち着きがよくなかった。また、窓の障子を開けると、向こうの棟の部屋からこちらが見える構造だった。
 この旅館は、隣接するいくつかの旅館を買収したり、移築したりして増築されたと聞いたことがあった。各棟・各室の構造が別々なのは変化があっていいことだし、古い建物なのも味があっていいのだが、この部屋はあまり泊まりたくなる部屋ではなかった。構造はともかく、内装や調度品で、少し工夫する余地があるだろう。
 ついでに書くと、天井の照明に豆電球がないので、就寝時には、真っ暗にするか、窓の傍の電球を点灯しておくしかない。この電球を点灯しておくと明かりが強くて眩しいのだが、だからと言って真っ暗だと、夜中にトイレに起きたとき心もとない。結局は部屋の襖を少し開けておいて、上がり口の証明が少しだけ射し込むようにして寝た。せめて、枕元に小さなスタンドがあればいいのに。

 前回、CEF4クールを終えてからタキソールに臨むまでの間、元気付けに泊まりに行った上山温泉の宿では家族風呂を予約したのだったが、今回は予約していなかった。事前に、連合いに貸切風呂が必要かどうか訊いたら、気にしないから取らなくていいと言うので。
 でも、風呂から帰ってきた彼女は、自嘲気味に「“頭隠して尻隠さず”でしたっ。」と言った。頭にはタオルを巻いて入ったが、下は隠さなかったので、他の客たちから体毛のないのを訝しく思われたというのである。「わたしを見た瞬間、なんかさっと変な目つきになる」というようなことも言った。
 もっとも、それをあまり意に介さず、彼女は翌朝も大浴場に行った。

 食事は、山形牛と米沢豚のしゃぶしゃぶをメインに、刺身や蒸し物、それに小鉢などが並んだまずまずの内容だったが、通された個室の食事処は窓がない部屋で、これもやや減点。窓が造れない構造なら、内装の工夫や絵画を掛けるなどして、閉塞感を和らげるよう一工夫してほしいところである。
 いちばん残念だったのが、以前に宿泊担当として視察したときに見て、素敵だなぁと思っていた古民家を移築して設けたバーが無くなっていたこと。
 今は、「古民家ダイニング」と冠され、高級部屋を取った客専用の食事処に転用されてしまっていて、一般客室の客は利用できないという。
 館内の見取り図には、この以前のバーの部屋が記載されているのに、その区画が他の部屋や廊下と繋げて描かれていない。つまり何処からどうやってその部屋に行くのかがわからない絵になっているので、仲居さんに行き方を訊いたら、そういう話だった。

 翌日、朝食は大広間での餅つき大会だった。広間の中央に、350キロもあるという大きな臼を置いて餅をつき、それをはっぴ姿の従業員たちが、その場で、茸のたくさん入った雑煮、納豆餅、味噌和えウコギ餅、ずんだ餅、あんこ餅、きな粉餅にして、さっ、さっ、と手際よく客に配膳する。じぶんは、出された7個のうち、6個を食べた。餅の好きな連合いも5、6個食べた。
 この宿の社長?(自己紹介があったのだろうが、少し遅れて入って行ったじぶんたちは聞き逃したようだ)と思しき男性が、はっぴ姿にねじり鉢巻をしてMCのマイクを握っている。
 周辺観光地やこの旅館の案内を交えながら、供する餅や巨大な臼の扱いについて流暢に解説し、自らもフットワークよく客の間を廻る。
 彼のMCや場の取仕切りの手際の良さと、よく訓練された従業員を含めて、その旺盛なサービス精神に感心したが、一方で、なにか急かされているようで落ちつかない。わんこ蕎麦でも食わされているような気分になってくるのだ。

 この朝食を体験して、なんとなく、この宿が自らに「いきかえりの宿」と銘打っていることが腑に落ちた。客は、居住地あるいは前の宿泊地から来て、米沢や蔵王や山寺やさくらんぼ農園を観光してこの宿に一泊し、翌朝、次の目的地に向かって発っていく。
客は、餅をするする飲み込んで、はやく出発の準備を整え、速やかに乗車するように仕向けられる。そもそも、赤湯温泉という場所からして、ゆっくり逗留する温泉場という感じがしないじゃあないか。・・・こういうことを暗黙のうちに繰り込んだ、社会心理学的接遇なのだなぁ・・・などとさえ思えてくる。

 さて、朝食が餅つきだということは、HPで見て事前に知っていたが、餅ばかり食べさせられるとは思っていなかった。少しは普通のご飯と和食のおかずが付くのかと思っていたが、出された3つの小鉢には、漬物とお浸しがちょっぴり盛られているだけで、餅の箸休めという感じだ。
 じぶんは嫌いな食べ物というのがない人間なので、出されればほとんどのものは残さず食べる。ただし、餅というものがあまり好きではないこともあって、こんな捻くれた感想になるのだろう。結論としては、この宿は、総体として、接客がよく、価格もリーズナブルだと記しておきたい。
 
 瀧波を10時ころ出て、連合いが、宿にあった観光パンフレットで見つけた蔵の喫茶店に行きたいというので、その「美蔵」という店を探して高畠町に行く。高安という地区の、「犬の宮」「猫の宮」のそば。農家の小さめの蔵を改造し、喫茶店として営業しているものだった。
 蔵の一階の天井は低く、改築で設けられた窓も小さいので、いつも行く山形市内の「オビハチ灯り蔵」とは違い、中はちょっと息苦しい空間だった。三分の一くらいでいいから、二階まで吹き抜けの空間があればいいのにと思う。二階には、経営者が製作したキルト作品の展示があり、その教室も開かれているとのことだった。
 コーヒーはまずかった。連合いがイマイチだと言う顔をしているので、コーヒーを飲みあげると店を出た。

 


 せっかく高畠に来たのだから、と、安久津八幡宮に寄る。

 境内の手前にある休耕田の菜種の花と、桜と、山の中腹に向けて張られたワイヤーに連なって泳ぐたくさんの鯉のぼりが、絶妙の景観を創っている。
 歴史を感じさせる天然石の参道を歩いて拝殿まで行き、拝殿の格子戸に開いた賽銭投げ込み用の四角い穴から賽銭を投げて拝もうとしたら、拝殿の中で、数人の男たちがなにやら話しながら写真を撮っている。どうも賽銭泥棒が入ったらしく、投げ込まれた賽銭が落ちる先の床を懐中電灯で照らして、指紋でも探しているような様子だった。
 それで賽銭も入れず、拝礼もせずに引き返す。


 そこから米沢市内へ。

 松ヶ岬公園に向かい、「上杉城史苑」の駐車場に車を置いて、「伝国の杜」を眺めながらソフトクリームショップのベンチに腰掛け、ウコギとバニラのミックスをひとつ注文して、二人で食べる。
 どちらかというと上杉嫌い(本当は「上杉好き」嫌い)のじぶんではあるが、苦しいときの神頼みで、上杉神社に拝礼し、再発・転移がないことを祈る。
 松ヶ岬公園の桜も、まだ2、3分咲き。でも、さすがに人出は多い。ここは、山形県の観光スポットの中で、一年を通じてもっとも訪問者が多い場所である。
 昼食を取ろうということになって、この旧い城下町の通りを、当てずっぽうに走っていると、運良く蕎麦屋「新富」に至る。そこで蕎麦をいただく。ここの蕎麦はけっこういける。

 


 さて、まだ陽は高い。それで、帰り道、上山城に寄って桜を見物しようということになる。
 
 武家屋敷の通りを徐行しつつ車中から屋敷を見物して、小路を曲がり、上山城へ。
 連合いと訪れるのは初めてだった。平日だというのに、やはりこの場所もそこそこの人出で賑わっている。ここの桜は、昨日今日の陽気で、7、8分の咲き具合になっていたが、よく見ると、ソメイヨシノの樹勢はやや衰えていて、その分、枝垂れ桜の威勢がいいようにみえる。
 月岡公園から、桜の向こうに望む蔵王連峰は、これまた秀麗である。
 公園のなかを、ときどきベンチに腰掛けながら歩き廻り、茶屋で一串の玉こんにゃくを二人で食べ、この小旅行の穏やかな時間を、あらためて噛みしめる。
 この二日間で、連合いは「パパは厳しいからなぁ」などとこぼしながらも、じぶんに手を引かれて、けっこう歩いた。烏帽子山公園、安久津八幡宮、松ヶ岬公園、月岡公園と、階段や坂もあったのだが、ギブアップせずに廻ることができた。
 頭髪も、ほんとに僅かずつではあるが、復活してきた。
 
 連休明けからは放射線治療が始まる。               

                                                          
                                                        (了)




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 08:29Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2009年09月25日

飯豊町行



 “シルバー・ウィーク”の一日、じぶんとしては珍しくドライブに出かけた。
 
 山形から国道348号で白鷹町、国道287号で長井市を経由し、県道10号で飯豊町に入る。
 この沿線にある定番スポット、農家レストラン「エルベ」で昼食。この店には以前にも2〜3回来たことがあった。
 黄金色の田んぼを眺めながら、4種類のチーズを使った薄めのピザと、海老のスパゲティを食べた。
 このレストランは、農家の奥さんたちが経営しているということだが、ピザの味はなかなかだった。とくにブルーチーズのびりりとした舌触りがいい。

 店は満席だったが、ピザが出てくるまで40分、スパゲティが出てくるまで50分待った。
 その間、サラダのバイキングで腹を収めていたが、サラダのなかでも、地物のカボチャが甘くてとて美味しかった。
 店員の愛想は、悪いと言うほどではないが、よくもない。待たされている間、イライラしそうなところだが、開け放たれた戸の向こうに広がる秋の風景を眺めていると、“スローフード”という言葉が、何度か浮かんでは消えた。(笑)

 
 店を出ると、すぐ裏手にある山の麓の「どんでん平ゆり園」に向かう。
 このゆり園は、6、7月しか開園していないが、今回のお目当ては園の中を突っ切って山へ入る道路・・・・。
 「クマ出没中」の注意書きを視つつ、細くて蛇行はしているが舗装された道路を上っていくと、中腹に展望地がある。

 車を停め、展望地までの100m足らずの距離を、たまたま車に積んであったリュックからクマ避けの鈴を取り出して、鳴らしながら歩く。
 そして、その展望地から飯豊町の「散居集落」を見渡したのが、上記の写真。
 防雪・防風のために飢えられた木立に囲まれた中に家がある・・・その一つ一つが、まるで稲穂の海に浮かんだ島のようだ。
 これが“美しい日本の風景”というやつ・・・・
 (なお、手前で灰色に見えるのは、ビニールハウスである。)

 この風景は、たぶん一生忘れられないものになると思った。
 風景に感動したからではない。それを視ているこちら側の現在の状況に、もっぱらその理由はある・・・。


 それから、さらに南下し、国道113号を横切って、白川ダムへと向う。
 年間でもっとも雨量の少ない季節・・・・ダムの水位は低かったが、その上流の風景には豊かな趣があった。
 ただひとつ、あちこちに見えるナラ枯れの様態が痛々しいことを除いては。

 白川ダム湖岸公園には、オートキャンプ場やパークゴルフ場があり、連休とあって、けっこう賑わっている。
 車を降りて、ちょっとの間、公園を歩く。
 芝生の上で、家族連れが芋煮会をしている。木陰では、若い男女がギターを奏でている。


 それから、さらにその奥、県が造った「源流の森」へも立ち寄り、散策路の目星もつけた。 
 ダムの湖畔の宿泊施設「フォレスト飯豊」やそれに隣接するコテージ村からも、なかなか素敵な展望が得られることも確かめた。
 
 今度は、ゆっくり泊まりに来よう・・・そう言いながら、踵を返した。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           
























 









 






  

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2008年06月19日

さくらんぼマラソン



 6月8日の日曜日、東根市神町(ここがあの阿部和重の小説『シンセミア』の舞台)で開催された「さくらんぼマラソン大会」に出場した。
 この大会は、陸上自衛隊の神町駐屯地をスタート&ゴールにして、周辺の住宅地や工業団地、そしてさくらんぼ農園を回って戻ってくるコースで行われる。

 地元住民による運営協力や児童・生徒の沿道での応援が盛んで、参加賞にさくらんぼがもらえることもあってか、今年は6,900人近い参加者になったようである。これは東北では最大規模であろうか。(もっとも、出場者名簿を見ると、各地の駐屯地から自衛隊関係者がかなり参加しているが。)
 この大会の最大の強みは、自衛隊の駐屯地であるがゆえに駐車場が3,000台分も確保できることだ。


 昨年もハーフの部に出場して、じぶんとしてはまずまずのタイムでゴールできたのだったが、先にもここに記述したように、この1年は仕事が忙しくなったり肩を痛めたりで、ろくにトレーニングができなかった。とくにこの2ヶ月ほどは腰の調子も良くなく、ジムに通うことも、ロードを走ることもろくすっぽできなかった。

 こんな状態でいきなりハーフに挑戦するのは無謀だと思ったが、あるひとに“ハーフ完走を目指すのではなく、次の大会への練習だと割り切って、10キロなら10キロ走ると決め、そこで止めてもいいんじゃないか?”みたいなことを言われて、最初から欠場よりいいか・・・と出場を決心したのだった。
 しかし、途中まで走って切り上げるなんて器用なことができる人間ではない。
 じぶんのことだからきっと走れなくなるまで走るだろう・・・そう思うと不安になって、じつは、前の晩、よく眠れなかった。

 さて、いざスタートすると、いつもならそのぷりぷりしたお尻を見つめながら若いネエちゃんをペースメーカーにして、心肺に少し負担をかける程度の速度で走るのだが、この度は10キロまではとにかくセーブして行こうと決めて臨み、実際そのように実行した。

 10キロを58分くらいで通過。せめて15キロまでは走ろうと思って折り返す。
 よし、あと5キロだ。この調子だと、なんとかなるかもしれない・・・
 し、しかし、16キロを過ぎたところで突然スタミナが切れ、歩いてしまった。
 

 気温は25度くらいだったろうか、晴天で直射日光はかなり強い。
 16キロを過ぎると、歩道に倒れて住民から介抱されているランナーを見かける。
 救急車も何度か行き来している。
 こちとらは、足の指先がシューズと擦れて痛むし、腰は苦しいし、とにかくスタミナ切れで走る意欲が減退してくる。
 しかし、予想した膝・足首の関節や足の筋肉の痛みは出ない。スピードをセーブしたおかげか。


 コースの最後は、駐屯地に戻って、ゲートからグラウンドまでの長い緩い登りの直線。
 ここで難渋する。

 やっと駐屯地の検問所だぁ〜やっとゴール地点のグラウンドに到着したぁ〜!・・・そう思ったが、ここで、そのグラウンドの周辺道路(一周1キロ)を一回りしなければならない。
 その一周で、何度も歩き、何度も走り始めるが、なおまた歩いてしまう。
 気づくと150分の制限時間が近づいている。
 焦る、焦る・・・ああ、制限時間割れはなんて屈辱的なんだ・・・あぁぁ・・・。


 最後の気力を振り絞って、なんとか制限時間内にゴール。
 ゴール後には、芝生に敷いておいた自分のシートまで辿り着くとダウンして、スポーツドリンクを飲み飲み、1時間あまりも寝たり起きたり・・・まともに歩けない状態だった・・・。
 2時間以上運動していると血中の糖分が枯渇して、脂肪を燃やさなければならなくなる。
 これがトレーニングでちゃんとできるようになっていないと、ヘロヘロになって、走る意志力が萎える。
 素人には、このエネルギー切れが一番の敵。
 痛い、苦しいなら我慢もできるが、スタミナ切れは、その我慢して目標を達成しようとする意志力を奪う。


 そういえば、これまでは足が痛くなって苦労したことが多かった。
 このヘタり具合はいままでとは違う。
 ううっ、これが歳というものか・・・
 いやいや、その一方で、しかし、1年ぶりのハーフ完走。
 スタミナが切れると、どんなふうになるかも経験した。


 ま、いいか。  ・・・さらば、50歳!
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:31Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2008年06月18日

ブナの森を歩く 2

 6月の初め、月山山麓の山形県立自然博物園を訪れ、インタープリターに案内されてネイチャートレイルのコースを歩いた。
 昨年の5月にもここを訪れているが、そのときはまだ2メートル以上の残雪があった。
 思えば、5月の初めにはこの6月に地面を歩いているじぶんの頭よりも高い位置、つまりは空中を歩いていたことになる。
 この自然博物園のネイチャートレイルのコースにはいくつか種類があるが、今回じぶんが参加したのはもっともポピュラーなもので、一般参加者対象で毎日9:30と13:30の2回出発、各120分程度のブナの森の散策のコースである。(但し月曜日は休み。)







 残雪に埋まった枝先を立ち上げようと突っ張っている低木たちを掻き分けてコースに入ると、すぐに案内人が地面からくるりとまかれた葉っぱを拾って見せてくれた。
 オトシブミが葉っぱを丸めて、その中に産卵したものだ。丸まった形が“落し文”に似ているのでこの名が付いたという。かれらはこれを1個90分程度で造るのだそうだ。
 くるくると巻いた葉の端を、さらに折り曲げてまとめてあるのがなんとも丁寧な仕事だ。感心する。







 ミズナラを見上げながら、タムシバやオオカメノキの白い花、それに鮮やかな濃いピンクのムラサキヤシオツツジ、そしてまだ開ききらないハウチワカエデの花を楽しみながら登っていく。
 すると小さな清流が通った「元玄海」と呼ばれる広場にでる。
 ここにはいくつか石碑がある。昔は祈祷所だったという。
ここに至る少し手前の分かれ道を登っていくとやがて「装束場」を経て、湯殿山の御神体に至る。この山麓は修験の場でもあったのだ。








 月山の湧水で喉を潤し、サワグルミの大木を見上げる。サワグルミは湿地が好きだという。
 ここを過ぎると、ブナの二次林がおわり、やがて原生林に入っていく。
 水溜りで卵のうを見つけた。これはクロサンショウウオのもの。この辺には他にトウホクサンショウウオも棲息している。
 モリアオガエルが産卵にきて、その卵はイモリに食べられてしまったりもするそうだ。








 この博物園のシンボルツリーだというトチの大木を見上げる。
 “大橡のおばあちゃん”と呼ばれている。
 トチというとすぐ橡餅を連想してしまう。1個いただく分には美味しいが、調子にのって2個目を食べると、気持ちが悪くなる・・・  じぶんの場合は、饅頭でもそうなのだが。(苦笑)









 僅かに雪が残ったブナの原生林は静謐だった。
 林の向こうで、アカゲラが縄張りを誇示してドラミングを始めた。
 新緑の梢から差し込む柔らかな光・・・じぶんが煩悩と業の塊であることを、いっときは、忘れた。

 もっと長い間、ここでぼーっとして、救われた気でいたかった。                                                                                                                                                                       
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:30Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2008年03月08日

井の頭公園行

 いつものようにぶらりと東京へ出かけた。
 大きな書店を廻ったり、街の景観を眺めてあるいたり、たまに展覧会を覗いたり、たま〜に小劇場演劇を観たりするだけだが、小遣いが溜まると、ふらぁ〜りと東京へ向かっている。

 今般は、JR東日本の「大人の休日倶楽部」(うっ、歳がバレる・・・)の会員パスで、3日間乗り放題12,000円というチケットを利用したのである。
 このチケットでは行こうと思えば金沢まで行けるのだが、結局いつもどおり“東京ぶらぶら行”を繰り返すことになった。


 まず足を向けたのは吉祥寺。

 吉祥寺というと、20年以上も前に渡辺えり子の劇団3○○(さんじゅうまる)の芝居を「吉祥寺バウスシアター」に観に来たのが思い出される。
 どんな芝居だったかあまり憶えていないが、「瞼の女−まだ見ぬ海からの手紙」だったような気がする。
(ネットで検索すると・・・バウスシアターは映画館だったんだ・・・)
 渡辺えり子の芝居は、岸田戯曲賞を受賞しただけあって、戯曲はけっこうよく書けていたりするのだが、舞台の方は“女子高演劇”という印象を受けたのを憶えている。

 話は飛ぶが、山形に来て、大学に入って、五月病のちょっとした気の迷いで演劇研究会の部室に足を踏み入れてしまったものの、そもそも高校まで演劇なんてまったく関心も何もない人間だったので、なりふりかわまず手時かな芝居を観て回ったのだったが、その手近の芝居というのが地元高校演劇部の公演だったりもして・・・そのなかに山形西高という女子高の公演も含まれていたのである。
 この山形西高というのは、当時は県内でもトップクラスの進学校だったが、渡辺えり子の出身校である。
 それを知っていたからか、知らなくてもなのか、は定かではないが、渡辺えり子の芝居を観た第一印象が、“あ、これ、山形西高の芝居の延長線じゃないか・・・”というものだった。
 プロの劇団3○○の舞台と訓練されていない女子高生の舞台とを同列に扱うのは失礼だが、しかし、どこかしら漂っているテイストというものがあったのだと思う。

 脱線ついでに言うと、山形には山形北高という女子高もあって(当時は北高の方が男子には人気があった)その舞台も観に行ったのだが、同じ女子高演劇でも全然テイストが違っていた。
 こちらは実力派といった印象で、大学生のくせに、先輩に連れられてこの女子高の稽古を見学しにいったこともある。(^^;

 何れにしてももう30年以上も前の話だ・・・・あっは。



 最初から思い出話で脱線してばかり。歳をくった証拠かもしれぬ・・・(自嘲笑)

 さて、井の頭公園を訪ねたのには、ちょっとばかり恥ずかしい訳があった。

 駅から公園に向かう路地にはすでに人が溢れているが、この界隈は明るくくつろいだ雰囲気である。
 坂を下って公園に入ると、そこには写真のような大道芸や演奏をする人々がいて、散歩人たちが足を止めて見入っている。
 遊歩道沿いには、手作りのアート作品を売る出店がならんでいる。
 よく観るとその出店には「ART*MRT」という許可証が掲示されていて、これが「井の頭公園100年実行員会」主催による「アートマーケッツ」という企画なのだということがわかる。



 以前、この公園を訪れたとき、これらの出店のなかに若い女性が手作りの詩集を売っているのを見つけ、いつかじぶんもこうして詩集を売ってみようか・・・・などと想ったのだった。
 それを思い出しての下調べというのが、じつは恥ずかしいというここを訪れたその訳である。
 しかし、店開きするには「東京都西部公園緑地事務所管理課」の許可がいるようだった。

 2枚目の写真は、ブルースを演奏するおっちゃん。
 テネシーワルツをブルースで歌っていた。
 このおっちゃんだけだと、ブルースオタクの爺という印象で終わるのだが、バックに若いギタリストを率いているので、なかなかカッコよく見える。
 写真では、この若い男性が街灯の柱に隠れて見えないのが残念。





 ふとこの東京という街がくそったれの階級社会であるということを忘れさせる空間。
 それが休日の井の頭公園である。



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:02Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2008年02月06日

新宿三丁目から池袋ウエストゲートパークへ




 千葉ニュータウンを訪れた次の日、いつものようにぶらりと新宿へ出かけた。
 二十歳のころから、上京すると決まって足を向けるのが新宿東口である。

 寄る場所はいつも変わらず、昔から紀伊国屋書店と新宿三丁目。
 もっとも、ここ数年はジュンク堂で過ごす時間の方が多くなった。
 ジュンク堂で本を探すのに疲れると、同店が入っている新宿三越アルコット店の裏口から三丁目へ出て、決まったように小汚い寿司屋で670円の海鮮ちらし丼を食べ、これまた決まったように“セガブレード・ザネッティ”という名前だけは大そうなカフェで290円のコーヒーを飲みながら、外の通りをぼんやり眺める・・・。

 この日は平日の午後で、人通りの少ない時間だった。
 休日に来ると、じつにいろいろなひとびとが目の前を通り過ぎる。眺めていて飽きない。





 この日の泊まりは、定宿にしている池袋西口のホテル・メトロポリタン。
 ホームページで格安の部屋を予約したら、工事中で午後6時にならないとチェック・インできない部屋だった・・・。(--;
 それで、西口公園(いわゆる石田衣良のいう“池袋ウエスト・ゲート・パーク”)を横切って、東京芸術劇場のドームの下の、これ また名前だけは立派な“ユーロ・カフェ”というオープンカフェで、ハイネッケンを飲みながら本を読んだ。
 真冬の夕暮れに、風通しのよい場所で、冷えたビールを飲むのもオツなものである。







 すぐ右手を見あげると、劇場の入り口に繋がる大きなエスカレータがあり、その上に体育館みたいな鉄骨の屋根と照明が広がっている。
 この劇場のコンサートホールには、2度ばかり東京都交響楽団を聴きに来たことがある。

 2004年に出した詩集『母を消す日』(書肆山田)のなかの作品「ウエスト・ゲート・パークで子守唄をひねる」は、このあたりに取材したもの。
 待ち合わせした女を待っていると、その女の子どもたちの幻覚が一人ずつ現れ、やがて死んだじぶんの母が現れるという物語である。                                                                                                                                                                                                                              



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:25Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2008年02月03日

千葉ニュータウン行




 急性の白血病によって40代半ばで死んだ友人の7回忌が近づいたので、墓参りに行った。
 かれの(ということはかれの家族の)自宅は千葉にある。そこを訪ねた。

 大宮からJR埼京線で武蔵浦和、そこからJR武蔵野線で東松戸、そして北総鉄道で千葉ニュータウン中央へ。
 東松戸駅で乗り換える僅かな時間に撮影したのが1枚目の写真。
 広大な平地が続き、スプロール化した土地のところどころに雑木林のようなものが見えるが、山というものが一切見えない。盆地で生まれ育ったじぶんのような者には、逆に息苦しい風景である。

 ふと、では、なぜ山に囲まれた盆地よりこの見渡す限りの平野の方が息苦しいのかと考えてみた。
 この平らな土地は、どこまでものべたらに同質な印象なのだ。どこまで走ってもこの現状から逃れられない・・・そんな閉塞感がある。
 その反対に、盆地は地理的には閉塞した空間だが、不思議にも、あの山の向こうには別の世界がある・・・あの山を越えればじぶんは変化できる・・・そう思えるのだ。





 数年ぶりに降り立った千葉ニュータウン中央駅の周辺は、依然とずいぶん様子が変わっていた。
 駅の北側にはニュータウンが拡がり、とりわけイオンのショッピングセンターが異様に増殖している。まるでイオン城下町といった塩梅である。
 イオンの建てた安普請の箱物に、コジマやらドンキホーテやらの量販店、それにシネコンや専門店のモールが収まり、それらが道路沿いに立ち並んでいる。
 いわば一から十まで規格化され、マニュアル化された街が出来上がっている。小規模な独立の店舗や地元の個人経営による商店や飲食店みたいな店はほとんど見当たらない。
 快適といえば快適そうだが、じぶんにとっては、息が詰まり、頭がおかしくなりそうな街である。若干の救いは、量販店のケバケバしい大型看板が規制されていて、いくらかは景観に配慮がなされているらしいことである。





 友人には同年代の妻と3人の娘がいた。
 その家族に会い、まずは友人の墓参りにいくことにした。
 墓参りといっても、これも大きなセレモニーホールの地下にもうけられた納骨堂の、小さめのコインロッカーほどの空間が、かれの墓である。
 扉を開くと、扉の裏側に、今も健在のかれの父親から彼の妻に送られた手紙の封筒が添えられてあって、その封筒には、かれが子どものときに書いた汚いひらがなの作文が何枚か入れられている。
 このホールの建っている場所が印象的だ。3枚目の写真に写っているように、大きな送電線の鉄塔に隣接している。

 夕食まで少し時間があったので、友人の妻が、墓参りの足を伸ばして、車でこのあたりを案内してくれるということになった。
 千葉ニュータウン中央駅から、となりの印西牧の原駅までの5キロほどの区間を、北総鉄道の線路にそって走る。
 北総鉄道の線路は開削された下を通っているので、隣接して並行する道路から見ると、路線敷地がまるで人工の河のように見える。





 その河の両岸に沿って一方通行の道路2車線ずつが走り、ところどころに両車線をつなぐ橋が架かっている。
 そして道路に面して、大型の郊外型量販店が、まるで工場群のようにずらりと並んでいる。
 4枚目の写真は、雑貨店としては日本一の売り場面積だというジョイフル本田。
 “河”の対岸には観覧車のあるショッピングセンターが連なっている。


 友人の娘たちは、この風景のなかで育ってきたのだ。それはかれ自身が育ってきた風景とはおよそかけ離れた風景だ・・・。
 このような風景の故郷で育った子どもたちは、どんな感性を持つのだろう・・・ふとそんなことを思った。
 そして、都会に出て、山形にはもう戻らないと言っているわが息子たちは、こんな風景の“故郷”でその子どもたちを育てていくのだろうか・・・とも、思った。

 マンションの価格は、山形市内のそれと同様くらいだと聞いた。
 だが、都心から1時間余りのニュータウンにマンションを購入できるのは、格差の拡大している今日、どちらかといえば経済的には恵まれた方の人々ではあるだろう。あの息子たちは、果たしてこの町の住人たちほどにもなれるのか・・・そんな見込みがたつわけでもないから、これは余計な心配ではあるのだが・・・。(苦笑)

 泊まりは、千葉ニュータウン中央駅の裏側の“超豪華”ビジネスホテル「ホテルマークワンCNT」。並み以下のビジネスホテルなのに、税込み7,560円は、軽食の朝食付きでも割高感がある。それに、隣の部屋の鼾が聞こえてきた。
 チェックインのとき、「7時半から朝食です。」と聞いたが、何時までとは言わなかったので、8時半過ぎに食堂へ行ったら、もう店じまいしていた。
 唖然としていたら、パートのような中年女性の従業員が「よろしかったらどうぞ。」と特別に残っていた菓子パンを出してくれた。 それと、オレンジジュース、コーヒーの食事を、閑散とした食堂でとる。窓の外には3階建ての駐車場。隣にはゲームセンター・・・まったく味気ない風景である。


 余談だが、山形新幹線で来て大宮で下車するとき、終点の東京で降りるいつもの感覚でいて、読書に熱中して降り遅れそうになった。ふと顔を上げるとすでに大宮駅に停車していたので、慌てて棚からコートを掴み取り、ダッシュで下車した。
 ホームに出た途端、マフラーを取り忘れてきたことに気付いたが、すでに発車のベルが響き亘っていた。
 ここで戻ったらもう下車できないか・・・・。そう思って、恨めしそうにホームとは反対側のじぶんのいた席のあたりを覗き込んでいると、その前の席に山形から座っていた女性の二人連れのうちの片方のひとが、棚のうえのマフラーに気付いて、発車ベルの中をドアのところまで届けにきてくれた。
 なんと親切な・・・。何度もお礼を言って列車を見送った。

 
 娘たちよ、学校を出たら、山形に来なさい!                                                                                                                                                                                                        



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:41Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2007年11月28日

宇都宮行



 東京に泊まった翌日、例によって帰り道に宇都宮に寄る。
 劇団「It’s Secret」の講演を観るためである。

 開演まで時間があったので、街の中心部(馬場通りのパルコ周辺)へ出かける。
 パルコ向かいの上野デパートの廃墟が取り壊され、建物が建設されているところまでは前回の訪問のときに見ていたが、目出度くそのビルが出来上がっている。しかし、雑居ビルなのでどうもぱっとしない。(写真の一番奥に見えるビル)

 この大通りにはもうふたつ廃墟が立っている。同じ上野デパートの別棟(写真には写っていない)と、 写真手前に見える三階建てのビル。(この間まで1階にタクシー会社が入っていた。)





 この廃墟はかなり見苦しいが、しかし隣のスッポン屋が面白い。こういう町並みになぜか目がいく。

 昼食の時間だったので、「みんみん」本店で餃子をと思い訪れたが、あの気合の入った人々の長蛇の列に1時間も並ぶ気になれず、大通りに面した「世界楼」という中華料理屋に向かう。
 ここは中国人がやっている安くてけっこう美味しい店だった。しかし、テナント募集中との看板が・・・。これは残念だ。この辺りではもう他に入りたくなる店が見当たらない。







 仕方なく、商業ビル「ラパーク」(元の長崎屋)の地下の「来らっせ」という餃子店モール内の「みんみん」で餃子を食べる。
 本店とは違って特記すべきことはないが、平均的な餃子よりは美味い。それに6個で220円というのだから、具の量は少ないが安いことは安い。

 「みんみん」の特色は、飲み物を除けば餃子(水、揚げ、焼きの3種)とライスしかメニューにないところだ。宇都宮を最初に訪れて駅ビルの「みんみん」に入ったとき、スープもないことに少々カルチャーショックを受けた。
 “うちは餃子で勝負しているのだから余計なものは出さない”という主義は理解できる。だが、それを受け入れ嬉々として列を作っている客たちの従順さには異和を覚えた。
 いくら餃子が美味くても、飯に汁は要る。汁のない飯を食べても食事したということにはならない。餃子を肴にビールを飲むのでないかぎり、汁のない餃子屋には、いくら餃子が旨かろうと月に一度もいけばたくさんだという気がする。

 写真はパルコ側から見たラパーク。屋上がフットサルのコートになっている。







 最後の写真は、アーケード街「オリオン通り」を「バンバ通り」の方から見たところ。

 宇都宮は、人口のわりに文化的に薄っぺらであまり面白みのない街だという印象なのだが、訪れるたびに少しずつ愛着がわいてくる。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:50Comments(0)歩く、歩く、歩く、