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2012年04月03日

ジャクソン・ポロック展



 国立近代美術館で「ジャクソン・ポロック展」(2012年2月10日~5月6日)を観た。
 この展覧会は、ジャクソン・ポロック(1912~1956)の生誕100年を記念した回顧展である。
 展示作品全体を製作された時期で4つの章に分け、それぞれの時期についてのポロックの生活史に関する資料や解説が添えてある。そのために、どうしても作家の人生の軌跡と作風の移り変わりを重ね合せて観てしまうことになる。
 その軌跡とは、カリフォルニア州など各地を転々とした流れ者のポロック家に育ったジャクソンが、兄とともにニューヨークに出て苦労しながら絵画の研鑽を積み、精神の荒れからアルコール中毒になりつつも、妻リー・クラズナーの献身に支えられて表現を磨き、「1943年、著名なコレクターのヘギー・グッゲンハイムに見出され、一夜にしてヒーローに」(本展覧会のチラシから)なる。だが、その成功のピークで再びアルコールに溺れ、表現にも行き詰まり、さらには他の女に手を出してついには苦労をともにしてきた妻にも去られ、酔っ払い運転で自死するように事故死したという生活史である。


 
1 「第Ⅰ章 1930-1941年 初期 自己を探し求めて」

 1930年から33年ころの自画像(本展覧会の作品番号1)は暗く荒れており、同時期に書かれた「Woman」(作品番号2)では、母親と思われる太った女が醜悪な姿で大股を開いていて、作者のアイデンティティの不安定さを伝えてくる。
如何にも安易な言い方で言ってしまうことになるが、思春期から青年期におけるジャクソンの印象は“無意識が荒れている”というようなものだ。
 この荒れた無意識を濃密な色の絵の具で充填したかのような作品群が、この章に展示されている。ネイティブ・アメリカンの表現やリージョニズムの価値観、そしてピカソのキュビズムに影響を受けた作品群は、ごそごそと蠢きはじめた表現エネルギーの揺籃といった印象である。(作品番号14「無題 多角形のある頭部」、作品番号15「誕生」ほか)
 1939年から42年ころのスケッチ群(作品番号17、18、19)は、ユング派精神分析医の治療として描かれたと解説にあったが、その中の一つに男女が立ったまま性交しているような絵がある。描画の線が混乱していてうまく判別できないが、この絵から受ける印象も、ずいぶんと錯乱した精神の持ち主だなぁというものである。


2 「第2章 1942-1946年 形成期 モダンアートへの参入」

 “無意識の荒れ”とその表現エネルギーの奔流は、ジャクソン・ポロックを当然のように抽象絵画に向かわせる。ネイティブ・アメリカンの色使いと砂絵的手法でシュールレアリズムのオートマティズムを意識した作品「ポーリングのある構成Ⅱ」(1943年、作品番号21)やミロの影響を受けていると言われる「ブルー-白鯨」(1943年、作品番号22)、
オートマティズム・ドローイングの「トーテム・レッスン」(1945年、作品番号34)などが印象的だった。この時期の作品群は、ネイティブ・アメリカンの手法に被せて時代の流行の表現形式を試行してみたものという印象をぬぐえないが、それでもたしかにポロックのオリジナリティは感じられる。
 ところで、ポロックは抽象絵画としてやるべきことはすべてピカソにやられてしまったと話していたとのことである。
 彼はピカソがやらなかった表現行為を模索したのだろう。ピカソのキュビズムにはない動的な時間と労働の感覚をマチエールとして定着すること、それがやがてオールオーバーのポーリング(pouring)として結実する芸術体験だったということなのかもしれない。



3 「第3章 1947-1950年 成熟期 革新の時」

 
 この章で最初に展示されている「ナンバー11、1949」(作品番号38)を眼にしたときの印象は、初期のシュールな物語的作品と本質的に変わっていないじゃないか、というものだった。
 しかし、「無題」(作品番号39)、「ナンバー17、1950 花火」(作品番号40)、「ナンバー25、1950」(作品番号40)などのポーリング作品を観ていくと、非常に緻密な造形がなされていることに眼を見開かされる。
 作者が言うとおり、たしかにこれらは偶然が齎した造形ではない。
 その感懐は、代表作といわれる「インディアンレッドの地の壁画」(1950年、作品番号42)の前に立つとき、はっきりと衝撃感というべきものに変わる。この作品には、やはり少しだけ圧倒される。
 美術素人のじぶんも、以前どこかでポロック(あるいはポロック風)のポーリング作品を観たことがあった。しかし、いままでの印象はたんなる抽象表現絵画の一作品というもので、はっきり言えば、作者の自己満足的パフォーマンスの成果物か?といったものだった。だからこの回顧展にもたいして期待をもってはいなかったのだが、その予想はこの作品によって、幸いにも大いに覆された。
 美術作品とは、やはり現物を実際に観なければならない分からないものである。(苦笑)

 「インディアンレッドの地の壁画」は、幾重にも塗り重ねられたポーリングの層で構成されている。ポーリングとは、キャンバスを床において、上から絵の具を注ぐ(あるいは浴びせる)手法である。オールオーバーとは、キャンバスが中心的なイメージとその背景の地によって構成されるのではなく、中心的な、あるいは具象的なイメージをもたない<全面的>なデザインによって構成されている状態を指している。
 この重層性にポロックの無意識の質感や厚みが現れていると見ることもできるし、ポロックが錯綜して収拾がつかない自身の無意識を内部から引き剥がして、それを自身の意志の力でキャンバスに擦り付けているありさまだと看做すこともできる。
 偶然と必然的な意志が合体した形象に僥倖が宿っている。しかし、このことこそが、おそらくはポロックに「アメリカン・ドリーム」を実現させたと同時に、彼を破滅させる要因になったのだと思われてくる。

 この展覧会の会場では、ハンス・ネイムスという映像作家が製作したポロックの創作の様子を撮影した記録映画が上映されており、またポロックのアトリエ等を撮った多くのスチール写真も展示されている。
 ここに登場するポロックは、痩せ型で影の薄い、つまりは自分に自信のなさそうな風貌のオッサンである。それが驚くほどエネルギッシュな作品制作を展開している。その制作は、偶然と戦いながら偶然を必然(=意志)へとねじ込める力技の営為なのだ。少しでも緊張が途切れなら、作品内部の時間は容赦なく“偶然”へと転落する。
 じぶんがこのようなポーリングの制作を行うことを想像するならば、不如意の作品が出来上がってしまったときの無力感と心身へのダメージは相当に大きいに違いない。これは神経と精神エネルギーをすり減らすような行為なのだ。
 ポロックが、オールオーバーのポーリングという手法が孕むこの致命的な危険性を避けようとして選択した方途は二つだった。ひとつは、“偶然”を回避するために、偶然の上に意図を重ねることだ。この方向への模索は、銀色の絵の具でオールオーバーのポーリングのあちこちを部分的に塗りこめた「ナンバー9、1950」(作品番号44)や、オールオーバーのポーリングの中心部を人型(?)に切り抜いたかのような「カットアウト」(作品番号45番)に現れている。
 もうひとつは、次の第4章で展示されている「ブラック・ポーリング」という手法への転換である。


3 「第4章 1951-1956年 後期・晩期 苦悩のなかで」

 「ブラック・ポーリング」とは、いわば黒色の一筆書きのような抽象画である。作品によっては、これに「ステイニング」という手法で墨絵のような染み・滲みを用いた作品もある。
 書道作品や墨絵を見慣れたわれわれには、身近にも思えるし、それゆえ安易な手法にも見える。
 重要なのは、ここで「オールオーバー」という手法が持っていた画面の全体性つまり非中心性が失われ、それに変わって筆の動きの姿、つまり画像の意味するものは抽象的だが、視覚対象としては中心的な形象が提示されていることだ。
 「ナンバー11 1951」(作品番号44)、「無題」(作品番号55)などが印象的である。

 自身のオールオーバーのポーリングという方法論を持ち切れなくなったとき、ポロックは上記の二つの方途を、そのどちらでもいいからもっと突き詰めていくべきだったのだ。だが、実際に彼が辿ったのは、再びアルコールに手を出してこの緊張感から刹那の逃避を図る途だった。上記のハンス・ネイムスの記録映画がクランクアップした日から、ポロックは再び酒に手をつけたと言われている。たしかにアル中では、まともなオールオーバーのポーリング作品をものすることはできそうにない。
 それに、ポロック全盛期のオールオーバーのポーリング作品があまりにも注目されたために、転換後の手法の作品は低い評価しか得られなかったようだ。

 ブラック・ポーリングは、一つの作品にかかる手間が少なくなる分だけ、様々な色彩を用いたオールオーバーのポーリング作品よりもむしろ“偶然”の要素が大きくみえてしまう。作者の意図は、一つの作品の構成というより、数多く構成された(であろう)前作品ないし原作品から、完成品として提出する作品を“選択する”という行為として現れることになるだろう。
 このことは、いわば制作のパフォーマンスの“一回性”に作品の出来を賭けているようで、じつは一回性を殺すようにはたらく。このことがポロックの精神の更なる荒廃を帰結したのだと思える。晩年のポロックは、表現することの快楽を見出し得ない袋小路に立ち至っていたようにも思われる。

 「アメリカン・ドリーム」を実現した才能は、しばしば家族関係からくるトラウマか貧困からくるトラウマを抱えている。これはハリウッド映画のストーリーの約束事みたいに見えるが、ジャクソン・ポロック展を見ていると、この作家の実際にもそういうことがあったのだろうと思わせられる。
 衝撃的で濃密な存在感のある作品群と、その作者の生活史の荒れてよじれた気弱さ。そんな対照的なイメージが、この作品展を複雑で魅力あるものにしている。


 さて、勝手な想像で書いてきてしまったが、ポロック展については、その開催に先立って「芸術新潮」(2012年3月号)が多くのページを割いて特集を組んでおり、多数の作品の写真とポロックの生活史を含めた解説(愛知県芸術館学芸員の大島徹也氏による)を読むことが出来る。
 じぶんはこれを書店で立ち読みした。よっぽど購入しようと思ったが、はっきり言って“書きすぎ”の感が否めず、さっと眼を通しただけで止めた。これは展覧会を見る前に買うべきものではない。                      (了)
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:31Comments(0)美術