2023年09月28日

『切実なる批評-ポスト団塊/敗退期の精神-』所収の黒田喜夫論について

『切実なる批評-ポスト団塊/敗退期の精神-』所収の黒田喜夫論について



 高啓著『切実なる批評-ポスト団塊/敗退期の精神-』について、川岸則夫氏から手紙をいただきました。
「黒田喜夫論がとくに小生の目を引きました。というのも、黒田さんの詩を演劇的・映画的な方向から分析する評論は余り見たことがなかったたからです。(中略)小生も例外ではなく、その辺りの魅力に引きずられて黒田詩を読み始めた一人でした。黒田詩というと、その背景となる出自や政治的背景ばかりに目が行き勝ちですが、そろそろ貴兄の論文のような方法論的な接近、分析も必要かと思います。」とあり、嬉しく思いました。

 さて、この黒田喜夫論は、詩誌『山形詩人』96号(2017年10月)に「黒田喜夫における演劇的な詩の位相とその行方について」と題して発表したものです。
 作品「空想のゲリラ」を<映像的=一人称ドキュメンタリー的>、「ハンガリアの笑い」を<映画的>、「毒虫飼育」を<演劇的>な作品ととらえ、黒田喜夫の表現と思想の中心に置かれた《飢え》が、それ自体の本質として自己否定の弁証法過程を辿っていくものであることを手掛かりに、「毒虫飼育」に結実した《演劇的な詩》の地平を明らかにしています。
 このような黒田論は、高啓が学生時代に演劇にかぶれた経験を持っていなければ書かれることはなかったでしょう。

 高校時代、現代国語の授業がつまらなくて教師の目を盗んで勝手に読んでいた副読本のなかに黒田喜夫の詩を見つけ、名状しがたい衝撃を受けました。70年代の終わり、山形大学の学生だった高啓は、当時山形県内の文学活動の仕掛け人のような存在だった安食昭典氏から晩年の黒田も同人に名を連ねていた詩誌『幻野』に誘われ、同誌に論稿(黒田喜夫論ではありません)が掲載されたことを単純に嬉しく思ったものでした。黒田喜夫の詩は久しく特別な存在でしたが、黒田の詩と出会ってから40余年を経て、本論を書くことで一定の決着をつけたように思います。
 
『切実なる批評-ポスト団塊/敗退期の精神-』所収の黒田喜夫論について



 1枚目の写真は上山市立図書館「夭折の芸術家 蔦谷一行没後30年作品展」(2023年7月27日~9月24日)から。
 なお、この作品展に展示された蔦谷一行(1955-1993・上山市出身)の作品は、新庄市内で「アトリエ・山形現代美術館」を運営している渡部泰山氏の所蔵とのこと。渡部氏は高校教師をしながら、県内や東北の無名(有名になる前の)美術作家の作品を自費で収集してきたそうです。そのコレクション(山形現代美術館に展示)は同氏の慧眼を窺わせます。
 2枚目の写真(逆光のため写りがよくない)は、蔵王坊平高原に設置されている蔦谷一行の彫刻作品「山の番人」。
 この夏、避暑のため坊平を訪れた際にこの作品を見つけてちょっと驚きました。いままで何度も同じ場所を訪れていたのに、ちゃんと観た(意識して視た)のはこのときが初めてだったのです。このときは、これがあの蔦谷一行の作品だとは気づきませんでした。









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Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:37│Comments(0)作品情報批評・評論
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