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2011年12月03日

現代詩ゼミナール東日本 in 青森



 2011年10月8日(土)、店頭にうまそうなりんごがあふれる青森市で、日本現代詩人会の「現代詩ゼミナール東日本 in 青森」が開催された。(会場:青森駅側の「ねぶたの家“ワラッセ”」イベントホール)
 このゼミナールは、日本現代詩人会が東日本と西日本で毎年1回ずつ開催するイベントで、その企画・運営は基本的に地元の詩人たちによる実行委員会(開催県在住の日本現代詩人会会員と地元の詩人会による場合が多い)に委ねられている。
イベントへの参加は会員にのみならず、広く一般に開放されている。
 このゼミナールのプログラムのひとつとして、詩人による自作詩の朗読が恒例になっており、東北での開催ということで、地元青森を含む東北各県から詩人が招待された。高啓は、山形県の詩人としてこの催しに招かれ、自作詩を朗読した。

< イベント内容 >
 1 シンポジウム「高木恭造と村次郎の詩について」
    パネラー:圓子哲雄、山田尚、藤田晴央
 2 詩人たちによるポエトリー・リーディング
    麻生 直子(東京都)
    齋藤 貢 (福島県)
    秋 亜綺羅(宮城県)+舞踏・伊藤文恵
    高  啓 (山形県)
    菊池唯子 (岩手県)
    成田豊人 (秋田県)
    高橋玖未子(青森県)
    佐々木英明(青森県)+舞踏・福士正一
 3 津軽三味線演奏と舞踏
    演奏:山上 進
    舞踏:福士正一、伊藤文恵


1 シンポジウムについて

 高木恭造(1903〜1987)は、青森市生まれ。旧満州で青春期を過ごし、弘前で眼科医となった。方言詩が3篇、真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(岩波新書、1966)に収録され、英訳もされたことで、方言詩集『まるめろ』が高く評価されたという。
 村次郎(1916〜1997)は、八戸市生まれ。慶応大学仏文科に入学。画家になりたかったが、反対する父と衝突し、「何にもならない人間になりたい」と思春期から思っていたという。話す言葉は八戸弁だったが、詩はすべて標準語だった。高木の『まるめろ』を評価してはいたが、基本的に方言詩は認めなかったという。また、日本語は朗読に適さないとして、決して詩の朗読をしなかったという。長く「幻の詩人」として語られてきたというが、今年、『村次郎全詩集』が出版された。

 じぶんはどちらの詩人についても知識を持っていなかったが、両詩人の紹介を聞いていくうち、方言詩に対して相反する見方を持った二人を取り上げたこのシンポの議論の行方に興味をもった。じぶんも基本的に“方言詩”(つまり方言で書かれていることに意味を持たせている詩)については、これを認めないという立場であり、その根拠(認めないという姿勢の根拠)が重要だと思っているからである。
 しかし、その期待ははぐらかされ、当日のパネラーの話は両詩人の人柄や著作を語ること及びこれらの詩人たちとパネラー自身との関係に関する記憶を語ることに留まった。
 一般参加者にも開放したこのようなイベントで、郷里の詩人たちをより深く知ってもらおうとする試みに異議を唱えるつもりはないが、もう少し普遍的なテーマに繋がる議論の展開を心がけてほしいと思った。

2 詩の朗読について

 高啓と佐々木英明氏以外の詩人たちは、すべて東日本大震災に関わる作品を朗読したが、はっきりいえば、ろくな作品が無かった。
 この時期に、八戸など太平洋側の地域が被災した青森県で開催されたゼミナールで、しかも東北各県から詩人が招かれているのだから、大震災や福島第一原発の原子力災害に関する作品を発表または朗読しない方が不自然なのかもしれないが、そのテーマを取り上げればなにか切実な作品になるかというと、そんなことはさらさらないのである。

 高啓は、震災にも原発事故にも一言も触れず、いわゆる“つかみ”代わりに先日の2泊4日の知床行の途中で新青森駅で青森行きへの乗り継ぎを間違えて大慌てでタクシーに飛び乗った話をして、その後、「女のいない七月」という作品を朗読した。
 この作品を選んだのは、「山形詩人」に発表したこの作品が『詩と思想』誌(2011年1・2月合併号)の「2010ベストセレクション」に掲載され、すでに不特定の人々の目に触れ得る状況になっていたからである。
 イベントの後で催された交流会で、幾人かから「女のいない七月」の朗読について話しかけられた。そのうちの半数は、この作品の性をめぐる表現からか、にやけたような冷やかしのまなざしを浮かべていたが、残りの半数は真面目な面持ちで面白い詩だと評価してもいた。


3 福士正一氏について

 青森に住み、青森を拠点として活動している「オドラデク劇場」主宰の福士正一氏の舞踏を初めて観て、その後の交流会で初めて言葉を交わした。
 福士正一氏は、山形大学演劇研究会でじぶんより3年上の先輩だったが、じぶんが入部したころ、福士氏はすでに同劇研の活動と距離を置くようになっていたので、学生時代は対面したことも言葉を交わしたこともなかった。ただ、山形県在住の舞踏家・森繁哉氏の公演を手伝った際に、福士氏を見かけたことはあり、その名前も知っていた。
 彼は、マネージャーのように連れ添う夫人と一緒に各地に出かけ、国内外で舞踏公演を行っている。作風は飄々としたもので、舞踏用にメイクしたときの風貌はどことなくチャーリー・チャップリンを思い起こさせる。
 ただし、メイクして舞台に立った際のイメージとメイクを落とした素顔とはとてもかけ離れている。
 この日の交流会には20代の若い弟子(?)のような男性を伴っていて、明日の日曜日もどこかで一緒に舞踏をするのだと言っていた。
 じぶんとしては、35年を経て初めてこの先輩の人となりに触れ、言葉を交わしたわけであり、まずはこれだけでも今回の青森行の意義があったと思う。


4 青森の印象、その他

 青森駅前とその周辺の観光施設は小奇麗に整備されているが、以前より青森市のイメージが縮小したという印象を受けた。「以前」というのは、17〜18年前だろうか、家族6人で弘前城址の桜を観に訪れ、その帰り道に青森に寄って、棟方志功記念館を訪ねたのだった。
 りんごと紅葉の季節である10月上旬のこの土日、青森県は書入れ時の観光シーズンで、列車や青森や弘前のホテルは満員のようだった。だが、青森駅前の人通りは少なく、駅近くのビル内に移転した海鮮物や農産物の市場もそれほど混んでいる様子はなかった。東北新幹線が青森まで開通するのと合わせて実施されたJR東日本のデスティネーション・キャンペーンが終わり、しかも福島第一原発の爆発事故の影響による観光客の減少を受けて、この青森の地もあえいでいるように見えた。
 とはいうものの、どちらかといえば閑散とした青森駅前の風情は、それなりに魅力的でもあった。
 駅前のカフェ・レストランでランチを食べ、夜は交流会の流れで、これまた駅前の古い喫茶店かつレストランかつ居酒屋みたいな、小母さんががひとりで営業している小汚い店に連れ込まれた。われわれだけでその小さな店はすし詰め状態となり、小母さんも何をしていいかわからずパニックに陥ったようだった。結局じぶんたちのテーブルに出てきたのは一升瓶とぐい飲み、それに袋入りの乾き物のだけだったが、この駅前空間を満たしていた日中の土産物店の店先のりんご達の香りが感覚に残り、なにかほのぼのとした雰囲気のなかで過ごした。

 今回、じぶんを山形県の詩人として呼んでくれたのは、このゼミナール企画・運営の要となった弘前在住の詩人・藤田晴央氏である。
 東北でこの東日本ゼミナールが開催される際は、これまでも東北各県から自作詩の朗読者を呼ぶことが恒例となっていたが、各県からどの詩人を呼ぶかについては、開催県の実行委員会が各県の詩人会に選出を要請する場合が多かったようである。2008年に山形県で開催した際もそのように計らったのだった。
 しかし今回、青森県の実行委員会は各県の詩人会を通すことなく、いわゆる一本釣りで各詩人に直接に朗読を依頼したということだった。
 藤田氏は、2005年のH氏賞の選考委員をした折に、最終選考で落選となった高啓の詩集『母を消す日』を何度も読み返して、当時から印象に残っていたのだと語った。
 じぶんは、「招待の電話をいただいた際あなたにそう言っていただいたので、そのときの選考を特集した雑誌『詩学』を書棚から引っ張り出して、そこに掲載された各選考委員の選評を改めて読んでみましたが、藤田さんは、受賞作との決選投票になった高啓の詩集にはまったく触れていませんでしたよ。ほんとに印象に残っていたのですかぁ?」と突っ込みを入れた。
 すると彼は、「じぶんのポリシーからすると、受賞作の作風を支持するのが自然でしたから」と返したのだった。藤田氏の詩を読むと、むべなるかな、という感じではある。

 以下は余談。
 翌日の日曜日、弘前在住の藤田氏がこのイベントに参加した詩人たちを連れて弘前市内の文学に縁のある場所を案内するエキスカーションを企画してくれたのだが、じぶんはそれには参加せず、朝一で帰路に着いた。
 この時期、山形市では「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」が開催されていたからである。
 帰形した当日の夜と翌日の夜、会場のひとつである山形美術館で、大島渚監督作品『新宿泥棒日記』(1969)と若松孝二監督作品『天使の恍惚』(1972)を観た。(この2作品は、山形市出身の女優・横山リエが出演していることから、この映画祭の一企画「山形映画人列伝」として上映されたものである。)
 どちらも有名な作品なので若干は期待していたのだが、それぞれに陳腐な駄作であった。こんなことなら弘前にもう1泊してくるのだったと思った。(苦笑)        (了)



P.S.
 なお、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」では、このほかに山形まなび館で催された「土本監督との再会」という企画で、「1996年7月14日記録映画作家土本典昭」(山上徹二郎制作・演出)という土本監督へのロング・インタビューを撮影した作品を観た。
 土本監督が酷いアルコール依存症と入院治療を経験していたこと、ソ連崩壊に大きなショックを受けていたこと、水俣の相思社の活動に関わり、1989年の「甘夏問題」による組織の混乱に深く傷ついていたことなどを知った。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 03:24Comments(0)活動・足跡

2011年12月01日

モンテ降格決定、そして・・・。



 11月3日(木・祝)の第31節、アウェーの神戸戦に0―2で敗北し、ついにモンテの降格が決定した。

 モンテについては、前回の書き込みからずいぶん時間が経過してしまったが、この間、観戦を怠っていたわけではない。
 第26節・9月17日(日)、東日本大震災前のアウェー開幕戦で破れた雪辱を期すべく臨んだホームの川崎戦(0−1で敗北)。 第28節・10月1日(土)、2009年のJ1デビュー戦で快勝して以来、比較的相性のいい相手だったのにホームで1−1の引き分けに終わった磐田戦。 第29節・10月16日(日)、ジャッジ・ミスの疑念が濃厚なPKで0‐1となり、悔しい敗北を喫したアウェーの柏戦。 そして第30節・10月22日(土)、0−5で大敗したホームのガンバ大阪戦。
 この4試合を、半分は祈るような気持ちで、もう半分は妙に覚醒しつつ、じっと観戦してきたのである。

 ついでに言うと、柏のホームでは、SS席だったのでモンテのタオルマフラーを首にかけて入場し、ゲートを入ってすぐの売店に並んでいたら、「おい、おっさん。空気読めよ!」と若い兄ちゃんに因縁をつけられ、タオルマフラーを取らされる(ただし席ではただ一人ずっと着用したが)というオマケまであった。
 ついでに柏市の感想を述べると、柏駅に降り立ってもスタジアムへの経路についてはなんの案内表示もなく、しかも日曜日は駅前が歩行者天国になっていて、駅前のバス乗り場にバスが来ないのだが、その場合の乗り場の案内さえない。案内所がないどころか、改札にさえ駅員は一人も居らず、キオスクのおねえさんも「あたしこの辺の人じゃないから」とつれない。賑やかな駅前ではあるが、柏はとんでもないド田舎である・・・と、印象が悪かったので酷評しておく。(笑)




 ・・・とここまで書いたところで、11月19日(日)の第32節のホームでの福岡戦を観戦。
 このゲームで、モンテは最下位の福岡に0−5で完敗し、ついに最下位に転落。・・・というより、どん底に落ち込んだと言うべきだろう。
 この前段で、11月16日(水)にはやはりホームで天皇杯3回戦をJ2の京都と戦い、2−3で逆転負けを喫していた。
 この寒い季節に、しかも冷たい雨の中のナイトゲームが続き、中2日のモンテ選手たちのコンディションはよくなかったかもしれない。また、このゲームに先立って、クラブから来季は小林監督との契約をしないとの発表が行われていたから、意気が上がらなかったのではあるだろう。
 しかし、やはりこのゲームの内容は、今季のモンテを象徴するゲームだったと言わなければならない。
 要するに、“先取点を取られたら取り返すことができない”ということに尽きる。せめて1点をと焦って前がかりになり、全体のバランスが崩れる。瞬発力でも持久力でも相手より劣っているのに、焦ってバタバタと攻撃にエネルギーを使うから、すぐにバテて大量失点という結果になるのである。

 福岡戦の終了後、じぶんはすぐ帰途についたのでその後にスタジアム周辺でなにがあったかは知らない。ただ、後日、NHK山形の報道番組で、ゲーム終了後にサポーターらがフロントに抗議し、運営主体である「社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会」(略称・「スポーツ山形21」)の川越理事長の辞任を求めたことを知った。
 じぶんはひとりのNSBFに過ぎず、事情通ではないが、以下にこの一連の状況に対する若干の感想を述べておきたいと思う。

 まず、サポーターらが川越理事長の辞任を求めた点について。
 報道によれば、サポーターらは、県職員OBである川越氏では、赤字を抱えてJ2に降格し、今後ますます経営手腕が問われるフロントの業務を担うことができないので、民間企業の経験がある人物を理事長にするよう求めたということであった。
 川越氏は、県の土木の技術職として勤務する傍ら、県サッカー協会の役員を務めてきた方であり、いわゆる「県からの天下り」と見るか、それとも順当な人事と見るかは人によって分かれるところだが、たしかに「経営手腕」という点では多分に疑問符がつくというのが一般的な見方であろう。
 じぶんは、たまたま40歳前後の川越氏を見知っていたが、そのころの印象からすると、彼が経営の厳しい、したがって営業活動に心血を注がなければならないプロビンチアの経営陣のトップである理事長に任命されたとき、少しく驚いたものだった。しかし、もちろん人は時間の経過ともに変化するから、昔の印象だけで彼がクラブのトップになる資格がないと決め付けるつもりはなかった。なるべく先入観を持たないようにして、予想が裏切られることを期待しつつ、モンテの一ファンとしてこの1年を観察してきた。
 しかし、それにしても、川越氏がクラブの経営強化に貢献してきたとは思えない。サポーターを増やすため、県民にモンテの支持を広げることに心血を注いできたというようにも見えない。
 夏までの間に観客動員数の減少に対して危機感を持ち、動員力の強化とスポンサーの確保にもっと早く、もっと必死で取組むべきだった。少なくても、必死で取組んでいるという姿を県民に見せるべきだった。
 じぶんは、難しい経営を強いられる弱小クラブのトップという重責に答えられなかったからといって、とくに川越氏個人を責めるつもりはないが、クラブの最高責任者としてはやはり結果に責任をとるべきだと思う。また、彼を理事長に任命した理事会、とりわけ理事会で相対的にもっとも実権をもっているはずの山形県、すなわち副理事長の高橋副知事にも川越氏任命の結果責任を感じてもらいたいところである。
 今季開幕前、モンテのGM(=スポーツ山形21の専務理事)の中井川氏と少しだけ話す機会があった。これはあくまでじぶんの印象であって彼が口にしたことではないが、中井川氏は、チーム運営のほか、戦力強化とサポーター拡大と営業活動とに、つまりは経営の全般に一人先頭に立って取組まざるを得ない様子で、非常に大変そうだった。じぶんは、これではチームの戦力がどうのこうのという前にフロントの事情で「J1モンテ」の限界がくると感じた。
 今季の状況は、案の定・・・という感じである。

 (・・・とここまで書いたところで、11月30日(水)、山形新聞が、川越理事長が辞任する意向であると報じた。)

 次に、サポーターについて。
 サポーターたちが、スポーツ山形21の理事長の辞任を求める署名活動を行い、その署名簿を本人に手渡した様子をNHKの報道で観て、あらためてモンテが“県民のクラブ”になりつつあると感じた。
 サポーターたちは、モンテをじぶんたちのクラブだと考えているのだ。
 もっとも、Jリーグではその全てのチームにおいて、サポーターたちは自分たちがサポートするチームを“自分たちのチーム”だと考えていることだろう。そういう意味では、どこも同じかもしれない。
 だが、モンテディオ山形に関して言えば、その意味は一段と深いものになる。なぜなら、このクラブはJリーグで唯一の「社団法人」だからだ。モンテは「NEC山形」のサッカー部としてスタートしたが、J2に加盟するにあたって「社団法人」という形態にメタモルフォーゼを遂げた。
 それは経営基盤が弱いために株式会社として成立しえなかったからではあるが、同時に、県内の民間企業に県と市長会・町村長会が参加し、民間企業と自治体が全体で支えるという体制を選択したからでもある。だから、県民にとってもモンテはじぶんたちのクラブなのである。
 サポーターたちは、まず自分の意志によってモンテを支えているが、と同時に、この山形県というコミュニティの一員としても、“すでに/つねに”モンテを支えている。そのことの表出の一形態が今回の辞任要求だと看做しておきたい。

 しかし、同時にここにまた難題が存在するのでもある。
 このブログでこれまでも言及してきたが、プロビンチアを支えるということは、主観的な想いや単眼的な行動ではうまくできない。つまり、「おれたちはモンテが好きだから、モンテを支える」「おれたちはサッカーが好きだから、モンテを担う」だけでは済まない。理事長退任を求め、「民間企業の経験のある経営責任者を」と要求するだけでは済まない。言い換えれば、“批判型”や“要求型”の取組みでは済まないのである。
 2008年の「フルモデルチェンジ構想」に触れた際にも述べたが、サポーターやファン(=県民)には“批評的”な分析と“提案型”の対応を追求していくことが求められる。言い換えれば、じぶんがフロントに入ったらどう動くか、なにができるか、という発想が必要なのだ。モンテサポのブログをいくつかフォローしているが、こういう視点で書かれているものはほとんど見かけない。
J1復帰を目指すなら、そこにはつねに、モンテにもサッカーにも大して関心のない県民をどのように惹きつけるかという視線が据えられていなければならない。そしてそのためには、その展望を拓く能力を持った内外の人材(たぶん今はまだモンテにもJリーグにもそれほど関心を持ってはいない人間)を巻き込むことが不可欠である。



 さて、モンテの降格が現実味を帯びてきたのは、7月2日のアウェー新潟戦での敗戦からであるが、その後のホーム観客席の様子を窺っていると、観客は、モンテのふがいなさに愛想を尽かしたり自虐的に卑下したりする者と、モンテが負け続けても観客席でモンテを応援していることがごくごく自然のことだというように飄々と存在する者とに分離していき、節が進むにしたがって、前者が減り、相対的に後者の割合が高まっていくように思われた。
 11月19日の福岡戦では、観客はついに5,000人台まで落ちた。
 降格が決まり、チームはさらに負け続けていた。小林監督の契約更新をしないこと、来季は予算が大幅に縮小することが報じられ、冬の早い山形のこの季節にも関わらず、ゲームは雨の夜に行われた。しかも、相手は当時最下位の福岡だった。その分を勘案してこの数字をどう捉えるか。
 J1昇格以来昨年度まで、たしか、じぶんはコアな観客を8,000人程度とみていた。しかし、それは現時点で5,000人に修正しなければならない。だが、来季、この5,000人という観客規模を最低ラインとして維持できるなら、モンテは以前のJ2しか知らない時代と明らかに異なるモンテになっているだろう。いや、この3年間の「J1モンテ」以上のクラブになれるかもしれないと思う。
 

 12月3日の最終節はホームで、これまでとことん相性の悪い広島を迎える。
 モンテがどんな戦いをしても、モンテはわれわれのチームである。(了)





追伸(近況報告)
 9月に書き込みして以来、70日も書き込みしていなかったので、体調を崩しているのではないかと心配してくれた方もいたが、じぶんは無事である。
 じつは、北海道旅行の後、思いがけなくも帯状疱疹になり、その治療経過が紆余曲折を辿ったのでやや辛かったことはあるが、仕事を休むこともなく、というか仕事のほうはかなり忙しく、こうしてパソコンに向かう時間がなかったのである。
 なお、10月8日に青森市で開催された日本現代詩人会の東日本ゼミナールに山形県の詩人として招かれ、自作詩を朗読してきた。時間があればこのときのことをここに記しておきたいと思っている。
 また、現在、4冊目となる詩集を書肆山田から出版する準備をしており、二校が終わったところである。
                                                                                                                                                                                                                                


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:28Comments(0)サッカー&モンテディオ山形