2023年02月16日
『非出世系県庁マンのブルース』のご注文はこちらへ

ライブドアブログの「高安書房」のサイトにも書きましたが、「高安書房」のサイトは来訪者が少ないので、こちら「詩と批評」にも掲載させていただきます。
『非出世系県庁マンのブルース』をグーグルで検索すると、honto、楽天ブックス、ヨドバシなどの通販サイトが上位に現れ、これらのサイトで注文しようとすると「取り扱いできません」「販売休止中です」などの表示がされています。
また、Amazonで検索すると、中古品で4,620円、新品で5,346円などとべらぼうな値で売りに出されています。
これまでも記してきたように、高安書房は取次と取引していないため、上記の通販サイトにはそもそも配本されていません。にも拘らずこれらのサイトに本書の情報が掲載されるのは、これらのサイトが出版書籍のデータを配信しているサイトから自動的にデータを読み込んで 表示するからだと思われます。
高安書房へのご注文は、本サイトに記載した「高安書房への発注方法について」をご覧いただき、直接電子メールまたはFAXで御注文いただくか、ご利用される書店(実店舗)へ高安書房からの取り寄せを申し込んでください。
直接申込の場合は、定価1,800円(消費税はいただきません。送料は無料。代金の郵便振替または口座振込の手数料は購入者負担)です。
書店からのご注文については、1冊の場合・定価1,800円×0.8=1,440円、2冊以上は1冊目から1冊につき×0.75=1,350円(消費税はいただきません。送料は無料。代金の郵便振替または口座振込の手数料は書店さま負担。2冊目以降は返品可。返品の送料は書店さま負担。)でお送りさせていただきます。(消費者が書店から購入する場合は消費税が加算されて1,980円になります。)
なお、山形県内の書店には「山形県教科書供給所」から配本されますので、同供給所にお問い合わせください。もちろん、高安書房と直接お取引いただければなお幸いです。
写真は、天童市の天童高原スキー場。この日は子どものリフト代が無料だったからか、駐車場が満杯に近い結構な賑わいでした。
2023年01月04日
2023年になりました・・・

「明けましておめでとうございます。」と新年の挨拶を申し上げるところですが、昨年からの世情の動きを見ていると、いよいよ日本は奈落への道を歩み出したようで、新年を寿ぐ気持ちがこれほど生じてこない年明けは初めてです。
しかし、まぁ、筆者はオプティミズムの立場もペシミズムの立場も、まして宮台真司さんのような「加速主義」の立場もとらないので、チマチマと当面じぶんのすべきことをしていくだけです。
2023年は、昨年に立ち上げた個人出版社「高安書房」から、高啓文学思想論集『切実なる批評』(仮題)を出版する予定です。
じつは、この論集は昨年中に上梓すべく、これまで高啓の詩集を5冊刊行してきた書肆山田に原稿を送り、出版をご検討いただいていたのでした。
しかし、昨年の5月に編集・装本を担当されていた大泉史世さんがお亡くなりになられ、文学思想論集の出版計画は宙に浮いたまま時間が経過しました。(大泉史世さんがどのように素晴らしい編集者であられたかについては、毎日新聞2022年7月13日夕刊掲載の池澤夏樹さんによる大泉史世さん追悼の寄稿「ある編集者の仕事」を参照していただきたいと思います。)
高啓は大泉さんの訃報に接していっとき放心状態となり、それから気を取り直してどこか他の出版社に発行を依頼することも検討しました。
しかしその一方、文学思想論集と別に、けれども時期的には並行して刊行を考えていたところの職業的自分史『非出世系県庁マンのブルース』が山形県行政の裏面やその組織の人間像を極めて赤裸々に描いたものであるために、これをどこかの出版社から発行した場合、万が一にもその出版社に迷惑がかかることになってはいけない、いっそのことこれを機に自分で出版・販売事業を起してしまえっ・・・と「高安書房」を立ち上げたことから、文学思想論集も高安書房から刊行することにしたものです。
刊行の計画では文学思想論集が先で、次に職業的自分史という思惑でしたが、以上のような経緯によって、順序が逆になりました。ぜひ、この二冊を併せてお読みいただきたいと思います。
肝心の詩作の方ですが、2022年は山形新聞の連載企画「ふるさとを詠う―山形の現代詩―」に、「山塊論」(2月3日号)、「デッキ論」(7月7日号)、「濃霧論」(12月8日号)の3作品を発表しました。
また、山形県詩人会発行の『山形の詩―anthology2022―』(11月1日)に「失語論」を、土曜美術社出版販売発行の詩誌『詩と思想』6月号に「内腔論」を発表しました。2022年は1年間にこの5作品しか詩を書きませんでした。
2023年は何篇の詩を書けるかわかりませんが、上記の山形新聞の連載企画には5月18日と11月16日の2回(=2篇)は発表するつもりです。
追記:『非出世系県庁マンのブルース』について、内容紹介のため小見出しを記載しましたので高安書房のサイトをご覧ください。
高安書房のサイトにはこちらからどうぞ。
2022年09月30日
『非出世系県庁マンのブルース』へのコメント その2

「非出世系県庁マンのブル ース」へのコメント紹介その2です。
【とてもおもしろかった(!) 県庁マンの仕事など、一般の人はなかなか分かりませんが、そんなにハードな仕事だとは、本書を読むまで知りませんでした。それをさり気なく、気軽な調子で描いているので、サクサク読めます。行間から自ずとユーモアも感じられ、一気に読んでしまいます。うまい構成、練られた文章の勝利ですね。】
ありがとうございます。たしかにこの手の自己史本はなかなか読む気にならないものです。なんとか一般の方にも読んでいただきたいと思い、構成やテーマごとの章立て及びそのタイトルなどに工夫をしてみました。
【この手の本は一般には「饅頭本」と言われ、葬式饅頭と同じで貰えばそれなりに嬉しいが買うほどの価値はないと言われていますが、この書の場合はちょっと違っており、面白く一気に拝読させていただきました。買って読む価値が満載です。
県庁の職員と言えば地方では公務員の頂点ですので、最も安定した、様々な点で最も優遇された職だと思ってきました。こんなに大変で、しかもしんどくて、上下関係から、縄張り争い、さらには政争も絡んだ非論理的な世界なのだと初めて認識しました。】
「饅頭本」とは言い得て妙ですね。たしかにおっしゃる通り、この手の本は著者に個人的関心がある場合でなければ読もうとはしない感じです。そこをどうやったら読んでもらえるものにするか、事実を書きながらそれを実現するのは難しいですね。
ところで、著者も、もうあの世界には戻りたくありません。いまは贖罪の意味も込めて(というのはウソですが)、小中学生やその保護者の相談支援の仕事をしています。ただ、これも結構心理的圧迫感はある仕事なので、いつまで続けられるか自信はありません・・・。
※ 「非出世系県庁マンのブルース」のお求めは、高安書房まで。
2022年09月24日
「非出世系県庁マンのブルース」へのコメント その1

「非出世系県庁マンのブルース」へのコメントを紹介します。
【第1章だけ通読。役所仕事の実態をリアルに描いて、読ませます。これをネタに、県庁OBで出版記念会が計画されたら、なお面白い。AさんもBさんもCさんも出てくるくらいでないと。これを読んで気を悪くするなら、自分を否定することになる。小説にもなる内容だと思った。前に読んだはずなのに、新鮮だった。難点があるとしたら、作者を仕事の出来る男として美化している印象があること(事実でも、落して書かないと)。】
県職員OBにはこの本の贈呈も出版のお知らせもしていません。
県庁購買部(=八文字屋書店外商部)にも配本していただいていますので、目に付いた方は手に取ってくれるでしょう。
作者は県庁で孤独だったわけではありませんが群れてもいなかったので、「出版記念会」は有り得ないと思います。
「難点があるとしたら、作者を仕事の出来る男として美化している印象」というのは正鵠を射ています。
こういう愚かな「難点」もあるのがこの作者であり、それをそのまま隠さず書いたということです。
《書店配本状況》
山形市内の「宮脇書店成沢店」と「八文字屋書店北店」(映画館ムービーオン)では郷土出版コーナーに置かれています。
「こまつ書店西田店」では、レジのすぐ下の、雑誌「023」が並べられている低い台に置かれています。入り口を入ってすぐ左下を視ないと気がつきにくい場所です。
2022年09月11日
『非出世系県庁マンのブルース』刊行しました!

高安書房による出版第一号として、高啓著『非出世系県庁マンのブルース』が完成しました。
本書は、著者が山形県庁職員として経験したことを「県組織、関係者及び著者自身の清濁を併せて描いた」赤裸々な記録であり、エッセイです。
いわば〝職業的自分史〟ですが、エピソードごとに物語化された記述の方法を採り、「山形県(または山形県政)における知られざるささやかな歴史を、幾許かは興味をもってもらえる形で、つまりは斜角から記録」するように工夫されています。
また、「県職員もしくは自治体職員あるいは『公務員』という存在に対する固定概念に、いささかなりとも放蕩と遊撃の作風(ベタな言葉で言うと〝ロマン〟ということになる)が差し込む風穴を開けておくということ」を意図して書かれています。
『非出世系県庁マンのブルース』目次
はじめに
第Ⅰ章 秘密指令! 県費三五〇億円を防衛せよ。
第Ⅱ章 ケースワーカーはキツネでござる
第Ⅲ章 米沢の能舞台はなぜ空気浮上するのか
第Ⅳ章 最後の紅花商人
第Ⅴ章 介護事業所の個別ローラー作戦は許容さるべきか
第Ⅵ章 要領の悪い歩行についてー山形県に採用されるまで―
職歴年表
あとがき
山形県民の方はもとより、他県の方でも、公務職場に関わる方々、あるいは社会福祉に関わる方々に、ぜひお読みいただきたいと思います。
B6版・並製・218頁。店頭の定価は1,800円+税(=1,980円)です。
高安書房は、現在のところ、消費税をいただかない零細事業者ですので、直販分は1,800円、送料無料です。
注文の仕方は、高安書房のホームページの「高安書房への発注方法について」をご覧ください。
2021年01月03日
二十歳できみと出会ったら

2020年12月に新詩集『二十歳できみと出会ったら』を書肆山田から上梓しました。
5年ぶり、6冊目の詩集は、これまでと少し印象が違うと思います。
短編の連作私小説ならぬ連作私詩といった趣は同じですが、作者自身の変化が現れていると思います。
表題詩の「二十歳できみと出会ったら」は、何度か読み返していただきたい作品です。
Amazon、honntoなどで販売しています。
地元山形では、山形市の八文字屋書店本店に配本されています。
同店では、普通は郷土出版物のコーナーに置かれるのですが、12月末現在、文芸書の新刊書コーナーに平積みしてくれていました。
私から直接お買い求めいただける方は、消費税をいただきませんので、2,500円(送料当方負担)でお送りします。
本ページ右下のオーナーへメッセージのバナーから、メルアドを明記して申し込んでください。郵便振込口座をお知らせします。
2020年06月02日
ブログ再開宣言

久しく書き込みをしていませんでしたが、このブログを再開します。
まず、この間の状況の変化について。
1 これまで同人となっていた『山形詩人』(高橋英司編集)が、当初の目標であった「100号達成」により、休刊となりました。
2 高啓は、定期的な作品の発表場所を求めて、高橋英司氏が従前より寄稿していた『詩的現代(第二次)』(愛敬浩一・樋口武二編集・発行)に参加させていただきました。2019年7月発行の30号から寄稿しています。
なお、高橋英司氏はその後、『新・山形詩人』を創刊しましたが、この詩誌のコンセプトは、山形県内の詩人で他に発表の場がない者のための「タワーマンション」を目指す、『山形詩人』の再結集ではない、とされたため、高啓は参加していません。
3 高啓は2019年度末をもって定年後再雇用されていた職場を退職し、2020年5月からソーシャル・ワーカーとして働き始めました。これから、細く長く続けていきたいと思っています。
少し時間に余裕ができたので、これまでより文筆活動に時間を使うことができると思います。
4 山形県西川町の「丸山薫少年少女文学賞『青い黒板賞』詩のコンクール」の審査委員になりました。2019年から審査に参加し、2020年1月発表の第26回の表彰に関わりました。
ということで、この間発表したものは次の通り。
① 詩「喪姉論」 (『詩的現代』30号 2019年7月)
② 詩「人生が二度あれば、なんて思わない」(『詩的現代』31号 2019年10月)
③ 評論「松田英子は何処へいった?」(同上 「特集:大島渚の時代と映画」)
④ 詩「アンタ ダアレ」(『詩的現代』32号 2020年3月)
⑤ 評論「風景、音楽及び時間意識について」(同上 「特集:立原道造」)
⑥ 詩「小路論」(山形新聞 2019年2月28日 「ふるさとを詠う」)
⑦ 詩「青白幻想論」(山形新聞 2019年7月18日 「ふるさとを詠う」)
⑧ 詩「ザンゲ論」(山形新聞 2019年12月12日 「ふるさとを詠う」)
⑨ 詩「入門論」(山形新聞 2020年5月28日 「ふるさとを詠う」)
⑩書評「ゴーリキー傑作選『二十六人の男と一人の女』(中村唯史訳・光文社古典新訳文庫)」(山形新聞 2019年3月31日)
⑪書評「松田達男詩集『いろは いのち』」(山形新聞 2019年10月30日 「未読・郷土の本」)
このほか、2020年6月発行予定の『詩的現代』33号に、詩「再帰するアレについて」と評論「だれが、なにを、異化するのか。―草彅剛のヒトラー―」(特集:ブレヒト)を寄稿しています。
これから、徒然にこのブログにも書いていきますので、よろしくお願いします。
2016年04月11日
高啓詩集についての論評
お待たせしました。だいぶ間が空いてしまいましたが、更新します。
新詩集『午後の航行、その後の。』(書肆山田2015年12月)について、論評をいただきました。
瀬崎祐さんが、ブログ「瀬崎祐の本棚」で以下のようにコメントしています。
作品「それからの夜」について、
<話者にはそれこそ夜の暗さ、寒さを必死に耐えているような切実さがあるのだが、それをこれだけの強い作品として差し出してくるところに感嘆する。>
作品「雪坂下の女」について。
<この作品を読んでいて、ふっとつげ義春の漫画を思い浮かべた。そこにあるのは無頼のような男像なのだが、内実は非常に繊細で傷つきやすい。男としての拠り所、妄執、諦観、強さ、そんなものがない交ぜになって読む者に迫ってくる。>
瀬崎さんには、前の詩集『女のいない七月』についても、つよく評価するコメントをいただきました。いかにも言語感覚を研ぎ澄ましたかのように振る舞う隠喩による作品が価値あるものとみなされがちな詩壇において、高啓の作品などを評価してくれる詩人は少ないので有難く思っています。(たとえば、「季刊・詩的現代」16号の詩集・詩書時評の石川敬大さんには酷評されています。)
“つげ義春の漫画を思い浮かべた”というところに、はっとさせられました。
じぶんとしては意識していませんでしたが、「春宵論」と合わせて<雪坂下の女>の出てくる世界のイメージは、たしかにつげ義春的なものに近いところがあります。
ところで、じぶんはつげ義春の熱心な読み手ではありませんでしたが、たしかかれの漫画には、野卑でえげつないほどの性欲を率直に描いた話が少なくなかったように記憶しています。いつかあんな詩を書けたらいいなとも思いました。

詩誌「びーぐる」に連載されている細見和之さんと山田兼士さんの対論による詩集評「この詩集を読め」が『対論Ⅱ この詩集を読め2012~2015』(澪標 2016年2月)という単行本にまとめられ刊行されました。
「びーぐる」で取り上げられた時系列で掲載されているので、高啓詩集『女のいない七月』を扱った回(対論の第15回)が、たまたまですがこの単行本の冒頭に掲載されています。
「びーぐる」に掲載されたときにも述べましたが、高啓の詩集を、直接この回の対論の対象とする第4詩集『女のいない七月』のみならず、第2詩集『母を消す日』、第3詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』をも含めて、ほんとうに丁寧に読み込んでいただいています。
このブログの読者にはぜひ手に取ってご覧いただきたいと思います。
高啓詩集『午後の航行、その後の。』(書肆山田)は、山形県内では八文字屋書店に置いていただいています。仙台では駅前の「アエル」内の丸善にありました。
なお、山形市の戸田書店さんには、第2詩集『母を消す日』、第3詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』、第4詩集『女のいない七月』、第5詩集『午後の航行、その後の。』をすべて置いていただいております。(深謝)
また、山形県立図書館にも所蔵されています。県立図書館の蔵書は、県内の各市町村図書館を通じて取り寄せること(「相互貸借」と言います)ができますので、ご利用ください。
2016年4月16日(土)、山形市の山形グランドホテルにおいて山形県詩人会の年次総会が開催されます。この席で表彰される山形県詩人会賞には、伊藤志郎氏(酒田市)の詩集『あなたに』(メディア・パブリッシング刊)が選ばれました。
2015年12月27日
高啓詩集『午後の航行、その後の。』

2015年12月25日付で、新詩集を上梓しました。
高啓詩集『午後の航行、その後の。』
発行・書肆山田 装画・宮﨑恵子
装幀・亞令 A5変80ページ
定価2592円(税込)
ISBN978-4-87995-931-7 Cl092
帯のコピーは以下のとおり
「 流れにつかり、小舟を推す。
片腕に
悪い心を詰め込んだ袋をぶら下げ
むずかる幼い者を抱きながら。
──きみは生きたいように生きることができるか。 」
【目次】
午後の航行
初孫論
アトムの子
駈込み諦め
パックスタンドの憂鬱
それからの夜
再生論
雪坂下の女
来るべきものの影とその看過について
春宵論
次孫論
午後の航行、その後の。
葬送論
抱擁論
【著者による近刊予告文】
「おれ」は左遷され、二男に子ができる。それを知るとメトロポリスの女は去っていき、末期がんの蒔絵師は死ぬ。雪坂下の女に通いつつも、故郷の女に手を出して拒絶され、それを口実に「おれ」は 今度こそ故郷を捨てる・・・。
12月26日現在、山形県内では八文字屋書店で購入できます。
まもなく全国の有名書店、ネットショップで購入できるようになると思います。
著者から直接お求めいただける方は、本ブログの右側にある「オーナーへのメッセージ」から注文してください。(送料無料でお送りします。)
2015年03月28日
季刊「びーぐる」第26号、「山形詩人」87・88号

ひさしぶりに、詩人としてのアリバイ証明を・・・・・
季刊「びーぐる 詩の海へ」第26号(2015年1月20日)に、詩「抱擁論」を発表。
「びーぐる」は一般書店でご注文を。

「山形詩人」第87号(2014年11月20日)に、詩「午後の航行、その後の。」
同第88号(2015年2月20日)に、詩「再生論」 を発表しています。
「山形詩人」ご希望の方は「オーナーへメール」のボタンからメールにて連絡ください。
2014年06月22日
山大劇研・アングラの時代(一九七五/一九八一)

八文字屋書店が発行している季刊の『やまがた街角』(編集・発行人大久保義彦)の第69号(2014年6月刊)が、「山形【演劇】図鑑」という特集を組んでいる。編集を担当している書肆犀の岩井哲氏に依頼され、山形大学演劇研究会について寄稿した。
同誌に掲載された記事の文面を見ると、高啓の原稿のうち人名に関する部分が岩井氏の手で一部修正されていたが、ここにはもとのままの文章をアップする。
山形大学演劇研究会の過去について書くようにと依頼されて、さて、と振り返ってみるが、手元に残されているその活動の資料はごく僅かで、ほとんどを記憶と伝聞で記すしかない。この無頓着さ、つまりは芝居の空間をがむしゃらに産出しそこでの時間を消費することのみにエネルギーを注いで、その記録・検証・回顧には一向に関心がなく、OB会的な集まりさえない・・・そんな姿勢こそが、良くも悪くも〝学生演劇〟の在りようということだろう。ようするに学生にとっては現在のみが重要で、過去は否定すべきもの、未来は濃霧の中だったのだ。
じぶんが山形大学人文学部に入学したのは一九七六年。「連合赤軍事件」によって学生運動が急速に衰退し、追い詰められた党派は「成田闘争」に活路を見出そうと足掻いていたが、一般学生たちは只管〝お利口さん化〟していった時代である。「国立二期校」に「不本意入学」したことと、小白川キャンパスがあまりにつまらないこととによって、じぶんは深く深く五月病を病んだ。ある日、構内をふらふらと彷徨い、陸上競技グランド脇にあった木造2階建ての部室棟(通称「ハモニカ長屋」)の前を通りかかると、女たちのかしましい笑い声が聞こえてきた。その部室には石巻女子高出身の2年生三人組がいて、彼女らに誘われるままにぼんやりとそのサークルに加入した。いま、じぶんがこうして生きていられるのは、そしてこのように生きてきてしまったのは、芝居じみた言い方をすれば、まさに、一にかかってこのとき山大劇研に足を踏み入れたがゆえ、である。
新入生のじぶんが劇研でいちばん影響を受けた先輩は、山形東高出身で理学部数学科の3年生だったT男である。当時聞いていたところでは、彼は七四年か七五年に、後に青森市役所に勤めながら舞踏家として活動することになる福士正一氏(オドラデク道路劇場主宰)らとつるんで、『ギヤマン回帰』というオリジナルの芝居を文理講堂で上演した。これが山大劇研における「アンダーグラウンド演劇」の始まりではないだろうか。文理講堂は旧山形高等学校時代の講堂で美しい洋風建築だったが、惜しまれながら七八年頃に取り壊された。普段は少林寺拳法部の練習場だったのを一時的に借りて稽古したことを、じぶんも微かに記憶している。
当時は、唐十郎の「状況劇場」(紅テント)、佐藤信らの「68/71黒色テント」、そして鈴木忠志の「早稲田小劇場」がアングラ御三家として鳴らしていたが、T男が最も傾倒していたのは鈴木忠志だった。また、怪優・品川徹のいた太田省吾の「転形劇場」にも影響を受けていた。
じぶんの舞台デビューは、七六年にこのT男が演出した唐十郎の『ジョン・シルバー』だった。会場は山形市民会館大ホールで、二五〇人ほどの客を全部舞台に上げ、本来の客席の暗く広い空間を海に見立て、それを背に演戯した。照明は全部逆方向に向けなければならず、間誤付いていると「餡子屋さん」(後の山形綜合舞台サービス・安達俊章代表のこと)に「ちゃんとセッティングを考えて来い!」と迫られ、ビビッた記憶がある。役者はオリジナルの配役とは男女が全部逆で、李礼仙の役も長身でスラリとした福島出身の男子学生が演じた。
山大劇研の良いところは、特定の路線に拘らないで自由に(というか自分勝手に)台本を選べたことだった。部員ごとに志向性が異なるから、もちろん芝居の傾向や上演台本をめぐって対立もあったが、そういうときはたとえば二つの演劇集団が部員の争奪戦をして、それでも決着しなければ二本同時に上演(まさに「競演」)してしまった。七八年頃には、清水邦夫の『逆光線ゲーム』と別役実の『象』を連続上演したのではなかったかと思う。このときの『象』はじぶんが初めて演出した作品だった。
じぶんは役者としては大根で、七六年、1年生の終わりに主役に抜擢されてJ・P・サルトル『出口なし』のガルサン役をやったのが唯一の代表作である。この芝居は、官憲に脅されて仲間を売ったガルサンと恋人に捨てられた女・エステルそれにレズビアンのイネスの3人が密接に絡んで展開される死後の密室劇だが、チャーミングな先輩女性たちと頻繁に身体的な接触のある稽古には、毎日銭湯に行ってから高校時代の黒いスプリングコートを着て臨んだ。コートを脱がなかったのは、股間が盛り上がって仕方なかったからである。思い出すと今でも脂汗が出る。
じぶんの台本・演出の代表作は、七八年に構成・演出した処女作『詩劇・自己幻想論序説』と八一年に構成・演出した『対幻想狂詩曲~あけみのツゴイネルワイゼン~』である。前者は、鮎川信夫、吉本隆明、黒田喜夫、北川透らの詩を自作の科白で繋いだコラージュ劇。後者は自作の科白を構成したコラージュ劇である。これらは大学会館2階の中会議室やホールで上演した。
ところで、当時はプール脇に旧山高時代の木造校舎があり、サークル棟として利用されていた。この2階には固定の長机と跳ね上げ式の椅子が並んだ大きな階段教室があり、それまでは奇術愛好会が仮の物置にしていたのだったが、七八年頃から劇研がなし崩し的に占有し、翌年にはボルトで固定されていた机・椅子を勝手に撤去して、自前の〝小屋〟とするに至った。この階段劇場では、劇研がオリジナル劇やオスカー・ワイルド『サロメ』、唐十郎『少女仮面』などを上演したほか、書肆犀の岩井哲氏(当時は山大前通りにあった喫茶店「犀」の店主)らのハードロック・バンド「パパ・レモン」が参加したライブ・イベントが開催されたこともあった。
じぶんが知る時代の山大劇研は、演劇未経験者ばかりで芝居は未熟なものだったが、その分、高校演劇や「死せる芸術=新劇」(菅孝行)の厭らしさとは無縁でもあった。そしてなにより、恥知らずで恐いもの知らず、だったような気がする。(了)
2014年05月20日
「山形詩人」83~85号

ずっとサボっていた作品情報を久しぶりにアップする。
「山形詩人」第83号(2013年11月)に詩「バックスタンドの憂鬱」を、同第84号(2014年2月)に詩「次孫論」を、そして85号(2014年6月)に詩「春宵論」を発表した。
負けが混むと投げやりに卑下するがそれでも選手たちには拍手を贈り
たまに勝つとタオマフを翳してお決まりのスポーツ県民歌を合唱する
(大衆的な、あまりに大衆的な)ぞっとするひとびとの群れ
ぼくはあなたたちにとって永遠に余所者であり続けるのだから
この土地からもあなたたちからも逃れられないわけはないのだ
そう呟きながらつよい西陽に炙られてぼくは今日もここにいる
(「バックスタンドの憂鬱」より)

また、土曜美術社出版販売発行の雑誌『詩と思想』(2014年6月号)の巻頭詩として「あなたたちが歳をとれるようにぼくが歳をとれる訳ではない」を発表した。
幼い頃、何度も泣いて帰って来るじぶんに母が言った
それはおまえが共苦する力を授かっているからなのだと
面の皮が厚くなって共苦する力を去なす術は身に着けたのだが
ほんとうに欲しいのは共苦する力に頓着せず日々を快楽する力
(「あなたたちが歳をとれるように――」より)
「山形詩人」の送付を希望される方は、このブログの「オーナーへメール」から注文を。1部500円(送料当方負担)また、『詩と思想』誌は全国の書店またはネットショップで求められたい。
ちなみに、高啓の詩集『母を消す日』・『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』・『女のいない七月』(何れも書肆山田)はネットショップ及び山形市嶋の大規模書店『戸田書店』で購入可能。
なお、『女のいない七月』は、ジュンク堂(池袋店)、丸善(仙台アエル店)の店頭にも在庫があるようである。
こちらも「オーナーへメール」から注文をお受けする。(送料当方負担)
2013年10月22日
山形県詩人会アンソロジー2013

詩人としてのアリバイその2ということで、山形県詩人会の『山形の詩―アンソロジー・2013―』(2013年10月発行)に作品「駈込み諦め」を寄稿しています。この作品の題名は太宰治の短編小説「駈込み訴え」をもじったものです。
アンソロジーは山形県詩人会が3年に1回ほどまとめているもの。今回は、40名の詩人が作品を寄稿しています。
「八文字屋書店」(山形市、天童市、酒田市、鶴岡市)と「ほんべえ」(河北町)に置いていただいています。1部1,050円。
郵送ご希望の方は「オーナーへメッセ―ジ」から、メールにて申し込んでください。(送料当方負担)
2013年10月20日
山形詩人82号

「山形詩人」82号(2013年8月発行)に詩「アトムの子」を発表しました。遅ればせながら、詩人としてのアリバイ証明(苦笑)としてここに報告しておきます。
また、同号には久しぶりに同人全員が作品を出稿したということで、合評会も9月にこれまた久しぶりに開催されました。
「アトムの子」は、原発事故の影響を背景に書かれていますが、それが主題ではありません。
作品としての洗練度は高くありませんが、自分としては思ったより内容のある作品になったと思います。
入手希望の方は、このブログの右下の「オーナーへメッセージ」からメールでお知らせください。
1部500円(送料は当方負担)です。残部僅少です。
2013年06月18日
2013年05月13日
山形市芸術文化協会「優秀賞」
高啓詩集『女のいない七月』が、「山形市芸術文化協会・優秀賞」を受賞しました。
平成25年5月11日に山形市民会館において開催された同会の平成25年度総会の場で表彰式が行われ、高啓は謹んで授賞を受けました。
前詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』が、平成19年度の「、「山形市芸術文化協会・奨励賞」を受賞していますので、今回は2回目の受賞となりました。
高啓の詩は、詩の愛好者のマジョリティにはウケない性質の作品だと思いますが、このように地元の方々に評価していただき、感謝しています。
前にもこのブログで記事にしていますが、山形市嶋地区の郊外型書店「戸田書店」さんに、高啓詩集『女のいない七月』、『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』、『母を消す日』の3冊を揃えたミニコーナーを設けていただいていますので、地元の方はぜひそちらで手に取ってご覧ください。(できれば同書店で買い求めてください。)
遠方の方は、ネットショップでご購入ください。
2012年05月23日
戸田書店(山形店)に高啓詩集コーナー
山形市嶋地区にある戸田書店山形店の店内に、高啓の詩集『女のいない七月』、『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』、『母を消す日』の3冊を揃え、これに著者についてのコメントを付けたミニ・コーナーを設置していただきました。(詩集の棚ではなく、入口を入って正面すぐに置かれている低い書棚の隅です。)
去る5月5日(土)に山形市の「まなび館」で開催された「一箱古本市@山形」の際に、このイベントに関わっていた同店の職員の方が高啓の詩集を見つけてお声がけくださり、店長(山形市出身)のご厚意で置いてくださるということになったものです。
戸田書店の本社は静岡。全国で40店近くをチェーン展開していて、山形店はいわゆる郊外型の大型書店ですが、ちょっと面白い工夫がされています。
店内中央に「香澄堂書店」と書かれた看板が置かれており、その一画が古本コーナーになっているのです。これは山形市香澄町(霞城公園に隣接する最上義光記念館の前)にある古書店「香澄堂書店」の本を受託販売しているものとのこと。地元詩人の売れない詩集を大事に扱ってくれることとあわせて、古書店経営がとても厳しい昨今、地元でこつこつと頑張っている古書店をこんな形で応援してくれることを嬉しく思いました。
なお、詩集『女のいない七月』は、山形市七日町の八文字屋書店(本店)にも配本されています。(入口近くの郷土出版物コーナーではなく、「評論・文芸」という表示の下の詩集コーナーに置かれています。)
2012年04月30日
季刊『びーぐる』第15号
季刊『びーぐる』第15号(2012年4月20日刊)を恵送いただいた。
東京の書店で手に取ったことがあったが、じっくり目を通すのは初めてである。
内容をみて、少し驚いた。この雑誌の4人いる編集同人のうちのふたり、つまり山田兼士さんと細見和之さんが毎号対論している「この詩集を読め」という連載企画で、高啓の『女のいない七月』が取り上げられていたのである。
この対論「この詩集を読め」は3段組みで8ページ近いボリュームがある。毎回、1冊の詩集を取り上げて、ふたりの読みを対論形式でじっくりと述べ合っていく企画のようである。(この対論は、大阪文学学校で受講者を前に2月27日に行われたもの。)
これまで、高啓の作品がこのように丁寧に取り上げて議論されたことはなかったので、率直に言ってとても有難いと思った。
ふたりは、対論の初めの方で、第2詩集『母を消す日』(詩誌の書評やいくつかの賞の選考経過報告のなかで取り上げられたという意味では初めて全国的に世に出た詩集)から、第3詩集の『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』を経て、第4詩集である『女のいない七月』に至る過程を、各収録作品に目配りしながらよく追ってくれている。
ここでは対論の内容に触れることはしないが、掲載文章には次のような小見出しが付けられている。
「強い言葉を持つ詩人」 「物語と現実世界」 「誠実と不実のあいだ」 「『逆さ蛍』とはなにか」 「山形と秋田のあいだ」 「物語世界と詩世界」 「母性思慕と母親殺し」 「構造と裂け目」 「会いたい詩人」
この小見出しで、どんな対論が行われているか、ある程度想像がつくのではないかと思う。
なお、『びーぐる』については、山田兼士さんのHPをご覧あれ。
http://homepage2.nifty.com/yamadakenji/1beagle.htm
2012年01月25日
高啓新詩集『女のいない七月』
高啓の新詩集『女のいない七月』(書誌山田・税別2,500円)が上梓されました。
カバーは、なんという名称か分かりませんが、薄く明るめの緑から水色の系統の色です。ここに掲載するに当たり、デジカメで撮影し、簡単な画像ソフトで色を調整してみましたが、本物に近い色が出ませんでした。タイトル文字は金色です。全体として落ち着いた色調のなかに、繊細な艶やかさを感じる表紙です。
表紙のカバーを取ると、白い本体の表には、木の形をした小さな刻印があります。収録作品に木や森の出てくる詩があるので、それをイメージしたものでしょうか。
装丁者は亞令さん。亞令というのは、書誌山田で編集・製作を担当している大泉史世さんの装丁者としてのお名前です。装丁についてはすべてお任せしました。
中身は活版印刷です。昨年3月の震災で、東京の活版印刷所は大きな被害を受けたそうですが、この詩集の製版作業の頃にはだいぶ持ち直したということでした。
帯の文章は、編集者が詩集収録作品の一部を幾つか抜き出してコラージュしたものです。
全体として、いつもながら丁寧な本作りです。
1月末には大規模書店などに配本される見込みです。興味のある方は書店で手にとってご覧ください。また、お近くの書店に配本されていない場合は、頒価2,500円(消費税不要・郵送料当方負担)でお送りします。このブログ画面の右側の「オーナーへメッセージ」からメールしてください。
なお、そのうちインターネット書店でも取扱いになると思います。
前々作『母を消す日』、前作『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』についても、当方に在庫があります。これらは、ネット書店でも取り扱われています。最近、アマゾンを見たら、『ザック』の中古には、なぜか124円から5,000円超まで幅のある値段がついていました。(注:アマゾンで著者検索する際は、高と啓の間にスペースを入れてください。)
2ヶ月ほど前の話ですが、『ザック』は都内のジュンク堂や仙台の丸善などの詩集コーナーに置かれていました。
これは2007年刊。毎年大量に出版される詩集のなかでここまで置かれているということは、何冊かは売れているということでしょうか。それともこの詩集に目をかけてくれる書店員さんがいらしたということでしょうか。
書肆山田のサイトもご覧ください。
2010年09月14日
「山形詩人」69・70号及び高啓の詩へのコメントへのコメント
1 高啓の最近の作品
高啓は、「山形詩人」69号(2010年5月)に詩「蒸気機関車がわれらを救いたまう日」、同70号(2010年8月)に詩「女のいない七月」を発表している。
また、山形県詩人会の会員による『アンソロジー・2010 山形の詩』(2010年9月)に、詩「ラヴ・レタァ」を発表している。
2 現代詩手帖・詩誌月評
『現代詩手帖』2010年4月号の詩誌月評で、評者の水島英己氏が、「山形詩人」68号(2010年2月)に発表した詩「冬の構造」を取り上げ、紹介と批評を書いてくれた。
以下にその一部を引用する。
「意味も描写も明確ななかで、『手を結びながら歩くのは冬の構造である』や、『けれど、知らぬ間にたどり着いたのは危うい視点場なのだ』という暗喩的な表現に苛立ちを覚える人もいるかもしれない。『危うい視点場』というのは、そこからこの二人の、とくに女の側の心的外傷になっているような記憶を想起させる怖れに結びつく何かがお城の下の街に見える場ということであろう。島尾敏雄の小説の世界のそばにいるような気もする。『冬の構造』や『危うい視点場』という表現が必須のそれかどうか? この二人の歩みの個別性と普遍性を媒介するという意味で、この詩にとっては不可欠なことばだと私は考える。この詩に私が惹かれるのは風景が時間的な継起として捉えられている、その見事さにある。」
「自らの経験的現実を『ことば』で書く詩のあり方として野村(注)と高の二人の詩を挙げた。野村のことばは沈黙を目指している。そこでは現実の事実内容そのものが消えてしまい、『ことばで』で(ママ)書くことの無根拠さをさらけ出す。高のことばは堅固さと精確さを誇ろうとする。しかし、常に事実内容の重大さが、ことばで書くことを無化しようとしている。二人の詩が堪えているのは現実とことばの現代的な関係のあり様である。」
(引用者注)野村尚志個人誌『季刊 凛』29号の詩「日暮れの弁当」
この論評に突っ込みを入れようとすればその論点は盛りだくさんだが、まずは限られた月評の紙幅のなかでこのように丁寧に取り上げていただいたことに感謝したい。(ただし、残念なことに、高啓の詩の引用部分に少なくても3箇所の転記ミスがある。)
ところで、「冬の構造」や「危うい視点場」という言葉は、「暗喩的な表現」なのだろうか。「冬の構造」は抽象語だとはいえるが、暗喩というのとは少し違う。また、「危うい視点場」は、暗喩ではないどころか、抽象語でさえない。なぜなら、作品のなかでそこが物理的(地理的)な視点場であることと、「危うい」のはなぜかということを、まさに水島氏が理解しているような内容を読者が想像できるように、詩行において説明的に記述しているからである。(ちなみに、この区画整理で消えた連れ込みホテルと移転した中央病院のことは、高啓の別の作品にもっと詳しく出てくる。高啓の詩集の読者には、高啓の詩作品は、連作小説みたいに読んでいただけると思う。)
高啓の詩は、ほんとうは、いくつかの限られた抽象語や暗喩表現に頼ることで「この二人の歩みの個別性と普遍性を媒介する」というような必要を感じない位相で書かれている。
この作品は、その総体として、この二人にとって個別的な対幻想の世界が、普遍的な時空構造として現れるという世界を描いている。逆にいえば、普遍的な時空構造は、対幻想としては、つねに/すでに、個別的に(というか、むしろ固有なものとして)生起するしかないということだ。
しかし、こういうことが読者に伝わりにくいので、「冬の構造」という抽象的な表現で、いわば堪え性がなくて馬脚を現すかのようにして、<世界>という観念への、しょうべんくさい導きのことばを挿入してしまったのである。
もっとも、この月評における水島氏の評価眼は、この作品の勘所のひとつに向けられてもいる。「この詩に私が惹かれるのは風景が時間的な継起として捉えられている、その見事さにある。」という表現で、この作品が、散策の風景を辿ること、つまり情景を映画的に構成していくことで、ふたりの時間意識を描こうとしているところに着目してくれているところである。
作者としては、だがしかし、この作品が、その志向の結果として、「見事」なものになっているかどうか自信はない。
3 瀬崎祐氏のHP「風都市」関連ブログ
詩人の瀬崎祐氏が、自らのHP「風都市」の関連ブログ「いただいた詩誌・詩集から」http://blog.goo.ne.jp/tak4088/e/ff48f48ea360754d2d72951c5e3f61a6において、上記の『山形詩人』第70号掲載の「女のいない七月」を取り上げている。
論評の一部を引用する。
「感情も感覚もむき出しで、荒々しい。その生理的な部分を容れた作者の肉体がそのまま迫ってくるようで、圧倒され、それゆえに魅了される。巧みなのは、迫ってくるものが肉体そのものであるように見せていて、やはりどこまでも感情であるところだ。」
「『女とはそんなつながりだったんだ』と気づいたりもして、女が不在であることによってはじめて見えた事柄が、すざまじい(ママ)存在感を放っている。当然のことながら書かれている内容はどこまでもフィクションであるわけだが、書き表したものにここまで生の感情を載せることができることに、感嘆する。」
上記2つの引用部分の間に作品の最終連が引用されているが、残念なことに転記ミスで最後の2行の前が1行空けられていまっている。実際は最終連に行明けした部分はない。
さて、このように気を入れて読んでいただいたうえに、このように感嘆していただいて、作者としては恐縮するばかりだが、一言断らせていただけば、高啓はこの作品のどこにも「生の感情」を載せたりしていない。この作品がその総体で表現しようとしているのは、「肉体」やら「感情」やらであるように見えて、じつはむしろ<観念>といったものに近い。
なお、この「女のいない七月」のなかで、女に向けて「ラヴ・レタァ」という詩を書くという件があるが、その詩が『アンソロジー・2010 山形の詩』に掲載されている同名の作品である。
【余談的な註】
「山形県詩人会」は、現在存在している団体で、山形県在住の詩人たちの多くが所属している任意団体。
個人の自由意志による加盟で、会としての思想傾向や組織方針などはない。
たまに「詩人会議」という団体と混同する人がいるが、組織としてはまったく関わりはない。(山形県詩人会の会員で、県の詩人会議に所属している人はいるかもしれない。)
また、かつて「山形県詩人協会」という団体が存在し、「県詩賞」という賞を運営していたが、いまの「山形県詩人会」はこの流れを汲むものではない。(まったく無関係というものでもないが・・・)