2009年11月26日

「ギー・ドゥボール特集」感想(続き)






 前回の続きである。
 もう一度断っておかなければならないが、上映環境が劣悪だったこともあり、眼の悪いじぶんは、ナレーションにつれてどんどん切り替わる小さな字幕の内容を、うまく読み取っていくことができなかった。その分、映像の視認もおろそかになっていたと思う。
 また、すでに記憶もかなり曖昧になっている。木下誠氏の解説についても、じぶんのメモに拠っているので、正確さに欠けると思う。そのへんを割り引いて読んでいただきたい。











●『映画「スペクタクルの社会」に関してこれまでになされた毀誉褒貶相半ばする全評価に対する反駁』
 
 「スペクタクルの社会」は1974年5月に公開され、映画界や新聞・雑誌などで激しい反響を巻き起こした。題名どおり、それらの批評に反駁するため、75年に製作・上映された22分の作品。
 ただし、じぶんの記憶では、この作品の印象は薄い。作風がこれまでの方法を踏襲していたからだと思う。
 また、音声で、ドゥボールが論理的にどういう反論をしていたかについても記憶がない。
 「OUTSIDE IN TOKKYO」(http://www.outsideintokyo.jp/j/news/guy_debord.html)には、この作品について、
 「映画の専門家たちはそこには悪しき革命政治があると言い、人を欺くあらゆる左翼の政治家たちはこれを悪しき映画だと言った。しかし、革命的であると同時に映画作家であるとき、人は次のことを容易く証明することができる。彼らすべての辛辣さは、問題とする映画が彼らには打倒できない社会の正確な批判であり、彼らには作ることのできない最初の映画であるという明白な事実に由来しているのである」というドゥボールのコメントが掲載されているが、こんなことを言っても強がりにしか聞こえず、何も言ったことにならない。作品のなかでも、こんな程度のことしか言っていなかったような気がする。というか、覚えていない・・・記憶に残らない程度の「反駁」だったということか。

 しかし、木下氏からは、こんな話があった。
 この作品は、1974年にメディアに現れた批評への反論である。
 ドゥボールは、自分の映画について、紙上やテレビなどのメディアで語ることがなかった。彼は、自分が批判しているスペクタクルの中に登場することを拒否していた。
 1968年の「五月革命」と異議申立て運動の敗北後、メディアには沢山の知識人が登場し、運動についてはもちろん、ドゥボールの映画についてもあれこれコメントした。
 また、“ヌーボー・フィロゾフ”と言われる、メディアで活躍する哲学者らが脚光を浴びるようになる。政府は、大学改革として新たな大学を設立し、デリダやドゥルーズなどもそこで教鞭をとった。
 知識人の質が変化していった。68年を担った世代が、大学を出てメディア社会や公告産業などに入っていく過程は、異議申し立て運動が様々な既存社会の分野に回収されていく過程でもあった。このことにドゥボールは危機感を抱いた。
 1974年には、ポルトガルで革命が起こった。イタリアでは、アウトノミア運動(労働者自治運動)やフェミニズムのほか、地域運動などが様々な形で拡がりつつあった。しかし、その一方で、イタリア共産党とキリスト教民主党が「歴史的妥協」を行い、これらの運動を押えつけようとする動きが出てきた。
 この作品では、消費社会が様々な無意味なものを生み出していると述べている。


●『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』(1978年、上映時間105分)

 1977年に撮影され、78年に完成したドゥボールの最後の作品。初上映は、81年5月。
 タイトルからして、ずいぶんと抒情的で、ニヒリズムの匂いがする。そのうえ、ラテン語のタイトル“In girum imus nocte et consuminur igni”は、回文になっている。(回文とは“たけやぶやけた”のように、前から読んでも後ろから読んでも同じになる文のこと。)

 またまた「OUTSIDE IN TOKKYO」から引用すると・・・・
 「既存映画の転用において使用された作品:『赤い砂漠』(ミケランジェロ・アントニオーニ)、『悪魔が夜来る』(マルセル・カルネ)、『天井桟敷の人々』(マルセル・カルネ)、『オルフェ』(ジャン・コクトー)、『進め竜騎兵』(マイケル・カーティス)、『第三の男』(キャロル・リード)、『壮烈第七騎兵隊』(ラオール・ウォルシュ)ほか。
『ギー・ドゥボールのすべての映画作品の中で、この作品が間違いなく、もっとも美しく、もっとも完成された作品であるといえるだろう。様々なフィクション映画の抜粋やニュースの断片、あらゆるところから集められたえ映像資料がぎっしりと織り成されている網目を通して、本作は、芸術性と政治性が分かちがたく結び付いているドゥボールにおいて、まさに遺言と言える作品であるだろう』(ティエリー・ジュス)」

 さらに、特集のパンフレットから引用すると、
 「1972年から77年まで滞在したイタリアを政治活動のために国外追放されたドゥボールが、50年代以降の自らの活動とその姿勢を省察する『自伝的』な作品。(中略)個人の生を忘却の闇へ消し去ろうとする制度的な歴史に対して抵抗する、ドゥボールの声と直接に生きられた青春。これまでの作品と同様に多くの転用を用いているが、ヴェネツィアの運河をとらえたパン・ショットやセーヌ川の航空写真、李白、ヘラクレイトス、オマル・ハイヤームのテクストに顕著なように、『水』、『流れ』、『循環』といった主題が軸となり、映画として抒情的な側面を生み出している。」
 

 たしかに「ギー・ドゥボールのすべての映画作品の中で、この作品が間違いなく、もっとも美しく、もっとも完成された作品である」と思わせる。詩的なことばが流れ、まさに「抒情的」な印象を与える。
 これは“完成された作品”なのかもしれない。・・・しかし、この場合、“完成された作品”とは、「スペクタクル」に変成された作品という意味でもあるだろう。そもそも公表される「自伝」とは、幾許かは自己のスペクタクル化でもあるのではないか。(ドゥボールは、他者による自身のスペクタクル化については、これを生涯拒否し続けたのではあるが。)
この作品は、ちょっと間違えれば、映像詩人の来歴とその思想を描いた凡庸な「映像詩」ないしは「構成詩」ということになりかねない。
 ドゥボールは、自分の批判が自己に向かうという視線を持ち得ていたのだろうか、という疑問。あるいは、反美学・反芸術主義を貫いたドゥボールも、やはりこういうところに来てしまうのか・・・という想いを抱かせられる。

 いや、むしろドゥボールはこのことに自覚的であったかもしれない。
 相変わらず「転用」される映像は、有名な劇映画のそれであり、ニュース映像(デモやストライキなど)であり、プロパガンダ映像(赤の広場でパレードを観閲するソ連の指導者たちなど)であり、さらには商品化されたエロスのイメージとしてそこそこに氾濫するCM写真(水着姿のカヴァー・ガールなど)である。
 言っていれば、このようなあからさまな「スペクタクル」と自分が撮影した風景の映像をつなぎ合わせて、それに詩的なことばを重ね、自らの軌跡を語るという手法は、作者が内包するジレンマをそのまま表出したものであると看做すこともできる。


 上映会場における木下氏の解説から・・・
 78年に完成したこの作品が81年まで上映されなかったのは、推測するに、ドゥボールがパリを離れ、スペインで亡命生活のような生活を送っていたからではないか。
 この時期、イタリアの歴史的妥協に反対する「赤い旅団」が、キリスト教民主党のモロ首相を暗殺(78年)。西ドイツでも赤軍のリーダーが獄中で殺されるなど、不気味な動きが続いていた。
 ドゥボールは「五月革命」に影響を与えた人物だったため、こうした過激派の黒幕ではないかと看做されたことなどから、スペインで、友人の間を渡り歩く生活をしていた。(彼は、イタリアでキリスト教民主党とイタリア共産党が結託のもと、資本・国家・警察が一体となって新左翼運動を壊滅させるために行っていた「国家テロリズム」を暴露する活動を行い、イタリアから国外追放処分を受けていた。)
 この自伝的な作品で、ドゥボールは51年の『サドのための絶叫』製作以降の活動を、すべて一人称で語っている。『スペクタクルの社会』は転用で構成されているのに対し、この作品は自ら撮影したものが多く、またナレーションには他者のテクストからの引用が多く用いられている。
 4半世紀にわたる自分を振り返り、自らを「スペクタクルの社会」との戦争を生き抜いてきた戦略家として語っている。(ここまでが、木下氏の解説のメモから)


 さて、この特集の最後に講演した、マルセイユドキュメンタリー映画祭ディレクターのジャン=ピエール・レム氏の話のなかに、次のような一節があったように思う。
 「ドゥボールの作品では、フランス語が重要な役割を果たしている。<ことば>は、単純に美学的なものでも、詩的なものでもない。ドゥボールは、自殺(1994年11月30日)のまえに、イタリアの哲学者が語った『言語は、すべてが破壊されたあとに残された手段である』という言葉を記銘していた。」

 ドゥボールは、このように、ことばを最終的な根拠として、「スペクタクルの社会」に立ち向かった。彼の映画作品には、“ことば”への依拠、そして“詩的なるもの”への思想的立脚さえもが看て取れる。
 それは、時代に追い詰められていくシチュアニストの不可避的な成り行きかもしれない。
 「分離」を否定するドゥボールのように、ラジカルな革命思想を持ち続けることは、大きく言って、ふたつの意味で困難さに見舞われる。
 ひとつは、“時間は経過する”ということである。真にラジカルな革命思想を、ひとは持ち続けることはできない。ひとが、関係において「革命的」な思想を持ち続けているとすれば、それは思考が硬直し、「革命的」行為乃至表現が自己目的化した代物であるか、または、幾許か現実に妥協した、つまりは、ひとが日常の関係というものを継続して生き続けるその時間性に妥協した(必ずしも“根源的批判”ではなくなった)思想であるか、そのどちらかである。
 ふたつには、ラジカルな革命思想は、―この場合、それは“ラジカルな批判思想”と言い換えられるが―は、本性的に、激しく<自己言及的>だからである。それは、一途な人間に対して、自家中毒症を発症させる。
 “ことば”は、そして“詩的なるもの”は、この革命思想の生真面目さやその陥穽から、良くも悪しくも、ひとを救う。ギー・ドゥボールのことばがそういうものだったかどうか、彼の著作を読んでいないじぶんは知らないのだが。



<山形国際ドキュメンタリー映画祭における「ギー・ドゥボール」特集の意味について>

 だいぶ長くなったので、この辺で、この映画祭においてこの特集が企画されたことの意義について、じぶんの感じたことを記す。

 じぶんが、映画や映像に対して、基本的に疑い深い視線をもっていることは先に述べた。
 2009年で10回を数えたこの「ドキュメンタリー映画祭」に対する視線も同質のものである。
 じぶんは、この映画祭からいくつかのものを学び、その意義を小さくないものとして認めている。
 だが、端的に言ってしまえば、この映画祭には“批評”が存在しない。映画祭の運営サイド(ボランティアも含む)や様々な形で関わるその筋の専門家(ディレクターや評論家や映画作家及びその卵たち)や愛好者たちを含めて、関係者から、まともな作品批評(批評というのは、もちろんまともな批判ということであるが)を見聞きした例(ためし)がない。
 乱暴な言い方でその理由を指摘してみれば、ここに集う人々はみな、どこかで映画の力を信じていたり、あるいは映像作品をそれ自体として価値あるものとみなしていたり、手放しに愛して(!)いたりするからである。
 決して豊かではない山形市民の税金で運営されているのに、映画作家を愛し、保護し、育成すべきだなどという度し難い想い込みや尊大さの裏返しにも見える擬似非的尊敬心から、どうしようもない作品の作家たちを甘やかしている輩さえ散見される。
 もちろん、このような傾向は、この映画祭に特有なものとはいえないだろう。

 ギー・ドゥボール特集は、この映画祭のディレクターの言葉によれば「8年越しで実現した」ということだったが、特集「映画に(反)対して」が、この映画祭に突きつけているのは、皮肉にも(というか、正当にも)映画祭自体に対する根源的な部分での否定であるだろう。
 映画祭の一部としての一企画が、映画を価値あるものとして顕彰する“映画祭”という擬制を鋭く告発する。そのスリリングな試みにひとまずは拍手を送ろう。企画者たちの側にそういう意図があったかどうかは別にして。
 しかし、である。そのことは、とりもなおさず、“映画・映像への根源的な批判”が、映画祭というファッション・ショップの商品棚にきれいに陳列され鑑賞されるという逆説的な悲喜劇をも帰結している。

 あの世のギー・ドゥボールは、それを「スペクタクルの社会」の一現象と看做し、自嘲気味に非難を浴びせることだろう。(了)
                                                                                                                                                                                                                                       
 




                  
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:09Comments(0)映画について

2009年11月21日

山形国際ドキュメンタリー映画祭「ギー・ドゥボール特集」





 このブログ、ほんとうに更新頻度が低いわけだが、それでも検索エンジンや他のブログでの紹介を通じて、毎日20〜30のアクセスがある。なかには、そろそろ更新されたかな・・・と、ときどき覗きに来てくれる方もいるようである。
 じぶんに時間の余裕がなく、そうそう読んでいただくに足るものが書けないので、“読みに来てもらう”というより、むしろ“検索したらヒットした”というブログを目指した方がいいかなとも思うので、とうぶんこんな調子でいくことになると思う。
 もっとも、読むに値する内容とまでは言えないが、記録として留めておきたい出来事や想いもある。


 今回は、去る10月8日から15日まで山形市で開催された「山形国際ドキュメンタリー映画祭2009」における「ギー・ドゥボール特集」について、忘却の中から記憶を掘り出し、あるいは創作して(?)備忘録的に記しておきたい。
材料は、同映画祭の上映パンフレット、上映会場で購入したこの特集のパンフレット(写真)、そして、じぶんがとったメモである。
 このメモから記憶を呼び起こしつつ記すが、時間が経過したので内容はかなり怪しいかもしれない。



 

 また、予め言い訳しておくと、上映会場(写真)は、平土間の小ホールにパイプ椅子を300ほど並べ、ステージ奥の小さな映像用スクリーンと、これと別立てで張られた字幕用のスクリーンを見上げる形であったため、フランス語が理解できず字幕に頼る者には、劣悪な鑑賞環境であった。
 眼の悪いじぶんには、暗いなかでナレーションにつれてどんどん切り替わる小さな字幕の内容を読み取っていく作業は、かなりしんどかった。代表作の『スペクタクルの社会』などのナレーションは、要するにドゥボールがじぶんの著書を読み上げているものなのだが、その字面を追うだけで精一杯だった。べつに難解なことが語られていたわけではないのだが、内容がよく頭に入ったとは言えない。そのへんを割り引いて読んでいただきたい。
 もっとも、頑固な眼精疲労に耐え、結局3晩、つまり特集の最初から最後までこの企画に付き合ってしまった。それだけこちら側の思考を刺激する何かがあったのだと思う。
 まずは、この野心的な企画を開催してくれた同特集コーディネーターの土田環氏と同映画祭ディレクターの矢野和之氏に感謝したい。


 さて、この企画は、「映画に(反)対して―ギー・ドゥボール特集―」(Against Cinema―Guy Debord Retrospective)と題して、10月10日(土)から12日(月・祝)までの3晩、山形市民会館の小ホールで開催された。(後日、東京日仏会館でも同じ企画上映が行われた。)

 上映作品等は次のとおり。(すべて35mm)
 10日 『サドのための絶叫』(1952年、上映時間75分)、『かなり短い時間単位での何人かの人物の通過について』(1959年、上映時間18分)
 11日 『分離の批判』(1961年、上映時間19分)、『スペクタクルの社会』(1973年、上映時間80分)
 12日 『映画「スペクタクルの社会」に関してこれまでになされた毀誉褒貶相半ばする全評価に対する反駁』(1975年、上映時間22分)、『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』(1978年、上映時間105分)
 各日、上映される2作品の合間に、当日の上映作品について、ドゥボールの作品や著書の日本語訳をほとんど1人で担っているという兵庫県立大学教授の木下誠氏の解説(背景の紹介など)が行われた。この解説はとても解りやすかった。
 また、最終日には、マルセイユドキュメンタリー映画祭ディレクターのジャン‐ピエール・レムというフランス人が、英語でスピーチをした。

 まず、東京日仏会館のHPから、ギー・ドゥボールについての紹介文を引用する。
 「1931-94 年。フランスの映画作家、革命思想家。52年に、最初の映画作品『サドのための絶叫』を発表。57年、シチュアシオニスト・インターナショナル(SI)を結成。67年に『スペクタクルの社会』を刊行し、68年「五月革命」の先駆者と目される。彼の活動は、映画制作、執筆にとどまらず、既存の広告、地図、小説、コミック雑誌の「転用」のみで成り立つ画文集など、境界を横断したさまざまな芸術表現に及ぶ。72年のSI解散後は、イタリア・スペインの革命運動と関わりつつ映画製作・著作活動を行うが、病を得て自殺。」

 次に、特集のパンフレットに掲載された木下誠氏の概説の内容から、ドゥボールの活動の前半について補足すると・・・
 ギー・ドゥボールは19歳のとき、カンヌ映画祭で上映されたルーマニア出身の亡命者イジドール・イズーの実験映画『涎と永遠についての概論』を観て衝撃を受け、パリに出てイズーらのレトリスム運動に参加した。イズーが48年に開始したレトリスムは、芸術作品の徹底的な破壊を推し進め、言語を文字と叫びにまで、映像をフィルムの傷と染みにまで、音楽を音とノイズにまで解体する芸術運動だった。
 しかし、ドゥボールはすぐにイズーの主唱するレトリスムの神秘主義的な傾向と技術至上主義に反対し、ジル・ヴォルマンとともに、レトリスト左派を糾合して<レトリスト・インターナショナル>(LI)を結成。57年までこれを基盤に、芸術・文学・映画・哲学・政治を批判する多くの文章を発表し、LIのメンバーらとシュルレアリストやル・コルビュジエらの活動を批判する数々の行動を行った。
 また、「芸術家」による「作品」の創造という古いタイプの前衛運動を乗り越えるため、既存の作品の「転用」のよる絵画、写真、書物、ラジオドラマなどの製作を行うとともに、都市の隠れたネットワークとコミュニケーション探索する「心理地理学」の実践としてパリを「漂流」し、「行動としての作品」を生み出した。
 57年、<シチュアシオニスト・インターナショナル>(SI)の結成に参画し、「状況の構築」、「統一的都市計画」、「心理地理学」、「転用」、「遊び」の称揚、専門的芸術家の破棄、「非―介入」というスペクタクルの原理の批判などを掲げた実践活動を行う。
 SIは、60年代に革命潮流との連携を強め、「政治的闘争」に積極的に関わっていく。アルジェリア革命戦争の支持し、米国のワッツ暴動、アルジェリアにおけるブーメディエンのクーデター(ブーメディエンはアルジェリア民族解放戦線の指導者。1965年にクーデターで政権を握り1978年まで政権を維持)、中国の文化大革命などに際して、次々にパンフレットを発行。既存の社会主義を乗り越える「労働者評議会」の結成を訴えた。フランス国内でも、66年のストラスブール大学でのシチュアシオニスト・シンパ学生によるフランス全学連への叛乱に理論的根拠を与えるパンフレットを書き、先進資本主義社会での学生層の疎外についての批判と叛乱の必然性について訴え、68年の「五月革命」を理論的に準備した。


 ●『サドのための絶叫』について
 この特集で、最初に上映されたドゥボール21歳の処女作品。
 映画でありながら、画像はない。白い画面と暗い灰色の画面が交互に、しかもその間合いは不規則に映し出される。最初に灰色の画面になった時は、上映機のトラブルでフィルムが途切れたのかと思わせられる。
 音楽や効果音もない。白い画面のとき、5人の人間の声による多様なテキストの朗読やいくつかのダイアローグが流れる。テキストには詩的な表現もある。(内容は覚えていない。ただし、題名である「絶叫」調の声はなかったと思う。)
 上映が進むに従って、次第に灰色の画面の時間が長くなっていく。最後は20分以上灰色の画面が(音声無しで)続き、「翻訳・木下誠」という字幕が現れて、作品の終わりを告げる。
 山形での上映会では、終わり近くでひとりの観客の携帯電話が鳴り、そいつが電話に出て話し始めた。「いま、ギー・ドゥボール特集を観てるんだ」・・・その声がびっくりするほどホール全体に通る。笑いが起きる。それに対して「いいかげんにしろ!」と怒声が飛ぶ。そして、その怒声に対して、こんどは別の方向から「いいじゃん!」と批判が起きる。・・・「もう終わっているんじゃないの?」という声に、また、笑いが起きる。
 じぶんはといえば、この灰色画面の時間、ドゥボールが観客に対して自己と向き合うことを強いているのではないか・・・などと早合点し、ではそうしてみようか・・と、その画面にじぶんの想念の画像を映し出そうとしていた。それは、まるで、知人や職場関係者の親族の葬式に出たときのように(!)神妙な内省だったのだが・・・。(苦笑)

 さて、『サドのための絶叫』と次の作品の上映の間合いに、木下誠氏による解説があった。
 木下氏によれば、当時イジドール・イズーに影響を受けていたドゥボールは、LIのなかで反体制的・前衛的表現活動を行っていた。このグループは、たとえば、教会の屋根裏に隠れていて、儀式のとき、罵声を浴びせるなどの直接行動も行ったという。
 上映に先立って機関紙に発表されたシナリオでは、この作品に画像がつくことになっていたというが、上映された完成作品からは一切消えている。美学至上主義的なイズーらの影響を離脱し、映像表現に対するラジカルな批判から独自の思想を形成する過程が、その処女作品から、すでに始まっている。
 1952年6月のパリ人類博物館分館「アヴァンギャルド・シネクラブ」における初上映の際には、途中で観客が騒ぎ出し、最後まで上映できなかったという。


 ●『かなり短い時間単位での何人かの人物の通過について』について
  「OUTSIDE IN TOKKYO」(http://www.outsideintokyo.jp/j/news/guy_debord.html)というサイトから、紹介文を引用すると、
 「レトリスト・インターナショナル(LI)からSIへ活動の拠点が移行していったドゥボールが、SIの運動の起源を示した作品。「漂流」や「逸脱」などの表現方法の創造、「状況」の構築の実践、都市計画についての考察、日常生活の完全なる解放、LI の機関誌「ポトラッチ」の発行など相次ぐ体験などで記憶され、幕を閉じた時代を総括するエッセイ。デンマーク人の画家でドゥボールの親しい友人だったアスガー・ヨルンが製作に参加している本作は、過ぎ去る時間の不可逆性や、映画によってあらゆる体験を伝えることは不可能だという確信と結び付いた深いメランコリーでおおわれている。」
 
 『叫び』から一転、18分の回顧的なエッセイである。画像として、パリ?の風景や自分たちがカフェでたむろする写真が臆面も無く映し出される。
 たしかにメランコリーの匂いがするが、突き放した言い方をすれば、この作品からは、いい気なおにいちゃんたちがカフェでいちゃついて、ぐだぐだ議論したりダダイックになったりしている雰囲気が伝わってくる。


 ●『分離の批判』について
 これもまず、「OUTSIDE IN TOKKYO」から紹介文を引用すると、
 「漫画、新聞、雑誌、身分証明写真、ニュース映画などの引用と、ドゥボール自身のナレーションで大半が構成されている。『映像とコメントと字幕との関係は、補完的でも、無関係でもない。この関係そのものが批判的であることをねらっている』。『映画の機能は、劇作品であれドキュメンタリーであれ、孤立した偽の一貫性を、そこに存在しないコミュニケーションや活動に代わるものとして差し出すことである』(ドゥボール)」

 要するに、人間のナマで実際的な関係性が、映画・映像によって収奪・操作され、擬制的なイメージとして“実在”させられているということに対する批判(というより明確な“否”の意思表示)だと思われた。フランス語が解らないからとんちんかんなことを言うことになるかもしれないが、「分離」をドイツ風に言い換えれば、<疎外>ということになるだろうか。

 木下氏によれば、この作品は1960年の秋に撮影され、61年1月から2月に編集されたというが、初めて上映されたのがどこかの記録はないという。
 ドゥボールは、1957年にシチュアニスト・インターナショナルを結成し、“状況を構築する”を合言葉に、都市に拘りつつ活動していた。この作品で、その3年間のグループの活動を冒険として描いている。都市における冒険を中世の騎士の冒険のように看做し、重層的な時間が提示されている。
 この時期は、スプートニクの打ち上げを契機とする米ソの対抗が激化していく時期であり、フランスがアルジェリア戦争を清算する苦しみの時期でもあった。そして何より、カラーテレビの登場など、現代消費社会へのとば口に立つ時期でもあった。
 ドゥボールは、メディア、都市空間、意識・無意識が、すべて「スペクタクル」(映像)を通してしか受け取れない事態を批判し、「日常生活の植民地化」と指摘した。
 そして、複雑なメディアの網の目に絡め取られている以上、ひとつの映像の方法で、この事態を批判することはできないとして、様々な意味をもった映像、声、サブタイトルが反発し合いながら進んでいくというこの作品の方法を編み出した。
 この作品の最後に現れる「つづく」は、『スペクタクルの社会』へ続くということ。映画『スペクタクルの社会』は1974年5月1日に上映されたが、その内容(第1章)は、1967年に機関紙に発表され、1968年の「五月革命」を思想的に準備したものだと言われている。いわば、『分離の批判』において少数により担われたことが、「五月革命」で大規模に生起したとも言える。1972年、ドゥボールは自ら組織を解体し、その結果としてこの映画作品を製作した。

 ところで、『分離の批判』には、カトリーヌ・リトゥネールという女性が出演する。出演といっても、まるでスナップ写真の被写体であるかのようにして、ではあるが。
 この女性がドゥボールの恋人だったのか。たしか、木下氏は、ドゥボールが後に恋人となる少女と出合ったとき、彼女は娼婦だったと言っていた。その少女がこの作品に登場するカトリーヌ・リトゥネールなのか、それとも『サドのための絶叫』に音声で登場するバルバラ・ローゼンタールという女性なのか・・・。
 

 ●『スペクタクルの社会』
 1973年に製作され、74年に公開されたドゥボールの代表作。67年に刊行された同名の著書は、ドゥボールの思考とSIの理論の集大成。
 映像は、『リオ・グランデの砦』(ジョン・フォード)、『大砂塵』(ニコラス・レイ)、『上海ジェスチャー』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ)、『壮烈第七騎兵隊』(ラオール・ウォルシュ)、『アーカディン/秘められた過去』(オーソン・ウェルズ)、『誰が為に鐘は鳴る』(サム・ウッド)、そのほか「社会主義と称される国々の、幾人かの官僚的な映画作家による作品」を“転用”し、コラージュ作品として構成したもの。
 これに、ドゥボール自身が語る音声をかぶせているが、映像とナレーションは直接具体的に関連しているものではない。ヒット映画のコラージュ画像に乗せて、じぶんの「スペクタクルの社会」に対する批判を朗読しているだけで、今から観ればそんなに騒ぐほどの作品ではない。
 しかし、これだけ堂々とした「転用」(今風に言えば“リミックス”)という掟破りと、映画・映像に対するラジカルな“言語的”批判は、当時としては衝撃的だっただろうと思える。

 ここで「スペクタクル」とは、ひとまず「見世物的なイメージ」という意味らしい。
 人間から実際的なコミュニケーション(ドイツ風に言えば、人間の本質=“関係の総体としての人間”ということか)が<分離>(=疎外)され、「見世物」として映画・映像の世界に擬制される。
 人々は、もはやその擬制のイメージに支配され、それなくしては自己統合しえないほど心身を毒されている・・・この作品では、そんな批判、否定、そしてむしろ呪詛というべき言葉が、ドゥボール自身の抑揚のない声で延々と繰り出される。

 映像としては、『リオ・グランデの砦』や『壮烈第七騎兵隊』など西部劇の騎馬戦のシーンが何度も使用されていることが印象に残った。『壮烈第七騎兵隊』(たぶん)の突撃シーン(銃撃されて馬ごと転倒するシーンは非常に迫力がある・・・馬が骨折しなかったかとても気になる)は、『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』でも繰り返し使用されていたと思う。


 さて、予定に反して、この文は少し長くなりそうだから、ここで途中のまとめをしておくとして・・・、
 ドゥボール作品のもっとも中心的な印象は、彼が、<映画・映像>を、本質的に擬制的なものであるとしてラジカルに批判し、決定的に否定する一方で、<ことば>―それは批評的言語であり、詩的言語でもある―を信じているらしいことだ。
 ドゥボールは「芸術の記憶の解体」を目指して、映像批判を展開した。しかし、その根拠にはいつも言葉―ときに芸術的なそれ―が存在している。このギャップがとても興味深い。


 これまでこのブログを読んでくれた方は感じ取っているかもしれないが、じぶんも映画や映像という方法を信じていない。そして<ことば>については、できるならこれを信じようとしている。
 ここでひとまずわかったような口を利いてしまえば、ドゥボールの苦悩と閉塞と自死は、ひとつには、この映像という方法と言葉という方法への態度のギャップ、むしろ病的な解離というべき事態、つまり芸術の記憶の解体を目指しているのに、言葉を信じているがゆえにそれが不可能であったこと・・・に起因しているような気がする。


  続きはまた。



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:02Comments(0)映画について