2008年05月14日

「大岩オスカール:夢見る世界」展と「屋上庭園」展



 東京都現代美術館で「大岩オスカール:夢見る世界」展と「屋上庭園」展を観た。

 大岩オスカールは1965年サンパウロ生まれ。これまで、サンパウロ、東京、ニューヨークで活動してきたアーティスト。
 この人の作品は今回初めて観たはずなのだが、どこかしら既視感があった。

 作品は、都市の風景(比較的リアルでおもに鳥瞰)の地に、動物や植物(花や木の幹など)を重ねて夢想的な世界を創出した大作ものが印象的だった。
 面白かったのは、これらの作品の構想や構図が決められていく過程がわかる制作途中のスケッチや写真(自分が撮影したものの他に雑誌や新聞の切り抜き)のコラージュが展示されていたこと。
 それから、このサンパウロ生まれの作者が、日本のごみごみした下町の鉄工所みたいな工場や倉庫や路地の民家に関心を示していることだった。
 とくに日当たりの悪い路地裏の民家(それはじつにありきたりで陰気なものだが)の暗い曇りガラス窓の向こうからぼんやりとみえる電球の灯りを何度も描こうとしている点など。
 それらは、こういう絵では飯が食えないだろうなと思われる絵だ。一方で、大型で派手で夢想的で、いかにも売れるだろうなという絵がある。その落差が面白いともいえる。

 ところで、この「大岩オスカール:夢見る世界」展の展示では、美術館やコレクターに買われている大きなサイズの絵画が展示された部屋に至るまで、若い頃の比較的つまらない作品を見せられる。それを、それほど退屈させずにフィナーレまでもっていく展示の空間構成が、作品全体のイメージを援けていると思った。




 一方、これと逆に、企画とその広報に疑問を感じてしまったのが「屋上庭園」展だ。
 「自然光の差し込む3階展示室を屋上庭園と捉え、近現代の作家の庭をめぐる様々なアプローチを、10のセクションに分けて紹介」しているというのだが、その口上なりコンセプトなりからは、庭をめぐる空間的な構成を期待してしまうところ、じつは並べられた10の領域は、企画者のアタマのなかで、とても理知的なバイアスによって関連付けられているので、その指向性が理屈っぽい分だけ、観客にとっては付き合わされるのが億劫かつ退屈なものとなっている。

 まず、観客は、「グロテスクの庭」と題された部屋一面のニコラ・ビュフ(1978〜)の大作に付き合わされる。(これが退屈至極であるため、初めにがっくりくる。)
 それから「庭を見つめる」と題された河野通勢(1895〜1950)のスケッチ、「掌中の庭」と題された明治末から昭和初期にかけての版画誌、「夜の庭」と題された戦前の日本シュルレアリスム作品、「閉じられた庭」と題されたアンリ・マティス(1869〜1954)の詩集挿絵、「記録された庭」と題された中林忠良(1937〜)の腐食銅版画、「天空にひろがる庭」と題された内海聖史(1977〜)の小さなパネルを壁一面に配した作品(「三千世界」)等などが順番に配置されている。

 ポップな内海作品(チラシに写っているもの)を除いて、展示されている作品はどれもこの美術館のコンテンポラリー・アートを中心としたイメージとやや異なるし、何れも地味でその作家やその領域だけでは観客を呼べそうにない部類の作品群だ。
 だからこうして、あるテーマに沿ったかのように構成・配置して観客に提示したり、比較的派手な大岩オスカール展と抱き合わせで客寄せしているのだろうが、それならそういう地味な作品だということが十分にわかる広報をしなくてはならないだろう。
 自然光差し込む(?)「屋上庭園」という名称と内海作品をメインに掲げた広報は、この企画展全体の印象からみると、観客を裏切るもののような気がする。
 いや、そういう客寄せの裏切り方は“あり”でもいいし、この「庭園」をコンセプトにした展示は、企画としてはずいぶんアタマを使った工夫なのだろうと、そこは評価もしたいのだが、・・・展示作品がつまらないのではしょうがない。

 また、芸のないガラスの陳列棚で版画誌を観て回らせたり、壁に連続して余裕なく作品を並べただけの部屋があったかと思うと、中ぐらいの大きさの展示室全部を使って、須田悦弘(1969〜)の「ガーベラ」という実寸代の一輪の花を模った木彫が展示されている。
 こんな展示をされたら、どんな作品だってそれなりいわくありげに見えてしまう。
 展示の方法がうまいといえばそれまでなのだが、なんだか卑怯な気がして、この贅沢な展示を味わう気になれない。
 そう感じるのは、ただ、私がひねくれものだからだとは思うが。

 もちろん、よくみると、日本のシュルレアリスムが弾圧された時代の寺田政明「夜の花」(1942)や中林忠良の 「Transposition―転位−?」(1979)など、暗く地味ながら印象的な作品が展示されている。
 だからこそ、このような広報と展示の企画については、あえて違和感を表明しておく。

 この美術館は、とくに、作家の作品とその作品を構成・展示するキュレーターの“共同作品としての展覧会”という感じの企画を打ち出しているのだから、展覧会自体が、いわばひとつの作品として鑑賞され、批評されるべきだろう。

 そういう批評はシビアになされているのだろうか。
 もっとも、美術関係誌をほとんど読まない私が知らないだけなのかもしれない。
                                                                                                                                                                                                                                   

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:15Comments(0)美術展

2008年05月12日

公演 I’ll be 〜終わってたまるか



 宇都宮の劇団「It’s secret !」の公演「I’ll be 〜終わってたまるか〜」(作・片岡健、演出・片岡友美子)を観た。

 この劇団は旗揚げから8年、公演は今回が20作目だという。
 私は、この2年半ほどで7作を連続して観ている。
 昨年度は1年間に4公演(うちオリジナル戯曲によるもの3作)も打ち、その精力的な活動に脱帽したが、さすがに疲れたので今年度は2回の公演にとどめる計画という。
 そりゃそうでしょう・・・と思いきや、地元の小学校の演劇公演を指導するなど地域活動をも引き受けながら準備してきたこの公演は、自らハードルを上げての新たな挑戦となった。

 その挑戦とは、主役の「和子」(女優)と「幽霊」(男優)を、ダブル・キャストとして2パターンの配役を組み、1日に両パターン各1回の計2回上演するというもの。
 しかも、各パターンで「和子」役を演じる女優の“みーこ”と“渡辺やす子”は、もうひとつのパターンでは脇役の「さくら」を演じる。

 組合せの違う配役で臨むふたつのステージの、相互の変化や緊張関係が見どころの芝居である。
 ただし、私はそのうちの1ステージ(作者の片岡健が「幽霊」を演じ、みーこが「和子」を演じる配役)しか見ることができなかった。だから、この芝居についてなにか書いたとしても、それはまだ半分を見ただけでものを言うことになってしまうような気もする。
 だが、と同時に、芝居を一期一会のものであると見做せば、そこで観客の観たものが、その観客にとっての、その芝居の全てということでもある。
 そう考えると、このようなダブル・キャストによる公演は、観客に見比べてもらいたいという以上に、劇団員相互にとっての意味をもつものだと考えられる。

 さて、というのも、7回目のシークレットの舞台は、まずその印象を率直にいうなら、それはあの厄介な“成熟”を感じさせる舞台であった。
 シークレットが、その中心的な役者のひとり、片岡健の作を上演するのは初めてのようだが(つまり、これは片岡の“作家デビュー作”なのだが)、そこで展開される舞台構成はこれまでのこの劇団の芝居に共通した構造をもっており、しかも役者たちはある種の成熟を体現しているようにもみえた。

 “成熟”というとき、その意味するものは、大きく言ってふたつある。
 ひとつは、役者の演技がよく訓練され、その個性がうまく役柄として体現されていて、観る者にしっかりした身体性をもって伝わるという意味。
 この意味では、いままでの公演のなかで、各役者の輪郭がいちばんはっきりしていて、それぞれの役者の身体性がビビッドに伝わってくるような気がした。
 よく稽古してきたことが伝わるし、初演当日も気迫の籠もった演戯を見せてくれた。とくに女優たちには存在感と迫力があった。
 また、舞台構成についていえば、この劇団の芝居には、しばしば、役者ふたり(ときどき三人)の掛け合いの場面が複数設定され、それらの場面を入れ替え、繰り返しながら筋が進んでいくという基本構造が存在するのだが、それが、ちょうどモダンジャズで言う「ビバップ」における各奏者の独奏のアドリブのように、途中で各役者がその個性を表出するシーンとなっていること。このパターンが、よく見て取れた。

 しかし、“成熟”にはもうひとつの側面がある。
 それは、芝居の展開あるいは表現内容の多様性や可塑性が、いわば観客の既存の知見からほぼ予想のつく形で把握され、観る者に安心と理解への自信、そしてやがては納得と退屈をもたらすものとして看取されるという面だ。
 ビバップという形式が、自由なアドリブを多用しながらも予測可能な逸脱の範囲内に収まっていることで聴き手に安心して受け入れられるように、馴染んだ役者ののびやかな演戯は心地よいものだが、同時にまた、新たな展開を期待する観客にとっては、それがじつに型に嵌ったものに思われ、やがては魅力のないものに視えてくる。
役者・劇団員の加齢あるいは経験の積み重ねと観客の側の慣れ・・・こうしたところからくる関係の「成熟」は、アマチュア劇団にとって避けられないものでもあるだろう。
 だから、それをズラしたり、裏切ったりしていく意識的な方法論が、より切実になってくるような気がする。
ようするに、他者(観客や外部批評)による舞台の客観化と自己批評による対自化、それが切実に思われる段階に、この劇団はもう到達しているのだ。
 おそらく、劇団員各自が意識したかどうかに関わらず、この変則的なダブル・キャストの公演を選択したことで、彼らは有無を言わせず自己批評(言葉にならないものも含んで)を呼び込むことになるだろう。


 さて、私がひっかかったのは、この作品のクライマックス、つまり、主役の和子が、これまでアイドルのコンサートのバックバンドに、予め録音されているピアノ演奏の“当て振り”役として雇われ、弾く真似をしていただけだった自分の殻を脱ぎ去って、ひとりステージに立ち、「ほんとうに演奏する」シーンだ。
 舞台奥の暗幕が上がって、そこにこの場面まで大切に隠されてきたグランドピアノが現れたとき、目の悪いじぶんにはそれが本物に視えたのだ。しかし、ピアノは大道具がベニヤ板かなにかで工作した紛い物で、「ほんとうに演奏する」シーンの演戯こそがまさに“当て振り”なのだ。
 舞台の制作者は、なぜここに本物のピアノを持ち込まず、わざわざ苦労してレプリカを自作する道を選んだのか・・・グランドピアノを借りられなければ、アップライト・ピアノでもよさそうなものではないか。
 これでは、「ほんとうに演奏する」シーンなのに、どうやったって「ほんとうに演奏する」ことなど不可能である。・・・このビルト・インされたジレンマ!あるいは自家撞着!

 ・・・・あっは。

 しかし、ひょっとして・・・と、こうも思う。

 この、一見して無駄な労力、逆説的でかつは内向する陰気な情熱・・・これこそが、こっそりと自己批評を内蔵しているのかもしれない、と。




 なお、この芝居は、5月17日(土)と18日(日)の2日間であと4回の公演を残している。
 詳しくは劇団「It’s secret !」のサイトを参照されたい。                                                                                                                                        



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 22:42Comments(0)劇評

2008年05月09日

映画「ノーカントリー」



 山形フォーラムで、コーエン兄弟(Joel Coen & Ethan Coen)の「No Country For Old Man」を観た。
 劇場で映画を観るのは、ほんとうに久しぶりだった。なにしろ、フォーラム・ソラリスの会員証の期限(半年)が切れていた。それもずいぶん前に。
 それで、というわけでもないが、この映画には“ああ、映画を観たなぁ”と思わせられた。
 そういう意味では、これはとても印象的な作品だったし、それゆえ宣伝文句のとおり、コーエン兄弟の「傑作」ということになるのだろう。
 だが、世評の高い(らしい)この作品について、天邪鬼たるじぶんは、あえて愚かな評言を述べ、あえてつまらないケチをつけるとしよう。


 この作品は、いくつかのとても映画的で、優れたシーンをもっている。
 まず、始まりのシーンがいい。テキサスの砂漠に、獲物を狙うハンターが現れる。
 ライフルの照準器の向こうに草食動物が現れ、銃弾が発射される。動物は、尻に銃弾を受け、半矢のようなようすで走り去る。
 そして、ハンターは、その砂漠で、メキシコ人らしい犯罪組織の麻薬取引をめぐる銃撃戦の現場、すなわち穴だらけになった車や散乱する死体に遭遇し、そこで、深手を負いながらもひとりだけ生き残っていた男に、水をくれ、と頼まれる。
 ハンターは、水はない、と答えて立ち去る。
 現場に落ちていた血の跡をたどってゆくと、鞄を脇に抱えて息絶えている男をみつける。ハンターは、大量の現金が入ったその鞄をネコババする。
 そしてじぶんの家に帰り、就寝するのだが、夜更けにがばりと起き上がり、水をもって現場に戻る。・・・・この起承転結の“起”の部分が素晴らしい。これが映画だ!というシーンが続き、作品世界に惹き込まれていく。

 つぎに、このハンターを追跡する冷酷な殺し屋が登場する。
 それがハビエル・パルデムというスペイン出身の役者が演じるアントン・シガーだ。
 この登場人物の髪型がまた異常者的でいい。前髪を8:2くらいに掻き分けたオカッパ調だ。
 強烈な存在感をもって描かれるこの殺し屋の、標的に迫りくるその迫り方というものが、いかにも“こわい”(淀川長治調で)。
 映画の宣伝HPにあるインタビューで、ハビエル・パルデムはこの主人公の役を「神話的」殺人者として受け止めて演じたと述べている。
 たしかに砂漠の雑貨屋で買い物をし、そのレジにいる店のオヤジにコイン・トスをして、表か裏か答えさせる場面の、サイコパス的な凄みはなかなかのものである。
 そして、自分を追跡者として雇ったボスを含め、他者に対して極めて規範的かつ厳格に対応し、標的と自分の内的基準から外れた者については、有無を言わせず殺し尽くす。・・・その人物造形は、(無表情で標的に迫ってくる描写や怪我を自分で手当てするシーンなどで、ちょぴり「ターミネター」を連想させるとしても)とても印象に残る。

 なぜそれが印象的なのか、振り返って考えてみる。
 まず、この役を演じている男が、アングロサクソン風ではないこと。顔が大きいこと。英語の発音がくぐもっていて訛っている(らしい)こと。・・・ハビエル・パルデムの役柄上の風貌は、なにか原理主義的な求道者のようで、その髪型と相俟って一種アメリカ原住民の血が流れているような印象さえ与える。
 ようするに、作品における人物像の設定とそれを演じる役者の存在感。この、いわば基本的要素によって印象的なのだ。
 コーエン兄弟は、この基本的要素を、ためらうことなく、どん、と観客の前に突き出す。

 つぎにこの作品に陰影を与えているのは、トミー・リー・ジョーンズ演じる老保安官である。
 老成のなかにも幾許か癖があり、まじめなのかいやいや仕事をしているのかわからない。
 かれはこの事件を追うのだが、繰り返される殺人への対応に疲れたかのように、なぜか突然リタイアしてしまう。・・・それは「逃亡者」の執念深い刑事役と対照的だ。
 映画の最後は、保安官を辞職した翌朝、朝食のテーブルでこの老人が、老妻に昨夜見た夢の話をするところで唐突に終わる。
 この終わり方もまた、映画的といえばきわめて映画的だ。
 ここでも、コーエン兄弟は、この作品のテーマらしきものを、ぽん、と観客の前に放り出して消える。

 もうひとつ、憎らしいのは、金を持って逃げた男が殺される場面の構成である。
 一度は殺し屋と銃撃戦をして深手を負いながら命からがら逃走するのだが、その最後は誰に殺されたのか明らかにされない。
 道を歩いていたら、その道に面したホテル(?)のプルーサイドから、女にビールを飲んでいかないかと誘惑されたところで場面が転換し、再びその現場の場面になると、すでにその建物の中で死体となって横たわっている。
 殺し屋との対決を期待していた観客は肩透かしを食わされる反面で、あっ、と声をあげ、そして舌打ちしてしまう。
 ここでも、場面の提出の仕方は唐突で、その構成は秀逸である。

 だが、しかし、このように観客の前に登場人物の存在感や唐突な喪失を直截的に放り出すという手法は、あざやかといえばあざやかで印象的なのだが、ずるいといえばずるいのである。
 ようするに、この作品には比較的明確なストーリーがあるのに、本質はコラージュになっている。
 作品を作る方法の“いいとこ取り”なのだ。


 さて、この作品にはコーマック・マッカーシーによる小説の原作があるのだが、それはそれとして観客は「No Country For Old Man」というこの映画作品のテーマが意味するものは何かと考えさせられる。
 じぶんのような上等でないアタマでは、麻薬や金をめぐって殺し合いが果てしなく続くこの世で、さらには「神話的」な殺し屋まで“活躍”する現在において、それについていけない者、つまり古きよき時代をいまだに「人間的に」生きるしかない老人には、住む土地がない、生きる世界がない、ということを描こうとしているのか・・・と、至極単純な考えに傾く。
 そしてせいぜいアタマを廻らしても、この老人の“住む世界がない”という状況は、反転して、「神話的」あるいは求道的に殺しを続けていく主人公にとっても、“住む世界がない”のだという凡庸な理解へと繋がり、やがて世界全体の殺伐さ=<殺伐さとしての世界>の感受へと繋がるだけだ。


 じぶんは、この作品のもつ雰囲気、つまり殺伐さと人間らしさのリニアな提出の作法が、けっこう好きだ。これは「ファーゴ」にもあったような気がする。
 そして、世間から、作品としては高く評価されることについても、まぁそんなものだろうなと思う。
 しかし、あえて難癖を付ければ、この映画作品は、“映画という方法”に甘えている。
 “映画という方法”に甘えられる人間と、それをホイホイたたえる映画ファンが、天邪鬼なじぶんは、どうも好きになれない。
 じぶんこそが、“映画的なるもの”を求めて映画館に足を運んでいるというのに。


 ・・・・あっは。
                                                                                                                                                                                                                                       
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 20:37Comments(1)映画について

2008年05月06日

めくるめく春の・・・

 山形の春はあっという間にやってきて、あっという間に過ぎ去っていく。
 ながいながい冬が過ぎて、やっと春になったと思ったら、花が一斉に咲き出す。
 桜、木蓮、桜桃、林檎などが次々と咲き乱れ、そしていまはハナミズキが満開を迎えている。
 春があっという間に過ぎ去るということは、夏があっという間にやってくるということで、夏があっという間にやってくるということは、あっという間に昼の時間より夜の時間が長くなることを意味し、そしてそのことは否が応でも冬の到来を意識させる。
 つまり、じぶんの意識の中では、冬以外の季節はすべて冬に向かって進んでいるのだ。

 “冬に向かう春”、その春が、しかし、どんなにめくるめくものか、その一端を記したいと思って、4月下旬から5月のGWまでに咲いた庭の花たちに、柄にもなくカメラを向けてみた。
 じつは、庭の花をブログに掲載するのは、詩人の鈴木志郎康さんの真似でもある。

 この庭の草木は、私の義母(妻の母)が中心になって育ててきたものだ。
 その義母が亡くなって、今年でもう七回忌になる。
 この義母が胃がんの再発で亡くなっていく過程に取材したのが、詩集『母を消す日』の「かあさん、あなたが消えていく」という作品である。

 さて、私には、いままでのところ、庭いじりの趣味はない。ろくに花の名前も知らない。
 だから、これらの花は、他人のようでもあり、またそれゆえ生々しさをもって迫ってくる。
 一見どんなに可憐に見えていたものでも、近づいてよく視てみると、多分に毒々しく思われてくる。
























































  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:09Comments(0)徒然に