2013年03月02日

東北芸術工科大学卒業制作展2013 感想その3



 次に彫刻専攻コースの作品について。





13 飯泉祐樹「朔」
 
 クスノキ製の木彫。なにげなく前を通り過ぎたが、通り過ぎてからその影のような存在感が気になって振り返ることになった。
 全体に荒削りに見えるように縦に彫り込まれていて、火事に巻き込まれ、立ったまま炭化してしまった焼け跡の木像という印象を受ける。炭化することで人間に近づく木像・・・この手法はこの作家のオリジナルだろうか。とすれば、この手法でもっと深みのある様々な表情の作品が制作できるように思われる。










14 林拓也「歴史の断片『冬眠』」
 タガメ、カ、クワガタ幼虫、カマキリなどに似た何体かの昆虫の彫刻。それらは一見すると見たことのあるような形態だが、よく観ると見たことのある形態とは異なっている。明確な異型というわけではないが、どこか微妙に変形した存在である。
 この作品の題名が「歴史の断片」とされているのはまさに微妙で、いわば巧妙な歴史修正主義のように昆虫たちの形態がいじられている。「歴史」を自由に想像するのでもなく、事実に即して再現しようとするのでもない。事実を事実として扱い得ない不信とこのいじくりの巧妙さ。それがなにものかの隠喩として提出されているのかもしれない。








15 猪股新悟「阿修羅」
 いわゆるフィギュアの作品。作者は神仏の理想的な姿を追求しているという。
説明書きによれば、「阿修羅」については多面というイメージが浮かばず一面の体とした。また、髪が神秘的な力を宿すとの考えの基に、髪から手が生えているという形態にしたとのこと。
 じぶんは格別に偶像崇拝否定論者というわけではないが、人びとがフィギュアの像を神仏として崇める時代が近いのかと思うと、ちょっといやだな・・・(苦笑)



 最後に、その他のコースの作品に触れておく。









16 内海真佐子「かたすみ展」「バニラアイス」

 実験芸術コース専攻の大学院生の作品。「かたすみ展」は、壁にかけられている首から上の剥製(鹿やトナカイの剥製を思い出してもらいたい。英語でいう Stuffed head )を布製の縫いぐるみで制作したような作品である。一般にはかわいらしいウサギやイヌの縫いぐるみに造られるパステル色の化繊布を使って、それらのフリークスのような造形に仕立てている。
 「バニラアイス」も、宣伝広告に用いられるキャラクターのような可愛らしげな女の子がバニラアイスを食べている絵画であるが、口元が消し取られ、目も不気味に塗りたくられている。可愛らしさへ差し込まれたこれらの(作者側の)異形性は、神経を逆撫でしてくる。そういう意味では、内海真佐子の作品群は、この卒業作品展でじぶんが観たなかでは唯一の、危険で刺激的な作品群だった。






17 菅原良「Alternation」
  総合芸術コース卒業生の作品。ジーパンがまるで植木鉢のようになっているインスタレーション。木がその根元の土ごと歩いているようにも見えるし、土あるいは大地がジーパンを履いて歩き出しているようにも見える。ジーパンはたんなる容器なのか、それとも動きの主体なのか、それが両義的なところが面白い。ただし、植わっている木には刺激を受けないので、全体としては面白おかしい盆栽にしかみえない・・・なんていう皮肉な言い方もできてしまう。






18 渡邉友香「自然から得るものとは」
  工芸コースの作品。球形のヒトデ(?)、内部に繊毛をもった果実、傘の表側にイボのような突起をもったキノコなど、幾分か異型の、つまりは異形であることにそれほど違和感を抱かせない程度に異形の「自然」が金工作品として形象化されている。作者は、一般人に向けたオブジェとしての境界を、つまりは正常と異型の境界を慎重に探りつつ、観客に受け入れられる限界点で形象化しているのかもしれない。










19 堀江遼子「ねむりのしたく」
  ツルがついたカボチャのような形の陶器のオブジェ。となりの大きな陶器のツボを覗くと、その底で、目と口が小さなキャラクター(の親子?)がまるで風呂に浸かっているような風情で寛いでいる。
  正統派的(?)な陶器の作品に、この奇妙な、あまり愛らしくない、しかも膨れたキャラクターを遊ばせている。アイデアとしては面白いのかもしれないが、陶芸作品で勝負しようというのか、このキャラクターで売り出そうとしているのかがよくわからず、中途半端な感じがする。 







20 叶夏実「Illusion AI」
  人形の身体からコードが出ている様が生々しく、かつは痛ましい。“コードで操作される人形”というより、“コードに蹂躙されている像”という印象である。ここに掲げた写真には写っていないが、人形が据えられた台の下には電源ボックスのようなものが配置されており、その全体がこの作品となっている。しかし、台の下のボックスまでを含めての作品となると、“製作中のロボット”みたいな印象になって、とたんに芸術性が減衰し、観る方が白けてしまう。







21 森田益行「丑三つ時」
 ちょうど丑三つ時に出てきそうな単眼の化け物といった印象の作品。
 ボリューム感と重厚そうな体質で、今にも動き出しそうな印象を与えてくるが、どこかでどっぷりと構えた風情もあり、間が抜けた水鳥の化け物のようにも見える。



 さて、このほかに映像専攻コースの作品も数作品観たが、ちゃんとメモをとってこなかったので、ここで取り上げることは控える。
 毎年思うことだが、雪降る広大なキャンパスで、この膨大な展示作品群を鑑賞して歩くには開催期日が不足している。(展示期間は5日間だが、一般市民が平日に休暇を取って観にいくことはなかなか難しい。)
 大学以外の場所でもいいから、学生の作品をしっかりした形で一般市民に公開する機会を増やしてもらいたいと思う。じぶんはこの大学の学園祭や大学の裏山にある悠創館の展覧会にもなるべく出かけるようにしているが、学園祭等の際に展示されている作品の数は卒展のそれと比べ物にならないほど少なく、しかも質も落ちる。展示に向けてピークをもってきた学生たちの作品をじっくり観たい。また、作者のトークとそれに対する質疑、さらには専門家らを交えた批評や意見交換の場を覗いてみたいとも思う。
 今回の卒展の期間にも山形市中心商店街の元旅館を改造した「ミサワクラス」というスペースで、青森県立美術館の学芸員を迎えたイベントが行われた模様だが、一般向けにはイベント内容の紹介も会場の位置図の表示もなく、外部の人間としては参加しにくかった。
 また、卒展とは別に、この大学の教員たちの作品展や研究等のプレゼンの機会に触れることができれば、なお幸いである。

 「アベノミクス」とTPP交渉参加でこの国はきわめて危うい綱渡りをはじめてしまったが、この大学を、つまりは山形を巣立つ卒業生の前途に幸多かれと希う。  (了)

                                                                                                                                                                         

Posted by 高 啓(こうひらく) at 10:44Comments(0)美術展