2012年12月29日
映画「演劇1」「演劇2」感想

2012年12月、山形フォーラムで、想田和弘監督のドキュメンタリー映画作品「演劇1」及び「演劇2」を観た。その感想を記す。
山形フォーラムでの上映期間は6日間だが、昼12時から1回だけの上映なので、「演劇1」と「演劇2」の両作品を観るために、二日にわたって足を運ぶことになった。1作品が2時間50分ほどの作品なので2作品を続けて観るのはしんどいが、かといって2日通わなければならないのも遠方からの観客にとっては面倒になりそうなところ。だが、この作品には、それを苦に思わせない魅力があった
魅力のひとつは、言うまでもなく、想田監督による「観察」の対象となった〝平田オリザ〟という客体の面白さであった。そしてもうひとつは、このドキュメンタリー作品自体の魅力、つまりその客体の捉え方や編集の仕方に表れた相田監督の創作姿勢である。
さて、感想について語るために、「演劇1」と「演劇2」の内容について簡単に述べておく。
「演劇1」は、この映画作品宣伝のホームページでは〝平田オリザの世界〟を描き、「演劇2」は〝平田オリザと世界〟を描いている、とされている。
「演劇1」は、平田オリザの主宰する劇団「青年団」の稽古の場面を中心に描き、その演出の方法論を記録している。
一方、「演劇2」では、この国において極めて低い演劇の地位を向上させようと講演やワークショップを精力的にこなし、また自治体首長や国会議員らとの応対にも愛想良く振舞う〝工作者〟としての姿や、自分の劇団の役者からギャラをいつもらえるのかと問われて歯切れの悪い回答をしたり、劇団存続のために文化庁の助成金を得ようと腐心する〝経営者〟としての姿が描かれている。
はじめに、「演劇1」に描かれた〝平田オリザの世界〟について。
平田オリザの芝居では、日常の会話風景を現出せしめるかのように、ひとつの場面に複数の人間が登場して、かれらがしばしば得手勝手に台詞をしゃべる。A、B、C、Dと4人が舞台にいれば、AとBの間のやり取りとCとDの間のやり取りが同時に行われる場合がある。これがこの作家独特の集団劇の雰囲気をかもし出す。
また、役者の台詞は一見自然体でアドリブのようにも思われる場合があるが、すべて詳細な演出家・平田オリザの指示に基づいて構成されており、稽古のなかで台詞と台詞の間合いや話し言葉の抑揚が何度も微調整されている。
平田は、少なくてもこの映画の中では、役者に対して「登場人物の気持ちを考えろ」とか、「登場人物だったら、そこでどうすると思うか」などと言うような、役者の気持ちを問うたり引き出したりする演出をまったく行っていない。一見して、この演出家にとっての役者は自由に動かせる〝人形〟であるかのようにも見える。(そういえば、「演劇2」では大阪大学の工学部と一緒に、ロボットをロボット役の役者として登場させる芝居を製作する様子さえ長枠で描かれている。)
稽古の休憩中、役者たちに想田監督が質問するシーンがある。(ただし、監督自身はカメラを回しているので画面には登場しない)。そこで監督は、平田演出で詳細に指示される間合い(台詞と台詞の間の時間や場面に登場するタイミングなど)について、役者がどうやって間合いを図っているのかと問う。役者たちは、それぞれ「秒数を数えている」とか「感覚で間合いを取る」とか答えるが、たとえばこの休憩中の会話を劇中の舞台の一シーンだと看做しても別に違和感がないほど、平田演出は生真面目かつ作為的に「自然体」を構築しようとするのである。
「青年団」が拠点とする「アゴラ劇場」内の狭い稽古場、狭い事務所、布団が積み上げられた泊り込み用の部屋が内部の目線で映され、その部屋における劇団員たちの打ち上げの宴のシーンが何度か挿入される。そして狭い空間での稽古を長回しで撮影したシーンが延々と続く。そうこうしているうちに、この映画の観客はまさに平田オリザの演出の現場、その製作の時空に引き込まれそうになる。
だが、この生真面目さと緊密な関係性のもたらす内向性は、外部の人間にとって(あるいは内部にいる一部の人間にとっても)必ずしも魅力的なものではない。(つまりそのことを忘れるべきではない。)
映画に登場する役者たちやスタッフたちは総じて淡々と旅公演をこなし、いわば〝こなれた明るさ〟を持っている。それどころか、「演劇1」の最後は、劇団員らが申し合わせて年長の劇団員・志賀廣太郎の60歳の誕生日を祝うサプライズ・パーティの微笑ましいシーンで幕引きとなる・・・にも関わらず、である。
恒常的な劇団というものが不可避的にもってしまう濃密性とそれゆえの閉鎖性。その被規定性や不自由さの中でしか産出されない舞台芸術。そして、そこに提出された舞台が孕んでしまう、観客に向けられたものでありながら観客を寄せ付けない暗い核心部分の厳然たる存在。・・・穏やかそうに微笑む平田オリザの世界は、息苦しいほど緊密な映像記録のなかで初めてその存在を浮かび上がらせてくるのだ。
つぎに、「演劇2」に描かれた〝平田オリザと世界〟について。
この作品で「観察」されているのは、次のような場面である。
① 平田オリザが全国から招聘され、学校での演劇ワークショップを行ったり、公演をおこなったりする姿。・・・平田の活動する姿は、ほんとうに頭が下がるほどほどマメであり、丁寧である。
現代演劇を研究している大学院生かメディアの駆け出しの取材者のように見える若い女性のくだらないインタビューに答えるシーンでは、平田自身の口から、演劇の社会的有用性を説きその実践をしてみせるしかこの国において演劇の社会的地位を上げる方法はないという自覚が語られ、別の場面では、劇団経営の赤字を平田個人のこうした活動による収入で補填しなければならないという実態も映し出されている。
これらのシーンで印象的なのは、非常に丁寧かつマメに周りに応対している平田の姿の中に、ときおり複雑な表情が浮かぶことである。疲労感や徒労感から投げやりな表情がさっと射し込んだと思いきや、すぐに気を取り直して誠実に応対する様子が克明に定着されているのだ。たぶん、ここがこの「観察」映画作品のキモにあたる部分であり、平田オリザのしたたかな思想性を画面に定着させている部分だと思える。
② 鳥取市の廃校を会場に開催された「鳥の演劇祭」というイベントに「青年団」が招聘され、平田がウエルカム・パーティなどで鳥取市長や鳥取県知事と会話を交わすシーンは、涙なくしては観ていられないものだった。(おっと、これは誇張表現なので、真に受けないように!)
このイベントを地元自治体からの補助を得て実施するために、地元で努力してきた演劇の活動家を立てつつ、自治体の地域おこしにとって演劇祭がいかに効果を上げられるかをさかんに説く平田の姿が、そこにはある。行政のご都合主義や首長の付け焼刃的な芸術振興論の不毛を十二分に知り尽くしているであろうに、この健気さは・・・と涙がでそうになるのである。
③ もうひとつ印象的だったのは、平田オリザが招かれて前原誠司・玄場光一郎・細野豪志ら民主党の議員やスタッフらと酒席で懇談するシーンである。ここに集まっている民主党の議員たちは「映画について自由に意見を言う会」の集まりだという。この集まりで、映画についてだけではなく演劇についても取り上げようということになり、全員が「青年団」の舞台を観劇したうえで、ここに集まっていると言うのである。全員が平田の芝居を観て、この場に臨んでいるということにはちょっと驚いた。
ここで交わされた会話の内容は映画ではよくわからないが、この場面は民主党が政権を獲得した2009年の第45回衆議院選挙の以前であるように思われる。というのも、登場する民主党議員たちは、まだそれほどに重いものを背負っているようには見えないからである。
このあと、政権につき、やがて強い批判を受け、今度の選挙で大敗北を喫した民主党の議員たちは、これからも自由に映画や演劇について意見を交わす会を開けるだろうか。こうした困難な時期にそうした会を持てたとしたら、それはとても大きな意味を持つだろう。
この後、平田は鳩山政権で内閣官房参与となり、鳩山首相の国会演説に関わることになる。じぶんはこのことを批判も評価もしないが、工作者としての平田の努力には一目も二目も置かざるを得ない。
最後に、想田監督の手法について。
ナレーションもテロップも一切ない画像で、これだけのことを伝える撮影・収録・編集の技術には感心する。だが、場面や登場人物によっては、それがどういう人であるか簡単な肩書き(たとえば「平田オリザの妹」程度)や氏名などを挿入してもらった方が、観客としては事情の理解のうえで助かる。すくなくても編集によって各シーンを継ぎ接ぎしているなら、それらがいつ、どこで撮影されたかものをテロップで明らかにすることは、観客に対する倫理であるような気がする。
さてここからはひねくれ批評。
能力ある演出家や戯曲作家が率いていて、その舞台がそれなりの評価を得ている劇団を取材対象とすれば、それ相応のレベルのドキュメンタリーは出来上がってしまう。
演劇は〝関係性の芸術〟だから、舞台ないしは劇団内部(この場合、これには作家・主宰者・演出家である平田オリザも含まれるが)にフォーカスを合わせて「観察」すれば、ある程度撮影テクニックをもった映像作家なら、その関係の質や緊密さの度合いを作品に反映させることができるだろう。だからこの種のいわば〝情熱大陸型〟のドキュメンタリー作品の評価は、その対象自体がもつ魅力を、映像作品の魅力からどのように割り引くかということにかかってくる。もう少し踏み込んで考えると、その映像作品に描かれた登場人物の魅力は、〝その作品にそのように描かれたから魅力的にみえる〟のか〝自分のような撮影技術を持たない人間が撮影しても(あるいは自分がディレクターになり、ある程度撮影経験のあるカメラマンを使用して撮影しても)魅力的にみえる〟のか、その見え方の差は如何ほどか、という思考実験を行うことが必要になる。
このような思考実験では、他の映像で観る当該対象者の印象や自分が実際にその「観察」対象者に会った際の印象などと比較することが参考となる。「演劇1」「演劇2」で視る平田オリザの姿は、他のテレビ映像の印象や自分が平田に会ったときの印象とある一点で異なっていた。それは先にこの作品の〝キモ〟だと述べたところの、平田が誰かに対面しているときの表情の変化が克明に定着されているという点である。従って、この一点をもってじぶんはこの映像作品に一定の成果を認める。
しかし、その一方で、この作品は難題も抱えているように想う。
取材対象人物の魅力あるいはその集団内部の関係性の魅力に「観察」の触手を張り巡らせれば張り巡らせるほどに、その内部世界を相対化する視線や、その対象が価値あるものとしている内実に対する異和の感覚を不可能にしたり曇らせたりしてしまうことだ。じぶんが観るかぎり、「演劇1」「演劇2」の映像には、相対化や異和の視線を見つけることはできなかった。
たとえば、「演劇1」と「演劇2」のどちらか記憶が不分明になってしまったが、ある青年の役者が平田に叱責されるシーンが出てくる。その役者は、劇団の先輩がテレビドラマなどの良い役に付けた際、青年団の芝居の稽古の休みをもらったところを見知っていて、大切な仕事が入ったときは2日くらいは稽古の休みをもらえると見込み、九州(?)での仕事をブッキングしたようだった。いい仕事が入ったので休みをくださいと言うその劇団員に、平田は稽古を休むことは許されないとして「役者として絶対にやっちゃいけないことをやったんだよ!」と、この映画のなかでは殆ど唯一の厳しい口調で叱責を浴びせる。
ところで、このシーンの前の打上げの宴会シーンで劇団員から「ギャラはいつもらえるのでしょうか?」という質問に主宰者・平田はたどたどしい答えしかできず、要するに劇団のギャラで役者が生活していくことが到底無理なことはすでに明かされている。また「先輩が休みをもらっているので、1~2日ならもらえるとおもっていました。」という役者の弁明に対する平田の言葉が「大河ドラマとか本人の将来のためになる役だから特別に認めているんだ!」と言いつつも、どうも落ち着きが悪いのである。
観客としては、〝外部の視線〟としてこの部分をもっと追究してほしかった。たとえば、この役者はその後どうしたのか、この役者の生活はどのように成り立っているのか、あるいはどのように成り立っていないのか、平田が「大河ドラマ」は良くて、この俳優自身が取ってきた仕事はだめだと言う理由は何か・・・などなど、そのような<外部>への視線、あるいは<外部>からの追究、もっと言えば〝突っ込み〟である。
じぶんの見方を正直に言うと、平田が、劇団員に、文化庁の拠点文化施設補助(6,000万円から8,000万円になるという)の更新が認められなければ倒産だとか、借金返済のためにアゴラ劇場の敷地を売却して借地料を払い続けるようにすることも考えなくてはと語るシーンに、根本的な疑問を抱いた。
国家や自治体からの助成金に頼ってはいけないなどと言うのではない。しかし、自分たちの表現基盤に関する生殺与奪の鍵をそれらに委ねているということになれば、それはちょっと軌道を外れているということにならないか。この視点には二つの意味がある。ひとつは経営者としてだめな演出家・作家は劇団や劇場の経営から手を引くべきだという意味。もうひとつは、そこまで経費の無理をして、人を雇い、金のかかる舞台を制作しなければならないというのは、本末顛倒ではないかという意味である。
もっとも、劇団や劇場は〝関係性の芸術〟たる演劇の根拠として極めて重要な要素だという認識はじぶんにもある。やり始めた以上、とことん追究する平田の演劇人としての意気にも感じるところがある。じぶんだって、もしそこそこの才能がありこんな環境にあったとしたら、同じように突っ走るしかないだろうなとも想う。
・・・だが、である。たぶん、じぶんは、このような劇団の内部性や被規定性に、こうも長い期間、全的に身を任せることはないだろうと想う。さきに記載したインタビューに応えるシーンで、平田が「国家や自治体などから金をもらわないで自立して自分の表現を貫くなんていうことができるのは詩人くらいだろう」というようなことを言っていたのを思い出す。
・・・そういえば、じぶんは、一応、詩人だった。 ・・・と、これがじつにつまらないこの文章のオチだったという訳である。(苦笑)
(了)
2012年12月08日
メトロポリタン美術館展

リフォームされた東京都美術館で「メトロポリタン美術館展」(2012年10月6日~2013年1月4日)を観た。その感想を記す。
この展覧会のキュレーターはメトロポリタン美術館のピーター・バーネットという人物。
「Earth, Sea, and Sky : Nature in Western Art ; Masterpieces from The Metropolitan Museum of Art」(邦題「大地、海、空―4000年の美への旅 西洋美術における自然」)という題名が付けられている。
章立ては、第1章・理想化された自然、第2章・自然のなかの人々、第3章・動物たち、第4章・草花と庭、第5章・カメラが捉えた自然、第6章・大地と空、第7章・水の世界、となっている。
紀元前1,000~2,000年代のエジプトやメソポタミアで製作された動物の像・装飾品・器などを「西洋美術」の括りに入れるのは如何なものかと思うが、この展覧会にはまさにキュレーターが意図したとおり「これが西洋だぞ!」といったふんぷんたる臭気が充満している。
初手から言い切ってしまえば、古代エジプトやメソポタミアの作品を除いて、これらの展示作品に形象化されているのは“普遍的な自然”ではなく、すべて“西洋的な自然”、就中“西洋化された自然”なのである。
この“西洋化された自然”は、冒頭に置かれた風景画からこれ見よがしにガツンと提出されてくる。第1章が「理想化された自然」と題されているとおり、この章の風景画はすべて“西洋化という理想化”が施された風景を創出している。
いかにもフランスの平野部やグレートブリテン島の風景だというような、丘から眺める緩やかな起伏の大地とゆったり流れゆく川。そしてそこに拓かれた農地。向こうには山の姿。画面の端には樹木が位置付けられており、たいていは人や馬などの家畜が手前に配置され、しかし、それらは小さめに描かれている。
何枚かの典型的な西洋風景画のうち、印象的だったのは、アッシャー・B.デュランド(アメリカ、1796‐1886)の「風景―『サナトプシス』からの場面」(1850)だった。
手前には崩れた中世の遺跡のように横たわる石像が描かれ、古木の森とヤギが配置されている。中景には目立たないように小さく葬送の行列と牛馬に鋤を引かせる農耕びとが配置され、その奥に淡い色合いで、遠景として高い岩山が描かれている。
「thanatopsis」は「死観」の意で、米国の詩人ウィリアム・カレン・ブライアント(1794‐1878)の詩(1817発表)のこと。これがどんな瞑想の詩かは知らないが、デュランドの絵画ではまったくもって構図が自覚的・意図的であり、死への観想とはかけはなれた作為性を感じてしまう。
この絵を見て思い浮かぶのは、「この場所にこの存在(遺跡、葬列、高山etc.)が描かれているのは、かくかくしかじかの意図を表している」などと解釈する鑑賞者・評価者と、そのように解釈されることを予想して描く画家のザッハリッヒな関係性だ。西洋の自然はこのように、つねに/すでに、理念化(「理想化」というより「理念化」と言った方がぴったりする)されている。たぶん、この所与を受け入れることができるかどうかによって、この展覧会を楽しめるかどうかがきまる。そしてもちろん、展覧会の冒頭のセクションで、ピーター・バーネットは唐突にそれを受け入れることを迫っているのである。
第2章の作品では、「2‐1:聖人、英雄、自然のなかの人々」という区分に展示されていた、ティントレット(ヤコボ・ロブスティ)(イタリア、1518‐1594)の「モーセの発見」(1570年頃)、ヤン・ブリューゲル(子)(フランドル、1601‐1678)の「冥界のアエネアスとシュビラ」(おそらく1630年代)が印象に残った。
いずれも神話の世界の登場人物を描いている(ただし「シュビラ」は神託を告げる巫女で実在したらしい)のだが、これが“「Nature 」in Western Art”という概念の一種の表出として提示されていること、つまりこれが自然における人間存在なのだとされることに、いまさらながらではあるけれども、日本人としては異和感を禁じえない。ここには“人間または(ヘーゲル風にいえば)その類的本質としての神が存在するから自然が存在する”という思想が表現されている。
もっとも、この時代の絵画はすべからく神話の登場人物を描いたものなのだから「自然」はその画面にはこんな風にしか登場しないのだ、といってしまえばそういうものだろうが。
第2章の「2‐2:狩人、農民、羊飼い」という区分の作品では、ヤン・フェイト(フランドル、1611‐1661)の「ヤマウズラと小さな獲物の鳥」(おそらく1650年代)が印象に残った。これは狩猟による獲物(つまりは野鳥の死骸)を描いた暗い色調の静物画で、作者が注文されて描いたものだという。なぜこんな陰気なものが描かれた絵画を注文するかといえば、これらの獲物はその所有者が狩りをする者であることを示し、それは“有閑の人”であること、すなわち財力のある人物であることを表すものだからだと解説が付されている。これを「自然」を描いた作品として提出してくるあたりにまたまた異和感が膨らむのだが、しかしまた、ここまでくるとキュレーターの一癖ありそうな批評精神を感じないわけでもない。
なお、このコーナーの作品では、ジュール・ブルトン(フランス、1827‐1906)「草刈をする人々」(1868年)とジャン=フランソワ・ミレー(フランス、1814‐1875)「麦穂の山:秋」(1874年頃)が魅力的だった。前者は、夕陽に照らされた農地で草を毟る農婦たちの姿を、跪いて祈っているように見せる構図。淡く、それでいてコントラストの効いた色使いで、写真的な印象を与える。
後者は、放牧地の中央奥に麦穂を積み上げた巨大な山を描き、その手前に草を食む羊の群れを配する。上は淡い光の空で、その中央に(つまり麦穂の山の向こうに)厚くて黒い雲がどんと配置され、冬が迫りくることを暗示している。羊の群れの揃い具合というか乱れ具合というか、これも秀逸で、その構図にはしばし見とれた。両作品とも、いかにも「近代絵画!」という風情である。
もうひとつ面白い作品としては、フィンセント・ファン・ゴッホ(オランダ、1853‐1890)の「歩きはじめ、ミレーに拠る」(1890)を挙げておく。庭で歩きはじめをしている幼児と「おいでおいで」をしているかのようなその親たち。ミレー作品をゴッホが模写したものだという。しかし、筆致が完全にゴッホで、パステル調の色使いである。構図を借りてゴッホなりに描いたものなのだろうが、晩年になぜこんな作品を描いたのか興味が湧いた。
他のゴッホ作品では、別のコーナーに有名な「糸杉」(1889)が出展されている。実物を見ると、やはりいい絵だと思わずにはいられない。その前では、じぶんのようなひねくれ者も、単純な美術ファンにさせられてしまうと言ったらいいか・・・。
ついでに言えば、オディロン・ルドン(フランス、1840‐1916)の「中国の花瓶に活けられたブーケ」(1912‐1914)という作品も展示されていたが、これは普通の静物画。あのルドンが晩年にはこうなっちゃったのかぁ~という感じである。
さて、上記のほかには、第7章・水の世界における、モーリス・ブラマンク(フランス、1876‐1958)「水面の陽光」(1905)とウィンスロー・ホーマー(アメリカ、1836‐1919)「月光、ウッドアイランド灯台」(1894)が印象的だった。
前者は、水面に反射した陽光と岸辺の建物を描いた作品だが、光と建物とが適度にデフォルメされている。なにせブラマンクだから、デフォルメされているのは形態だけでなく色彩も、である。印象派をくぐって、光の印象はここまできた、ということだろう。20世紀の西洋絵画が19世紀のそれと大きく異なったものになった様が見てとれる。
後者は靄のかかった海と海岸の風景だが、そのタッチはまさにアメリカ風に洗練されている。題名から灯台が描かれていると思われるのだが、その灯台はオレンジ色の小さな一点として、靄の中の遠くの岬にぽつんと置かれているだけである。“アメリカ風に洗練されている”というのは、いわばポップや商業主義に向かう気配をたたえつつ、一筋の気品がそれを掣肘しているということだ。
このほか、「第5章・カメラが捉えた自然」で提示されるモノクロの写真作品も絵画的で美しい。
会場には多くの中高年男女の観客がいたが、おれはこういう美術ファンには絶対にならんぞ、と改めて肝に銘じた次第である。したがって(!?)、この展覧会の鑑賞を推奨しはしない。(笑) (了)
(注)上記の展示作品に関する説明はすべて、会場でもらった出展作品リストに現場でメモした内容と実物を見た記憶をもとに記述したものであり、不正確な部分があるであろうことに御留意いただきたい。