2014年09月01日

ヨコハマ・トリエンナーレ2014 感想(その2)








 「ヨコハマ・トリエンナーレ2014~華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある~」(2014年8月1日~11月3日)の感想記の後半である。

 埠頭に建てられた展示会場「新港ピア」には、第10話と第11話が展示されている。

 第10話は「洪水のあと」と題されている。
 この章について、キュレーターは「アジアの美術はいかなる視点でとらえるべきなのだろうか」と自問しつつも、「過去の陰惨な光景をどうしても払拭できないから」、ヨコハマ・トリエンナーレ独自にこの問いに応えることを避け、「熟慮の末に見出した」ことが、「十全な配慮と調査を経てもたらされた、アジアへの真摯なまなざしに信頼を寄せ、福岡アジア美術トリエンナーレによるヨコハマ・トリエンナーレへの乗り入れを企画」することだったと語る。正直といえば正直、正解と言えば正解だが、観方を変えればやはり唖然とせざるを得ない体たらくである。
 「過去の陰惨な光景をどうしても払拭できない」なら、この国に蔓延する歴史修正主義の小児病にビビることなく、たとえそれが「過去の陰惨な光景」を思い起こさせる作品であろうとも、そこから「反日」プロパガンダ表現を見分け選り分ける労を惜しまず、改めてアジアの表現が問うてくることを正視して、「われわれはアジアの芸術をこういう視点でとらえる」という企画を観客に堂々と提示してみるべきなのではないか。・・・それをやる度量がないというなら、そもそも「アジアの美術」などという枠組みを云々すべきではない。
 もっとも、「国際的企画美術展の相互乗り入れ」はとても興味深い試みであり、ここに展示された福岡アジア美術トリエンナーレ出品作品にも惹きつけられるものがあった。
 
 では、この章の「福岡アジア美術トリエンナーレ」からの乗り入れ作品を観ていこう。
 キリ・ダレナ(Kiri DALENA 1975~ フィリピン)「流失」(2012)は、2011年のフィリピン台風の記憶を描いたとされる映像作品。部屋には二つのスクリーンがあり、一方には木造住居だったらしい廃屋とその窓に掛かった布が風に揺れる様子がずっと映し出され、もう一方には海上をピッチングしながら漂流する樹木の姿が映し出されている。これに「抗いがたい自然の猛威による喪失感を示す」という意味付けがなされるのも分からないではないが、それ以上にそこを流れている時間のビビッドな手ごたえに捕らわれて、思わず長く見入ってしまう。
 同「Mのためのレクイエム」(2010)は、車で町を訪れる場面や誰かに案内されるようにして町外れの荒野へ歩いて行く場面を記録したフィルムを逆回した映像作品。目的地(=映像の冒頭に映し出されたはずの場所)は「M」が殺害された場所なのか・・・。
同「フィリピンのジャーナリストたちを偲んで」(1996-2011)は多数の墓名碑を一つずつ延々と映していく映像作品。中には墓が掘り起こされて墓石が無くなっているものもある。2009年11月23日の地方選挙をめぐって多数の市民が虐殺され、そのなかに多くのジャーナリストが含まれていたとの説明である。
 ヤスミン・コビール(Yasumine KABIR 1953~ バングラデシュ)「葬儀」(2008)は、油に塗れてタンカ―らしき廃船を解体する人々の重労働を記録する映像作品。重労働であるうえ、普段着のまま働いているところをみると非常に劣悪な条件で働かされている様子。
 チェン・ジエレン(陳界仁 CHEN Chieh-jen 1960~ 台湾)「工場」(2003)は、演出が気になるといえば気になるが、操業停止された工場の内部(とくに各工員の作業台の間)をゆっくりと浚(さら)っていくような視点が印象的だ。
 ハァ・ユンチャン(何雲昌 HE Yunchang 1967~ 中国)「相撲 1対100」(2001)では、屋外(どこかの構内らしい)の、土俵みたいな形はないが地面の一部に砂を敷き詰めた場所で、ある男(作家自身のようだ)に多数の男が一人ずつ次々に相撲を挑んでいくところを記録した映像作品。柔道で行われるシゴキ稽古みたいな対戦だが、男は幾度も幾度も転ばされてヘロヘロになりながらも、自分より弱そうな相手がくるとその相手を負かそうと頑張る。音声はない。

 そしてもっとも気になったのが、ディン・キュー・レ(Dinh Q.LE 1968~ ベトナム)の「南シナ海ビシュクン」(2009)である。米国製のような軍用ヘリコプター(イロコイスなど)が上空から次々に海に落下してくるというCG作品。これには「サイゴン陥落により、ベトナムから脱出しようとする米軍ヘリコプターが次々に海に墜落する」作品だとの解説が付いているのだが、もうひと捻りされているように感じた。
 じぶんの記憶(ニュース映像についての記憶)によれば、サイゴン陥落後に海中に落ちたヘリコプターは、その多くが艦船の甲板から海に投棄されたものだったような気がする。あるいは、南ベトナムから脱出する艦船に着艦しようとして順番を待っているうちに燃料切れで海中に墜落したり、大勢の避難者がしがみ付いたために落下したヘリもあったかもしれないが、無人のヘリが画面の外側からボタボタと落下してくるこの作品の映像は、過去に起こったことの描写としてではなくむしろテレビゲームのような虚構として受け止めたほうがいいような気がする。
 というのも、ヘリの窓には人影が一切描かれておらず、ヘリのボディにも国籍や所属を示すロゴが描かれていない。いわば「ヘリの墜落」を二重に非人称化しているのだ。ここに描かれているのは、「忘却」でも反忘却としての「記録」でもなく、「夢」と呼ぶべきものに近い。サイゴン陥落はたしか1975年だったと思う。勝利した側であるはずの北ベトナムに住む7歳の子どもだった作者がみた(?)墜落の幻影が、41歳になった彼の夢に未だ繰り返し現れてくる・・・そう考える方が面白いし、またぞっとするのでもある。


 最終の第11話は「忘却の海に漂う」と題されている。
 この章で最初に目を引くのは、派手な装飾の大型トラック(やなぎみわ「演劇公演『日輪の翼』のための移動舞台車」2014)ではなく、むしろかなり地味な土田ヒロミ(1939~ 福井県)のシリーズ写真「ヒロシマ1945-1979/2005」である。これは被爆者(「原爆の子」という文集に載った文章の作者たちなど)を追いかけて、1979年と2005年にかれらをスナップ写真風に定着し、その二つの写真を並べて展示した作品だ。 1979年に「撮影拒否」した人の半分くらいは、2005年には何かしら原爆に対するコメントを寄せて土田のカメラに収まっている。1979年には、まだ被爆者への差別を恐れていたのかもしれない。その恐れが如何様にして、被写体となりこのような形で公開されることを受忍する意識へと変化していったのだろう。一部の人のコメントとして、被爆者が少なくなっていく時間の経過の中で、自分もあの体験を伝えようと思うようになったという趣旨のことが紹介されてはいるのだが・・・。
 同じことが「フクシマ」の被爆者にも起こるのだろうか。・・・いや、そもそも「フクシマの被爆者」とはどんな体験をした者のことか。・・・被爆者と被爆者でない者を分ける区分線はどこに引けるのか。・・・東京に住んでいる人間も山形に住んでいる人間も、ひょっとしたら「フクシマの被爆者」なのじゃないか。(あの事故以来、新宿区と山形市の放射線量はほぼ等しく推移してきた。)・・・写真に映った人たちの表情を観ながら、そんな取りとめのないことを考えていた。

 アナ・メンディエータ(Ana MENDIETA 1948~1985 キューバ~アメリカ)「浜に打ち上げられた海鳥」(1974)は、女がたくさんの羽根のようなものを裸体につけて波打ち際に浮いているところを記録したパフォーマンスの映像作品。羽根が白い三角形のトゲのように見えて、〝トゲ女〟が波打ち際で、寄せては返して・・・みたいに見えてくる。「懐かしき70年代!」と言うほかない作品だ。
 バス・ヤン・アデル(Bas Jan ADER 1942~1975 オランダ)の「落下」シリーズ(1970)は、木にぶら下がっている男が腕の限界に達して下の川に落ちるところ、男が屋根から転がり落ちるところ、自転車で川に突っ込む(運河の縁から下に落下する)ところなどが記録されたパフォーマンスの映像作品。これも「懐かしき70年代!」という感じの作品だ。
 そして、ジャック・ゴールドスタイン(Jack GOLDSTEIN 1954~2003 カナダ~アメリカ)「コップ1杯のミルク」(1972)は、テーブルの上を拳でど~んど~んと叩いて、ミルクの入ったガラスのコップを揺らし、ミルクが零れていくところを記録したパフォーマンスの映像作品で、これまた「懐かしき70年代!」の作品だ。

 〝70年代前衛芸術回顧〟の極め付きは、「宇宙的視野と人間の根源的なありようという、気宇壮大なビジョンを以て表現活動を展開した」という松澤宥(1922~2006 長野)のミニ回顧展のような展示である。大がかりな「私の死」をめぐるインスタレーション、パフォーマンスの記録映像、額縁に入れられた想念の書き付けなどのほか、スケッチブックまで展示されている。しかし、「気宇壮大」というよりは〝粗放自大〟といった印象が強い。
 これらの展示で、キュレーターはまさに「1970年代のパフォーマンス芸術を忘却するな!」あるいは「あれを思い出せ!」と観客に迫っているかのようだ。70年代に郷愁をもつじぶんなどは涙流して感謝しなければいけないところだろうが、しかしこれらの作品は、コンテンポラリーな(つまり2014年を生きる今じぶんたちが求める作品の)展覧会である(はずの)「ヨコハマ・トリエンナーレ」においては、〝名脇役〟にはなりえても〝主役〟にはなりえない。












 そんなことを考えながら展示スペース最後の場所に差し掛かった時、そこで出会ったのが大竹伸朗(1955~ 東京生まれ)のインスタレーション「網膜屋/記憶濾過小屋」(2014)だった。
 車輪と動力(燃料タンク)を装備したこの「小屋」の内部には、夥しい数の写真(多くは肖像写真)が貼り付けられている。それらの写真は、懐かしくもひどく忌まわしい過去の記憶で満たされた小宇宙なのだが、これを内蔵する「小屋」は記憶濾過装置でもあるかのようだ。なぜなら、何枚もの縦板が並んだ小屋の後面(あるいは前面か?)の形状は濾過用フィルターの束にも見え、ここで濾過された記憶が前面(あるいは後面か?)に装着されたタンクの中で溶解され、パイプから気体となって排出される・・・そんな機構を思わせる構造になっているのだ。しかも、この小屋自体が車輪を装備していて、移動可能であるかのようだ。あの懐かしくも忌まわしい記憶の小宇宙は〝移動する見世物小屋〟として構築され、その分だけ対象化される。
 ここにあるのが「忘却」でないことだけは確かだ。記憶を集め、いやというほどそれらにこだわり、そしてそれを濾過するために苦闘する意志・・・そしてその意志をもまた移動する客体として外部に晒す仕掛け・・・。観客はここで初めて「世界の中心にある忘却の海」という観念を裏切る作品に出合う。


 さて、この感想記の初めに「ここからじぶんはこの〝上げ底化〟感がどこから来ているのかを探りながら展示を観ていくことになった」と記した。
 横浜美術館と新港ピアというたった2会場の展示を、しかも駆け足で観ただけで分かったような口をきくことはできないが、〝上げ底化〟感はやはりこの時代のありようからくるのだと思わざるをえなかった。
 今回のヨコハマ・トリエンナーレには、キュレーターの、社会的なあるいは政治的な情況に対する問題意識がかなり直截的に反映されている。それは、白井聡が近著『永続敗戦論』で述べているように、戦後の「平和と繁栄」から「戦後のおわり」そして「戦争と衰退」に向かいつつあるこの国の現在から規定されているようにみえる。「華氏451度」及び「忘却の海」とは、歴史修正主義小児病の感染拡大と「秘密保護」という名の放恣によって記憶の焚書や秘匿が堂々と行われ、一方では日々の情報が急流となって頭蓋を貫流するためにひとびとがその脳ミソを麻痺させられていく〝この現在〟を暗喩しているかのようだ。
 この幼稚でくだらない(しかし現実的には大きな影響を受けるであろう)退化に見舞われつつあるわれわれは、こちらの世界に土足で踏み込んで来るものたちに対して、そのものたちと同じくだらない土俵で対処しなければならないというジレンマに囚われている。バカを相手にすると自分もバカになってしまう・・・この腹立たしい摂理から逃れるためにはどうすればいいのか。・・・もちろん、やってくるものたちを、その「ありのままの姿」ではなく、こちら側の想像力によって〝豊饒なる対立者〟として措定するのだ。・・・それができるのが芸術である。

 「ヨコハマ・トリエンナーレ2014」を観て一番に述べなければならない感想は、20世紀(!)に制作された作品の展示が多く〝新鮮な〟作品が少ないということだった。これは、ここに展示された作品から新しさを感受できないじぶんにも原因があるが、斯界に詳しいはずのキュレーターたちも、有名無名の作家たちによって日々産出されている膨大な数の作品から、〝新鮮な〟作品を発見することができないということを意味している。
 まさに〝新しい企画者よ 目覚めよ〟というのが、この感想記のオチである。(了)


(注)「ヨコハマ・トリエンナーレ2014」に展示された作品には写真撮影を許可しているものと禁止しているものとがあり、それは個々の展示場所のマークで示されています。

                  





  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:26Comments(0)美術展