2010年05月08日

「ロシアの夢 1917−1937」展及び関連イベント



山形美術館で「ロシアの夢 1917−1937」展(DREAM OF RUSSIA Russian Avant-Garde 1917-1937)を観た。また、この美術展の関連イベントとして、山形美術館と東北芸術工科大学が共催した「アヴァンギャルドって何?」という企画で、三つの講演を聴講した。それらの概要をメモし、感想を記す。






1 「ロシアの夢 1917−1937」展(2010年4月3日〜5月9日)

 この企画展は、ロシア革命が起こった1917年から、スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れた1937年までの20年間に焦点をあて、革命の時代を走り抜け、やがて革命の変質のなかで破滅・消滅していくロシア・アヴァンギャルドたちの作品を紹介したものである。
 革命とそれに続く内戦の時代のプロパガンダを目的としたポスター、1920年代の新経済政策の下での映画作品や商品広告のポスター、冊子や絵本、演劇の舞台や衣装、モダンなデザインの家具や食器(陶器)や建築設計などが展示されている。

 ロシア・アヴァンギャルドについては、以前、このブログで触れたことがあった。(2008年7月10日付け記事、東京・渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催された「青春のロシア・アヴァンギャルド〜シャガールからマレーヴィチまで〜」についての感想http://ch05748.kitaguni.tv/e581526.html
 「青春のロシア・アヴァンギャルド」展に比べると、「ロシアの夢 1917−1937」展の展示は、ずいぶんと地味な印象を受ける。それは、前者がロシア10月革命以前の、より多彩な源と芸術性を持つアヴァンギャルドの流れ(つまりは“青春”)を紹介していたのに比べ、後者は1917年以後にソビエト・ロシアで活躍した作家たちの作品、つまりプロパガンダや商品広告を中心的な目的とした実用的な作品(主流は絵画ではなく、2〜3色刷のポスターや雑誌などの複製作品)をメインにした展示であることから来ている。
 しかしながら、後者の展示は、地味であるがゆえに、むしろ観る側の者の方に、展示された作品の向こう側、つまり作者たちの抱いた“夢”を視透すための想像力を求めてくる。

 とくに、もともとコミュニストではなかったものの、革命の衝撃に打たれて“これはぼくの革命だ”と叫び、芸術運動やプロパガンダを通じて新しい世界を獲得しようとした詩人のマヤコフスキーの、意外にも実用的な宣伝コピー作品や、「立体未来派」を掲げつつ、やがて絵画の創作意欲を何らかの具象物に仮託することを突き抜けようとする地点(「無対象絵画」)まで行くことになるマレーヴィチなどの作品が印象的だった。




2 八束はじめ講演「ロシア・アヴァンギャルド建築 希望の空間」:感想

 この展覧会の関連企画として開催された八束はじめ氏(建築家、建築理論家、芝浦工業大学教授)の講演会(4月22日、東北芸術工科大学)を聴講した。
  この講演当日、八束氏が述べた演題は、事前にチラシに記載されていたものとは若干異なり、「希望の空間―ロシア・アヴァンギャルドをめぐるいくつかの断章―」というものだった。
 八束氏は、山形市の生まれだという。父親が市立済生館病院の眼科医だったということで、5歳くらいまで山形にいたとのこと。ちなみに、その父親が勤めていた病院の建物は、現在、霞城公園に山形市郷土館として移築されている擬洋風建築であるが、同氏によれば、この建築をはじめ、北海道・東北の擬洋風建築は、ロシア・アヴァンギャルドの影響を受けているとのことである。
 


 さて、“Aspiration and Melancholy”と副題を付された八束氏の講演は、まさに5つの「断章」から成っていた。
 彼は、この講演で、これまで彼の著書で取り上げてきたロシア・アヴァンギャルド建築における「希望の空間」がどのような作品に反映されているかを語るのではなく、彼自身がこれまで著書に記さなかった想いを、いくつかの断章として述べてみたいとして、次のような概要を語った。スライド上映のため講義室内が真っ暗にされたので、携帯電話の照明がたよりのたどたどしいメモになった。以下の内容の正確さには自信がないが、とりあえずメモをもとに概要を記載してみる。

 1つめの断章は、ソ連重工業省やレーニン研究所図書館などの作品で有名な建築家Ivan Leonidov について、彼を「ロシア・アヴァンギャルド中の最大の天才」としつつ、“希望”というものが「建築家の職能に(あらかじめ)書き込まれている」という観点を示すものであった。
 そのロシア・アヴァンギャルドの希望は、しかし、二重に敗北している。それはソ連が崩壊したことと、遥かそれ以前に、「社会主義リアリズム」を主導するスターリン体制によって抑圧されていったことによって。
 マヤコフスキーとロトチェンコは、生活を変えることで社会全体を変えようとして、CMデザインに取り組んだ。しかし、1920年代以降、アヴァンギャルドは周辺的なものになり、1930年、マヤコフスキーは自殺する。レオニドフは、1937年に「左翼小児病」と攻撃され、酒に溺れ、酒を買いに出たところを車に撥ねられて死ぬ。

 2つめの断章は、“Cult”と題されていた。
 ロシア・アヴァンギャルドは、新しい政治体制のカルトであったということができる。そして、それは、タトリンの「第三インターナショナル記念塔」のデザインに典型的なように、幾何学のカルトでもあった。
 フランス革命後と、ロシア革命後、いわば巨大な革命のエネルギーのなかで、“球”の建築デザインが現れた。これは旧体制からの離陸と希望への飛行を目指していた。革命のピークに“球”が現れ、それがやがて伝統的な様式に回帰していくという同様の傾向が、ふたつの革命の経過のなかに現れている。

 3つめの断章は、“Icon”と題されていた。
 このカルトの背景には、イコン(聖像画)を視ることができる。プリミティズムにイコンの原型が現れてくる。これはマレーヴィチまで繋がっている。(タルコフスキーが映画「サクリファイス」で作品化した画家のアンドイ・リブリョフや、同じく画家のゴンチャロヴァについても言及。)
 ロシア・アヴァンギャルドは、共産主義の理念へのカルトであったが、同時にモダニズムの時代の機能主義という側面で、ヨーロッパの動きと相即している。ヨーロッパではキュービックだったものが、ロシアでは球や円柱になっている。要素主義(エレメンタリズム)がロシアでは構成主義(コンストラクティビズム)となって現れる。その典型はレオニドフである。
(メモから内容を復元しようとしたが、話が通るように再構成できない。八束氏が言いたかったことは、ロシア・アヴァンギャルドの構成主義のモチーフに、イコンの原型が見て取れるということか。)

 4つめの断章は、“Melancholy”。
 ここで、八束氏は、「ルサコフ労働者クラブ」「自邸」などの設計で、レオニドフと並んで評価されるKonstantin Melnikov(1890〜1974)について、自ら何度か訪れ、地元の大学関係者の計らいでやっと中に入ることができたというモスクワの彼の自邸(1927年設計)の写真を示しながら、そこに住むメルニコフの息子の話を紹介する。息子は、自分の父親がアヴァンギャルドだったということを頑なに否定するのだという。
 また、Moise Gisburgの作品である「Narcomfinアパート」(ソ連大蔵省職員アパート)の現状を映し出し、それが荒廃するまま(少数だが、未だに住民がいるにも拘らず)放置されているということを、現状の写真を示しつつ、メランコリックに語る。

 5つめの断章は、“Phantom”。
 ソ連体制が崩壊し、その後の混乱を乗り越えて、ロシア資本主義が隆盛を迎えた2000年代のモスクワに、しかし、建築様式においてはスターリン時代の「亡霊」が復活している。(スターリン時代の建築と最近の建築の写真を比較紹介しながら説明。)
八束氏が関わっているモスクワの大学関係者をはじめとして、ロシアの若い建築家たちは、このようなロシア建築界の現状に落胆し、国外に活躍の場を求めようとしている・・・。

 さて、このようなロシア・アヴァンギャルド建築をめぐる「断章」と相即的に、八束氏は、日本における建築・都市計画のアヴァンギャルドである「メタボリズム」の運動についても触れた。
 この運動は、1960年代、反安保運動のうねりの中から生まれてきたという。八束氏らは、2011年7月から、森美術館でメタボリズムの回顧展を企画しているとのこと。ちなみに、丹下健三の右腕であった浅田孝が関わった1960年の世界デザイン会議関係の資料が、東北芸術工科大学図書館の「浅田文庫」に所蔵されているので、それを閲覧してきたところだとも言っていた。


 さて、ここからは、じぶんの感想。

 八束氏は、団塊の世代だが、日本のメタボリズムについて言及しつつも、ロシア・アヴァンギャルドの「希望の空間」がどのような“希望”だったのか、そしてなにゆえに“希望”たりえたのかについて、ここでは、正面から語ることはなかった。(それは著書に書いてあるから、知りたければそれを読めということなのかもしれない。)
 彼が「断章」として語ったことのうち、印象に残ったのは、もっぱら、この“希望”が、かつて裏切られ、忘れられ、そしてロシアでは現在も顧みられていないということについての、彼自身のメランコリーであった。
 このイベントは、山形美術館と東北芸工大の共催(大学側のコーディネーターは、和田菜穂子准教授)であり、同大の学生が聴講者の多くを占めていた。
 じぶんのもっとも単純な感想は、“ああ、また団塊の世代のメランコリーか・・・”というものだった。
 彼ら団塊の世代の“夢”や“希望”を(そしてそれ以上に“喪失”を)、彼らの世代に強烈な影響を受けて育ってきたじぶんの世代なら、まるで自分たちのことのように思い起こすことができる。そして、八束氏が、これらをカッコで括って後景に隠し、「断章」という形で、韜晦めかして語らねばならない理由もわかるような気がする。
 しかし、この講演の相手は、その多くが20歳前後の学生なのだ。
 年長の人間が、若い者に、自ら(の世代)の喪失感覚やメランコリーや郷愁を語ることについて難癖を付けたいのではない。ただ、それらを語る前に、もっと率直に語るべきことがあるはずだ。先行世代、とりわけ間もなく老境に入っていく団塊の世代は、いまの若い世代に、もっと基本的なことを、ニヒることなく、けれん味なく、しかも自省的に語り掛けなければならないのではないか。
 日ごろじぶんがそれとなく感じているところでは、じぶんたちを含むこれまでの“シラケ世代”とは異なり、相対的に言えば、いまの20代はむしろ真面目で純粋になっていて、たとえそれがこれからの時代の指針になりえないものであったとしても、先行世代がかつて抱いた“夢”や“希望”の中身をしっかり聴いておきたいと、真摯な言葉を求めているような気がする。これはじぶんの期待的バイアスによる錯覚であろうか・・・。


3 中村唯史講演「歴史の中のロシア・アヴァンギャルド−成立までとその時代―」:感想

 次に、この展覧会の関連イベントとして開催された「ミュージアム・スクール」にける中村唯史氏(ロシア文学、表象文化論、山形大学准教授)の講演(4月29日、山形美術館)について触れる。
 中村氏の講演は、「ロシアの夢」とは何であったのかについて、大上段に振りかぶってというのではなく、いつものように、むしろ淡々と紹介していくというものであった。
 じぶんは、中村氏がスライドで次々に紹介してくれたこの時代のロシアの作家たちの作品に、とても興味を引かれた。例によって、メモから概要を記してみると・・・

 演出家として有名なメイエルホリドは、10月革命に際して、すぐにこれを支持する声明を出し、マヤコフスキーも「これはぼくの革命だ」と詩に書いた。彼らはどちらもコミュニストではなかったが、熱烈に革命を支持した。それは、いま起きている革命によって、政治や社会が変わるだけではなく、人間をめぐるすべてが変わると考えたからである。人間自体、人間と自然との関わり、そして何よりも芸術が変わろうとしている、変えていくんだという熱狂の時代だった。
 この「ロシアの夢」展に陳列されている作品に見て取れるように、かれらは、衣服も椅子も街も含め、人間を包む空間を変えていこうとした。
 1870年代から、アヴァンギャルド前史としてロシア美術の流れを見ていく。
 1860年代までは、ロシア美術はヨーロッパの真似であった。中下層民から画家の卵を選んで美術アカデミーに入れ、イタリアに学ばせる。その画家たちの作品の消費者は、貴族たちだった。
 しかし、1863年、美術アカデミーの生徒14人が反乱を起こす。かれらは、卒業課題として課せられていた神話を題材とする絵画製作に反対し、それを契機として自主的に作家グループを作り、やがて「移動派」を形成していく。彼らが「移動派」と呼ばれたのは、巡回展を開催し、貴族以外の者たちに作品を売ってあるいたからである。
 ロシアでは、農奴解放令により資本主義化が進んでいた。貴族が没落し、商人が絵画の購買層になってきた。それと相即的に、1870年代から、ヨーロッパの風景画の真似ではなく、ロシア固有の風土、ロシア的なものを画こうという傾向が現れた。これと同じ時期(1874、5年ころまで)ヴ・ナロード運動が起こっていた。
 ロシア風景画の課題は、ヨーロッパに比べて単調なロシアの大地をどう描くかというところにあった。そこでは構図の工夫が重視された。
 アレクセイ・サヴァラーソフ(1830-1897)の作品に見て取れるように、平原に対する垂直的なもの(白樺の木や教会の塔など)を配置する構図が意図的に採用される。
 また、移動派のなかからは、写実主義を超える表現が出てくる。アルヒープ・クインジ(1841-1897)の描いたのは月や霧、その光であった。この光景の表現については、その色彩の工夫が絵の具の工夫(開発)から試みられた。とくに、イサアク・レヴィタン(1860-1900)が描く月夜や月明りの光の表現、ニコライ・ゲー(1831-1894)の描くキリスト画は、写実主義を超えようとしている。(ここまでは移動派)
 ミハイル・ヴルーベリ(1856-1910)になると、写実主義は捨てられている。この時代は、印刷技術が発達し、作品が絵はがきとして売られるようになった。絵画的なものを実用品に活かしていこうとする動きが出てくる。
 また、移動派は、手法としてはヨーロッパ的であるため、民衆自身の絵ではないという批判が出てくる。こうした中で、民衆の中にいる作家としてピロスマニが注目される。これがプリミティズムにも繋がってくる。
 イヴァン・ビリビン(1876−1942)は、1900年ころから絵本や絵はがきを刊行する。かれの作品は、民衆芸術であることを意識するとともに、浮世絵の手法などジャポニズムにも影響を受けている。
 また、一方で、ロシアのユダヤ人、ヴァシーリー・カンディンスキー(1866-1944)が、ロシアの伝統を受け止めつつ、精神主義的な作品を発表していく。
 これらの動きは、ロシア・アヴァンギャルドの代表的存在と看做されるカジミール・マレーヴィチ(1878-1935)に繋がっていく。マレーヴィチは、1960年代のアメリカ・ポップアート・シーンのなかで注目され、有名になった。
 彼は、すべての画家がそうであったところの知覚に拠って描くことから離れ、人間の感覚そのものを表現しようとして、無対象絵画(真っ黒な絵である「黒い正方形」)に辿りついた。彼は、純粋な創造を表現しようとしてスプレマチズムに至った。
 
 中村氏は、このほかにも、ナタリヤ・ゴンチャローヴァ(1881-1962)やミハイル・ラリオーノフ(1881-1964)その他作家の作品についても、スライドで紹介してくれた。
 
 さて、この話を聴いてぼんやりと考えたのは、やはり、ヨーロッパに比してロシア社会が後進的であったがゆえの、歴史的規定性みたいなものについてである。
 後進的な社会が、先進的な社会を乗り越え、いわば世界史の舞台に躍り出ようとするときの、ふたつの性向、つまり伝統的に継承されてきたかのように思われる精神性への依拠と、既存の近代性を乗り越えるための前衛化・・・。シャガールもマレーヴィチも、この二重の性向を抱えている。シャガールは、相対的に精神主義の度合いが高く、マレーヴィチは相対的に表現意識を先鋭化させる度合いが高かったということか。
 一般的にいえば、芸術的ラジカリズムは、“適度な後進性”のなかに、必然的に胚胎されるということなのだろう。


4 近藤一弥講演「“視線を超えて”―ロシア映画とグラフィック・デザイン−」:感想

 「ミュージアム・スクール」2コマめの講義は、グラフィックデザイナーで東北芸術工科大学教授の近藤一弥氏による、映画とグラフィック・デザインの作品紹介と解説であった。
 近藤氏は、ロシア・アヴァンギャルドのなかで映画が大きな意味を持ったとして、その理由を、大衆的なものであり、複製されて流布されるものについて、アヴァンギャルドたちが新しい表現の可能性をみていたからであると語った。
 講義の中では、エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」とジガベルトフの「カメラを持った男」の一部がDVD上映された。

 エイゼンシュタインが演劇的なモンタージュ手法を用いたのに対して、ジガベルトフは演出・脚本なしにコラージュ的に作品を構成し、ドキュメンタリー風に創っている。
 「カメラを持った男」は1929年製作の作品だが、撮影者を撮影している“メタ映画”という性質をももっている。
 一方、この時期のグラフィック・デザイン作品では、マヤコフスキーがコピーライトを担当し、ロドチェンコがデザインを担当するというコンビの作品が目を惹く。
 また、リシツキーらの作品も、デザインとタイポグラフィの代表的作品として注目される。
 さらに、この時代のポスターや雑誌の表紙などに、屋外の写真を多様に構成した作品が現れたことには、35mmカメラの登場とその普及が大きく影響している。

 じぶんの感想としては、「戦艦ポチョムキン」、なかでもそのハイライトである「オデッサの階段」のシーンを、あらためて、明るく綺麗な画像で観せられると、いろいろとそのアラが視えてきた。たとえば、モンタージュによる繋ぎの仕方が、いわば、間延びしているというか、スピーディに展開していっていないというか、そういう側面が目についた。
 人物をアップで描いているシーンと、群集を引いて撮っているシーンの繋ぎがぎこちなく、それゆえ画像の質感が異なってしまっている(これはアップで映される役者のメイクによるという側面もある)ので、べつべつの映画をつなぎ合わせたように見えるのである。
 また、じぶんとしては、近藤氏の話に、じぶんが疎いグラフィック・デザイン作品への評価の目線というか、批評の観点というか、そういうものの具体的な現れを期待したのだったが、その点では期待はずれだった。(実作者の話というのは、往々にしてこのように、それ自体としてはつまらないものである。作品がすべてを語るということなのかもしれない。)

 ところで、余談だが、「オデッサの階段」のシーンには、両足のない浮浪者然とした男が、両手だけで体を浮かせながら、ぴょんぴょんと階段を逃げ下る姿が何回かアップで挿入されている。この男が他のシーンに出てくるのかどうか記憶がないので、作者がなぜここに足のない男をフューチャーしているのか、妙に気になった。

                                       
                                                      (了)







  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:05Comments(0)美術展

2010年05月03日

山形県詩人会情報(2010年春)

1 山形県詩人会2010年度総会

 総会は4月24日に山形グランドホテルで開かれ、役員の新体制が決まった。

 会  長:  高瀬靖(酒田市)
 副会長:  芝春也(山形市)
 事務局長: 松田達男(山形市)
 理 事:   いとう柚子(山形市)、井上達也(山形市)、遠藤敦子(南陽市)、近江正人(新庄市)、高 啓(山形市)、
        佐藤傳(寒河江市)、高橋英司(河北町)
 監 事:   佐藤亜美(山形市)、上野政蔵(東根市)

 これまで会長を務めていた木村迪夫氏(上山市)が体調不良を理由に、またこれまで事務局長を務めていた芝氏が町内会長就任による多忙を理由に、降任を申し出たので、理事会において、会長に前副会長の高瀬氏、事務局長に松田氏、副会長に芝氏を選出したものである。
 新役員(理事等)は総会で選出し、会長ほかの三役は理事会で決めると規約にあるが、今回は、総会前の理事会で三役ほかの役員を決め、葉書で会員に承認を得るという手法をとった。このように、山形県詩人会は、良くも悪しくもアバウトな体質の組織である。



 なお、木村前会長は、体調不良と言っても、重病というわけではなく、日常生活に支障があるような状態ではない。総会及びその後の懇親会にも出席された。また、最近、『山形の村に赤い鳥が飛んできた―小川紳介プロダクションとの25年』(七つ森書店)という著書を上梓し、4月17日には山形市内で佐高信氏の講演会で同氏と対談している。


















2 第9回山形県詩人会賞


 3月31日、理事による選考委員会が開催され、今年の山形県詩人会賞は、松田達男詩集『Home―私の好きな家―』(一粒社)に決定された。
 選考委員長の高橋英司による「授賞理由」を転記すると、

 「建築物と文芸のコラボレーションであるが、写真によりかからず、言語表現として自立しており、また、作者の建築物に対する思いと心象がスパークし、職業的視点が詩的達成を遂げたものである。本県の詩史上においても稀有な詩集であることを認め、受賞作品に決定した。」
 

 この詩集は、山形市内の建築物を題材に、「ひとりの建築士として、内部の間取りをあれこれ想像しながら、実在とは関係なく、外観から伝わるイメージを自分なりに言葉にして創り上げた」(著者あとがきより)作品群からなっている。
 ここでは、歴史的な建造物である「文翔館」、「山形市郷土館(旧済生館本館)」はもとより、市中の洋風建築である「市島銃砲火薬店」、「山形七日町二郵便局」、「山形県環境衛生会館(旧駆梅館」、「西村写真館」などが取り上げられているほか、一般人なら何気なく見過ごすであろうところの、代わり映えのしない民家や商店・旅館なども題材にされている。
 作者は、建築士ならではの観点からその内部構造を想い描き、そしてそのなかで繰り広げられているであろう人間関係のドラマを想像して、詩作品を成立させている。
 その詩行は、表現が必ずしもこなれていないため、やや硬く、説明的でありすぎたり、弁士調に流れていたりするという側面をもってはいるが、“外観から内部を想像する”というこの詩人固有の姿勢は、とくに人の住む建物(=Home)を扱った作品において、建物内部に息づく、陰影を伴った人々のイメージの生成に成功しているようにみえる。

 

3 万里小路 譲氏の講演

 総会後、会員で鶴岡市在住の万里小路 譲氏に記念講演をお願いした。
 万里小路氏は、「郷土の名詩という幻想―郷土の郷土性という創世―」と題して、タイムリーかつ本質的な問題提起を行った。
 「郷土の名詩」というテーマがタイムリーだと言うのは、ちょうど山形県芸術文化会議が、「郷土の名詩」を集成したアンソロジーを編纂しようとして、県内詩人たちに、収録作品の推薦を依頼してきていたからである。
 この企画の面白いところは、選出対象作品が、現在活躍中の詩人の作品であることを原則とするという点である。
 万里小路氏は、“生成されるものとしての郷土”という観点から、「認識としての郷土」という考え方を提起。「共同体内部で自足していく閉鎖性から脱却し、絶えず新たな世界性を見出していく志向性」であり、「流動し、絶えず変化する価値を有している文化性」であり、「新たな世界をつくるような共同性」であるような<郷土という幻想>を創成していくべきであると述べた。
 また、この郷土において、「詩作品に対して批評・評論がない」現状を変えていくことが必要であり、そのために自分は山形県内詩人の作品を対象とした評論を継続していると述べた。

 なお、ここからは万里小路氏の講演とは別の話だが、総会参加者の情報交換のなかでは、この山形県芸術文化会議の企画は、同会議の役員である県詩人会のメンバーも知らないうちに進められているという話だった。
 県芸術文化会議という半ば公共的な意味をもつ団体の企画であるにも関わらず、誰がどんな方法で採否を決めるのか役員にも不明とは、まぁ、ものごとの進め方としては未熟である。ようするに、これがわが山形の<閉鎖的な郷土性>の一端ということであろう。
                                                                                                                                                                



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 22:48Comments(5)山形県詩人会関係

2010年05月01日

置賜観桜小旅行



 タキソールの投与が終わったらまた温泉に行こうと話していたのだったが、リハビリと観桜を兼ねて、二日ほど休暇を取り、置賜方面に一泊二日の小旅行に出かけた。

 まずは、地元のスーパーで昼食用にいなり寿司と巻物のパックを買い求め、山形市中桜田の「悠創の丘」へ。

 足下の東北芸術工科大学キャンパスの向こうには山形市内が広がる丘陵のベンチに腰掛けて、ノンアルコールのビール風飲料を片手に昼食。
 この日は久しぶりの青空で、山形市街地の上空に浮かぶ月山が神々しく輝いている。
 しかし、この場所は少し風がある。まだタキソールの副作用が続いていて、寒いと手足に痺れや痛みがくる連合いは、食べ終わると早々に出発を促すのだった。


 

 今夜の宿泊は、赤湯温泉の「いきかえりの宿・瀧波」。

 しかし、このまままっすぐ宿に向かったのでは早く到着しすぎるので、国道13号を南下する途中で「シベール・アリーナ」の「遅筆堂文庫」に寄ることに。
 先日、井上ひさしの逝去の報道に接していたこともあった。
 同文庫では、すでにお悔やみの記帳台が引っ込められていたばかりか、井上ひさしが亡くなったことを知らせる張り紙さえ見えず、彼の不在を認識させる表象はなにもない。
 本人の存命中、小松座の舞台を山形市や川西町で3、4回は観、その講演も、出身地の川西町で毎年開催されていた「生活者大学校」を含めて、2、3回聴いたことがあったが、じつは、じぶんはこの人の作品もこの人のもの言いも、あまり評価していなかった。
 しかし、亡くなられてみると、もう少し舞台を見ておけばよかったというような気もしてくる。演出家ではないのだから、本人が生きているかどうかは、舞台の出来にはそれほど関係ないはずなのだが、なぜかそんな気がしてくる。
 ロビーの陽だまりの椅子に腰掛け、そんなことを思いながら暫しぼんやりして、再び赤湯へ向かう。
 
 15時前に瀧波にチェックインし、間もなく徒歩で烏帽子山公園に出かける。

 瀧波の北側を走る赤湯温泉の通りは、街路事業で道路が拡幅され、以前とはずいぶん印象が違っていた。
通りに面した旅館「櫻湯」については、もう十数年も前になるが、あるイベントの宿泊担当をしていたとき、来訪者を配宿するため視察したことがあった。いまは、そのときの大衆的な宿とはかけ離れた高級旅館の佇まいに変貌している。
 近くの銀行の駐車場では、お祭りにあわせたイベントが開催されていて、無名のプロ歌手と思しき中年男性が、ピンクのスーツ姿でカラオケにあわせて歌っている。格好からして演歌歌手かと思われるのだが、聴こえていたのは和製ポップスだった。歌の出来や見てくれはともかく、通りにこういう音が流れていると、なんだか祭り気分でウキウキしてくる。
 その会場の入り口には、なぜか旧式の発動機が何台か並べられ、うち2、3台が、ドゥルン、ドゥルンと渋い音をたてて稼動していた。発動機を動かしてなにをしているのかと思って覗いたら、旧式発動機のコレクターが、イベントの一企画として、来場者にその音を聴かせようと披露しているのだった。
 じぶんは、へぇーと思って覗こうとしたが、旧式だからずいぶんと煙を吐き出すその発動機を見て、連合いは、環境に悪いんだから趣味で稼動させるのはやめろぉ〜と、じぶんにだけ聴こえるように小声で言って、じぶんの腕を引いた。


 烏帽子山公園は、その名の通り、赤湯の街を見下ろす丘陵の公園である。上には八幡神社があって、そこまで急な石段がある。
 この公園には、数年前、やはり花見の時季に訪れたことがあったのだが、それは山の裏手から駐車場に入る経路からだったので、こうして正面から神社に直登するのは初めてのことだった。
 連合いは、急な石段を見上げて、“これを登るの?”と怯んだが、リハビリだと思って行こう、行こう、と声をかけ、手を引いて登り始める。
 途中で2度中休みし、うち一度は咲き始めの枝垂桜とその向こうの赤湯の街を背景に、花見客の写真を撮ったり、代りに撮ってもらったりしながら、社殿まで辿り着く。
 社殿では、二人並んで拝礼。再発や転移が起こらないことを神に祈った。
 桜のほうは、まだ1〜2分咲きといった感じだが、いい天気に誘われて、花見客はそこそこ繰り出していた。

 瀧波には、公式HPからもっとも安いプラン(二人一部屋で一人12,000円余)を予約した。一般客室だということだったが、通された部屋は押入れが突き出た変な構造(本来なら窓になっている面の半分くらいに当たる部分が押入れになっていて、手前に突き出している格好)で、どうも落ち着きがよくなかった。また、窓の障子を開けると、向こうの棟の部屋からこちらが見える構造だった。
 この旅館は、隣接するいくつかの旅館を買収したり、移築したりして増築されたと聞いたことがあった。各棟・各室の構造が別々なのは変化があっていいことだし、古い建物なのも味があっていいのだが、この部屋はあまり泊まりたくなる部屋ではなかった。構造はともかく、内装や調度品で、少し工夫する余地があるだろう。
 ついでに書くと、天井の照明に豆電球がないので、就寝時には、真っ暗にするか、窓の傍の電球を点灯しておくしかない。この電球を点灯しておくと明かりが強くて眩しいのだが、だからと言って真っ暗だと、夜中にトイレに起きたとき心もとない。結局は部屋の襖を少し開けておいて、上がり口の証明が少しだけ射し込むようにして寝た。せめて、枕元に小さなスタンドがあればいいのに。

 前回、CEF4クールを終えてからタキソールに臨むまでの間、元気付けに泊まりに行った上山温泉の宿では家族風呂を予約したのだったが、今回は予約していなかった。事前に、連合いに貸切風呂が必要かどうか訊いたら、気にしないから取らなくていいと言うので。
 でも、風呂から帰ってきた彼女は、自嘲気味に「“頭隠して尻隠さず”でしたっ。」と言った。頭にはタオルを巻いて入ったが、下は隠さなかったので、他の客たちから体毛のないのを訝しく思われたというのである。「わたしを見た瞬間、なんかさっと変な目つきになる」というようなことも言った。
 もっとも、それをあまり意に介さず、彼女は翌朝も大浴場に行った。

 食事は、山形牛と米沢豚のしゃぶしゃぶをメインに、刺身や蒸し物、それに小鉢などが並んだまずまずの内容だったが、通された個室の食事処は窓がない部屋で、これもやや減点。窓が造れない構造なら、内装の工夫や絵画を掛けるなどして、閉塞感を和らげるよう一工夫してほしいところである。
 いちばん残念だったのが、以前に宿泊担当として視察したときに見て、素敵だなぁと思っていた古民家を移築して設けたバーが無くなっていたこと。
 今は、「古民家ダイニング」と冠され、高級部屋を取った客専用の食事処に転用されてしまっていて、一般客室の客は利用できないという。
 館内の見取り図には、この以前のバーの部屋が記載されているのに、その区画が他の部屋や廊下と繋げて描かれていない。つまり何処からどうやってその部屋に行くのかがわからない絵になっているので、仲居さんに行き方を訊いたら、そういう話だった。

 翌日、朝食は大広間での餅つき大会だった。広間の中央に、350キロもあるという大きな臼を置いて餅をつき、それをはっぴ姿の従業員たちが、その場で、茸のたくさん入った雑煮、納豆餅、味噌和えウコギ餅、ずんだ餅、あんこ餅、きな粉餅にして、さっ、さっ、と手際よく客に配膳する。じぶんは、出された7個のうち、6個を食べた。餅の好きな連合いも5、6個食べた。
 この宿の社長?(自己紹介があったのだろうが、少し遅れて入って行ったじぶんたちは聞き逃したようだ)と思しき男性が、はっぴ姿にねじり鉢巻をしてMCのマイクを握っている。
 周辺観光地やこの旅館の案内を交えながら、供する餅や巨大な臼の扱いについて流暢に解説し、自らもフットワークよく客の間を廻る。
 彼のMCや場の取仕切りの手際の良さと、よく訓練された従業員を含めて、その旺盛なサービス精神に感心したが、一方で、なにか急かされているようで落ちつかない。わんこ蕎麦でも食わされているような気分になってくるのだ。

 この朝食を体験して、なんとなく、この宿が自らに「いきかえりの宿」と銘打っていることが腑に落ちた。客は、居住地あるいは前の宿泊地から来て、米沢や蔵王や山寺やさくらんぼ農園を観光してこの宿に一泊し、翌朝、次の目的地に向かって発っていく。
客は、餅をするする飲み込んで、はやく出発の準備を整え、速やかに乗車するように仕向けられる。そもそも、赤湯温泉という場所からして、ゆっくり逗留する温泉場という感じがしないじゃあないか。・・・こういうことを暗黙のうちに繰り込んだ、社会心理学的接遇なのだなぁ・・・などとさえ思えてくる。

 さて、朝食が餅つきだということは、HPで見て事前に知っていたが、餅ばかり食べさせられるとは思っていなかった。少しは普通のご飯と和食のおかずが付くのかと思っていたが、出された3つの小鉢には、漬物とお浸しがちょっぴり盛られているだけで、餅の箸休めという感じだ。
 じぶんは嫌いな食べ物というのがない人間なので、出されればほとんどのものは残さず食べる。ただし、餅というものがあまり好きではないこともあって、こんな捻くれた感想になるのだろう。結論としては、この宿は、総体として、接客がよく、価格もリーズナブルだと記しておきたい。
 
 瀧波を10時ころ出て、連合いが、宿にあった観光パンフレットで見つけた蔵の喫茶店に行きたいというので、その「美蔵」という店を探して高畠町に行く。高安という地区の、「犬の宮」「猫の宮」のそば。農家の小さめの蔵を改造し、喫茶店として営業しているものだった。
 蔵の一階の天井は低く、改築で設けられた窓も小さいので、いつも行く山形市内の「オビハチ灯り蔵」とは違い、中はちょっと息苦しい空間だった。三分の一くらいでいいから、二階まで吹き抜けの空間があればいいのにと思う。二階には、経営者が製作したキルト作品の展示があり、その教室も開かれているとのことだった。
 コーヒーはまずかった。連合いがイマイチだと言う顔をしているので、コーヒーを飲みあげると店を出た。

 


 せっかく高畠に来たのだから、と、安久津八幡宮に寄る。

 境内の手前にある休耕田の菜種の花と、桜と、山の中腹に向けて張られたワイヤーに連なって泳ぐたくさんの鯉のぼりが、絶妙の景観を創っている。
 歴史を感じさせる天然石の参道を歩いて拝殿まで行き、拝殿の格子戸に開いた賽銭投げ込み用の四角い穴から賽銭を投げて拝もうとしたら、拝殿の中で、数人の男たちがなにやら話しながら写真を撮っている。どうも賽銭泥棒が入ったらしく、投げ込まれた賽銭が落ちる先の床を懐中電灯で照らして、指紋でも探しているような様子だった。
 それで賽銭も入れず、拝礼もせずに引き返す。


 そこから米沢市内へ。

 松ヶ岬公園に向かい、「上杉城史苑」の駐車場に車を置いて、「伝国の杜」を眺めながらソフトクリームショップのベンチに腰掛け、ウコギとバニラのミックスをひとつ注文して、二人で食べる。
 どちらかというと上杉嫌い(本当は「上杉好き」嫌い)のじぶんではあるが、苦しいときの神頼みで、上杉神社に拝礼し、再発・転移がないことを祈る。
 松ヶ岬公園の桜も、まだ2、3分咲き。でも、さすがに人出は多い。ここは、山形県の観光スポットの中で、一年を通じてもっとも訪問者が多い場所である。
 昼食を取ろうということになって、この旧い城下町の通りを、当てずっぽうに走っていると、運良く蕎麦屋「新富」に至る。そこで蕎麦をいただく。ここの蕎麦はけっこういける。

 


 さて、まだ陽は高い。それで、帰り道、上山城に寄って桜を見物しようということになる。
 
 武家屋敷の通りを徐行しつつ車中から屋敷を見物して、小路を曲がり、上山城へ。
 連合いと訪れるのは初めてだった。平日だというのに、やはりこの場所もそこそこの人出で賑わっている。ここの桜は、昨日今日の陽気で、7、8分の咲き具合になっていたが、よく見ると、ソメイヨシノの樹勢はやや衰えていて、その分、枝垂れ桜の威勢がいいようにみえる。
 月岡公園から、桜の向こうに望む蔵王連峰は、これまた秀麗である。
 公園のなかを、ときどきベンチに腰掛けながら歩き廻り、茶屋で一串の玉こんにゃくを二人で食べ、この小旅行の穏やかな時間を、あらためて噛みしめる。
 この二日間で、連合いは「パパは厳しいからなぁ」などとこぼしながらも、じぶんに手を引かれて、けっこう歩いた。烏帽子山公園、安久津八幡宮、松ヶ岬公園、月岡公園と、階段や坂もあったのだが、ギブアップせずに廻ることができた。
 頭髪も、ほんとに僅かずつではあるが、復活してきた。
 
 連休明けからは放射線治療が始まる。               

                                                          
                                                        (了)




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 08:29Comments(0)歩く、歩く、歩く、