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2011年06月26日

小熊英二著『1968』について



 <はじめに>

 2年ほど前の夏休み、息子の高校時代の友人である大学生が我が家にやってきた。
 かれはこのブログを読んでいて、“あの時代”についてじぶんに話を聴きたいと言うのである。
 酒を酌み交わしながらいくつか話をしたが、そのとき、「全共闘運動」については、うまく話すことができなかった。
 それで、「小熊英二の『1968』という本が出たね。あれを読んでみたらどうだろう。そのうちおれも読んでおくから。」などと話してお茶を濁したが、それからずいぶん時間が経過した。
 かれはもう社会人になっているからこのブログも卒業しているだろうが、なんだか宿題を仕残しているような想いがずっとしていたので、このことについてなにかかにかは述べておこうと思う。



 この著作は「1968年」に象徴される“あの時代”、全共闘運動から連合赤軍にいたる若者たちの叛乱を全体的に扱った「研究書」(著者が言うには「初」の研究書)である。
 上下巻で本文だけでも1,800ページを越える大著だが、工夫された構成と筆力、それに「研究書」の枠を越えた著者・小熊英二の「全共闘世代」への想いに、ついつい読了させられる。

 じぶんは1970年に中学生になった。小熊英二はじぶんより5歳ほど年下であるから、1969年には、じぶんは小学6年生で、小熊は1年生だったことになる。それはちょうど日本におけるベビーブーム世代である「団塊の世代」つまりは「全共闘世代」の中心部分からみて、10歳年下と15歳年下ということである。
 すると連合赤軍浅間山荘事件の1972年2月には、じぶんは中学3年生で、小熊は小学4年生・・・この著書のなかでも述べられているが、1960年代後半から70年代前半の日本社会は急速かつ激しく変化しており、とりわけ、若者の文化、風俗、思考、感性は、学年がひとつ違うだけで大きく異なる時代だった。だから、この5歳の年齢差は、“あの時代”のくぐり方において、たぶん決定的な違いをもたらしているのだろう。
 もっとも、初手からはっきり言明してしまえば、この「研究書」で結論付けられている“あの時代”の叛乱の意味、それをじぶんなりに一言でいえば、日本が高度資本主義すなわち大衆消費社会に移行する過程において、一部の若者が時代との摩擦や抵抗感を乗り越えるために引き起こしたカタルシス現象というミもフタもない話になってしまうが、それについて、今のじぶんはほとんど賛同する。
 そして「研究書」であるこの大著に、通奏低音のように流れている「全共闘世代」(とくに“全共闘運動以後”の当該世代)に対する冷ややかな呪詛の念についても、ほとんど共感する。

 けれどもなお、多くの点で相槌を打ってしまうこの書について、じぶんの位置からは、なお“ちょっと待てよ”という想いを禁じえない点も、これまた存在する。
 こうして考えてみると、じぶんは「全共闘世代」から10年近くも遅れて来ているのに、まるで「全共闘世代」とその世代を冷ややかに視ている「そのあとの世代」とに挟まれ、その双方の引力圏に囚われた一種のダブルバインドの世代だと思われてくる。
 これについては、じぶんが、高度経済成長の影響が数年遅れて波及した東北の田舎町で育ったという事情も多分に影響しているが、しかしなお、それだけでもないような気がする。
 だから、小熊英二著『1968』に言及するとき、じぶんはたんに「全共闘世代」を相手にするだけではなくて、「そのあとの世代」をも相手にしなくてはならないような気がしてくる。
 いや、むしろ、“相手にしなくてはならない”というよりも“相手にすることになってしまう”というべきだが、それにしたって、いまのじぶんにとって、これは少しく気の重いことなのである。
 上手く述べられる自信はないが、何かを述べておかなくては先へ進めないという想いに駆られる。小熊英二著『1968』の内容のうち、じぶんが共感しつつ、しかしまた同時にちょっと違うように感じたことについて、とりあえず二点だけ言及しておきたい。


1 「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性

 小熊英二の『1968』には、“あの時代”を解き明かすためのキーワードがいくつか埋め込まれている。そのひとつが、「現代的不幸」ということばである。
 同書の最終章である「結論」部には、次のようなことが述べられている。

 発展途上国型の社会から高度成長によって急速に高度資本主義の先進国型社会に日本が変貌しつつあったなかで、かの世代は「アイデンティティ・クライシスとリアリティの希薄化に悩み、『生きている』実感を持て」なかった。戦後の復興期に、野山や空き地を駆け回って育ったこの世代が直面したのは、高度経済成長の過程で引き起こされていた都市と農村の姿の急激な変貌であり、「資本主義体制」の高度化と「管理社会」の形成だったからである。
 そして、ベビーブーマーは「親世代が直面した貧困・飢餓・戦争などのわかりやすい『近代的不幸』とは異なる、言語化しにくい(そして最後まで彼らが言語化できなかった)『現代的不幸』に直面した初の世代」となった。
 そんな世代にとって、「学生運動に飛びこみ、機動隊と衝突し、バリケード内で友と語りあうことは、連帯感や仲間を得ることと、自分のアイデンティティや生のリアリティを確認できることの両面で、大きな魅力」だった。

 また、このことと相即的に語られるのは、大学生の大衆化である。
 1963年には大学進学率が15%を越え、ベビーブーム世代が入学すると大学生が急増した。大学は施設整備も教員体制の整備も追いつかずマスプロ化し、一方で学費値上げがたびたび行われた。大学生はかつてのような「立身出世」を約束された存在ではなくなり、「末はしがないサラリーマン」という閉塞感が広がっていた。
 その一方で、当時の大学生は、戦後教育で受けた民主主義の理念と、“大学は真理探究の場”であるという旧来のイメージを抱いていた。この大学の実態と学生の想いのギャップが、大学闘争の発火を準備していた。
 小熊は、この事情について、歴史学がいう「モラル・エコノミー」という考え方を当てはめて語ってもいる。
 モラル・エコノミーとは、民衆がもつ秩序意識や規範意識のことで、暴動や叛乱は民衆の生活苦が極まった際に起こるよりも、社会が変動する過程にあって、民衆がもっている「あるべき秩序」の規範意識が破壊されたときに起こるものだという考え方である。
 この考え方を応用すれば、全共闘運動とは、ベビーブーム世代の「あるべき社会像」「あるべき大学像」というモラル・エコノミーを、現状の社会と大学が裏切っていると看做されたたための蜂起だと考えることができるというわけである。

 こうした「自分探し」のモチベーションが、政治闘争に向かうことになった理由については、ベトナム戦争や日米安保条約や公害等々の社会問題が起こっていたこと、さらには「地域コミュニティの連帯感が生きており、社会との一体感が埋め込まれていた」ことを挙げつつ、階級格差や貧困の方が大きな問題だった発展途上国型のパラダイム(社会変革が自己変革と同置されたパラダイム)と言説のなかで「『心』やアイデンティティの問題を考えるとすれば、どうしても『政治』の言葉で運動を起こすという形態しかなかったのだろうと思われる」と語る。
 また、かれらが主に直接行動に訴えたり、デモでスクラムを組むことを好んで行ったことの要因としては、かれらの幼少期には「相撲や押しくらまんじゅうなど、肉体的接触を伴う」遊びが行われていたり、家族が同じ部屋で寝起きしていたことからくる「身体感覚」を指摘してもいる。(じぶんなら、このことに、子ども時代の経験としていわゆる「ギャングエイジ」の行動様式を付け加える。)
 さらに、かの世代がマルクス主義に染まったことについては、このように言及される。
 発展途上国型の社会の変革に対応したパラダイムであるマルクス主義(の暴力革命論)を唱えた新左翼運動は、60年安保以降、経済成長の過程で支持を失い低迷していたが、いわゆる「疎外論」と「主体性」を掲げる人間主義的なマルクス主義が、「『心』の問題をあつかう言説資源が不足していた当時にあって、『疎外』をはじめとした『心』の問題を表現する媒体として復権した」のであると。


 さて、ここからはじぶんの見方を述べてみる。
 小熊の論では、「近代的不幸」と「現代的不幸」とが対比され、全共闘世代は層として後者を体験した日本初の世代だとされる。・・・まずここまでは了解する。
 しかし、「近代的不幸」と「現代的不幸」は、「1968」を挟んでそれほど裁然と区画できるものではないだろう。そもそも高度経済成長の影響(または恩恵)が、日本全域と各社会階層に、期を同じくして及んでいたわけではない。
 もちろん、小熊自身もこの二つを裁然と区画しているわけではなく、日大闘争について扱った部分では、日大闘争が日大経営陣の独裁的で暴力的な学内支配に対する抗議として、つまり「近代的不幸」と言ったほうがいいような状況に対する改善要求として始まったという趣旨のことを述べている。
 また、この著作には、当時の新左翼各党派の活動家の出身階層に関する調査報告が引用されているほか、全共闘運動に関わった学生たちが、幼少期の貧しい記憶を保持しつつ、経済難で進学できなかった同級生たちに対して罪悪感を抱いていたという記述もある。
 
 そのことを踏まえながら、それでもじぶんは、より強調して「近代的不幸」と「現代的不幸」との重層性を指摘しておきたい。
 高度経済成長による影響には、地域によって、また社会階層によって、もっとグラデーションがあった。時代は跛行的に進んでおり、自我意識の変化もまたそうだったのである。
 “あの時代”の叛乱を大雑把に把握しようとするときには、「『自我の世代』の自己確認運動」と呼んでもいいが、下層あるいは庶民層出身の学生たち、またはそれらの層の同級生たちと思春期までを共有した学生たち(とりわけ地方出身の学生たち)には、社会変革あるいは社会改良によって、「近代的不幸」をなんとかしなければならないという使命感というか、衝迫観念というか、そんな意識が、程度の差はあるにせよ個々人に埋め込まれていた。このことを『1968』はやや過少評価しているように思われる。
 これは冒頭に述べたように、じぶんとこの著者との5歳の年齢の開き、それに育った地域が異なることによる体験と認識の違いからくるものだろう。
 それは、たとえば天皇制と反天皇制をめぐる事情が、この大著の、少なくとも本文では一度もまともに考察されていないことに象徴的に現れている。みんなはもう忘れたような顔をしているが、「昭和」という時代には<天皇>という存在がいて、それは旧来社会の支配体制の<象徴>であった。つまり、あの時代には、まだそこかしこに“小天皇”が存在し、各領域に前近代的な社会関係が少なからず残存したのである。

 インテリ層が社会変革への意識をもつことを、文学の世界では長らく“知の自然過程”だと看做してきた。発展途上型の社会においては、<知>を身につけた者、つまりそれゆえに社会階層を上昇できる者は、被抑圧者の側に立って、その抑圧と闘うことが“自然”だった。1960年代から70年代半ばにかけての日本にも、まだその自然過程の残り火があった。
 もっとも、この自然過程というやつには、二つの側面がある。一つは倫理的な使命感であるが、もう一つは欲望、すなわち<自己権力>への意志である。小熊は、この二つ目の側面を等閑に付している。これが、じぶんが『1968』について言及しておきたいと思った二つ目の点である連合赤軍事件の位置づけへの異議にも繋がってくる。


2 全共闘世代の「二段階転向」論への評価と異議

 ちょっと違うなと感じたことの二つめは、小熊の言う「二段階転向論」に関連している。
 小熊は、ベビーブーム世代は「高度成長と大衆消費社会の果実への反発と魅惑のはざまで、引き裂かれていた」ために、「彼らが大衆消費社会に適応するには、自己の内部にあるそれに対抗する感性を排除する必要があった」として、その過程は二段階を経ることになったと言う。
 高度成長期以前に社会状態で幼少期の人格形成を行ったことと、「一人の一歩よりみんなの一歩」「我利我利亡者にはなるな」といった戦後の民主主義教育の価値観を身につけていた彼らは、全共闘運動の中で日本共産党=民青や進歩的とされた大学教員たちと対立する過程で、「戦後民主主義」を激しく批判し、革新政党や「進歩的文化人」(進歩的知識人)の欺瞞を暴きたてることで、自らの内部にあった戦後教育の理念を排除する。これが転向の第一段階である。
 だが、全共闘運動は「ではきみはどうするんだ!」という自己否定と倫理的なリゴリズムをともなうものであったため、大衆消費社会に反発する禁欲主義となって現象する。
 「この禁欲主義とリゴリズムを脱却するために必要だったのが、連合赤軍事件だった。連合赤軍事件の実態は、アジトの発覚を恐れた20人前後の非合法集団の幹部たちが、下部メンバーの逃亡や反乱を恐れて緊縛し死なせていたという小事件である。にもかかわらず、あの事件が戦後日本の歴史を語るうえで欠かせないものとなっているのは、この小さな事件に、叛乱する若者たちが過剰な意味づけを行ったからだった。」
 その意味付けは「全共闘や新左翼のリゴリズムや禁欲主義を徹底してゆけば、行きつく先は連合赤軍事件だ、というものだった。彼らはこうして、連合赤軍事件によってトラウマをあたえられるという形態をとって、自己の内部にあったリゴリズムや禁欲主義を排除し、『私』の欲望に忠実になることに成功した。」・・・これが転向の第二段階である
 そして、“あの時代”について、小熊は、「全共闘運動と連合赤軍事件がベビーブーム世代にとって大きなトラウマになって残っていることは、ある社会が発展途上国から先進国になる過程において、どれほどの精神的葛藤と代価を払わねばならなかったかを示している」としつつも、「全共闘運動や新左翼運動は、資本主義と高度成長に反発しながら、結果として日本の資本主義の進展を推し進める役割を果たした」と結論付ける。

 じぶんは、この総括の論理展開をそれなりにうまく構成されたものだと評価し、その結論については基本的に賛同する。
 なぜなら、ここに小熊ら「そのあとの世代」の、全共闘世代に対する率直な見方が表現されており、じぶんも大方はその心性を共有するからだ。
 全共闘世代が「転向」し、各分野で日本資本主義の高度化と大衆消費社会の進展を担ってきたことをじぶんも「遅れてきた世代」として目の当たりにしてきた。さら言えば、じぶんもまた同じように、アドレッセンスまでの自分のトラウマを脇において消費社会における生活を享受してきたからだ。(一時期まで、これはじつに快楽だった。)
 だが、そのうえであえてじぶんなりの見方を言えば、ここで述べられている「転向」の機制と連合赤軍事件の意味は、小熊の指摘するのとは少しく異なるものだと思う。

 じぶんがみるかぎり、全共闘世代の、いわゆる「転向」は、小熊の言う「二段階」の転向を必要としなかった。
 そもそも転向がどのような心的機制で起こるかといえば、それはまず自己意識と大衆の存在形態との乖離についての深刻な認知があり、それにひき続いて自己意識が大衆の存在形態から掬い取られることによって起こるのである。(ここでは「権力からの強制」という要素にはあえてふれない。)
 ありていにいえば、大衆の意識を変革して革命を起こすことを目指している自己意識が、体制的秩序のなかで生きる大衆の在りように、“ああ、こんな生き方のほうがまっとうなんだ”と浸潤されるということだ。この機制は、それ自体としては、自己の内部のリゴリズムや禁欲主義を排除するのに、連合赤軍事件を梃子にすることを必ずしも(というかほとんど)必要としない。
 また、彼らの「転向」を、小熊はもっぱら自らの内部の「禁欲主義の排除」と視ているが、彼らの「転向」には、逆に“欲望を捨てる”という諦念の側面があったように思われる。ここでいう「欲望」とは、むろん物質的消費への欲望ではない。あの<自己権力>の希求である。

 ひょっとして、じぶんがここで想定している全共闘世代の「転向」者と、小熊が想定している「転向」者は微妙に異なるのかもしれない。
 小熊はいわゆる「就職転向」者(大学4年生になったら運動から足を洗って就職する“いちご白書をもう一度”派とでもいうべき者たち)をも含めて論じているようだが、じぶんはその者が就職したかどうかに関わらず、もうすこし運動に深入りした人間を想定している。連合赤軍事件を深刻なトラウマとして捉える者たちは、内ゲバを含む全共闘運動やセクトの暗黒面(たとえば兵頭正俊の小説『全共闘記』に描かれた世界のような)を経験した者たちでもあるだろうと考えるからである。
ここで<自己権力>という欲望とその断念についてちゃんと述べなければならない段なのだろうが、今はその意欲が湧かない。連合赤軍事件については、先に若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍〜あさま山荘への道程〜』http://ch05748.kitaguni.tv/e626432.htmlについての書込みでじぶんの見方を述べているので、ここではこれ以上は勘弁してもらうことにする。


 さて、ここからはそのほかの点について。

 小熊英二の『1968』は、新左翼運動の展望のなさ、無責任性そして倫理性の欠如について徹底した指摘を行っている。新左翼思想に影響を受けている者や憧憬を抱いている者には、この部分をよく読み込むことを勧めたい。
 いまの若者には想像できないだろうが、かつてこの国には、まっとうな知力と精神をもっている若者は左翼的になるのが当たり前だった時代があった。その時代の政治闘争がこのように矮小なものとしてしか語り継がれない。いや、このように矮小なものとして語り継ぐことに、この著者は「そのあとの世代」への意義を見出しているというべきだ。じぶんはこれをも評価する。
 著者は“あの時代”の叛乱が帰結したものとそのトラウマが、日本の社会運動を大きく停滞させていると指摘している。

 また、この書のキーワードのひとつとして「1970年パラダイム」ということばが登場する。
 「1970年パラダイム」とは、「マイノリティ差別や戦争責任への注目、アジアへの経済進出への批判、天皇制の問題化、公害や障害者問題などへの着目、『管理社会』への抵抗、リブとその延長としてのフェミニズムなど」をさす。
 これらは左翼の存在意義として、それまでの“<プロレタリアート>による革命”というパラダイムが失効したために、これに置き換えられたパラダイムである。
 このパラダイムが生成してくる過程についての総体的な論及は、この書を読む価値のひとつに数えられる。

 じぶんは、この書に論理展開や総括のためのいくつかの図式化とステロタイプ化を観るが、この種の著作には明確な指摘を行うためにダイナミックな論理展開が必要だいう考え方なので、これを是認する。
 この書は“あの時代”を考えるうえで決して外せない一書になっている。
 小熊英二にはよくやってくれたと感謝したい。              
                                                  (了)           
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 12:03Comments(0)作品評

2011年06月16日

2011 モンテ観照記 「モンテ危うし」



 東日本大震災で中断する前3月の開幕戦・対川崎のゲームについて記述して以来、このブログでモンテの話はご無沙汰だったが、ここまでホーム開幕戦(第7節)の対セレッソ大阪戦(4月24日)、第9節の対柏戦(5月3日)、第14節の対鹿島戦(6月11日)と、ホームで3試合を観戦し、いろいろと思うところはあった。

 このちゃちでたまにしか更新されないブログを、それでも毎度チェックしてくれている読者が幾人かいるようだが、どうもそういう諸君はモンテの話に興味がないようである。(「近頃はサッカーの話ばかり書いているねぇ・・」などとつまらなそうに言われたこともある。)
 たしかに、山形に縁のある人間か余程目配りしているサッカーファンでない限り、この地味で弱体なプロビンチアに関心を持たないだろうとは思う。
 だが、モンテを観照する意味と面白さは、たしかにある。無駄な話にも耳を傾けてやろうかと、すこし余裕をもってこの系統の文章につきあっていただければ幸いである。

 ここまでJ1公式リーグ戦10試合を終え、モンテは1勝7敗2分で18位。すでに降格の危機が迫っていると言わなければならない。なぜなら、ここまでの戦いを見ていて、“勝てる相手”が想像できないからだ。
 第7節(実質第2節)のセレッソ大阪戦で引き分け、第8節のガンバ大阪戦には破れたものの、第9節の柏戦に勝利したところ(1勝2敗1分)までは、むしろまずまずの出来だった。
 その次に当たる磐田はなぜかモンテと相性がよく、大宮もホームなら勝つ可能性がある相手。その次の仙台とは燃え上がる“みちのくダービー”で、昨年はホームでは快勝していた。そして、次の甲府は、これは“勝てるはず”の相手、“勝たなければいけない”相手だったからである。
 しかし、小林監督が“勝ち越したい”と望んだこの「中位クラス」の4チームとの対戦成績は3敗1分に終わり、次の第14節のホーム・鹿島戦は、やはり相手の上手さにしてやられて完敗。第15節のアウェイ・清水戦は、例の問題レフリーに裁かれる試合で、ゴールしたPKのやり直し判定やロスタイムの如何わしいファウル認定などもあって惜敗したが、これでは、“いったいどこになら勝てるんだ!?” “ライバルはベガルタでもアルビレックスでもなく、ブラウビッツ秋田(JFL)かぁ!?・・”などと思わずにはいられない。

 ホームゲームで直近の鹿島戦を振り返りながら、勝てない原因とその対策を考えてみたい。
 このゲームでは、前半の前半分くらいまでは、中盤で攻めあういい展開だった。モンテが攻勢をかける場面も幾度かあった。
 しかし、いつもながらのことではあるが、やはりこのゲームでも、この“攻め込む時間帯”に得点ができなかった。
 モンテは、いつもだいたい前半の20分近くまでは攻め込むのだが、ここで得点ができないと20分台から30分台に相手に攻勢を許すのがパターンになっている。最近はこの時間帯の失点が目立つ。小林監督が大事だと言う“試合の入り”を上手く乗り超えても、じつはこの時間帯の方がモンテにとって“魔の時間帯”なのである。

 とくに能力の高い選手がいないモンテは、全員が緊密に連携して戦うことでしか活路を開けない。そしてそれを実践してはいるのだが、この緊張感が不意に途切れ、連携が急に乱れることがある。
 具体的に述べると、味方選手が倒れているのに相手が試合を止めないことにイラついたり、審判の不当なジャッジに抗議したり、相手が反則を犯したからホイッスルが鳴るだろうと看做したりして、ボールや相手プレイヤーの動きから集中が外れた瞬間につけ込まれている。この僅かな時間にかなりの確率で失点している。
 この種の失点が多いため、“やられた”という事実、つまり自分たちの失敗をしっかり自覚することができない。事実の帰結に納得して気持ちを切り替えるということができないから、憤懣を抱いたまま次のプレーに移り、反撃の攻勢も雑なものになってしまう。
 こういうときには、大きな声を張り上げてチームメートを“切換え”の方向に引っ張るムードメイカーが必要である。

 このことを逆から視ると、モンテの得点力の回復はここにかかっているように思える。どんな相手でも連携が乱れたり、集中力が低下したりする時間帯がある。ここを突けると、相手の乱れを増幅させることができる。
 自分たちが技術でも持久力でも相手より劣っているという自覚をもっとはっきりもって、この“潮目”を見定めることが重要である。
 2009年を勝ち抜くことができたのは、まず徹底して護り、我慢強くチャンスを待つという姿勢があったからである。小林監督は、2010年からモンテをより攻撃的にしようと努めているようだが、モンテイレブンは常にパワーとスピードを発揮できるほどの能力をもっているわけではない。アグレッシブな姿勢は評価するが、もう少し“潮目”を視て、ここだという時に攻勢に移るということ、つまりいわゆるギアチェンジの重視を徹底すべきだろう。

 中盤での展開にも感じることがある。モンテのボールコントロールの下手さである。
 テクニックとスピードが相手より明白に劣っているのにその自覚が十分でないから、相手が近くにいるのに味方のパスが通ると思っている。パスは通ったとしても、ボールのコントロール力で劣っているから、近くに相手がいるとすぐさまコンタクトを受けて次に無理なパスを出させられる。
 “自分たちは相手よりヘタだ”という自覚が足りないことを、味方のスローインを相手に奪われる確率と味方のロングパスを相手に奪われる確率の高さが物語っているはずである。
 ようするに、相手がするのと同じようにパスが通る、相手と同じようにボールの保持ができる、と、こう考えてはいけないのである。パスを通すためには、相手がするよりもっと広い隙間を作らなければならない。相手同士なら通るパスでも、味方同士のパスなら、受ける方がもっとスペースに抜け出して広いパスコースを開かなければならない。つまり、相手より激しく動かなければならない。にもかかわらず、相手よりスタミナが劣っている・・・ならば、やはり力を効率よく使うために“潮目”を読む眼が肝要ということになる。

 攻撃面について目立つのは、サイドの切り込みの甘さである。鹿島戦では、ほとんどサイド深くに侵入させてもらえなかったという印象だった。
 田代というFWタレントのいた2010年のみならず、長谷川が活躍して初残留を勝ち取った2009年においても、サイド攻撃が武器だった。サイド攻撃を繰り返すうちにコーナーキックを得て、“得点の匂い”というものがしてくるのだった。2011年は今のところ、このサイドの切り込みができていない。したがって、試合の流れのなかで“得点の匂い”がする時間帯がさっぱり無いのである。
 サイドをもっと深く切り込むことと合わせて、中央攻撃ではMFが自分のレンジに入ったらもっと積極的にミドルシュートを放つべきである。もちろん、最低でも枠内に入るシュートを放たなければならないが、そのシュート1本で決める必要は無い。ヘタなチームはこぼれ玉に押し寄せるという初歩的な戦術を忌避してはならない。
 また、これは今年のモンテでも何回か見られたが、長谷川やジャンボ大久保をバスケットボールのポストプレーヤーのように使ってセンタリングのボールを落とさせ、それに2列目がポイントガードのように走り込んでシュートという攻撃をもっと洗練させ多用してもらいたい。
 また、中盤から前方を走るFWにアシストのパスを出すときは、FWの前方にパスが転がるようにしなくてはいけない。長谷川や大久保のテクニックでは、後ろから鋭角的にきたパスを効果的なシュートにすることは容易ではない。彼らには、その前方にいわゆるマイナスのボールを出してやらなければいけない。いずれにしても、味方の誰かが中盤でボールを持ったら、前線に走りこむMFやDFの数を増やす必要がある。


 さて、いまのところ、言いたいことはこんなところだ。
 一言で言えば、ここまで落ちたら“強くなること”や“上手くなること”をとりあえず諦めて、“勝つこと”を目指してほしい。勝つために強くならなければならないというのは、ちょっと違う。強くなるというのは、いままでできなかったことをできるようになるということだが、この段階ではもうそれはひとまず諦めて、“できることをやる”という方向に切り替える必要がある。
 そのためには、自分たちが“相手に比べて能力の低いチームだ”ということを徹底して自覚することが第一である。

 能力の低いチームが勝つ・・・われわれはその面白さに魅かれて毎度スタジアムに足を運ぶ。なぜなら、どんなに斯界の評価が低くても、勝ったチームが能力のあるチームなのだからである。             (了)






  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 22:36Comments(0)サッカー&モンテディオ山形

2011年06月12日

映画『マイ・バック・ページ』感想



 「フォーラム山形」で、山下敦弘監督作品『マイ・バック・ページ』を観た。その感想を述べる。いわゆる「ネタバレ」の内容を含むので、以下を読む場合はそれを承知のうえで。

 これは、川本三郎による事実に基づく同名の著作を原作とし、脚本家・向井康介がフィクションとして再構成した作品。
 東都新聞社が発行する「週刊東都」編集部記者の主人公・沢田(妻夫木聡)が、「赤邦軍」を名乗る新左翼の活動家・梅山(松山ケンイチ)と接触し、自衛隊駐屯地から武器を奪取するという目的の犯罪に関わって検挙され、新聞社を退社するまでを描いている。
 沢田(川本三郎)は東大卒だが、いわゆる全共闘世代よりは僅かに年長で、東大安田講堂攻防戦を外から眺めていたことに後ろめたさをもっている。
 当時(1971年)は、全共闘運動が排除され、新左翼運動も急速に退潮し、それゆえ一部が先鋭化していく時代。梅山は、このような運動の退潮期に大学生となり、大衆運動ではなく過激な武力闘争を掲げて突っ走る人物として描かれている。
 梅山は、「赤邦軍」の売名(というより、むしろ自身の売名)のため、沢田を利用してマスコミに自分たちの記事を書かせようと接触してくる。
 沢田は、「革命のため武器をもって蜂起する」という沢田の計画に、なにか自分の内部の空虚を埋めるものがあるような気がして、先輩記者・中平(古舘寛治)の「あいつはニセモノだから近づくな」という忠告にも関わらず、その取材を進め、関与を深めていく。

 ここで「東都新聞社」と言われているのは朝日新聞社。「週刊東都」は週刊朝日、「東都ジャーナル」は朝日ジャーナルである。「赤邦軍」は「赤衛軍」、梅山は日大生だった菊井某という実在の人物がモデルである。映画の中に描かれる自衛隊駐屯地での事件は、1971年8月、実施に埼玉県の朝霞駐屯地で起こった「朝霞自衛官殺害事件」である。
 また、劇中ではその理由が明らかにされてはいないが、「朝日ジャーナル」の回収事件とその後の編集部の大規模な入れ替えも実際に起こった出来事だという。(じぶんが「朝日ジャーナル」を読み始めたのは1975年以降なので、この出来事は知らなかった。)


 じぶんは、川本の原作を読んでいないから、原作とこの映画作品の出来栄えを比較して述べることはできないが、この映画作品は、ある程度“あの時代”の雰囲気を再現することに成功している(それは後述するように、あくまで“ある程度”ではあるが)とは言えるような気がする。
 まず、最初のシーンがいい。
 週刊東都の記者である沢田が、潜入取材で、フーテン学生のふりをしてテキヤの子分になって露店でウサギを売っているシーンだ。潜入取材だということは、観客にはまだ明かされないので、映画の概要を頭に入れて観に来た観客をちょっと惑わせる。この冒頭のシーンがとても重要で、これがラストシーンに繋がってくる。この構成、とくに沢田をかばったテキヤの兄ちゃんがヤクザからヤキを入れられるシーンを挿入したのは秀逸である。

 また、甘っちょろいヒューマニストの沢田に妻夫木、虚言癖のある革命家気取りの若者・梅山に松山を配したのは、興行的には正解だったろう。妻夫木も松山も、それなりにいい味を出している。
 しかし欲を言えば、松山には、危険を冒してもう少し不気味さと如何わしさを表現してほしかった。小カリスマとしての梅山は、その愚劣さと如何わしさゆえに同志を巻き込む暗い魅力をもっていたはずだが、松山の演技は抑制されすぎてしまっている。トラン・アン・ユン監督作品『ノルウェイの森』では醒めた雰囲気が奏効していたが、『マイ・バック・ページ』の梅山は、『ノルウェイの森』の主人公・ワタナベの脇を通り過ぎていったあの熱いものたちの中にいる存在なのだ。
 この存在の愚かしさと底無しの暗さと、にも拘らずそれに魅入られてしまう人間の業のようなものが伝わらなければ、なぜこれが青春の慙愧と狂おしい悔悟の物語なのか、その重みが伝わってこないだろう。
 このへんは、やはり脚本の向井と監督の山下がともに、“あの時代”の雰囲気を知らない世代だからということもあるだろう。しかし、彼らが取材を徹底していなかったからだとか、彼らの想像力が通俗の域を出なかったからだといえば、たしかにそうも言えるのである。

 その一方で、京大全共闘議長・前園役の山内圭哉、週刊東都の先輩記者役の古舘寛治、東都ジャーナルデスク役のあがた森魚などが、いかにも昭和らしいいい味を出している。
 また、東都新聞社の編集局のシーンにおける社員たちの会議や会話も、全共闘運動や新左翼運動が決定的な退潮期にあった“あの時代”の退廃的な雰囲気を醸し出していて、なかなかいい感じだった。
 とくに滝田修がモデルの前園役の山内の関西弁による如何わしい思弁と、先輩記者役の古舘の硬派と軟派が同居した佇まいは、“ああ、いかにもこういう奴らがいたなぁ”と思わせるに十分である。


 最後に、愚劣で醜悪な小カリスマとしての梅山たちについて一言。
 いつの時代にも、このような夜郎自大で無責任な勘違い人間は生み出されているだろう。今なら、一種の人格障害とでも診断される存在である。
 だが、“あの時代”には、このような人間を生み出す社会的土壌が存在した。ひとびとは個人として時代に抗いうる<自己権力>を欲したのである。沢田のような人間が惹かれたもの、それはこの<自己権力>が生滅する時空なのだと思える。
 さて、この<自己権力>という観念に、自己中心性と党派的な妄想が入り込み、倫理性の欠如を招いたとき、いつでも梅山のような愚かしい人間が現象する。これは、かつての新左翼にのみ特有な現象ではない。
 ラストシーンの涙が語りかけるのは、ひとり川本三郎の青春後悔物語で終わるような性質の話ではないのである。

 もうひとつ、蛇足。
 沢田と梅山が意気投合する重要なシーンで、梅山が沢田の好きだというC.C.Rの「Have you ever seen the rain ?」を弾き語りする。
 この曲はじぶんも中学生時代に夢中になった想い入れのある曲で、詩集『母を消す日』(2004年、書肆山田)に収めた「晴れた日に降る雨を」という作品で取り上げている。
 “あなたが晴れた日に降る雨を見たことがあるか?・・・そんなこと、ぼくは知りたくない”という歌詞で、その“晴れた日に降る雨”というのは、ベトナム戦争で多用されたナパーム弾のことだと言われている。この映画の中でも、それを指摘する台詞が出てくる。
 高啓の詩「晴れた日に降る雨を」では、「Have you ever seen the rain ?」という曲名からベトナム戦争におけるナパーム弾が連想され、そこからさらに、現に進行しているアフガン戦争で使用された“デイジーカッター”(雛菊刈取り機)という名の超強力爆弾が連想されている。

 楽曲の話をしたついでに、さらに蛇足を加えると、「My Back Page」と聞いたら、じぶんなどは、ボブ・ディランよりキース・ジャレットの演奏を思い浮かべてしまう。そういう、ある意味、ビミょーな世代である。

                                                                                                                                                                 


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:16Comments(0)映画について