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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2008年06月19日

さくらんぼマラソン



 6月8日の日曜日、東根市神町(ここがあの阿部和重の小説『シンセミア』の舞台)で開催された「さくらんぼマラソン大会」に出場した。
 この大会は、陸上自衛隊の神町駐屯地をスタート&ゴールにして、周辺の住宅地や工業団地、そしてさくらんぼ農園を回って戻ってくるコースで行われる。

 地元住民による運営協力や児童・生徒の沿道での応援が盛んで、参加賞にさくらんぼがもらえることもあってか、今年は6,900人近い参加者になったようである。これは東北では最大規模であろうか。(もっとも、出場者名簿を見ると、各地の駐屯地から自衛隊関係者がかなり参加しているが。)
 この大会の最大の強みは、自衛隊の駐屯地であるがゆえに駐車場が3,000台分も確保できることだ。


 昨年もハーフの部に出場して、じぶんとしてはまずまずのタイムでゴールできたのだったが、先にもここに記述したように、この1年は仕事が忙しくなったり肩を痛めたりで、ろくにトレーニングができなかった。とくにこの2ヶ月ほどは腰の調子も良くなく、ジムに通うことも、ロードを走ることもろくすっぽできなかった。

 こんな状態でいきなりハーフに挑戦するのは無謀だと思ったが、あるひとに“ハーフ完走を目指すのではなく、次の大会への練習だと割り切って、10キロなら10キロ走ると決め、そこで止めてもいいんじゃないか?”みたいなことを言われて、最初から欠場よりいいか・・・と出場を決心したのだった。
 しかし、途中まで走って切り上げるなんて器用なことができる人間ではない。
 じぶんのことだからきっと走れなくなるまで走るだろう・・・そう思うと不安になって、じつは、前の晩、よく眠れなかった。

 さて、いざスタートすると、いつもならそのぷりぷりしたお尻を見つめながら若いネエちゃんをペースメーカーにして、心肺に少し負担をかける程度の速度で走るのだが、この度は10キロまではとにかくセーブして行こうと決めて臨み、実際そのように実行した。

 10キロを58分くらいで通過。せめて15キロまでは走ろうと思って折り返す。
 よし、あと5キロだ。この調子だと、なんとかなるかもしれない・・・
 し、しかし、16キロを過ぎたところで突然スタミナが切れ、歩いてしまった。
 

 気温は25度くらいだったろうか、晴天で直射日光はかなり強い。
 16キロを過ぎると、歩道に倒れて住民から介抱されているランナーを見かける。
 救急車も何度か行き来している。
 こちとらは、足の指先がシューズと擦れて痛むし、腰は苦しいし、とにかくスタミナ切れで走る意欲が減退してくる。
 しかし、予想した膝・足首の関節や足の筋肉の痛みは出ない。スピードをセーブしたおかげか。


 コースの最後は、駐屯地に戻って、ゲートからグラウンドまでの長い緩い登りの直線。
 ここで難渋する。

 やっと駐屯地の検問所だぁ〜やっとゴール地点のグラウンドに到着したぁ〜!・・・そう思ったが、ここで、そのグラウンドの周辺道路(一周1キロ)を一回りしなければならない。
 その一周で、何度も歩き、何度も走り始めるが、なおまた歩いてしまう。
 気づくと150分の制限時間が近づいている。
 焦る、焦る・・・ああ、制限時間割れはなんて屈辱的なんだ・・・あぁぁ・・・。


 最後の気力を振り絞って、なんとか制限時間内にゴール。
 ゴール後には、芝生に敷いておいた自分のシートまで辿り着くとダウンして、スポーツドリンクを飲み飲み、1時間あまりも寝たり起きたり・・・まともに歩けない状態だった・・・。
 2時間以上運動していると血中の糖分が枯渇して、脂肪を燃やさなければならなくなる。
 これがトレーニングでちゃんとできるようになっていないと、ヘロヘロになって、走る意志力が萎える。
 素人には、このエネルギー切れが一番の敵。
 痛い、苦しいなら我慢もできるが、スタミナ切れは、その我慢して目標を達成しようとする意志力を奪う。


 そういえば、これまでは足が痛くなって苦労したことが多かった。
 このヘタり具合はいままでとは違う。
 ううっ、これが歳というものか・・・
 いやいや、その一方で、しかし、1年ぶりのハーフ完走。
 スタミナが切れると、どんなふうになるかも経験した。


 ま、いいか。  ・・・さらば、50歳!
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:31Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2008年06月18日

ブナの森を歩く 2

 6月の初め、月山山麓の山形県立自然博物園を訪れ、インタープリターに案内されてネイチャートレイルのコースを歩いた。
 昨年の5月にもここを訪れているが、そのときはまだ2メートル以上の残雪があった。
 思えば、5月の初めにはこの6月に地面を歩いているじぶんの頭よりも高い位置、つまりは空中を歩いていたことになる。
 この自然博物園のネイチャートレイルのコースにはいくつか種類があるが、今回じぶんが参加したのはもっともポピュラーなもので、一般参加者対象で毎日9:30と13:30の2回出発、各120分程度のブナの森の散策のコースである。(但し月曜日は休み。)







 残雪に埋まった枝先を立ち上げようと突っ張っている低木たちを掻き分けてコースに入ると、すぐに案内人が地面からくるりとまかれた葉っぱを拾って見せてくれた。
 オトシブミが葉っぱを丸めて、その中に産卵したものだ。丸まった形が“落し文”に似ているのでこの名が付いたという。かれらはこれを1個90分程度で造るのだそうだ。
 くるくると巻いた葉の端を、さらに折り曲げてまとめてあるのがなんとも丁寧な仕事だ。感心する。







 ミズナラを見上げながら、タムシバやオオカメノキの白い花、それに鮮やかな濃いピンクのムラサキヤシオツツジ、そしてまだ開ききらないハウチワカエデの花を楽しみながら登っていく。
 すると小さな清流が通った「元玄海」と呼ばれる広場にでる。
 ここにはいくつか石碑がある。昔は祈祷所だったという。
ここに至る少し手前の分かれ道を登っていくとやがて「装束場」を経て、湯殿山の御神体に至る。この山麓は修験の場でもあったのだ。








 月山の湧水で喉を潤し、サワグルミの大木を見上げる。サワグルミは湿地が好きだという。
 ここを過ぎると、ブナの二次林がおわり、やがて原生林に入っていく。
 水溜りで卵のうを見つけた。これはクロサンショウウオのもの。この辺には他にトウホクサンショウウオも棲息している。
 モリアオガエルが産卵にきて、その卵はイモリに食べられてしまったりもするそうだ。








 この博物園のシンボルツリーだというトチの大木を見上げる。
 “大橡のおばあちゃん”と呼ばれている。
 トチというとすぐ橡餅を連想してしまう。1個いただく分には美味しいが、調子にのって2個目を食べると、気持ちが悪くなる・・・  じぶんの場合は、饅頭でもそうなのだが。(苦笑)









 僅かに雪が残ったブナの原生林は静謐だった。
 林の向こうで、アカゲラが縄張りを誇示してドラミングを始めた。
 新緑の梢から差し込む柔らかな光・・・じぶんが煩悩と業の塊であることを、いっときは、忘れた。

 もっと長い間、ここでぼーっとして、救われた気でいたかった。                                                                                                                                                                       
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:30Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2008年06月01日

バウハウス・デッサウ展



 東京藝術大学大学美術館で開催されている「バウハウス・デッサウ展」(BAUHAUS experience,dessau)を観た。

 バウハウスは1919年にドイツのヴァイマールに誕生した国立の造形芸術学校。
 初代校長のヴァルター・グロピウスは、設立宣言で、「あらゆる造形活動の最終目標は建築である」とし、身の回りの日用品から建築に至るまで、芸術と技術を統一して造形活動を行うことを目標とした。
 バウハウスは、ヴァイマールからデッサウ(旧東ドイツ)、そしてベルリンへと拠点を移しながら活動し、ナチスの台頭とともに閉校を余儀なくされたという。
 この展覧会は、バウハウスの創設者であるグロピウスの理想が具体化されたデッサウ期に焦点を当てて紹介している。

 ヨーゼフ・アルバース、ラスロ・モホイ=ナジ、ヴァシリー・カンディンスキー、ヨーゼフ・アルバース、ヨースト・シュミット、パウル・クレー、オスカー・シュレンマーなどの教授陣(「形態マイスター」と呼ばれた)が担当した「基礎教育」における学生の演習作品(われわれの受けた中学や高校での美術教育にかなり近いものもある)や、日用品や家具などの工房製品、絵画、写真作品、舞台工房の上演作品資料など、多方面に亘る豊かな活動が紹介され、さらに、「バウハウス校舎」、「マイスターハウス」(教授用の2世帯向け住宅)、「テルテン・ジードルンク」(テルテンに建てられた勤労者向け集合住宅)などの建築関係資料も展示されている。

 この展覧会を観るまで、バウハウスに関する私の知識はごく限られたもので、モダンなデザインを生み出した家具や建築の造形美術学校という程度のものだったが、その多様な表現、とくに校舎に舞台があって、そこでシュールな舞台芸術まで志向していた姿に惹きつけられた。


 主な感想を述べれば、次のふたつ。

 まず、デッサウ期のバウハウスが、芸術と技術を統一する思想のもとに、機能的で、工業化すなわち量産化される製品の創造を目指したところの、一種の合理主義・近代主義に対して、なぜか閉塞感を感じたことだ。

 たとえば、家具と建築。
 これは、いわば近代芸術とドイツの伝統的なマイスター制に支えられた技術との統一であり、また、そのデザインは、量産されるモノのプロダクト・デザインのルーツとして、今日私たちがショップでよく目にする製品のそれへと一直線に繋がっているものだ。
 建築についても、それは統一したデザインのもとに規格化され、工場で量産される部品によって構成されるところの、今で言うプレハブ住宅に繋がる思想を内包している。
 このような芸術と技術の統合と、そしておそらくは量産製品による芸術の日常化=大衆化を目指す運動が、当時、如何に先進的で新鮮だったかは創造できるような気もするが、うまく言えないけれど、ここには当初から、なにか、自由を求めていたはずの西欧近代合理主義が、逆説的に不自由を帰結していくひとつの根本的性向が胚胎されていたような印象を受けてしまうのだ。
 日本人としての自分の感覚に照らしていえば、芸術作品としてのプロダクト・デザインが日用品の世界に入ってくるのは歓迎できても、それが<建築>にまで統一されてしまうとき、そこには皮膚感覚として、とでもいうような、逼塞や異和を感じてしまうのである。


 感想のふたつめは、バウハウスの活動では、おそらく傍流に位置する絵画や写真作品や舞台作品に関するものだ。

 絵画は、カンディンスキーとクレーによる「自由絵画教室」における教授及び学生たちの作品であり、写真と舞台は、おそらく教授(写真はラスロ・モホイ=ナジ)と学生のまったく自主的な創作行為(今で言うサークル活動のようなものか)としての作品のように思われた。
 これらの作品の性向は、いわばプロダクト・デザインの性向がその初発の段階から孕んでいた閉塞(の予感)への反撥のようにして表れているかにみえ、あるいはまたそれらふたつの性向はバウハウスの表現思想として相互補完的なものにも見えるのだった。

 なかでも、興味深かったのは、オスカー・シュレンマーの「トリアディック・バレエ」の上演フィルムであった。この作品は1922年にデュッセルドルフで初演されたものだということだが、その資料に基づいてテアター・デア・クランゲという劇団(?)がテレビ番組のために再構成した1969−70年の作品である。
 このバレエの登場人物(の「着ぐるみ」というか「張りぼて」というか、つまりは意匠)と動きがじつにシュールである。
 ロボットのようであり、宇宙人のようであり、未来的な人形のようであり、ナントカ戦隊ゴレンジャーに出てくる敵役のスーツのようであり・・・。
 また、積み木のロボットみたいな構成体が、平面的すなわち二次元的に踊るクルト・シュミット、ゲオルグ・テルチャー「メカニカル・バレエ」(1923年初演。テアター・デア・クランゲによる1988年の再構成舞台)も、なかなか斬新だった。
 今日では、NHKの子供向け番組で見かけそうな映像であるが、その構成体を身につけている黒子の踊り手が、ダンス的身体をちゃんと造っているのがその演技から伝わってくるので、大人が観るに値する動きになっている。
(ちなみに、再構成された「トリアディック・バレエ」の着ぐるみのデザインがあまりに今日的で、展覧会に展示してあるモノクロの当時の写真に写っている着ぐるみとだいぶ印象が乖離しているので、これは再構成した者が現代的な感性に基づく創造を加えて作ったのだろうと思ったが、帰りがけに書籍販売のコーナーで覗いたバウハウスに関する書籍に、たしかにそのように斬新な造形が、当時のデッサンとして残されていたことが記載されているのだった。)


 さて、最後に余談をひとつ。
 帰りがけに、同大学の「陳列館」というミもフタもない名前の展示館で開催されていた「スロベニアの建築家ヨージェ・プレチニク(1872〜1957) ウィーン、プラハ、リュブリャーナにおける創造の軌跡」という展示を覗いた。
 同大美術学部とスロヴェニア共和国大使館の共催となっている。
 同国政府が肝煎りで開催している様子が、プレチニクの業績を伝える上映フィルムから伝わってくる。











 チラシに、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子がプレチニクの建てた教会を「馬舎、ヴィーナス神殿、トルコ風呂の混合物」と酷評したとあるが、まさにいろんな要素がてんこ盛りで不統一な建築作品の写真が並んでいる。

 プレチニクは、ウィーン美術アカデミーでオットー・ワーグナーに師事している。
 このプレチニク展を観ると、こういう西欧の建築や都市計画の風潮の中で、バウハウスがいかに自由で先進的だったかが沁みてきて、“不自由を帰結していくひとつの根本的性向”への臭覚など、どこかへ雲散霧消してしまいそうになる。


 同大が意図的に仕組んだわけではないだろうが、このワナに注意すべきかもしれない。(笑)



※ バウハウス展は7月21日まで。プレチニク展は6月22日まで。                                                                                                                                                                                                    


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:41Comments(0)美術展