2015年02月24日
東北芸術工科大学卒業制作展2015 感想その1
2015年2月、毎年愉しみにしている東北芸術工科大学卒業・修了展(2月10日~15日)を観に出かけた。今年は思うように時間が取れず、1日だけの訪問で終わってしまったが、その感想を記す。
なお、美術科の選抜作品は東京都美術館で展示される。(2月23日~27日)
今年は、日本画コースの作品を皮切りに、洋画、版画、彫刻、テキスタイル、工芸、総合芸術を観たあと、プロダクトデザインと建築・環境デザインを覗き、最後にほんの少し映像を観た。
さて、早速日本画の作品から感想を述べていきたい。
まず、大学院の修了生の作品から。

多田さやか「SHAMBHALA」
2,280×10,800㎜の大作である。
“シャンバラ”とは、チベットの伝説上の仏教王国の名前。仏教的世界観からこの世の諸事象を包摂的に描いているようでいて、それをどこかで冷たく突き放している。無常世界全体を抱擁するかのような大きな構えと個別事象に関するシニカルな批評との一見相矛盾する緊張関係が、この作品に魅力を与えている。
多田さやかの作品については以前に学部卒業時の作品を取り上げたが、そのときの作品に比べると、曼荼羅的な構図を脱皮し、描写力も向上させている一方で、作図の巧みさが表面に出ている分だけ衝撃力が弱まっているという印象を受けた。
次に学部卒業生の作品。

久保文香「選んできたもの」
少女マンガ的な女の像の胸の辺りに箱が埋まっていて、その中にキャラクター化されたニワトリ(またはニワトリのゆるキャラの着ぐるみを着た小人?)がいるのだが、そいつがマジンガーZを操縦しているみたいに操縦桿を握っている。操縦室を覗くと、中の壁に「愛」と書かれたプレートが貼ってある。
絵画にオブジェが埋まっているという感じだが、そこには女(=自分?)が誰かに操縦されているという認識があり、またその操縦者(=支配者?)も曖昧な存在として感知されている。
よく見かけそうなニワトリの着ぐるみが、この作品をたんに風俗的な衒いを狙ったものと看做させるかもしれない。しかし、作者がその病的な感覚を、少女マンガ趣味とゆるキャラと「愛」との、いわゆる“カワイイ”によって定着し、かつは高度に目眩まししているのだと捉えることもできる。

大野菜々子「永遠の、夢のような幸福」
2,100×3,300㎜の作品。
山の稜線の向こうに異形の者たちが描かれている。作者は秋田県出身だというが、ナマハゲにトラウマを与えられているかのようだ。しかし、それが“永遠の、夢のような幸福”となって感じられるのはどうしたことか。
それは、異境は山の向こうにあるものなのか、それとも山のこちら側にある、既に滅びつつある伝習のなかにあるものなのか。・・・全国でもっとも人口減少が深刻で、まさに“消滅しかかっている”秋田県に、衰退の追憶の美学を視る想いだ。

清水悠生「紅壁」
急峻な岩山に配置された山寺・立石寺を、紅葉の燃える季節に、対面する観光施設「山寺風雅の国」の辺りから見上げた構図である。しかし、その風景を実際に視たことのある人間なら(いや、よく考えれば視たことのない人間でも)、この絵画が写実であるようで写実ではないことに気づくだろう。
なぜなら、紅葉の山はこんな風に紅色だけで彩られる訳がないからだ。するとこの作品の魅力は、写実的な振りをして、“紅色の壁”としての心象風景からきているように思われてくる。
さて、今年の日本画コースの作品は、例年に比べてちょっと物足りなかった。
その分、今年は、これまで日本画コースに比べて見劣りしてきた洋画コースに、相対的に魅力的な作品が多かったように感じた。
その洋画コース、院生の修了作品から。

浅野友里子「トチを食べる」
「火のあるところ」と題されたシリーズ作品(食物を煮炊きする場面の手の動きの構成による作品群)から、「トチを食べる」の写真を上げた。
食へのこだわりが、たくさんの木の実と器と黒い手のうごめきとして描かれている。これら多くの黒い手は伝承とその担い手を表現しているのだろうか。
じぶんの記憶から言えば、橡の実は癖(アク)があって、腹の足しになるほどの量を食べる(実際に食べたのはトチ餅)と気持ちが悪くなった。煮炊きとは、つまりはこのアクの強さとの闘いなのだ。この作品は、その闘いのイメージを伝えてくる。


佐藤彩絵「主観A」および「幻想なのでは?」
「空気を認識するための絵画制作」と題されたシリーズ作品の中から、作品「主観A」と作品「幻想なのでは?」の写真をここに上げた。
「主観A」は群衆が月に向かって動いていく姿を描き、「幻想なのでは?」は途切れ途切れのデジタル画像で映し出されたかのような人間たちの姿を描いている。
デジタル時代(というよりデジタル画像によるイメージの時代)の曖昧で模糊とした環境認知や関係意識、そして集団に流されていく現在への異和感が、素朴な表現で定着されている。

大森莉加「天」
キャンバスに、タテに紐状の様々な色のシリコンを貼り付けて製作された作品。
紐状のシリコンが、チューブから絞り出された絵の具のようにも視える。
「いけにえとなった羊が天に召され、新たに誕生、生まれ変わるイメージ」だとキャプションがある。
美術表現の技法と表現したいテーマがずれているような、合致しているような、奇妙な感覚を覚える。「羊」はやや漫画チックだが、その形象が記憶に残る。色とりどりの紐状のシリコンの質感も印象に残る。

鉾建真貴子「いのちのカラフル」
新聞紙を張り合わせた幕状の地に、アクリル、オイルパステル、クレヨンなどを用いて描かれている。
作者は、「カラフルと死を同義に」捉えていたが、徐々に(自分の観念が)死から離れ始めたといい、それは生きる喜びを少しだけ見つけたからだ・・・とキャプションを付けている。
生きる喜びを少しだけ見つけることができたのは、なぜだろうか。この山形の地で、この大学に学んだことがそれに少しでも寄与しているとしたら、なんとなく嬉しく思う。

飯山蓮「MANABU」
男の体と触れ合い、その美しさを感じていた瞬間を留め、定着することで永遠のものにしたいという欲求から描かれた作品。・・・「一瞬を今に留めたい」、「常に自分から見えている瞬間を感じながら作品を描いた」とキャプションにある。
身体の物質性も性愛の情緒性も、その一瞬をけっして留めることはできない。その一瞬が美しければ美しいほど、切実であれば切実であるほど、である。
老婆心ながら中高年に至った人生の先輩として一言・・・若い頃は加齢が恐ろしいものだし、加齢によって美しさが失われていくことが忌まわしく思われるのでもあるが、実際加齢してみると加齢者には加齢したからこその美しさとかけがえのなさが来迎する。お互いが時空を等速で飛行していれば、お互いの相対的な関係は維持されていくということもある。
安心していいよ、蓮さん。あ、ただし、性愛の心とその対象は移ろうかもしれないけどね。

小野木亜美「Babble」
1,940×3,760mmの大画面に、手漉き和紙、雲竜紙、阿波和紙、アクリル、カラーインクをうまく組み合わせて金魚とアブクを描き、単純な構成のなかでも弛緩した場所のない作品を創り上げている。金魚の、あの気持ち悪い肌と腹の感触を、バブルで隠しつつなおも肉感的に伝えてくる。

黒田萌惠「妖美そして余韻」
ボッティチェリ「ビーナスの誕生」へのオマージュだという。
「ビーナスの誕生」では、右側に女がいて中央の裸体のビーナスにピンクの布をかけようとしているが、この作品ではバレリーナがピンクのリボンを指し出している。
印象的なのはこの右側のバレリーナの顔面である。涙を流しているような、あるいは顔面の絵の具が流れ落ちたような、汚れた顔をしている。
いわゆる“ヘタウマ”?という感じの作品だが、踊り子たちの肉感的な描写や細部の彩色はなかなかに味わい深い。

柏倉風馬「全てを内包し、波及する」
「3.11」の記憶に拠って、人間と波との関係性を描いた作品。
細密な表現で“波”のいくつかの表情を定着し、つまりはその波に向き合う人間の心理を描こうとしているように見える。
左側にやや紅味を帯びた瘤のように描かれているのは、子を抱いた母親だろうか。
この作品がいい意味で印象に引っ掛かるのは、襲い来る波の描かれ方が多様だからである。恐怖の対象であり理不尽な存在である津波はともすればひとつの想念で描かれかねないが、ここではその多様な表情が細かく観察され、あたかもそれが有機体であるあのように分析的に描かれている。

山之内ほのか「かわいいおともだち」
自分との対話を繰り返している少女の不気味さが描かれている。
大小の可愛らしい(?)少女の大小の顔を重ねて描く手法と、腕の部分に用いられているような人の肉体の輪郭を顔の突起で構成する手法が、この不気味さを効果的に表現している。
この種の悪意ある絵画にこそ手法の完成度が求められるが、この作品は、アクリルと油彩がよく調和し、作画や彩色の緻密さと相俟って一定の達成を感じさせる。

吉田満智子「無意識の幾何学」
薄青い背中が印象的である。
“ただ循環するだけのように生きていく女たち”を描いていくうち、作者のなかのなにかが変化していったという。
“ただ循環するだけのように生きていく女たち”というものが存在するという感受が、よく考えると特異的なものに思われてくる。
日々を大衆(または庶民)として生き、死んでいく市井の者たちを普遍的な価値として語った吉本隆明の「大衆の原像」から遠く離れた感受性が、ひとまずここにある。
作者のなかで変化していく“なにか”が、吉本的な原像にオーバーラップすることがあるのだろうか。それがあるような気がするのは、じぶんの願望なのだろうか。

工藤さや「溢レル」
2,273×3,636mmの画面に、臓器のイメージがびっしりと埋め込まれている。腸管のようなものの盛り上り具合の描写や縫われた痕や血の滲みの表現が巧みで、生々しい器官たちの感触をうまく定着させている。
大きな才能を感じさせる作品だが、じぶんは映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に出てくるタコ顔の亡霊海賊の首領を連想してしまった。ここにこの種の有機体的な形象を描く難しさがあるが、今後も果敢に挑戦してほしいと思う。

中村ゆり「束の間の慰め」
古い家具のパーツを寄せ集めた木製の戸棚のような構造物の中央部には窪みがあって、そこに鳥籠のようなものが傾いた状態で収められている。このオブジェが置かれたスペースの入り口には黒色の網のカーテンが下ろされていて、その網目からこのオブジェを眺めるという格好になる。
ひどく懐かしい感覚と、けれどもそこには決して戻りたくないような感覚が相俟って、鑑賞者が自らこの作品に陰影を与える。そういう仕掛けがしてあると言ってもいい。網でこの構造物に近寄れないというのが絶妙なところである。
・・・次回へ続く。
なお、美術科の選抜作品は東京都美術館で展示される。(2月23日~27日)
今年は、日本画コースの作品を皮切りに、洋画、版画、彫刻、テキスタイル、工芸、総合芸術を観たあと、プロダクトデザインと建築・環境デザインを覗き、最後にほんの少し映像を観た。
さて、早速日本画の作品から感想を述べていきたい。
まず、大学院の修了生の作品から。

多田さやか「SHAMBHALA」
2,280×10,800㎜の大作である。
“シャンバラ”とは、チベットの伝説上の仏教王国の名前。仏教的世界観からこの世の諸事象を包摂的に描いているようでいて、それをどこかで冷たく突き放している。無常世界全体を抱擁するかのような大きな構えと個別事象に関するシニカルな批評との一見相矛盾する緊張関係が、この作品に魅力を与えている。
多田さやかの作品については以前に学部卒業時の作品を取り上げたが、そのときの作品に比べると、曼荼羅的な構図を脱皮し、描写力も向上させている一方で、作図の巧みさが表面に出ている分だけ衝撃力が弱まっているという印象を受けた。
次に学部卒業生の作品。

久保文香「選んできたもの」
少女マンガ的な女の像の胸の辺りに箱が埋まっていて、その中にキャラクター化されたニワトリ(またはニワトリのゆるキャラの着ぐるみを着た小人?)がいるのだが、そいつがマジンガーZを操縦しているみたいに操縦桿を握っている。操縦室を覗くと、中の壁に「愛」と書かれたプレートが貼ってある。
絵画にオブジェが埋まっているという感じだが、そこには女(=自分?)が誰かに操縦されているという認識があり、またその操縦者(=支配者?)も曖昧な存在として感知されている。
よく見かけそうなニワトリの着ぐるみが、この作品をたんに風俗的な衒いを狙ったものと看做させるかもしれない。しかし、作者がその病的な感覚を、少女マンガ趣味とゆるキャラと「愛」との、いわゆる“カワイイ”によって定着し、かつは高度に目眩まししているのだと捉えることもできる。

大野菜々子「永遠の、夢のような幸福」
2,100×3,300㎜の作品。
山の稜線の向こうに異形の者たちが描かれている。作者は秋田県出身だというが、ナマハゲにトラウマを与えられているかのようだ。しかし、それが“永遠の、夢のような幸福”となって感じられるのはどうしたことか。
それは、異境は山の向こうにあるものなのか、それとも山のこちら側にある、既に滅びつつある伝習のなかにあるものなのか。・・・全国でもっとも人口減少が深刻で、まさに“消滅しかかっている”秋田県に、衰退の追憶の美学を視る想いだ。

清水悠生「紅壁」
急峻な岩山に配置された山寺・立石寺を、紅葉の燃える季節に、対面する観光施設「山寺風雅の国」の辺りから見上げた構図である。しかし、その風景を実際に視たことのある人間なら(いや、よく考えれば視たことのない人間でも)、この絵画が写実であるようで写実ではないことに気づくだろう。
なぜなら、紅葉の山はこんな風に紅色だけで彩られる訳がないからだ。するとこの作品の魅力は、写実的な振りをして、“紅色の壁”としての心象風景からきているように思われてくる。
さて、今年の日本画コースの作品は、例年に比べてちょっと物足りなかった。
その分、今年は、これまで日本画コースに比べて見劣りしてきた洋画コースに、相対的に魅力的な作品が多かったように感じた。
その洋画コース、院生の修了作品から。

浅野友里子「トチを食べる」
「火のあるところ」と題されたシリーズ作品(食物を煮炊きする場面の手の動きの構成による作品群)から、「トチを食べる」の写真を上げた。
食へのこだわりが、たくさんの木の実と器と黒い手のうごめきとして描かれている。これら多くの黒い手は伝承とその担い手を表現しているのだろうか。
じぶんの記憶から言えば、橡の実は癖(アク)があって、腹の足しになるほどの量を食べる(実際に食べたのはトチ餅)と気持ちが悪くなった。煮炊きとは、つまりはこのアクの強さとの闘いなのだ。この作品は、その闘いのイメージを伝えてくる。


佐藤彩絵「主観A」および「幻想なのでは?」
「空気を認識するための絵画制作」と題されたシリーズ作品の中から、作品「主観A」と作品「幻想なのでは?」の写真をここに上げた。
「主観A」は群衆が月に向かって動いていく姿を描き、「幻想なのでは?」は途切れ途切れのデジタル画像で映し出されたかのような人間たちの姿を描いている。
デジタル時代(というよりデジタル画像によるイメージの時代)の曖昧で模糊とした環境認知や関係意識、そして集団に流されていく現在への異和感が、素朴な表現で定着されている。

大森莉加「天」
キャンバスに、タテに紐状の様々な色のシリコンを貼り付けて製作された作品。
紐状のシリコンが、チューブから絞り出された絵の具のようにも視える。
「いけにえとなった羊が天に召され、新たに誕生、生まれ変わるイメージ」だとキャプションがある。
美術表現の技法と表現したいテーマがずれているような、合致しているような、奇妙な感覚を覚える。「羊」はやや漫画チックだが、その形象が記憶に残る。色とりどりの紐状のシリコンの質感も印象に残る。

鉾建真貴子「いのちのカラフル」
新聞紙を張り合わせた幕状の地に、アクリル、オイルパステル、クレヨンなどを用いて描かれている。
作者は、「カラフルと死を同義に」捉えていたが、徐々に(自分の観念が)死から離れ始めたといい、それは生きる喜びを少しだけ見つけたからだ・・・とキャプションを付けている。
生きる喜びを少しだけ見つけることができたのは、なぜだろうか。この山形の地で、この大学に学んだことがそれに少しでも寄与しているとしたら、なんとなく嬉しく思う。

飯山蓮「MANABU」
男の体と触れ合い、その美しさを感じていた瞬間を留め、定着することで永遠のものにしたいという欲求から描かれた作品。・・・「一瞬を今に留めたい」、「常に自分から見えている瞬間を感じながら作品を描いた」とキャプションにある。
身体の物質性も性愛の情緒性も、その一瞬をけっして留めることはできない。その一瞬が美しければ美しいほど、切実であれば切実であるほど、である。
老婆心ながら中高年に至った人生の先輩として一言・・・若い頃は加齢が恐ろしいものだし、加齢によって美しさが失われていくことが忌まわしく思われるのでもあるが、実際加齢してみると加齢者には加齢したからこその美しさとかけがえのなさが来迎する。お互いが時空を等速で飛行していれば、お互いの相対的な関係は維持されていくということもある。
安心していいよ、蓮さん。あ、ただし、性愛の心とその対象は移ろうかもしれないけどね。

小野木亜美「Babble」
1,940×3,760mmの大画面に、手漉き和紙、雲竜紙、阿波和紙、アクリル、カラーインクをうまく組み合わせて金魚とアブクを描き、単純な構成のなかでも弛緩した場所のない作品を創り上げている。金魚の、あの気持ち悪い肌と腹の感触を、バブルで隠しつつなおも肉感的に伝えてくる。

黒田萌惠「妖美そして余韻」
ボッティチェリ「ビーナスの誕生」へのオマージュだという。
「ビーナスの誕生」では、右側に女がいて中央の裸体のビーナスにピンクの布をかけようとしているが、この作品ではバレリーナがピンクのリボンを指し出している。
印象的なのはこの右側のバレリーナの顔面である。涙を流しているような、あるいは顔面の絵の具が流れ落ちたような、汚れた顔をしている。
いわゆる“ヘタウマ”?という感じの作品だが、踊り子たちの肉感的な描写や細部の彩色はなかなかに味わい深い。

柏倉風馬「全てを内包し、波及する」
「3.11」の記憶に拠って、人間と波との関係性を描いた作品。
細密な表現で“波”のいくつかの表情を定着し、つまりはその波に向き合う人間の心理を描こうとしているように見える。
左側にやや紅味を帯びた瘤のように描かれているのは、子を抱いた母親だろうか。
この作品がいい意味で印象に引っ掛かるのは、襲い来る波の描かれ方が多様だからである。恐怖の対象であり理不尽な存在である津波はともすればひとつの想念で描かれかねないが、ここではその多様な表情が細かく観察され、あたかもそれが有機体であるあのように分析的に描かれている。

山之内ほのか「かわいいおともだち」
自分との対話を繰り返している少女の不気味さが描かれている。
大小の可愛らしい(?)少女の大小の顔を重ねて描く手法と、腕の部分に用いられているような人の肉体の輪郭を顔の突起で構成する手法が、この不気味さを効果的に表現している。
この種の悪意ある絵画にこそ手法の完成度が求められるが、この作品は、アクリルと油彩がよく調和し、作画や彩色の緻密さと相俟って一定の達成を感じさせる。

吉田満智子「無意識の幾何学」
薄青い背中が印象的である。
“ただ循環するだけのように生きていく女たち”を描いていくうち、作者のなかのなにかが変化していったという。
“ただ循環するだけのように生きていく女たち”というものが存在するという感受が、よく考えると特異的なものに思われてくる。
日々を大衆(または庶民)として生き、死んでいく市井の者たちを普遍的な価値として語った吉本隆明の「大衆の原像」から遠く離れた感受性が、ひとまずここにある。
作者のなかで変化していく“なにか”が、吉本的な原像にオーバーラップすることがあるのだろうか。それがあるような気がするのは、じぶんの願望なのだろうか。

工藤さや「溢レル」
2,273×3,636mmの画面に、臓器のイメージがびっしりと埋め込まれている。腸管のようなものの盛り上り具合の描写や縫われた痕や血の滲みの表現が巧みで、生々しい器官たちの感触をうまく定着させている。
大きな才能を感じさせる作品だが、じぶんは映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に出てくるタコ顔の亡霊海賊の首領を連想してしまった。ここにこの種の有機体的な形象を描く難しさがあるが、今後も果敢に挑戦してほしいと思う。

中村ゆり「束の間の慰め」
古い家具のパーツを寄せ集めた木製の戸棚のような構造物の中央部には窪みがあって、そこに鳥籠のようなものが傾いた状態で収められている。このオブジェが置かれたスペースの入り口には黒色の網のカーテンが下ろされていて、その網目からこのオブジェを眺めるという格好になる。
ひどく懐かしい感覚と、けれどもそこには決して戻りたくないような感覚が相俟って、鑑賞者が自らこの作品に陰影を与える。そういう仕掛けがしてあると言ってもいい。網でこの構造物に近寄れないというのが絶妙なところである。
・・・次回へ続く。
2015年02月06日
和合亮一 福島を語る「詩の礫」朗読会

和合亮一 福島を語る「詩の礫」朗読会in 寒河江
去る2015年1月31日(土)、寒河江市立図書館において、「和合亮一福島を語る『詩の礫』朗読会」が開催された。
東日本大震災と福島原発事故を題材に、詩と詩以外の多くの言葉を発している和合亮一という詩人の肉声に触れてみたいと思い、山形からJR左沢線で出かけた。山形に暮らしてだいぶ長くなるが、左沢線に乗るのはこれが初めてだったかもしれない。中高年を中心に80人ほどの聴衆がいた。
和合氏の話の過半は、以下のような山形との関わりについてだった。
震災のとき、同氏は奥さんと息子さんの3人で福島市内の県教職員アパートに住んでいた。
2011年3月14日の福島原発3号機爆発による放射線量の上昇を受け、16日に奥さんが息子さんを連れて避難することを決断。山形県中山町(寒河江市に隣接)にある実家を目指して、「自家用車の日産マーチにはガソリンが1目盛り分しかなかったが、妻はそれで栗子峠を越えて山形に避難した」という。
和合氏自身は、同アパートからほど近い自身の実家(造り酒屋)に住むご両親が、父上が足が不自由なため避難しないという判断を下したことから、ご両親に付き添う形で福島市に留まる。
同アパートには警察職員の居住棟と教員の居住棟があったが、教員棟の住人は和合氏を除いて全員が避難し、同氏は空き家同然と化したアパートで孤独と恐怖に向き合うことになる。
そして、妻子が無事に山形の実家に着いたという連絡を受けてから書きはじめた(ツイッターに投稿しはじめた)のが「詩の礫」だという。
同氏は次のような内容を語った。そして、「詩の礫」その他の作品を朗読した。
「息子の置き手紙には『父さん、また会えるよね?』とあった。・・・こうして誰もいなくなったアパートにいると『孤独』というものには『本質』があると思われた。3月16日の夕方、あまりにも辛く、孤独で、何かを書くしかないという気持ちになった。ツイッターで言葉を発していったが、最初は自分のことを心配してくれている人に自分の安否を知らせるために書いたものだ。・・・しかし、震災から6日目には、泣きながらそれ(「詩の礫」にまとめられた言葉)を書いていた。」
「3か月の間、毎日書いた。この間、余震が1,000回もあった。地震がまるで人格をもっているように感じられた。」
また、和合氏自身の祖母は、山形市小立の出身であるという。
妻の実家や祖母の生家があるということで、「もっと大きな事故が起こったら、山形に避難しようと思っていた。・・・いざとなればぼくには山形があるという想いに支えられていた」、「福島からの多くの避難者を受け入れてくれた、そして今も受け入れている山形に感謝している」とも語った。
さらに、テレビ番組の企画で、三陸の被災現場に立ち、中継で繋がれた東京のオーケストラに合わせて詩を朗読した際の経験も話した。
「津波にさらわれて海に運ばれ、救助の手を差し伸べる人に『立派な故郷を創ってくれ』と言い残して海に沈んでいった人のことを聞いた。その想いを子どもたちに伝えることで革命がおきると思う。そうでなければ水平線の向こうに消えていった人たちの想いが報われない。」
和合氏は話の途中で涙を流した。その話と朗読を聴いて抱いたのは、“ああ、この人は如何にも素直でマトモなひとなんだなぁ”という感想である。・・・そして、改めて、こういう普通の人の言葉こそが他者に感動を与えるのだ、とも思った。
・・・それに比べて、このじぶんはじつにひねくれている・・・これはそもそもの人柄によるところでもあるが、あの震災と原子力災害をどのように経験したかによる面もあるのだと思う。
じぶんが経験したのは、次のようなことである。
3月11日の午後2時ころ、じぶんは山形市西部の産業団地にいた。激しい揺れを感じたのは、その団地内の建物で開かれていた介護関係の講習会の主催者代表として挨拶し、県庁に帰ろうとしていたときだった。
この場所は山形市の西部を流れる須川(齋藤茂吉の句集「赤光」に詠われた川である)の近くに位置し、過去の氾濫による土砂の堆積地であるためか、いつも地震の揺れが比較的大きく体感される地区である。
揺れは激しく、しかも長く続き、駐車場の路面が波打っていた。地割れが起きてそれに呑み込まれるのではないかという恐怖に襲われた。
停電で夕闇せまる県庁舎に帰ると、それからは災害対策本部の一員として位置付けられて、非常事態に対応する日々が始まった。
当時、じぶんは長寿社会課という職場で、山形県の介護保険制度運用の実務の元締めみたいな役を務める課長補佐のポストにあったが、おかげでそこからの2週間ほどは電話の前で針のムシロに座らされているような想いで過ごすことになった。
というのも、介護関係の施設や事業者から、物資が途絶えて人命が危機に晒されている、なんとか助けてほしい、という悲痛な声の電話を受けながらも、それにほとんど応えることができなかったからである。
山形県は内陸部のかなりの地域がすでに仙台の物流圏に組み込まれており、石油製品をはじめ多くの物資が仙台及びその周辺の流通拠点を経由または当該拠点の差配によって供給されているのだった。
宮城県内の物流拠点がことごとく機能を停止したため山形への物流は途絶えたが、山形県は被災県ではなく被災県を支援する側だったため、被災県に全国からの支援物資が届くのを尻目に、燃料と食糧の不足に堪えねばならなかったのである。
特別養護老人ホームなどの入所施設からは、暖房用の燃料が切れていつまで入所者を受け入れていられるか分からない、経口用及び胃瘻用の流動食も底をついている、との声が寄せられ、デイサービス施設はそれに先だってほとんどが受け入れを停止したと報告を寄こした。
訪問看護ステーションからは、ガソリンがなくて訪問看護がまわらない、このままでは亡くなる在宅の患者もでてしまう、と悲痛な訴えが上ってくる。認知症のグループホームからは、スーパーに食料品を買い出しに行っても客ひとりに牛乳1本しか売ってもらえない。店員と言い争いになった。県はちゃんと協力要請しているのか、なんとか事情を話して人数分を買えるようにしてくれ、という怒りの声が浴びせられた。
毎日のように災害対策本部の上から命じられ、どこでどんなものが不足していうかという聞きとり調査をさせられて、多くの介護関係者に期待を抱かせながら、ろくな供給の手配もできないまま時間が経過していく。
悲痛な声を受けていると、災害対策本部で油の確保や分配を担当している課の無能ぶり(個々の職員が無能とは言わないが実質的な結果としては無能だったと言わざるを得ない)が我慢ならなかった。
3月21日だったと思うが、山形県は何事もなかったかのように例年通り4月1日付の人事異動を内示した。(非常事態に人事異動などしている場合か!?と思われるかもしれないが、震災発生時点で異動作業はすでに殆ど終わっていたはずだから、異動を中止すればむしろ混乱を大きくしたことだろう。)
じぶんは県庁内の県土整備部建築住宅課の総括課長補佐に異動を内示され、異例なことだが、その内示の日から県土整備部に呼び出された。そして、福島県などからの避難者受け入れの仮設住宅(民間賃貸住宅の借り上げによる)の供給準備に追われることになる。
県南部の米沢市にある県の保健所にはたくさんの避難者が押し寄せ、ガイガーカウンターで放射線を計測する窓口に列ができているという知らせを聞いて、“悪夢”ということばを想起した。
山形県への避難者は、当初は南相馬や相馬などの沿岸部から着の身着のままで来た人々が多かったが、時間の経過とともに福島、伊達、郡山など内陸各市からも続々とやってきた。避難者(借り上げ住宅などへの申込者)は2011年の夏から秋にかけてさらに増え、やがて15,000人を超えた。
これに対して建築住宅課は大急ぎで受け入れスキームを構築し、県内各地の避難所で避難者に対する住宅の斡旋説明会を開催。そして、毎日毎日電話応対に追われた。
精神的に追い詰められて錯乱する避難者もいたし、地元住民とのトラブルを起こす避難者もいた。まさに「栗子峠を越えて」押し寄せる避難者に対応することに必死だった。不動産業界との調整やマスコミ対応にも追われ、なによりこれまた庁内調整に消耗する日々が続いて、じぶんの神経と「言葉」はすべてそれらに費やされていた。
こんなふうに震災と原子力災害を経験した者には、人間のザッハリッヒでザラザラした面の記憶だけが刻まれていて、ようするにつまらない散文的感懐しか浮かんでこないのである。
しかし、ひねくれもののじぶんにも、和合氏が震災後にツイッターに言葉を発しなければならなかった想いとその切実さはわかる。同じように「孤独」な状況であればじぶんもそうしたかもしれない。・・・原子力災害に見舞われ、放射能を含んだ雨が降りそそぐという、映画でなければ悪夢としかいいようのない恐怖と孤独とに襲われて。
ただ、いっそなら、その言葉はタルコフスキーの「サクリファイス」くらいの“マトモでない”ものであってほしかった。

おっと、話が余計な方向に進んでしまった。
ついでだが、この日はこの会場で、高橋英司、いとう柚子の両氏と落ち合い、河北町の高橋英司氏宅へちょっとお邪魔した。
二人は、この日の昼まで山形県西川町の「丸山薫少年少女文学賞『青い黒板賞』」の審査委員として会合に出てきた帰りだった。
高橋氏宅を訪問したのは、同氏が全国の詩人から贈呈された詩集をほとんど捨てずに取っており、自宅の物置に専用書棚を造って、いわば現代詩集文庫のようなものを設けたと聞いたからである。(なお、これは非公開のものである。)
上の写真がそれで、この物置の二階だけで約4,000冊の文学関係の本と雑誌があり、そのうち2,000~2,500冊ほどが現代詩人から寄贈された詩集とのことである。(なお、同氏は高校の日本史の教諭だったので、母屋の方にはさらにその方面の蔵書がある。)
かつて雑誌「詩と思想」で月評を担当していたこともあり、同氏には全国から多くの詩集が送られてくる。同氏は、ほとんど全てに(少なくても前から2~3編と詩集の表題になった作品くらいには)目を通すそうである。
詩集の寄贈を受けてもろくに読まないで、すぐにブックオフ送りにする詩人が少なくないようだから、ここまで大事にするのは殊勝なこと。もっとも、自宅が農家で宅地内にそういうスペースがあるから、ということもあるだろう。
それから寒河江駅前に戻って、3人して居酒屋で飲み、左沢線で山形に帰った。(了)