2008年02月24日
菊地隆三詩集『父・母』
『山形詩人』同人である菊地隆三さんから、詩集『父・母』(2008年3月1日発行、書誌山田)が送られてきた。
その日のうちに通読。とても哀切な印象を受けた。
菊地氏は1932年、山形県河北町生まれ。
前詩集『夕焼け小焼け』(2000年、書肆山田)で「丸山薫賞」を受賞している。
合評会その他の際にご本人から聞いたところでは、東北大医学部を卒業後、山形県立中央病院に勤務。大学で当時は先進的な医療だった胃の内視鏡による検査技術を学び、県内の現場で実践、普及に尽力してきた。今は地元で病院を2軒経営している。
余談だが、そういえば、霞城公園の山形市郷土館(旧済生館病院)に胃カメラがまだ鉄の棒(!)だったころの実物が展示されているが、当初はあんなものを患者に飲ませていたのだろうか?・・・菊地氏から、当時は検査する方もたいへんな労働だったと聞いたことがあるが。
詩集のあとがき(のように掲げられた作品)には、こうある。
正直 俺は 若い頃 自分の 才薄く 姿・形の無様さを 親のせいにして
親を恨んだこともあった。 しかし 途中で 気付いた。 自分は 産まさ
れたのではなく 俺が 親の命を借りて 好き勝手に この世に 飛び出し
て来たのだと。 親が 俺を 選んだのでなく、 俺が 親を 選んだのだ
と。 親は 一合体恒星で 俺は その廻りを くるくる 廻っている 小
惑星に 過ぎない。(この頃 少々 目が廻るのは きっと そのせいだ)
それにしても なんと 遠慮がちの 淡い光の 恒星だろう。もっと 威張っ
て もっと もっと 光っていいのに・・・・ 元々 目立たない 大人しい夫
婦だったから どうしようも ないのか。
こんな親に対して 俺は この頃 無闇矢鱈に「父・恋し」「母・恋し」の思
いに 陥ってしまっている。老いぼれの この年になって まるで 赤ん坊
同然。ほんと 恥ずかしい。しかし 事実だから しょうがない。 (部分)
ところで、以前、じぶんは菊地氏の作品について、このブログで次のように触れていた。
<2007年3月18日「山形の詩を読む」>
菊地隆三
詩集『夕焼け小焼け』で丸山薫賞を受賞した詩人だが、今回は『山形詩人』54号に掲載された
「こい歌」と同49号に掲載された「天の川」を取り上げた。
おどけた軽妙な世界だが、幼い頃の哀しみが通奏低音のように流れている。子どもの頃、事情
があって両親に甘えることができなかった。あの世でほんとうの父母に甘えてみたい。現実と願望
の世界をつなげて、その世界で子どもが遊ぶような詩を書いている。だが、その裏側には自分の
老いを通じて死に向き合う視線がある。詩作品としての凝結度が高い。
だが、今回この詩集を読んで、もっともっと痛切な哀しみを感じた。
収録作品には、父親が町役場で徴兵係をやっていたとか、貧乏人だったとかいう件(くだり)が出てくるのだが、こういう解釈は邪道かもしれないが、もしこの詩人が医者の家にもらわれっていった養子だったら・・・と想像してみる。
すると・・・・、父に甘えたい、母に思いっきり抱っこしてもらいたい・・・・その、ヒトとしての原初的な欲求と、その欲求が永遠に叶えられないことへの、おそらくはヒトとしての最大の哀しみが、ここまで強烈に届いてくる。
詩人は、「父」をつくり、「母」をつくる。
だが、どうやってもそれは「淡い光の恒星」でしかない。
だから、自分は産まれたのではなく、飛び出してきたのだ。そして、産みの親は(育ての親と同様に)自分が選んだのだ・・・・そう思うほかない。
「父」「母」が目前に現れ、「父」「母」と交流する自分を延々と描いたこの詩集の作品群の、その最後に収録された作品は、だが、このように閉じられる。
この先
一人で行ける
もう
誰も
付いて来るな
来るなら
一千萬年後
一人で
歩いて来い
カンゲイする
――――作品「道―子等に」の最後の部分
ひとはひとりで生まれ、一人で死んでいくものである。
では、また。
2008年02月12日
『coto』第15号
奈良の安田有さんから、『coto』第15号(2008年1月28日、キトラ文庫発行)が送られてきた。
この号に、高啓は、詩「唯名論」を寄稿している。
15号では、散文では、佐伯修「雲と残像―現代美術を媒介として その三」、安田有「死の作法」、詩では、築山登美夫「聖女よ、」、今村秀雄「赤い手袋」、安田有「遠くへ」などが印象的だった。
佐伯氏の文章は、現代美術家・太田三郎の「シード・プロジェクト」に関するもの。
植物の種子をそのまま和紙に封入し、文字やミシン目を入れて「切手」化した作品を、実際の切手とともに貼って、両方に消印を押した郵便を送るというプロジェクト。
佐伯氏は、「このように『プロジェクト』全体として見ると、種子入りの『切手』は、あくまでも水面上に出た氷山の一部分であり、全体としては、『種子』というモチーフを用いながらする『存在証明』のパフォーマンスや、コミュニケーションの試み、『公』と『私』や生命の連続性についての問いかけなど、さまざまな課題がからみ合わさった企みであることが見えてくる。」と述べている。
なお、佐伯氏はこの文章の後半で「プロジェクト」のバリエーションについても述べているが、これがじつに興味深い。
安田氏の文章は、学生時代から親しくしていたTさんの、中小企業経営の行き詰まりからと思われる飛び降り自殺に触れ、現在における死について考えを廻らせるもの。
そこで安田氏は、「なぜ人を殺してはいけないか」をめぐる山折哲雄や石川九楊の発言を踏まえ、ドストエフスキーやカミュの小説を渉り、自傷・多傷行為に「<無(死)>の衝動」を看て取りながら、やがて自らの生と死を見つめてこう言う。
「いま私は、どのような死も尊厳的でないものはないと思っている。私たち生者がそう思うならばである。 『人の死は人の尊厳である』と深く心に感じたならば、人は人を殺したりはしない。ここで<死>とは<いのち>のことである。」
「やっぱりTさんの<死の作法>には反対だ。<いのち>は人倫を超えた<無償絶対>に属する。それに手をかけることは赦されない。」
安田氏の詩にも、かれが還暦を迎えたということもあってか、自分の生と死を見つめる視線が色濃く翳を落としている。
そういえば、高啓の「唯名論」にも、死のイメージが忍び込んでいる・・・。
2008年02月11日
「ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?」山新書評
新詩集『ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?』(書肆山田)について、文芸評論家の池上冬樹氏が山形新聞に紹介の書評を書いてくれた。(山形新聞2008年2月2日夕刊「味読・郷土の本」)
その冒頭の部分を引用すると、
「酔いどれて蹌踉(そうろう)と歩き回っているようでいながら、実にリズミカル。破れかぶれのようでありながら、まことによく計算されていて、とことんユーモラス。同時にうっすらと悲哀がにじんでいるから、ニヤリとしつつも、やるせない感情を覚えてしまう。」
そして、最後の部分、
「何よりも生き難さをさりげなくいなす、とぼけた、でも強靭なユーモアが素晴らしい。まさに出色の詩集といえるだろう。」
山形新聞の読者を想定し、少ない字数のなかでこの詩集を多くの人に読んでもらえるよう配慮して書かれた書評だということが伝わってくる。有難い思いで読ませていただいた。深謝。
なお、この書評で池上氏が触れているのは、下記の収録作品のうち、1、2、3、5、8である。
とくに1の「対痔核」についてメインに言及していただいた。
この作品は、収録すべきかどうか迷った5を除けば、この詩集を編むときにはいちばん稚拙な作品のように思えていたが、詩集が出来上がってみるとこの中でいちばんよく出来た作品に見えてきていた。
1 対痔核
2 似非メニエル氏病者のグルントリッセ
3 ザック・デ・ラ・ロッチャは何処へいった?
4 インチキゲンチュア・デクラレチオン
5 贈る言葉
6 ザンゲ坂をのぼる
7 静かな生活
8 窓の下ではサイレンが
9 カタキを討たれる
10 耳下腺炎の夜
11 エーテル論
12 水の女
13 骨髄ドナーは呻き呟く
14 新しい人よ目覚めよ
2008年02月06日
新宿三丁目から池袋ウエストゲートパークへ
千葉ニュータウンを訪れた次の日、いつものようにぶらりと新宿へ出かけた。
二十歳のころから、上京すると決まって足を向けるのが新宿東口である。
寄る場所はいつも変わらず、昔から紀伊国屋書店と新宿三丁目。
もっとも、ここ数年はジュンク堂で過ごす時間の方が多くなった。
ジュンク堂で本を探すのに疲れると、同店が入っている新宿三越アルコット店の裏口から三丁目へ出て、決まったように小汚い寿司屋で670円の海鮮ちらし丼を食べ、これまた決まったように“セガブレード・ザネッティ”という名前だけは大そうなカフェで290円のコーヒーを飲みながら、外の通りをぼんやり眺める・・・。
この日は平日の午後で、人通りの少ない時間だった。
休日に来ると、じつにいろいろなひとびとが目の前を通り過ぎる。眺めていて飽きない。
この日の泊まりは、定宿にしている池袋西口のホテル・メトロポリタン。
ホームページで格安の部屋を予約したら、工事中で午後6時にならないとチェック・インできない部屋だった・・・。(--;
それで、西口公園(いわゆる石田衣良のいう“池袋ウエスト・ゲート・パーク”)を横切って、東京芸術劇場のドームの下の、これ また名前だけは立派な“ユーロ・カフェ”というオープンカフェで、ハイネッケンを飲みながら本を読んだ。
真冬の夕暮れに、風通しのよい場所で、冷えたビールを飲むのもオツなものである。
すぐ右手を見あげると、劇場の入り口に繋がる大きなエスカレータがあり、その上に体育館みたいな鉄骨の屋根と照明が広がっている。
この劇場のコンサートホールには、2度ばかり東京都交響楽団を聴きに来たことがある。
2004年に出した詩集『母を消す日』(書肆山田)のなかの作品「ウエスト・ゲート・パークで子守唄をひねる」は、このあたりに取材したもの。
待ち合わせした女を待っていると、その女の子どもたちの幻覚が一人ずつ現れ、やがて死んだじぶんの母が現れるという物語である。
2008年02月04日
サンボマスターのライブへ行くぞぉ!
サンボマスターの新アルバム『音楽の子供はみな歌う』のリリースにあわせた同名の全国ツアーが、3月13日に仙台にやってくる。
このチケットをゲットした!(うっしっしっし・・・)
ライブでノるために、アルバムも購入して、いま通勤の車中で聴いている。
もっとも、右肩を傷めているので、腕を振り上げてというわけにはいかないし、おじさんがそんなことをしても不気味なので・・・、し・な・い(と思う・・・)。
そもそも、オールスタンディングのライブへ行くのが初めてなのである。(^^;
でも、このアルバム、これまで聴いた印象だと、ちょっと丸くなりかけているような・・・
じぶんは、『サンボマスターはきみに語りかける』のなかの最初の曲「歌声よおこれ」と最後の曲「月に咲く花のようになるの」が気に入っている。
とくに「歌声よおこれ」は最高傑作だと思う。
これを聴いていると、少し大げさだが、“山口隆と同じ時代に生きられて幸せだ・・・”という感じ。(苦笑)
2008年02月03日
千葉ニュータウン行
急性の白血病によって40代半ばで死んだ友人の7回忌が近づいたので、墓参りに行った。
かれの(ということはかれの家族の)自宅は千葉にある。そこを訪ねた。
大宮からJR埼京線で武蔵浦和、そこからJR武蔵野線で東松戸、そして北総鉄道で千葉ニュータウン中央へ。
東松戸駅で乗り換える僅かな時間に撮影したのが1枚目の写真。
広大な平地が続き、スプロール化した土地のところどころに雑木林のようなものが見えるが、山というものが一切見えない。盆地で生まれ育ったじぶんのような者には、逆に息苦しい風景である。
ふと、では、なぜ山に囲まれた盆地よりこの見渡す限りの平野の方が息苦しいのかと考えてみた。
この平らな土地は、どこまでものべたらに同質な印象なのだ。どこまで走ってもこの現状から逃れられない・・・そんな閉塞感がある。
その反対に、盆地は地理的には閉塞した空間だが、不思議にも、あの山の向こうには別の世界がある・・・あの山を越えればじぶんは変化できる・・・そう思えるのだ。
数年ぶりに降り立った千葉ニュータウン中央駅の周辺は、依然とずいぶん様子が変わっていた。
駅の北側にはニュータウンが拡がり、とりわけイオンのショッピングセンターが異様に増殖している。まるでイオン城下町といった塩梅である。
イオンの建てた安普請の箱物に、コジマやらドンキホーテやらの量販店、それにシネコンや専門店のモールが収まり、それらが道路沿いに立ち並んでいる。
いわば一から十まで規格化され、マニュアル化された街が出来上がっている。小規模な独立の店舗や地元の個人経営による商店や飲食店みたいな店はほとんど見当たらない。
快適といえば快適そうだが、じぶんにとっては、息が詰まり、頭がおかしくなりそうな街である。若干の救いは、量販店のケバケバしい大型看板が規制されていて、いくらかは景観に配慮がなされているらしいことである。
友人には同年代の妻と3人の娘がいた。
その家族に会い、まずは友人の墓参りにいくことにした。
墓参りといっても、これも大きなセレモニーホールの地下にもうけられた納骨堂の、小さめのコインロッカーほどの空間が、かれの墓である。
扉を開くと、扉の裏側に、今も健在のかれの父親から彼の妻に送られた手紙の封筒が添えられてあって、その封筒には、かれが子どものときに書いた汚いひらがなの作文が何枚か入れられている。
このホールの建っている場所が印象的だ。3枚目の写真に写っているように、大きな送電線の鉄塔に隣接している。
夕食まで少し時間があったので、友人の妻が、墓参りの足を伸ばして、車でこのあたりを案内してくれるということになった。
千葉ニュータウン中央駅から、となりの印西牧の原駅までの5キロほどの区間を、北総鉄道の線路にそって走る。
北総鉄道の線路は開削された下を通っているので、隣接して並行する道路から見ると、路線敷地がまるで人工の河のように見える。
その河の両岸に沿って一方通行の道路2車線ずつが走り、ところどころに両車線をつなぐ橋が架かっている。
そして道路に面して、大型の郊外型量販店が、まるで工場群のようにずらりと並んでいる。
4枚目の写真は、雑貨店としては日本一の売り場面積だというジョイフル本田。
“河”の対岸には観覧車のあるショッピングセンターが連なっている。
友人の娘たちは、この風景のなかで育ってきたのだ。それはかれ自身が育ってきた風景とはおよそかけ離れた風景だ・・・。
このような風景の故郷で育った子どもたちは、どんな感性を持つのだろう・・・ふとそんなことを思った。
そして、都会に出て、山形にはもう戻らないと言っているわが息子たちは、こんな風景の“故郷”でその子どもたちを育てていくのだろうか・・・とも、思った。
マンションの価格は、山形市内のそれと同様くらいだと聞いた。
だが、都心から1時間余りのニュータウンにマンションを購入できるのは、格差の拡大している今日、どちらかといえば経済的には恵まれた方の人々ではあるだろう。あの息子たちは、果たしてこの町の住人たちほどにもなれるのか・・・そんな見込みがたつわけでもないから、これは余計な心配ではあるのだが・・・。(苦笑)
泊まりは、千葉ニュータウン中央駅の裏側の“超豪華”ビジネスホテル「ホテルマークワンCNT」。並み以下のビジネスホテルなのに、税込み7,560円は、軽食の朝食付きでも割高感がある。それに、隣の部屋の鼾が聞こえてきた。
チェックインのとき、「7時半から朝食です。」と聞いたが、何時までとは言わなかったので、8時半過ぎに食堂へ行ったら、もう店じまいしていた。
唖然としていたら、パートのような中年女性の従業員が「よろしかったらどうぞ。」と特別に残っていた菓子パンを出してくれた。 それと、オレンジジュース、コーヒーの食事を、閑散とした食堂でとる。窓の外には3階建ての駐車場。隣にはゲームセンター・・・まったく味気ない風景である。
余談だが、山形新幹線で来て大宮で下車するとき、終点の東京で降りるいつもの感覚でいて、読書に熱中して降り遅れそうになった。ふと顔を上げるとすでに大宮駅に停車していたので、慌てて棚からコートを掴み取り、ダッシュで下車した。
ホームに出た途端、マフラーを取り忘れてきたことに気付いたが、すでに発車のベルが響き亘っていた。
ここで戻ったらもう下車できないか・・・・。そう思って、恨めしそうにホームとは反対側のじぶんのいた席のあたりを覗き込んでいると、その前の席に山形から座っていた女性の二人連れのうちの片方のひとが、棚のうえのマフラーに気付いて、発車ベルの中をドアのところまで届けにきてくれた。
なんと親切な・・・。何度もお礼を言って列車を見送った。
娘たちよ、学校を出たら、山形に来なさい!