2024年04月17日
詩集の感想 立花咲也『光秀の桔梗』

立花咲也詩集『光秀の桔梗』(2024年3月31日、詩遊社)を読んだ。
新しいドレッシングの瓶を
朝の食卓に出すとそれを見た夫は
―わしはな
値段をつけたまま
食卓に調味料を出すような
無神経な人間が一番きらいや
言うとすっきりする性格の夫は
―銀行寄ってから昼頃会社つくわ
手を挙げて部屋を出ていく
からだの形のまま
床に脱ぎ捨てられた夫の寝間着を畳み
食べ散らかした食器を片付け
278円の値札のついた瓶を見て考える
剥がすかな
このままにしておこうかな
それとも
流しに叩きつけて割ってしまって
なかったことにしようかな
瓶が汗をかいている
ま、とりあえず会社に行こう (「無神経」全部)
女子大の文学部を卒業後、「観念した」見合結婚で「悩む間もなく家業に追われ労働」してきた作者は61歳の女性。詩集名の『光秀の桔梗』は、信長に学ぶ経営書の類を何冊も読んでいる夫に対して、その身勝手さに耐えて家庭生活を送り、仕事では苦しいリストラもして経営危機を乗り越えてきた作者が、〝光秀〟のように「なんなら私もパンと弾けて/全部吐出したっても/ええねんぞ」と内語し、その想いを懐に抱いて生きるさまからきている。
いい気なものの(今風に言えば「昭和な」)夫(69歳)への複雑な想いと、自分の人生をこれでよかったのかと悩む作者の心情が、大阪人らしいボケとツッコミの会話を挟んだ詩行に織り込まれ、そこに64歳のプータロー的な兄、90歳のボケかけた母、洒落じゃなくてボケてしまった93歳の姑、そして父に似て自己チューな息子と唯一作者の味方をしそうな娘が絡んで、独特の妙味を醸し出している。東北人のじぶんにはこんな夫婦漫才風な〝やりすごし方〟は近しいものではないが、それでも作者の身体の稜線みたいなものが見えてくる。それはピンと張っていて、しかも柔軟に緩まりもする。
この印象をもうすこし抽象度を上げて言うと、詩行のなかで自意識がなんだかブンブンと音を立てて高速回転しているように感じられる。つまり自らが選びとってしまった生活、その内部で自意識がジャイロスコープみたいに回転することで現在のそれを必死に維持させているような印象を受けるのである。
日常、来し方・・・そこに平衡を生み、そのことでそれらと自らのアイデンティティを維持し続けようとする安定化装置。それがこの詩人にとっての詩なのかもしれない。
くたばれ私に巣くう臆病
負けるな私の笑いたおす心意気
まだ
まだまだまだ
置かれたここで
根付いて咲いて枯れるまで
で
いつ咲くねん
とお約束の自分にツッコミ (「お約束」全部)
いつ咲くねん? 今でしょう!
はやくセカンドパートナー(これはマッチングアプリ用語)でもつくらっしゃい。(了)
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