2007年11月29日
タイムマツーン
今年は4回も公演を打った劇団「It’s Secret」・・・その4回目の公演「タイムマツーン」(作:高橋大樹、演出:片岡友美子)を、彼らの小屋である「Atelier Jam」で観る。
「タイムマシーン」の「シ」が「ツ」になっているのは、いかにも若いあんちゃんが書いた安っぽい芝居という感じがするが、このチープ感を洒落れ(たとえばビートたけしの見え透いたギャグのような)として受容できる人は必ずしも多くはないだろう。
笑いをとろうとする芝居、とくに個々の役者に熱心なファンがいるわけではない観客から笑いをとろうとする芝居は難しい。それがわかっていての挑戦ということなのだが・・・。
じぶんは極めて個人的な理由によって、この芝居を(たぶん)客観的に観ることができなかった。
そこに存在したある特定の役者の身体性に、もっぱら関心が向かってしまったからだ。
それでもあえてこの舞台について言えば、全体としてはそれほど面白いものではなかったと言わなければならない。
もっとも、たんに笑いを取ろうとするなら、テレビや映画に出てくるコンテンポラリーな存在、つまり観客がよく知っているところの人物や話題を取り上げて、これらを真似たり茶化したりするギャグを散りばめればいいのだが、その安易な方途を(さほど)この作品はとらなかった。
この芝居が取り上げた場面(タイムトラベルで行く先)は、小次郎と武蔵の巌流島の決闘だったり、モーツァルトに弟子入りしようとする少年ベートーベンであったり、主人公の大学教授の娘の結婚式だったりして、ようするにある意味古典的であり、その意味では安易な受け狙いに流れることがなかったとは言える。
だが、やはりストーリーは面白いとはいえない。
タイムマシーンものの妙味は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「ターミネーター」が表現しつくしてしまっているように、過去を変えると現在や未来が変わるという前提の上にたった情況へのアンガージュマンと、現在の(タイムトラベル中の)自分と過去や未来の自分が出会わない(出会ってはいけない)という前提にたったドタバタにある。
「タイムマツーン」はこのふたつの大前提を活用していない。これでは面白いものになるはずがない。
(ただひとつ、芝居の最後の結婚式の話で、つまり花嫁が挨拶で父親が亡くなったと話すシーンをその父親であるタイムトラベル中の主人公が見て俺は死んだのかと思うが、しかしそれは娘が父親を結婚式に呼びたくないがゆえの嘘だったという設定は少し可能性を垣間見せたが。)
さて、では、なにが問われてしまったのか。
つまり、ストーリーが大して盛り上がらず、ギャグや題材のもつ笑いのイメージに頼ることもできない分、役者の演戯力こそがあからさまに問われてしまったのである。
2007年11月28日
宇都宮行
東京に泊まった翌日、例によって帰り道に宇都宮に寄る。
劇団「It’s Secret」の講演を観るためである。
開演まで時間があったので、街の中心部(馬場通りのパルコ周辺)へ出かける。
パルコ向かいの上野デパートの廃墟が取り壊され、建物が建設されているところまでは前回の訪問のときに見ていたが、目出度くそのビルが出来上がっている。しかし、雑居ビルなのでどうもぱっとしない。(写真の一番奥に見えるビル)
この大通りにはもうふたつ廃墟が立っている。同じ上野デパートの別棟(写真には写っていない)と、 写真手前に見える三階建てのビル。(この間まで1階にタクシー会社が入っていた。)
この廃墟はかなり見苦しいが、しかし隣のスッポン屋が面白い。こういう町並みになぜか目がいく。
昼食の時間だったので、「みんみん」本店で餃子をと思い訪れたが、あの気合の入った人々の長蛇の列に1時間も並ぶ気になれず、大通りに面した「世界楼」という中華料理屋に向かう。
ここは中国人がやっている安くてけっこう美味しい店だった。しかし、テナント募集中との看板が・・・。これは残念だ。この辺りではもう他に入りたくなる店が見当たらない。
仕方なく、商業ビル「ラパーク」(元の長崎屋)の地下の「来らっせ」という餃子店モール内の「みんみん」で餃子を食べる。
本店とは違って特記すべきことはないが、平均的な餃子よりは美味い。それに6個で220円というのだから、具の量は少ないが安いことは安い。
「みんみん」の特色は、飲み物を除けば餃子(水、揚げ、焼きの3種)とライスしかメニューにないところだ。宇都宮を最初に訪れて駅ビルの「みんみん」に入ったとき、スープもないことに少々カルチャーショックを受けた。
“うちは餃子で勝負しているのだから余計なものは出さない”という主義は理解できる。だが、それを受け入れ嬉々として列を作っている客たちの従順さには異和を覚えた。
いくら餃子が美味くても、飯に汁は要る。汁のない飯を食べても食事したということにはならない。餃子を肴にビールを飲むのでないかぎり、汁のない餃子屋には、いくら餃子が旨かろうと月に一度もいけばたくさんだという気がする。
写真はパルコ側から見たラパーク。屋上がフットサルのコートになっている。
最後の写真は、アーケード街「オリオン通り」を「バンバ通り」の方から見たところ。
宇都宮は、人口のわりに文化的に薄っぺらであまり面白みのない街だという印象なのだが、訪れるたびに少しずつ愛着がわいてくる。
2007年11月27日
ムンク展とホテル・メトロポリタン丸の内
連休を利用して上京した。
例によって、丸の内のOAZOの「つばめキッチン」でハンブルグステーキを食べ、徐に上野の国立西洋美術館へ行って「ムンク展」を観る。
この展覧会の題名は「Edvard Munch 〜The Decorative Projects〜」というもの。ムンクの「『装飾画家』としての軌跡を辿れる」企画となっていて、なかなか興味深かった。
これまでもどこかでムンクの作品は観ていたはずだが、有名な『叫び』の他には『マドンナ』くらいしか記憶になかった。(この展には『叫び』は展示されていない。)
『叫び』の印象があまりに強いので、「愛」「死」「不安」をテーマとした「生命のフリーズ」とか、ドイツ表現主義とか、そんな言葉から受けるイメージはなんとなく以前から抱いていたような気がするが、この企画展には、個人邸、小劇場、大学の講堂、工場の食堂、市庁舎などの壁画とすることを企図して製作された作品や習作、スケッチなどが展示されていて、これまでとはちょっと違ったムンクを覘くことができた。
その印象を記すと、ムンクの「装飾画家」という側面というよりも、むしろ「構成画家」としての側面を見て、生命の「不安」ならぬ、この人物の“絵画作家としての不安”を観るような気がしたのである。
ひとつの絵画作品は作家によって区切られた四角の画面に構成されている。この構成をどうするかに作家は自分の想像力のすべてを注ぎ込む。だが、その創出力や着想力はつねに満足がいくようなものとして漲っているわけではない。
また、一旦創出してしまった構成(力)は、作家自身に類似したパターンの使用を禁じる。つまり世界を構成すればするほど、その作品は自分から構成(力)の余地を奪っていく。
そこに引き入れられるのは散文的物語性である。
<構成>が、自らを唯一性や全体性としてではなく構成“要素”としていく道、つまり<装飾>へと変容しなければならないのはここに必然があるからかもしれない。
泊まりは八重洲北口の「ホテル・メトロポリタン丸の内」。
八重洲北口に隣接しているのに「丸の内」という名を付けている。「ホテル・メトロポリタン八重洲」ではぱっとしないか・・・
普通に予約すればけっこう高いのだろうが、「びゅう」のパックで列車のチケットと一緒にだと安かった。
内装はやや高級でシックなビジネス・ホテルという感じだが、デスクに電車の模型が置いてあるのがいかにもJRらしいおしゃれだ。と同時に、男性ビジネスマンの受けを狙う意図が見え透く・・・。
個人的にはベッドがもう少し低くあってほしい。また、デスク用の椅子は座りやすいのだが、リクライニングが固定できず背に寄りかかれない。エレベータの位置が分りにくい・・・などの不都合を感じた。
また、このときは会津の観光協会かどこかとキャンペーンで連携し、部屋に発泡日本酒とつまみを用意し、さらにくじ引きで会津の商品をプレゼントしていた。なかなか洒落た企画だと思ったが、発泡酒は甘たるくて飲めなかった。
籤の方は、じぶんは3等を引き当て、菓子箱みたいなものをもらったが、結構重いのでこれは自宅まで持ち歩くのに値するものかどうかと思い、フロントにその中身がなんなのかを聞いたが、彼らは「私たちが伺っているのは会津のブランド品ということだけで・・・」と、書類を調べても分らないのだった。
結局、翌日宇都宮経由で帰宅するまで持って歩き、開けてみると、蕎麦一束、蕎麦茶一袋、ドレッシング一瓶、米(コシヒカリ)500g、カリントウ一袋の詰め合わせだった。“ブランド”というより商品の“ブレンド”?・・・合せて2,000円くらいか。カリントウはすぐ食べてみたが美味かった。感謝。
写真の最後は、例によって(?)東京のビルの海に昇る朝日・・・。
高いところに泊まると、なぜかこの時刻に目が覚めてしまう。
2007年11月11日
さらば知歯・・・
「知歯」はオヤシラズのこと。オヤシラズは親不知とも書く。
親を知らない歯が知の歯であるというのは、言い得て妙である。
この知歯が生え始めたのに気づいたのは高校3年くらいからだった。
高校時代はそれほど気にならなかったが、大学生になって一人暮らしをはじめると、奥歯のさらに奥の歯肉がひどく腫れて痛み出すようになった。
今から考えれば、これは出かかった知歯と歯肉の間からばい菌が入って炎症を起こしたからだとわかるが、当時はバカなことにこれを知歯が肉を食い破って生えてくるために起こる必然的な痛みや腫れだと思い込んで、歯医者にも行かずひたすら耐えていた。
耐えるどころか、歯が出やすいようにと歯肉の隙間に爪を突っ込んで、肉をぎぃーっと押し広げたりもしていた。これはまさに“ひとりサド・マゾ”である。(苦笑)
知歯は4本だ。その4本が順番に(といっても順不同だが・・・)痛み出した。
しかも1本について、歯が出てくる過程で4〜5回の痛みの時期を経験した。
その一回の痛みが、ひどいときは1週間から10日ほども続き、その間は顎が腫れて口もろくに開けない状態で、数日間固形物を摂れず、ほとんど牛乳だけの食事で過ごしたことも何度かあった。
それにしても、ずいぶん苦しい想いをしたのに、なぜ歯医者に行かなかったのだろうと今になって思う。
歯医者に行けば抜かれてしまうと思い込んでいたフシもあるが、たぶん、これに耐えることが大人になるために避けられない道だとか、<知>というものはこうして肉を食い破って激しい痛みを伴ってやってくるものだ、などと漠然と思っていたような気もする。
こうして20代半ばには上下で4本が完全に出揃い、うち1本はすこし傾いて生えたが、3本はしっかりした歯になって、四半世紀も役に立ってくれた。
しかし、この2〜3年で4本に次々に腫れと痛みが襲い、触るとぐらつく状態になった。
歯医者によると、オヤシラズは周りの支えている肉が弱く隙間が開き易い。そこに歯周病菌が入り、歯が溶けてますます隙間が広がる。さらにそこにばい菌が入り、体調の変動で抵抗力が弱まると炎症を起こすのだという。
ぐらついている以上、もはやあきらめなさい・・・医者がそういうので、しかたなく、痛み出すたびに1本ずつ抜いてきたのである。
けれど、あれだけ苦しんで生えさせた<知歯>だ。なにか掛け替えのないものを失うような気がして、それでも最後の1本は、ほんとに痛くなるまで待ってください・・そう言って、この一年あまり誤魔化し誤魔化ししてきていた。
さて、だが、今回は最後の1本がまた痛みだしたとはいえ、その痛みが治まりだしたある日、なぜか突然思い立って歯医者に抜きに行った。
これが、“さらば青春”というやつである。(苦笑)
2007年11月08日
北蔵王縦走
10月の初め、刈田岳から笹谷峠まで、北蔵王を日帰りで縦走した。
蔵王エコーラインの刈田岳駐車場から登りはじめ、刈田岳からお釜を眺めつつ、熊野岳の非難小屋から右(東側)のコースへ入る。 これは蔵王スキー場を経て温泉に至るコースと反対のコースで、山形県と宮城県の県境の稜線を行く、いわゆる北蔵王縦走路の一部である。
刈田岳から熊野岳に向かう火口湖「お釜」の縁(外輪山の稜線)は「馬の背」と言われ、あたりは荒涼とした岩礫帯。その無国籍的(?)風景をロケハンされて、最近公開された映画『ジャンゴ』(三池崇史監督作品。副題は“スキヤキ・ウエスタン”)の撮影現場になったという。もっとも、映画を観ていないので、その場面が使われているのかどうかは知らない。
追分と呼ばれる蔵王ダムへ下るルートとの分岐点を経て、名号峰から灌木帯を八方平の非難小屋へ向かう。
ここらへんからクマの出没を避けるために鈴を揺らしながら行く。
小屋で小休止。これは宮城県が建てたもの。新しくはないがけっこう立派な小屋だった。
ここからは、急峻な痩せ尾根のアップダウンが続く雁戸山へ向かう。
北蔵王連峰のスカイラインは、山形駅に降り立った旅人が初めに眺める山形の象徴的な風景だ。鮫の歯のように尖がった雁戸山の稜線が印象的である。
ただし、15年ほど前に山形新幹線の開通に合わせて山形駅の駅舎が建替えられ、駅舎出口(=ベディストリアンデッキ上の出口)が駅前通りのラインからずれてしまい、連峰への視界が開けないことになってしまった。
なお、この駅舎出口から駅前通りを経て雁戸山を望むビスタを確保するため、ベディストリアンデッキは山形メトロポリタン・ホテルの方に不自然に出っ張っている。ご存知だったろうか。(拙詩集『母を消す日』のなかの作品「ベディストリアン・デッキのドッペルゲンガー」は、この場所を舞台にして書いたものである。)
雁戸山周辺の「蟻の戸渡り」と名づけられたアップダウンの激しい痩せ尾根を歩いていると、左手下には蔵王ダム、その向こうに山形市内が見え、右手には遠く仙台市内が望まれる。前には延々と連なる山々・・・。いい眺めだ。
しかし、こんな細い尾根を挟んで左と右で世界が異なってしまうのかとため息がでる。
左は「裏日本」で雪に埋もれ、右は「表日本」で晴れ晴れとした世界・・・わかっちゃいるが、なんか不条理だ。
雁戸山を越えると、また灌木帯に入り、カケスガ峰から山形県側のルートに入って、樹林帯をしばらく下る。
やっと山形工業高校の山小屋に着き、笹谷峠の駐車場に下りる。
約8時間半の行程で、実質的には6時間余りの歩き。登山マップでは390分程度の表示になっているから、まずまずのペースだったことになる。
しかし、下りだけは先導者がすごいスピードで行くので、ついていくのが大変だった。
久しぶりの山歩きで、翌日から二三日は腿が痛かった。
その歳でそれだけの体力があることに感謝しなさい・・・そう年上のひとから言われた。
たしかにそのとおりだと思った。・・・感謝。m( _ _ )m
2007年11月06日
仙台行
10月のある日曜日、仙台在住の友人に誘われて広瀬川河畔での芋煮会に参加させていただいた。
どんな集まりなのかというと、かつて存在した仙台市内のある飲み屋の常連客だった人たちが年に一度会し、こうして芋煮会を催すのだという。
じぶんが知っているのは友人夫妻だけだったが、大きな顔をしてそこに参入してしまった。
広瀬川は前日の降雨で水嵩が増していた。
この辺りの河畔に下りたのは初めてだったが、芋煮会のメッカ、山形市の馬見ヶ岬川のように河川敷が整備されているわけではなく、草茫々で、向こうにビルが見えなければ大都市の中心部を流れる川とは思えない風情だった。
芋煮会には、むしろこんな場所の方がいいかもしれない。
芋煮鍋は、いつも豚肉を入れた味噌仕立ての「仙台風」と、牛肉を入れた醤油味の「山形風」の二種類を作るのだと言う。
じぶんは山形風の鍋の火焚きを手伝ったが、どちらの鍋にも鍋奉行がいるわけでもなく、いつの間にか女性たちが具を入れて、あっという間に出来上がってしまった。
仙台では、豚にしても牛にしても、肉は水を張るまえに鍋で炒めておくのだという。
仙台風は、いわゆる豚汁。これにはいろんな具が入れられていたが、どうもじぶんは豆腐が入っているのに白けてしまった。豚汁だと思えば豆腐が入っていても平気なのだが、芋煮に豆腐というと違和感がある・・・なぜかな。
山形風は、本場のようにごてごて芋と肉を煮ないで、あっさりめ。日本酒が入らないのでいまいちコクがないが、こちらは本場の山形風芋煮より美味しいくらいだった。
集まりは40代〜50代のおじさん、おばさんなのでが、そのなかに数人の宮城教育大学の学生だという男女も混じっていた。某体育系サークルの面々だという。
じぶんは青森県出身の男子学生3人とちょっとだけ話したが、みんな真面目そうな学生だった。
聞くと、青森にはこうした野外でやる風物詩としての鍋の宴がないという。
3人とも郷里で教員になることを望んでいたが、募集人員が少ないので採用されるのは厳しい、だから首都圏も受けると言っていた。
車座になって自己紹介するとき、彼ら学生が応援団風に声を張り上げて「○○ケンリツゥ〜○○コオコオゥ〜シュッシン〜、ミヤギ〜キョウイクダイガクゥ〜・・キョウイクガクブゥ〜・・○○カテイセンコォオ〜・・・何のだれそれドゥォエ〜ス」とやるので、じぶんも「アキタケンリツゥ〜ユザワコウコウォ〜シュッシン〜、ヤマガタダイガクゥ〜・・・ジンブンガクブソツギヨゥ〜・・・」とやってしまった。バカである。(--;
けっこう酔いながらも、帰り道、市役所前の山形行きバス乗り場まで歩いていく。
途中、三越デパートの裏を通ったら、最後の写真のような古い飲み屋の集まった一画があった。地上げにあっているのか、営業している店はほとんどないようだった。
さて、今日はこんな店に集っていたひとびとの芋煮会だったんだろうか・・・。
それにしても、じぶんが魅力を感じた古き良き仙台は、こうしてどんどん消えていく。
2007年11月04日
札幌行 その2
二回目に札幌を訪れたのは3年後の1975年の夏だった。
高校3年生の夏休み。札幌にあった桑園予備校の夏期講習に出かけたのだ。
桑園予備校の「桑園」というのは地名で、駅名(札幌駅の隣駅)でもあった。この予備校は既に存在しないようだが、当時は秋田県の高校でも桑園予備校主催の模擬試験をやっていて、“北海道大学を受けるなら桑園予備校”という感じだったように思う。
もう記憶はかなり曖昧になっているが、桑園の隣の琴似駅(だったような気がする)の近くにあった商人宿みたいな旅館が受講生の宿舎となっていて、じぶんたち遠方の受講生は勉強用の座卓と卓上用の照明スタンドを持参して参加したのだった。8畳ほどの和室に秋田県の各地から来た受講生が4人詰め込まれた。
じぶんは予備校の授業には毎日出席したが、授業が終わると宿舎での勉強はそっちのけで札幌の街を歩き回っていた。
薄野ではトルコ(今で言う“ソープランド”)の客引き(若い女性の)に声をかけられて、びくびくしながら“ぼ、ぼ、ぼくはまだ高校生です・・”なんて言って逃れた記憶もある。
そもそも、高校時代まで授業に出る以外に勉強することがほとんどなかったのだ。
自宅や図書館でも、予習復習はもとより受験勉強というやつをほとんどしたことがなかった。(大学入学以後、これをひどく後悔したが。)
高校生なのに家でまで勉強するやつはバカだと思っていた。大学受験は、勉強して合格するのではなく、人格(?)で合格するものだと、なんとなく思っていたフシがある。(苦笑)
夏期講習が終わり、明日は帰るという晩に、その旅館に同宿していた道内や他県からの受講生たちと別れの宴を催した。
もちろん酒を飲み、語り合い、ついには夜更けに大声で歌を歌いだした。宿の職員からの注意もなかったので、いい気になっていたのだろう。
ところがなんと、酔っぱらってトイレに行くため廊下に出たら、そこに制服姿の警官がいるではないか! じぶんの高校は規律違反への処罰が厳しかったので、その姿を見た瞬間、頭が真っ白になり“ああ、これでおれの高校生活は終わりだ・・・”と思ったものだ。
その若い警官は、しかし幸いにも、近所から苦情があった、夜も更けてきたからしずかに・・・とじつにやさしく諭し、そのまま帰っていってくれた。
そして、次の年じぶんは北海道に憧れて北大を受験し、当然の如くに失敗する。
それから4年後、今度はほとんど何の準備もしないまま法学部の大学院を受験するが、ドイツ語の試験で出題されたマックス・ウェーバーの「プロ倫」が一行もまともに訳せず、これまた当然失敗。もっとも、このとき北大を受けたのは北海道に渡るのが目的ではなく、そこにかなりマイナーだったじぶんの専攻分野(日本政治思想史)の教授がいるからというのが理由だった。
大学受験のための札幌行、さらにはとりわけ印象深い大学院受験のための札幌行でも、忘れられない体験をしたが、そのことはまたいつか別の機会に記したい。
写真は、一枚目と二枚目が薄野の中心部。
夜、一枚目のビルの2階の「さっぽろっこ」という居酒屋で肉じゃがとホッケ焼きを食べた。
三枚目は、薄野から中島公園方向へ歩いていく途中で見かけた「ノアの箱舟」というレストラン(?)。
札幌の街中を東西南北に歩き回っていると、この街が思っていたほど大きくないことに気付いた。
2007年11月03日
札幌行 その1
10月の下旬、約7年ぶりに札幌を訪れた。
札幌行はもう8乃至9回目になる。ここは想い出がたくさん詰まった街だ。
最初に訪れたのは1972年の夏。
札幌オリンピック開催の数ヵ月後で、田舎の中学生だったじぶんには、札幌がまるで理想の都市のように輝いて見えた。
大通り公園を行く人々はみな豊かで生き生きした表情をしていた。
地下鉄は車輪にタイヤを用いていて実に静かでスムーズに走り、オーロラタウン、ポールタウンなどの地下街も洗練されていた。そんな現代都市の風景と道庁や時計台など開拓時代の建物が共存している風景はとても魅力的だったし、それに加えて狸小路や二条市場など下町の感じも好きだった。 そしてなによりそのころの北海道には「ロマン」という心震わせる幻想があった。
そのころのじぶんの中学では春に修学旅行が行われ、その行き先は北海道(函館〜札幌〜小樽)なのだったが、じぶんは直前に体調を崩して参加を取りやめていた。
その夏に同居していた祖母が亡くなり、札幌から祖母の甥か従兄弟(実はいまだにどういう類縁なのかじぶんにはよく理解できない)のおじいちゃんがお悔やみにやってきた。
当時の中学生には驚きだったのだが、そのおじいちゃんは親戚の人の運転で、なんと車で遥々秋田県南部の湯沢市まで駆けつけてくれたのだった。
1972年といえば、東北にも北海道にも高速道路などというものはなかった。一般国道だってろくに整備が進んでいなかったはずだし、車の性能や乗り心地だって今とはずいぶん違ったはずだ。それを札幌から函館へと走り、津軽海峡は連絡船に車を積み込んで、青森、秋田、湯沢と、二日がかりで自家用車でやってきたのだから驚く。いったい何回信号で停まったのだろう・・・。
しかし、このことがじぶんの青春時代に少なからぬ影響を与えた。
なぜなら、初めて会う中学生のじぶんに“一緒に札幌に行かないか?”と何気なく声をかけたおじいちゃんたちのことばに、驚くほどあっさりと乗り気になって、葬式の次の日、その復路の車に文字通り“便乗”して札幌に向けて出発してしまったからである。
この札幌のおじいちゃんの家は、水道工事屋さんだった。
おじいちゃん(家族からはオジジと呼ばれていた)は、札幌の水道の何割だかはおれが敷いたんだと自慢げに話していた。
じぶんは、この家や家族や毎日入り浸る近所の人々の暮らしぶりにもカルチャーショックを受けた。なんと言えばいいか、“大陸的”というのか、雑然としていて大らかとでも言えばいいか。
鉄道と青函連絡船を乗り継いでの帰りの旅も印象的だった。
青函航路の旅情は、まさに石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の雰囲気だったし、生まれて初めての一人旅で吉田拓郎の「落陽」みたいな体験もした。(もっとも前者は1977年、後者は1989年の作品だが。)
写真は、今回泊まった超豪華(!)ホテル「テトラスピリット札幌」(1泊4,200円)の前の通りと、そこから薄野方向へ狸小路を歩いていく途中の風景。(円柱形の高いビルは札幌プリンスホテル)
それにしても札幌にはやたらとホテルが建ったものだ。1ブロックに数軒ずつある。
札幌は依然として魅力のある街ではあるが、70年代の輝きはこんなものではなかった。
あれから札幌はずいぶんと肥大化してきたが、それにつれて北海道はやせ細ってきた。
この街はじぶんにとって特別な街であることをやめ、“一地方都市”になってしまったのだという感慨が湧いてくる。歩いていると涙が滲み出た。(これはちょっとウソだが。)