2023年04月09日

宇野重規著『日本の保守とリベラル』感想

宇野重規著『日本の保守とリベラル』感想



 宇野重規著『日本の保守とリベラル―思考の座標軸を立て直す―』(中公選書 2023年)を読んだ。
 図書館から借りて未読のまま放置していたところ、返却期日が過ぎている、他の人からリクエストが入っているので早く返してくれ、と電話が来て、大急ぎで通読した。

 本書は、エドモンド・バークの議論に基づき、「保守主義」を「抽象的な理念に基づいて現実を根底から変革するのではなく、むしろ伝統のなかで培われた制度や慣習を重視し、そのような制度や慣習を通じて歴史的に形成された自由を発展させ、秩序ある漸進的改革を目指す思想や政治運動」と定義している。
 また、「リベラリズム」を「他者の恣意的な意志ではなく、自分自身の意志に従うという意味での自由の理念を中核に、寛容や正義の原則を重視し、多様な価値観を持つ諸個人が共に生きるための社会やその制度づくりを目指す思想や政治運動」と定義している。
 まずは、「保守主義」の定義が、「自由を発展させ」「漸進的改革を目指す」ものであるという点に注目したい。ここでは、「自由」が「歴史的に形成」されてきたものであるという観点、つまり先人たちが少しずつ「自由」を拡大してきた、その伝統を引き継いでいるのが「保守」であるという観点が重要である。
 
 本書は、日本における「保守本流」≒「保守リベラル」(石橋湛山―池田隼人―大平正芳―宮澤喜一―加藤紘一の「宏池会」の系譜)が、戦後の冷戦構造と経済成長の過程で育まれ、冷戦の終結及びバブル崩壊(それは宮澤政権の時期に重なる)によって終わったと述べる。このあと、「保守リベラル」の流れの一部は細川政権・村山政権に流れ込み、1990年代の一時期に「保守リベラルの時代」を形成する、とも。
 この視角から見れば、2000年以降の清和会とりわけ安倍晋三らはむしろ急進的で対立を産み出す擬似非的「保守」だったということになる。
 「保守」の概念が揺らいでいる現代において、本書は、まさに「思考軸を立て直す」格好の機会を与えてくれている。
 福沢諭吉、福田恆存、丸山眞男に関する章も有益だった。(これらは既存論文を嵌め込んだもののようだ。とくに丸山に関する章は丸山眞男論として独立した論考である。)
 なお、1979年に大平政権によって設置された9つの政策研究グループによる「大平総理の政策研究会」をめぐる記述、つまり「成熟社会」を巡って「リベラル保守」が日本社会の〝status quo〟(今そのままの状態=〝Japan As Number One〟と言われた時代のそれ)の維持を図ろうとして、保守主義(による社会統合)の新しい姿(経済成長を超える新たな日本人の生き方、社会や組織の在り方)を模索したことに関する記述(つまりその功罪)については大いに考えさせられた。

 印象に残ったのは、本書のなかで紹介されている村上泰亮、佐藤藤三郎、公文俊平の論文「脱『保革』時代の到来」(『中央公論』1977年2月号)の内容の一部。

 「保守主義とは本来、社会の変化の不可避性を承認しつつ、その一方で過去からの経験の蓄積を重視するものである。結果として「良き伝統」を保持するためには改革を厭わないという姿勢こそが保守主義の本質となる。これに対し革新主義は、理性が経験に先立ち真理を把握する力を持つと考え、あくまで理性の力を信頼するユートピア主義を志向する点に特徴があった。/このような保革本来のあり方に対し、「追いつくための近代化」を目指した日本の近代においては、状況がやや異なってくる。欧米をモデルとして近代化を進めた日本の場合、欧米の制度や文物を導入する指導層が「保守」となり、これを批判する側が「革新」となったのである。「追いつき型近代化」の現実化を担当し、そのために必要な妥協を行った「保守」が思想的・文化的な無原則性を批判されたのに対し、無原則的妥協に支えられた現実の変革を批判した「革新」は、あくまで目標とすべきユートピア的理念を固守した。いわば、保守が「保守的」手法によって現実を「革新」し、革新が「革新的理念」を「保守」するという役割分業を果たしたのである。結果として、日本の保守はついに保守主義としての思想を持ちえず、逆に革新は「正しくはあるが無力な」批判を続けることになったと村上らは指摘する。」

 このような見方は一面では当たっていそうな気がする。日本近代のいつのことを指して言っているのか、明治から昭和初期までということならまぁそうだろう。戦後の「政治の季節」(1960年代まで)をも含むと考えることもできるかもしれない。
 日本の保守が保守主義としての思想を持ち得なかったという指摘は確からしく思える。革新が「正しくはあるが無力」であったというのも、「地方の時代」を除けば大方はそのとおり。
 しかし、この見方は粗雑で一面的であることを頭に置いておこう。なぜなら、日本では若いころに「革新」的な志操を持った者が、やがて「保守」的な位置に収まっていくということ(いわば〝自然過程としての転向〟)が珍しくなかったからである。「革新」と「保守」は「役割分業」どころか密通していたのである。

 さて、私たちが現在目のあたりにしているのは、目を覆いたくなるような「保守」の劣化または欠損である。
 「保守」を名乗る自由民主党その他は、政治倫理と経済倫理の両面でモラルハザードの状態にあり、冷戦構造崩壊後の世界でなおも対米従属路線(宮台真司の用語で言えば「ケツなめ」路線)を盲目的にひた走っている。どこまでお目出度くアメリカに追従するのか際限がない。まるで洗脳された教祖にどこまでも縋り付くかのような自暴自棄路線または自虐路線である。
 また、福島の原子力災害によって「東日本壊滅」の危機を経験したにもかかわらず、あの事故以前の原発の耐用年数にかかる規範さえも撤廃して、既得権益に縋り付こうとしている。この学習能力・修正能力の欠如には愕然とする。
(註:「東日本壊滅」に関して。福島第1原発のメルトダウンさらにはチャイナシンドロームによる放射能汚染で福島第2原発までコントロール不能になる可能性があった。吉田昌郎所長の発言(政府事故調の調書)にその現実味が記載されている。)
 たしかに東西冷戦下においては、「非武装中立」論に対して「専守防衛」と「日米同盟」路線は「現実」的に見えたであろう。この場合、「保守」的であるとは「現実」的であるということだった。
 しかし、「台湾有事」に際して、米中対立の代理戦争をさせられそうな今日の状況下で、「敵基地攻撃能力」のための軍備増強をすることは、まさに「非現実」的で「自暴自棄」的な行為である。ここでは「保守」こそが〝夢をみている〟。
 NATOはなぜウクライナにロシア領内を攻撃できる武器を供与しないのか。ウクライナがロシア領内を本格的に攻撃すれば、ロシアに核兵器使用の格好の口実を与えることになるからだ。ロシアが核を使えば、緊張は格段に強まり、戦争がヨーロッパに拡大する危険が増大する。
 これを日本と中国になぞらえればどうか。日本やアメリカが中国領内を攻撃すれば、中国に核兵器使用の口実を与える。いきなり核兵器を使用せずとも、通常兵器で日本国内の原発を攻撃するという手もある。
 それに、台湾や日本の周辺(つまりアメリカ本土から遥かに遠い極東)で中国と戦争状態になった際に、アメリカが核兵器をもった大国を相手に、一蓮托生で日本をどこまでも守ってくれるなどという仮定を、どうしたら信じられるのか。
 アメリカは自国の本土から遠い土地でしか戦争をしない。嫌気がさせば自分は手を引けるところで、その国を戦争に引きずり込み、あるいは代理戦争をさせる。対中国戦略において、日本に戦争の片棒を担がせることで日本が衰亡しようとも、中国にある程度のダメージを負わせられればいいと踏んでいる。このような想定をしておくことが現実主義ということだろう。
 アメリカに対しては、「わが国には日本国憲法の戦争放棄という国是があり、申し訳ございませんが、これ以上あなた様にはお付き合いできません」という防衛線を確保しておくことが現実的であろう。それを自ら解釈改憲(集団的自衛権)し、国防の方針を転換(敵基地攻撃能力増強)させている。伝家の宝刀を自ら投げ捨てているのである。

 日本の自称「保守」は、いまや日本の平和(非戦)という伝統を破壊する「急進派」に変貌している。
 福沢諭吉に発する「リベラル」または「保守リベラル」の系譜を振り返りながら、「思考の座標軸を立て直す」ことが喫緊の課題である。







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Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:34│Comments(0)批評・評論
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