2024年01月04日
岳父入滅論、やがておれも。

2023年12月、それまで約38年間同居してきた義父(妻の父)が亡くなった。
高啓詩集『二十歳できみと出会ったら』所収の作品「岳父落下論、そしておれも。」に出てくる「岳父」すなわち「ジジ」である。
3か月前に脳出血を起こして緊急入院し、意識がはっきりしない状態が続いていた。2乃至3度目の誤嚥性肺炎でついに力尽きたのだったが、それにしても心臓は逞しかった。
ジジの、同居する前50年余りの人生についてじぶんが知っていること(本人や家族から聞いたこと)はごく限られているが、こういう人物がこの世に生きていたという証として、ここにその概略を書きつけておきたい。
ちなみに、彼を「ジジ」と呼んできたのは、筆者がいわゆる「マスオさん」として妻の実家に住み始めたとき(ジジはまだ50代前半だったが)、筆者夫婦にはすでに子どもがいて、同居の初めから彼がその子の祖父だったからである。
さて、ジジは昭和6年(1931年)、北海道の利尻島で生まれた。
まだ母親のお腹の中にいるうちに結核で父親が亡くなり、生まれてすぐ母親の故郷である新潟県の柏崎に引っ越すことになる。その後、母親の再婚にともなって義父のもと東京都世田谷区、山形県西村山郡西川町と転居を繰り返した。
なお、ジジの母親は生涯で4人の夫を持った。1人目から3人目まではすべて病死したようだ。ジジは2人目の夫の子。1人目の夫との間にひとりの女児(ジジの異父姉)、3人目の夫との間にもひとりの女児(ジジの異父妹)が生まれている。ジジの母親は、縁あって山形県天童市の4人目の夫のもとに後妻として3人目との子を連れて嫁ぎ、そこでは子どもは生まれなかったが、夫やその前妻の子どもと落ち着いた暮らしをして天命を全うした。
ジジの母親の3人目の夫、つまりジジが実際に一緒に暮らした義父はかなり変わった人物だったという。当時は「超エリート」だった東京帝国大学卒。東京で出版か執筆かの仕事をしていたらしいが、戦中か戦後かは定かではないが、突然山形県西川町の山間部に移住し、自給自足のような生活を送り始めた。
この義父からジジはかなり厳しく育てられたようだ。「雨で体が溶けることはない」と言われ、寒い雨中での仕事も強いられたという。このころのトラウマか、高齢になってからのジジはとにかく水道の蛇口から出る冷水に手をかざすのを嫌がっていた。戦中及び戦後の混乱期に義父の下での生活がどのようなものだったか、生前にジジが語ったことはごく僅かだった。
高校を卒業した後は生活の自立のために自衛隊の前身である保安隊に入隊し、北海道の千歳で勤務した。そこがジジの青春の思い出の地となったのだろう。同期の元隊員たち数人との交流は、ジジ以外の全員が亡くなるまで続いていた。
その後、山形県東根市の神町(自衛隊の駐屯地がある)に移り、除隊。すぐに父親同士の縁で山形市の女性(筆者の妻の母。以後、「ババ」という。)と結婚し、ババの父親(つまりジジの舅)の意向によってその家の婿になった。
この舅(筆者の妻の母方の祖父)もまたきわめて個性的で我儘な人物だったという。ババによれば、もともとこの人物は山形市内で魚屋を営んでいたが、魚屋は妻にまかせて、自分は宮城県塩釜市に魚の干物工場を立ち上げた。戦後復興の時勢にのったのか一時は事業が成功し羽振りもよかったようだが、やがて経営は破綻したらしい。あるいは、相場か何かに手を出して大やけどしたのかもしれない。ババはこの自分の父親を「山師のような男」と言っていた。私生活でも妻子を泣かせるようなことをしたと聞く。なお、この「山師」は妻との間に少なくとも2男3女をもうけていた。第一子が男の子だったので本来はその子に後を継がせるところだが、この長男は父親の支配を嫌って東京へ逃げて行ったらしい。第二子である長女は病弱だったことから、第三子である次女(つまりババ)に婿をとることにした。
というわけで、ジジはこの干物工場及びその他の事業の跡継ぎに迎えられたはず、だった。
しかし、実の息子が逃げ出すようなオヤジである。まじめで我慢強いジジもこの舅の扱いに我慢の限界が来て、一人東京へ逃げ出す。ババは赤ん坊だった一人娘(後の筆者の妻)を抱えてその後を追う。
ジジは「大同製鋼」という製鉄会社に就職し、労働環境の厳しい溶鉱炉で働いたらしい。東京都葛飾区の小さなアパートでの妻と娘の3人での暮らしは経済的に苦しかったというが、ジジにとってはこれが初めての水入らずの家庭生活だった。
だが、3年ほどでこの生活にも終わりが来た。舅が亡くなり、未亡人である義母に家の跡を継ぐために帰郷するよう依願され、山形市の妻の実家に入ることになったのである。
山形に戻ってありついたのは、それまで未経験だった土木測量の仕事だった。どういう伝手だったのかわからないが、村山市の測量会社に職を見つけ、必死で仕事に取り組む日々が始まった。この時代(昭和30~50年代)の男の多くがそうであったあったように、「仕事人間」になり、家庭を顧みる余裕はなかった。何泊も続く県外出張の現場仕事も頻繁にあった。
高度経済成長期、土建業界は繁栄し測量業界も拡大していた。ジジの入社した会社は山形県内の測量コンサルタントとしてはトップクラスの規模になっていく。
ところで、この会社には労働組合があった。個別の企業労組(単位組合)としては闘う組合だったようで、経営者は労働組合を嫌ったのか別途子会社を立ち上げる。ジジはその忠誠心(?)を買われたのか、そもそも他人との揉め事自体を嫌う性格だったこともあるが、その子会社に移され、そこでも地道に業績を上げていく。そして50歳前後で、親会社の社長が山形市に作った別の子会社を預けられる形で、下請け・孫請け専門の、社員数人という零細測量会社のいわゆる〝雇われ社長〟になったのである。これでジジは村山市への遠距離通勤からやっと解放された。そしてそこで62歳まで働き、引き留めを断ってすっぱり仕事を辞めた。
この間に家庭生活にも大きな変化があった。依願されてババの実家に入ったと思ったら、ババの姉夫婦が実家に帰ってくることになって、ジジとババとその娘(同前)の3人はこの実家を出ることになる。これが48年前のことである。
ジジは山形市郊外の田んぼを潰して造成された住宅団地に土地を購入し、そこに今の家を建てた。この家がやっと彼に安住の場所を与え、そしてそこが終の住処となったのである。
ところで、山形市内に一戸建ての小さな賃貸住宅を借りて暮らしていた筆者家族がジジとババの家に同居することになった経緯は、拙著『非出世系県庁マンのブルース』(2022年刊、高安書房)に記したので、ここでは触れない。ただ、同居した筆者と舅であるジジの関係は(前記の詩作品で少しだけ描かれているが)、ちょっとシビアなものだった。
50代のジジと30代の筆者は、突然のジジの癇癪を機に何度も大ゲンカをした。ジジには弛緩した筆者の生活態度が許せなかったのだが、ジジは他人に逐一注意をしたり、あれこれ指示したりする人物ではなかった。とにかく限界まで無言で我慢して平静を保ち、堪忍袋の緒が切れたところで爆発するのである。
筆者が気を許して休日に居間に寝転んでテレビを眺めていると、いままで何も言わなかったジジが、「なんでここに寝っ転がってるんだ。自分の部屋があるだろう!」と怒鳴り、積りに積もった腹立たしさで突然の叱責を加えてくる。こういう突然の爆発はこちらの心臓に悪いし、筆者も興奮して、思わず売り言葉に買い言葉を返してしまうのだった。ときには手も出る足も出るということもあったし、物を投げつけあったりもした。
ところが、ババという人は賢い人で、筆者とジジが険悪になりかけると、決まって筆者の味方をし、間に割って入ってジジのことをひどく批判しはじめる。つまり、婿と舅の喧嘩を姑が買い、舅が仕事人間で家庭を顧みなかったことを責めたてて、あっという間に舅と姑の夫婦喧嘩に転化してしまうのである。ときにはわが妻もババに加勢してジジを批判する。これでは夫vs妻子の喧嘩になってしまう。こうなると筆者は嫌でも落ち着きを取り戻し、その喧嘩を止める側にまわるしかないのだった。
筆者とジジのこうした関係は、だが年月を経て次第に穏やかなものになっていった。とくに、ババが進行癌となり、その治療及び再発転移から最期にいたるまで筆者が彼女に寄り添ったことから、ジジの筆者に対する気持ちが変化していった。そして、ジジ自身が重傷を負った2度の大怪我(うち2度目の怪我では脳挫傷・外傷性クモ膜下出血で死にかけた)から回復するのにも筆者が手を差し伸べことで、関係はそこそこ良好なものになっていった。後期高齢者となって、ジジは筆者の助言も聞き入れたのだった。
地域との関係について記せば、退職後に2年ほど地区の区長を務め、老後はゲートボールや老人クラブ(今時「老人クラブ」などと名乗ってはいないが)のイベントなどで、地域の高齢者たちにたくさんお付き合いいただいた。そこで見せるジジの表情は、いつもにこやかで穏やかなものだった。
ジジの人生の前半は苦難の多い道のりだったと想像するが、今の自宅で暮らすようになってからの48年間は、落ち着いた生活だったと思う。とくに最後のこの20年余りは、妻に先立たれたとはいえ同居している実の娘に大切にされ、孫やひ孫たち(5人のひ孫たちは彼を「ヒージイ」と呼んだ)に愛され、親類や地域の人たちとも和やかに交流することができて、穏やかで幸せな日々だったように思われる。
じぶんは自宅のジジを失うまえ、10月に実家の兄(87歳)を亡くしている。
これで年上の男性親族はひとりもいなくなり、いよいよじぶんにも鬼籍に入る順番が近づいてきたという想いを抱く。じぶんの勝手な想いでは、最後まで酒と煙草をやめなかった明治生まれの実父の寿命85歳を超えることと3歳ほど年下の今上天皇より早くは死なないことを目指しているので、まだまだ倒れるわけにはいかないのだが、しかし確かに残された時間を意識して日々を送らねばならない段ではある。
あっは。ジジのことが好きだったわけではないのにジジの居なくなった家は想いのほか寂しい。とりあえず身勝手なじぶんを迎え入れて38年も一緒に暮らしてくれたことに感謝はしているが、それにしてもこれはどうにも不思議な感情なのである。合掌。
(注)写真はジジが最後に入院していた病棟からの展望。
Posted by 高 啓(こうひらく) at
16:55
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