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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2013年02月28日

東北芸術工科大学卒業制作展2013 感想その2


東北芸術工科大学卒業制作展(2月13日~17日)感想記、その2。

洋画専攻コースでは次の作品が目を引いた。






8 鈴木隆史「ひとにやさしく」

 A4サイズくらいの木板が展示室の壁の一面を埋めている。木板には、一枚一枚に木版画の板のように彫刻刀で簡単な絵が刻まれており、それで版画を刷ろうとしてインクを塗られたような形で(つまり黒地に彫刻刀で刻まれた絵が浮き上がるような形状で)壁に貼付されている。
 その刻まれた絵というのは、小学校低学年生が木版画を製作しようとしたような(完成形とはいえないほどの)未熟なものであるが、この黒い板(木版画の板に黒インクを塗ったようなもの)が壁一面に貼り付けられていると、奇妙にも落ち着いた温かみを醸し出してくる。この壁一面に貼られたのが、版画が刷られた紙でなく版画木であるところが面白い。うまい効果に気づいたものだと思う。








9 藤原泰佑「街―現在、過去―Ⅱ」

 住宅や店舗のスケッチを横長の断片に切り取って、その断片たちを、廃車置場で潰されて積み上げられたスクラップの車みたいに重ねたコラージュ・・・のように見える絵画作品である。
 「堆積した古い建築物の重なりが映し出すものは、この国が失いかけていた街の風土を内包した記憶の断片である。」と、作者のコメントが付してある。
 色使いのせいか、どこかにポップな雰囲気が感じられる。これがポップな雰囲気を醸し出している分だけ世の中に評価されるような気もするが、皮肉を言わせてもらえれば、記憶の断片がどうして廃車置場の潰された車のように積み重ねられるのか、その根拠は見えてこない。
 故郷の街の過去の繁栄の記憶と現在の衰退との巨大なギャップに直面して呆然とする者は、「街の風土を内包した記憶」を断片化などさせていない。なぜなら、風土の記憶はその全体性として成立しており、失われるときはその全体性として失われるからだ。喪失というものが、それこそとてつもない喪失感を連れてやってくる所以は、その記憶の対象であるものが全体としてこの世界から失われているという認知としてやってくるからだ。












10 金子拓「光景~さやさや~」

 濃い緑と黄色の色彩で描かれたブラック・メルヘン調のシリーズ作品。
 暗い森の中の小人たち、物陰で鳩首会議するひとびと、西洋中世のようにみえる衣装を纏った顔の大きな登場人物・・・物語の挿絵のような絵画だが、“世界は緑色の悪意で構成されている”とでもいうべき感触と、救われようのない独特の世界観を伝えてくる。
  








11 結城ななせ 空き店舗における表現活動

 この作者は芸術工学研究科修士課程修了者。
 鶴岡市山王商店街の「旧菅原イチロージ商店」(陶器店だった空き店舗)を借りて、そこを拠点に作品の制作・発表・ワークショップ等を展開している。この3月からは、子ども芸術研究領域の院生とともに、同じ場所で子どもを対象としたさまざまな技術や知恵をもつ地域の大人たちと連携した放課後の職業体験や社会体験のプログラムと、自らの制作活動を活かした体験型の造形ワークショップを開発・実施する計画とのこと。
 この卒業制作展の展示室には、作品の一部と前記の空き店舗における活動を記録した写真が展示されている。なお、この作者のFacebookに、空き店舗の板塀をデッキブラシで磨いている本人の写真が載っているが、これがなかなか素敵な写真である。結城ななせは、山形市の「まなび館」でもワークショップを実施するなど精力的に活動しているようである。



   

Posted by 高 啓(こうひらく) at 02:30Comments(0)美術展

2013年02月26日

東北芸術工科大学卒業制作展2013 感想その1

 2013年2月16日(土)、東北芸術工科大学卒業制作展(2月13日~17日)を観に出かけた。その感想を記す。

 じぶんは、毎年この制作展を楽しみにしているのだが、昨年はうっかり見逃してしまい残念な想いをした。今年はなんとかと想っていたが、結局1日(実質6時間)しか時間がとれなかったので、日本画、洋画、版画、彫刻、工芸、テキスタイル、総合芸術、映像(一部)の各専攻コース(学部及び大学院)に絞って会場を廻った。今回観ることができたのは、それでもこの卒業制作展の3分の1くらいだろうか。全会場を廻るには最低3日は必要。トークイベントや映像作品を観ようと想ったら、4日でも足りないくらいの規模である。
 毎回、もっとも楽しみにしているのは日本画専攻コースの作品である。次いで版画、プロダクトデザイン、企画構想など。今年は文芸科も加わったので興味があったが、時間切れで廻れなかった。


 では、日本画コースの作品の感想から記す。
 日本画コースの作品については、訪問した時刻にちょうどギャラリートークが行われており、それを聴かせてもらった。この大学から多摩美術大学に移った岡村桂三郎という教員が、事前にカタログから選んでいた作品について、各々5分程度の持ち時間で、その各作品の前で作者にコメントさせ、岡村氏がこれに質問や評価やコメントを返すというやり取りだった。
 ここで以下に取り上げた作品は、岡村氏が論評して歩いたうちの一部。作者や同氏のコメントに触れつつじぶんの感想を記すが、作者や同氏のコメントについては簡単なメモと記憶とに基づいており、不正確な点はご海容いただきたい。
 なお、日本画コースの作品は実に多様で、いかにも中国的な日本画(!?)といった作品から、ポップアート的な作品、黒一色の細密画やコラージュ、油絵の具でまったくの洋画まで展示されていた。専攻ごとに作品を比較してみると、この大学の作品制作系の専攻の中でもっともレベルが高いのが日本画コースかな、という印象である。






1 森山陽介「WIN TER MIRANDA」
  朝日連峰を描いた風景画。作者が風景から受けた強烈な印象を独自の手法で定着しようとしていて、いわゆる「風景画」とは大きく異なった印象を与える。ここに掲載した写真は、この絵のある部分を拡大したもの。山肌がパズルのような形態のパターンで描かれている。
 岡村氏は、この感覚の感受を評価しつつ、通俗的・安定的な描写と個性的な印象表現の境界にあると指摘し、もっと個人的な感動を表現に込める方がいいのではないかと語った。この指摘はとても的を得ていると思った。じぶんの印象では、作者は一見エキセントリックに見えるほど風景から受けた感動を語るのだが、作品はそこまで衝撃的ではない。岡村氏の言う“境界”に手がかかっているとはいえ、やや通俗的な領域の方に重心があるように見える。金箔による月は強い印象を与えるが、考えようによっては、これはずいぶんと安易な選択。山肌のパズル的な描き方と全体の骨太な筆致の行方が楽しみである。






2 多田さやか「空気の底」
  如来あるいは菩薩像を中心に据え、世界についての様々なイメージや視覚像を273×423の画面に配した大作。作者は「宇宙のシステムの中にすべてが組み込まれているこの世界なかで、喜び、苦しみ、キセキ(軌跡?奇跡?)、欲望をしっかりと持っていくという意思表示」だと語った。
  岡村氏は、「あなたの言いたいことは真ん中に描いていることではないか?・・・それをもっとはっきり出したほうがいい」という趣旨のことを言っていた。





  じぶんの見方を言えば、この種の世界観を描いた作品において、「言いたいこと」というものがもしあるとすれば、それは画面全体の構図として描かれるものである。この画面の中心に描かれているは菩薩像であるのだが、ユング流にいえば、これが曼荼羅のように中心に正面を向いて鎮座させられていないところ(つまり中心がそもそも確立していないところ)に作者の無意識の揺れや世俗的な自我の不安定さ(あるいは世俗的な自我確立への拒否の心理)が現れているとみることもできる。菩薩像がかき消されるかのように絵の具で傷つけられているところも、観る者の心をささくれ立たせる。







3 中村俊「されどひかりつづける」
  森の中に放置され、錆ゆく廃バスを描いた作品。作者は「無機物と有機物の組み合わせが好き。廃棄されたものにもまだ生命が宿っていることを描きたかった。」と語る。岡村氏は、森の描き方について「根性を入れて書いている。森の風景の重さ、その迫り方に深みがある。」と評価していた。
 たしかに技量としては上手い。伝統的な西洋画にも似た森の描き方、とくに光の処理に見とれる。だが、「廃棄されたものの生命」が感じ取れるとはいえない。また、廃棄されたものが即物的に迫ってくるわけでもない。廃棄されたもの(バス)が、生きているもの(森)の引立て役になってしまっているという感じ。







4 榎本聖「風に吹かれて」
  川辺にいる裸婦たちを右端から裸の少年が見つめている構図で、227×181が全4枚で構成される油絵の大作。裸婦のなかには妊娠しているものや片腕の肘から先がないものもいる。また裸婦たちの格好や骨格や筋肉の描き方が劇画チックで、少年の性器は勃起している。女性たちの数人は岸辺の草むらに寝転んだり尻をついたりしてポーズをとっており、別の数人はどす黒い緑色で描かれる川の中に立っている。
観る者の感性を逆撫でするような違和感が意図的に演出されている。鑑賞者が抱かせられる違和感は、この少年が女性に対して抱く違和感でもある。この劇画チックなタッチは、少年の視線を表現するための意図的なものだろうか、それとも作者の中に無意識のうちに刷り込まれた既成様式なのか。






  
5 堀内佑季子「響く」
  画面の上から下へ広がる蔓植物の葉の白い重なり。その下の暗がりにはぼんやりと虎が描かれている。描かれている対象物と構図とは、日本画によく出てきそうなものだが、虎が暗闇に潜んでいるというのではなく、暗闇と葉っぱの境界が不分明で、暗闇がそのまま虎のような黒い獣であるように描かれているところは新鮮。作者はまさにその不分明さを描こうとしたのだと語ったが、ただしそれ以外は全体として退屈。日本画における常套的な対象物が与える常套的な感性を逸脱して欲しい感じがした。


6 久島優「image reaction」(写真なし)
  180×270の画面にアクリル絵の具で描かれた都市のイメージ。
  画面が数多くの左右斜めの切り口で細かくずらされ、そのズレによって囲まれる四角形のモノクロのコラージュによって全体を表現している。どこかで幾度か観たことのある画面で新鮮味に欠けるが、細部まで丹念に切り結ばれているという点では好感をもつ。
  作者は「就活で訪れた東京のビルの海」をイメージしたと語ったのに対して、岡村氏は「就職するんだ?絵は描かないの?就職しても描いていって。」と制作継続を勧めていた。このひとコマに、部外者のじぶんは、芸術大学というものの“ヤクザさ”を感じてざわりとした。

 【以上が岡村桂三郎氏がコメントした作品から。】












7 今枝加奈「ode(オード)」
  大学院修了者。都市についての世界観を描いてみせた200×500の大作。
  細かな凹凸のある灰色の肌合いと段差のある街の構成、そしてこの都市が浮かぶ海(のように見える宙)の描写が、その広い展望と相俟ってひとつの世界観を創り出している。
観覧車、大きな擁壁、テント、聳え立つ塔(煙突?)などが、この世界に住むひとびとについての想像を書き立てる。だが、右側に配置された空中都市の遠景は、この世界のイメージが映画やアニメからの借り物であるように思わせるものでもある。 


 【次回へ続く・・・】                                                                                                                                                                                  

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:21Comments(0)美術展