2022年11月24日

鈴木志郎康さんの思い出





 2022年9月、詩人で映像作家の鈴木志朗康さんが亡くなった。87歳だった。
 ぼくが志郎康さんに会ったのは二度。一度目は、たしか「山形国際ドキュメンタリー映画祭2005」の開催期間中だったと思う。場所はかつて山形市役所の近くにあった「香味庵」という蔵屋敷の料理屋(それは漬物屋「マルハチやたら漬け」の店舗兼工場でもあった)の座敷だった。
 この年の映画祭の企画の一つ「私映画から見えるもの―スイスと日本の一人称ドキュメンタリー―」で志郎康さんの作品『極私的に遂に古希』(After All , I’m 70 Years old)が上映されるのを機に、志郎康さんが来形し、「書肆山田」の鈴木一民さん、詩人で上山市在住の木村迪夫さんが酒席を共にすることになった。その際に鈴木さんか木村さんにお声掛けをいただき、高啓が同席させていただいた。この前年の4月に高啓は書肆山田から詩集『母を消す日』を上梓していたことから、お呼びがかかったわけである。
 このときどんな話をしたか記憶はないが、ただ志郎康さんとの別れ際に、「もしよろしければ帰りの新幹線ででもお読みください。」と言って、この詩集を手渡したことだけは覚えている。
 驚いたのはその二、三日後、志郎康さんから連絡が来て、「あなたの詩集を帰りの新幹線で読んで、あなたにお会いしたくなった。ついてはすぐにでも山形に行きたい。」というのだ。そして香味庵での初対面から一週間もしないうち、ぼくは志郎康さんを山形駅で出迎えることになったのだった。

 その夜は、山形市七日町の古びた飲み屋街「花小路」にある割烹「浜なす分店」に部屋を取って、盃を交わしながら詩にまつわる話をした。志郎康さんは、ぼくの詩集『母を消す日』を丁寧に読んでいくつもの感想とサジェスチョンとをくれた。ぼくはそれを、酒を飲み飲みノートを取りながら聴いた。でも、このときの話で今も記憶に残っているのは、志郎康さんが語ったご自身の内心のことだ。
 志郎康さんはしばらく前から、他者が書いた詩をまったく読めなくなっていた。一切受け付けなくなっていた。・・・というのである。この時、志郎康さんは映像作家として多摩美術大学の教員の職についていたので、かつてのように他人の詩を選考したり論評したりする経済的な必要性からは解き放たれていたが、それにしても他人の詩を全く受け付けられないというのは深刻な悩みだったのだという。
 そしてそれに続けて、こんなふうに話した。・・・しかし、あるときふとしたことから、その詩を書いた作者本人に直接対面して話をすると、その人の詩も受け付けられることに気がついた。そこで詩人に会いに行くことにした。あなた(高啓)はそのようにして会いに来た二番目の人だ・・・と。いわば、ぼくに会いにきたのは志郎康さんにとって〝詩のリハビリテーション〟のためのものだったのである。
 さらに続けて、志郎康さんは「あなたのこの詩集の作品に出てくる場所に連れて行ってほしい」と言うのだ。それで是非もなく、ぼくは翌日志郎康さんを車で「詩に出てくる場所」のいくつかに案内すると約束してしまったのだった。

 翌日、自家用車でホテルから志朗康さんを載せ、最初に向かったのは山形駅東口のペデストリアンデッキだった。これは前掲詩集収録の作品「ペディストリアン・デッキのドッペルゲンガー」の中に出てくる〝場所〟だ。そして次に向かったのは山形駅からほど近い五日町踏切だった。これは同じく作品「五日町踏切を越えて」の〝現場〟である。
 この二つの場所を回って、まぁこれぐらいだろうと思っていたら、志郎康さんは「そういえばザリガニが出てくる詩があったね。その沼にも連れて行ってほしい。」と言う。その作品は「インポオ・テンツウになる日」、その沼とは蔵王温泉地内のため池「鷸の谷地沼」(しぎのやちぬま)のことだ。山形駅から車で40~50分かかる。

 蔵王温泉への道すがら、志郎康さんの問いかけに応える形で自分のことを話した。
 山形大学4年生の後期に突然国立大学法学部の大学院受験を思い立ったこと。学生時代の専攻は日本政治思想史で、指導教官から論文をかけと言われて山形県出身の高山樗牛について書こうとしたが、構想が長大になり途中までしか仕上げられなかったこと。卒業要件になっていないこの論文に取り組んだことで、外国語の勉強が全然できなかったこと。北海道大学の大学院受験に失敗し、帰りの青函連絡船から厳冬の津軽海峡に身を投げようとしたこと。それでも指導教官から進められて静岡大学の専攻科に入学して翌年の大学院受験を目指したこと。ところがその年から大学院入試の期日が大幅に前倒しになっていたことを知らずにいて、受験機会を逃すという大失態を演じたこと。いろいろあって山形に帰り、公務員試験を受けたこと。そして山形県職員となったこと。・・・等々である。(この間の経緯は近著『非出世系県庁マンのブルース』の第Ⅳ章「要領の悪い歩行について」に少し詳しく書いてある。)
 鷸の谷地沼に着くと、志郎康さんは車から降りてビデオカメラで風景を撮り始めた。ふと振り向くと、ぼくの後ろからぼくの姿も撮っていた。内心、このシーンは絶対に作品で使わないでほしいと思ったものだ。
 蔵王温泉から下る車中でも、またぼくの話になった。県庁職員としてどんな仕事をしたのかと問われ、「そうですねぇ、こんなことをしましたと人に話せるのは、米沢に『伝国の杜』という山形県の文化ホールと米沢市の博物館を合築した文化施設を造ったことですかね・・・」と話すと、じゃあそこに連れて行ってくれというのである。それでここからまた1時間以上、志郎康さんと車中の話が続いたのだった。
 志郎康さんもご自分の身の上話をした。NHKのカメラマンを辞職して詩や映像で飯を食っていこうと決断したのは、(ぼくの不確かな記憶では)親の遺産で都内に一戸建てのマイホームを手に入れることができたからだとのことだった。それから奥さんのことでいろいろと気を使っていることも話してくれた。(ここはこれ以上明らかにはできないが。)
 ぼくは志郎康さんがかなりプライベートなことまで話してくれるのに少し驚いていた。もっとも、そういう自分はベロベロと饒舌に個人的な事情を話していたのだったが。
 
 志郎康さんは、「伝国の杜」のプロジェクトを巡って、県と市が激しく対立したことや、ぼくが県の内部でひどく孤立したこと、そしてどんな問題にどのように対応してきたかの話にずいぶん興味をもって耳を傾けてくれた。(この話も『非出世系県庁マンのブルース』の第Ⅲ章「米沢の能舞台はなぜ空気浮上するか」に詳しく書いた。)
 結局、「伝国の杜」や上杉神社の一帯を見物しながら、志郎康さんは米沢市企画調整部=上杉藩精鋭部隊とたった一騎で対峙した佐竹藩脱藩士のぼくの恨み節に全部付き合ってくれたのだった。米沢駅近くの喫茶店で一休みして、同駅から新幹線で帰京するまで、おそらく二日間で10時間以上一緒にいた計算になる。志郎康さんは70歳、ぼくは48歳だったが、お互いにずいぶんと疲れたはずである。

 この2年後も映画祭で志郎康さんの作品が上映されることになったので、来形の折はぼくがアッシー役を買ってでますと伝えたのだが、東北芸術工科大学の教員になっている教え子や知り合いが接遇してくれる、もっぱらそちらと時間を共有するので、という理由で断られた。そしてこのあと、ぼくは二度と志郎康さんと会うことがなかった。
 志郎康さんは内心、ぼくと過ごした時間に辟易していたのではないだろうか。それでも、ぼくにとって志郎康さんと過ごした濃密な時間は一生の思い出になっている。

 志郎康さん、あの世でまた話したいです。そのときは断らないでくださいね。合掌。
                                                                                                                        
                                                                                           

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:46Comments(0)活動・足跡徒然に

2022年11月13日

久しぶりにジャズ喫茶「オクテット」へ




 【注】 以下の内容は「高安書房」のブログに記載した内容と被っています。

 山形名物(?)の濃霧の季節が来ました。
 今日は午後から天気が崩れ、また一段と気温が下がるようです。
 街に降りてきた紅葉もそろそろ終わりが近付いている・・・・。

 ちょっと山形駅前をぶらつく時間ができたので、ほんとうに久しぶり、たぶん10年以上ぶりに山形駅前のジャズ喫茶「オクテット」に行ってきました。マスターの相澤さんが高齢になり、継承者を探しているがその専門性ゆえになかなか見つからないという新聞記事を見て、〝ああ、相澤さんがまだ店に出ているんだ〟と思い、懐かしくなったからです。
 というのも、だいぶ以前ですが、店を訪れたり覗いたりしたとき別の方が店をやっていたので、相澤さんはあまり店に出ていないのかなと思っていたのです。
 珈琲の味は相変わらずで私の口には合いませんが、雰囲気は変わらず、私が知る限り40年くらい前のままです。この日はミルト・ジャクソンのビブラフォンの演奏曲が流れていました。久しぶりにレコードの音色を聴きました。レコードはいいですね~。

 この日は長い髪の女性店員に相澤さんがいろいろ説明していました。品出しのことだけでなく、レコードやアーティストの説明もしているようだったので、この人を後継者にするのかな・・・と思いました。
 「いつもまでもあると思うな店と街」という一行を詩に入れたことがありますが、まさにそのとおり。時は残酷です。駅前の飲み屋街の見慣れた店も無くなっていました。「修ちゃんラーメン」「焼肉大雅」それに「クワイエット・カフェ」など、私はあまり入ったことはなかったのですが、寂しいです。

 ところで、山形駅周辺で観光客の姿を見かけるようになりました。
 非アジア系の外国人の観光客姿もちらほら。
 紅葉最後期の霞城公園も美しいです。

 さて、高安書房のブログで、『非出世系県庁マンのブルース』へのコメント(その4)を紹介しています。
 そちらもご覧になってください。

 おかげさまで山形県内の書店で少しずつ売れているようです。
 八文字屋書店各店舗、小松書店本店、くまざわ書店さんなど、2回目の配本になりました。八文字屋北店さんでは、最初の配本のときは郷土図書の棚でしたが、今度は文芸・教養新刊書のコーナーに平積みされていました。
 また、県外の公共図書館や県内の高校の図書館からの注文もぽつぽつ来ています。
 図書館の方には個人の方と同じように直接高安書房に注文いただきたいのですが(直接購入だと消費税がかかりません)、支払い手続きが面倒な場合は取引のある書店に取寄せ依頼してください。
 山形県内の学校の場合は「山形教育用品株式会社」さんをご利用されてると思いますので、そちらでも対応してくださるようです。
 山形県内の書店の方は、もし「山形県教科書供給所」さんと取引がありましたら、そちらへ発注してください。もちろん、高安書房へ直接注文いただけます。
 先日、TOHANさんから注文が来ましたが、返事の電話で「大手取次との取引は今のところしていなので、どのようにお付き合いしたらいいかわからないのですが・・・」と申し上げたら、「じゃあいいです」で終わってしまいました。
 本当は取引していただきたいのですが、たぶん、小社のようなミニマム出版社と1冊ごとの取引はしていただけないと思います。

 高安書房への発注方法はこちらをご覧ください。



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:09Comments(0)徒然に

2022年11月06日

『非出世系県庁マンのブルース』秋田魁新報で紹介されました。





秋田魁新報2022年11月6日号の「各地の本」という新刊書紹介コーナーに『非出世系県庁マンのブルース』が取り上げられました。これは共同通信社の配信記事です。

 「『官官接待』やその原資を捻出する『カラ出張』が日常的だった時代の、土木部門と中央省庁の関係性を巡る証言は生々しい。後に社会福祉法人の不正を暴くため血眼になった自分を『自家撞着』と呼ぶあたりに、公のため働く者の自負をみた。」

 後段の「自分を『自家撞着』と呼ぶあたりに、公のため働く者の自負をみた。」という文がカッコいいですね。(読者には、本書を読んで頂かないとそのココロは伝わらないとは思いますが。)
 実に簡潔で分かりやすい紹介文なのですが、ただひとつ、玉に傷があります。
「ケースワーカーとして生活保護受給者を回った新人時代から、特産品の紅花の販路拡大に奔走した野菜花弁専門員まで、あらゆる業務をこなした。」
 ここの「野菜花弁専門員」は誤り。「野菜花卉(かき)専門員」が正しい職名です。

 本書にはこのほか、秋田営林局(現・東北森林管理局)の職員を秋田市の盛り場「川端」で官官接待した話(第Ⅰ章「秘密指令!県費350億円を防衛せよ。」)や山形新幹線の初期不良によるトラブルについて歓迎するような発言をした秋田県知事の話(第Ⅲ章「米沢の能舞台はなぜ空気浮上するのか」)及び米沢市から県庁に通っている同僚に「そういえばあなたは佐竹藩だったんだ・・・」と言われた話(同)、それに湯沢市役所職員採用試験の受験体験(第Ⅵ章「要領の悪い歩行について―山形県に採用されるまで―」)など、秋田にまつわるエピソードが書かれています。
 秋田県の方、ぜひお読みになってください。面白いですよ。

 ご注文は「高安書房」サイトの「高安書房への発注方法」をご覧ください。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:47Comments(0)高安書房