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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2010年07月03日

金沢蓄音器館



 前回、JR東日本の「大人の休日倶楽部」の期間限定割引切符を利用して訪れた金沢21世紀美術館について記述したが、この金沢行について、追加して述べておきたいことがある。
 ひがし茶屋という観光スポットを訪れた帰り道、偶然その前を通りかかった金沢蓄音器館についてである。
 じぶんはとりたてて蓄音器に興味はなかったし、どうせ蓄音器が陳列してあるだけだろうくらいの考えで、半分は蒸し暑さをしのぐため休憩所に立ち寄るみたいな気持ちで入ったのだった。
 入ってみると、まず1階にホールがあり、その壁の陳列棚には、ラッパの突き出た蓄音器が何台も展示されている。このホールでは時々ミニ・コンサートなどが開催されているようだったが、丸テーブルと木製の椅子があったので、その一画の自動販売機でコーヒーを買い、だらりんと涼んでいたら、これから蓄音器の試聴を行うという館内放送があった。(日に3回の実演タイムが設定されている。)

 せっかくだから聴いて行こうと、2階の展示室に向かう。
 集まった客は、山陰から来たという30代後半の男性ひとりと、青森から(きっと「大人の休日倶楽部」で)来たという初老の夫婦など、合わせて5人ばかりだった。
 そこに館長らしき男性が登場して、蓄音器の解説を始めると、その名調子にすぐに引き込まれる。彼は、解説しながら、6、7台ほどの蓄音器をかけて、さまざまな音楽のレコードを聴かせてくれた。
 初めに取り出したのは、エジソンの発明した円筒形のレコード。
 解説によれば、エジソンは、レコードの溝の縦の変化で音を再生する方式にこだわった。横の動きによるものより、上下の動きによる方が音質が上なので、音質を重視してこちらを採用すべきだという信念のもとにそうしたのだという。
 しかし、対抗馬があらわれ、そちらの事業者は、いまのレコードの方式、つまり円盤の形をしたものに渦巻状に溝をつけ、針の左右の振れによって音を復元する方式を普及させようとしてきた。
 エジソンも円盤形のレコードを開発するが、縦方式にこだわったため、レコード盤が分厚くなり、また、これも音質重視のため、針にダイアモンドを使ったことから、蓄音器もレコードも高価になってしまった。
 対抗事業者の方は、音質よりソフトに力を入れ、有名な演奏家を囲い込んでそのレコードを発売する。・・・エジソンはこのソフト戦略に対するセンスがなく、またソフトの戦略を企画・実施するパートナーにも恵まれなかったため、あえなく敗退した・・・という話だった。いつの時代にもありそうな話である。
 エジソンが発明した蓄音器は、円筒形のレコードの方も、分厚い円盤形のレコードの方も、想像した以上に鮮明な音で、音量も大きかった。
 しかし、ほんとうにびっくりしたのは、1920年代の製品の音量と音質だった。
 この時代になると、蓄音器のラッパの部分は、箱のなか(回転テーブルの下部)に仕舞われ、蓄音器は家具の衣装をまとう。つまり、ラッパも、その外見が、いまわれわれがイメージするスピーカーのようになる。
 音量は、ラッパの部分の長さや大きさ、構造や材質などによって決まる。箱のなかでラッパの長さを確保するために、蛇行させて収納する構造が採用され、各メーカーが音質と音量の競争を始める。
 この時代のイギリス製やアメリカ製の蓄音器の聴き比べが、なかなか興味深かった。
 しかし、やはり驚かされるのは、その音量である。
 ほんとに、これ、発条仕掛けでターンテーブルが回っているだけ?・・・ほんとに電気で増幅していないの!?と疑ってしまうほどの音量だった・・・これは一聴の価値がある。
 また、あるラッパ露出型の蓄音器の視聴では、その音に雑音がないことにも驚かされた。さらに、モノラルなのに、音の聴こえ方に位置関係(楽器と歌声の前後関係)が感じ取れるものなど、昔のアナログ録音・再生技術のレベルの高さを実感することができた。

 解説の方から、どちらから?と尋ねられ、山形からだと応えると、天童のオルゴール館に行ったことがあるとのことだった。残念ながら、天童のオルゴール館は閉館になってしまいましたと話すと、そうですってね、残念です・・・とのことばが返ってきた。
 この蓄音器館は、地元で長年レコード店を経営していた方が、個人コレクターとして収集した約540台を金沢市に寄贈して創られたものだという。
 入場料収入は微々たるものだろうから、運営はたいへんだろうが、なんとか維持していってほしいと思った。
 ただし、やはり蓄音器は“聴いてなんぼ”のもの。ただの陳列ではつまらない。
 維持していってほしいのは、施設というより、この名調子の解説と試聴のパフォーマンスの方である。


 蛇足だが、金沢ではお約束の、兼六園にも出かけた。
 いつだったか忘れてしまったが、大昔、初めて金沢を訪れた際にも、兼六園を歩いた記憶がある。まだ、金沢城址に金沢大学のキャンパスがあったころである。
 このたび目にした兼六園は、ずいぶん木々が成長し、緑が多くなった印象だった。言い方を換えれば、緑が増えすぎて、洗練された庭園としての佇まいがぼやけてきているような感じである。
 草木を撤去したり、強剪定したりするのも庭園の調和を崩す危険があるので、おいそれとは手を付けられないのだろうが、このままでは「庭園」ではなく「公園」になってしまうような気がする。
 いやはや、時間はあられもなく残酷に経過していく。あちらでもこちらでも、運営者や管理者は、この時間との闘いに、いろいろと知恵を絞らねばならないということだ。・・・あっは。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 10:46Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2010年07月01日

金沢21世紀美術館「ヤン・ファーブル×舟越桂」展



 JR東日本の「大人の休日倶楽部」の期間限定割引切符を利用して、金沢市の金沢21世紀美術館を訪れた。
 金沢市を訪れるのは3乃至4度目だったが、21世紀美術館は初めてだった。
 わざわざこの展覧会を観るために金沢に行ったというわけではないが、金沢訪問の最大の理由は、この美術館を訪れることにあった。もちろん、ほんとうのところは山形〜金沢の往復で12,000円という割引切符を利用できることが最大の理由なのだが。
 山形新幹線で山形から大宮、上越新幹線で越後湯沢、そして特急「はくたか」で金沢まで、7時間近い列車の旅・・・時間的にはそれほど苦にはならなかったが、トンネルが多く、しかもどれもけっこう長大なのにはやや閉口する。もっとも、フォッサマグナを斜めに横切るのだから、これも致し方ないことではあるが・・・。
 また、行く先々で、周りを見回すと、“「大人の休日倶楽部」の期間限定割引切符を利用して金沢まで来ました!”と札をぶら下げているかのようなオジサン、オバサン、ジジ、ババばかりなのがなんとも複雑だが、じぶんもそのうちのひとりなのだし、金沢は観光都市・・・これでメシを喰っているのだから、しょうがない・・・と諦めた。
 ところで、JR東日本のこの割引切符の期間だが、昨年までは年に4回ほど設けられていたが、今年は年2回に減らされてしまった。その2回も梅雨の時期と冬の厳寒期・・・。
 JR東日本にどんな損得勘定があるか知らないが、利用者としては、ぜひとも回数を復元してもらいたいものである。

 閑話休題。
 「ヤン・ファーブル×舟越桂 −新たなる精神の形―」展(Jan Fable×Katsura Funakoshi― Alternative Humanities  2010年4月29日〜8月31日)について、簡単な感想を記す。

 この展覧会についてなにかを記そうとすると、まずこの展覧会が開催されたハコ、つまり金沢21世紀美術館の構造とその使用法について触れずにはいられない。
 この美術館は、円形の建築面積をもった一つの建物なのだが、その円形のなかに、コンクリート壁で囲まれたボックス型の展示室(ただし、うち一つだけは円形)や全面ガラスの光庭が配置され、それぞれが独立した建物のように構成されている。
 各展示室を結ぶ通路は大きなガラス扉で遮られ、無料で立ち入ることができるスペースから区切られている。展示室には番号が振られているが、いわゆる「順路」というようなものはない。
 この展覧会の場合は、展示室の1、2、3、7、10、11(及び通路の3箇所)に舟越桂作品が展示され、4、5、6、8、9、12(及び通路の4箇所)にヤン・ファーブル作品が展示され、唯一の円形である14展示室には、両者の作品及び西洋と東洋の「歴史的名画」が配置されている。(さらに、このなかに美術館の建築と一体となった常設作品の展示も存在する。)
 また、この展覧会には、他でよく見かける章立てや章ごとの解説などは存在しない。したがって、鑑賞者は、どちらかといえば行き当たりばったりとでもいうような塩梅で、二者の作品の展示室を“順不同”に観て歩くことになる。いいかえれば、個々の展示室に入って初めて、自分が誰の作品を観にきているのかに気づかされるのである。
 また、西洋の14〜17世紀の「歴史的名画」や、東洋の「歴史的名画」として展示されている河鍋暁斎らの作品には解説があるが、肝心のヤン・ファーブルと舟越桂の作品には、解説が一切ない。(なお、解説文は展示物の傍にプレートで表示されているのではなく、展示室の入り口の箱のなかにビニールコーティングされたカードとして置かれている。鑑賞者がそれを手にとって持ち歩き、その部屋を出るときに出口の箱に返すというもので、手元でよく読むことができる点では都合がいいが、客が一度につめかければすぐに底をつくわけで、この点では不都合だろう。)

 さて、まず、ヤン・ファーブルと舟越桂のそれぞれの作品について、簡単な感想を記す。

 ヤン・ファーブルは1958年ベルギーのアントワープ生まれ。同地在住。この展覧会の資料から引用すると「美術、演劇、オペラ、パフォーマンスなど、ジャンルを横断する活動で知られている。昆虫やクモの観察から構築されたドローイング作品や動物の死骸や剥製を取り入れた彫刻作品、また、地や塩などをもちいたパフォーマンスなど、生と死についての探求が一貫してファーブルの制作テーマとなっている」とのこと。
 作品の展示を観て、感じたことは、とりあえず二つ。
 一つめは、この作家のマメさ、多才さ、多芸さ・・・ということ。様々な手法の作品が提示さえているが、それに別々の作者名が付けられていたとしても、まったく異和を感じない。この作者は、要するに“あれも、これも”なのだ。
とくに膨大な数の昆虫の死骸を丁寧に貼り付けて形成した作品群には恐れ入った。(もし、その作業を自分ひとりで行ったのなら、という条件付きでだが。)
 とくに、「墓(剣、髑髏、十字架)」と題された作品(展示室12)は、展示室の側面全面に、十字架と髑髏が配されているのだが、その「十字架」は、木製の十字架を剣の柄に見立てて、剣の刃の部分が無数の甲虫の死骸で構成されている。また、髑髏は表面がすべて甲虫の死骸で覆われており、その口には兎のような小動物の剥製?を咥えている。(一部の甲虫の死骸は、鮮やかな緑色系を基調とした玉虫色の光を放ち、遠目からみるととても美しい。)
 そして展示室の奥の側面の中心には、これら血なまぐさい表象に囲まれて、アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck 1599-1641)の「アマリア・フォン・ソルムス=ブラウンフェルズの肖像」(1629)というふっくらした貴婦人の肖像が掲げられている。
 このような「歴史的名画」と血なまぐさい表象の組み合わせという手法は、展示室9の梟の首の剥製と17世紀のヤン・デネンス(Jan Denence)の絵画「ヴァニタス」(「トロンプルイユ」という目騙しの手法を使って、静物を構成した絵画)などを配した作品でも採用されている。
(この作品を観たとき、じぶんは“おいおい、梟はいまや希少種だろう?・・・多数の固体を殺して、こんなことに使用していいのか!?”などと、つまらぬこと?を考えてしまった。)
 しかし、生と死のイメージを、無数の昆虫の集合体に託すという発想は、じぶんたちには映画の世界(「インディ・ジョーンズ」やら「ハムナプトラ」やら)で身近なものとなっているせいか、それほどインパクトを受けるような代物ではない。
 中世の貴人・貴婦人やら聖像画やらの引用(構成的使用)についても、いかにもキリスト教的権威とそれへの告発をおどろおどろしく演出しているように見えて、こちら異文化の人間としては、まぁ、勝手にやってくれ、という印象である。(アンチ巨人が所詮は結果的に巨人ファンであってしまうように、キリスト教へのこの手の告発は所詮キリスト教の尊大さを支える機能をもつ。)
ヤン・ファーブルの作品展示で、いちばん面白そうだったのは、実は通路に掲げられた液晶モニターで上映されているパフォーマンス作品「問題」(The problem , 2001)だった。
 この作品は、草原のような荒野のような場所で、黒マントに蝶ネクタイの中年から初老の男3人(うち一人はヤン・ファーブル)が登場し、大きな球(ちょうど運動会の球ころがしに使うような形で、大きさはそれを転がす人の顔が球の上にでるくらいのもの)を転がしながら、人生の意味?について語るというもの。(この球が土色をしているので、ジャン・アンリ・ファーブルの昆虫記に出てくるフンコロガシを想像してしまう。)
 ドイツ語の原語に英語の字幕が表示されるが、英語の苦手な自分には、単文それぞれの意味は追えても、セリフ全体が作品として何を意味しようとしているのか、一度見ただけで全体を理解するということができなかった。生と死、夢と現実・・・そんな風な、たぶん大したことは言っていなかったと思うが・・・(苦笑)
 それでいて何が面白いかというと、登場人物たちが、その修景とともにかなりサマになっていることと、張りぼてのような球を転がし、ドンドンと叩く効果音が非常に気になってくる点だ。これは心に響く音だと言ってもいい。
 ヤン・ファーブルとエドワード・オズボーン・ウイルソンという人物が対話する「脳は身体の中で最もセクシーな部分か?」(2004)や、ヤン・ファーブルが中世の騎士の鎧を身につけてチャンバラ一人芝居を演じる「ランスロット」(2004)などの映像も(ヤン・ファーブルの自意識過剰度合いを等閑に伏すならば、)面白かった。

 ヤン・ファーブルは、彫刻やオブジェ作品にも、頻繁に自分を登場させている。
 この展覧会のパンフに使用されている写真は、彼の「私自身が空(から)になる(ドワーフ)」という作品(2007)のものだが、ここで「ブルゴーニュ公、フィリップ善良公(1396-1467)の肖像」という絵画に顔をくっつけているのはファーブル自身を模した人形である。この人形の足元の床は、流れ出た血のようなもので濡れている。
 金属による彫刻作品では、金属製のバスタブを7つ並列させ、うちひとつに男が着衣のままうなだれて浸かっている「水に書く男」(2006)、空に向かって物差しを差し出している男を描いた「雲を測る男」(1999、金沢21世紀美術館常設展示作品)などのモデルも、一見してファーブル自身だと思える。この“目立ちたがり”の度合いが著しいなぁというのが、感じたことの二つ目である。
 これらの他にも、展示室6の青いボールペンで書かれた大きなドローイング作品(1986、1987)などは、ヤン・ファーブルの多才さ、マメさを表現しているが、その印象は、全体としては、要するに「多才で多面的な現代アート作家」というようなもので、芸達者ではあるが、じゃあ、あんたは何が表現したいの!?と問い詰められたときに、いまひとつという感がある。




 次に、舟越桂の作品展示について。

 舟越桂は1951年盛岡市生まれ。東京在住。これも展覧会の資料から引用すると、「一貫してクスノキによる彫刻表現を手がける。生み出されるかたちには、滑らかさや繊細さと、作品全体に残る鑿(のみ)痕の力強さとも調和があり、独特の存在感が漂う。詩的で気高さに満ちた作品は。『具象』や『観念』といった概念を超越する世界像を示す。」

 さて、舟越の作品は、マスコミで紹介されることが多く、また何冊かの書籍の装丁に使用されてもいるので、書店の書棚やテレビ番組で多くの人々が見たことがあるだろう。
 じぶんもその一人で、舟越桂の作品はこういうものだという一定の先入観はあった。(たぶん、以前に、どこかの美術館で、舟越作品を直接観たこともあったと思う。)

 しかし、この展覧会で多くの舟越作品に触れて、これまでのじぶんの舟越作品に対する印象は揺さぶられ、少しく改変されるのを感じた。
 この美術館の図書室で、舟越作品の写真をまとめた書籍を見ることもできたが、たしかに、これまでの舟越の作品集で見るその作品(の写真)は、稠密で繊細で気高い哀しみとでもいうべきものを湛えた「具象」であった。
 しかし、この展覧会に出品されたクスノキの彫刻作品を観ていくと、2000年以降、とくに2005年以降の作品に少なからぬ変化が生じていることが看て取れた。
 作品が「具象」から少しずつ逸脱していく道行きは、まず、彫刻された頭部に杭のようなものが残されている作品の登場から始まる。この杭みたいな部分は、初めは胸像のモデルの青年の髪型であるかのようにして出現するが、やがて彫刻作業をそこだけ仕残したかのような、接合部の切れ端というか切りしろみたいなものとして現れてくる。それは、ちょうどその形象=作品が、プラモデルの部品のように母体と繋がっていた接合部を切り離され、単体としてこの世界に放り出されてしまった存在であることの、その痕跡ででもあるかのような印象を与えてくる。
 そして、その切りしろの表現は、やがて肩から(腕を省略した)掌が突き出ていたり、躯体からなにか突起が出ていたりする構成へと繋がっていく。
 その先に現れるのは、「戦争をみるスフィンクス?」(2005)、「遠い手のスフィンクス」(2006)、「森に浮くスフィンクス」(2006)などの作品である。
 「戦争をみるスフィンクス?」は、視たくないものを視たときのように表情が大きく歪んだ作品だが、他にこのように表情が歪んだ作品は(この展覧会の出品作品にも、発行済みの作品集にも)見当たらないので、舟越の作としてはきわめて突出した印象を受ける。
 もっと印象的なのは「森に浮くスフィンクス」である。この作品では、すでに表情は無表情に戻っているが、胸に大きな乳房、股間に男性器があり、両性具有の存在として描かれている。しかも、腰のところから蔓のようなものが出ていて、それによって躯体が支えられ、宙に浮いているように描かれている。
 色使いもそれまでの作品とは一線を画している。青緑や頬紅色などを使い、地の木肌に化粧のような彩色を施している。
 肖像のような具象的な彫刻に塗り込められていた静謐さと力強さとの静かな均衡が失われ、不安と動揺が噴出してきたことが、形象と彩色の試行に現れている。ああ、舟越桂という作家もまた、このように激しい揺れと模索を内部に抱えていたのか・・・と思い知る。
 この変化(というか混乱)を、なんとか落ち着けて定着しようとしたのが、このパンフの写真の作品「森の奥の水のほとり」(2009)だという気がしてくる。
 この作品は、それまで作者がこだわってきた長い首と豊満な乳房とパステル調の彩色という手法の完成形として上手く纏まっているかのように見えるが、観る側にとっては、危うい均衡としてやっと成立しているような感じがする。喩えはあまり適切でないが、自分の投げるべきボールを見失い、コントロールを乱したピッチャーが、ストライクを稼ぐためにとにかくボールを“置きにいった”ような作品だというのがじぶんの印象である。もちろん、それはそれで魅力的ではあるのだ。


 さて、この展覧会の狙いは、美術館の中心部に位置し、唯一円形(正確に言えば円筒形)をした展示室14における展示に代表的に表現されている。
 この部屋には、ヤン・ファーブルの作品と舟越桂の作品に加え、フランドル派の「悲しみの聖母」(15世紀)、作者不詳の「エッケ・ホモ」(16世紀)、ヤン・マセイス「聖家族」(1563)、ヤン・プロフォースト「アレクサンドリアの聖カタリナの殉教」(16世紀)、ヤン・ホッサールト「冷たい石の上のキリスト」(16世紀)など西洋の宗教画と、河鍋暁斎(1831-1889)、狩野芳崖(1828-1888)、川島甚兵衛(二代目)(1853-1919)、東翠石の、観音像や天女など明治期の日本の宗教画の掛け軸が展示されている。
 「エッケ・ホモ」は、ローマ総督ピラトがキリストを嘲弄するために発した「この人を見よ」という言葉。この作品は、捉えられ紐で拘束されたキリストの上半身を、オカマチックに描いている。
 また、河鍋、狩野、川島、東らの作品は、期間によって入れ替え展示になっている。じぶんが観たのは、河鍋暁斎の「九相図」、「釈迦如来像」、「慈母観音像」など。「九相図」は、人が死に、その死骸が腐り、朽ち果てていく過程を九つの相にして描いたもの。なお、河鍋の「釈迦如来像」はボサボサの髪と頬から顎のラインに鬚を生やした劇画調の釈迦如来像で、西洋人受けを狙って描いたような絵である。

 この展覧会のパンフには「一貫して楠の木彫に取り組む舟越桂によって生み出される異形の人間像は、現代を生きる人間の内面を雄弁に語り、日本文化の一大変革期である幕末明治の観音像にみられる日本人の複雑な心情や死生観との共鳴を示します。」とある。
 ということは、この展覧会の企画者(キュレーター)が、そのように考え、その考えをこの展示手法として(展示室14においてばかりではなく、本展全体として)表現しようとしているということだ。
 とすれば、企画者として、もう少し説明乃至は解説をすべきではないのか。・・・ここでいう「説明」や「解説」とは、企画者としての、ことばによる構想の表現ということだ。
 このブログで美術展を取り上げるとき、何度か“表現としての展示”(キュレーターという表現者による作品)という見方をしてきた。
 その見方からすれば、この「表現」は、ヤン・ファーブル自身による中世の貴人・貴婦人やら聖像画やらの引用(構成的使用)としてのディスプレイを除き、必ずしも成功していない。
 とくに展示室14の構成はちょっとお粗末と言うべきだろう。
 企画者は、なぜ舟越桂の作品が「明治期の観音像にみられる日本人の複雑な心情や死生観との共鳴を示す」のか、その根拠を一切明示していない。
 そもそも舟越の作品は、現代を生きる人間の内面を「雄弁に語って」いるなどという類の作品なのか。あるいは、「幕末明治の観音像にみられる日本人の複雑な心情や死生観」とは、どのように複雑で、他の時代のそれらとどのように異なるのか。なぜ、それを舟越作品と比較して観なければならないのか・・・すべては雰囲気的に醸し出されるだけだ。ここには“言いっぱなし”のご託宣があるだけで、論拠が存在しない。このような展示では、企画者の<表現>が成立していると看做すわけにはいかない。舟越桂も、よくこんないい加減な展示企画に同意したものだ。

 この美術館は、いまや世界に名を上げている妹島和世と西沢立衛によって設計された。
 様々な出会いや体験が可能となるよう、「多方向性=開かれた円形デザイン」、「水平性=街のような広がりを生み出す各施設の並置」、「透明性=ガラス壁の多用」というコンセプトが特色だという。
 この展覧会「ヤン・ファーブル×舟越桂−新たなる精神の形―」は、この空間を上手く活用して、<ヤン・ファーブル>と<西洋の14〜17世紀の「歴史的名画」>、<ヤン・ファーブル>と<舟越桂>、<舟越桂>と<幕末明治の観音像>、そして<ヤン・ファーブル>と<西洋の14〜17世紀の「歴史的名画」>と<舟越桂>と<幕末明治の観音像>の相互作用を演出しようとしている。
 鑑賞者の「順路」を設けず、展示の章立てもなく、個々の展示室の展示内容に関する解説をも設けず、建物の構造(相互に独立した展示室の配置)を活かし、出会いと発見、そして異質なものの相互作用を予期せずに体験することができる展示を目指した点は、評価されるべきなのであろう。
 しかし、このような方法を選択した“根拠”の明示の欠落は、全体として、展示構想の大雑把さや唯我独尊的な態度、つまり企画者側のある種の甘えを露呈させるという結果を帰結しているように思える。これでは、このハイカラなハコが、その精神として活かされているとはいえないだろう。                               
                                                                 (了)
   

<蛇足>
 有料区域と無料区域が、廊下の断面すべてを区切る大きなガラス壁で区画されている。
 順路が示されていないこともあり、展示室を順不同に回ったり、一度観た展示室に再度出入りしたりしていると、方向がわかりにくくなり、迷路のネズミ状態になる。配置図を何度も見て、すべての展示室・展示箇所を回ったかのチェックも必要になる。
 さらに、中心部の有料区域から外延部の無料区域の特定の部屋や展示室に行こうとすると、直近の廊下から出られるというわけではなく、限られた出入り口(2箇所)まで行き、そこから大きく迂回しなければならない。
 出会いと交流を目指した施設、しかも街のように内外の人の影や気配を身近に感じられるようにと設計された施設なのに、有料区域はあちらもこちらもガラス扉で閉鎖されている・・・ガラスによる閉鎖は、見えるのに行けないということで、場合によっては壁による区画以上に不自由感やイライラ感をもたらす。
 ガラス扉で区切るのではなく、看板や人の配置などによる方法は採用できなかったのか・・・などと、建物の使用法に対する疑問も残る。まぁ、たしかにこれは、ソフトに知恵を絞らなければならない難しい施設ではある。

                                                                                                                     
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:54Comments(0)美術展