2013年08月27日

大急ぎ サロベツ原野行(その6)




 「大急ぎ サロベツ原野行」を5回まで書いてきて、最後の札幌編の前で立ち止まってしまっていた。旅行の3日目、旭山動物園を見物した後すぐに旭川を発ち陽が沈む前に札幌に着いたのだったが、その夕暮れの札幌で、思いがけなくも言い知れぬ後悔と大きな悲嘆の感情に襲われた。そのことを思い出すのが辛く、なかなか最後の回を書く気になれなかった。
 
 札幌の宿は例によって「JRイン札幌」(朝食付き6,900円)だった。小奇麗で、札幌駅から程近いのが取柄のホテルである。すぐ目の前を高架の線路が通っており、高架下は飲食店などの店舗になっている。高架周辺には、札幌駅及びその周囲の商業ビルの近代的な空間とは若干異なる“駅裏”的な風情も残っている。
 札幌駅を出て、大丸デパートの側を通り、そのJRイン札幌へと歩いて向かう途上で、突然に悲嘆の感情が襲ってきた。どうにも為しようのない後悔と、失われたものへの追憶。あたたかくかけがえのないひとびとの記憶と、それを意識から切り捨てて来てしまった自分の愚かさ・・・。そして、かけがえのないものを失いつつ生きていることからくる底知れぬ悲嘆・・・。

 札幌という街とじぶんの関係については、このブログ(2007年11月)にも、また別のところにも断片的に書いてきた。それと重複することになるが、ここでこの悲嘆の感情の背景を明かすために、じぶんが関わった札幌のある家族について最小限のことを書き記しておく。
 じぶんは中学3年生の夏休み、1972年に初めて札幌を訪れた・・・。
 この年、秋田県湯沢市の実家の祖母が亡くなり、親戚だという札幌の爺さんが焼香にやってきた。この爺さんとじぶんの実家の親戚関係については何度か家人から聞いたはずだが、それが複雑だったからか、間に出てくる関係者が知らない名前の人ばかりだったからか、ついに覚えないまま今日にいたっている。
 ところで、その親戚の爺さんは、亡くなった祖母の親戚でもあり彼の親戚でもある中年の男性が運転する自家用車で湯沢までやってきたのだった。今から思えば、必ずしも健康とはいえない高齢者が、札幌~湯沢を自家用車で往復するというのはなかなかたいへんな旅だったはずである。この区間にはまだ高速道路などなかったし、幹線国道の整備もそれほど進んでいない時代だった。しかも、途中は青函連絡船に車を乗せて津軽海峡を渡らなければならない。車の乗り心地も当時はまだまだだったと思う。
 さて、彼はもごもごと語る無骨な爺さんだったが、格別な御人好しといった感じで、我が家の家人との会話のなかで、この年の春にあった中学の修学旅行(行き先は北海道)にじぶんが体調を崩して行けなかったということを聞き及ぶと、それじゃあ修学旅行に行けなかった代わりに札幌へ帰る車に便乗して一緒に札幌の我が家に遊びに行こうと持ちかけてくれたのである。
 するとこれにじぶんの父親の方が乗り気になって、息子に「いい経験だ。ぜひ言って来い。」といとも簡単に命じるのだった。それで、じぶんは生まれて初めて出会った爺さんと、生まれて初めて車での旅をすることになった。
 その車での長距離の旅がどんなものだったか、たぶん途中で青森あたりの安宿に1泊したはずだが、それも含めてじつはよく思えていない。ただ、青函連絡船に乗り入れる埠頭が雨で霞んでいたこと、連絡船に車を乗せるためのチケットが辛うじて取れて一行がほっとしたこと、そして北海道に渡ると、札幌までの途中、修学旅行で行くことになっていた洞爺湖と支笏湖に立ち寄ってくれたこと、その洞爺湖の湖面の色は鮮やかなブルーで支笏湖はくすんだ藍色だったことなどは覚えている。
 こうして到着した札幌の家に、じぶんは少しくカルチャーショックを受けることになる。
 この爺さんの苗字はじぶんと同じで、その苗字の名前で「□□配管」という水道工事店を経営していた。札幌でも古くからある水道工事屋で、薄野とか狸小路とか市内中心部の水道の何割かはおれが引いたんだと自慢していた。そこは従業員数人の小さな工務店と言ったところだったが、この爺さんの長女の婿さんが、いわゆる「マスオさん」という形で家に入ってその後継者となり、いまや実質的な経営者になっているようだった。
 この爺さんは家族から「オジジ」と呼ばれていた。
 自宅兼事務所の奥に6畳ほどの居間があり、そこにオジジの指定席があった。それぞれの寝室は別にあったのだが、その狭い居間と2畳ほどの台所で、オジジとその妻であるオババ、そして長女夫婦にその長女(高校生)と長男(小学生)の6人が芋を洗うようにして暮らしていた。また、この家には風呂がなく、毎日銭湯に通う生活だった。湯沢には温泉の共同浴場はあったが沸かし湯の銭湯というものがなかったし、自宅に風呂のない家というのがまずはびっくりだった。
食事の量の多さにもびっくりしたし、その生活ぶり、会話の様子、人柄、それらすべてがいわば“開拓地の人々”といった感じで、古い城下町でじぶんが慣れ親しんだ光景とはずいぶん異なっていた。いつも喧嘩しているような、がらっぱちな口調でやりあう反面、よそ者に親切で気持ちの大らかな人たちだった。とくにオジジの長女、つまりこの家庭の主婦であった明子さんという方(年齢はじぶんより25歳くらい上だったと思う)に、ほんとうによくしていただいた。明子さんは、じぶんがカルチャーショックを受けていることをすぐに察知して、いろいろと気を使ってくれた。また、札幌オリンピックの余韻が冷めやらない札幌の街を、つまりこの時代に日本でもっとも光り輝いていた大都市を、「内地」の田舎から来たハナタレ中学生に案内して歩いてくれたのだった。じぶんはこの家族の皆に可愛がられ、得がたい体験を得た。じぶんにとっての札幌は、この家族なくしてありえないはずだった。

 その後、じぶんは北海道への憧れから、北海道大学へ進学を希望し、1975年、高校3年の夏休みに札幌桑園予備校の夏季講習会に参加したのだったが(このときのことはこのブログの過去記事に記載している)、その折にもこのお宅にお邪魔した。
 また、社会人になってからも札幌出張の機会等には必ず顔を出していた。20代後半から30代半ばまでで都合3回ほどは訪問していたかと思う。このころは、もうあのオジジは亡くなっていたが、それでも家族は、じぶんが訪問するたびに「啓ちゃん、よく来たね。」と喜んで、とても親しげに迎え入れてくれた。
 だが、じぶんが40代に差し掛かったころ、湯沢の実家を通じてこの家族の不幸が伝えられた。
 まず、明子さんの長男が難病に罹って働けなくなったということ。そして、水道工事店の経営を継いでいた明子さんのご主人が、他人の借金の保証人となっていたために多額の借金を背負ったこと。その過程で、当の主人が持病である糖尿病関連の発作で倒れて寝たきりとなり、水道工事店の経営を続けることができなくなって、やがて店が倒産に追い込まれたこと・・・などである。
 じぶんは、この知らせを受けて悲痛な想いに襲われたが、薄情にも結果的になにも手を差し伸べなかった。この知らせがどの程度正確な情報なのか、明子さんに連絡して聞き質そうともしなかったし、手紙を出すこともなかった。それどころか、それまで交換していた年賀状さえ出さなくなった。
 正直に言うが、なんと言葉をかけたらいいのか思いつかなかった。年賀状で「明けましておめでとうございます」などという文面を送りつけるのも憚られた。あの家族を哀れむ行為ではない行為とはどんなことなのか、それが想像できなかった。励ましの言葉を送ることさえもなぜか憚られ、どうしても反応が出来なかったのだ。
 そうして、ずいぶんと月日が流れた。世紀が変わって数年後、ついにご主人が亡くなったことを知ったとき、やはりその霊前に参り、家族に頭を下げなければならないという想いに駆られた。2007年、札幌に行く機会を捉えて、やっと明子さんと連絡をとり仏壇の位牌にお参りをさせてもらった。
 70代半ばとなっていた明子さんは、息子さんと二人で安アパートで暮らしながら飲食店で皿洗いのパートをしていた。相変わらず気丈で、明るい声で話す。
 明子さんは、「あの人は啓ちゃんどうしたかなぁ、もう一度会ってみたいなぁって言ってたよ。」と語り、「でもこうしてまた来てくれてうれしいよ」と言った。じぶんは首を垂れ、幾ばくかの香典を捧げて不義理を詫びるしかなかった。
 息子さんは留守だったが、難病から立ち直って勤めに出ているということだった。ご主人の残した借金については、店の件で迷惑をかけた人たちに申し訳ないので、自己破産することなく必死に働き、長い年月をかけて返済し続けてきた。それがもう少しで完済になると言った。
 彼女は、自分の働いている料理屋に連れて行って、35年前と同じように「啓ちゃん」に昼食をご馳走してくれた。そして、がんが見つかったからこれが最後の機会かもしれないと言って寂しく笑った。・・・明子さんの訃報を聞いたのは、それから2年も経たないうちだったように思う。


 この日は早めに札幌入りして、たまには賑やかな繁華街で夕食をとろうか、などと考えていた。
 だが、札幌駅を出てすぐに、勤め人たちの帰宅時間と重なったその駅裏の路上で立ち止まり、いつしか名状しがたい悔いと哀しみに打ちひしがれて、みじめなことに涙まで流していた。
 これが「大急ぎ サロベツ原野行」という能天気な旅の終わりにやってきた、手痛いしっぺ返しという訳だった。
 次の日、やっと走り始めた「スーパー北斗6号」(8:34発)で札幌を発ち、函館から「スーパー白鳥30号」、新青森から「はやぶさ12号」と乗り継いで、仙台に16:30分に到着した。
 じつはこのとき、「はやぶさ12号」で東京まで行く切符を手にしていた。札幌の悲嘆を東京で慰めようとしたのだが、東京には東京の辛い記憶があったことを思い出し、仙台で「途中下車」して仙山線で18:01に山形に帰り着いた。これ以上長距離を移動して旅する体力も、悔いに苛まれる時間に直面する気力も、もはやじぶんには残っていないのだった。(了)
                                                                                                                                                                                         


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:15Comments(0)歩く、歩く、歩く

2013年07月28日

大急ぎ サロベツ原野行(その5)






 旭川駅で「スーパー宗谷」から降りると、新しい駅舎が迎えてくれた。
 目を引かれたのは、エスカレータで1階に下りてくるところの大きなフロアの両側の壁一面に嵌められた細長い木製のプレートである。膨大な量のプレートの一枚一枚にアルファベットで個人の名前が記載され、一連番号もふられている。駅員に尋ねると、これは旭川市民に一枚2,000円の寄付をもらって作成したものだという。感心したのは、市民個々人の名前を駅舎に刻ませることで駅舎は自分たちのものだという意識を持たせようとしたその発想・・・ではなくて、一枚一枚に通し番号を振ってある点である。高く広い壁面のどこに自分の名前が刻まれたプレートがあるのか、上の方は双眼鏡でもないと判別できないのだが、予め自分のプレートの番号を知らされていれば、ああこの列の何枚上に自分の名前のプレートがあるんだ・・・と当りをつけることができる。
 ところで、余計なお世話と言われるだろうが、どうせ寄付を募るなら一枚5,000円くらいにして、儲けを出しておけばよかったのに、と思った。(笑)
 旭川駅は、ホームへ連絡するエスカレータの周囲の壁面などにも工夫がなされていて、駅舎全体が洗練されている印象を受けた。もっとも、北海道は札幌や旭川などごく一部の都市とその他の地域の都市化の度合いの落差が大きすぎるから、ちょっと間違うと厭味な印象を与えてしまいそうでもある。

 旭川動物園に行くには、駅前のバス停から市営バスに乗って40分もかかる。これだけ人気が出ている割にはバスの本数が少なく、平日でも満席で40分も立ったままになる乗客が少なくない。幼い子どもや高齢者、そして妊婦も見かける。アクセス面でもう少し来客に配慮があってもいいだろう。
 バス停で待っていると、たくさんの家族連れが並んだ。その半数以上は中国系の人々だった。園内にもずいぶんアジア系の外国人が多いなぁという印象だった。いまやこの動物園は国際的な観光資源となっているようだ。







 さて、園内を見て回って、たしかに工夫された素敵な動物園だという印象をもった。
 この動物園は「行動展示」という画期的な手法を採用したことでマスコミにたびたび取り上げられ、また何冊もの書籍で紹介されているから、詳しい説明は省く。
 この動物園を一躍有名にしたのは「あざらし館」の行動展示だと思うが、まさしく立体的に工夫された構造の水槽をアザラシたちが活発に泳ぎまわる姿を見ていると、つい時間を忘れてしまう。
 1枚目の写真は「ほっきょくぐま館」で覗き窓から外を眺めたとき、ちょうどよくホッキョクグマが近づいてきたのでそれを撮影したものである。
 ここの行動展示では、三次元空間の構成にとても工夫が凝らされている。「もうじゅう館」ではヒョウが木を登って観客のすぐ目の前までやってきたり(2枚目の写真)、「ちんぱんじー館」ではチンパンジーが木の上のように作られた居所で赤ん坊を抱く姿を間近で見ることができたりする。(3枚目の写真)
 オランウータンが上空のロープをリズミカルに渡る様子には見とれてしまうし、「両生類・は虫類舎」ではアオダイショウが客のすぐ頭の上の網の通路を渡って(便を引っ掛けられないよう注意!)、反対側の部屋のカエルを襲いにいく姿にも新鮮な驚きを感じる。(4枚目の写真)







 こういう部分以外でも、この動物園の高感度を上げている点がいくつか目に付いた。
 1つめは、行動展示を見る観客の側が立体的に移動できるように展示スペースが構成されている点だ。
 「おらんうーたん館」におけるオランウータンのロープ渡りや「でながざる館」におけるテナガザルの動きなどはそれ自体見ていて面白いが、これらの展示スペースではもっぱら地面から上空を見上げるだけである。しかし、「あざらし館」「ほっきょくぐま館」「もうじゅう館」「ぺんぎん館」などでは、観客の視点が立体的にいくつか設定できるように施設の構造が工夫されている。また、各施設の配置が敷地の傾斜や起伏をうまく利用して構成されているので、「もうじゅう館」「オオカミの森」「エゾシカの森」などでは、見物人は順路を歩いていくだけで立体的に視点を移動させていくことになり、自分のイメージのなかで自然にパノラマ的な空間を体験することになる。
 2つめは、職員の手作りの看板、解説プレート、情報掲示板などが、とても親しげな印象を与えていることである。ここまで有名になったのに、あくまで地元の旭川市民をメインの対象として、市民に末永く愛される動物園を追求しているという印象である。また、その手書きのタッチが絶妙で、動物たちを愛し、丁寧に世話をしている職員たちのイメージをとても身近なものとして伝えてくる。
 3つめは、行動展示によって動物たちが動き回ることもあるが、それ以前に各個体が檻の中にしてはとても生き生きしているように見えることである。これは飼育員の努力の賜物だろうが、一種類の動物の個体数を最低限に絞って展示していること(あるいは最低限の個体数しか飼育していないこと)にもよるかもしれない。
 たとえばキリンのコーナーは他の平凡な動物園と同じかそれ以下の環境の施設であるように見えたが(キリンやカバの施設は別の場所に新築中だった)、それでもそこでオスとメスが寄り添う姿には見入ってしまった。写真ではよく分からないかもしれないが、たっぷりと時間をかけて、メスの股間から太腿のあたりをオスが鼻先や舌で丁寧に丁寧に愛撫し、それにメスが目を細めてじっと感じ入っている。その姿はエロいといえばエロいのだが、なにかとても癒される感じがしたのである。
 4つめに、これは考えさせる展示という観点からであるが、エゾシカのいる区画のなかに野菜畑を作り、そこを電気柵で囲っている展示に注目した。北海道ではエゾシカの食害による農作物や生態系の被害が大きいこと、そしてその食害から農作物を守る手立てが(捕獲=駆除以外にも)あるのだということを観客に伝えようとしている。
 広大な農地で土地利用型農業がおこなわれている北海道で、電気柵による野生鳥獣被害の防止がどの程度の効果を上げられるかかなり疑問だが、動物園としてこのような展示で野生鳥獣との関係を見物客に考えさようとしている点は評価したいと思う。







 さて、誉めてばかりではつまらないから苦言をひとつ。
 オランウータンの「もぐもぐタイム」(というのか)で解説する飼育員の話は、マイクの音響が割れて擦れてずいぶん聴き取りにくかった。大勢の観客が注目していたが、その注目度ゆえか、解説者は音響の不調など関係ないという感じで、早口で滑舌もよくない喋りをルーティンワークのように繰り出すだけだった。飼育員とオランウータンとのやり取りは工夫されていて面白いはずなのだが、いまいち楽しめない。解説者とオランウータンにとってはルーティンワークであろうとも、観客にとっては一生に一度の機会かもしれない。水族館の海獣やイルカのショーのような演出は不要だが、もう少し観客を意識してパフォーマンスをしてほしいものだ。

 この動物園に滞在したのは3時間あまりだったが、あっという間に帰りの時刻がきて、慌てて旭川駅行きのバスに飛び乗った。
 相変わらず「特急サロベツ」は運休だったから、旭川発の「スーパーカムイ」に乗り込み、陽が沈む前に札幌に着いたのだった。(次回に続く)
                                                                                                                                  

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:33Comments(0)歩く、歩く、歩く

2013年07月26日

大急ぎ サロベツ原野行(その4)






 さて、牛乳鍋を一緒につついた二組の夫婦の同宿者とは、こんな人たちだった。
 まず、年長の方の夫婦(夫が80歳前後で妻が70代半ばくらい)について。
 この夫婦は大阪在住。今回の自動車旅行はこの日で14日目ということだったが、運転はもっぱらご主人の方で、そのご主人は「マイペースで運転するから、何日車で旅しても運転で疲れるということはない」と言い、北海道や東北をあちこち周遊しているとのことだった。また、海外旅行の経験も豊富そうで、極東ロシアにも旅したことがあると言っていた。さらに、ご主人の趣味は山スキーだというので、この年齢でスキーを担いで冬山に登るとは・・・と、恐れ入った。
 健康で経済的余裕があって年金生活をエンジョイしている夫唱婦随の老夫婦という印象だったが、会話のなかで豊富町の商店街の寂れた様子から全国の地方都市の商店街も同じ状態だという話題になり、じぶんが「大規模店舗の規制を緩め過ぎたからですよ。イオンなんか、自分が形成した大規模小売店のエリアでさえ、儲けが少なくなるとさっさと捨てて別のところに移りますからね。後は寂れた街区が残されても知ったことかという態度で、酷いものです。」などと語ると、ご主人は不満そうな顔をし、その一方で奥さんの方は如何にも申し訳なさそうな表情で「申し訳ないことですね・・・」と、何か自分も大規模店の経営側であるかのような口ぶりで語るのだった。
 もう一組、団塊の世代くらいの年齢に見える夫婦の方は、“チョイ悪オヤジ”風のおしゃべり好きな旦那さんと品の良さそうな奥さんのカップル。今回の旅で北海道滞在何日目かという質問に、「75日め」というので驚いた。事情を聴いてみると、この夫婦の自宅は関東だが、北海道に家を借りて長期滞在しているのだという。この夫婦と年長の上述の老夫婦とのやり取りを聞いていると、北海道ではあちこちの市町村に長期滞在者用の市町村営住宅があり、この夫婦は美瑛に借りていた滞在者用住宅を期間満了で追い出され、士別の同じような住宅に移っている。そしてその住宅から道内へ旅行に出かけているのだ、という。
 また、これらの住宅は夏季は人気で抽選倍率が高いとか、市町村役場の職員と顔見知りになって情報をもらうのがコツだとか、1ヶ月の家賃は家具つきで7万円余りだとか、冬の北海道の風景が素晴らしい、冬でも室内にいれば寒い想いはしない・・・などという話をしているのだった。

 ところで、夕食後、たまたま「明日の城」の居間にあった田舎暮らしに関する雑誌をめくっていると、この北海道の「ちょっと暮らし」の記事が載っていた。
 それによると・・・全国各地の過疎の道県や市町村では、都会から移住者を獲得するための施策をいろいろと打っているところだが、北海道の場合には完全移住するとなると二の足を踏む人が多いのが実態で、従前の移住者の獲得事業はなかなか成果が上がらなかった。そこで、平成17年、道庁の知事政策部の職員だった大山慎介氏は「ちょっと暮らし」というコンセプトを立て、道内の市町村の空き家を利用して宿泊施設をつくる事業を始めた。これが当り、現在は道内で50を超える市町村が長期滞在者用の住宅を設置・運営しているのだという。
 このチョイ悪風オヤジとは、翌日豊富駅で帰りの列車を待つ間にも立ち話をしたのだったが、彼はそのときカラビナで腰に吊るした幾つかの鍵のなかから、町営住宅という文字が記載されたタグのついた鍵を見せてくれたのだった。
じぶんが「留守中、ご自宅はどうしているのですか?」と尋ねると、「ほったらかしている。自分は都会が嫌いだから、自宅を売って北海道に本当に移住しようかと思っている。」と語った。
 それに「羨ましいですが、うちは女房が田舎嫌いなのでそんな暮らしは無理です(笑)」と応じ、「それに、都会の方が思っている以上に、田舎の医療体制は良くないですよ」と付け加えた。

 さて、この二組の高齢者夫婦と会話を交わして、次のような想いを抱いた。
 まずやってくる単純な感想は、二組ともいわゆる“悠々自適”の老後を送っていて、羨ましいなぁというものである。そして次に、1泊2食4,900円で相部屋の安宿に泊まっていることをどう考えたらいいのか、つまり、その程度の経済的レベルの人たちなのか、あるいは経済的にはかなり余裕があるのに、旅慣れしているがゆえにあえてこのような安宿も利用しながら旅のバリエーションを楽しんでいるいわば“通”の人たちなのか・・・ということが気になったのだった。
 さて、この点については、会話しながら観察してみると、大金持ちには見えないがそこそこ経済的な余裕があり、かなりの旅行通であるように見えたのである。
 しかし、たしかにこんな風に通らしく長い旅の生活や長期滞在を楽しみたい気持ちは自分にもあるものの、こういう生活を繰り返し長く続けていて楽しいだろうかと自問すると、その答えはどうもイエスとはならない。お気楽で享楽好きのじぶんではあるが、どうもこれが「生活」になると思うと、幸福感を感じるとはいかなそうなのである。
 そうすると次にやってくるのは、では、じぶんはどんな“老後”を過ごせば幸福なのだろうという自問である。

 そのまえに、だが、じぶんたちの時代、つまりすぐ数年後に迫った定年退職後については、たとえば団塊の世代以前のような“悠々自適の老後”というのは、悲しいことになかなかイメージできない。
 じぶんが65歳になったとき、団塊の世代はちょうど75歳前後で、このあたりの時期が本邦で現役世代に対する65歳以上の割合がもっとも高くなるのではなかったかと思う。すくなくとも、団塊の世代が「後期高齢者」の域に入り、医療や介護に膨大な費用がかかることになるだろう。こんな時代に、われわれ団塊以降の世代がのんびり“悠々自適の老後”に入るわけにはいきそうにないとも思われてくる。
 また、もっと基本的なことを考えると、大雑把な言い方をすれば、団塊の世代なら40年働いて30年ほど年金生活を送るということになるだろう。しかも、専業主婦だった人も、夫亡きあと本人が死ぬまで年金を受け取り続けるのである。こう考えると、そもそも現行の年金制度というのは、少子高齢化云々の以前に、定年退職後10年も生きれば大方の人間があの世に行ってしまう時代においてのみ成り立つ社会保障制度だったのだと思われてくる。
 旅行記からだいぶ脱線するが、話のついでにじぶんの考えを述べると、じぶんは「75歳定年制」論者である。理由はふたつ。ひとつは、じぶんの経験上(じぶんが周りの年長者たちを見ていると、という意味だが)、人間は75歳までその能力を伸ばすことができる。したがって、普通に健康(つまり普通に加齢している状態)であれば、75歳まではちゃんと働ける。もうひとつは、65歳から74歳を「高齢者」から「現役世代」に移すことで、少子高齢化問題のいくつか(たとえば現役世代何人で一人の高齢者を支えるか、などという文字通り重苦しい問題)が幾許かなりとも解決し、少子高齢社会についての重く暗いイメージが変わるからである。安易で、かつは魔法のような解決法だが、これはけっこういけると思う。要するに、“イメージから変われ”なのである。
 もちろん、75歳まで現役で働き続けるためには、雇用や労働の諸制度を大きく改変していかなければならない。定年制の廃止及び65歳以降の再雇用や再就職を保証・支援する制度、障がい者の雇用促進制度と同じように各事業所が66歳から 75歳までの者を一定割合雇用しなければならないとする制度などを導入することが必要と思う。
 たとえば、ハローワークの求人情報をみると、主婦層を想定しているかのようなパートタイマーへの求人が多く、これらの仕事では、時給の低さと就労時間数が限られていることによる月収の少なさのために、応募者が足りない状況を見かける。外国人労働者の受け入れを増やすのでなければ、これから労働力不足は深刻化していくだろう。だから、労働市場が高齢者に、より開かれていく可能性はあると思う。

 で、結局は、じぶんはどうするか、どんなふうに定年後(60歳以後)を生きるか、という問題に改めて対面する。
 じぶんは遊び好き・暇好きではあるのだが、心身の状態が許すかぎり働き続けたいと思う。だが、定年後の働き方はそれまでの働き方と同じにはしたくない。願望とその実現可能性の距離をどう測り、いくつかある願望に向けて他の願望や消費生活の質を犠牲にして挑戦すべきかどうか、いやそれ以前にほんとうにその仕事はじぶんがしたいことなのかどうか・・・、そんなことを考え始めると、いつの間にか五里霧中の“サロベツ幻野”に迷い込んでしまっているのである。

 (閑話休題)

 さて、この日は、チョイ悪風オヤジ夫妻と一緒に富岡駅まで「明日の城(じょう)」のご主人に車で送ってもらい、豊富発7:50の札幌行き「スーパー宗谷」に乗り込んだ。
 音威子府あたりからじぶんはウトウトしてしまい、ご夫婦とはそれきりになったのだが、またこうして北海道を旅すれば、いつかどこかでめぐり遇うことがあるかもしれない。
 このあと、じぶんは旭川に降り立った。評判の「旭山動物園」を見物するためである。(続く)

 (註)写真は旭山動物園のクモザル。思索する仙人のような佇まいである。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:40Comments(0)歩く、歩く、歩く

2013年07月18日

大急ぎ サロベツ原野行(その3)







 稚内発13:45の「特急サロベツ」で豊富駅に行き、そこから駅前発15:03の「沿岸バス」で「サロベツ原生花園 サロベツ湿原センター」を訪れる予定だったのだが、駅員に尋ねると、前日のJR北海道の特急「北斗」の火災事故のため、同型の車両を全部点検することになった、それで特急「サロベツ」も運休だ、と言うのである。
 豊富駅前発15:03のバスがサロベツ原野へ向かう最終便だったため、これに間に合わない!?と一瞬アタマの中が真っ白になったが、時刻表を見ると14:12発の普通列車がある。そこで、もしや?と駅員に豊富到着時刻を尋ねると、14:57だと言う。(・・・助かった!)
 しかし、よく考えてみると、稚内発13:45の特急サロベツの豊富駅着は14:26で、稚内と豊富の間は特急でも41分かかる。それなのに、14:12発の普通列車でほんとうに間に合うのか?と心配になり、再度駅員に確認した。するとやはり45分で豊富に着くダイヤなのだった。
 特急が41分かかるところを各駅停車が45分で着くのはどうして?・・・今度はそう駅員に尋ねると(しつこく質問する客だ(苦笑))、「この区間は90キロしか出せないんです」との返事。じゃあ、鈍行も特急も同じ速度で走るっていうことか、と納得?する。

 続いて、もうひとつ、これは大事な質問だが、“では、「北斗」や「サロベツ」が運休なら、「スーパー宗谷」や「スーパー北斗」も運休なの?”と尋ねると、“今回火災事故を起した「北斗」は古い車体だが、「スーパー北斗」は「振り子式」の列車なので大丈夫”と言うのである。「振り子式」の車両というのは何かで読んだ記憶があったが、今回の火災事故関係でなぜ「振り子式」が安全なのかは理解できなかった。つまり、駅員の説明態度はどちらかと言うと軽佻浮薄に聴こえ、事故多発を深刻に受け止めている様には感じ取れなかったのである。(この後、JR北海道の車両が7月15日にまたもや火災事故を起した。)

 とはいうものの、1両編成の宗谷本線の普通列車は特急に負けない速度で原野を貫いて快適に疾走し、予定通り豊富駅前から路線バスに乗ることができた。
 バスの運転手に、「サロベツ原生花園 サロベツ湿原センター」から「明日の城」まで歩くつもりだがどのくらい掛かりそうかと尋ねると、男の足で1時間余りだろうという答え。
他の乗客はセンターからの帰途にタクシーを利用しようとしていたが、バスの運転手は「ここにはタクシーが1台しかないから予約を入れておいたほうがいい」とアドバイスしていた。

 さて、北海道では路線バスも爆走する。豊富の町を抜けると、まもなく「サロベツ湿原センター」に到着した。
 とうことで、1枚目の写真は同センターの遊歩道(木道)から湿原を映したものである。
 ちょうどエゾカンゾウ(ニッコウキスゲ)の花が咲き、湿原の広範な領域にわたって群落が存在していることを窺わせている。またあちこちに、ワタスゲ、タチキボウシ、コバイケイソウなどの花も見ることができる。
 しかし、遊歩道の区域は乾燥によりササなどの侵入がかなり進んでいる。「サロベツ湿原センター」内の展示で環境省が実施している湿原の保全事業についての説明を読んだが、実際にはあまりササの侵入を防げていないように見える。このまま乾燥が進めば湿原全体に広がり、湿地の植物たちは駆逐されていくだろう。









 2枚目は、湿原センターに隣接して建てられている「泥炭産業館」の内部の様子である。かつてこの湿原で泥炭を採取していた時に使用されていた、浚渫機械や泥炭を粉砕して乾燥させる機械などが展示されている。乾燥された泥炭は「土壌改良材」として販売されていたが、その現物も展示されている。

 そうこうしているうちに、時刻は16時を過ぎていた。遅くとも18時までには宿に着かなければならないので、急いで「サロベツ湿原センター」を後にし、この夜泊まる予定の「明日の城(じょう)」を目指して西に歩き始めた。
 風があり、また小雨もパラつく天候の中、サロベツ湿原の中をまっすぐに延びる2車線道路を、たまに行きかう車を恨めしげに眺めつつ、登山用のリュックを背負ってテクテク歩いた。
 “サロベツ原野を歩いてみたい”というのがこの旅の主なモチーフのひとつだったわけで、それを達成したということにはなるが、事前に予想していたとおり、原野はやはり原野であり、エゾカンゾウの花が美しく咲いているにもかかわらず、2年前に釧路湿原を訪れたときと同じようにそれはじぶんにとって必ずしも感動的なものではなかった。むしろそうであることがわかっていたのに、ここにこうして来てみたかったのである。







 3枚目はそのテクテク歩いた道路の写真。まっすぐな道路ではあるが、泥炭地に建設されているため、路盤が沈んだり傾いたりすると聞いた。そういえば、写真からも波打っているさまが窺える。
 バスの運転手は1時間余りと言っていたが、50分以上歩いても原野の向こうにそれらしき建物の姿は現れない。1時間余り歩いたところで低い丘陵に差し掛かかり、さらに道路の分岐を2箇所ほど越えて歩き続けていくと、やっと道路端に木製の案内看板を見つけた。そこから林の中の私道を少し昇ったところに建っているのが今夜の宿「明日の城(じょう)」だった。70分は歩いただろうか。








 「明日の城」(写真4枚目)は、サロベツ湿原に建つ唯一の宿。外見や内部の造りは小奇麗な洋風ペンションのようだが、基本的に相部屋。主にいわゆるスキーヤーズ・ベッドが設置された部屋とフローリングにカーペットを敷いた個室(布団を自分で敷いて寝る)がある。個室の方も、基本は相部屋。宿が空いているときは個室料金を払えば専用にできるとのことである。
夕食は、名物の「牛乳鍋」だった。これは季節の野菜やキノコと骨付き鶏肉のぶつ切りを牛乳の鍋に入れた料理。それに一人一皿の、ホタテやエビやイカなどの刺身盛り合わせが付く。そして牛乳鍋の具を食べてからご飯を入れておじやをつくるという趣向だった。これにトーストと目玉焼きとサラダ、牛乳などが付く朝食を合わせて1泊2食で4,900円。(牛乳鍋がダメという人は、事前に連絡すると別の料理に替えてくれるようだ。)いかにもバックパッカーやバイクまたは自転車のツーリングの客を相手にする宿という感じだ。
 団塊の世代くらいの年齢に見える宿の主人は九州の佐世保出身。20代からここでこの宿を営業しているとのことである。というのも、宿の居間にこの場所で若者相手の宿を始めたときからのアルバムが何冊もあったので、収められていた写真やこの宿に関する新聞記事のスクラップをじっくり拝見させていただいた。そこで、奥さんは大阪出身で客としてここを訪れ、主人にプロポーズされたこと。そして、前の建物は火災で灰になり、二人で出稼ぎをしながら現在の宿を再建したこと、などを知った。
 ご主人夫妻が醸し出す宿の雰囲気には開設から現在に至るまでの歴史が感じられ、まさに60~70年代の若者の“北海道の旅”のイメージが微かに残っているように想える。リピーターも多い様子で、ご主人夫妻の気さくな人柄と、ご主人の若い頃に貧乏旅行者相手に営業していた頃を髣髴とさせるようながらっぱちな立ち居振る舞いが印象的だ。もっともそれゆえに、自分が若い貧乏旅行者のように扱われること(たとえば団体行動を指図するみたいな言動)に抵抗がない客にとってはいい宿だと思えるが、“おれはサービスを受けるべき客なんだぞ”という意識を持つ人にはお薦めできない宿かもしれない。
 なお、ここは原野の中の一軒屋でもあり、手ごわい蚊やブヨが出ることに用心する必要がある。じぶんは、4人の相部屋で、そのうちのひとり、ライダーの若者が持参していた電池式の電気蚊取りのおかげで難を逃れることができた。

 ところで、夕食時に5人で同じ飯台に席を割り当てられ、従って同じ鍋をつつくことになったのだったが、このとき牛乳鍋を一緒につついた70代後半(夫は80近くに見えた)の老夫婦一組と団塊の世代くらいの夫婦一組、合わせて二組の夫婦の同宿者と話を交わしていくつかの想いを抱いた。このことがこの旅のいちばんの収穫だったかもしれない。それを次回に書いてみたい。(続く)                                                                                                                                                                                                                           



  

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2013年07月13日

大急ぎ サロベツ原野行(その2)






 (前回から続く)盛岡から「はやぶさ1号」を利用できることになり、“これで仙台前泊が回避できる”と一応は喜んだのだったが、盛岡で「はやぶさ1号」に連絡する仙台発7:05の「やまびこ97号」に乗るためには山形発5:44の普通列車に乗らなければならず、すこぶる朝が心配だったことから、結局は仙台に前泊することにしてしまった。
  ということで、今回往路で利用した列車は、①7:05仙台発の「やまびこ97号」、②8:46盛岡発「はやぶさ1号」、③10:16新青森発「スーパー白鳥11号」、④12:22函館発「スーパー北斗9号」、⑤17:48札幌発「スーパー宗谷3号」となり、稚内着は22:47だった。
  乗り継ぎの時間を含めると仙台から約16時間の列車の旅となったが、列車はすべて順調に運行され、好運にも、ガラガラ状態の①のほか、指定席を確保していなかった②と③でも着席することができた。
  ただし、③と④の乗り継ぎの時間は僅かに8分で、それもジジババの旅客が大勢いるため早く歩くこともままならない。昼食はキオスクのレジの行列に並んでオニギリを買うのが精一杯だった。
  ⑤へ乗り継いだ札幌では、時間に余裕があったので駅に隣接する大丸デパートの地下食品売り場で弁当を物色したものの、食を促されるものが見つからず、結局は一番安価な秋刀魚のから揚げ弁当のようなものを買った。そして、これがこの日の夕食になった。

  ところで、札幌で乗り継ぎ時間を潰しているとき、今さっき通過してきた函館~札幌間で特急の火災事故が起き、函館本線が不通になっているというアナウンスを耳にした。通り過ぎたあとでよかったとは思ったが、そういえばJR北海道では以前にも石勝線かどこかで特急列車が脱線して火災を起した事故があったことを思い出し、この旅の先行きに若干の不安を感じた。(2011年5月27日、釧路発・札幌行「スーパーあおぞら」が脱線しトンネル内で火災を起した。)
 この旅の間に読んだ北海道新聞の記事によれば、JR北海道では事故やトラブルが多発しているとのことだった。経営状態が良くない?ことによって、列車や施設の老朽化が放置されるとかメンテナンスが十分出来ないなどの構造的問題があるのではないかという疑念が生じてくる。そういえば、この旅で乗車したJR北海道の特急7本の車掌は全て若い男性職員だった。ひょっとして、国鉄時代からの経験がうまく引き継がれていないのではないか、などという疑心暗鬼も生じてくる。
 ついでにここでJR北海道の特急列車について述べておくと、「スーパー白鳥」「スーパー北斗」「スーパーあおぞら」「スーパーカムイ」などの主要な車両で、ドア開閉が手によるタッチ式なのに抵抗があった。衛生的でないし、ドアが開いているときに通りかかると、閉まるドアに挟まれる危険がある。
また、洗面台や手洗いがトイレ室の中にしかなく、手を洗うだけの客や鏡を見るだけの客もトイレ室が空くのを待っていなければならない。これは衛生的に良くないだけでなく、スムーズに利用する上でもすこぶる都合が悪い。
 また、窓の間隔と座席の間隔の関係についてだが、これらの車両の窓は、前後の座席を向き合わせた場合に視界が広がるような間隔で配置されている。つまり、前後の座席が同じ方向を向いていると視界が狭くなる座席が生じる構造になっている。
  さらに付け加えると、車両の外部に号車番号の表示がない(見つけられない)車両もある。これは利用者にとっては非常に不都合である。
 山形新幹線がじぶんにとってのスタンダードになっているためか、JR北海道の特急の車両に使い勝手の悪さを感じることになったのだと思う。逆にいえば、相対的にふだん意識していない山形新幹線の快適さを感じさせられたということかもしれない。
 もちろん、日本のどこでも同じレベルのサービスが受けられて当然という意識はもっていない。だから、これはこれで北海道らしさのひとつなのだという考え方もする。しかし、北海道は観光を重視すべき地域であろうし、それ以上に1970年代の光り輝く北海道のイメージに囚われているじぶんは、北海道の基幹部分は“もう少し洗練されていてほしい”と思ってしまうのである。

さて、旅行記に戻ろう。
午後23時近くに稚内に着くので、この時間から稚内で飲食するのは無理かと思っていたが、まさにそのとおり。稚内駅前はもはや深夜の趣きで、とても食事にありつける感じではなかった。
 駅を出て右手に折れ、道路の右手に建つ日航ホテルを恨めしく見上げながら、安宿の「みんしゅく中山」を訪ねる。ネットで探した限りでは、この日に稚内駅周辺でシングルで泊まれそうなのはここだけだった。ユースホステルには空きがあったが、23時近い到着では受け入れられないと断られたのである。
 この宿は1泊朝食つき5,250円。家族経営の様子。女将は親切そうだったし、朝食にはおかずの器がたくさん出てご飯を腹いっぱい食べてしまったが、全体としてはリーズナブルとは言えない。宿に入ると消臭剤?の臭いが強烈で、浴衣も例の臭いの粒子が弾けるような洗剤を使用しているのか、これまた強烈な臭いがする。じぶんはこの臭いになじめず、快適に過ごしたとは言えない。まぁ、翌朝、稚内駅前を8:00に出発する観光バスに乗るためこの日はとにかく稚内に到着したのだ・・・ということにして、北海道の1日目を終えたのだった。







 とうことで、その観光バスだが、“日本最北端のバス会社”を謳う「宗谷バス(株)」の「日本最北端と北海道遺産めぐり」コース(3,300円)に乗車した。
  このコースは、8:00に駅前を出発して、①北防波堤ドーム、②稚内公園、③ノシャップ岬、④宗谷丘陵、⑤宗谷岬と周り、稚内空港と観光施設の「副港市場」を経由して、11:45に稚内駅に戻るというもの。
 2枚目の写真は、歴史的遺産ともいえる①の防波堤ドーム。バスガイドによれば、これは、昔、稚内駅から稚内港の樺太行き連絡船の乗船場に至る通路だった場所に架けられたもので、延長は427m、支柱は70本ある。昭和11年に完成したというが、元のドームは老朽化にともなって解体され、現存のドームは昭和53年に再建されたものだという。どうりで、その様相は歴史の風雪を感じさせるものではない。これは勝手な詮索だが、防波堤としては不要なものを観光資源として税金で復元したのではないかと思う。もしそうだとすれば、これは「歴史的遺産」というより、北海道の景気が良かった時代の遺物というべきものだろう。どうせ観光資源として造るならもう少しマチエールを「歴史的遺産」らしく工作したらよかったのに、とも思ったが、いや、この如何にも再建しましたという素っ気無いコンクリート構造物の姿こそが、良くも悪しくも北海道のコンテンポラリーな歴史を表現しているのだと思い直した。
  ②の稚内公園は稚内港を見下ろす場所。40数キロ先にサハリンが見えるはずだというが、この日は天気が良かったものの、その姿を垣間見ることはできなかった。この公園には、昭和20年のソ連の日本領樺太への侵攻によって犠牲になった樺太在住の人たちを慰霊する慰霊碑「氷雪の門」(彫刻家・本郷新の作になるブロンズ像)や、自ら青酸カリを飲んで自決した真岡(ホルムスク)郵便局の9人の女性電話交換手の慰霊碑「九人の乙女の碑」などが建立されている。
  ③のノシャップ岬は、日本で2番目に高い稚内灯台がある岬だが、訪れてみると海面に近い平地で、あまり呈のよくない「観光地然とした観光地」という印象。ただし、ここではバスガイドに教えられて、穴場?の「青少年科学館」の裏手にある昭和の南極観測隊関係の展示館(といってもこの建物は倉庫で入場はを無料)を観ることができた。それが3枚目の写真である。







  南極観測隊が撤退時にキャンプに残してきてしまった「タロ」「ジロ」ら樺太犬の訓練をしたのがこの稚内だったということで、いまこの稚内に記念の展示がなされているのだという。そういえば、南極観測船も「宗谷」という名前だった。この展示倉庫のなかには、観測隊が実際に使用したコンテナのような基地の居住棟が展示されている。当時の基地内部の写真と合わせて、しばし想像力を逞しくした。









 写真の4枚目は、稚内市街地と宗谷岬との間で車窓から見えた利尻富士の姿である。宗谷湾の沿岸を行く国道238号の海岸側には、今が花盛りのエゾカンゾウ(ニッコウキスゲ)の群落が延々と続いている。
さて、この観光バスのコースでもっとも印象に残ったのは、宗谷岬の高台に建立された「祈りの塔」(写真5枚目)だった。これは1983年9月に起きた、ソ連空軍機が領空侵犯した大韓航空機を撃墜した事件の犠牲者(16カ国、269人)の慰霊碑である。犠牲者(乗員・乗客)の氏名がそれぞれの国の言語で刻まれている。
稚内はロシアと交流が深く、道路標識や商店街の店名などにもロシア語表記がなされている。また、現在も稚内港からサハリンへ定期船が出ている。今度の滞在中にもロシア系と思われる住民(というのは、郵便局の前で預金通帳を眺めていたから)を見かけた。
しかし、先の稚内公園の慰霊碑やノシャップ岬の自衛隊アンテナ基地の存在とあわせて、ここはまぎれもなく“国境の町”であり、北の大国との緊張関係の臨場でもあるのだと改めて思い知らされる。









 6枚目の写真は、稚内駅近くの「中央アーケード街」。閑散としていて、シャッターが閉まったままの店舗が散在する。そういう点では日本各地で見られる風景と変わりないが、すぐにキリル文字の店名表示に眼が行く。 だが、この写真を撮影したのは、ご覧のとおり車が堂々と路上駐車されていたからだ。このように、低迷する旧来の商店街では、店舗前の路上に駐車して買い物できるようにすることが重要だと思う。
 観光バスを降りてから、稚内駅の観光案内所で紹介されたラーメン屋「青い鳥」で塩ラーメン(700円)を食す。若干塩味が強い感じだが、まずますの味だった。
最後の7枚目の写真は、新しくなった稚内駅。感じのいい駅舎ではあるが、最果てのターミナルとして旅情をかきたてる情緒は欠片もない。
 駅と繋がったビルの「キタカラ」には、土産物店と一緒に映画館や介護施設も入っている。この映画館にかかっていたのはつまらないハリウッド映画のロードショウだったが、3万ちょっとの人口の町に映画館があるのは今時貴重なことだ。









 稚内ラーメンで腹ごしらえをして、さてサロベツ原野へ向けて豊富に向かおうとしたとき、改札口で稚内発13:45の「特急サロベツ」が運休(!)していることを知る。
  このあと豊富駅前発15:03の「沿岸バス」で「サロベツ原生花園 サロベツ湿原センター」を訪れる予定だった。この路線バスは日に3本しかなく、それが最終だったので、一瞬アタマが白くなった。 (続く)                                                                                                                                                                                              



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 09:58Comments(0)歩く、歩く、歩く

2012年08月21日

弘前の想い出







 十和田~弘前~盛岡と車で巡った盛夏の旅、・・・その最後は弘前について。

 黒石市を出て弘前市に近づくと、岩木山が前方に姿を現した。
 岩木山はコニーデ型の独立峰。津軽平野に聳え立つその存在感は流石にどしんとくる。
もっとも、岩木山にはどこかしら女性的なやさしさを感じる。独立峰として同じように聳え立つ岩手山が、男性的な険しさとか近づきがたい厳しさを感じさせるのとは対照的である。岩木山は秋田県南部から見る鳥海山ほど美人ではないが、美人過ぎないところがまた愛着を抱かせる。
 正面に構える岩木山に対面して気分が高揚したのか、運転しながら「きいいっと帰ってぇ~くるんだと、お岩木山で手を振れば~♪」と、つい松村和子の「帰ってこいよ」が口をついて出てしまった。
もっとも、助手席の連れは「オイワキヤマ」が「イワキサン」だとピンと来ず、なぜこの歌を突然歌いだしたのか訝しげにしている・・・(苦笑)

 弘前は、桜で有名な弘前公園をはじめとして、見物場所の多い観光都市である。事前にガイドブックを見てカフェめぐりをしようと話していたのだが、いざ市内に入るとまだホテルのチェックインには早く、どこに車を置こうか迷う。そこで、通りがかった市役所の向かいにある弘前市立観光館の地下駐車場に入り、同館で観光情報をゲットすることにした。
 カフェめぐりのほか、弘前での目的はもうひとつ。津軽三味線の演奏のライブがある居酒屋に行くことだった。この観光館でその情報を尋ねると、ライブのある居酒屋が4件ほど記載された一枚のコピー紙を手渡してくれた。ほかにも、ここで市内観光の地図と市内の45店(!)が記載された「Hirosaki Apple Pie Guide Map」というパンフを入手した。(このマップには45個の個性的なアップルパイたちが写真と解説付きで掲載されていて、見ているだけでも楽しくなる。)







 ただし、この日も炎天下。あちこち歩き回るのは難儀だったことから、この近辺の観光スポットを巡ることで良しとした。
 そこで最初に訪ねたのは、市役所からほど近い「藤田記念庭園」(写真1枚目)の洋館のカフェ。ここでアップルパイとコーヒーで一服。アップルパイが何種類かあって、ウエイトレスさんがそれぞれの特徴を詳しく教えてくれた。ここの雰囲気はなかなかよかった。
 ジリジリと肌を刺す午後の陽射しの下を、汗を流しながら市役所近辺を歩き、写真2枚目の「旧弘前市立図書館」や「旧東奥義塾外人教師館」、「青森銀行記念館」などの洋風建築物を見物した。1906年のルネサンス式建造物である「旧弘前市立図書館」の内部は思ったよりも狭く、蔵書のスペースや閲覧場所はかなり限られていた。当時は建物の使い勝手よりも外観のデザインを重視した様子が覗える。
 「青森銀行記念館」は、旧五十九銀行本店として明治に建造されたルネサンス式で和洋折衷の建物。何気なく玄関を覗いたら、カウンターの向こうの机に人形が置かれているように見えたので「あれは人形だよね?」と連れに声をかけたら、その「人形たち」が「いらっしゃいませ」と言って立ち上がったので、驚いて逃げるように出てきてしまった。・・・行員の人形のように見えたのは記念館のスタッフだった・・・失礼しました。(汗)
 この銀行は、しかし覗いてみるだけの価値はある。重厚な木製カウンターは黒光りしていて、その威厳ある広い空間に「昔の銀行はこんな権威ある機関だったんだなぁ」と感じさせられる。
 まだ若干時間があったので、車をピックアップし、ズラリとお寺が立ち並ぶ「禅林街」や弘前公園北側に接する武家屋敷跡「伝統的建造物群保存地区」を車で回ってみた。
 さて、そろそろチェックインするかと、ホテルへの行路を確認するために道端に停車して地図を広げていると、近くのお宅のおじさんが近づいてきてホテルまでの道を教えてくれた。「このホテルは表からだと駐車場に入れないから、裏側の道から行って。」と教えてもらったので助かった。

 宿泊したホテルは弘前公園近くの「ホテルニューキャッスル」。結婚式場をもつが、やや旬を過ぎた感じの老舗的なホテルだった。料金は安かったのだが、それもこの日だから。翌日からは「弘前ねぷた祭り」で特別料金になるのだった。古いホテルということもあり、トイレがウォシュレットでないのが減点という感じだが、ネットの宿泊料金からすればまずまずリーズナブルだった。
 ホテルで汗を流してから、夕食へと出かける。先ほど観光館で入手したコピーを見て、ホテルからもっとも近い「杏」という店を訪ねたが、18:00前に行っても既に19:00からの第1回のライブは満員だと張り紙がしてある。月曜日なのに満員とは、人気の演奏者なのだろう。・・・仕方なくここは諦め、別の店に今度は事前に電話して、満員でないこととライブ演奏の時間がフリー(随時適当な頃合い)になっているということを確認した。その店の名前は「あどはだり」という聞いたことのない言葉。・・・その場所は「杏」という店からだいぶ離れており、意図せずして、弘前の目抜き通りである土手町の街並みを500~600mにわたって見物して歩くことになった。
 (ところで、このとき杏という店の辺りで、地元弘前市在住の詩人・藤田春央氏によく似た人物が自転車で通り過ぎるのを見かけた。藤田氏は2011年10月に青森市で開催された日本現代詩人会の東日本ゼミナールを企画実施した中心人物のひとりで、自作詩の朗読者として高啓を呼んでくれた方である。ゼミナールの翌日、参加者のために弘前市内探訪を計画してくれたのだったが、高啓は都合で参加できなかった。今回個人的な旅行で弘前を訪れた理由のひとつに、そのときの心残りがあったのではある。)

 地方都市の御多分に漏れず、各店舗の閉店時間が早く日が暮れると寂しい街にはなるが、この街を歩いて感じるのは、“津軽”というひとつの文化圏の中心都市だという矜持みたいなものである。矜持といっても大げさなものではなく、いわば一定の都市機能をひと揃え持っており、良くも悪しくもその機能や雰囲気に“浸っている”という印象があるということだ。これは弘前が県庁所在地ではないことにも拠っているだろう。
 大通りや路地にいくつも喫茶店があるのがいい。たとえば山形市の中心街では、チェーン店のカフェやファストフード店に押されて、昔ながらの喫茶店はごく少なくなってしまった。喫茶店がたくさん残っているということは、当然それを利用する市民がいるわけであり、それだけ“喫茶店に入る”という生活文化が維持されていることを意味する。
 
 さて、まったりと歩いて津軽三味線ライブ演奏の居酒屋「あどはだり」に着いた。派手な看板が目立つが、やや場末感が漂ってもいる。中に入るとじぶんたち二人の貸切状態である。飲み物と料理を注文するが、客がじぶんたちだけなので、いつになったら演奏を始めてくれるのかと少し心配になってくる。
 奥のカウンターの中で初老の男性とその奥さんらしき年配の女性が料理を作り、30歳前後の女性が注文をとったり料理を運んだりしている。店内には大きな観光キャンペーンのポスターが張ってあり、その中央に三味線を演奏する姿で映っているのが、どうもこの店のマスターらしい。その撮影場所がこの店内のようでもあり、さらにはこの方が三味線の名手らしいということも覗える。
 しかし、いまそこに見えるマスターは、病後なのか、ややつれた姿で足が不自由な様子である。料理の仕込みを終えたころ、徐に店の奥のマスター専用に設えられたと思われる椅子に座り、そこで食事か晩酌かを始めたように見えた。
すると料理を運んでいた女性が料理服の上にハッピを着て、「では、三味線を弾きます」と言った。
 彼女は客が打ち解けるように話を交わしながら、「津軽あいや節」を弾き、それからわれわれが山形から来たと聞いたからなのか、一度花笠踊りの祭り見物をしてみたいと言って「花笠音頭」を披露し、続いてさらに3曲ほど津軽民謡をメドレーで演奏した。
 彼女は、「津軽三味線」とは、この「津軽三味線」と呼ばれる楽器またはその楽器で演奏されることを指して言うのでありその演奏法を言うのではないこと、「津軽三味線」を弾く奏者はたくさんいるが「津軽民謡」の歌い手は少なくなっていることなどを話してくれた。
 彼女の津軽なまりの語り口、そして津軽のリンゴを思わせる顔立ちに好感を抱いた。最後にお名前を訪ねると、「相馬美幸」と書かれた名刺をくれた。帰形後にネットで調べると、ここのマスターはやはり三味線の奏者で「相馬幸男」というお名前だった。美幸さんは娘さんなのだろうか。・・・とはいうものの、奥の専用席に陣取ったマスターは、師匠として弟子の演奏をチェックしているかのようにも見えた。
 なお、この「あどはだり」店内の演奏の模様はYou‐Tubeにいくつか動画がアップされていた。美幸さんと思しき人が独奏している画像もあった。http://www.youtube.com/watch?v=Jolq0Ly2ojk

 ところで、「あどはだり」という津軽弁には、「もう一度」、「おかわり」、「アンコール」などの意味があるという。
 相馬美幸さんは「ねぷた祭りを観に来たのですか?」と尋ねてきたが、「いや、祭りの期間はホテルが取れないので、祭りを避けて歩く旅です。」と答えると、帰り際に「近くでねぷた祭りの稽古をしているので、よかったら見物していってください。了解を取りましたから。」と声をかけてくれた。








 その稽古の様子を窺い、だが近くに顔を出すのは憚られたので、遠目から撮ったのが3枚目の写真である。仮設の格納庫から弘前ねぷたの山車が覗き、その前で笛や鉦や太鼓で男女がお囃子の稽古をしている様子がぼんやりと映っている。その場の人たちの雰囲気から、祭りに向かうちょっと浮き浮きした気持ちが伝わってくる。







 ホテルへの帰り道、酔っ払って歩いていると、突如、奈良美智の作になる白い犬の大きなオブジェ(吉野町緑地公園の“A to Z Memorial Dog”)が照明に浮かび上がった。ガイドブックでその存在は知っていたのでそれほどには驚きはしなかったが、辺りには道路にも人影はないなか、何も知らないでこのオブジェに突然対面したら、かなりぎょっとすることだろう。・・・“へぇー、弘前は面白い街だなぁ”と思い、帰途の途中でついついもう1軒、今度は土手町の外れの古いビルの1階にある洋風パブ「Bar Grandpa」に入ってしまった。
 ここがなかなかいい雰囲気で、料理もまずまずだった。男性の店員さんがカッコいいせいか、店内の照明が暗い割には女性客が多い。津軽の長い冬を過ごすにはこういう店がいいのかな、などと思いつつ、地元の女性たちの話し声のなかで更け行く弘前の夜を暫し味わったのだった。







 さて、この十和田~弘前~盛岡と巡る3泊4日の炎天下の旅は、幸いなことにこうして印象深いものとなった。回った先々で言葉を交わしてくれた方々に感謝しつつ、ひとまず擱筆する次第である。

(この次の日、盛岡市に立ち寄ったが、それについては先に「岩手県立博物館とアート・ブリュット・ジャポネ展」として記載しているので、この旅行記は今回で終わり。ここまでお付き合いいただいた方に感謝します。)
                                                                                                                                                                              

Posted by 高 啓(こうひらく) at 00:55Comments(0)歩く、歩く、歩く

2012年04月18日

代官山行



 「ジャクソン・ポロック展」を観た次の日、代官山に出かけた。
 代官山にちょっと洒落た「TSUTAYA」の店舗がオープンしたというので、これまでの書店やビデオレンタル店とどう異なるのか見物してみたいと思ったのである。
 代官山は数年前にも訪れたことがあった。巷で言われているほど高級住宅街という印象はなかったが、昼下がりのレストランで食事をしていると、じぶんのようなよそ者に混じってこの近辺の住人だと思わせるようなさらりとした佇まいの若い夫婦連れが来ていて、お互いに歓談している様にはそれなりにハイソ(死語か!?)な雰囲気があり、トレンディ・ドラマでも見ている風だった。
 地図で見ると「代官山町」は、街区のブロック一つ分くらいの小さな地区である。一般に「代官山」と言われているのは、東急東横線の代官山駅を最寄り駅とする、この代官山町とそれに隣接する猿楽町のことのようである。
 六本木や青山のように突っ張っていないし、表参道ほど余所行きでもない。通行人も穏やかな表情をしている。だから、確かにそこいらに金持ちは暮らしていそうだが、普段着でもそれが小奇麗ならゆったりと着いて歩けるような感じの街である。

 1枚目の写真は、代官山駅の恵比寿側出口を出たところにあった移動販売車。ここでコーヒーと焼き菓子を買った。焼き菓子はまぁまぁ美味かった。しかし、近くにコーヒーをゆっくり飲む場所はない。強いて探すとすれば、駅の反対側の「代官山アドレス」というマンションと商業施設の再開発施設の敷地内まで歩いて、その一画にある小さな公園スペースに腰を下ろすしかない。これが面倒なので、立ったまま飲んだ。
 というのも、訪れたのは日曜日だったが、11時を過ぎても多くの飲食店が開店していないのである。仕方なく、開いている店を探しながらキャッスルストリートという狭い道を下りはじめる。JRの線路に突き当たったところで線路沿いに歩いて八幡通りに出て、その通りを代官山交番の交差点まで、結果的に引き返す格好になる。キャッスルストリートから線路沿いの辺りは雑然とした住宅街という感じだが、途中でどこからともなく沈丁花の香りがしてきた。
 結局、八幡通りの煙草屋で“新しくできたツタヤはどこでしょうか?”と訊くことになり、その「DAIKANYAMA T-SITE」という再開発施設の場所にたどり着いた。まったくもって、“おのぼりさん”そのものである。(苦笑)




 で、そのツタヤだが、これまで見てきた「TSUTAYA」の店舗とはずいぶん印象が違う。看板も漢字で「蔦屋書店」と書かれている。2枚目の写真だが、このようなガラス張りの2階建の棟が3棟並び、その2階が上空通路で結ばれている。3棟とも1階は書店(一部にステイショナリー販売コーナーやスターバックス・コーヒーが入っている)。2階は各棟で中身が異なり、ビデオレンタル店、カフェ・ラウンジ、グッズ販売店(この部分には入らなかったので印象は薄い)となっている。
建物の間や裏側にはスペースがあって、屋外用のストーブ(あのブリキ製のキノコ型のやつ)の周りに椅子とテーブルが置いてあり、後庭もたむろしたりゆっくり歩いて廻ったりすることができるようになっている。敷地内には別棟のレストランやショップもある。

 書店は“やや個性的”といった感じ。(つまり“個性的”とまでは言い切れないビミョーさがある。)
 書籍の品揃えの分野が、「料理」とか「時計」とか「車」とか「建築」とか「デザイン」とかに特定されている。(ただし、総合書店のように各分野の網羅はされていない。)それに、書棚が天井近くにまであって、このフロアが本に囲まれた世界だという演出が施してある。
 じぶんは、入り口近くにあった料理本のコーナーにいきなり引っかかってしまった。料理する趣味はないし、他の書店なら見向きもしないのだが、この店ではこのように客をフックに引っ掛ける仕掛けがされている。
 料理本のコーナーが面白かったので期待して中に進んだのだが、書籍の揃い具合は、しかし、全体としては期待はずれだった。分野ごとのコーナーにも、期待したほどディープな書籍があるわけではない。ここは“探す”書店ではない。“出会い”を演出する書店を狙ったということだろう。
 文学関係書のコーナーなどは、狭い入り口から出入りする部屋のなかにあり、その部屋には天井までの本棚が四方の壁全面に設えてある。だが、本揃えは中途半端で、書店員の個性が出ているかのようで出ていないという印象だった。
 コーナーごとに担当者がいて品揃えを任されている様子が窺われたが、ひょっとしたらチーフマネジャーみたいな総括者が口を出して、個性を中途半端なものにしているのかもしれない・・・などと勝手な想像をした。なお、詩書のコーナーはひどい。田舎町の書店にも及ばない品揃えである。




 中央の棟の2階は、1階中央の階段を上っていくと、その周囲、つまり全フロアが一面のカフェになっている。四方の壁面はやはり棚になっており、車や建築やデザインなどの古いグラビア雑誌のバックナンバーが揃えられている。広々としたソファ席が置かれ、席と席の間も広く取られていて、東京のカフェらしくない空間の豊かさがあり、ちょっと高級なホテルのラウンジという感じである。
 日曜の午後、ソファの席はほとんど埋まっており、カウンター席で読書をしている客やタブレット型パソコンを操作している客もいる。メニューはよく見なかったが、グラスビールが1杯900円くらいだったろうか。ちゃらちゃらした感じの客はあまりいないから、2,000円もあれば誰でも優雅な時間を過ごすことが出来るというわけである。
 別の棟の2階は、貸しビデオ屋の「TSUTAYA」そのものなのだが、混み合っている書店とは対照的に客はまばら。DVDなどを1作品340円(だったと思う)で貸し出し、返却は専用のパックに入れてポストに放り込めばいいようになっている。送料はレンタル料に含まれているというわけだから、「電車社会」の東京では安上がりで便利だと思う。しかし、このレンタル部門には客の姿がずいぶん少ないので、これで採算が合うのか疑問に思った。

 いい意味でいちばん驚いたのは、1階の書店の一角にスターバックスがあって、客がコーヒーを読みながら書棚の本を立ち読みならぬ“座り読み”できるようにしている点である。読んでいる客に確かめた訳ではないが、見たところではまだ購入していない本を読んでいるようなのだ。もし、それが可能なら、この店は太っ腹である。・・・さすが東京、それもさすがに代官山(!)である。坪単価がずいぶんと高いだろうに、2階のカフェの雰囲気と合わせて、こういう“書店文化”を演出する店が存在することが、この国の文化レベルの水準を担うという側面は確かにあるだろう。
 薄利なうえ、万引きで深刻な打撃を受けるという書店経営が、こんな空間の大盤振る舞いで成り立つならそれだけで嬉しいことであるし、この書店を成り立たせる客たちも評価されなければならない。(もっとも、万引き防止用の電子タグが、この店の書籍にはかなりマメに貼付されているのではあるが。)

 そう思いながら店を見回すと、しかし、ふと異なった想いにもとらわれた。
 ・・・ちょっと待てよ。もしこれが赤字覚悟で経営されているなら、その意味は逆転するだろう。つまり、もし、全国で「TSUTAYA」を展開し、そこで大量の非正規労働者を低賃金で使用して利益を出しているこのグループの経営主体が、イメージアップのためのデモ店舗として赤字を補填しながらこの店舗を維持しているのだとしたら、である。
 もしそうだとするなら、この施設は“代官山に咲いた沈丁花”ならぬ“猿楽町の仇花”であるだろう。東京が全国の「地方」を搾取し、“上流”を気取っているという醜悪な姿である。そうでないことを祈りつつ、このサイトを後にしたという次第である。(とっぴんぱらりのぷ。)        

                                                                                                                                                                               

Posted by 高 啓(こうひらく) at 22:11Comments(0)歩く、歩く、歩く