2013年08月27日

大急ぎ サロベツ原野行(その6)




 「大急ぎ サロベツ原野行」を5回まで書いてきて、最後の札幌編の前で立ち止まってしまっていた。旅行の3日目、旭山動物園を見物した後すぐに旭川を発ち陽が沈む前に札幌に着いたのだったが、その夕暮れの札幌で、思いがけなくも言い知れぬ後悔と大きな悲嘆の感情に襲われた。そのことを思い出すのが辛く、なかなか最後の回を書く気になれなかった。
 
 札幌の宿は例によって「JRイン札幌」(朝食付き6,900円)だった。小奇麗で、札幌駅から程近いのが取柄のホテルである。すぐ目の前を高架の線路が通っており、高架下は飲食店などの店舗になっている。高架周辺には、札幌駅及びその周囲の商業ビルの近代的な空間とは若干異なる“駅裏”的な風情も残っている。
 札幌駅を出て、大丸デパートの側を通り、そのJRイン札幌へと歩いて向かう途上で、突然に悲嘆の感情が襲ってきた。どうにも為しようのない後悔と、失われたものへの追憶。あたたかくかけがえのないひとびとの記憶と、それを意識から切り捨てて来てしまった自分の愚かさ・・・。そして、かけがえのないものを失いつつ生きていることからくる底知れぬ悲嘆・・・。

 札幌という街とじぶんの関係については、このブログ(2007年11月)にも、また別のところにも断片的に書いてきた。それと重複することになるが、ここでこの悲嘆の感情の背景を明かすために、じぶんが関わった札幌のある家族について最小限のことを書き記しておく。
 じぶんは中学3年生の夏休み、1972年に初めて札幌を訪れた・・・。
 この年、秋田県湯沢市の実家の祖母が亡くなり、親戚だという札幌の爺さんが焼香にやってきた。この爺さんとじぶんの実家の親戚関係については何度か家人から聞いたはずだが、それが複雑だったからか、間に出てくる関係者が知らない名前の人ばかりだったからか、ついに覚えないまま今日にいたっている。
 ところで、その親戚の爺さんは、亡くなった祖母の親戚でもあり彼の親戚でもある中年の男性が運転する自家用車で湯沢までやってきたのだった。今から思えば、必ずしも健康とはいえない高齢者が、札幌~湯沢を自家用車で往復するというのはなかなかたいへんな旅だったはずである。この区間にはまだ高速道路などなかったし、幹線国道の整備もそれほど進んでいない時代だった。しかも、途中は青函連絡船に車を乗せて津軽海峡を渡らなければならない。車の乗り心地も当時はまだまだだったと思う。
 さて、彼はもごもごと語る無骨な爺さんだったが、格別な御人好しといった感じで、我が家の家人との会話のなかで、この年の春にあった中学の修学旅行(行き先は北海道)にじぶんが体調を崩して行けなかったということを聞き及ぶと、それじゃあ修学旅行に行けなかった代わりに札幌へ帰る車に便乗して一緒に札幌の我が家に遊びに行こうと持ちかけてくれたのである。
 するとこれにじぶんの父親の方が乗り気になって、息子に「いい経験だ。ぜひ言って来い。」といとも簡単に命じるのだった。それで、じぶんは生まれて初めて出会った爺さんと、生まれて初めて車での旅をすることになった。
 その車での長距離の旅がどんなものだったか、たぶん途中で青森あたりの安宿に1泊したはずだが、それも含めてじつはよく思えていない。ただ、青函連絡船に乗り入れる埠頭が雨で霞んでいたこと、連絡船に車を乗せるためのチケットが辛うじて取れて一行がほっとしたこと、そして北海道に渡ると、札幌までの途中、修学旅行で行くことになっていた洞爺湖と支笏湖に立ち寄ってくれたこと、その洞爺湖の湖面の色は鮮やかなブルーで支笏湖はくすんだ藍色だったことなどは覚えている。
 こうして到着した札幌の家に、じぶんは少しくカルチャーショックを受けることになる。
 この爺さんの苗字はじぶんと同じで、その苗字の名前で「□□配管」という水道工事店を経営していた。札幌でも古くからある水道工事屋で、薄野とか狸小路とか市内中心部の水道の何割かはおれが引いたんだと自慢していた。そこは従業員数人の小さな工務店と言ったところだったが、この爺さんの長女の婿さんが、いわゆる「マスオさん」という形で家に入ってその後継者となり、いまや実質的な経営者になっているようだった。
 この爺さんは家族から「オジジ」と呼ばれていた。
 自宅兼事務所の奥に6畳ほどの居間があり、そこにオジジの指定席があった。それぞれの寝室は別にあったのだが、その狭い居間と2畳ほどの台所で、オジジとその妻であるオババ、そして長女夫婦にその長女(高校生)と長男(小学生)の6人が芋を洗うようにして暮らしていた。また、この家には風呂がなく、毎日銭湯に通う生活だった。湯沢には温泉の共同浴場はあったが沸かし湯の銭湯というものがなかったし、自宅に風呂のない家というのがまずはびっくりだった。
食事の量の多さにもびっくりしたし、その生活ぶり、会話の様子、人柄、それらすべてがいわば“開拓地の人々”といった感じで、古い城下町でじぶんが慣れ親しんだ光景とはずいぶん異なっていた。いつも喧嘩しているような、がらっぱちな口調でやりあう反面、よそ者に親切で気持ちの大らかな人たちだった。とくにオジジの長女、つまりこの家庭の主婦であった明子さんという方(年齢はじぶんより25歳くらい上だったと思う)に、ほんとうによくしていただいた。明子さんは、じぶんがカルチャーショックを受けていることをすぐに察知して、いろいろと気を使ってくれた。また、札幌オリンピックの余韻が冷めやらない札幌の街を、つまりこの時代に日本でもっとも光り輝いていた大都市を、「内地」の田舎から来たハナタレ中学生に案内して歩いてくれたのだった。じぶんはこの家族の皆に可愛がられ、得がたい体験を得た。じぶんにとっての札幌は、この家族なくしてありえないはずだった。

 その後、じぶんは北海道への憧れから、北海道大学へ進学を希望し、1975年、高校3年の夏休みに札幌桑園予備校の夏季講習会に参加したのだったが(このときのことはこのブログの過去記事に記載している)、その折にもこのお宅にお邪魔した。
 また、社会人になってからも札幌出張の機会等には必ず顔を出していた。20代後半から30代半ばまでで都合3回ほどは訪問していたかと思う。このころは、もうあのオジジは亡くなっていたが、それでも家族は、じぶんが訪問するたびに「啓ちゃん、よく来たね。」と喜んで、とても親しげに迎え入れてくれた。
 だが、じぶんが40代に差し掛かったころ、湯沢の実家を通じてこの家族の不幸が伝えられた。
 まず、明子さんの長男が難病に罹って働けなくなったということ。そして、水道工事店の経営を継いでいた明子さんのご主人が、他人の借金の保証人となっていたために多額の借金を背負ったこと。その過程で、当の主人が持病である糖尿病関連の発作で倒れて寝たきりとなり、水道工事店の経営を続けることができなくなって、やがて店が倒産に追い込まれたこと・・・などである。
 じぶんは、この知らせを受けて悲痛な想いに襲われたが、薄情にも結果的になにも手を差し伸べなかった。この知らせがどの程度正確な情報なのか、明子さんに連絡して聞き質そうともしなかったし、手紙を出すこともなかった。それどころか、それまで交換していた年賀状さえ出さなくなった。
 正直に言うが、なんと言葉をかけたらいいのか思いつかなかった。年賀状で「明けましておめでとうございます」などという文面を送りつけるのも憚られた。あの家族を哀れむ行為ではない行為とはどんなことなのか、それが想像できなかった。励ましの言葉を送ることさえもなぜか憚られ、どうしても反応が出来なかったのだ。
 そうして、ずいぶんと月日が流れた。世紀が変わって数年後、ついにご主人が亡くなったことを知ったとき、やはりその霊前に参り、家族に頭を下げなければならないという想いに駆られた。2007年、札幌に行く機会を捉えて、やっと明子さんと連絡をとり仏壇の位牌にお参りをさせてもらった。
 70代半ばとなっていた明子さんは、息子さんと二人で安アパートで暮らしながら飲食店で皿洗いのパートをしていた。相変わらず気丈で、明るい声で話す。
 明子さんは、「あの人は啓ちゃんどうしたかなぁ、もう一度会ってみたいなぁって言ってたよ。」と語り、「でもこうしてまた来てくれてうれしいよ」と言った。じぶんは首を垂れ、幾ばくかの香典を捧げて不義理を詫びるしかなかった。
 息子さんは留守だったが、難病から立ち直って勤めに出ているということだった。ご主人の残した借金については、店の件で迷惑をかけた人たちに申し訳ないので、自己破産することなく必死に働き、長い年月をかけて返済し続けてきた。それがもう少しで完済になると言った。
 彼女は、自分の働いている料理屋に連れて行って、35年前と同じように「啓ちゃん」に昼食をご馳走してくれた。そして、がんが見つかったからこれが最後の機会かもしれないと言って寂しく笑った。・・・明子さんの訃報を聞いたのは、それから2年も経たないうちだったように思う。


 この日は早めに札幌入りして、たまには賑やかな繁華街で夕食をとろうか、などと考えていた。
 だが、札幌駅を出てすぐに、勤め人たちの帰宅時間と重なったその駅裏の路上で立ち止まり、いつしか名状しがたい悔いと哀しみに打ちひしがれて、みじめなことに涙まで流していた。
 これが「大急ぎ サロベツ原野行」という能天気な旅の終わりにやってきた、手痛いしっぺ返しという訳だった。
 次の日、やっと走り始めた「スーパー北斗6号」(8:34発)で札幌を発ち、函館から「スーパー白鳥30号」、新青森から「はやぶさ12号」と乗り継いで、仙台に16:30分に到着した。
 じつはこのとき、「はやぶさ12号」で東京まで行く切符を手にしていた。札幌の悲嘆を東京で慰めようとしたのだが、東京には東京の辛い記憶があったことを思い出し、仙台で「途中下車」して仙山線で18:01に山形に帰り着いた。これ以上長距離を移動して旅する体力も、悔いに苛まれる時間に直面する気力も、もはやじぶんには残っていないのだった。(了)
                                                                                                                                                                                         




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Posted by 高 啓(こうひらく) at 01:15│Comments(0)歩く、歩く、歩く
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