2025年03月12日

山形市民会館 進め方の問題(2)経過報告




 この一連の書き込みの核心となる「事業の進め方の問題」について早く論を進めたいと思っているのだが、またまた記しておかなければならないことができた。

(1)意見聴取会の様子

 3月5日、山形市の意見聴取会が開催された。対象者は山形市芸文協会の演劇、日舞、新舞、能楽関係の理事。(筆者は対象外なので出席せず)
 このとき出席者した理事の一人が、筆者のブログをプリントアウトしたものを市当局に手渡し再考を求めたという。
 市当局の回答は「これまで意見聴取会を重ね、市民対象にシンポジウム、ワークショップを開催し、3月1日付の市報でも広報すすめている。設計関係者はゆるぎない計画のもと進めており、大きくはすでに変更の余地はない」という趣旨の回答があったとのこと。
 また、筆者が指摘した非対称な大ホールについては「センターラインがわかり、舞台の中心位置が分かるような工夫をする。」、調整室が張り出して後方客席の半分を潰していることについては「ホワイエの広さを確保するためそうせざるを得ない」との回答だったのこと。
 なお、調整室が張り出して後方客席の半分を潰していることへの批判は他の会議でも上がったようで、これに対しては「後方の窪んだ部分の客席のチケット代を安くする」などを検討していくとのことだったそうである。(ごめん、呆れる・・・)

 ようするにどんなに指摘されても「ゆるぎない」自信(?)でこのまま突き進んでいこうとしているわけだ。これから建設費・維持費を背負っていく市民のごく普通の願い(まっとうな形状のホールにしてほしいという至極シンプルな要請)より、業者の都合(素人にミスを指摘されて設計変更したくないというメンツや手間暇のサボタージュ)を優先させるということである。
 だが、今後50年以上市民が使用していく施設である。しかも、このホールの形状の欠陥については昨年10月から指摘している。「もう遅い」というのは通じない。そもそも山形市が「基本設計モデルプラン」でノーマルな大ホールの平面図を作成していたではないか。
(前回の本ブログ書き込み参照)

 山形市は痩せても枯れても「県庁所在地」である。それなりのレベルでなければならない。
 文化ホールは実はその都市のレベルを体現する存在である。プロの文化・芸術・芸能関係者(演出家・出演者・演奏家・スタッフ・プロデューサー・営業担当者ら)がこのホールを訪れる。そのとき、まずこのホールの印象がこの街の印象となる。そしてかれらはホールの印象をその業界の人々と情報交換する。
 また、山形市に新しい市民会館が完成したということで、全国各地から視察の人々が訪れることだろう。こういう人々はこの「いびつなホール」を見て、ほぼ間違いなく首を傾げると思う。はっきり言えば、新山形市民会館はホール設計の「失敗事例」として人口に膾炙するだろう。(自治体の文化施設整備担当者として全国各地のホールを視察し、各施設の職員から説明を聴いて歩いた経験のある筆者はそう断言できる。)

(2) 佐藤孝弘山形市長へのお願い

「これまで意見を述べてきましたが、ほとんど取り上げていただいていません。市民が171億円以上を負担して建設し、これまでに比べてかなり高くなりそうな維持費用を負担し、50年以上も利用していくホールです。どうぞ、ここでいったん立ち止まり、再検討をお願いいたします。」
 ・・・こんな趣旨の文章を山形市のHPの意見・提言のコーナーに投書しました。
 市長ご自身に届くことを願っています。

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 09:41Comments(0)作品評批評・評論

2025年03月11日

【補足】「いびつな大ホール」の平面図




 これまでの考察で言及してきた「いびつな大ホール」の平面図(左)を上げておく。これは2025年1月13日に開催された「シンポジウム」の動画からキャプチャーしたもの。左側の平面図(平田設計案)では、ホールの中心線に対して客席が左右非対称になっており、調整室が張り出す格好で後方客席の半分くらいを潰している。
 平田晃久氏はこのような設計案になった理由として「敷地が狭く、一般的な構造の大ホールにするとホワイエが狭くなるから調整室等が客席に出張っても仕方ない」という趣旨を語っている。
 なお、筆者はホワイエよりホールの内部が大事だという考えである。

 次に下に掲載した画像をよ~~~く見てみよう。筆者はとても意外だった。・・・というか驚いた。
 右側に掲載されている「基本構想モデルプラン(山形市作成)」という平面図に注目してほしい。(赤い部分は楽屋なのでひとまず無視して見てほしい。)
 一般に自治体がこれから設計案をプロポーザルで募集しようとする場合、このようなほとんど基本設計に近い図面をつくることはない。
 この点が今回の事業の進め方(事業者の選考の仕方)に疑念をもつ点である。
 このことについては次回以降に述べていく。





 
 
 

 
   

Posted by 高 啓(こうひらく) at 13:14Comments(0)作品評批評・評論

2025年03月11日

【補論】山形市民会館 設計者についての考察



(画像は平田設計による「太田市美術館図書館」)

 この一連の書き込みの核心となる「事業の進め方の問題」について論を進める前に、基本的なことだが、設計者を選考するうえで留意すべき点について述べておきたい。

(1)「コンペ方式」と「プロポーザル方式」

 自治体が文化施設のように比較的難しい公共施設を整備する際には、いきなり建設業者を選定するのではなく、まず設計者を選考するのが常道である。
 ところで、今回の山形市民会館の場合はDBO方式なのでこの常道から外れている。側聞するところ―というのも筆者は「市政ウォッチャー」の趣味はないのでこれまで市政のことを気にしてこなかった(つまり山形市政をある程度信頼していた)―、山形市では「市立山形商業高校校舎」と「蔵王道の駅」をこの方式で整備したとのことである。(これも違ったら指摘してほしい。) 
 推測するに、山形市当局はこういう前例があるから今回もこれで行こうと考えたのではないか。しかし、今回は建築するものの質もレベルも違う。それにDBO方式は維持管理と事業運営も併せて委託するのだから、本当に合理的なのか時間をかけて(つまり大規模修繕を経験するまで)検証されなければならないと思う。
 
 さて、選考の仕方には大きくわけて二つある。「コンペ方式」と「プロポーザル方式」である。
 コンペ方式は分かりやすい。広く設計案(「基本設計」に近い具体的な設計案である。基本設計とは平面図・立面図を固めたもっとも重要な設計。)を募集して、自治体が委嘱した審査員がそのなかから最も優れたものを選考する。この場合、当選した設計者の設計案は「作品」として尊重される。設計の主要な要素に施主に気に入らない点があっても、施主は設計変更を強制できない(もちろん要請はできる)。だからできるだけ多くの応募作がくるようにして、それらを比較検討する必要がある。
 筆者の記憶では、山形市内では山形県が整備した「霞城セントラル」がコンペ方式だったと思う。(もし違ったらコメントで指摘していただきたい。)
 一方、プロポーザル方式は、設計案を選考するのではなく、設計者を選考するものである。募集の仕方は、一般公募の場合、一般公募だが応募者に過去の業績などの条件を付けて限定する場合、応募者を施主(自治体)が数社(一般には5社程度)指名する場合などがある。  前述の「仙台国際センター」の場合は一般公募で、77社が応募した。
 今回の山形市民会館の場合はプロポーザル方式であるが、この方式の本質は設計「案」を選ぶのではなく設計「者」を選ぶという点である。 つまり、応募された設計案を検討し、そこに込められている設計者の理念、発想の豊かさ・柔軟さ、設計技術上の能力、維持管理に関する現実感覚等々の観点から評価するとともに、その設計者のこれまでの「実績」を検証し、その設計者が相対的にもっとも優れているとの判断を下すのである。
 「設計者」を選ぶのであるから、「設計案」にこだわる必要はない。施主は設計案に対してどんどん注文を出していいし、修正を命じてもいいのである。(ただし、修正後の姿が落選とした案に近似するとまずい。)
 参考まで述べると、プロポーザル方式では、募集の際「具体的な図面を出すな」と条件を付ける場合もある。あくまで設計者の思考能力を審査するのであるから、具体的な図面ではなくデザインをアイデアの段階で提出しろということである。ある応募者が平面図など具体的な図面やパースを提出すると、どうしてもそれらに引き寄せられてその案がよく見えてしまうことが多い。つまり応募者がそういう図面を出したがるのでこの辺は運用に細心の配慮が必要である。
 ところで、プロポーザル方式の肝心な点は、過去の「実績」を提出させ、それを審査対象に加えることである。ようするに提案は具体的でなくても、その設計者がどんなものを造るかは実績から判断できる。というか、実績こそが重要である。審査員や市当局の担当者は、候補設計者の実績について現地調査をすべきである。調査しきれない場合も実績にかかる資料をできるだけ俎上に上げて審査の対象にすべきである。


(2)平田晃久建築設計事務所の実績をみる

 ということで、「平田晃久建築設計事務所」の実績を見てみよう。
 同設計事務所のWORKS(作品集)を見てみると、この事務所はアパートやホテル、商業施設などを設計してきたことがわかる。公共施設では「太田市美術館図書館」、「八代市民族伝統芸能伝承館」くらいであり、芸術文化ホールの実績は見つけられない。山形市民会館のような大規模な文化施設の実績もないようだ。







 最近の代表作である商業店舗「東急プラザ『ハラカド』」はもちろん「太田市美術館図書館」や前橋市のアパート・レストラン・ギャラリーの複合建築、大阪のホテルなどを見ると、外観に明確な個性(意匠のアイデンティティ)が見いだされる。2階以上にテラスと植栽があること、あの「キューブ状の出っ張り」がヒューチャーされていること、ガラス張りの壁面がとにかく多いことである。
 筆者なら、この設計者を選定したら、まず間違いなく山形市民会館の建築デザイン案にもこれらの要素が持ち込まれるだろうと予測する。(実際にそうなっているわけだが。)
 もうひとつ注目するのは「八代市民族伝統芸能伝承館」の屋根の形状だが、これは広い敷地を要するし、あの高名な妹島和世設計事務所の鶴岡市民会館を髣髴とさせるのでまず持ち込まれないと考えるだろう。
 するともうどんな設計になるかだいたいは想像がつく。この設計者は自分のアイデンティティを表出しようとして前述の3要素にこだわるだろうということも想像がつく。
 設計者は公共建築であろうとなんであろうと、外観の特徴でそれが自分が設計したものだとわかるようにその外観に「個性」を刻もうとする。このこと自体はべつに問題ではない。先にも述べたように、建築の門外漢である筆者でさえ建築は建築家の作品だと理解しているし、優秀な(そして、できれば人間的に度量のある)建築家にはリスペクトを惜しまない。

 「建築家はその公共建築が自分の作品であるという刻印を外観に刻もうとする。」
 山形市民にこのことを意識してもらうには、たくさんある地元の本間利雄設計事務所の実績を思い浮かべてもらうのがいい。
 筆者が思い浮かぶのは「山形市総合スポーツセンター」「東北芸術工科大学本館」、「山形県総合文化芸術館(通称・やまぎん県民ホール)」、「川西町フレンドリープラザ」、「上杉城史苑」、「山形美術館」などである。これらはすべて和風的な屋根で「切妻」といわれる形式である。
 余談だが、山形駅西の「やまぎん県民ホール」のあの外観デザインはいただけない。まず、あの場所に和風の要素はなじまない。切妻屋根は設計者が自分の作品だと刻印するために着けたとしか理解されない。
 また、大ホール建築の肝はその大きさで周囲を圧迫しないような外観デザインにすることであると先述したが、あの場所では逆に考える方がよかった。(あの場所なら、平田設計案はまだ許容できる。)
 つまり、ここにこんなに存在感のある重厚な大ホールがある。それは煌びやかな場である。その舞台にたつことは素晴らしいことである。と、周囲に示すような存在感を醸し出す建築の方が、あの場所にはふさわしかった。あの切妻屋根を付けたことで軽さが出てしまった。
(筆者はあれでホールが「小屋」みたいになったと思った。舞台関係者はホールを「小屋」というので、まさかそれを衒ったの?・・・)
 なお、本間設計事務所のHPで業績をみて意外だったのは「酒田市民会館(希望ホール)」が同社の設計だったことだ。このホールの外観には本間設計の特徴がみられない。これはあくまで推測だが、周囲の景観との調整のため、あるいは施主の意向に従って、本間設計が自分のデザインのアイデンティティを封印したのではないか。もしそうだとすれば、これこそ公共建築においてあるべき設計者の姿勢だ。
 

 さて、何を言おうとしているかは、もうお分かりだと思う。
 設計者だけを選ぶプロポーザル方式を採用していれば、そして審査員にまともな専門家を採用していれば、この案は選考されなかった可能性が大きい。
 まず、この平田建築設計事務所には実績が足りない。そもそも大ホールの経験がない。単独では応募要件に該当しない。そこで「平塚文化芸術ホール」(1,200席)ほかの実績をもつ「安井建築設計事務所」と組んでいる。
 さて、ではその実績のある「安井建築設計事務所」はどんな大ホールを設計しているか。
 「平塚文化芸術ホール」の平面図を見てほしい。言わずもがな、これがまともなホールである。(ただし3階席まで造るのはできるだけ避けるべき)
 客席がその中心から左右非対称で調整室が客席後方の片側を潰している平田設計案がいかに異常なものか一目で理解できる。

 せっかくまともな大ホール設計の実績のある安井建築設計事務所が構成企業に入っているのに、なぜ平田設計案はこのように異常なものになっているのか。
 それは平田設計事務所および平田晃久氏が山形市民会館受託のためにつくられたSPC(特殊目的会社)「BIG-TREE」の「統一」の頂点に立ち、設計に関して大きな権限を握っているからだろう。(だが、このSPCの代表企業=最終的にすべてに責任を負う会社は地元山形の「市村工務店」である。ここにも矛盾がある。)
 同氏は「シンポジウム」で山形市民会館を「私の代表作にする」と発言していた。(シンポジウムの動画参照)
 「私の代表作にする」という意気込みは歓迎するが、見方を変えるとこれは「いままでの実績には私の代表作といえるものがない」ということを無意識的に吐露しているのであり、何よりも優先させて「この機会に私のデザインの特徴を絶対にこの公共建築物に刻み込むんだ」という強い想いに動かされているということを意味する。山形市の「要求水準書」に記載された「外観はシンプルで」「歴史・文化ゾーンにふさわしいものを」という要件を無視してはばからないのはここから来ている。

 公共建築物とりわけ文化芸術施設を造る場合、「私は立派な設計者だ」という意識をもった設計者と渡り合うには、自治体職員にそれなりの覚悟と矜持が必要なのである。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 10:51Comments(0)作品評批評・評論

2025年03月09日

山形市民会館設計案への異和(5)




 「事業の進め方の問題」についてさらに指摘する前に、施設デザインに関する異和について言い残したことを記しておきたい。

 4 テラスは必要か

 まず、この「BIG-TREE」という基本コンセプトからくるテラスや植栽への異和である。
 以下に述べることも、先に平田設計案を「関東地方」の「衛星都市(またはベッドタウン)」の「コミュニティセンター」みたいだと記したうちの、「『関東地方』の」発想だと言っている部分に当たる。
 平田設計案は山形の気候・風土・風物詩(または生活誌)を理解していない。

 平田案はテラスや屋上などを、市民の憩い・集いの場、および観光客等の展望場と位置付けている。そこには緑を配置し、また室内もガラス面を多くとって屋外が望めるように作られている。発想が単純で、あまりにステロタイプなのだ。

 ほんとうにこういう設計が有難いか、まず、気候の点から考えてみよう。
 山形市は「夏は猛暑、冬は積雪」の地域である。熊谷市に抜かれるまで国内最高気温の記録をもっていたほど夏は暑くなる。
 夏の最高気温は37~38度になり、一方、最近は積雪が少ない年が続いているが、それでも降るときは降って最大積雪深は平均して50センチくらいにはなる。最近では2022年に最大積雪深が88センチを記録している。
 野外に憩いを求めるとしたら、だいたい気温は何度くらいだろう。体感は他人によって違うが、快適なのはたとえば15度から26度くらいの間だろうか。
 山形市内でこの気温になる時期は、3月下旬から6月の第1週くらいまで。そして9月の最終週から11月の半ば過ぎくらいまで。合わせて130日余りである。
 ただし、この期間のお天気を「tenki.jp」から拾ってみると、2024年の場合、雨が降らなかった日は前半で51日、後半は30日ほど。合わせて80日あまりである。ここから単純に考えると土日で雨が降らないのはこの7分の2と仮定して23日ほど。
 要するに、市民が土日に来館してこのテラスを利用する可能性が高いのは年間23日くらいだということになる。
 
 意見聴取会で平田設計事務所の担当者に「山形の気象を調べたことがありますか?」と尋ねたが、「ない」とのことだった。
 「山形は夏は暑く、冬は雪が降る。そういう土地でこういうテラスがどれだけ利用されるか考えてほしい。こういうテラスに費用をかけないでほしい。」というような趣旨の発言をしたところ、同担当者は「会議などで室内を利用するときも野外のテラスの緑が見えます」と答えた。これも笑止。
 「山形の人間は街の中心部の建物で上層階の会議室の窓から植栽の緑を見て安らがなければならないほど、緑に不自由していない。ここは「山」形ですよ。」と言い返してやりたかったが自制した。
 この街に暮らす人々の生活誌に想像力を及ばせないまま、批判的検証のないアイデアで、われわれにとって大切な、しかも大きな費用負担を伴う施設の中身を決めてほしくない。

(参考まで、遊学館内の県立図書館の改築にあたってもこういう議論をしたことがある。筆者が同図書館に勤務していたときのこと。県庁の改築担当者が県外の設計士につくらせた改築計画案では、遊学館の庭園にテラスを造ってその上に可動式の屋根を設置することになっていた。筆者は上記のような数字を示して、それは費用対効果が薄いのですべきではないと主張した。屋根の設置費ばかりではない。維持修繕費がかかる。維持修繕費が嵩めば、その分図書館の書籍や資料を購入する予算が減ってしまうからである。筆者が反対したからなのかどうかは不明だが、可動式の屋根は造られなかった。代わりに、テラスには快適な季節の天気のよい日にパラソル式の日よけを置いている。ただし、それもそれほど利用者は多くないようだ。)


5 「外から見える練習室」は適切か

 平田設計案の特徴のひとつは、ガラスの壁で施設内が外から見えるようになっている点である。人々が集う場所であるから、あるいは外から人を呼び込むため、利用者が何をしているか、できるだけ見える方がいいという考え方だ。
 パースの1枚目は一階の「大スタジオ」で行われている稽古を屋外の通りに面している場所から人々が見ている様子。まるでショー・ウインドウのようだ。(パースでは壁がないように見えるが、ここの外壁はガラス。)




 2枚目はロビーの内部。中央に金魚鉢みたいな「スタジオ」、右側にも「スタジオ」があり、どちらもガラス張りである。こちらも中でやってることを不特定多数に見せることを前提に設計されている。ガラスのスタジオって、音はどうなるのか・・・。
 これにも筆者は頭を抱えてしまった。
 



 この設計チームの諸君は、演劇やダンスや舞踊や演奏の稽古をする人々が、その稽古の様子を不特定多数の人々や通りがかりの人々に覗かれたいと思うと思っているのか。
 もっとも、練習や稽古の様子が外から見えるようにするというのは、山形市の要求水準書に記載されているので、設計者だけを非難することはできない。(ただし、平田設計案はこの点では水準書に過剰適応し、外観を「シンプルに」という点では水準書を無視している。)
 演劇やダンスや舞踊の稽古をする人々がこういうことを要望したのだろうか。とてもそうは思えない。逆に不特定多数の眼を避けたいと思うはずである。これは筆者の経験から言ってもそうである。演劇の稽古を通行人に覗かれるような場所でしたいわけがない。
 また、いかにも都市的なセンスであるかのように装っているが、今どきトレーニングジムでさえ、隣のエアロビのスタジオを覗いていたら変態だと思われてしまう。練習スタジオにいるのが子どもだったら、眺めていた人間(とくに男性)は警察に通報され、あっという間にスマホの警戒情報として多くの保護者や学校関係者に通知される。時代感覚が鈍っていないか。
 遮蔽できるようにしたらいいだろうと言うかもしれないが、そもそも、ガラスで囲われた部屋で稽古をしたいとはだれも思わないだろう。ガラスではなく、壁面は吸音仕様で、壁面の一つには鏡をつけてほしい。




6 小劇場の必要性

 小ホールもご覧のとおり片面がガラス張りである。舞台や客席はテルサのアプローズと同じような形状であり、しかもこの図では照明器具等の設置が考慮されていない。たんなる講演ホールである。
 山形市内には演劇に適した小ホールがない。演劇関係者とくに若い世代の舞台関係者にとって芸術発表の場としてふさわしいステージ=「小劇場」の設置は切なる念願である。
 また、音楽発表の場としても「多目的小ホール」ではなく、本格的な内装をもった小ホールが必要である。
 現市民会館の小ホールは演劇用にはまったく不向きであり、音楽用にも適していなかった。遊学館ホールはたんなる講演会仕様であり、テルサのアプローズも袖がなくて演劇で使用する際には苦労してきた。
 ここで小劇場を造らなくてどうするのか。
 この案のように移動式座席が張り出す形状でも構わないので、ガラス面はやめて劇場にふさわしい壁面とし、舞台には袖を付け、照明機構及び照明・音響室を設置してほしいと切に願う。
 小劇場があるかないかで、その都市の舞台芸術のレベルが決まる側面もある。進学、就職、買い物、コンサート、観劇、芸術活動への参加などで仙台に流出している若い人々を山形に振り向かせるためにも、小劇場が必要である。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 17:20Comments(2)作品情報批評・評論

2025年03月08日

山形市民会館 進め方の問題(1)



 「YAMAGATA  んだ!」ブログ、書き込みの頻度は少ないが、もう20年もお世話になっている。このブログの仕様として、パソコンのブラウザで見るとコメントが自動的には表示されない。毎回の書き込みの下にある「Comments」というところをクリックして見ていただきたい。
「fuku990」さんからコメントがあった。「浸水リスク」を指摘し、「市民ワークショップ」が「まるで幼稚園の授業でした」と記載されている。
 浸水リスクについても明記すべきだった。県立高校の事務部長として維持修繕(とりわけ費用確保)に悪戦苦闘していたとき、一番苦労したのはこれだった。建築の素人だった筆者は、コンクリート製の屋上が経年劣化でこんなに浸水するようになるのかと驚いたのだった。また、コンクリート製でない屋根の場合も浸水で大変なことになっていた。屋根にしても工法を十分検討しなければならないと思い知らされた。
 平田案はテラス状の屋外平面が多く、植栽桝も多い。この点でも非常に維持修繕費を食うものになっている。ちなみに維持補修費で一件130万円を超える場合は、それが全額山形市の新たな負担になる。(「要求水準書」記載)







 また、このブログを見た元設計事務所職員(構造計算などを担当していた設計士)の方からメールをいただき、この案のように東京の設計者が雪国の事情に適合しない設計デザインを提案してきた際、自治体の担当者がそれを拒否して修正させたと教えてくれた。まぁ、それが当たり前である。こういう「常識」がどうして働かないのか。それがこの事業の問題の核心である。

 ところで、この設計案による事業計画について山形市議会はどう対応してきのだろうかと疑問に思い、知り合いの市議に状況を訊いた。
 この設計案による事業計画に明確に反対を表明しているのはひとりだけとのことだ。この市議は中道保守系の会派に所属しているそうだが、日頃から自分の意見を明確に強く主張するためか、「まわりから浮いている」のだそうである。(国会議員でいえば山本太郎のような感じ?)
 では、他の市議は問題を感じなかったのかと訊いてみると、外観への違和感や建設費・維持管理費が大きくなりそうなことに問題を感じたが(そして例の鶴岡市民会館の事例も念頭にあったが)、「すでに設計は固まっているようなので、デザインや外観がよくないという理由で設計案に文句を言ってはいけない雰囲気だった」と語った。(さあ、これだけを聴いても、この政策決定の過ちの経緯は社会心理学的な研究の題材になりそうではないか。)
 この市議には、筆者のブログを読んでくれるようお願いした。




 しかし、改めて明記しておくが「いまさらでは遅い」などということはない。こうなっているのは市の進め方の不手際のためであるから。
 上に掲げた「秘密保持に関する誓約書」をしげしげと御覧いただきたい。
 先にも記したが、これは昨年10月時点の意見聴取会で参加者が提出を求められたものである。このとき、図面は一切配布されなかった。
図面が手元になければ具体的に検討できない。しかも参加者は芸文恊の役員すなわちほとんどが高齢者(しかも後期高齢者が中心)なのである。
 「今日、みなさんには各団体の代表として参加していただいています。資料と図面を持ちかえって各団体の皆さんで検討し、意見を取りまとめてお寄せください」と言われるのかと思っていたので、「口頭でも漏らすな」と書かれていることに愕然とした。
 それでも、「こう言うのは、間もなく別途機会を作って市民の各方面から意見を聴くからなんだろうな・・・」と安易かつ善意に解釈して、だれにも口外しなかった自分がアホだった。山形市の担当職員にも当然、市民重視の姿勢があるはずだと信じていた自分がお人よしだった。

 今後半世紀以上にわたる事業を行うのに、こういう手法をとること自体が信じられない。
 まっとうな行政の進め方としては、まず基本計画を策定する際に関係各方面の意見を十分に聞き(ワークショップをやるのはこの段階)、それを取り入れて要求水準書を作成し、プロポーザルの結果決まった設計案の図面について再度関係各方面に提示して広く意見を汲み上げ、次にそれらの具体的な意見を図面に反映させ、これでいいでしょうかと三度諮るのが常道である。
 今回の事業では「シンポジウム」、「ワークショップ」が開催されたのは、実質的に基本設計に近いものが決定されてからである。市民の意見を設計に反映させるつもりはなく、完成された設計案を広報(PR)し、「ああ素晴らしい設計だ」と有難がらせるのが主たる目的だと思われる。「市民の意見は聴きました」というアリバイ作りのために市民を「幼稚園児」扱いしたと指摘されても仕方ない。

 「何をいってももう遅い」という諦めの声が聴こえる。「どうせ山形市当局は市民の意見など反映するつもりがなかったのだろう」とか、年配者からは「私たちはもうこの市民会館は使わないだろうからとくに何も言おうとは思わない」とかいう声も聞こえてくる。
 それでいいのかな・・・。山形市の令和6年度の納税者は110,143人。この事業の総事業費はいままでのところ約171億円。納税者ひとりあたりの負担額は今までのところで16万円弱である。これから50年以上の維持費も市民の負担である。

 ちなみに、恥ずかしい話なのであまり公表されていないが、山形県の県民ホール。
 あの事業では、いったんまとめられた「基本設計」が凍結され、廃棄された。いまの県民ホールは設計事業者の選定からやり直したものである。ただし、前の基本設計が凍結された主な理由は、設計内容やデザインによるものではなかったと思う。本音は「このまま建設に取り掛かるお金がないから」ということだったのだが、「設計をもっと良いものに見直す」というのを表向きの理由にしたのだったと記憶している。(この事情に詳しい方がいればコメントをつけてほしい。)

 さて、この設計案を見直させる根拠は次の二つある。
 そのひとつは、この設計案とくに外観が、山形市の「要求水準書」に適合していないからである。
 水準書には次のように記載されている。
 「4周辺施設との調和」で、「建設予定地は、「山形市中心市街地グランドデザイン」における「歴史・文化推進ゾーン」に位置付けられています。近接する「文翔館」などの周辺施設との景観の調和に配慮し、「歴史・文化推進ゾーン」にふさわしい景観を形成できる施設とします。」と記載され、「施設設備の基本性能」の「社会性」の「地域性・景観性」の項目では、「地域の歴史や風土の特性を考慮しつつ、周囲の景観と調和し、長きにわたり市民に愛されるシンプルなデザインとすること。」と明確に規定されている。
 また、「経済性」の「耐用性」では「ライフサイクルコストの最適化」が掲げられ、「維持保全」の項目には「意匠や設備、備品等はシンプルなものとし、清掃や点検保守等の維持管理が効率的かつ安全に行えること」と記載されている。
 さらに、「環境保全」の項目では「脱炭素社会の実現に向け、自然エネルギーの導入に努めるとともに、ZEB Oriented認証の取得を前提とした省エネルギー性に配慮した計画とすること。施設の長寿命化に配慮し、将来的な建替え、解体も含めた総合的な環境負荷低減を図ること。」
とある。
 ようするに「シンプル・イズ・ビューティフル」ということだろう。
 平田案はどうみてもシンプルでないし、経済的でもないし、耐久性にすぐれているとも見えない。なぜ、この基準が遵守されなかったのか。というか、山形市当局はなぜこれを遵守していない案を当選させたのか。
 ひょっとして、その根本原因は、この事業をDBO方式でやったことにあるのではないか。これが筆者が考えるふたつ目の理由である。


【補遺】
 「シンポジウム」では、大ホールがいびつである理由を、劇場設計者の本杉省三氏が説明している。
 内容は説明になっていない。彼はただ、ホールが対称でなければならないということはないと述べ、その事例としてベルリン・フィルやパリ管弦楽団のホール(これらは音楽専用ホールで、プロセニアム形式ではない)を投影しているだけだ。これには驚いた。有名で権威あるホールを投影すれば、山形市民は平伏すとでも思ったのか。それらのホールは平田案よりはるかに左右対称に近いし、調整室の出っ張り等ない。あまりに山形市民をバカにしている。(動画を確認してほしい。)

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:06Comments(1)作品評批評・評論

2025年03月06日

山形市民会館設計案への異和(4)



 息子にこの設計案について意見を聴いたところ、やはりこれがこの場所にあるのはおかしいのではないかという答えだった。(ちなみにこの息子は本事業のSPCの代表=責任企業となっている市村工務店に家を建ててもらったことがある。お客さんだぞ。)
 息子と話していて、これが後の世代に残されるのだということを改めて実感した。そしてこの設計案の大きな特徴のひとつである、設計者のいうところの「枝」、筆者に言わせると「キューブ状の出っ張り」をしげしげと見直してみて、残されるのはたんにこの「出っ張り建築」だけではないと再認識した。・・・この出っ張りを造ることでいくら工事費・維持費が掛かり増しするだろうか、つまり次世代の負担がいくら掛かり増しするのだろうか・・・と。

3 費用と維持管理の問題(もと行政屋の視点から)




 これらの出っ張りがある建築物は山形県内ではあまり見かけない。とくにこの設計案のように出っ張りが機能的または構造的必然としてではなく、意匠上の選好として採用されているような建築物は県内にはほとんど存在しないのではないだろうか。
 もちろん、いままで存在しないから反対だと言いたいのではない。しかし、これまでほとんど存在しなかったということは、こういう構造物を「つくらない」という選択に合理的な理由があったからだろうと考えてみる必要がある。
 代表企業である市村工務店はじめSPCの大部分を構成するのは地元の建設関係企業だが、これらの人々はほんとうにこの「枝」=出っ張りをこのまま造るつもりなのだろうか。
これらの企業の人々も同じ山形市民、山形県民である。われわれ雪国の住民は、このような構造を見ると、真っ先に「雪氷が落ちてくる危険」に想いがいたるのではないか。
 この設計案の大きな特徴のひとつである「外階段」についても、われわれ雪国の人間なら真っ先に「凍結」と「滑って転倒の危険」に想いが及ぶのではないか。さらには少子高齢化が顕著な地域に住む人間として、冬季に限らず高齢者が利用する上で適切な仕様かと自問するのではないだろうか。

 前回の書き込みでこの平田設計事務所(東京都所在)の案が、「関東地方」の「衛星都市(またはベッドタウン)」の「コミュニティセンター」みたいだと記したが、このうち「『関東地方』の」発想だと言っているのがこの部分に当たる。つまり、雪が積もらない地域、少子高齢化が相対的に進んでいない地域の発想なのである。
 「雪氷が落ちてくる危険」「凍結と転倒の危険」には対策がとれるだろうと言われるかもしれないが、結局電熱で融かすことになるのではないか。つまりその対策のための工事費と維持管理費とりわけ電気代が増大することは避けられない。「枝」も「外階段」も、さらにはそれ以外の張り出し部分も、機能上必ず必要な構造ではない。つまり、これは意匠(設計者のデザイン)上の必要性によるものであり、それは言い換えれば設計者の自己主張によるものであり、もっといいかえれば設計者のエゴによるものである。このエゴのために、このエゴを支持し選択した審査委員たち(市役所幹部たち)のために、われわれの息子や孫やひ孫が掛かり増しの費用を延々と負担させられていくのだと思い至ると、とても申し訳ない気持ちになってくる。
 また、この張り出し部に雪氷対策を施したとしても、絶対に落下を防げるとは限らない。すると思い浮かぶのは、あのコーンで仕切られた「立ち入り禁止」区域(学校の軒下などでよく見かけるやつだ。しかもこの建物の場合はそれが大通りの歩道にまで及ぶ可能性がある。)の設定である。あれは非常にみっともない。こういう風景を、東京の設計者は現実問題としてシビアに想像したうえで設計案をつくっているのか?

 そもそもこういう特殊な構造の建築は工事費が掛かり増しになる場合が多い。
 このキューブ状の張り出しを造るためには、張り出し部の建設費が掛かり増しになるだけでなく、本体(躯体)の枠組みの鉄骨構造等を強化するための費用も掛かり増しになるだろう。
 息子の顔をみて考えてしまった。この張り出し部一個で、いくらこいつらの負担が増えるのだろうか・・・と。
 話はずれるが、「消費家計調査」で「中華そば(外食)」が全国一位だということで山形市役所は毎度はしゃいでいる。だが、「中華そば(外食)」以上に注目しなければならない第一位がある。「上下水道料」である。実際、この負担感は半端ではない。これは上下水道の「料金」が全国一だということを意味するわけではないが、今後の上下水道施設の更新を考えると増えることはあっても減ることはないのではないか。ようするにこれからはすべての維持費が増大していくだろう。

 このように「斬新な」(平田案はほんとうは斬新でも独創的でもないが)公共施設を建築する際に施主=自治体がもっとも気をつけなければならないのは、事業が進むにしたがって事業費が当初の積算を大幅に上回って肥大化することである。
 このことですぐ頭に浮かぶのは鶴岡市民会館(「荘銀タクト鶴岡」)の事例である。この施設は公募型プロポーザル(10社応募)で選考された「妹島和世設計建築事務所」を代表とするJVが設計した。妹島和世氏は建築の素人である筆者も(金沢21世紀美術館で)知っていた。建築のノーベル賞といわれるブリツカー賞も受賞した超有名設計者である。
 この選定結果を聞いたころ、筆者は豪雪地帯である新庄市の県立高校に勤務し老朽化した校舎の維持補修に悪戦苦闘していた。またその前は県庁の建築住宅課に勤務し、建築の技術職員ら(一級建築士を含む)とともに仕事をしていた。そういうこともあってか、「ずいぶん偉い設計者を選定してしまったものだ。鶴岡市の力量で設計者と渡り合って事業(とりわけ事業費)をコントロールできるか心配だな。」と老婆心を抱いたことを記憶している。そしてその心配が現実のものとなったことはご承知のとおりである。
 平成23年に概算工事費を(先行事例を参考に)40億円と見込んでスタートしたところ、資材値上がりと特殊工法が必要であることなどから59億円に引き上げたものの、3回の入札でも工事業者が決まらず、4回目に79億円でやっと落札したのである。契約時点(平成26年)でさえざっと2倍に肥大していた。この間、市議会も、話が違い過ぎると大騒ぎになったのではなかったかと記憶する。(それでも鶴岡市は「平成の大合併」をして合併特例債が使えた。山形市は?)

 資材値上がりがあったとはいえ、工事費の肥大は、施主=鶴岡市がプロポーザルにあたって事前に概算工事費をしめしていたのに、選定された設計者が自分の設計する建築の建築費がそれに収まるかどうかを重視せずに「個性的」(筆者に言わせると「エゴ」)な設計(特殊工法が必要な点も含めて)を進めたことが第一の原因であったことは容易に想像できる。
 そして、事情はいろいろとあったのだろうが、外部からみれば、施主=鶴岡市当局に、設計内容を把握し費用をコントロールする(つまり偉い設計者の設計案に「これはダメだ」と拒否したり「ここはこう修正せよ」と指示したりする)力量がなかったことが第二の原因だったように見える。
 率直に言って、山形市はこの鶴岡市の轍に嵌りそうである。
 「こちらはDBO方式だからSPCが設計したものをSPCが約142億円の枠内で収める約束だ」などと安心していると足を掬われることになるかもしれない。(そもそもこんな構造の施設を参考に概算工事費を算定したわけではないでしょう?)
 それに地元のSPC構成企業の皆さん、この設計でほんとに予算内で大丈夫ですか?(あとで「建築費が余計かかって造れない」なんて言って山形市に泣きつくことはないでしょうね?・・・筆者の経験知からいえば必ずそうなる。)

 われわれの子孫に少しでも「設計者原因による負債」を残さないために、この平田設計案にはいくつもの点で修正を求める必要がある。


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 18:41Comments(2)作品評批評・評論

2025年03月04日

山形市民会館設計案への異和(3)




2 建物の外観と歴史的景観が衝突している
 
 スライドを映写されただけだったが、ちらり見したたけでも、設計案を修正していただきたい点が少なからずあると思った。これまで与えられた昨年10月の意見聴取の場で、そのうちのいくつかを指摘したのだが、2月の説明会の際はじぶん一人が追及口調でいくつも意見を述べては申し訳ないような気がして遠慮し、最大の欠点と考えた大ホールの形状についてのみ要望を述べるにとどめた。(その内容は「山形市民会館設計案への異和(1)」に述べたとおりである。)
 だが、その後、報道で外観を見た方と話していて、あの外観を心配する意見に触れた。
 じつは筆者もあの外観が非常に問題だと思っていたが、外観について批判的なことを言うと設計者らの感情的な反発を誘発して、ホール等内部施設への意見がまったく受け入れてもらえなくなるのではないかと恐れ、ぐっと発言を我慢していた。
 しかし、異和を抱く市民が他にもいることを知り、これは一山形市民として、また自治体行政の経験者として表明しておかなければならないことだと考え直した。

 この建築デザインについて批判するのは、大きく言うと次のような観点からだ。
 ① 一言でいうと、このデザインには「<山形>に対するリスペクトがない」ということ。
 これは山形の歴史、生活、風物詩への無頓着から来ている。というか、もっと本質的な観点から批判すると<地方>への視点が貧困(ステロタイプ)だということである。
 ② この外観デザインからは「芸術文化ホール」というものへの造詣もリスペクトも感じられない。一言でいうと「関東地方」の「衛星都市(またはベッドタウン)」の「コミュニティセンター」みたいなコンセプトで作られているという印象を受ける。

 いろいろと述べなければならない論点があるのだが、それらを順序良く述べる余裕がないので、ランダムに記していくことをお許しいただきたい。
 まず、建築デザインの素人としての率直な感想から述べる。
 筆者は昨年仙台市を訪れた際、時間潰しに駅の脇にあるAER(アエル)というビル(丸善という書店が入っている)に足を運んだ。するとロビーに「仙台国際センター」の建て替えに係るプロポーザルへの応募案がたくさん(見切れないほど)掲示されていた。同市のHPでは77件の応募があったという。これに比して今回の山形市民会館への応募はたった2件(!)である。
もちろん、設計案だけを募集した仙台国際センター整備事業とDBO方式で募集した山形市民会館整備事業を単純に比べるわけにはいかない。しかし、応募が2件というのはあまりにあまりであり、しかも前者は一般公開、後者は非公開それも事業者決定後も口外禁止(!)だったのである。(仙台国際センターについてはこちらを参照)
 ついでに述べると、選考する側についても、山形市の場合は審査委員長が副市長、他9人の審査委員はすべて市役所の部長ら幹部のみ。なんと審査員全員が(たぶん)中高年男性。しかも専門家は投票権のない「アドバイザー」(全部で5名。うち女性は1名。)という位置づけである。(審査員とアドバイザーを合わせて15名の男女比は14対1である。)いまどきよくこういう構成にしたものだと感心するほかない。
 一方、仙台市の場合は審査員全5名のうち市関係者はヒラの委員として副市長が入っているだけ。委員長を含むあとの4人は全員専門家となっており、雲泥の差がある。
 50年間も山形市民であり、かつ、かつて地元の自治体職員だった身の筆者としては、これだけでも情けなくて泣きたくなる。(ちなみに山形県庁は山形市のように無残なことはしていないので為念。)
 なお、選定方法の問題(DBO方式を含む)については機会を改めて考えてみたい。

 さて、デザインの話に戻ろう。
 AERに掲示されていた応募作品を見て回ると、今回の山形市民会館整備事業における平田晃久設計事務所設計案と似た要素を特徴としたものがたくさん(数えきれないほど)あった。
 「平田晃久設計事務所設計案と似た要素」とは何かというと、(建築の素人ゆえ用語がわからないので上手に説明できる自信がないが・・)
a 全体的形状が単純な箱型ではなく、側面に非規則的な出っ張りがある。(または階ごとにデコヒコがある。)
b 外壁に開口部が多く、また壁面は透明なガラスで囲われている部分が多い。
c 外階段がヒューチャーされている。外階段でない場合もガラスの壁に接して階段が設置されていて外部から階段が目立つように設計されている。
d 2階以上にテラスがあり、その部分に植栽がなされている。
 素人目にはこれらの要素が共通した似たような作品があまりに多いので、最近はこんなのが流行りなのか、なんかもっとアイデアはないのかな・・・くらいに見過ごしていた。
 だから「平田晃久設計事務所設計案」を観たとき、「あ~やっちまったなぁ・・・」という暗澹とした想いがやってきた。

 この案のどうしようもなく否定すべき点は、まさに核心的なコンセプト「BIG-TREE」そのものに存在している。この「BIG-TREE」のコンセプトについて、シンポジウムで平田晃久氏は「組織全体として一本の大樹をつくる」のだと言っている。
 文化ホールは巨大な箱型になって周囲を圧迫する(これはたしかにそのとおりで、圧迫感をどのように軽減するかはホール外観設計の肝である)ので、その圧迫感を緩和するため、躯体(幹)から枝を伸ばすように設計したというのである。(ただし筆者にはこれは枝が伸びているというより、壁面に何個かのキューブが突き刺さっている、あるいは、のめり込んでいる、というように見える。)
 周囲にあたえるボリューム感を和らげるため、構造物をいくつも張り出させて周囲を「枝」で覆っていく。ボリューム感を軽減するためにボリュームを増大させるという、これはまさに笑えない(われわれにとって悲劇的な)逆説である。この書き込みの初めに掲載したパースをよく見てほしい。上の方に周辺の建物との大きさを比較した図(黒いシルエット)がある。筆者などはこれを見て仰天した。




 また、「BIG-TREE」のもとに市民を抱え、交流や憩いの場を与え、また市民活動を抱擁していくという発想(なにしろOperateも含むのだから)のように受け取れる。これは裏を返せば設計者の独りよがりの傲慢さである。この発想は意識的または無意識的なパターナリズムや選良的な指導意識からやってきているように思われる。

 さて、こういうことを言うと、筆者はこの設計者を全否定しているように思われるかもしれないので断っておきたい。
 筆者はこういう設計思想、設計案はあってもいいと思う。つまりこのコンセプトは理解できる。というか、よその街にあったら「へぇ~」と思って見上げるだろう。もっと引いて言えば、この外観の建築物が現在の市民会館の敷地に建てられるのなら許容できる。だが、文翔館の前では許容できない。それは山形県の歴史的景観を壊すものだからである。

 では、上記の批判点①について述べる。
 山形県民ならおなじみの高橋由一の「山形市街図」をもう一度よく見て考えてみよう。




 中央奥に見えるのは県庁。ただし今の文翔館(1970年代まで県庁だった)の前の前の建物(火災で焼失)である。高橋由一は教科書に載っている「鮭」の絵で有名な日本近代を代表する洋画家のひとり。初代県令・三島通庸が連れてきて自分の成果(土木・建築関係の整備)を描かせた。この絵は、おそらく山形銀行本店のある交差点のあたりから現在の文翔館方向を描いたもので、山形県の<近代>を象徴するものと言われている。
 文翔館は今や山形県の顔となっていて、在って当たり前みたいに思われるかもしれないが、ぼろぼろになっていたうえに長年庁舎として使用される過程でいくつも部分的に改築されていて、しかも建築当初の資料がほとんど残っていなかった県庁舎を復元することは、費用の面でも当時の山形県にとって一大決断だった。山形「県」はまさに「県」として歩み始めた初発の姿を後代に伝え、そこに自分の近代以降のアイデンティティのひとつを定めようとしたのである。文翔館周辺は山形県そして山形市の<象徴空間>として形成されつつあるはずだった。
 山形県及び山形市は、この一帯に存在する「山形師範学校」(現山形県教育資料館)、霞城公園に移設された病院「済生館」(現山形市郷土館)、「山形市立第一小学校」(現やまがたクリエイティブシティセンターQ1 )、料亭「千歳館」(市が寄贈をうけ整備を検討中)など、近代建築を保全し、加えて御殿堰や紅の蔵なども整備して、これらを文化的資源として活用してきた。(筆者としては、旧豊島銃砲店、旧吉池医院、旧池田写真館なども保全し、これら近代建築を文化的資源・観光資源として活用していくことを願う。ほかに、失念してしまったが貴重なキリスト教会もあったはず。)
 こうしたこれまでの県と市の営為と、この設計案はどうみても整合性が取れない。
 平田設計案のプレゼンでは「BIG-TREE」の緑と文翔館前庭の緑と裁判所の緑が繋がって…云々などというが、こういうのを「霞が関文学」ならぬ「設計者文学」というのである。要するに耳障りのいい表現に騙されないようにしなければならない。

 山形市の芸術、文化、街づくり、建築、デザイン関係の皆さん、ほんとうにこれでいいの? 
 筆者は先に「山形市は少子高齢化と(仙台市の)衛星都市化に瀕している」と書いたが、仙台市を含む他県から山形市を訪れた人々の口から、「山形は近代の歴史的景観を大事に保全していて素晴らしいですね」という言葉を何度も聴いた。
 下記に上げたこの設計案を再度よく見て、これが山形市の中心地にふさわしいか、また山形県の歴史的象徴的空間にふさわしいか考え、声を上げてほしいと切に思う。
 長くなったので、上記の批判点②については機会を改めることにする。
 



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 21:47Comments(0)作品評批評・評論

2025年03月01日

山形市民会館設計案への異和(その2) お詫び




 前回の書き込み「山形市民会館設計案への異和(その1)」について、はやくも訂正とお詫びをしなければならない。

 前回、「なお、最後に、山形市の舞台芸術や音楽関係の分野の方々は、設計案の平面図を見ているだろうか。もし見ていて、これに修正を求めないのであれば、それこそこれらの人々のレベル(芸術文化への情熱の)を疑う。設計、建築関係者についても同様である。」と記載したが、その後、地元で舞台芸術関係の活動をしている方と話したところ、その方もこの設計案について、極めて厳しい批判の意見をもっていることが分かった。
 大ホールに入場する客の待っている場所がない、トイレが少なすぎる、大ホールへの舞台搬入上導線に支障がある、小ホールには袖がなく演劇などに不向き、などなど、たくさんの問題を指摘していた。図面が入手可能な状態で公表されていない(パワーポイントで一瞬だけ投影し、次々に画面を切り替えていくだけな)ので、筆者はまだそこまでチェックしていなかった。この方は「設計者にホールの専門家がいないのではないか」と話していた。SPCを構成する各社の出席者の前でもはっきりそう言ったそうである。
 こういう常識のある人がいて当然だが、一瞬でも「地元の芸術文化関係者は、だれも厳しく問題を指摘しなかったのではないか?」と疑った自分を反省する。
 ということで、やはりこの設計案は大幅に見直さないといけないようだ。
 市当局には、まずは詳細な設計図面を公表したうえで、芸文恊の役員(ほとんど高齢者)だけではなく、実際に活動している各方面の団体や活動主体からもう一度意見を聴取し、実際に使用するものの意見を真摯に受け止め、設計に反映させることを求めたい。






 
  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 13:29Comments(0)作品評批評・評論