2011年05月26日
薄情者の大阪行(その2)
初夏の日差しが降り注ぐ暑い一日だった。
新世界から引き上げると、いったん淀屋橋の“超豪華”ホテル「ホテルユニゾ淀屋橋」(シングル6,900円)にチェックインして、シャワーを浴びる。
このホテル、部屋は狭いがビジネスホテルとしては小奇麗だった。というか、そのエントランスやフロントなどのシャープ(?)な内装から受ける印象が、周りがオフィス街ということもあって、ホテルに泊まっているというよりオフィスビルに泊まっているという感じで、まぁ寛げない。
部屋のキーはICカードだが、エレベータに乗るにもこのカードをセンサーに接触させないとエレベータが上昇しないようになっている。下りはカードを使用しなくてもフロントのある1階には降りられたが、1階以外には止まらない仕組みになっているのかもしれない。泊り客以外の侵入を防ぐ機能としては有効かもしれないが、どうも世知辛くて印象は悪い。それに、緊急避難時などに問題はないのだろうか・・・そんなことが気になった。
夕方の5時過ぎ、部屋を出て御堂筋を北へ向かって歩き出す。
土曜日のビジネス街は人通りも少なく、日陰には爽やかな風が吹いている。ジョギングしている人も見かける。
「COTOありがとうの会」は、夕方の6時から、北新地のとある店で開かれることになっていた。
案内状に書かれた会場の「際(きわ)」は、全日空ホテルの北側のビルにあるというので、その辺りを探して歩くが、なかなか見つからない。それもそのはず、その店は漢字の「際」という料理屋ではなくて、「BAR KIWA」という店だった。ビルの入り口に立ち入って郵便受けの上の看板を見ないと、この表記が見つけられなかった。
その店のドアを開けて中に入ると、すぐに安田さんが声をかけてくれた。
安田さんと二人で「COTO」を発行してきたセンナヨウコさんは欠席だったが、安田さんを含めて12人ほどの寄稿者が集まり、穏やかに会が始まった。じぶんは、安田さん以外は初対面だった。
一番遠くからきた人は北海道、そして二番目に遠いのはじぶん、そして東京から来た人も2人いた。
それぞれが自己紹介をして、安田さんとの関係について話した。大新聞の部長経験者、大出版社のOB、フリーライター、現役の大学教員など、いわゆるインテリ層の人から、銅版画家、お坊さん、福祉関係者、ホームレスなど最下層の人々と近しく交流している古本屋さんまで、多彩な顔ぶれだった。まさに安田さんの人柄がこうした多彩な人々を惹きつけているのだろう。
安田さんはいわゆる団塊の世代で、出席者は同世代かそれより上の世代の人が殆どだったから、この12人のなかでじぶんはもっとも若い方だった。ある出席者には「高啓というのはどんな人かと思っていたら、青年が来た」などと冷やかされた。
信用できるかは別として、「あなたの詩のファンです」などという人もいた。それに、安田さんをはじめ、何人かが高啓のブログを読んでいると言っていた。
出席者は、それぞれが人生の厚みを感じさせる佇まいで、魅力的だった。なかにはこれから新たな詩誌を創めると言う人たちもいて、それぞれがまだまだ精力的に活動する気配である。ほんとうはそれぞれの実名を出して、その人がどんなことを語ったか、その人からどんな印象を受けたかなどを書き込みたいところだが、迷惑をかけるといけないのでそれはやめておく。
と言いつつも、上に掲げた画像の書籍とその著者について一言触れておく。
この本は、当日の出席者のひとり、著者の大橋信雅さんからいただいたものである。大橋さんは、和泉市の寺の住職を生業(シノギ)としているが、この著書のなかで、映画館で映画を観ていた時間が人生でもっとも長く、年に500〜600本の映画を観る生活を続けてきたという。
その人生が、映画評のようにして描かれているのがこの『ホトケの映画行路』(れんが書房新社)という本である。
この本を、帰りの新幹線で読んだ。
出席者の誰かが、大橋さんの「COTO」への寄稿文について、「映画批評のなかで必ず自分の人生が語られる。“私小説的映画批評”だ」という趣旨のことを語っていたが、たしかにそのとおりだった。
子どものころから映画好きだったこと。高校を卒業してから寺の住職である親の進めるまま京都の仏教系大学に進学し、それが嫌になって家から脱出するために早稲田大学に入り直したこと。「政治の季節」における酒場からデモに向かう東京生活、そして女との関係。・・・連合赤軍事件における友人のリンチ死。やがて、“なにもしないで生きていく”という決意と、暴飲と酒場での喧嘩にあけくれるアナーキーな生活。・・・好意を寄せる酒場の女にしつこく絡んだ男を刺したことによる逮捕。実家への帰郷。結婚と双子の息子の誕生。両親の影響が仄めかされる同居していた25歳の弟の自死。両親への呪詛。・・・そして、そこから始まる映画館と酒場への没入。
映画作品の世界を語るうちに、著者自身の苦しみの記憶と情感とがせり上がってくる。・・・これは、不器用に、しかもなにか温かなものを痛切に求めて彷徨する自らの様を晒す、まさに“身を斬る”ような映画論なのである。
じぶんは「BAR KIWA」で、大橋さんの隣に座っていたが、彼と交わした言葉はそんなに多くなかった。大橋さんは、自己紹介が終わると、ビールに続いてウイスキーのオンザロックのダブルを数杯飲んで、酔っていった。酔って饒舌になるということはなかったが、やや呂律が怪しくなり、しかもかなり早口の関西弁でしゃべられるので、じぶんにはうまく聴き取れない。もっとも、映画館にいる時間と酒場で飲んでいる時間が、自分の人生の時間の大方を占めていると(上記の著書に書いてあることと同趣旨のことを)語ったのは覚えている。
じぶんが観ている映画の数は、話にならないくらい少ない。だから映画の話はしなかったが、山形国際ドキュメンタリー映画祭に来てみてください、くらいの話はしたのだったかと思う。
大橋さんの文章は、自分と同じように旨く生きられない、あるいはぼろぼろになって若死にしていく酒場の仲間たちを、“慈愛ある”とまでは行かない、それでいて近しく看取るかのような絶妙な位置取りの視線から描いている。それは、たぶん、自分自身への視線でもあるのだろう。ただひとつ、奥さんや息子さんたちが彼をどう視ているかについての記述がないこと、つまりはそのレティサンスだけが、ひっかかる。
新世界では、映画の画看板を掲げた昔ながらの劇場の前を懐かしがって通り過ぎてきたのだったが、そんな映画館の暗がりのなかに、椅子に沈み込む、文字通り坊主頭の大橋さんの姿を想い浮かべつつ、「のぞみ」と「つばさ」の6時間を過ごしたのだった。 (了)
2011年05月25日
薄情者の大阪行(その1)
2011年5月21日(土)、東京駅から、東海道新幹線で大阪へと向かう。
安田有さんとセンナヨウコさんが発行していた寄稿誌『COTO』が終刊したので、大阪の寄稿者が発起人となって「COTOありがとうの会」が開催されることになり、その案内がじぶんにも送られてきた。
こんな機会でもなければ当分は大阪を訪ねることもないだろうし、この機会を逃せば安田有さんといつお会いできるかわからない。思い切ってぬけぬけと顔を出すことにしたのである。
21日の昼過ぎに新大阪駅に着くと、まず構内のJRの案内所で天王寺に向かう路線を尋ねた。
駅員のような男性職員は、地下鉄なら乗り換えなしで行けるが、JRだと大阪駅で乗換えが必要だと言う。そこで、「何線に乗ればいいのですか?」と尋ねると、「どれでもいいですよ」と言うのである。首をかしげながら大阪駅に向かうと、いくらなんでもどのホームの列車に乗ってもぜんぶが天王寺に行くとは思えない。(苦笑)
それで今度は改札口の男性駅員に訊くと、すぐさま「1番線です」とだけ言う。そこで「環状線」と書かれた1番線ホームから、そこに来た電車に乗り込む。
いくつか駅を経ていくが、どうも様子が変だ。「ユニバーサルシティ」とかいう駅を過ぎ、“終点”の「桜島」に着いてしまったのだ。(再苦笑)
じつは、このあと、御堂筋で淀屋橋近くのホテルに行こうとしてGoogleの地図のコピーを視ているときも、通りがかりのおばさんからヘンな教えられ方をした。こちらが道を尋ねたのではなく、向こうから親切に「どこに行かれます?」と声をかけてくれたので、大阪のおばちゃんはずいぶん親切だなぁと思って話を聞いていたが、どうも見当ハズレなことを自信ありげに言っている。さすがに3度目なので眉唾で聞き、結局は自分が持参した、あの見にくいGoogleの地図から場所を見つけ出した。
・・・大阪のひとは、やはりわれわれとはちょこっと違う・・・と思った次第。(笑)
天王寺で降り、通天閣を眺めながら、天王寺動物園と市立美術館の敷地に挟まれた通路を新世界へと向かう。両側が高いフェンスで囲まれていて、緑の空間なのに閉塞感がある。両施設の敷地とその間の通路を区画するためにフェンスが必要なのはわかるが、空間デザイン上、もう少し工夫があってもいいような気がする。
さて、新世界を訪れるのはこれが3度目。
1度目はたぶん1980年頃だった。いま、故郷の秋田県湯沢市で、末期がんと闘っている高校時代の友人Y氏を大阪に尋ね、彼の案内で新世界を訪れたのだった。Y氏は、東京での仕事に疲れ、帰郷の決意をしていたのだったと思うが、その前に東京で稼いで貯めた金で関西を見物して歩くと言って、大阪に部屋を借りていたのである。
確か、その足で彼と二人して山陰へ小さな旅に出た。ふたりともNHKのテレビドラマ「夢千代日記」のファンだったので、そのドラマに出てくる餘部の鉄橋を渡りに行ってみようと思い立って出かけたのだったと思う。城之崎温泉かどこかの安宿に泊まった記憶がある。
この頃の新世界は、まだ汚くてちょっと危ない雰囲気があったような記憶である。ジャンジャン横丁の串カツ屋で、初めて関西風の串カツやどて焼きを食った。いちど口を着けた串カツは、二度とソースの容器につけてはいけないというルールに緊張した。(笑)
2度目は、1990年代の前半だったと思う。女房と息子たちを連れて、親類のいる神戸に向かう途中、青春時代の想い出の場所である新世界を再訪したのだった。
1990年の「国際花と緑の博覧会」(通称「大阪花博」)を経て、新世界は小奇麗に整えられすでに「観光地」になっていたが、それでも周りには露天商が店を出していたり、ルンペンがいたりして、昔の面影がいくらか残っていた。
以前に訪れたときと同じ店で、息子たちにルールを言い含めながら串カツを食わせた。息子たちは、親父の嫌いなお好み焼きも食いたがったので、ジャンジャン横丁の出口近くのお好み焼き屋にも、しぶしぶ入った記憶がある。
3度目の今回も、やはりまたあの串カツ屋に入った。だが、若い女性やカップルが増え、店の客層は昔とすっかり変わっていた。店員が中国語を話しているのを聴いて、時代の移り変わりを感じた。生ビールのジョッキを1杯と、串カツを4本と、どて焼きを1本で、計1,100円。これだけでそそくさと店を後にした。
ほんとうは、大阪に来る暇があったら、Y氏の見舞いに湯沢へ帰省すべきなのだ。正月以降は、大震災後の仕事の忙しさにかまけて、安否を問う携帯メールさえ送っていない。・・・なんと薄情な<似非友人>ではないか。
・・・だが、しかし、彼になんて声をかければいいのか。
・・・“まだ生きているか”と、何よりそう問いかけなければならないのだが、では、じぶんはなんのためにそう訊くのか・・・ぬくぬくと生きているじぶんの後ろめたさを誤魔化すためではないのか・・・そんな想いがして、ひとりこんなところに足を向けているのだった。
(Y氏については、「山形詩人」69号に発表した「蒸気機関車がわれらを救いたまう日」という詩で触れている。)
以下、次回へ。