2011年05月26日

薄情者の大阪行(その2)




 初夏の日差しが降り注ぐ暑い一日だった。
 新世界から引き上げると、いったん淀屋橋の“超豪華”ホテル「ホテルユニゾ淀屋橋」(シングル6,900円)にチェックインして、シャワーを浴びる。
 このホテル、部屋は狭いがビジネスホテルとしては小奇麗だった。というか、そのエントランスやフロントなどのシャープ(?)な内装から受ける印象が、周りがオフィス街ということもあって、ホテルに泊まっているというよりオフィスビルに泊まっているという感じで、まぁ寛げない。
 部屋のキーはICカードだが、エレベータに乗るにもこのカードをセンサーに接触させないとエレベータが上昇しないようになっている。下りはカードを使用しなくてもフロントのある1階には降りられたが、1階以外には止まらない仕組みになっているのかもしれない。泊り客以外の侵入を防ぐ機能としては有効かもしれないが、どうも世知辛くて印象は悪い。それに、緊急避難時などに問題はないのだろうか・・・そんなことが気になった。


 夕方の5時過ぎ、部屋を出て御堂筋を北へ向かって歩き出す。
 土曜日のビジネス街は人通りも少なく、日陰には爽やかな風が吹いている。ジョギングしている人も見かける。
 「COTOありがとうの会」は、夕方の6時から、北新地のとある店で開かれることになっていた。
 案内状に書かれた会場の「際(きわ)」は、全日空ホテルの北側のビルにあるというので、その辺りを探して歩くが、なかなか見つからない。それもそのはず、その店は漢字の「際」という料理屋ではなくて、「BAR KIWA」という店だった。ビルの入り口に立ち入って郵便受けの上の看板を見ないと、この表記が見つけられなかった。

 その店のドアを開けて中に入ると、すぐに安田さんが声をかけてくれた。
 安田さんと二人で「COTO」を発行してきたセンナヨウコさんは欠席だったが、安田さんを含めて12人ほどの寄稿者が集まり、穏やかに会が始まった。じぶんは、安田さん以外は初対面だった。
 一番遠くからきた人は北海道、そして二番目に遠いのはじぶん、そして東京から来た人も2人いた。
 それぞれが自己紹介をして、安田さんとの関係について話した。大新聞の部長経験者、大出版社のOB、フリーライター、現役の大学教員など、いわゆるインテリ層の人から、銅版画家、お坊さん、福祉関係者、ホームレスなど最下層の人々と近しく交流している古本屋さんまで、多彩な顔ぶれだった。まさに安田さんの人柄がこうした多彩な人々を惹きつけているのだろう。

 安田さんはいわゆる団塊の世代で、出席者は同世代かそれより上の世代の人が殆どだったから、この12人のなかでじぶんはもっとも若い方だった。ある出席者には「高啓というのはどんな人かと思っていたら、青年が来た」などと冷やかされた。
 信用できるかは別として、「あなたの詩のファンです」などという人もいた。それに、安田さんをはじめ、何人かが高啓のブログを読んでいると言っていた。
 出席者は、それぞれが人生の厚みを感じさせる佇まいで、魅力的だった。なかにはこれから新たな詩誌を創めると言う人たちもいて、それぞれがまだまだ精力的に活動する気配である。ほんとうはそれぞれの実名を出して、その人がどんなことを語ったか、その人からどんな印象を受けたかなどを書き込みたいところだが、迷惑をかけるといけないのでそれはやめておく。


 と言いつつも、上に掲げた画像の書籍とその著者について一言触れておく。
 この本は、当日の出席者のひとり、著者の大橋信雅さんからいただいたものである。大橋さんは、和泉市の寺の住職を生業(シノギ)としているが、この著書のなかで、映画館で映画を観ていた時間が人生でもっとも長く、年に500〜600本の映画を観る生活を続けてきたという。
 その人生が、映画評のようにして描かれているのがこの『ホトケの映画行路』(れんが書房新社)という本である。

 この本を、帰りの新幹線で読んだ。
 出席者の誰かが、大橋さんの「COTO」への寄稿文について、「映画批評のなかで必ず自分の人生が語られる。“私小説的映画批評”だ」という趣旨のことを語っていたが、たしかにそのとおりだった。
 子どものころから映画好きだったこと。高校を卒業してから寺の住職である親の進めるまま京都の仏教系大学に進学し、それが嫌になって家から脱出するために早稲田大学に入り直したこと。「政治の季節」における酒場からデモに向かう東京生活、そして女との関係。・・・連合赤軍事件における友人のリンチ死。やがて、“なにもしないで生きていく”という決意と、暴飲と酒場での喧嘩にあけくれるアナーキーな生活。・・・好意を寄せる酒場の女にしつこく絡んだ男を刺したことによる逮捕。実家への帰郷。結婚と双子の息子の誕生。両親の影響が仄めかされる同居していた25歳の弟の自死。両親への呪詛。・・・そして、そこから始まる映画館と酒場への没入。
 映画作品の世界を語るうちに、著者自身の苦しみの記憶と情感とがせり上がってくる。・・・これは、不器用に、しかもなにか温かなものを痛切に求めて彷徨する自らの様を晒す、まさに“身を斬る”ような映画論なのである。


 じぶんは「BAR KIWA」で、大橋さんの隣に座っていたが、彼と交わした言葉はそんなに多くなかった。大橋さんは、自己紹介が終わると、ビールに続いてウイスキーのオンザロックのダブルを数杯飲んで、酔っていった。酔って饒舌になるということはなかったが、やや呂律が怪しくなり、しかもかなり早口の関西弁でしゃべられるので、じぶんにはうまく聴き取れない。もっとも、映画館にいる時間と酒場で飲んでいる時間が、自分の人生の時間の大方を占めていると(上記の著書に書いてあることと同趣旨のことを)語ったのは覚えている。
 じぶんが観ている映画の数は、話にならないくらい少ない。だから映画の話はしなかったが、山形国際ドキュメンタリー映画祭に来てみてください、くらいの話はしたのだったかと思う。

 大橋さんの文章は、自分と同じように旨く生きられない、あるいはぼろぼろになって若死にしていく酒場の仲間たちを、“慈愛ある”とまでは行かない、それでいて近しく看取るかのような絶妙な位置取りの視線から描いている。それは、たぶん、自分自身への視線でもあるのだろう。ただひとつ、奥さんや息子さんたちが彼をどう視ているかについての記述がないこと、つまりはそのレティサンスだけが、ひっかかる。
 新世界では、映画の画看板を掲げた昔ながらの劇場の前を懐かしがって通り過ぎてきたのだったが、そんな映画館の暗がりのなかに、椅子に沈み込む、文字通り坊主頭の大橋さんの姿を想い浮かべつつ、「のぞみ」と「つばさ」の6時間を過ごしたのだった。                                 (了)



  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 19:40Comments(1)歩く、歩く、歩く、

2011年05月25日

薄情者の大阪行(その1)



 2011年5月21日(土)、東京駅から、東海道新幹線で大阪へと向かう。

 安田有さんとセンナヨウコさんが発行していた寄稿誌『COTO』が終刊したので、大阪の寄稿者が発起人となって「COTOありがとうの会」が開催されることになり、その案内がじぶんにも送られてきた。
 こんな機会でもなければ当分は大阪を訪ねることもないだろうし、この機会を逃せば安田有さんといつお会いできるかわからない。思い切ってぬけぬけと顔を出すことにしたのである。
 

 21日の昼過ぎに新大阪駅に着くと、まず構内のJRの案内所で天王寺に向かう路線を尋ねた。
 駅員のような男性職員は、地下鉄なら乗り換えなしで行けるが、JRだと大阪駅で乗換えが必要だと言う。そこで、「何線に乗ればいいのですか?」と尋ねると、「どれでもいいですよ」と言うのである。首をかしげながら大阪駅に向かうと、いくらなんでもどのホームの列車に乗ってもぜんぶが天王寺に行くとは思えない。(苦笑)
 それで今度は改札口の男性駅員に訊くと、すぐさま「1番線です」とだけ言う。そこで「環状線」と書かれた1番線ホームから、そこに来た電車に乗り込む。
 いくつか駅を経ていくが、どうも様子が変だ。「ユニバーサルシティ」とかいう駅を過ぎ、“終点”の「桜島」に着いてしまったのだ。(再苦笑)
 じつは、このあと、御堂筋で淀屋橋近くのホテルに行こうとしてGoogleの地図のコピーを視ているときも、通りがかりのおばさんからヘンな教えられ方をした。こちらが道を尋ねたのではなく、向こうから親切に「どこに行かれます?」と声をかけてくれたので、大阪のおばちゃんはずいぶん親切だなぁと思って話を聞いていたが、どうも見当ハズレなことを自信ありげに言っている。さすがに3度目なので眉唾で聞き、結局は自分が持参した、あの見にくいGoogleの地図から場所を見つけ出した。
 ・・・大阪のひとは、やはりわれわれとはちょこっと違う・・・と思った次第。(笑)

 天王寺で降り、通天閣を眺めながら、天王寺動物園と市立美術館の敷地に挟まれた通路を新世界へと向かう。両側が高いフェンスで囲まれていて、緑の空間なのに閉塞感がある。両施設の敷地とその間の通路を区画するためにフェンスが必要なのはわかるが、空間デザイン上、もう少し工夫があってもいいような気がする。

 さて、新世界を訪れるのはこれが3度目。
 1度目はたぶん1980年頃だった。いま、故郷の秋田県湯沢市で、末期がんと闘っている高校時代の友人Y氏を大阪に尋ね、彼の案内で新世界を訪れたのだった。Y氏は、東京での仕事に疲れ、帰郷の決意をしていたのだったと思うが、その前に東京で稼いで貯めた金で関西を見物して歩くと言って、大阪に部屋を借りていたのである。
 確か、その足で彼と二人して山陰へ小さな旅に出た。ふたりともNHKのテレビドラマ「夢千代日記」のファンだったので、そのドラマに出てくる餘部の鉄橋を渡りに行ってみようと思い立って出かけたのだったと思う。城之崎温泉かどこかの安宿に泊まった記憶がある。
 この頃の新世界は、まだ汚くてちょっと危ない雰囲気があったような記憶である。ジャンジャン横丁の串カツ屋で、初めて関西風の串カツやどて焼きを食った。いちど口を着けた串カツは、二度とソースの容器につけてはいけないというルールに緊張した。(笑)
 2度目は、1990年代の前半だったと思う。女房と息子たちを連れて、親類のいる神戸に向かう途中、青春時代の想い出の場所である新世界を再訪したのだった。
 1990年の「国際花と緑の博覧会」(通称「大阪花博」)を経て、新世界は小奇麗に整えられすでに「観光地」になっていたが、それでも周りには露天商が店を出していたり、ルンペンがいたりして、昔の面影がいくらか残っていた。
 以前に訪れたときと同じ店で、息子たちにルールを言い含めながら串カツを食わせた。息子たちは、親父の嫌いなお好み焼きも食いたがったので、ジャンジャン横丁の出口近くのお好み焼き屋にも、しぶしぶ入った記憶がある。
 3度目の今回も、やはりまたあの串カツ屋に入った。だが、若い女性やカップルが増え、店の客層は昔とすっかり変わっていた。店員が中国語を話しているのを聴いて、時代の移り変わりを感じた。生ビールのジョッキを1杯と、串カツを4本と、どて焼きを1本で、計1,100円。これだけでそそくさと店を後にした。

 ほんとうは、大阪に来る暇があったら、Y氏の見舞いに湯沢へ帰省すべきなのだ。正月以降は、大震災後の仕事の忙しさにかまけて、安否を問う携帯メールさえ送っていない。・・・なんと薄情な<似非友人>ではないか。
 ・・・だが、しかし、彼になんて声をかければいいのか。
 ・・・“まだ生きているか”と、何よりそう問いかけなければならないのだが、では、じぶんはなんのためにそう訊くのか・・・ぬくぬくと生きているじぶんの後ろめたさを誤魔化すためではないのか・・・そんな想いがして、ひとりこんなところに足を向けているのだった。
 (Y氏については、「山形詩人」69号に発表した「蒸気機関車がわれらを救いたまう日」という詩で触れている。)

                                              以下、次回へ。




  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 02:24Comments(0)歩く、歩く、歩く、

2011年05月03日

原武史著『滝山コミューン一九七四』感想及び余談





 
 原武史著『滝山コミューン一九七四』(講談社、2007年)を読み、さまざまな想いが過ぎった。

 著者は1962年生まれ。慶応義塾の中学・高校を経て東大で日本政治思想史を専攻し、明治学院大学の教授を務めている。
 この作品は、学者としての著作というのではなく、東久留米市立第七小学校における中・高学年時代を振り返った、いわば自らの過去たる“歴史”の証言、そして自らの過去の対自化の記録である。

 西武新宿線の花小金井駅を最寄り駅とする東久留米市滝山地区。そこに1968年から70年にかけて建設された総戸数3,180戸の滝山団地で、著者は小学校1年から中学校1年までを過ごした。
 革新都政が支持を集め、総選挙では多摩地区で日本共産党の候補者がトップ当選し、国会で「保革伯仲」の状況が生まれた時代である。
 「私が小学校6年生になった1974年、七小を舞台に、全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、そして七小の改革に立ち上がったその母親たちをおもな主人公とする、一つの地域共同体が形成された。たしかにごく一時的な現象ではあったけれども、『政治の季節』は、舞台を都心や山荘から郊外の団地へと移しながら、72年以降もなお続いていたと見ることもできるのである。」

 著者は、「国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体」を、「いささかの思い入れ」を込めて『滝山コミューン』と呼び、そこで生きた自分の「暗く苦いものとして、にもかかわらず奇妙な懐かしさを伴わずにはいられないものとして、この三十年間、ずっと奥底に沈殿したままになっている」記憶をたどり、史料やインタビューを集めて、高度経済成長期のある時期の、東京郊外における、その“歴史”を記録しようとしている。

 じぶんの印象を初手から述べてしまえば、この著作を読んで、ここに「滝山コミューン」と呼ぶに値する何かが存在したと説得される内実は記述されていない。主に記述されているのは、日教組の全国生活指導研究協議会(全生研)の方針による学級づくり・学校づくりを目指す片山(仮名)という教師に主導された児童たちの学校行事をめぐる集団主義的な運動、それもこの学校において著者の属した学年で一時的に生成したところの「歴史」である。(初めにPTAの話がでてくるが、そのPTAの実態は殊更「集団主義的」などと言上げするほどのものではない。)
 ただし、勉学に秀で、早熟で自我に目覚めつつあったこの著者にとっては、そこで与えられた「トラウマ」の重さと「奇妙な懐かしさ」は、その記憶の対象物をして「滝山コミューン」と名づけさせるのに十分であり、その想いは、ほんの少しだけ似た経験をしているじぶんには、なぜかとてもよくわかるような気がする。

 彼は、小学校では集団主義に反発し、休日には一流大学への進学のために有名進学塾に通って中学受験を目指す。彼にとって受験勉強のために通う塾は息抜きの場であり、塾に通うために乗る電車たちは限りない興味の対象である。
そして、彼はまた、すでに「なぜ自分は存在するのか」という自我意識に苛まれる思春期を生きはじめてもいた。その多感な思春期の想いがよく伝わってくる。
 一方で、「奇妙な懐かしさ」は、自分の学年が卒業すると、その「コミューン」があっという間に崩壊したこと、さらには、当時進んで「民主集中制」的な児童会活動を担っていたはずの同級生たちが、11年後の同窓会で再会してみると、その活動の記憶をほとんど喪失していることにも起因している。
 こうして不惑の歳を越えた著者は、今のうちに「歴史」の証言をまとめておかなければと衝迫され、この著作を記した。・・・事情はこういうことである。

 この著作でもっとも印象的なのは、著述時に40代の半ばで大学教授となっている著者と、この物語に登場する小学時代の著者の精神的な在り様がほぼ同置されていることである。言い換えると、ここに登場する子どもたちはぜんぜん子どもらしくない。
このことを逆に言えば、著者にとっては、あのときの小学生たちは、精神的な位相としては、いま(=著作時)の自分と同じ位相に存在しているのだ。
 さらに別の言い方をすれば、この人はかつての小学生だった自分やその自分が見ていた同級生たちとの距離が取れていない・・・そういう印象がやってくる。だが、そういう印象が、通常とは逆に、不思議にもこの著作に陰影と奥行きとを与えている。

 著者は、このなかで、遠山啓の「水道方式」の教条化に象徴される「平等」主義的学校教育及び「班」の運営とその競争主義を基本とした学級運営、そしてその班活動を統率する民主集中制的な児童会活動を中心とした集団主義を言上げしつつ、これを嫌悪し拒否してきた自分のアイデンティティを表白している。
 しかし、その一方で、この嫌悪すべき「コミューン」を、慶応義塾という名門私立中学に合格することによって脱出し、同時に「西武新宿線」沿線から「東急東横線」沿線に引越し、ようするに“慶応的なるもの”に身を任せてきた中学・高校時代について、次のようにも述べている。
  「75年3月まであれほど鮮明だった私の記憶は、慶応に入学するととともにしだいに曖昧になり、いまでは自分が慶応に通っていた過去をもっていること自体が信じられなくなっている。」

 1990年代まで、「日の丸」「君が代」の強制に対する拒否という形で、かろうじて教育現場に残存してきた70年代の精神遺産は、石原都政による「日の丸」「君が代」の強制で一掃された。
 著者は、70年代の「民主集中制」的な学級運営と学校経営の運動が、戦前の国歌総動員体制における運動と相似形であることを指摘しつつ、教育政策の保守化後の状況を受けて、あえて次のように問う。
 「2006年12月に教育基本法か改正される根拠となったのは、GHQの干渉を受けて制定されたために『個人の尊厳』を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観であった。だが、果たして、旧教育基本法のもとで『個人の尊厳』は強調されてきたのか。問い直されるべきなのは、教育基本法の中身よりも、むしろこのような歴史観そのものではなかったか。」

 さて、ここからは、じぶんの体験を記しておきたい。
 じぶんは、原武史や小熊英二などより5歳ほど年上で、1957年生まれである。ちょうど東京オリンピックの年に小学校に入学した。じぶんの家では、オリンピックを観るために、この年にテレビを購入した。この頃の記憶はとても鮮明である。
 生まれ育ったのは東北の農村部の小さな城下町の商店街で、団地など存在しない地域だった。東北はまだ首都圏への出稼ぎで暮らしをたて、集団就職が行われていた時代である。ちなみに、じぶんの中学3年時のクラスの記録を見ると、卒業時に同級生の約15%が中卒で就職していた。東北という当時の後進地であることや、旧い城下町であったことから、地域には旧い社会秩序が残存し、社会階級による貧富や身分の格差が、まだ小さくなかった。教師たちには、当然ながら「全共闘世代」はまだ存在しておらず、「60年安保世代」もいなかったように思う。
  しかし、この小学校高学年時代に、じぶんも担任の教師によってトラウマとなる強烈な「戦後教育」の経験をもった。

 担任の教師は50代の独身女性だった。じぶんたちはその先生を、畏敬と卑下と愛着の入り混じった想いで、陰で「カツコばんば」(かつこババァ)と呼んでいた。
 彼女は、まさに「班活動」を中心とした学級運営と「連帯責任」を強調した教育を強烈に実践していた。教育態度は厳しく、自分と生徒たちの、課題の実行に対する妥協を許さなかった。
 当時、彼女が、生徒であるじぶんたちに、ことあるごとに語ったのは次のようなことだった。

 ? 自分は、戦前の教員生活で、国家主義の教育をして、子どもたちを戦場に送ってきた。戦争は二度と起こしてはならない。 自分の過ちを繰り返さないと誓って戦後の教育現場に立っている。
 ? 日本は、戦争でアジアの人々に酷い仕打ちをした。国民も大変な苦難を経験した。日本はこの反省にたって、二度と戦争をしないということを誓い、日本国憲法を掲げて戦後を歩みだした。
 ? しかし、自民党は戦前の国家主義的な体制に戻すことを画策しており、いま、日本はアメリカの支配のもとで、再び戦争に駆り出されようとしている。
 ? 歴史を振り返ると、王制によって民衆は弾圧され支配されてきたが、日本の王制つまり天皇制は世界の王制とはまったく異なり、強権的な支配を行ってこなかった。天皇に戦争責任はない。悪いのは東条英機ら軍部だった。
 ? アメリカは民衆を搾取する資本家階級による世界支配をもくろむ勢力であり、ソ連などの「社会主義」国は民衆の平等と民主主義を広めようとする勢力である。

 じぶんは自分の家族から、彼女が日本共産党の党員だと聞いていた。たぶん日教組の組合員でもあっただろうが、彼女の思想は、いわゆる「反米愛国」、ソ連型社会主義の理想化、そして天皇への敬愛というような要素で構成されていた。そして、全体としてみればその心性は、じつは彼女が猛省したと語っていた戦前の国家社会主義的なイデオロギーと大して変わらないものだったように思われる。
 じぶんの経験に照らせば、保守派が批判する「戦後民主主義教育」の実態は、その基底部分で戦前・戦中的なものと通底する集団主義的な心性に支えられたものだった。原の言うように、「戦後民主主義教育」が「『個人の尊厳』を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観」は多分に疑わしい。


 さて、では、じぶんはなぜ「カツコばんば」に“トラウマ”を植えつけられたように思うのか。
 それは、まさに彼女の展開する「班活動」の先にある、ある特殊な事情によっていた。
 カツコばんばは、まずクラスを5人ないし6人ごとの班に編成した。班長は、最初は先生が指名したが、次からはクラスの生徒が自ら選出する方式とされた。立候補(立候補者が足りなければ他薦)とクラスの全員による承認という手続きを経て班長が決まると、班長が集まって各班の班員を決める。クラスメイトの一人ひとりについて、学業成績や運動能力、そして生活態度、性格などを評価し、その組合せを考えて各班の運営がうまくいくように割り振るのである。
 問題児をどの班長が引き受けるか、そして問題児を引き受ける見返りにどの程度優秀な班員を配属するかなど、すべてを班長たちが協議して決めた。特長的だったのは、このとき問題児と看做されていた者や学業成績が下位の者も班長になる場合があったことだ。
 
みんなが平等に班長という大役を担う点は進歩的に見えるし、なによりしばしば学級委員(いわゆる級長)をやらされていたじぶんにとっては楽だったのだが、一方でじぶんはこの班制度に異和を感じるようになっていった。
 班員を振り分ける過程で、班長たちがクラスメイト一人ひとりに評価付けをしていく。しかも、この子は性格的に弱いし学力もないから、こちらの子をサポート役につけて。こいつはいじめっ子だから、いじめられっ子のこの子とは離して。・・・などと、気がつけば管理者あるいは経営者の立場で級友を見るようになっていることに生理的な嫌悪感を抱くようになったのだ。

 班員は、すべての活動において連帯責任を負わされた。机はいつも班ごとに班員が向き合う形で並べられていた。班員に勉強についていけない者がいれば、べつの班員が教えた。
 また、このような集団主義と平等主義は、学級レベルでも徹底されていた。
たとえば、リコーダーである曲の演奏をマスターする課題が与えられたとする。一人ずつカツコばんばの前に行って演奏し「合格」の認証をもらわなければならないのだが、どうしても途中でピーと穴をうまく塞げない音を出したり、暗譜ができずに引っかかる者がいる。
 最後の一人が試験をパスするまで、クラスの全員が教室に残らねばならなかった。そもそもカツコばんばの授業では、あらかじめ決められていた時間割などにはほとんど頓着せず、とにかく彼女が納得するまでその科目の授業が続けられた。社会科の授業が3時間も休み時間なしで続くこともあったし、リコーダーのときは夜の7時か8時まで全員が教室に残され、親が迎えに来たものだった。(付言しておくと、この「平等」主義は、バカな保守派が「民主教育」を非難するときに決まって例示する「運動会の競走で順位付けを避ける」などいう「平等」主義とはまったく異なるものだった。一定水準以上の結果に到達するまで、すべての個人が相応の努力を厳しく迫られ、すべての構成員がその経過に付き合わされるという「平等」主義であった。)

児童会が関わる行事を重視するという点は、原の学校と同じだった。しかし、じぶんのトラウマは、児童が自ら積極的に行う集団主義的な行動や民主集中制的な組織運営、あるいは原の著書に出てくる「追求」によるものとは違っていた。
 それは、一にかかって、カツコばんばによる私個人への責任の賦課とその厳しさによるものだった。
 カツコばんばは、学級の誰かが失敗したり先生の指示に従わなかったりしたことについて、ほとんどつねに学級委員である私の責任を追及してきた。たとえば、学校行事でスキー場にスキー教室に行くとする。学校から片道3〜4キロほどの雪道を、一列になってスキーを担いで歩いて往復するのだったが、その行動でクラスの誰かが先生の指示に従わないで道路をスキーで滑って帰ったとか、全員に解散が宣言される前にある班が勘違いして帰宅してしまったとか、私が関与していない(あるいは関知するにはずいぶん離れたところで引き起こされた)失敗やルール違反についても、悉く私の責任が問われた。つまり「啓くん、あなたが気をつけていれば、こういう事態は防げたのではないですか?」「自分の知らないところで起こったことだとしても、少なくても常日頃の行動のなかで、あなたにそれを防ぐためにすべきことはあったでしょう。あなたはそれをしていましたか?」と、こういう具合にである。

 これは、集団主義とか連帯責任とかいうのとは異なる。集団のあらゆる問題を、特定の個人の責任として引き受けるよう迫る教育だ。学級委員を代わってからも、じぶんは同じように個人として集団に対する責任を追及された。毎日、その日の行いに関する総括をノートを書き、それを先生に提出し、“自己変革”していかなければならなかった。
 なぜ私だけが(ほんとうは私だけではなかったのもしれないが)いつも責任を追及されたのかはよくわからない。学級委員を何度も務め、クラスでは比較的学業成績が良く、授業(とりわけ観客のいる「研究授業」)で教師の期待に応えるような発言をよくする子どもではあった。そして比較的従順で、責任感も強かったからなのかと思うほかない。

 カツコばんばから受けた影響は、その後永く自分を拘束した。
 日本は自民党や右翼勢力によって支配され、民衆の自由が奪われ、再び戦争へと向かっている。それに対して自由と民主主義を守るため、自分は何かをしなければならない・・・。たとえば、自分の住む街がファシストのような連中に占領され、じぶんが少年レジスタンスのように地下に潜行して抵抗を組織する・・・小学5・6年生のとき、ひどい息苦しさや圧迫感を感じながらそんな夢を何度もみた。
 政治的あるいは思想的な責務だけではない。どんな事柄であれ、社会的な問題でそこに人々のためにしなければならない課題があるとしたら、自分はそれに誠意をもって関与しなければならない。事象の行き先を読み、それに対して注意を怠らず、しかも個別的に人を助けるというよりも、先導的な視点から、事象があるべき方向に進むように影響力を行使できるよう努めなければならない・・・。こういう使命感(というよりも強迫観念)に無意識のうちに拘束されている自分を振り払うことができたのは、望まない大学に入って挫折を経験し、学生演劇に関わってアンダーグラウンド演劇の思想や方法論に触れてからだった。
 演劇や文学に触れたことで、じぶんはいったんは“カツコばんばの呪い”を振り払うことができた。“当為”の重荷から解かれたじぶんは、倫理主義的に硬化していた当時(1970年代後半)の学生運動には関わらずに済んだ。
 しかし、やがて20代の終わりから30代の半ばまで労働組合活動(対自的にはそれは組合運動でも労働運動でも政治運動でもなかった)にのめり込むことになり、その後は組合活動からも離れたが、今度は自らの仕事に対する入れ込みにおいて、当為の世界(それはあくまで対自的なものだが)を生きてきてしまったという想いがしている。
 
  だから(というのも不条理な話だが)、じぶんは、原武史がこの著作で見せた複雑な想いに魅かれつつ、ある部分では“いい気なものだな”と辟易している。
 原は、戦後史のある現実の中を生かされ、その体験から「トラウマ」を負う。だが、その忌避すべき現実からエリート予備軍の世界に脱出し、さらにはそのセレブぶった“慶応的なるもの”からも離脱して、東大を卒業し大学教授になっている。
 彼は、自分にトラウマを与えた歴史的事実を記録するために、かつてのクラスメイトや教師を訪ね、話を聴いて歩く。しかし、そこには、「滝山コミューン」以後、人々の歩いてきた道はまったく描かれない。プライバシーに配慮したといえば聞こえはいいが、少なくてもこの著作には、同じ環境を生かされ、自分がそこを脱出した後もその世界(滝山団地)に残った人々の姿に対する視線が存在していない。


 最後に蛇足。
 40代に差し掛かった頃、そのクラスの同級会が開かれた。呼びかけ人の中心人物は、いちばんの悪ガキの劣等生で、いつも先生に叱咤されていた男だった。驚いたことに、関東でタクシー運転手をしている彼は、カツコばんばを母親のように慕い続けていたのだった。
 しかし、80歳を過ぎ認知症の初期症状が出始めていたカツコばんばは、同級会の当日、会場に現れなかった。幹事が迎えに行っても、「あなたたちにひどい教育をした。私には同級会であなたたちに囲まれる資格がない。」と言って、頑なに家を出ようとしなかったのだ。じぶんは、彼女があの学校での日々をじぶんと同じように今も重く抱えているのだと、このとき初めて知った。そして、その瞬間、少しだけ何かが晴れるような想いがした。
 そこで、今度はじぶんが迎えに行った。単身で暮らす彼女の締め切った家には、心を病む者の家に特有のあの匂いがしていた。じぶんは、すでにあのカツコばんばと向き合っているのではなかった。かつて福祉6法のケースワーカーをしていたときの心持ちに回帰し、衰え自信をなくしているひとりの老婆と向き合い、彼女を慰撫しあれこれの話術で元気付けていたのだ。(カツコ先生、おれはもうあなたを赦している・・・心中で自分にいい聞かせるように語り掛けつつ。)
 玄関先で1時間あまり話し込み、やっとカツコばんばを同窓会に連れ出した。宴会場に現れた彼女は、かつての威厳を失って弱々しく見えはしたが、多くのクラスメイトについて、彼らをめぐる出来事や家族関係などの背景も含めて、驚くほど鮮明で確かな記憶をもっていた。会はとてもなごやかに進み、参集者たちはカツコばんばを見送ると、一様になにか大きな宿題を仕終えたとでもいう表情を見せていた。


 
 「戦後民主主義教育」が、じつはむしろ戦前的な精神のバックボーンに規定され、自由主義的な「個人の尊厳」や「自由な意思」を重視するようなものではなかったこと。そして、保守派の多くが未だにバカの一つ憶えのように批判し続けているかつての「日教組」の教育が、じつは戦前・戦中的な精神性と連続した土壌のうえに存在したことに、われわれはもう少し考慮を払ってもいいだろう。                     (了)

  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:21Comments(0)作品評