2025年02月28日

山形市民会館設計案への異和(その1)





 2025年2月26日、山形市役所で開催された「新市民会館整備に係る意見要望等への対応検討状況の説明会」に出席した。これは24年10月22日に開催された「山形市民会館整備事業に係る民間事業者の提案に対する意見聴取会」で出された出席者からの意見や要望について市側が検討結果を示す会だった。
 これらは、山形市民会館整備事業を担当する山形市文化スポーツ部文化スポーツ施設整備室が開催したもの。市内の文化関係団体に参加を呼び掛けて、文化活動の分野ごとに開催したという。筆者は山形市芸術文化協会の理事(文学の詩部門)ということでお声がけいただいた。なお、上記10月の意見聴取会も今回の説明会も参加者には舞台芸術や音楽の部門の方はいなかった。これらの部門に対しては同じ会が別途開催されているとのことだった。
 上記説明会では設計図面が「プロポーザル」案として示され、参加者にはそのデザイン内容を口外しないようにとの誓約書の提出が求められた。筆者は誓約書を提出していないが、これまで口外しないできた。しかし、その後、整備内容を説明する動画が市のHPで公表され、1月13日にシンポジウム、2月8日にワークショップが開催されたということから、もう設計内容に関することを口外してもいいと考え、この書き込みをすることにした。
 上記の意見聴取会でも説明会でも、図面は会場のスクリーンに投影され説明されたのだが、こちらが再表示を求めない限り、一瞬さっと見せるだけで配布は一切されていない。もう設計業者も施工業者も決定しているのだから、図面を公表して広く意見を求めてほしいものだが、事務局も設計施工業者(DBO方式によるSPC)も、こちらに「意見を求めます」と言いながら設計に変更を要するような具体的な意見を出してほしくないのが本音だと受け取らざるをえない。

(注)「DBO (Design Build Operate) 方式」とは、公共の資金で設計、建設、完成後の施設維持管理、事業運営などを一括で発注する方法。安く建設できる一方、管理・運営が長期にわたって同企業に委託されるので運営の硬直化(場合によっては維持費用の掛かり増し)のデメリットがある。「SPC」(Special Purpose Company = 特別目的会社)とは文字どおり特別の目的(この場合は山形市民会館のDBOのため)に設立された会社のこと。なお、筆者はDBOには「建設業界の現実として」もっと重大な問題があると考えている。

 設計者は自分のデザインに自信をもっていて外部から(たとえ施主からでさえ)どうこう言われたくない気持ちなのは理解できる。これは施主=山形県の担当者として設計者と付き合った経験から。(もう20数年も前だが、筆者は山形県文化振興課の文化施設整備担当者として現在「伝国の杜」と呼ばれている米沢市にある施設の整備プロジェクトを担当した。)
 加えて世間知からの一般論として言えば、偉い設計者ほど他者の意見、とりわけ「市民」などというド素人の意見を嫌がる。
 この設計案を中心的に作成したのは東京の平田晃久設計事務所で、担当者はHao Takahashi氏(Zoom上の表記。この方は説明会では顔を見せてくれなかった)。平田晃久氏は京都大学教授というお偉い方だが、果たして素人の意見に耳を貸す度量をもった人物だろうか。
 ところで、しかし、見せられた設計案はあくまで「プロポーザル」の案なのである。高啓は「これが基本設計だとしたらもう何をか言わんやだが、プロポーザル案ということでいいですよね?」と事務局に念を押してから意見を述べた。
 以下、少し長くなるが、まず市民会館の核心施設となるべき「大ホール」(約1,200席)の設計案に対する疑問(というよりもぜひ修正してほしい点)を提起し、その後で施設全体のデザインへの異和について述べてみたい。




1 いびつな大ホール

 粗雑なメモで申し訳ないが、図面が公表されていないので我慢してほしい。
 このメモで伝えたいのは、大ホールの客席がステージの中心線から左右非対称形になっていること。そして、客席後方のステージに向かって左側に、調光室、音響調整室、投影室の3室が張り出した形で配置されていることである。
 客室が左右非対称になっている理由を尋ねたところ、施設全体の敷地面積が小さいからだという。(新市民会館の敷地は旧県民会館跡地であり、たしかに狭く設計が難しいのは事実。だが、一方で、設計者は何度も「現在の市民会館の3分の1の敷地に建てるので面積の取り合いが難しい」という趣旨の話をするが、これはちょっと筋が違う。「現在の市民会館の敷地」はホールの東側と北側の公園を含んでいるから。それに、狭いから核心施設の大ホールの形状が歪むというのでは、設計者の腕を疑う。客席も舞台も狭いとはいえ、ここには1500席の県民会館が建っていたのである。)

 また、張り出していることに対しては、この階のホワイエに面積をとるために3室分が客席に張り出したというのである。(つまりホワイエとホールの面積の取り合いでホワイエを優先したということ)
 この回答には驚愕した。(会ではそのようには発言しなかったが)率直に言ってあり得ない。筆者が施主または審査員なら、この図面を見せられた瞬間、これだけで「この事業者は没!」と判定するだろう。
「設計者チームにホール設計の専門家はいるんですか?」(いるに決まっているが…)と言いたくなった。また、「事業者(SPC)の構成者のなかにこの構造に異議を唱える人はいないのですか?」とも訊きたかった。(大人の事情で、思ったとしても申し出る人などいないだろうが…)
 意見聴取会で「こういういびつなホールはどこかにあるんですか?」と発言したことを受けて、説明会では2か所ほど事例を投影されたが、写真かパースか見分けがつかなかったし、一見した限り、それらは本案のようにあからさまに調整室等が飛び出た設計の事例には見えなかった。いずれにしろそれらは評価できない事例である。まぁ、こういうのは設計者がうるさ型の素人(施主を含む)を黙らせるためによくやる手法である。

 このような調整室等が張り出していることがなぜ不適切と考えるか。
 ①この凹んだ後方の区画の客席に座る場合、観客の視界に調整室等の壁面が入る。ここに席を割り当てられたら少なくとも自分たちは部分的に凹んだ区画(良くない席)に座らされたと思う。これはストレスになるだろう。
 ②この区画の客からはステージに向かって左側の後方座席が視野に入らない。これはホールの客の一体感を阻害する。
 ③ステージから客席を観た場合も、出っ張り構造がストレスになる。下記に市HP掲載の動画の切り抜き画像(パース)を上げておく。白く囲ったところが引っ込んでいる部分。このパースでは意図的に目立たないように描かれているが、実際にはもっと違和感がでるように思われる。(ちなみにこのパースでは、客席1階をこのような構造にしたために、客席2階もステージに向かって右側の座席が左側に比べて凹んでいる。これも不適切。)
 ④音響設計上どうなんですか?と尋ねたら、説明会にSPCの一員として出席していた地元山形の平吹設計事務所の方(だと思う)が「問題ありません」と即座に応えていたが、問題ないわけないでしょう。音響設計を考えたら、だれもこんな構造に好んでする人はいないのでは?



 さて、山形市は少子高齢化と(仙台市の)衛星都市化に瀕している。今の市民会館は50年前に建てられたそうだが、次回の建て替えはいつになるだろうか。これから建て替える市民会館は50年以上使われることになるのではないだろうか。子や孫どころではないひ孫の世代まで引き継ぐ施設である。
 筆者が言っているのは、「ホールを左右対称の構造にしてください」「調整室等を観客席に飛び出させないでください」という極めて常識的なことである。
 もしこれを頑固に拒否するとしたら、設計者には強いこだわりがあるのだろう。
 もし設計者がこだわるとしたら、それはこの建物全体のデザインやコンセプトを何よりも優先するところから来るのだろうと思う。それは設計者の自己主張である。
 建築は建築家の作品である。だが、公共建築はその使用者(さまざまな意見をもつ)の納得のいくものにしなくてはならない。だから施主=自治体の担当者の見識と矜持、そして調整力が重要なのである。このことを筆者はかつて身をもって学んだ。(高啓『非出世系県庁マンのブルース』所収の「米沢の能舞台はなぜ空気浮上するのか」参照)

 次回は「ホールを左右対称の構造にしてください」「調整室等を観客席に飛び出させないでください」という極めて常識的な要望が受け入れられなかった場合を想定して、それがどこからくるか、そしてその発想(設計者のアイデア)のどこが問題なのかを書くことになると思う。
 また、必然的にその問題を招来した山形市の事業者選定方法についても疑問を指摘することになるだろう。この辺は、これから文化施設を計画している自治体の方々にも「他山の石」として参考になるかもしれない。
 なお、最後に、山形市の舞台芸術や音楽関係の分野の方々は、設計案の平面図を見ているだろうか。もし見ていて、これに修正を求めないのであれば、それこそこれらの人々のレベル(芸術文化への情熱の)を疑う。設計、建築関係者についても同様である。
 とくにSPCの代表企業である市村工務店(山形市)には、よくよく考えていただきたい。これまで住宅、学校、企業社屋などを主に手掛けてきた同社にとっては、この文化施設がこれまでで最大の成果品であり業績になるだろう。「あれは市村の仕事だ」と50年以上語り継がれるのである。
                                                                                                 

Posted by 高 啓(こうひらく) at 11:40Comments(0)作品評批評・評論

2025年02月01日

映画「どうすればよかったか?」感想+α




 フォーラム山形で映画「どうすればよかったか?」(藤野知明監督)を観た。
 その感想を書きたい。いわゆるネタバレを含むのでご注意を。

 まず、映画の紹介文をこの映画の公式HP (https://dosureba.com/)から引用する。

 「家族という他者との20年にわたる対話の記録」
 面倒見がよく、絵がうまくて優秀な8歳ちがいの姉。両親の影響から医師を志し、医学部に進学した彼女がある日突然、事実とは思えないことを叫び出した。統合失調症が疑われたが、医師で研究者でもある父と母はそれを認めず、精神科の受診から姉を遠ざけた。その判断に疑問を感じた弟の藤野知明(監督)は、両親に説得を試みるも解決には至らず、わだかまりを抱えながら実家を離れた。
 このままでは何も残らない——姉が発症したと思われる日から18年後、映像制作を学んだ藤野は帰省ごとに家族の姿を記録しはじめる。一家そろっての外出や食卓の風景にカメラを向けながら両親の話に耳を傾け、姉に声をかけつづけるが、状況はますます悪化。両親は玄関に鎖と南京錠をかけて姉を閉じ込めるようになり……。
 20年にわたってカメラを通して家族との対話を重ね、社会から隔たれた家の中と姉の姿を記録した本作。“どうすればよかったか?” 正解のない問いはスクリーンを越え、私たちの奥底に容赦なく響きつづける。(引用終わり)

 次にこの作品の配給会社「東風」のポッドキャストの藤野監督と浅野由美子プロデューサーへのインタビューから聞き取った内容を含めて時系列を記しておく。
 1966年 藤野知明監督、札幌で出生。
 1983年 監督が高校2年生のとき、8歳年上の姉が統合失調症の顕著な陽性症状(夜、自室で突然叫び始める)を発症。姉は、医師免許を持ち医学関係の研究職だった両親の影響で医学部を目指し、4浪後に医学部に入学。陽性症状の発現は、教養部を終えて専門課程に進み、ちょうど解剖実習が始まったころだった。この時、父は出張で留守だった。発作が激しかったため、救急車を呼んだ。母と監督が相談し、精神科病院に搬送してもらった。しかし、出張から急遽戻り、病院に駆け付けた父がすぐ姉を連れて帰宅。父は、医師は「まったく異常はないと言った」といい、以後、両親は精神科を受診させないまま自宅監護を25年間続けた。(とういうことは、姉は25歳前後で発作を起こし、50歳までまったく治療を受けなかったということになる。)
 監督自身は、北海道大学農学部に7年在籍し、卒業後、関東の企業に就職。姉への対応をめぐって両親と対立し、いたたまれなくなって実家を出たという。なお、監督自身も北大在学中にメンタルの不調に見舞われ、大学の保健センターのカウンセラーと面談した。その際、姉について話すと、当該カウンセラーが姉の面談もしようと言ってくれ、監督は姉を面談に連れていくよう父に働きかけたが、父はそのカウンセラーの論文を読んで納得できる出来ではなかったという理由で面談を拒んだ。
姉の記録を始めたのは1992年。ウォークマンで姉の妄想・幻覚による発語(叫び声)を録音した。最初は精神科医に姉の症状を説明するためだった。
 その後、日本映画学校で学び、2001年から帰省のたびに姉と家族の暮らしを記録。2012年、家族介護のために札幌に帰郷。2020年以降(映画で表示された具体的な年を失念)まで、つまり姉が癌で亡くなるまで映像記録を続けた。
 両親は、医療機関を受診すると興奮したり妄想・独語がでたりすることを恐れてか、精神科以外の診療科についてもあまり受診させなかったため、身体の不調(内臓疾患等)が見過ごされたようである。また、姉が外出しないように玄関のドアの内側にも施錠していた。ついでに記すと、姉が半年以上も家から出ていないという会話のシーンもみられる。両親は姉が外出して警察に保護されることを忌み嫌っていた。姉は自分の保険を解約してその金でニューヨークに行き、そこで保護されたこともあった。
ところが、この後、劇的な展開がやってくる。
 2000年代後半になると80歳を超えた母が認知症の症状を示し始める。母は2階の窓から何者かが侵入し、自分の大切なものを盗むと言い張り、毎晩深夜に侵入するその現場を押さえようと身構えるようになり、またその言動で姉を刺激する。姉が興奮したときは砂糖水を飲ませると落ち着くなどと言って、深夜に姉の部屋に入り、さらに姉を興奮させる。(これらはアルツハイマー型認知症の症状のようにみえる。)
たまらず母を受診させた父は、医師から姉を入院させて父が母の介護をしてはどうかと提案され、それに従うことになる。
 姉は精神科病院に入院し、そこで向精神薬が奏効して1か月ほどでみるみる状態が改善する。3か月の入院生活を終えて自宅に帰った姉は、見違えるほど正気を取り戻し、外出して楽しい時間を過ごせるまでに回復する。だがそのとき、母は亡くなり、姉の体は進行癌に侵されていた・・・。

 さて、ここからはこの映画の作品名である「どうすればよかったか?」に関して少し考えてみたい。
 上記のインタビューで「どうして監督が無理にでも姉を病院に連れていくことができなかったのか?」という質問に、藤野監督は次のように答えている。
 ① もし自分が入院させても父母がすぐに退院させることが目に見えていた。
 ② 両親を監禁罪とか保護責任者遺棄罪などで告発してでも入院させるという方法もあったかもしれないが、それをやると家族関係が壊れる。姉が退院した際に家族がバラバラでは受け入れられないと思った。
 ③ 自分が一人で姉を連れていくには、車を運転している間に逃げ出さないように姉を拘束しなければならない。拘束することに抵抗があった。
 ④ 保険証を父母が管理している。
 ⑤ ソーシャルワーカーに相談したが、「両親を説得して」と言われた(だけだった)。

 このことを考える場合、現在とやや事情が異なる点に留意する必要がある。
 まず、姉を医療機関につなぐことに頑強に反対したのが医師免許をもった父であった点である。しかもこの父は大正生まれだったと思う。(父は大正生まれで母は昭和初期の生まれと、映画のナレーションにあったような気がする。)
 このことと関連して、姉が陽性症状を発症した時期(1980年代前半)の精神疾患をめぐる社会的事情を踏まえる必要がある。このころは統合失調症を「精神分裂病」と呼び、現行の精神障害者保健福祉法の前身である「精神衛生法」が施行されていた。1980年「大和川病院事件」、1984年「宇都宮病院事件」など重大事件が次々と露見し、日本の精神医療の遅れや暗黒面が大きく報道されていた。「精神病院」の実態を知る者ほど、入院させたくないという気持ちをもったであろうことはよく理解できる。
 しかも、精神衛生法の施行時は、まだまだ精神分裂病=入院という短絡的な考え方が支配的だった。つまり、精神病者を社会的に隔離するという思想が払拭されていなかった。医療機関を受診することで娘がひどい環境の「精神病院」に入れられるのではないかという危惧があったことも想像に難くない。加えて、当時はまだ向精神病薬の「第一世代」の時代であり、一般には服薬の効果への信頼性も低かった。

 また、両親の世代とその職業や社会的地位も影響したと思われる。両親は、精神障がい者や知的障がい者が家族にいることを否定的に考え、対外的に隠そう(社会からの隔離)とする意識が残っている世代に属している。これに両親とも医学研究者(父は戦後まもなくドイツの大学に派遣された経歴をもつ)という社会的地位(を保ちたいという意識及び無意識)が災いしたことも窺われる。(この辺りは吉行淳之介の小説「暗室」1969年が参考になると思う。)
 映画のなかに、(母による話だったと思うが)姉の発病後も数年間、父が姉に医師の国家試験問題集か何かを買ってきて、受験指導しようとしていたというふうなことが語られるシーンが出てくる。父は、姉の統合失調症発症を認めないだけでなく、自宅における対応や指導で姉を大学に復帰させること、そして国家試験を受けさせることに固執していたようにもみえる。
 さらに私見を述べると、この家族の在り方も(家族の在り方こそが)大きな影響を与えているように思われる。乱暴な言い方になるが、この家族には家父長的家族の名残りを感じる。監督が母に姉を受診させるよう説得する場面で、母は「だってお父さんが(精神科の医師から)異常ないって聞いてきたんだよ」ということを盾に受診を拒否する。この母は自らも医学者でありながら、自分自身で娘の病状について医師に相談しようとは思わない。むしろそれを避けている。ここに悪しき「夫唱婦随」を視ないわけにはいかない。
 映画の終わり近くでは、監督が車いす姿の老父にこれまで撮影してきたフィルムを第三者向けに公表してもいいかと了承を求めるシーンがある。ここで父は、これまで受診させてこなかった理由を訊く監督に「お母さんが望まなかったからだ」という趣旨の話をする。これを形式的にみれば、父と母は受診させなかったのは相手で、自分はそれを尊重したのだと言っていることになる。
 しばしば意思疎通が困難になったり錯乱したりする娘を、外部の支援を全く受けずに25年も監護し続けた夫婦。その困難を想像すると気が遠くなる。それを継続できたのは夫婦の結びつきの強さ故でもあるが、これを逆にみれば固着した家族システムに蟄居していたのだということもできる。

 自分が監督=弟の身ならどうするだろうか、と考えてみる。
 当然、両親(とくに父)を説得するだろう。何度話しても埒が明かない状況に嫌気がさして、自分だって家を出るどうし、縁を切るかもしれない。しかし、今の自分なら次のような試みをするような気がする。
 まず、相談支援の窓口を能う限り当たり尽くす。上記の⑤を見ると、監督は相談支援窓口を訪ねたようだ。そこで相手をしたソーシャルワーカーはろくなもんじゃない。まず徹底的に両親を説得しろと助言するのは常套手段だが、それが無理だとわかったら次の手を打たなければならないはずだ。大体の相談支援機関で窓口になるのはこの程度のワーカーだが、中には稀にそうではないワーカーもいるはずだ。弾は数多く撃たなければ当たらない。何度も撃ってみる価値はある。(もし筆者が保健所や福祉事務所等のSWだとしたら、まず現場に行き、父母及び姉と面談しようとすると思う。そしておそらくは受診を勧めるだろう。受診=入院ではないということも説明しようとするだろう。厚顔無恥なので、相手が医師だろうが抗精神病薬の機序やエビデンス等についても語りそうな気がする。少なくても両親の負担を軽減するために福祉サービスの利用は進めるだろう。両親が動かされない場合は、今なら障がい者虐待防止法に抵触すると遠回しに脅すかもしれないし、同法成立以前なら監督のアイデアに沿って保護責任者遺棄罪に当たると迫るかもしれない。さらにはこんな提案さえするかもしれない。姉を外へ放ち、トラブルを起こさせて警察に何度でも保護させてみたら?と。警察は対応に困って、保健所や福祉事務所等に身柄を引き受けさせるでしょう。状況によっては、行政が受診させるかもしれないよ、と。)

 次に監督自身がカウンセリングにつながっていることが大切だ。たとえばブリーフセラピー(BT)等では、このような場合の姉(問題を抱えている主体だと考えられている者)をIP(Identified Patient)という。精神疾患を抱えた姉が〝問題〟であり、この姉自身に働きかけて問題を解決しようとするというよりも、姉をめぐる関係性やシステムに働きかけて問題を解決(または改変)しようとするアプローチもある。(この場合は家族療法としてのBTなど。) もっとも、1980年代の札幌にBTは存在しないに等しかったかもしれないが。
 因みに、BTの手法の一つとしてMRIアプローチがある。これは、「家族構成員間の交流における相互のコミュニケーションのシステム的な機能(悪循環)に焦点を当てる」、「家族構成員間の交流に対しパラドックス(逆説)的に介入する」、「問題を維持している行動や解決努力の仕方を変化させる」などの関わりを行うことである。
 このケースの場合、まさに前記のような家族システムの悪循環があったと考えられる。この悪循環は意図せず「母が認知症になる」ことによって断たれる。それまでひたすら娘を庇護してきた母が、認知症となり精神の常軌を逸して統合失調症の娘に刺激を与えるようになったことで、「パラドクス的介入」のような効果が生じた。父と母が二人で姉を自宅で監護していくという家族システムが変更を余儀なくされたのである。

 最後に、蛇足かもしれないが、きょうだいに重い障がい者がいる場合について一言。
 この映画の家族のような場合、弟は両親に対して次のように迫っていいと思う。つまり「父さんと母さんはお姉ちゃんより早く死ぬだろう。残されたお姉ちゃんの面倒は結局ぼくに負わされることになる。そのとき、ぼくの負担が少しでも軽くなるように、あるいはぼくが納得できるようにぼくの言うことに従ってほしい」と。
 藤野監督が25年間どのように両親に話しかけてきたか、映画ではそのほんの一部しか窺えない。そんな話はもちろんしたよ、と言われるかもしれない。しかし、筆者なら両親のまえでケツを巻くってどこまでも迫るだろう。自分の要求が受け入れられるまで、両親の前で錯乱した際の姉以上に暴れるかもしれない。息子と親の力関係は遠からず必ず逆転する。
 「どうすればよかったか?」という問いに対する、これが筆者の、身も蓋もない答えである。(了)


  

Posted by 高 啓(こうひらく) at 16:57Comments(0)作品評映画について