2014年08月29日
ヨコハマ・トリエンナーレ2014 感想(その1)

「ヨコハマ・トリエンナーレ2014~華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある~」(2014年8月1日~11月3日)を駆け足で(正味4時間ほど)観た。その感想を記す。
この展覧会は、アーティスティック・ディレクターの森村泰昌氏によって、2つの「序章」と11の「挿話」からなる「忘却めぐり」だと定義されている。
序章1では、横浜美術館の前庭に置かれたヴィム・デルボア(Wim DELVOYE 1965~ ベルギー)の作品「低床トレーラー」(2007)が存在感を放っている。これは錆びたゴシック風の鉄製門扉(?)の部分みたいなものを素材にして大型のセミトレーラーを模したオブジェ。
同美術館の玄関ホールに入ると、そこでは巨大なゴミ箱が来館者を迎えているが、これが序章2のマイケル・ランディ(Michale LANDY 1963~ イギリス)の「アート・ビン」(Art Bin 2010)である。この中のゴミたちは創作活動における失敗であり、このゴミ箱作品は「創造的失敗のモニュメント」とされているが、どう見てもこれは〝昔の〟ゴミ箱だ。われわれの時代においては分別されないゴミは「不法投棄」とされる。このようなゴミ箱の存在が許されるのは、今や牧歌的なゲージツ家のアタマの中だけである。そのことに自覚的なのか。

いかにも現代アートといった(しかしながらだいぶ退屈な「序章」たる)この種の作品に迎えられて第1話「沈黙とささやきに耳を傾ける」の展示室に入るのだが、まずは展示された作品たちに(というかキュレーターによるその選択に)唖然とさせられる。
最初に展示されているのは、カジミール・マレーヴィチ(Kazimir MALEVICH 1879~1935)の「シュプレマティズム 34枚の素描」の断片であり、ジョン・ケージ(John CAGE 1912~1992 アメリカ)の何も書かれていないピアノ独奏の楽譜(演奏者が何も演奏しない無音の楽曲)であり、スタンリー・ブラウン(Stanley BROUWN)の「こちらですよ、ブラウンさん」(1964)、同「一歩」(1970)やカルメオ・ベルメホ(Karmelo BERMEJO 1979~ スペイン)「目に見えないインクで書かれた透明シート」、「白い絵の具の塊でできた空白のカンヴァス」という、ざっくり言うと形象が何も描かれていないまたは空白が描かれている紙(!)なのである。
これらは、キュレーターのコメントにある「『沈黙』とは『美』や『悲』や『怒』について語られた何万語より、もっとずっとずっと重く深くそれらを語る、声なき声である」という観点が呼び寄せた作品群なのだ。唖然とするのは、このように「何も描かれていないこと」が「沈黙」であり、それが「ずっとずっと重く」美や悲や怒を語ることであるという実に凡庸な見解が、初手から臆面もなく啓蒙的に観客に教示されていることだ。そして、その啓蒙的な教示が展示者側における一種の退化現象であることに、おそらくはキュレーターらがほとんど無自覚であるらしいことだ。
なお、この章で存在感を放っていた作品は、イザ・ゲンツゲン(Isa GNZGEN 1948~ ドイツ)の「世界受信機」(World Receiver 2011)という、ラジオやテレビをコンクリートなどの異質な素材で作ったオブジェ群だった。

この対自的な無自覚がもっとわかりやすい形で露呈されているのが「第2話 漂流する教室にであう」である。ここでは、日雇い労働者の町・大阪市西成区釜ヶ崎における「釜ヶ崎芸術大学」(「NPO法人こえとこころとことばの部屋」主宰)の活動(講座やワークショップ)を紹介する展示(ビデオ上映を含む)とその参加者たちの作品(書・写真・詩・絵画・家電製品に彩色したオブジェなど)の展示が行われている。
釜ヶ崎は日本の高度成長を支えた労働力を供給しつづけたが、その成長の停止とともに「置き去りにされた町」であり、したがって「忘却の町」なのだという。じぶんには「釜ヶ崎芸術大学」の取り組みそれ自体を批判する気は毛頭ないが、ここにこのようにして1つの章を設けて〝活動の紹介〟が展示されることになにか言い知れぬ異和を感じた。これらは第1話の「沈黙」と対照的な「表現」ではあり、したがって、第1話の名だたる現代芸術家たちの作品に看て取れる「沈黙」と無名の民の作品に現れる「表現」(非沈黙)との間の振幅を意識させるためには有効かもしれない。にもかかわらず、どうしようもなく啓蒙主義の匂いがして、この取り上げ方が、この作品展(ヨコハマトリエンナーレ)自身を〝上げ底化〟させてしまっているような印象を受けた。ついでに早くも肝心な感想を述べてしまえば、これまで3回ほど横浜トリエンナーレを観てきたが、今回ほど新たな発見や感動を得られない回はなかった。こちらの感性が鈍ってしまったのか、このつまらなさが時代そのものの変質からきているのか、おそらくはその両方からなのだろうが、ここからじぶんはこの〝上げ底化〟感がどこから来ているのかを探りながら展示を観ていくことになった。
第3話は「華氏451はいかに芸術にあらわれたか」と題された章である。「華氏451度」はアメリカの小説家レイ・ブラッドベリが1953年に発表したSF小説。大衆が流れ過ぎる情報にのみ晒され、書物を持つことを禁じられた近未来社会を描いた作品。「ここに描かれた、本を燃やしつくす近未来社会とは、大切なものが忘れ去られていく世の中すべてに対する、予言に満ちた警告にほかならない」という認識の下で、「小説『華氏451度』のテーマを受け継ぐかのような」現代的表現を集めたのがこの章だとされている。
印象的だったのは、タリン・サイモン(Tarin SIMON 1975~ アメリカ)の「死亡宣告された生者、ほか全18章の物語」(2013)。この作品は、各章が3つのパネルで構成されている。左側に実在する人物の肖像写真を何人分か(あるいは何十人分か)貼りつけたパネル。中央にその章の「物語」を解説する文章が書かれたパネル。そして右に、その「物語」に付随するイメージ、あるいは証拠の資料となる写真や絵などが貼り付けられたパネルが掲示されている。「物語」となっているのは、例えばウクライナの児童養護施設で育った少年少女の肖像写真と同国における子どもの人身売買・売春・児童ポルノなどの状況であり、あるいは作者の要請に応じてこの作品のために中国の情報当局が紹介したある家系の人々の肖像写真と中国情報局が少数民族問題を初めとして様々な表現を監視しているという解説であり、あるいはパレスチナ人で女性初のハイジャック犯およびその所縁の人物たちの肖像写真とハイジャックされ爆破された飛行機の残骸や交換された人質やアメリカの航空保安官の写真などの資料である。そしてどきりとさせられるのは、その中のある章が3枚のパネルすべてが黒く塗り潰された作品で構成されていることだ。これは作者が2013年に北京で個展を行った際に中国当局から展示を拒否されたものだという。(内容は韓国人の北朝鮮による拉致事件に関する「物語」)
しかし、素朴な感想を言うなら、まずは右のパネルの資料(作者が「イメージの脚注」と呼ぶもの)が安易な採用だという印象を免れない。さらには、これら膨大な肖像写真の人々をこの程度の上っ面な「物語」の素材として美術展の観客に晒し続けることについて、作者がその畏れ多さと向き合った形跡が看て取れない。だからこの作品には芸術作品がもつ社会批評性とともに、むしろそれ以上にジャーナリズムがもつあの自己中心的なニヒリズムを感じてしまう。
また、ドラ・ガルシア(Dora GARCIA 1965~ スペイン)のインスタレーション作品「『華氏451度』(1957年版)」(2002)は、一見ペーパーバックの同書をたくさん平積した書店の平台に過ぎないのだが、そこに積まれている本のページをめくってみると活字(アルファベット)1個1個がすべて左右逆転で(鏡に映ったように)印刷されていて、ひどく読みにくい。「焚書」をテーマとした小説をこのような形で形象化するという奇抜なアイデアにまずは唸ってしまうが、捻くれ者の半畳を入れるなら、左右逆転していようといまいと、そもそもアルファベットが読み取れない人間にとっては何の意味もない。(たとえば、これがアラビア語やヒンディー語で書かれた本だったら、じぶんには個々の活字が逆転していることが多分理解できない。)それを意味ありげに作品化していい気になっているというのは、非西欧的世界の忘却であり、西欧人の意識されざる傲慢さの裏返しの表現なのかもしれない。
イラクのユダヤ系という出自をもつマイケル・ラコウィッツ(Michael RAKOWITZ 1974~ アメリカ )の「どんな塵が立ち上がるだろう?」(2012)は、1941年に英軍によって爆撃されて燃えてしまったドイツの図書館の本をアフガニスタンの古代遺跡バーミヤンの石を使って模った彫刻だが、そこに付されている解説が目を引く。世界が非難したバーミヤン仏教遺跡の爆破について、その実行者が語っている行(くだり)としてこんな説明書きが添えられていた。
「私はバーミヤンの仏像など破壊したくなかった。実は数人の外国人が私のところへ来て、雨で少し傷んだバーミヤンの仏像を修理したいと申し出たことがあった。私はショックを受けた。こう思ったのだ。この冷たい人間たちは、生きている何千という人々、餓死しかけているアフガン人のことなど気にかけず、仏像のような無生物の心配をしている。極めて遺憾である。それで私は仏像破壊を命じた。」と。(報道では、イスラム原理主義者のタリバーンが、仏教の偶像崇拝を否定して破壊したとされていたかと思う。)
作者は、爆撃で焼かれた図書館の貴重な(?)書籍をバーミヤン遺跡の石で造ることによって、この「忘却」に対する怒りと絶望を反復・定着しているかのようだ。
そして、この章できわめて異和を感じたのは、日本における戦争賛美の詩集(高村光太郎、佐藤春夫、三好達治、北原白秋、草野心平などの詩集)を陳列するケースが出展されていたことだ。(これは「かんらん舎」という画廊を経営する大谷芳久という人物のコレクションだという。)
オフィシャル・ガイドブックの解説は「そこから見えてくるのは、時代の流れに身を任せた芸術家の姿という、戦後になって隠され、忘れられた実像である」とこれまた単純化して語ってくれるが、文学者の戦争責任および戦後責任の問題を提示するなら、それを戦後文学者がどういうレベルで問うたか(たとえば吉本隆明)を踏まえた上でやるべきだ。少なくても吉本を読んできた世代は忘却などしていない。
そして、さてその隣には、第二次世界大戦中に軍による芸術利用を批判したとされる画家の松本竣介(1912~1948)が妻子に宛てた3通の書簡が入った展示ケースが置かれている。ただし、こちらのケースは照明が暗すぎるうえ、中腰で側面から覗かなければならず、極めて視辛い。これについては「多くの人が体制に流され、翻弄された時代の転換点にあって、ある芸術家がどのような姿勢で世の中を見つめ、創造活動に臨んでいたのか。その精神のありようが見える」と解説されるが、容易に文面を読めないような展示では、観客が自らの眼でそれを確かめることができない。ほんとうに観客に手紙の文面を読ませる気があるのなら、せめて実物とは別にコピーを見やすいところに展示すべきだ。厳しい言い方になるが、キュレーターの一方的な教示主義がここでもその傲岸な顔をのぞかせている。
第4話は「たった独りで世界と格闘する重労働」と題された章である。
福岡道雄(1936~ 大阪)のオブジェ「飛ばねばよかった」(1966)では、大きな風船(に結び付けられた紐)を持つ人間が、通常とちょうど逆の関係になって、風船が重石になり人間の方が空に舞い上がっていこうとしている。また、「何もすることがない」(1999)では、黒のキャンバスが〝何もすることがない〟という細かな手書きの文章で埋め尽くされている。どちらもそれぞれの時代の雰囲気をうまくとらえた作品だと思った。だが、この種の表現がじぶんたちの今この現在にインパクトを与えてくるかと言えば、そうはとうてい想えない。
毛利悠子(1980~ 東京)のインスタレーション「アイ・オー~ある作曲家の部屋~」(2014)では、平場にオルガン、ドラム、家具、ブラインドなどが配置されている。ブラインドが不規則に開き、そこからこれらが並べられた「部屋」を垣間見ていると、これも不規則に自動演奏でピアノやドラムが音を奏でる。そのときそこに立ち現われる〝何者かの不在〟の存在感が生々しい。この部屋の住人だった音楽家へのオマージュみたいな作品である。

第5話は「非人称の漂流~Still Moving 」と題された章である。この章は「法と星座・Turn Coat/Turn Court」と題されたひとつの(一連の)インスタレーション作品のみで構成されている。
この作品については、「ここに展示されているのは、京都アンデパンダン展における林剛と中塚裕子による10年間(1983~93年)の表現活動をもとに試みられた『創造的アーカイブ』である。」、「『創造的アーカイブ』とは、残された資料(アーカイブ)の創造的な活用法を模索する姿勢のことをいう。」、「大胆な解釈とダイナミックな読み替えによって、もはや誰のものともいえない、非人称のあらわれにまで展開させていく。」という解説がなされている。
作品は、「法廷」と「テニスコート」と「監獄」の三つの部分から構成されている。「非人称」というくらいだから作者名も付されていない。展示室に入ると、まずそこには赤く塗られた部材で組み立てられた巨大な法廷があり、裁判長の机にある木槌(ガベル)が自動で打ちおろされ、ドーン、ドーンと大きな音をたてている。その仕切りに向こう側に回ってみるとそこはテニスコート(の半面)で、審判員の椅子やコートサイドのベンチは緑色に塗られた部材で造られている。この部屋を出ると、その左右に大きな鉄格子の区画が造られており、これが「監獄」とされているようだ。ただし、解説されなければ、この「監獄」と「法廷」・「テニスコート」が一連の作品だとは気づかない。
「創造的アーカイブ」という発想及び手法とそれによって造られる「非人称」の作品というアイデアはなかなかに面白いのだが、観客の立場からすれば、オリジナル作品のイメージ(記録写真など)や現存する関連資料(本来のアーカイブ)が知らされないまま「創造的アーカイブ」とか「非人称のあらわれ」とか言われても、それをそのように判断する訳にはいかない・・・としか言いようがない。

第6話は「おそるべき子供たちの独り芝居」と題された章である。
まず、坂上チユキ(生年・出生地・住所地など不詳)の作品が目を引いた。詳密なドローイングでプレパラートにされた細胞のような図柄を描いた「博物誌」全32点や「鳥の写本」と題された絵画に目を凝らしていくと、「さがしもの」と題されたオブジェ(ミクストメディア)に突き当たる。粘土で造られた細い触手のようなものが無数に入り組んだ物体。その触手のすべてにさらに細かな無数の彩色が点として施されている。まさに「おそるべき子供」の黙々たる営為である。
ピエール・モリニエ(Pierre MOLINIER 1900~1976 フランス)「シャーマンとその創造物たち」(1962~1967)はフォト・モンタージュ集。シュルレアリズムの影響下に、フェティシズムとエロティシズムを醸し出すエグい作品が並んでいる。また、全裸にタイツ姿で男根をそそり立たせたセルフ・ポートレイトのような作品もあり、これまた「おそるべき子供」ではある。


この章でいちばん印象的だったのは、アリーナ・ジャポツニコフ(Alina SZAPOCZNIKOW 1926~1973 ポーランド)の彫刻作品たちだった。
作品「尻ランプ」や「ランプ彫刻」(1970年頃)は、ポリエステルを成型して卓上ランブを模ったものだが、その傘や電球やスタンドの軸は、唇、尻、乳房、男根などの形態をしており、パステル調の彩色を施されている。これらはあっけらかんとして暗さはないのだが、人間の頭部がちょうど鼻の下から横に切り裂かれ、その断面が灰皿になっている姿のオブジェ「独身男の灰皿1」(1972)では、どこか生々しい加虐感と被虐感とを禁じえない。
「写真彫刻」と題された作品は、作者が噛んだガムを被写体にした20点の組写真。ガムというよりもっと粘り気のある肉片みたいに見え、生き物のようなその形態に唸らされてしまう。

アンディ・ウォーホル(Andy WARHOL 1928~1987 アメリカ)の作品は、「鎌と槌」というシリーズものの写真作品。ソビエト国旗のシンボルである鎌とハンマーのグラフィックを見て影響を受け、平面に鎌とハンマーあるいは他の物品を組み合わせて(重ねて)置いて、それを撮影した写真である。現物→グラフィック化という表現行為の逆を、文字通り〝手を変え品を変え〟して試しているといった風である。また、その隣には「絶頂絵画」(1978年)と題された精液で描かれた抽象画(萎みつつある風船のように見える)も展示されており、マリリン・モンローのグラフィックに代表される複製ポップ芸術家アンディ・ウォーホルの、すこし別の面を視ることができる。

さて、順路表示に従いながらこの横浜美術館における展覧会を見て歩いて、その設定に感心したのは、グレゴール・シュナイダー(Gregor SCHNEIDER 1969~ ドイツ)のインスタレーション「ジャーマン・アングスト」(German Angust 2014 )だった。(じぶんなら邦題は「不安のドイツ的形態」とでもしたいところ。)
これは横浜美術館の地階のある扉を開けて入る部屋=作品である。窓のない地下室のようで、コンクリートブロックの壁で囲まれており、床は下水の汚水のようなもので覆われている。目を凝らしてみると、汚泥の中にはふやけた固形物があり、中にはまるで糞便のように見えるものもある。その種の臭いがしないのが救いだ。近代的で清潔に見える美術館の一画に組み込まれたインスタレーションだから、作品が置かれた環境と対照的でありそれだけで刺激的に受け止められ得るという〝地の利〟があるわけだが、照明の暗さといい、造られてからの時間の経過を感じさせるコンクリート壁の風合いといい、なかなか手仕事の出来がいい。何か忌まわしい閉塞の記憶が蘇ってくるような不安を感じる。
作者は、この美術館でここ、つまり地下駐車場がいちばん気に入って、ここにこの作品を製作しただという。
第8話「漂流を招き入れる旅、漂流を映しこむ海」は、高山明(1969~ 埼玉)と彼が率いる「Port B」(ポルト・ビー)によるライブ・インスタレーション「横浜コミューン」及びトヨダヒトシ(1963~ 神奈川)の「映像日記/スライドショー」によって構成されている。じぶんは高山のパフォーマンスもトヨダのスライド上映も観ることができなかった。ただ、横浜美術館に展示されていた高山の「横浜コミューン」の一部(導入部?)であるビデオ上映を観ることはできた。
このビデオは、日本に住む外国人が日本に住むことになった経緯を日本語で話す声が流れているだけのもの(画像はない)だが、不思議とその話に惹き込まれた。時間に余裕があればじっと耳を傾けていたかった。
ライブ・インスタレーション「横浜コミューン」は10月30日から11月3日まで「nitehi works」という会場で行われる予定。「映像日記/スライドショー」は9月13日、22日、27日、10月4日、18日に、それぞれ別の会場で行われる予定。いずれもヨコハマトリエンナーレのHPで確認を。
第10話と第11話は、会場が「新港ピア」。これらについては、次回掲載とする。