2017年03月19日
東北芸術工科大学卒業・修了制作展2017 感想その2
2017年2月12日、東北芸術工科大学卒業・修了展(2月7日~12日)の感想その2は、まず、日本画コースの学部卒業生作品について。

鈴木 祥代「ほのあかり」(2260×1800 和紙・岩絵具・水干)
少年と少年の背後霊のように黒いウサギのようなものが描かれている。
ほのあかりに浮かび上がった像の背後に濃密な物語性が感受される。解離的幻想を生きる少年にウサギの人格が現れ、冷酷な視線を向けることでその視線の先にあるものに堪えている・・・といったような。

高橋 哲平「ゆるがるれ」(3035×1880×1853 和紙・岩絵具・墨・胡粉)
観客は暗幕に包まれた空間に懐中電灯を持って入り込み、壁の四方に描かれたものの姿を照らし出す。
作者はこの大学に入学して以来、ずっと龍を描いてきたという。
暗闇の中、懐中電灯の照明範囲に浮かび上がった像が龍なのかどうかは不分明であり、不分明であることこそが龍というもの存在を感じさせる。そういうふうに仕組まれている。

前田明日美「mama adieus」1820×3000 (木材・アクリル絵具・布・段ボール・針金ほか)
ここに掲げた画像では絵画のように見えるが、実際は絵が描かれた屏風状のコンパネのような板に、首飾りのような装飾物が掛けられたミクストメディアの作品である。床に積まれた綿の中には、ベールに包まれたマネキンの頭部みたいなものも埋もれている。
ママ、さようなら。そして、“さらば人類!”と口にしてエスケープした先の世界は、未開拓のロマンチック・ジャングルだというのだ。ある種のデストピアが描かれているのか、軽薄過ぎない軽薄さの嫌味みたいなものが伝わってくる。そのいやらしさがこの作品の魅力である。

及川千代美「春を送る庭」 (1818×2273 和紙・水干・箔・墨・胡粉)
ちらりと目に入れるだけで通り過ぎてしまいそうな、他の作品と比べて引っこみ思案のような画風だが、良く見ると作品の印象がそこに描かれた黒い四つ足の動物の印象に重なっていることにはっとする。
これは黒いキツネなのか、イヌなのか。何れにしても、白い木立のむこうから背中を丸め上目づかいでこちらを覗っている気弱そうな風情が絶妙に描かれている。しかも、良く見ると、この黒い動物は絵の中に描かれた暖簾のようなものに描かれている。先ほど木立だと思ったのは少しめくれた暖簾の隙間であって、その暖簾が微妙に傾いでいることがわかると、いわば二重にも三重にも不安そうな、気弱そうな、あるいは卑屈にさえ思われそうな存在が身近なものになってくる。そういう仕掛けになっている。
また、この作品の題名にも唸らされる。・・・そう、春はいつだって怖いものである。
つぎに、洋画コースの学部卒業生作品について。

國府田姫菜「光へ」 (1820×3640 パネル・白亜地・油彩)
この卒業・修了作品展には、当該作品の作者にこの世界がどのように感受されているかを鑑賞者に否応なく突きつけてくる作品が少なくない。
先の「mama adieus」は“ロマンチック・ジャングル”への脱出を志向していたが、この「光へ」はまさに光の世界への脱出を志向している。ただしこの場合の脱出とは、自分と自然とが一体化した全体性の獲得であり、その全体性が拡張していく実感の追求である。全体性拡張の志向とは“全能感”に近づこうとする志向でもあるだろう。
蔵王の噴火口である「お釜」、山寺立石寺とその周辺、芸工大キャンパスなどの風景が統合的に配置された世界のなかに、巫女のような女の背後から、ウマ・シカ・サル・イルカ・ウミガメ・錦鯉・鯛・イヌ・ハトなどの生物たちが、生命エネルギーの奔流のように発出されている。
筆者はこの如何にも「高校美術部!」という画風とこのスピリチャルな構図に食傷してしまうが、しかし同時に、この作品のレベルまでその画風を貫かれるともはや脱帽するほかないのでもある。

鎌田 恵理「パターンQ」1620×1300 (キャンパス・アクリル・水性ペンキ)
ここに掲げた画像は三枚一組のうちの一枚。本人のコメントに、「『あの人でなくてよかった』と思ったり、『もし自分があの人だったらどうしよう』と思ってゾッとしてしまうことなど、そういった人との冷めきった距離を傍観するように描きました。」とある。
「『あの人でなくてよかった』と思ったり、『もし自分があの人だったらどうしよう』と思ってゾッとしてしまう」のは、「そういった人との冷めきった距離」にあるからというより、それを自分に降りかかるかもしれない事態だと想像するからで、つまりは「そういった人」と自分との分別や距離がうまく構成できないからでもあるだろう。
人物たちに遠近法が採用されていないことが象徴的である。また、「ポム」という病院内喫茶室の看板がとても効果的に“日常的な不安”を伝えてくる。


田邊 小織「奥地」 (2273×1818)「泉の底でみる夢」(1818×2273)何れもキャンパス・油彩・メディウム
田邊の作品の色使いと筆使いは、この作者が自然をどのように受け止めようとしているかをビビッドに伝えてくる。このひとにとって自然とは、“じぶんと共有された自然”を指し、したがって“じぶんによって描かれうる自然”を指す。それは「神々」しく、彼女の心臓に直接的に訴えかけてくる命の力みたいなものとして感受されている。

信坂 彩「結婚」 (各1620×1300 キャンパス 油彩)
結婚衣装をまとった新郎と新婦が、無数の枝や腕の構造物として描かれている。
新婦のイメージは象徴的なのに、新郎のイメージは崩壊している。女が無数の手を伸ばして男とつながろうとしているのに、男の方は顔も頭部もなくて、腕は大きくて女を捉えそうだが、男自身はとらえどころのない白化したサンゴのような放射状のものに感じられている。
他者の結婚をカリカチュアしたつもりならそれでもいいが、じぶんの行く末を絶望的に見ているのだとしたら、それはまだ早い。・・・などというのはジジィのお節介か。
続いて、彫刻コースの卒業生の作品。

吉田愛美「better half」
作者によって「こんなにも愛しく思うのは、あなたと私はもともと一つだったからに違いない。」というキャプションが付けられている。
この一体の木彫像は、男女が寄り添った姿に見えるから、上記のキャプションは男女の性愛のことだと看做す。すると、じぶんもかつて女とそんなふうに一つになった気がしたときがあったような気分になってくる。
しかし、作品を良く見ると、木像のふたりは必ずしも満ち足りた表情をしているのではない。たとえば、亭主関白な夫とその夫に諦めの境地になるか、不承不承寄り添っている妻のような表情にも見える。
このような形態の木像をみると、どうしても舟越桂の作品を想い起こしてしまう。こうした他者の先入観からどのようにして自分の作品を救い上げるかは、たぶん作家にとって重要な課題だろう。
この作者は像たちの表情でそれを試みている。この像たちの表情は、誤解を恐れずに言えば舟越作品よりはるかに俗物的である。その俗物性が、いわば作者自身のキャプションを裏切っているところが面白い。

阿部任「Breath of Souls」
「廃材たちが生命感をみなぎらせて躍動するイメージ」を求めて、「鉄屑の中から羽化した蝶」を制作したと作者はいう。
穴の空いた繭と羽化したばかりで縮れたままの羽の造形(とその玉虫色)が、この作品の魅力になっている。
廃材を掻き集めてきて造形物を創り上げるのは、ブロックの部品を組み上げて作品を創るのや、石ころのような切片を組み上げて作品を創るのと、どこがどう違うのだろう。前者の方が、そこになにかが宿るかのような幻想(「機械の中の幽霊」にでも似た)を持てる気がするが、すると当該作品に宿る“精神”は、ではこの廃材たちが宿してしまう「幽霊」なのか、それとも作者が特権的に与えた固有のイメージなのか判別しにくくなるような気もする。たぶん、両者の混融物として作品が成り立っているのだろうが、その混融のどこをどのように作者が差配しているのか、言い換えれば、作者は廃材たちの霊にどれだけ依存しているのかという問題が現れる。
もちろん、この「問題」を問題だなどと考えずに、表現したいように表現すればいいのだ。
最後に、テキスタイルコースの卒業生の作品をひとつ紹介したい。


小林瑞穂「ディア シスター」 (木材・水性塗料・楽譜)
見た目は背中合わせに合体したふたつのアップライト・ピアノである。
しかし、ただのピアノに見える側と反対の側に回ると、鍵盤に当たる部分の蓋が凹んでいて、そこに楽譜とフルートが置いてある。これがどんなことを表現した作品なのか、これだけではほとんど理解も想像もすることができない。
そこで作者のキャプションを読む。するとこんなことが書かれている。
この作品はある友人に向けて作った。その友人は自分(作者)にとってどんな存在か言い表すのは難しいような存在だ。かつて二人はともにプロのフルート奏者を夢見ていた。「そして、学校の階段から転げ落ちた事から始まった彼女の自滅と私の終わり。彼女と出会ってから毎日整理し続けた『今まで』を全て詰めて彼女に捨てさせる作品です。」
この作品はテキスタイル専攻学生のなかで「優秀賞」を取っていて、担当教員がその授賞コメントを記しているが、そこには、テキスタイルコースの卒業制作なのになぜピアノのオブジェなのかということで衝突したこと、ピアノ2台を購入する費用がないので作者自身がこのオブジェを手造りで、しかも「不思議な圧倒的に近寄りがたい空気感」のなかで組み立てたことなどが記述されている。
ひとつのオブジェを創るという卒業制作が、これまでの作者の生きざまの総括になっている。この過程自体が激しく“ゲイジツ的”ではないか。
卒業生・修了生のみなさんの健勝を祈って擱筆する。またどこかで作品に出合う機会を楽しみにしつつ。(了)

鈴木 祥代「ほのあかり」(2260×1800 和紙・岩絵具・水干)
少年と少年の背後霊のように黒いウサギのようなものが描かれている。
ほのあかりに浮かび上がった像の背後に濃密な物語性が感受される。解離的幻想を生きる少年にウサギの人格が現れ、冷酷な視線を向けることでその視線の先にあるものに堪えている・・・といったような。

高橋 哲平「ゆるがるれ」(3035×1880×1853 和紙・岩絵具・墨・胡粉)
観客は暗幕に包まれた空間に懐中電灯を持って入り込み、壁の四方に描かれたものの姿を照らし出す。
作者はこの大学に入学して以来、ずっと龍を描いてきたという。
暗闇の中、懐中電灯の照明範囲に浮かび上がった像が龍なのかどうかは不分明であり、不分明であることこそが龍というもの存在を感じさせる。そういうふうに仕組まれている。

前田明日美「mama adieus」1820×3000 (木材・アクリル絵具・布・段ボール・針金ほか)
ここに掲げた画像では絵画のように見えるが、実際は絵が描かれた屏風状のコンパネのような板に、首飾りのような装飾物が掛けられたミクストメディアの作品である。床に積まれた綿の中には、ベールに包まれたマネキンの頭部みたいなものも埋もれている。
ママ、さようなら。そして、“さらば人類!”と口にしてエスケープした先の世界は、未開拓のロマンチック・ジャングルだというのだ。ある種のデストピアが描かれているのか、軽薄過ぎない軽薄さの嫌味みたいなものが伝わってくる。そのいやらしさがこの作品の魅力である。

及川千代美「春を送る庭」 (1818×2273 和紙・水干・箔・墨・胡粉)
ちらりと目に入れるだけで通り過ぎてしまいそうな、他の作品と比べて引っこみ思案のような画風だが、良く見ると作品の印象がそこに描かれた黒い四つ足の動物の印象に重なっていることにはっとする。
これは黒いキツネなのか、イヌなのか。何れにしても、白い木立のむこうから背中を丸め上目づかいでこちらを覗っている気弱そうな風情が絶妙に描かれている。しかも、良く見ると、この黒い動物は絵の中に描かれた暖簾のようなものに描かれている。先ほど木立だと思ったのは少しめくれた暖簾の隙間であって、その暖簾が微妙に傾いでいることがわかると、いわば二重にも三重にも不安そうな、気弱そうな、あるいは卑屈にさえ思われそうな存在が身近なものになってくる。そういう仕掛けになっている。
また、この作品の題名にも唸らされる。・・・そう、春はいつだって怖いものである。
つぎに、洋画コースの学部卒業生作品について。

國府田姫菜「光へ」 (1820×3640 パネル・白亜地・油彩)
この卒業・修了作品展には、当該作品の作者にこの世界がどのように感受されているかを鑑賞者に否応なく突きつけてくる作品が少なくない。
先の「mama adieus」は“ロマンチック・ジャングル”への脱出を志向していたが、この「光へ」はまさに光の世界への脱出を志向している。ただしこの場合の脱出とは、自分と自然とが一体化した全体性の獲得であり、その全体性が拡張していく実感の追求である。全体性拡張の志向とは“全能感”に近づこうとする志向でもあるだろう。
蔵王の噴火口である「お釜」、山寺立石寺とその周辺、芸工大キャンパスなどの風景が統合的に配置された世界のなかに、巫女のような女の背後から、ウマ・シカ・サル・イルカ・ウミガメ・錦鯉・鯛・イヌ・ハトなどの生物たちが、生命エネルギーの奔流のように発出されている。
筆者はこの如何にも「高校美術部!」という画風とこのスピリチャルな構図に食傷してしまうが、しかし同時に、この作品のレベルまでその画風を貫かれるともはや脱帽するほかないのでもある。

鎌田 恵理「パターンQ」1620×1300 (キャンパス・アクリル・水性ペンキ)
ここに掲げた画像は三枚一組のうちの一枚。本人のコメントに、「『あの人でなくてよかった』と思ったり、『もし自分があの人だったらどうしよう』と思ってゾッとしてしまうことなど、そういった人との冷めきった距離を傍観するように描きました。」とある。
「『あの人でなくてよかった』と思ったり、『もし自分があの人だったらどうしよう』と思ってゾッとしてしまう」のは、「そういった人との冷めきった距離」にあるからというより、それを自分に降りかかるかもしれない事態だと想像するからで、つまりは「そういった人」と自分との分別や距離がうまく構成できないからでもあるだろう。
人物たちに遠近法が採用されていないことが象徴的である。また、「ポム」という病院内喫茶室の看板がとても効果的に“日常的な不安”を伝えてくる。


田邊 小織「奥地」 (2273×1818)「泉の底でみる夢」(1818×2273)何れもキャンパス・油彩・メディウム
田邊の作品の色使いと筆使いは、この作者が自然をどのように受け止めようとしているかをビビッドに伝えてくる。このひとにとって自然とは、“じぶんと共有された自然”を指し、したがって“じぶんによって描かれうる自然”を指す。それは「神々」しく、彼女の心臓に直接的に訴えかけてくる命の力みたいなものとして感受されている。

信坂 彩「結婚」 (各1620×1300 キャンパス 油彩)
結婚衣装をまとった新郎と新婦が、無数の枝や腕の構造物として描かれている。
新婦のイメージは象徴的なのに、新郎のイメージは崩壊している。女が無数の手を伸ばして男とつながろうとしているのに、男の方は顔も頭部もなくて、腕は大きくて女を捉えそうだが、男自身はとらえどころのない白化したサンゴのような放射状のものに感じられている。
他者の結婚をカリカチュアしたつもりならそれでもいいが、じぶんの行く末を絶望的に見ているのだとしたら、それはまだ早い。・・・などというのはジジィのお節介か。
続いて、彫刻コースの卒業生の作品。

吉田愛美「better half」
作者によって「こんなにも愛しく思うのは、あなたと私はもともと一つだったからに違いない。」というキャプションが付けられている。
この一体の木彫像は、男女が寄り添った姿に見えるから、上記のキャプションは男女の性愛のことだと看做す。すると、じぶんもかつて女とそんなふうに一つになった気がしたときがあったような気分になってくる。
しかし、作品を良く見ると、木像のふたりは必ずしも満ち足りた表情をしているのではない。たとえば、亭主関白な夫とその夫に諦めの境地になるか、不承不承寄り添っている妻のような表情にも見える。
このような形態の木像をみると、どうしても舟越桂の作品を想い起こしてしまう。こうした他者の先入観からどのようにして自分の作品を救い上げるかは、たぶん作家にとって重要な課題だろう。
この作者は像たちの表情でそれを試みている。この像たちの表情は、誤解を恐れずに言えば舟越作品よりはるかに俗物的である。その俗物性が、いわば作者自身のキャプションを裏切っているところが面白い。

阿部任「Breath of Souls」
「廃材たちが生命感をみなぎらせて躍動するイメージ」を求めて、「鉄屑の中から羽化した蝶」を制作したと作者はいう。
穴の空いた繭と羽化したばかりで縮れたままの羽の造形(とその玉虫色)が、この作品の魅力になっている。
廃材を掻き集めてきて造形物を創り上げるのは、ブロックの部品を組み上げて作品を創るのや、石ころのような切片を組み上げて作品を創るのと、どこがどう違うのだろう。前者の方が、そこになにかが宿るかのような幻想(「機械の中の幽霊」にでも似た)を持てる気がするが、すると当該作品に宿る“精神”は、ではこの廃材たちが宿してしまう「幽霊」なのか、それとも作者が特権的に与えた固有のイメージなのか判別しにくくなるような気もする。たぶん、両者の混融物として作品が成り立っているのだろうが、その混融のどこをどのように作者が差配しているのか、言い換えれば、作者は廃材たちの霊にどれだけ依存しているのかという問題が現れる。
もちろん、この「問題」を問題だなどと考えずに、表現したいように表現すればいいのだ。
最後に、テキスタイルコースの卒業生の作品をひとつ紹介したい。


小林瑞穂「ディア シスター」 (木材・水性塗料・楽譜)
見た目は背中合わせに合体したふたつのアップライト・ピアノである。
しかし、ただのピアノに見える側と反対の側に回ると、鍵盤に当たる部分の蓋が凹んでいて、そこに楽譜とフルートが置いてある。これがどんなことを表現した作品なのか、これだけではほとんど理解も想像もすることができない。
そこで作者のキャプションを読む。するとこんなことが書かれている。
この作品はある友人に向けて作った。その友人は自分(作者)にとってどんな存在か言い表すのは難しいような存在だ。かつて二人はともにプロのフルート奏者を夢見ていた。「そして、学校の階段から転げ落ちた事から始まった彼女の自滅と私の終わり。彼女と出会ってから毎日整理し続けた『今まで』を全て詰めて彼女に捨てさせる作品です。」
この作品はテキスタイル専攻学生のなかで「優秀賞」を取っていて、担当教員がその授賞コメントを記しているが、そこには、テキスタイルコースの卒業制作なのになぜピアノのオブジェなのかということで衝突したこと、ピアノ2台を購入する費用がないので作者自身がこのオブジェを手造りで、しかも「不思議な圧倒的に近寄りがたい空気感」のなかで組み立てたことなどが記述されている。
ひとつのオブジェを創るという卒業制作が、これまでの作者の生きざまの総括になっている。この過程自体が激しく“ゲイジツ的”ではないか。
卒業生・修了生のみなさんの健勝を祈って擱筆する。またどこかで作品に出合う機会を楽しみにしつつ。(了)
2017年03月06日
東北芸術工科大学卒業・修了制作展2017 感想
2017年2月12日、東北芸術工科大学卒業・修了展(2月7日~12日)の最終日にやっと観に行くことができた。その感想を2年ぶりに記したい。
じつは昨年もこの卒展を観には行ったのだが、感想を書くタイミングを逃してしまった。時間が経過してしまうと作品の印象が不確かになるばかりか、現場で撮影した写真と出展作品リスト及び自分のメモの突合が大変になって、作品・作者名・感想の内容の3つが整合できなくなってしまうものが生じるので、書くのを諦めたのだった。
そもそも、この2年ほどこのブログへの記事アップは滞ってきた。それにはふたつほど事情があって、そのうちのひとつが、まずは当面なくなった。そこでふたたびこうして記事を書くことに向かい始めたのだが、もうひとつの事情は変わっておらず、執筆意欲は未だ以前のレベルまで回復していない。ぼちぼちリハビリを開始するか、というところである。
おっと、言い訳が長くなってしまった。さっそく本題に入ろう。
この大学の卒業・修了展は、全体としてはかなり見応えがある。できれば見物に3日間はかけたいところである。しかしそれほど時間が取れないので、いつも「日本画」→「洋画」→「版画」→「彫刻・工芸・テキスタイル・総合芸術」→「プロダクトデザイン」→「グラフィックデザイン」→「映像」→「建築・環境」→「企画構想」→「地域デザイン」→「美術史・文化財保存修復」→「文芸」というような(それほど厳密でもないが)優先順位をつけて回っている。
今年は「日本画」から「彫刻・工芸・テキスタイル・総合芸術」までしか観ることができなかった。
ということで、早速、日本画コース・大学院修士課程修了生の作品から。

石原葉「無効信号」
作者は作品展示にあたって次のようなコメントを提示している。
「アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズが提唱した無知のベールという思考実験において、正義の原則とは、各人が一般的状況について知っているが、自身の環境や社会的地位を知らない時に達成されるという。しかし、グローバル化や価値観の多様化が進む中、人々が想像する弱者の姿は果たして同じ姿をしているだろうか。私たちに必要なのは無知のベールではなく、想像と対話なのではないだろうか。」
そして、作品「無効信号」には以下のコメントが付されている。
「無効信号とは目の前のことを模倣しようとするミラーニューロンからの刺激を無効化する信号のことを指します。例えば、目の前にいる人が怪我をしているとしましょう。私たちのミラーニューロンは、その痛みをまるで自分が怪我したかのように受け取り、脳へと刺激を与え、錯覚させますが、一方で、私たちの体は、それを自分が受け取るべき刺激ではないと無効信号を発します。そうやって痛みは一時的な錯覚だけで止まり、私たちは周囲からの過激な刺激から身を守ることが出来るのです。
それでは、この無効信号とミラーニューロンの関係を普段の生活に当てはめたらどうでしょう。私たちは必ずしも困っている人に手を差し伸べたり、共に喜びを分かち合ったりすることができるわけではありません。現前の人やものごとを、自分とは全く関係ないことだと切り離し、忘れてしまうことは多々あります。(中略)わたしとあなた、われわれとかれらを隔てる無効信号は一体何なのでしょうか。
知らないうちに私たちの行動や発言を左右する何かに目を向けることで、今まで見てきた世界とは違う世界をみることができるかもしれません。一人一人が違う世界を見ていること、それを踏まえて対話していくことが、価値観の多様化が加速する現代において重要視されてくるのではないか、そう考えています。」
ロールズの「無知のベール」という言葉に引き付けられた。
「正義」とは、ここではひとまず“分配の正当性”ということとして考えられる。
対話すべき他者、つまり分配を受ける他者について情報をもつと、そこに有象無象のバイアスが生じるため、分配の正当性を確保することが困難になる。
たとえば、ホールケーキを切り分けて何人かに配分するとする。そのとき、各切片(それはみんな均等とは限らない)の配分を受けるのはどういう人なのか、どの切片をだれが受け取るのかを知ると、そこに正当性の揺らぎが生じる。置かれた状況や必要性の程度が様々であるところの、配分を受ける者の側から異議が生じるばかりではなく、それと相即的に、配分する者の内部からも疑問が生じる。どう切り分けても、どう配分しても、そこには「それは正当ではない=正義ではない」という声が上がりそうに思われる。この点だけを見る限り(というのも、ロールズはこのほかに有名な「格差原理」を提唱しており、こちらの方が重要)、言ってみれば、どういう人たちがどういう順番でケーキの切片を受取るかを知らない状態(「無知のベール」に包まれた状態)で、それをできるかぎり均等に切り分けることが正義だと言っているようなものだと考えられる。もっと言い切ってしまえば、これは一種の、思考の中途停止である。石原はそこに向き合うことこそが必要だと考え、「想像と対話」を掲げる。つまり、私たちひとりひとりが、有象無象の困難を引き受けることを求める。
だが、しかし、その「想像と対話」に向かおうとする意識に、情報の感受の段階で「無効信号」がベールを被せてくる。
石原の作品は、一旦描写されたひとびとの顏が、白く塗りこめられたり削り取られたりしたようなパネル風の絵の集合体として形成されている。この白いベールに無効信号の存在が表象されているとみることはできる。だが、その一方で、石原が言うように「知らないうちに私たちの行動や発言を左右する何かに目を向けること」までが表現されていると見ることはできない。
・・・じぶんならどう描くだろうと考える。たぶん、白塗りの絵とともに、白塗りされていない(つまりさまざまな人間の顔が描かれた)同様の体裁の絵をこれと一緒に提示するだろう。その白塗りされていない絵は一種類ではなく、同じ人間が醜悪な顔をしたものとそのいくつかの変奏であるようなものになる気がする。・・・なんとなれば、「想像と対話」はほんとうに難しい。他者を見つめることは難行苦行なのだ。

萩原和奈可「HEROES」
こに掲載した画像では描かれた内容が分かりにくいが、中央にあるのは小鳥の死骸であり、それを無数のウジ虫のようなものが食べているような構図である。掲載した作品のほかに、何者かに食いちぎられたような甲虫の死骸の絵も展示されている。
作者は「どんな虫にも存在に理由があり、決して無駄な命はありません。」と述べ、「一人の人間の世界を覗く、という感覚で鑑賞して頂きたい」ので、展示室を暗くしたとコメントしている。
この「一人の人間の世界」とは、作者の世界ということか、それとも鑑賞者自身あるいは一般的な存在としての人間ということか、それが不明だ。しかし、この展示環境のなかでこの作品を見つめていると、たしかに“何かを覗いている”という感覚にはなる。
ただし、私は、たとえばカラスや昆虫たちを、生き物の死骸を片付けてくれる有り難い存在だと思ったり、それでもたくさん居すぎると邪魔もしくは脅威だと思ったりしたことはあるけれども、その存在が無駄なものだと思ったことはない。あんたは虫たちの存在が無駄なものだと思っている人間の存在を、自分の表現の前提にしているのか!? と、突っ込みを入れたくなるところだが、作品の雰囲気から作者が言っていることに説得されてしまう。つまり、部屋を暗くして死骸に灯りを当てた展示方法は成功している。

久松知子「芸術家の研究所」(2016年 H203×W266cm)
久松によれば、この作品は「岡本太郎との対決」を意識したものだという。久松は、メディアに登場した晩年の岡本と、民族学者であり前衛のリーダーとして活躍していた岡本の顔は別人のようだったとも述べている。
久松の作品は、「日本画家のアトリエ」(2015)、「日本の美術を埋葬する」(2014)、「日本祭壇画 神の子羊」(2013)と注目してきた。一見おっとりしていてそれでも律儀に思える素人風のタッチで描かれた人物たち(それはみな有名人だ)の群像とその立ち位置の構成が、それ自体で奇妙な批評性をもっている。
その批評性は、しかし、作者が言うように対象として描かれている実在の人物と「対決」するように表現されているのではない。むしろ独特の間合い感をもって描くことで、対象を戯画のようにみせる「批評」なのである。久松の絵には、どこかで既視感を感じる。それは、ある種の親密感であり、同時に鬱陶しさでもある。この一見親密そうな顔をしてそれゆえ鬱陶しく絡みついてくるものが、久松作品の「批評」性であるように思われる。
さて、ところで、筆者が久松を評価しつつも若干の疑問を感じざるをえないのは、「みちのおくの芸術祭/山形ビエンナーレ2016」において、その会場のひとつとなった山形市の文翔館(旧県庁舎)の一室に展示した「三島通庸と語る」という作品について、である。

この作品は、明治初頭の山形に藩閥政府による初代山形県令として赴任した三島が、当時の県庁の県令室(知事室)で執務机の席に座っている姿を描いたものである。作者は、三島の姿を描いた絵を当の旧県庁舎(三島時代の県庁舎は明治末に焼失。現在の建物は大正期に再建された建物を昭和~平成期に大規模修復し「文翔館」と新たに命名したもの)に掲示することが、ある種の批評的行為(もしくは批評的表現)になるのだと考えているフシがある。しかし、この程度の仕業で「批評」が成立すると考えているのなら、それは作者固有の希望的観測に過ぎない。
この作品においても「批評」を表現するつもりなら、せめて作品「岡本太郎と誕生日会」(2015)で「岡本太郎」と同席させたように、三島の前にもジャージ姿の久松(の分身)を登場させてほしかった。
久松は、これからも、その独特で奇妙な「批評」の可能性を開拓していくことだろう。その作品に注目していきたい。
なお、上記の久松の展示について、東北芸術工科大学大学院後期博士課程の院生である田中望が「小論『地域アートは場所を批判しうるか?』」という文章(筆者は田中の作品の展示室に置かれていた論文のコピーでそれを読んだ)で、「文翔館(旧県庁舎)」という「場所」を「イデオロギーの表象」及び「県庁という山形の近代史の象徴」と捉え、そこに久松の「三島通庸と語る」を展示するという行為を「批判的芸術として注目すべき作品」だったと評価している。
展示された作品の前に久松という作者が常駐して、「これは三島による山形近代化への批判の作品です」と訪れる観客に言い続けるパフォーマンス付きならそうとも言えるかもしれないが、たんなる作品の展示だけでは批判にはならない。田中や久松は、文翔館でもっとも豪華な「正庁」と呼ばれる部屋に、高橋由一の作になる三島時代の県庁舎と周囲の建物を描いた絵画が掛けられているのを知っているはずだ。この部屋を訪れた人はだれ一人、その絵を「批判的芸術作品」とは看做さないだろう。久松による三島の肖像画も、ただ展示されただけなら観客にとってはこれと大して違いがない。作者の想いや表現意識が観客に伝わるのは、言葉による意味づけがあってのことである。言葉による意味づけや解説がなくても「批判」たりうるためには、作品自体にもうひとつ策略がなければならないのである。
では、次に、洋画コース・大学院修士課程修了生の作品で印象に残ったものについて。

鉾建真貴子「漂う物語」
作者のコメントから。
「異質な変化を反映して『何者か』が蠢いている。原発事故後の事象を纏いながら組合わさり、異形なモノとなって絵の中で災害の記録を伝承する。そこに佇む様々な登場人物を孕んで物語は蓄積し、更新されていく。/私達はフクシマ、という言葉がグローバルな土台に引き挙げられた時から見えないものとも対峙しなくてはならなくなった。メディアによって変質する福島像に出会う時、自分の言葉で語れるようになりたい。」
劇画的な人物(女子高生)と劇画的な風景の断片とエヴァ的な文節のコラージュとが、絶妙に構成されている。
女子高生が仰向けに横たわっている姿が、ある意味では“ゆるい”感じを醸し出していて、この蓄積された「物語」が<日常>として身近にあることを表象し、同時に女子高生の身体がその「何者か」に浸食されるイメージが、つまり女子高生がその「何者か」=「物語」に身体を開いてしまうかのようなイメージが表象されている。幽かに春を売らされるかのように見えて危うい、この居心地の悪さが描けるのは、作者が「フクシマ」の出身者だからだろう。
たぶん、ここで劇画的な、つまり借り物的な画風が採用されているのは、「フクシマ、という言葉がグローバルな土台に引き挙げられた」事情を反映している。この劇画調こそが「グローバル」なものだからだ。
ところで、余談だが、東京電力が「福島原発」を「福島」原発と名付けていることに、東北の人間はもっと怒って良い。同じ東京電力は、新潟県にある自社の原発を何と呼んでいるか。「新潟原発」ではなく「柏崎原発」である。「福島」だけが“十把一絡げ”なのだ。ここには「江戸=東京」からみた“白河以北一山百文”と同根の視線がある。東北電力は宮城県にある自社の原発を「宮城原発」とは決して名付けないだろう。
だから、「フクシマ」は、その呼称を口にした瞬間、つねに/すでに「メディアによって変質する福島像」であることを宿命づけられていた。その状況のなかで「自分の言葉で語る」ことは容易ではないだろう。ただ、作者には、<作品>という、言葉ではない「言葉」がある。その「言葉」に耳を傾けたい。

高野加菜「NETDEADSUNRISE」
ここでも、南相馬市の出身の作者のコメントに耳を傾けよう。
「震災によって噴出した放射能と過剰な善意/悪意によって、日本中の現実/仮想空間全てが塗り変わり、私の身の回りの物事も一変してしまった。全てを再構築していく為に、人間の抑圧された様々な感情を受け止め、鮮烈に、眩く改変され続けるキャラクターたちを用いて、私は絵を描いている。」
前述の鉾建真貴子「漂う物語」が劇画調なのに対して、高野加菜のこの作品はマンガチックである。高野もまた、それが「グローバル」なものであるがゆえに、「改変され続けるキャラクターたち」をマンガ的な“壊れ”として描くことを選び取ったのかもしれない。
鉾建真貴子のコメントが記載されたパネルにはただ「福島出身」としか表記されていなかったから、鉾建の出身が「福島」のどこかは不明だ。しかし、高野加菜は福島第一原発に近い「南相馬市」である。たぶん、高野のこの作品は、鉾建の作品よりも福島原発に近い距離で描かれている。
つまり、「噴出した放射能と過剰な善意/悪意によって、日本中の現実/仮想空間全てが塗り変わ」ったという体験は、高野加菜の方がより強烈で直接的だったのではないかと思われる。
鉾建は「自分の言葉」を探しているが、高野は「絵を描いている」としか言えない。高野の作品には“言葉探し”とは少し次元の異なる切羽詰まったもの、その激しい渦巻きを感じる。
これも余談になるが、今年の修士課程修了生たちは留年していなければ2011年の春にこの大学に入学した者たちである。 「3.11」から間もない混乱期にこの大学で歩みを始め、この山形で暮らしを始めた。その道のりが平たんなものでも晴れやかなものでもなかったことは、よく伝わってくる。
きっと“山形”は彼女たちを包む土地であり、しかしながら同時に、癒すことをしない土地だったのだ。壊れもせず、癒されもしていないところに、これらの作品が屹立している。


柏倉風馬「棒になった人々」「眼球」
「棒になった人々」(1,300×4,800㎜)は、足の骨のような、あるいは包装紙を捩じって形作った人形のようなものが描かれている。これが人体の比喩であることは容易に想像がつく。問題は、もう少しだけ抽象度が高い、大きな岩石か、あるいは女の股間のようなものにみえる「眼球」(410×242㎜)という作品の方だ。
筆者は「眼球」のような抽象画に魅かれるところがあって、この作者のこの種の作品(抽象度がこの程度のもの)をもっと見たいと思った。一観客の勝手な口ぶりだが、「棒になった人々」では抽象度が中途半端である。「眼球」は、だが眼球には見えず、それでいて人体のとても静謐でかつは一筋縄ではいかない存在感を伝えてくる。


町田太一「いい暮らし」(ミクストメディア)
展示室の中に蒲団が干されていて、そこには子どもが描いたような、男性器がフューチャーされた人物の絵が描かれている。父親と息子らしき人物は逆さになって放尿しており、黄色い尿のようなものが頭から下に垂れている。夜尿症で濡らした布団のシミが、当の夜尿症の放出シーンになっている。“自己言及的な夜尿症”とでも言うべきものか。
一方、展示室の床には、工作用の蝋で作られた人体のような形の池(?)のオブジェが置かれている。池の縁に腰掛けている青い帽子をかぶった釣り人らしき人形がつまみあげられ、また、こちらでも男性器が強調されている。
作者は「暮らしの中で感じる触覚的な違和感」を表現しているという。
フロイトの小児性欲の発達段階では、男性器に拘るのは「男根期(エディプス期)」ということになるのだろうが、この作品の作風は、男根期もしくはもっと以前の段階の生温かい濡れの「触覚」を感じさせ、床の中で尿を漏らしてしまったときの感触、そのどこか“親和的な異和”とでも呼ぶべきものを連れてくる。 (続く)
じつは昨年もこの卒展を観には行ったのだが、感想を書くタイミングを逃してしまった。時間が経過してしまうと作品の印象が不確かになるばかりか、現場で撮影した写真と出展作品リスト及び自分のメモの突合が大変になって、作品・作者名・感想の内容の3つが整合できなくなってしまうものが生じるので、書くのを諦めたのだった。
そもそも、この2年ほどこのブログへの記事アップは滞ってきた。それにはふたつほど事情があって、そのうちのひとつが、まずは当面なくなった。そこでふたたびこうして記事を書くことに向かい始めたのだが、もうひとつの事情は変わっておらず、執筆意欲は未だ以前のレベルまで回復していない。ぼちぼちリハビリを開始するか、というところである。
おっと、言い訳が長くなってしまった。さっそく本題に入ろう。
この大学の卒業・修了展は、全体としてはかなり見応えがある。できれば見物に3日間はかけたいところである。しかしそれほど時間が取れないので、いつも「日本画」→「洋画」→「版画」→「彫刻・工芸・テキスタイル・総合芸術」→「プロダクトデザイン」→「グラフィックデザイン」→「映像」→「建築・環境」→「企画構想」→「地域デザイン」→「美術史・文化財保存修復」→「文芸」というような(それほど厳密でもないが)優先順位をつけて回っている。
今年は「日本画」から「彫刻・工芸・テキスタイル・総合芸術」までしか観ることができなかった。
ということで、早速、日本画コース・大学院修士課程修了生の作品から。

石原葉「無効信号」
作者は作品展示にあたって次のようなコメントを提示している。
「アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズが提唱した無知のベールという思考実験において、正義の原則とは、各人が一般的状況について知っているが、自身の環境や社会的地位を知らない時に達成されるという。しかし、グローバル化や価値観の多様化が進む中、人々が想像する弱者の姿は果たして同じ姿をしているだろうか。私たちに必要なのは無知のベールではなく、想像と対話なのではないだろうか。」
そして、作品「無効信号」には以下のコメントが付されている。
「無効信号とは目の前のことを模倣しようとするミラーニューロンからの刺激を無効化する信号のことを指します。例えば、目の前にいる人が怪我をしているとしましょう。私たちのミラーニューロンは、その痛みをまるで自分が怪我したかのように受け取り、脳へと刺激を与え、錯覚させますが、一方で、私たちの体は、それを自分が受け取るべき刺激ではないと無効信号を発します。そうやって痛みは一時的な錯覚だけで止まり、私たちは周囲からの過激な刺激から身を守ることが出来るのです。
それでは、この無効信号とミラーニューロンの関係を普段の生活に当てはめたらどうでしょう。私たちは必ずしも困っている人に手を差し伸べたり、共に喜びを分かち合ったりすることができるわけではありません。現前の人やものごとを、自分とは全く関係ないことだと切り離し、忘れてしまうことは多々あります。(中略)わたしとあなた、われわれとかれらを隔てる無効信号は一体何なのでしょうか。
知らないうちに私たちの行動や発言を左右する何かに目を向けることで、今まで見てきた世界とは違う世界をみることができるかもしれません。一人一人が違う世界を見ていること、それを踏まえて対話していくことが、価値観の多様化が加速する現代において重要視されてくるのではないか、そう考えています。」
ロールズの「無知のベール」という言葉に引き付けられた。
「正義」とは、ここではひとまず“分配の正当性”ということとして考えられる。
対話すべき他者、つまり分配を受ける他者について情報をもつと、そこに有象無象のバイアスが生じるため、分配の正当性を確保することが困難になる。
たとえば、ホールケーキを切り分けて何人かに配分するとする。そのとき、各切片(それはみんな均等とは限らない)の配分を受けるのはどういう人なのか、どの切片をだれが受け取るのかを知ると、そこに正当性の揺らぎが生じる。置かれた状況や必要性の程度が様々であるところの、配分を受ける者の側から異議が生じるばかりではなく、それと相即的に、配分する者の内部からも疑問が生じる。どう切り分けても、どう配分しても、そこには「それは正当ではない=正義ではない」という声が上がりそうに思われる。この点だけを見る限り(というのも、ロールズはこのほかに有名な「格差原理」を提唱しており、こちらの方が重要)、言ってみれば、どういう人たちがどういう順番でケーキの切片を受取るかを知らない状態(「無知のベール」に包まれた状態)で、それをできるかぎり均等に切り分けることが正義だと言っているようなものだと考えられる。もっと言い切ってしまえば、これは一種の、思考の中途停止である。石原はそこに向き合うことこそが必要だと考え、「想像と対話」を掲げる。つまり、私たちひとりひとりが、有象無象の困難を引き受けることを求める。
だが、しかし、その「想像と対話」に向かおうとする意識に、情報の感受の段階で「無効信号」がベールを被せてくる。
石原の作品は、一旦描写されたひとびとの顏が、白く塗りこめられたり削り取られたりしたようなパネル風の絵の集合体として形成されている。この白いベールに無効信号の存在が表象されているとみることはできる。だが、その一方で、石原が言うように「知らないうちに私たちの行動や発言を左右する何かに目を向けること」までが表現されていると見ることはできない。
・・・じぶんならどう描くだろうと考える。たぶん、白塗りの絵とともに、白塗りされていない(つまりさまざまな人間の顔が描かれた)同様の体裁の絵をこれと一緒に提示するだろう。その白塗りされていない絵は一種類ではなく、同じ人間が醜悪な顔をしたものとそのいくつかの変奏であるようなものになる気がする。・・・なんとなれば、「想像と対話」はほんとうに難しい。他者を見つめることは難行苦行なのだ。

萩原和奈可「HEROES」
こに掲載した画像では描かれた内容が分かりにくいが、中央にあるのは小鳥の死骸であり、それを無数のウジ虫のようなものが食べているような構図である。掲載した作品のほかに、何者かに食いちぎられたような甲虫の死骸の絵も展示されている。
作者は「どんな虫にも存在に理由があり、決して無駄な命はありません。」と述べ、「一人の人間の世界を覗く、という感覚で鑑賞して頂きたい」ので、展示室を暗くしたとコメントしている。
この「一人の人間の世界」とは、作者の世界ということか、それとも鑑賞者自身あるいは一般的な存在としての人間ということか、それが不明だ。しかし、この展示環境のなかでこの作品を見つめていると、たしかに“何かを覗いている”という感覚にはなる。
ただし、私は、たとえばカラスや昆虫たちを、生き物の死骸を片付けてくれる有り難い存在だと思ったり、それでもたくさん居すぎると邪魔もしくは脅威だと思ったりしたことはあるけれども、その存在が無駄なものだと思ったことはない。あんたは虫たちの存在が無駄なものだと思っている人間の存在を、自分の表現の前提にしているのか!? と、突っ込みを入れたくなるところだが、作品の雰囲気から作者が言っていることに説得されてしまう。つまり、部屋を暗くして死骸に灯りを当てた展示方法は成功している。

久松知子「芸術家の研究所」(2016年 H203×W266cm)
久松によれば、この作品は「岡本太郎との対決」を意識したものだという。久松は、メディアに登場した晩年の岡本と、民族学者であり前衛のリーダーとして活躍していた岡本の顔は別人のようだったとも述べている。
久松の作品は、「日本画家のアトリエ」(2015)、「日本の美術を埋葬する」(2014)、「日本祭壇画 神の子羊」(2013)と注目してきた。一見おっとりしていてそれでも律儀に思える素人風のタッチで描かれた人物たち(それはみな有名人だ)の群像とその立ち位置の構成が、それ自体で奇妙な批評性をもっている。
その批評性は、しかし、作者が言うように対象として描かれている実在の人物と「対決」するように表現されているのではない。むしろ独特の間合い感をもって描くことで、対象を戯画のようにみせる「批評」なのである。久松の絵には、どこかで既視感を感じる。それは、ある種の親密感であり、同時に鬱陶しさでもある。この一見親密そうな顔をしてそれゆえ鬱陶しく絡みついてくるものが、久松作品の「批評」性であるように思われる。
さて、ところで、筆者が久松を評価しつつも若干の疑問を感じざるをえないのは、「みちのおくの芸術祭/山形ビエンナーレ2016」において、その会場のひとつとなった山形市の文翔館(旧県庁舎)の一室に展示した「三島通庸と語る」という作品について、である。

この作品は、明治初頭の山形に藩閥政府による初代山形県令として赴任した三島が、当時の県庁の県令室(知事室)で執務机の席に座っている姿を描いたものである。作者は、三島の姿を描いた絵を当の旧県庁舎(三島時代の県庁舎は明治末に焼失。現在の建物は大正期に再建された建物を昭和~平成期に大規模修復し「文翔館」と新たに命名したもの)に掲示することが、ある種の批評的行為(もしくは批評的表現)になるのだと考えているフシがある。しかし、この程度の仕業で「批評」が成立すると考えているのなら、それは作者固有の希望的観測に過ぎない。
この作品においても「批評」を表現するつもりなら、せめて作品「岡本太郎と誕生日会」(2015)で「岡本太郎」と同席させたように、三島の前にもジャージ姿の久松(の分身)を登場させてほしかった。
久松は、これからも、その独特で奇妙な「批評」の可能性を開拓していくことだろう。その作品に注目していきたい。
なお、上記の久松の展示について、東北芸術工科大学大学院後期博士課程の院生である田中望が「小論『地域アートは場所を批判しうるか?』」という文章(筆者は田中の作品の展示室に置かれていた論文のコピーでそれを読んだ)で、「文翔館(旧県庁舎)」という「場所」を「イデオロギーの表象」及び「県庁という山形の近代史の象徴」と捉え、そこに久松の「三島通庸と語る」を展示するという行為を「批判的芸術として注目すべき作品」だったと評価している。
展示された作品の前に久松という作者が常駐して、「これは三島による山形近代化への批判の作品です」と訪れる観客に言い続けるパフォーマンス付きならそうとも言えるかもしれないが、たんなる作品の展示だけでは批判にはならない。田中や久松は、文翔館でもっとも豪華な「正庁」と呼ばれる部屋に、高橋由一の作になる三島時代の県庁舎と周囲の建物を描いた絵画が掛けられているのを知っているはずだ。この部屋を訪れた人はだれ一人、その絵を「批判的芸術作品」とは看做さないだろう。久松による三島の肖像画も、ただ展示されただけなら観客にとってはこれと大して違いがない。作者の想いや表現意識が観客に伝わるのは、言葉による意味づけがあってのことである。言葉による意味づけや解説がなくても「批判」たりうるためには、作品自体にもうひとつ策略がなければならないのである。
では、次に、洋画コース・大学院修士課程修了生の作品で印象に残ったものについて。

鉾建真貴子「漂う物語」
作者のコメントから。
「異質な変化を反映して『何者か』が蠢いている。原発事故後の事象を纏いながら組合わさり、異形なモノとなって絵の中で災害の記録を伝承する。そこに佇む様々な登場人物を孕んで物語は蓄積し、更新されていく。/私達はフクシマ、という言葉がグローバルな土台に引き挙げられた時から見えないものとも対峙しなくてはならなくなった。メディアによって変質する福島像に出会う時、自分の言葉で語れるようになりたい。」
劇画的な人物(女子高生)と劇画的な風景の断片とエヴァ的な文節のコラージュとが、絶妙に構成されている。
女子高生が仰向けに横たわっている姿が、ある意味では“ゆるい”感じを醸し出していて、この蓄積された「物語」が<日常>として身近にあることを表象し、同時に女子高生の身体がその「何者か」に浸食されるイメージが、つまり女子高生がその「何者か」=「物語」に身体を開いてしまうかのようなイメージが表象されている。幽かに春を売らされるかのように見えて危うい、この居心地の悪さが描けるのは、作者が「フクシマ」の出身者だからだろう。
たぶん、ここで劇画的な、つまり借り物的な画風が採用されているのは、「フクシマ、という言葉がグローバルな土台に引き挙げられた」事情を反映している。この劇画調こそが「グローバル」なものだからだ。
ところで、余談だが、東京電力が「福島原発」を「福島」原発と名付けていることに、東北の人間はもっと怒って良い。同じ東京電力は、新潟県にある自社の原発を何と呼んでいるか。「新潟原発」ではなく「柏崎原発」である。「福島」だけが“十把一絡げ”なのだ。ここには「江戸=東京」からみた“白河以北一山百文”と同根の視線がある。東北電力は宮城県にある自社の原発を「宮城原発」とは決して名付けないだろう。
だから、「フクシマ」は、その呼称を口にした瞬間、つねに/すでに「メディアによって変質する福島像」であることを宿命づけられていた。その状況のなかで「自分の言葉で語る」ことは容易ではないだろう。ただ、作者には、<作品>という、言葉ではない「言葉」がある。その「言葉」に耳を傾けたい。

高野加菜「NETDEADSUNRISE」
ここでも、南相馬市の出身の作者のコメントに耳を傾けよう。
「震災によって噴出した放射能と過剰な善意/悪意によって、日本中の現実/仮想空間全てが塗り変わり、私の身の回りの物事も一変してしまった。全てを再構築していく為に、人間の抑圧された様々な感情を受け止め、鮮烈に、眩く改変され続けるキャラクターたちを用いて、私は絵を描いている。」
前述の鉾建真貴子「漂う物語」が劇画調なのに対して、高野加菜のこの作品はマンガチックである。高野もまた、それが「グローバル」なものであるがゆえに、「改変され続けるキャラクターたち」をマンガ的な“壊れ”として描くことを選び取ったのかもしれない。
鉾建真貴子のコメントが記載されたパネルにはただ「福島出身」としか表記されていなかったから、鉾建の出身が「福島」のどこかは不明だ。しかし、高野加菜は福島第一原発に近い「南相馬市」である。たぶん、高野のこの作品は、鉾建の作品よりも福島原発に近い距離で描かれている。
つまり、「噴出した放射能と過剰な善意/悪意によって、日本中の現実/仮想空間全てが塗り変わ」ったという体験は、高野加菜の方がより強烈で直接的だったのではないかと思われる。
鉾建は「自分の言葉」を探しているが、高野は「絵を描いている」としか言えない。高野の作品には“言葉探し”とは少し次元の異なる切羽詰まったもの、その激しい渦巻きを感じる。
これも余談になるが、今年の修士課程修了生たちは留年していなければ2011年の春にこの大学に入学した者たちである。 「3.11」から間もない混乱期にこの大学で歩みを始め、この山形で暮らしを始めた。その道のりが平たんなものでも晴れやかなものでもなかったことは、よく伝わってくる。
きっと“山形”は彼女たちを包む土地であり、しかしながら同時に、癒すことをしない土地だったのだ。壊れもせず、癒されもしていないところに、これらの作品が屹立している。


柏倉風馬「棒になった人々」「眼球」
「棒になった人々」(1,300×4,800㎜)は、足の骨のような、あるいは包装紙を捩じって形作った人形のようなものが描かれている。これが人体の比喩であることは容易に想像がつく。問題は、もう少しだけ抽象度が高い、大きな岩石か、あるいは女の股間のようなものにみえる「眼球」(410×242㎜)という作品の方だ。
筆者は「眼球」のような抽象画に魅かれるところがあって、この作者のこの種の作品(抽象度がこの程度のもの)をもっと見たいと思った。一観客の勝手な口ぶりだが、「棒になった人々」では抽象度が中途半端である。「眼球」は、だが眼球には見えず、それでいて人体のとても静謐でかつは一筋縄ではいかない存在感を伝えてくる。


町田太一「いい暮らし」(ミクストメディア)
展示室の中に蒲団が干されていて、そこには子どもが描いたような、男性器がフューチャーされた人物の絵が描かれている。父親と息子らしき人物は逆さになって放尿しており、黄色い尿のようなものが頭から下に垂れている。夜尿症で濡らした布団のシミが、当の夜尿症の放出シーンになっている。“自己言及的な夜尿症”とでも言うべきものか。
一方、展示室の床には、工作用の蝋で作られた人体のような形の池(?)のオブジェが置かれている。池の縁に腰掛けている青い帽子をかぶった釣り人らしき人形がつまみあげられ、また、こちらでも男性器が強調されている。
作者は「暮らしの中で感じる触覚的な違和感」を表現しているという。
フロイトの小児性欲の発達段階では、男性器に拘るのは「男根期(エディプス期)」ということになるのだろうが、この作品の作風は、男根期もしくはもっと以前の段階の生温かい濡れの「触覚」を感じさせ、床の中で尿を漏らしてしまったときの感触、そのどこか“親和的な異和”とでも呼ぶべきものを連れてくる。 (続く)